「阿頼耶に何をした」
家入硝子は彼女にしては珍しいことに、その口調に微かな苛立ちを滲ませ、目の前で革張りのソファに身を沈める黒目隠しにそう問いかけた。
「…………? 別に何も」
五条悟は家入の感情をそよ風のように受け流し、極自然な口ぶりで答える。
家入は額に青筋を浮かべた。
「何もせず────ここ一年のエピソード記憶がごっそりと消え去るなんてことがあるか」
阿頼耶は一年間の記憶を全て失っていた。今の彼は、精神操作の呪詛師を追って日夜東京を駆け巡っていたことも、生い立ちが不幸な少女と4か月余り同棲していたことも、それ以前にボランティアで呪霊のプロットを行っていたことも、何一つ覚えてはいない。
彼の頭蓋からは、文字通りあらゆる思いが失われている。
同居人の少女に感じていた思いも、当然────失われた。
「…………年下好きだったけ」
「…………」
家入はシンクにこびりついた水垢を見る目で現代最強の呪術師を見下ろした。
彼女は阿頼耶に特別な感情を抱いているわけではない。単に、己のアバウトな指導によって反転術式を会得してみせた若き才能に…………理詰めに見せかけて実は超感覚派の少年に…………自身の事を師匠と呼び慕ってくる純粋さに、ほんの僅かばかりの親しみを感じているだけだった。
「別に、大したことはしてないさ」
同期からの凄まじい目線に晒されながら、五条は何てことのない空気で言い、
「ほんのちょっと────領域に引き入れてみただけ」
五条悟の領域、無量空処。
その効果は膨大な情報を強制的に詰め込むことで行動能力を奪うことだ。莫大な情報を詰め込まれた結果、脳が焼き切れるのは理屈としては分からないでもないが…………家入は本人からそのような例を聞いたことがなかった。
「抵抗したんだよ、阿頼耶は」
不意に、五条は言った。
「抵抗……?」
「うん、そ。僕の領域に、ね」
土御門阿頼耶。無下限呪術のない五条悟。
彼は現代最強の呪術師の領域に、呪術の極致に、その身一つで真っ向から抵抗した。
して、みせた。
「なまじその手段を持っているからね、阿頼耶は。結果、阿頼耶は僕の領域にも耐えたけれど、頑張りすぎたせいで脳が焼き切れて────アボン」
五条は手を開き、爆発のジェスチャーをする。
「実力が近くなるほど殺しやすいってのは、どうやら本当みたいだね」
プロのボクサーが素人を相手にすると一瞬で決着がつく。
これがプロ同士の試合となると、決着は中々つかず、マッチの終了まで互いの体に何発もの拳が叩き込まれることになる。
かように、戦いの過程でどちらかが深刻なダメージを負う確率は────実力が近くなるほどに高まっていく。
「…………本気の乙骨を無傷で無力化することが難しいのと同様に、か」
「特級呪霊を生け捕りにするのが至難の業であるのと同等に、ね」
仮に、阿頼耶が領域への抵抗手段を持っていなければ、彼が記憶を失うことはなかっただろう。
実力。あるいは最強に挑む資格。それを備えていたことが、土御門阿頼耶の「死因」だった。
「弱者であれば、何ともなかったはずなのに……」
家入は診断した時の弟子の顔を思い浮かべた。時折くだらないことを考えてぼうっとする癖のある少年は、自身が強者であったが故に、失うものが増えてしまった。
それはなんて…………なんて、
「皮肉だねえ」
五条が放った台詞に、家入は微かに頷いた。
*
くりっとした大きな瞳に、透き通るように白い肌、桜色の唇は艶やかに光を反射し、ほっそりとした喉元が妙に艶めかしい。
応接間。
楚々とした雰囲気の少女、いや女性……………………少女と女性の中間に立っている彼女は、どこかぼんやりとしているようにも、深遠な物思いに耽っているようにも見える。呪力の流れからすると彼女は補助監督員、あるいは外見の年齢からして監督員志望の生徒という可能性もあった。
高専関係者。
