ポケットモンスター オリジナル GOLD RTA ホウオウチャート WR   作:がらすまど

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初めてちゃんとした物語形式で書いたので初投稿です。
想像したストーリーを文字に書き起こすのが難しかった(小並感)
なので、もしかしたら、書き直すかもしれません。

誤字の修正しました!報告ありがとナス!


1節 あの子とあの人と

 

 

 世界中に急に現れた、新たな災害たるポケモン。電気を纏い、空を飛び、人の起こりである火すら容易く操る。そんな超常の力を持ち、少しの力だけで人を殺せるポケモン達は、地域によっては新たな神として祀られる事すらあった。そうして畏れられるほどに、生物としての力の差があったのだ。

 

 人は弱かった。

 だからこそ、繰り返される歴史の如くまた、無力な人はポケモンに対する術を模索した。

 

 それは、ポケモンの意識を奪い、壊す機械。

 人より強く、強靭な体を持つ災害たるポケモンを殺す為に生まれたものだ。

 けれども、稼働はしなかった。何故なら想定よりも災害の『意識』は強かったからだ。

 

 それは、ポケモンの意識を奪い、操る機械。

 人では勝てないのならば、同じ化け物たるポケモン同士で殺し合わせれば良い。その考えのもと生まれたものだ。

 けれども、やはり稼働はしなかった。何故なら化け物の『意識』は想定よりも複雑だったからだ。

 

 残虐に思える研究の数々は、しかし、確かに平和を願った人々の歪んだ正義心のあらわれだった。

 

 そんな研究が進んでいたのに何故だろうか。ポケモンは未だ人に狩り尽くされてはいない。それどころか今では、人の良き隣人ですらある。

 

 きっかけはオーキド博士の研究の発表からだ。

 ポケモンは新たな生き物であり、それは人に通ずる『心』を持っている。

 たったそれだけの事を証明した論文は、確かに世界を変えたのだ。

──まるで他に正解など無かったかのように。

 

 ポケモンと人との共存は進んでいった。

 

 レンジャーが操るスタイラー。人とポケモンの心を繋ぐ尊いもの。それは間違いなく人とポケモンの共生を願った人々が考え生み出した。

 

 トレーナーが用いるモンスターボール。ポケモンが認めない限りはモンスターボールにポケモンが入ることはない。だからこそ、それはポケモンと人との絆の証明になるのだ。

 

──ああ、歪んだ正義は正されたのだ。

 

 意識を奪い、壊す機械は、ポケモンと人との心を交わす為の装置へと姿を変えていった。

 意識を奪い、操る機械は、ポケモンと人との信頼を表す装置へと姿を変えていった。

 まるで、共存以外の研究などなかったかのように、それらは歴史の影からも顔を消してしまった。

 

──もとより、そうあるべきだったというように。

 

 

 

 


 

 

 

 

 私にとって娘とは、1つの呪いだった。

 あの子の事を考えるのは苦痛でしかなかった。

 

 夢の中。

 あの子の声がする。

 今ではもう聞けなくなった、底抜けに明るくて、何が面白いのか楽しそうな声。

 散らかったおもちゃ、いっぱいのぬいぐるみ。間抜けな顔をしたマンタインのぬいぐるみが私を見る。

 何故か、部屋の中は明るく感じた。

 

「お父さん! お父さん! またプラスルの話聞かせて!」

 

 娘はよく笑う子だった。

 

「ほんと好きだなあ、この話。そう、キキョウに向かう途中でな? 道端で蹲ってるプラスルがいるんだよ──」

 

 言葉の通じないあの人と迷子のプラスルが、色々な人たちの助けを借りながら、友だちのマイナンを探しに向かう話。

 そんな話をあの子は好きだった。

 

 

 景色が変わる。

 

 豊かな緑に囲まれた自然公園。中央に鎮座する噴水が涼しげな空気を作り出している。暖かい日差しと樹々や草むらの匂いに混じって、ほんの少しの花の匂いを風が運ぶ。この日は確か初夏だった。

 

 そこにはポケモンバトルをするトレーナー達の声があった。

 前に来た時には、軍人のような鋭利な雰囲気を纏った人しか居なかったはずなのに、若い、まだ青年にすらなっていないような朗らか表情をした少年すらポケモンバトルに参加していた。