ならば────関係構築は欠かせない。
そんなこんなで慇懃に振る舞ってから、俺はこれから高専に転入することを思い出した。まだ実感が沸かないからついいつもの感じで挨拶をしてしまったが、向こうも高専生でこれから命を預け合う仲間ならば、「特別なんちゃら術師の土御門です」とかじゃなく、もっと砕けたことを…………どーも、新しいメンバーです、よろ乳首! 的なことを言った方が良かっただろうか。
「末那、といいます。末広がりの末に、那覇空港の那で、末那」
そんな俺をよそに、美少女はにっこりと笑った。
末那、と名乗った彼女は、しかし名字の方は名乗らず、それきり聞かれたことは答えたと口を閉ざす。術師には名字を嫌う人が一定数いるので、彼女もその類なのだろうかと思った。
名字嫌い。
となると名家の出だろうか。
まな。
ふと、俺の脳裏にその名前が何かの暗示のように浮かび上がる。
まな。
末広がりの末に、那覇空港の那で、末那。
真奈や愛、あるいは平仮名のまなではなく、末に那と書いて、末那。
────末那識。
「良い……名前ですね」
ありがとうございますとも何とも、末那…………さんは言わなかった。
沈黙。
耳鳴りがしそうなほどの静けさ。
彼女は何をしにここに来たのだろうか。
待ちぼうけを喰らいかけた俺へ五条さんからの伝言を伝えるメッセンジャーというわけでもないのならば………………例えば彼女も、五条さんから指示を受けてここに来ただけの哀れな迷い人、みたいなオチだったりするのだろうか。
やっぱりあの目隠し許せねえな。
こんな────美少女を、顎で使うなんて。
「…………えっ」
自分の口から漏れた、素っ頓狂な声。
いつの間にか、口数の少ない楚々とした美少女が、腕を振り回したらぶつかるくらいの距離にいた。
「え、ちょ、まっ────」
驚いたことに、美少女は更に距離を詰めてきた。接触を避けるためには、必然俺が後ろへと下がるしかない。
一歩、二歩、三歩。腰が窓枠にぶつかる。これ以上下がれない。
「な、────」
なのに、もう逃げる場所がないのに、それでも美少女はそんなことはお構いなしに足を振り出した。彼女のものか、ふわりとキャラメルのような甘い香りがする。背伸びをするように精一杯体を後ろに傾けると、ブラインドと背中が触れ、かしゃんと紙を丸めたような音が鳴った。
美少女はそのまま、俺の胸板に手を添えると、艶やかな唇を近づけてきて────。
*
「例えば、ですよ」
「────は、はい」
「例えば、私とあなたが、既に知り合っていて」
至近距離。互いの吐息のリズムすら感じ取れる距離で、私は噛んで含めるように、阿頼耶の耳元で繰り返し言う。
「あなたが落としたここ数か月の内に、色々と…………そう、色々と親密な仲になっていたとしたら」
胸板に置いた手を滑らせる。びくりと体が跳ねたのが、手のひらの感触からわかった。
「あなたは────どう思いますか」
茫洋とした質問。
良い仲になっていたとしたら、どう思うか。
出会って数分の少女にそんなことを聞かれた阿頼耶は、混乱の極みという顔をしていた。
「い、色々、というと…………?」
私はもう一歩、阿頼耶に体を近づけた。ひい、と悲鳴じみた声が阿頼耶の喉から流れ出る。
「す、すごく……その────申し訳ないと、思います」
阿頼耶は息も絶え絶えに言った。
「理由は」
「へっ」
「申し訳ない。嬉しいでもラッキーでもなく、悪いことをしたと感じる、その理由は」
私は自分の口調が強くなっているのを自覚した。かあっと体の中心は熱いのに、背筋は震えるほどに冷たい。感情の制御が壊れている証拠だ。力に目覚めた時の激情に近いが、呪力の方は静かだった。
阿頼耶はあちこちに視線を彷徨わせると、えと、その、と言葉にならない声を漏らす。幾ばくか経った後、阿頼耶は私と視線を合わせた。