 

 あの人はここが好きだった。

 

 ここには……確か、家族でピクニックをしに来たんだ。

 バスケットにサンドイッチなんかを作って持っていった。ピクニックにはサンドイッチなんだと張り切ったのを覚えている。

 

「ねえねえ! この子はいつくれるの?」

 

 もう、ご飯を食べる時しかボールから出てこないマンタイン。あの頃はずっとボールから出していたはずだ。空にひらひらと飛んでいたのが面白いと言ったのは誰だったっけ。

 

「こいつはじゃじゃ馬だからなあ……。まだ渡せないな」

 

 ──あいつは言う事を聞かないんだ。プライドが高いから。

 少し困ったような表情をしながら、優しい手つきでマンタインを撫でていたのを覚えている。

 

「じゃあ、じゃあ、ちゃんとトレーナーになったら私にあの子くれる?」

 

 ──あいつを布団がわりにスズネが寝ていた時は、それはもう驚いた。そんなこと、俺には許してはくれないぞ。

 あの人が誰かを羨んだ表情を見せたのは珍しいからよく思い出せる。

 

「もちろん! レンジャーじゃなくて、トレーナーになるんならあげるぞ」

 

 あの人は娘をレンジャーにしたくないとずっと言っていた。

 

 ──今はまだ、ポケモンってのは人を襲う恐ろしいものだから、レンジャーがその身一つでポケモンを宥め、トレーナーっていうやつが、ポケモンを持ってポケモンを殺すために争っている。 

 

 ──だけどポケモンも人もバカじゃないからな、いつかきっと生存競争じゃなく、ポケモンと人との絆が試される、そんなポケモンバトルに心を込めるトレーナーやポケモンで溢れかえるはずだ。

 

 ──そうしたらスタイラーなんかなくたって、人とポケモンは心を通わせることができるはずだろ? 

 

 ──それにはやっぱりトレーナーしかない。あの子には仮初の絆じゃない、種属を垣根を超えた素晴らしい信頼を築いていってほしいんだ。

 

 ──あのクソ生意気なマンタインとやんちゃなスズネの仲を見たら、もう明日にも人とポケモンの関係は変わってるんじゃないかってそう思うよ。

 

 馬鹿みたい。馬鹿みたいな夢だ。そう思っていたはずなのに、私は一字一句覚えている。

 

 まじめ腐った表情で、らしくない真剣な事を言うあの人は、けれども誰よりもレンジャーである事に誇りを持っていた。

 

「でも私レンジャーの方がなりたいな……。お父さんみたいに人もポケモンも守るんだ!」

 

 きっと娘にも伝わっていたのだろう。あの時代、ポケモンと人とを繋ぐにはトレーナーよりもレンジャーの方が相応かった事に。

 

「レンジャーは駄目だぞ! だって危ないし、何よりポケモンバトルができないからな!」

 

 誰よりも優しくて、誰よりも夢みがちで、誰よりも私が愛した人。

 輝かしい記憶。忌々しい記憶。

 

 

 景色は変わる。

 

 色濃く残った記憶。

 切れかけた蛍光灯が、部屋を断続して照らしている。窓の外に見える名前も知らない街路樹は風と豪雨に晒されていた。

 部屋の片隅にポツリと存在を主張する少し埃の被ったテレビ。

 そこに映るのは様々な人々。ポケモン達。

 そして、まるで英雄のように照らし出される彼の名前。

 

「わ、私達助けるために、囮になって……それで……」

「ヨシカネさんのおかげで私は助かった。感謝している」

「彼がいなかったら街中にも被害が出ていたかもしれませんね。勇敢な人です」

 

 誰もがあの人を称える。立派な人だと。

 狂乱したポケモンと、その命を費やしてまで、心を交わした英雄であると。

 憎悪に囚われ人を襲ったはずのガブリアスは、しかし、力尽きた彼と壊れたスタイラーを泣きながら抱きかかえていたと。

 

 冗談だと思った。悪い冗談だと。

 タチの悪い演劇で、誰も彼もが私を騙そうとしている。

 そうしていたらこの煽動は終わって、あの人はいつものように少し乱暴に扉を開けて、ちょっと間抜けで、それでいて明るい声を上げて、ただいま、と言ってくれるはずだと。

 なのに、家の扉は一向に開いてくれない。1日待っても、2日待っても、何日待っても。

 

 代わりに玄関の前にいたのは沢山の記者。記者。記者。

 鮮やかな色の傘を持って、英雄たるヨシカネの素顔が知りたいと、彼らしい素晴らしい最期だったと、彼の夢は彼の命を持って叶うことが証明されたわけですが、なんて。

 しかし、奥さん、お悔やみ申し上げます、なんて、心にも思ってないだろう声で、気味の悪い笑みを浮かべながら、私に向かってくる。

 聞いてもいないのに、あの人の最期を脚色して、美談めいた話に作り替え、あの人の夢すら歪めてくる。

 

 ああ、お前たちは知らないだろう。あの人は口ではたいそうな夢を語るけど、本当は娘の成長を見るのが何よりも好きだった事を。

 あの人は、たしかに素晴らしいポケモンと人との共存の世界を謳っていたけれど、それは娘と「トレーナー」として「ポケモンバトル」をしてみたい、そんなささやかな願いのための手段だった事を。

 

 様々に変格され、粉飾され、美化されていく。語られる彼には、もう私が好きだったあの人の面影はなかった。

 

 もはや歌劇になってしまった彼の結末を聞いて、けれども、あの人のマンタインは嘘みたいに大人しくなった。

 マンタインだって大部分が演出によって過剰になったものだとは分かっていたはずだ。

 でも、どれだけ虚飾に塗れても根底は変わらない。彼が相棒のマンタインと共に戦い抜くよりも、レンジャーとして戦う事を選んだということは。

 それをどうしても信じられなかったのだろう。あの時の最善の行動は。本来の結末は。どうして自分がボールに戻されることになったのか。

 あの人はきっと、相棒のマンタインですら戦えばただではすまないと、ただそう考え、レンジャーとして戦う事にしたのだろう。マンタインすら守るために。

 しかし、マンタインにとって、それを簡単に認めることは出来なかったのだろう。だって、それはパートナーの自分を信じてもらえなかった証明になるのだから。

 いや、もしくは、あのマンタインはきっと、パートナーである自分を信じさせてあげることができなかった事にこそ傷ついているのだろう。

 普段から言うことを聞いていれば。最期の最期に、あの人の願いを、あの人自身に否定させてしまうような行動を選ばせることにはならなかったのではないか。

 

 きっとそう思ったのだろう。

 

 あの人が夢を語るとき、生意気なマンタインはいつも静かに、それでいて嬉しそうにあの人の隣で浮かんでいたのだから。

 

 

 1人きりになったリビング。

 私だけを照らすようになった無機質なテレビの光。

 雨はまだ降り続いていた。

 

 

 

 景色は変わる。

 

 家の前。

 色褪せた風景。この日は確か晴天のはずだったのに、私の感情がそうさせたのか、夢の中ですら暗く曇り、薄ら寒いような心地だった。

 

 誰かも知らない偉い人が、あの人を殺したガブリアスを連れてきた。どちらも俯き沈痛な表情をしていた。私もきっと、ただ曇った顔をしていた。

 

 居間へと2人を案内したとき、色々なものを壊して回ったはずのガブリアスが、慎重に、そっと、そっと動いているのが目に入った。まるで、歩くだけですら、自分はまた何かを壊してしまうのではないか、そう怯えるように。

 

 あの人を殺したガブリアスが、これだけは壊さないようにと、そんな気迫さえ見えるような顔で手渡してくれた、あの人のスタイラー。傷だらけで、ひしゃげてしまった、ポケモンと人とを繋ぐもの。殺してしまうほど人を憎んだガブリアスがそこまでしてくれたのだ。

 

 なのに、ああ。そんなものに意味などない。その気持ちも、そのスタイラーも、受け取るべき人はもういないのだから。

 

 ──俺が死んでもポケモンを恨まないでほしい。ポケモンは兵器じゃない。心は必ず通じるんだ。

 

 いつかあの人が言っていた言葉。レンジャーなんて危険な仕事に着くんだから、遺書染みた事は言っておかないと、なんて茶化されて渡された言葉。

 その時の私はなんと答えただろうか。だけども、ああ、今の私には、その言葉は呪いだ。恨まないでいれるはずがない。

 ガブリアスを見れば分かる。本当に悔いているのだろう。心を強く持てなかった自分を責めている。人間に憎悪したポケモンが、けれども人間を慈しむことができるのだ。ああ、確かに、確かに、ポケモンと人は分かり合う事が出来るのだろう。通じ合う心があるのだ。分かる。分かるのに。

 どうして、この口からは呪詛じみた悪態しか出ていこうとしないのだろう。

 

 私はあの人と違ってそこまでできた人じゃないんだ。

 

 この苦しみを、怒りを、痛みを、その本人に向けることすら許されないなんて。生涯この陰惨な感情に縛られ、死んでいくのだろうか。呪いに掠め取られ、それすら誰にも打ち明けられないまま。 

 

 何もかもが惨めで、視界が滲んだ。

 

 

 景色は変わる。

 

 部屋の中は暗い。

 ボロボロになり、顔すらよく分からなくなったマンタインのぬいぐるみが私を見る。

 周りには壊れたおもちゃ、引き裂かれたぬいぐるみ。

 癇癪を起こして叫ぶ声。ぐすぐすと聞こえる嗚咽と泣き声。

 いつからかそんな音も聞こえなくなった。

 

 あの子はあの人がポケモンに殺されてから心を閉ざしてしまった。部屋に閉じこもり、3日に1度、ご飯を食べに出てくる。充血した目、ぼろぼろの髪、よれた服。以前とはもう別人のようだった。

 

 

 私はどうにか娘を幸せにしてあげたかった。

 ──そうしようとしていないと、どうにかなりそうだった。

 英雄の娘なんて不名誉な名前じゃなく、単なる女の子として支えてあげたかった。

 ──それは代償行為だったのかも知れない。

 

 気を紛らわすことが出来るかもしれないと、叫ぶあの子に昔欲しがったはずのものを与え続けた。

 ──あの子はますます塞ぎ込んでしまったけど。

 

 ずっと家にいたら心も晴れないだろうと、ぐずるあの子を外に連れ出して、色々な所を巡ったりした。

 ──もう外に出かけたくはないと言われてしまったけど。

 

 ポケモンと遊んでみたら気分が楽になるかもしれないと、何も言わなくなったあの子に、好きだったはずのマンタインを渡してみた。

 ──ポケモンは見たくないと言われたけど。

 

 人が嫌いになったのだろうか。いつもなにかを押し付けてくるから。

 外が恐ろしくなったのだろうか。誰もが色眼鏡を掛けて見てくるから。

 ポケモンが嫌いになったのだろうか。あれだけ懐いていたマンタインに目もくれなくなった。

 

 ──原因はお前だろう。人を嫌いにさせたのも、外を恐ろしくさせたのも、ポケモンすらまともに見れないようにさせたのも、全部あの子にそうさせたのは。

 

 そうだ。あの子を不幸せと決め付けたのは私。あの子に幸せたれと押し付けたのも私。

 なによりも、ポケモンが憎かったのは私自身だ。

 

 ──そんな人間があの子の苦痛を取り除くなんて出来るわけないじゃないか。

 

 

 それを理解した時か、私はあの子と関わるのを恐れた。何かをしたら、あの子を傷つけると思ったからだ。

 それに、何をしても、何をしようとしても、あの子がまた笑ってくれる光景が私にはもう見えなくなってしまった。

 なのに、間違いだと分かっているのに、あの子を幸せにしないと、と言う強迫は消えてくれない。

 

 何もかもが空回りしていて、噛み合わなかった。

 

 いつからか、私に残された大事な宝物は、どうあがいても断ち切ることの出来ない楔になってしまっていた。

 

 

 景色は変わる。

 

 何にもない部屋。

 ただただカーテンが靡いている。窓の外には何もない空が見えた。

 あの子の部屋。

 リビングに移動してみても、ああ、なんだ、こっちにも何もなかった。

 

 13歳の時、あの子がトレーナーになると言った時の衝撃を未だに覚えている。

 

 どうして今なんだ。私が干渉するのをやめたからなのか。もしも私が何もしなければ、この子はもっと早く、立ち直ることができたのか。私がいらない事をしなければ、今頃にはこの子は普通に笑うことが出来るようになったのか。私はそんなことを考え、ただただ呆然とした。

 

 固まる私を見つめるあの子を見て、ああ、早く返事をしなければと、あの子の傷が深くならないような、そんな返事をしなければと考え、しかし私は、なんだ、何もしなければよかったのか、という自棄と、やっとひとつ、呪いを手放すことが出来るのだ、という奇妙な達成感と、また家族をポケモンに奪われてしまうと、そんな喪失感に苛まれて、小さく震えた声で「好きにしなさい」としか言えなかった。

 

 出てきた言葉は、ああ正しくなく、でも間違いなく私が出せた精一杯の言葉だった。

 また空回りして、娘の気持ちを無視してしまうという憂いが消えてくれなかったのだ。

 

 ──答えを出さず、ただ楽になりたかっただけだろう。お前は何もかもを投げ出したのだ。

 

 ──きっと、あの子は背中を押して欲しかったはずなのに。

 

 

 

 朝。

 日が昇るにつれ、人々が目覚めて動き出し、だんだんと街は騒めきだす。

 布団から出ようとしているのに、体は動いてくれない。まるで、水に沈んでしまったように、苦しく、重い。

 夢から醒めた後は、どこか息が詰まったかのような心地になる。どこで間違えたのか。どうすれば良かったのか。微睡みから冴えた頭は、それ以外を映してはくれない。

 でも、どうせ、何も変わらなかったし、何も変えられなかっただろう。そう決着をつけて、やっとのことで起き上がる。

 布団の中に宿る熱は、空虚な日常の繰り返しの中で、ただただ私の存在を示していた。

 

 

 もはや作業になってしまった日々の中で、私は何かを決めたわけでもなく、ただ何かしないと、と漠然と考えていた。

 

 結局私は娘を信じられなかったのだ。いまさら、いまさら、なんのきっかけもなく前に進み始める事などできないと。

 ──本当は、あの子にしてきた全ての事に意味がなかったと、一つもあの子にしてあげられたことなどなかったと、その事実から目を逸らしたかっただけだ。

 

 しかし、私がこの関係を壊すことに怖気付いて、ただ何もできずに過ごしている間にあの子は旅立つ事を決めた。

 

「今日、ジムに行ってくる」

 

 あの子は私にそう告げて、自力で前へと進むために準備をし始めた。私の手など借りずに。

 私は何をするでもなく、ただ「そう」としか言えなかった。

 

 まるで、私だけが何もかもに取り残されているみたいに、時計の針の音は鳴り続けた。けれども、やはり私は進めなかった。

 

 

「もう、行くね」

 

 そう告げられたのは、随分時間が経ってからだったはずなのに、私にはついさっきのように感じた。

 

 あの子は私の顔を見てから、リビングから出て行った。その後ろ姿を見て、どうしても別つことはできなかった家族と言う名の最後の繋がりが今、切れようとしているのだと思った。今生の別れがここにあるのだ、と感じたのだ。

 

 テーブルにはジムに挑戦するはずのあの子のカバンが、窓から差し込んだ光に当てられていた。

 

 私は、得もいわれぬ感情にあてられ、あの子が残していったカバンを慌てて手に取った。

 単純に忘れたのか、私に呼びかけて欲しかったのかはわからない。

 けど、もう、ほんとうに間に合わなくなってしまう。そんな言葉が頭を巡り、こびりついていた。

 ──この焦燥はあの子を救えずに、ただひたすら傷つけ続け、挙げ句の果てに何もかも投げ出した、そんな浅ましい自分の罪悪感だろう、今更母親面するのか? 

 そんな言葉が浮かび上がってきては、心を惑わす。

 

 でも、今度こそ、今度こそ背中を押してあげないと、あの子は、スズネは1人になってしまう。誰にも頼る事が出来なくなってしまう。あの子の中から父親だけじゃなく、両親が抜け落ちてしまう。それだけは嫌だと思った。

 

「スズネ。カバン忘れてるよ。ほら。しっかりして。そんなに緊張しなくても、スズネはちゃんと勉強してたんだからトレーナーの資格もばっちし取れるよ。それにスズネはポケモンが大好きだから、もしかしたら未来のチャンピオンになれるかもね」

 

 そう言った私はどんな顔をしていただろうか、どんな声で話せただろうか。笑えていただろうか。いや、きっとあの子に似た無感動な顔だっただろう。堂々と話せただろうか。いや、きっと空元気で、実に無様な声色だっただろう。

 なんと不甲斐ないのだろうか。

 あの子と目を合わせる事すら出来なかったのだから。

 

 

 あの子が旅立つのを見送ったあと、しばらく私は玄関から動けなかった。ただ、ここから出て行く人の後ろ姿を見るのは久しぶりだと感じた。

 ああ、あの子はどんな気持ちで旅立ったのだろう。

 もう扉を開けて出ていってしまったのに、今更そんなことを思う。

 

 あの子がいなくなった家を渡り歩くと、この家は、清々しく、それでいて何よりも寂しかった。

 肩の荷が下りたようだった。

 心に穴が空いたような、虚しさがあった。

 あの歪な関係ですら、少し恋しく感じた。

 

 この静寂をどうにかしようとして、いつも通りにキッチンに立ってみたら、用意したご飯は2人分だった。

 それが何故か、可笑しく感じた。

 

 

 ただ、点灯していないテレビを眺めていた間に、いつのまにか日が落ちてきていた。

 このまま寝てしまおうか、なんて思っていたのに、奇妙な高揚に誘われて、いつのまにか私は玄関にいた。

 あの子を見送る前は、たもとが別たれてしまうとさえ感じたのに、何故だろう、あの子は今、この瞬間にも帰ってくる、そう確信していた。

 

 

 そうして、五分もせずに扉を開けて帰ってきたあの子は、私を見て小さく息を飲んだ。少し思いとどまったように動きを止め、やがて、恐る恐る、手に持ったバッチを見せてきて、不器用な笑みを浮かべた。

 

 「嬉しい?」

 

 少し舌足らずにそう言ったスズネを見て、ああ、やっと、救われた気がした。その表情にはスズネが失った、褒めて欲しい、そんな誰もが持つような、小さい子みたいな、甘えたいという欲望が現れていた。

 

 「嬉しいよ。うん…嬉しい。」

 

 いつもなら、どう答えれば、なんて悩んでいたのに、色々な感情が溢れてやまず、ただ、嬉しいとだけ口から漏れた。

 その呟きにも満たない言葉をきいて、スズネは、その不器用な笑みを深くした。

 

 ああ、やっと今、私達は親子に戻れたのだろう。

 残された家族なんてものじゃない、ただの母と子に。

 

 惨めを感じたわけじゃない、無力を呪ったわけでもない、なのに前が滲んで見えなくなった。そうだ、涙は嬉しいときにでも出るんだ。そう思い出した。

 

 

 

 居間ではスズネが仰いでいる。テレビではポケモンに関するニュースが映っていて、トレーナーの写った雑誌たちがスズネを囲むように散らばっている。

 その姿を見ると、私がスズネとの距離を測り損ねていたのと同じように、スズネもまた私との距離を測り損ねていたのだろう。以前なら、ポケモンが嫌いで仕方がない私の前では、そういうものを決して見せようとはしなかったから。そうして、私達はすれ違っていったのだろう。

 

 2人分、出来上がった食事を居間に運ぶ。

 

 スズネのする、ご飯を食べながら、テレビや雑誌を流して見る、行儀が悪いような仕草も、私に自分が見つめられているのに気づいた不思議そうな顔も、雑誌を見て少し微笑む顔も、そんな、どこにもあるような日常の一欠片の一つ一つが、どうしても嬉しくて、愛しいのだ。

 

 もぐもぐとご飯を食べるスズネをみて、今度こそ、この子のために何かをしてあげようと、あやふやな思いじゃなく決心がついた。

 スズネは自分一人で立ち上がる事ができたけど、だからといって、私がスズネに何もしなくていいわけじゃ決してない。

 不甲斐ないくらいに、私は駄目な母親だったけど、これからはスズネにとって誇れるような母親にならないと駄目なのだ。

 

 本当の事を言うならば、スズネにはまだ家にいて欲しい。だって、せっかくただの母と子に戻れたのだ、まだ話したい事も、したいこともある。

 でも、今この子に必要なのは、この子の知らない世界に旅立つ事なのだろう。それに、暗い場所で一生を過ごしたスズネなんて、見たくない。

 だから、私が1番すべき事なのは、スズネが旅に疲れた時に、すぐに帰ってこれるような、止まり木になることなのだろう。

 寂しくなった時、苦しい時、それだけじゃなくて、嬉しい時も楽しい時も、何かを感じた時に、帰れる場所。思いの丈を語れる場所。休める場所。

 それに私はならなくちゃいけない。

 それがきっと、母親になるということなのだろう。

 

 ならば、スズネの旅立ちにはとびきりの祝福をしてあげたい。

 旅立っても大丈夫なんだと、その行方はきっと素晴らしいものになるだろうと。

 

 そのために何かを渡してあげたい。旅のお守りに。何よりも、これが旅のはじめての思い出になるように。 

 ああ、しかし、私はこの子にちゃんとしたことをしてあげられた記憶がない。どれもこれもが失敗に終わった苦い思い出がある。

 だけど、今なら私はスズネに喜んでもらえる贈り物を渡せる気がするのだ。きっと、今だからこそ、渡せる物がある。それに何より外に出ていくのだ、必要なものは沢山ある。

 

 そうだ、1番大事なのは靴だろうか。色々な所に向かって欲しいし、そこで、色々なものと出会い、色々な経験を積むのだ。

 その中で、普通の女の子みたいに恋だって経験してほしい。あの子は他の子に比べて、少し幼い面があるから、誰かを好きになるという事から、沢山のものを得られるだろう。

 ああ、でも、旅の中では、楽しいことばかりじゃなくて、嫌な思い出も出来るだろうし、危険な経験もするだろう。

 そんな時に、それを乗り越え、共に立ち会えるような靴がいい。

 そのためには頑丈で歩きやすい靴がいいだろう。

 

 他に必要なのは、カバンだろうか。色々なものと巡り合い、色んな思い出が出来るはずだ。何かを得た時に、それが要らないものでも入れておけるようなカバンがいい。

 その時に要らないものでも、いつかそれがなにかの思い出になるかもしれないから。

 

 服も買ってあげないと、スズネは大事な時期に塞ぎ込んでしまったから、可愛い服にあんまり興味がない。

 だけど、これからあの子の世界は広がるはずだ、その時にあの子の思い出を彩る服が有れば、それは素敵なことだろう。

 

 

 ああ!思い出した。どうして思い出せなかったのだろう。初めに渡すものは決まっていたんだ。

 捨てられずにいたあの人のスタイラー。これはきっと、スズネに渡すためにあったのだろう。閉じた世界から、新しい一歩を踏み出すために。

 あの人の夢。スズネの夢を叶える力になるために。

 

 ああ、スズネの事を考えるのがこんなにも楽しいだなんて! 

 

 スズネの声がする。

 明るくはないし、それも無表情に近い。

 本にとって変わられたおもちゃ。一つもなくなったぬいぐるみ。

 ボールの中のマンタインは私をみているのだろうか。

 ああ、ほとんど飾りもない部屋なのに、ここはひどく明るく感じる。

 

 

 

 夜。

 スズネに誇れる立派な母親になると、決めたばっかりなのに、どうしてもこの決別が口惜しくて、気がつけば、スズネの布団に潜り込んでいた。

 スズネは驚いた顔をしたけれど、少し嬉しそうな顔をした後、疲れていたのだろう、すぐに寝入ってしまった。

 

 すーすーと寝息を立てるスズネの髪を撫でながら、私も目を閉じる。

 昨日までは、繰り返し見る夢のせいで、あんなにも眠ることが億劫だったはずなのに、子供みたいに温かいスズネの体温に触れていると、どうしようもなく幸せを感じた。

 その感覚を手放したくなくて、スズネの手を握っていたら、いつのまにか、私も微睡の中へと静かに落ちていた。

 

 

 夢はもう、見なかった。

 

 

 

 

 

 

 


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