「し、親密になった、ってことは、そうなるだけの何かがあったってわけで…………」
しどろもどろになりながらも、阿頼耶は自分の考えを言葉にする。
「ということは、『二人』にとって大事な出来事を、俺は忘れてしまったってことだから…………」
だから、と。阿頼耶は少しだけ語気を強める。目の前の少女に対して、強い気持ちで自分の意思を表現するという気概に満ちていた。
「────君一人を置いていくようなことをして…………本当に申し訳ないと……思いますです」
強めた語気が一秒たりとも続かないばかりか最後の方が文法的におかしなことになっているのが、阿頼耶の困惑具合を表しているような気がした。
あと生来の────ヘタレ具合も。
「そうですか」
聞きたいことが聞けた私は、阿頼耶から離れる。
初対面の少女からの詰問から解放された阿頼耶は、ほっとしたような顔をしていた。
その心底安堵した顔を見て、私は少しだけ────イラっとする。
「ちなみに、今私が言ったことは全て嘘です」
棘のある口調で言い放つと、阿頼耶はほっとした顔から一転、愕然とした顔になった。
「…………………………え?」
私は意識して口の端を上げ、嘲るような顔を作る。ごじょうさとるの薄ら笑いを思い浮かべた。
「私とあなたが良い仲だったなんてお話は、嘘八百、真っ赤な嘘、虚言、妄言、仮初の類、絵に描いた餅どころか棚に置かれることすらなかったぼた餅です。記憶を落っことすような間抜けにそんな天変地異レベルのラッキーが起こるわけがないでしょう。残念でしたね。こんな美少女とお付き合いできなくて」
ほうれほうれ、と、私は「まき」という女性から借りた服の袖をひらひらさせた。
「そ…………ソウデスカ、は、はは。騙されたな~…………は、ははっ」
乾いた声を漏らし、光の消えた目で遠くを見つめる阿頼耶。精一杯笑顔を作ろうとした結果、なんだか引きつった顔になっていた。
そんな彼に、私は追い打ちをかけていく。
「ええ、私とあなたは何でもありませんよ。勘違いしないでくださいね」
「だ、大丈夫ですって。そんな、流石に冗談って分かって────」
「左利きなのに箸を持つのだけは右手で、好きなみそ汁の具はかぼちゃ、基本的に好きなものは後から食べるタイプだけど、一番好きな寿司ネタのいくらだけは一番最初に食べてしまうようなあなたと、宇宙開闢以来の奇跡の美少女と称された私が恋愛的にどうこうなるはずがないでしょう」
「冗談だよね?」
阿頼耶はマタタビの隠し場所を暴かれた猫みたいに愕然とした顔になった。
「冗談ですよ」
と私は言ったが、阿頼耶はなおも不審そうな表情で私の顔を見つめた。
「本当になんでもないですよ。ただ少し……」
私は説得力を持たせるために、そこで言葉を区切る。
「……小夜さんと関わりがあるだけです」
柔らかい口調でそう言うと、阿頼耶は納得した顔になった。
「あ、ああ。なるほど。祖母ちゃん繋がりか。…………孫のこと話しすぎだろ祖母ちゃん……」
私が色々と知っていることの原因が判明し、その原因たる祖母に不平を漏らす阿頼耶。
私はその顔に笑いかけた。
「とても愛されているようですね。羨ましいです」
「いや、そんなことは。昔から祖母ちゃん子だったもので……」
私の放った世辞に否定とも肯定ともつかない言葉を返すと、阿頼耶はたははと頭の後ろに手をやった。
「まあ、血の繋がりはないんですけど……」
そのまま何やら聞き捨てならないことを言う。
え。
どういうこと。
私の思考がたった今明らかになった事実に引っ張られる。
私はおばあちゃんの遠い親戚で。だからあの家に引き取られて。
でも阿頼耶は、おばあちゃんとの血の繋がりがない?
じゃあ私と阿頼耶は────正真正銘、赤の他人…………?
「ちなみに、祖母ちゃんとはどんな経緯で……?」
警戒の薄れた声音で尋ねてくる阿頼耶に、私は我に返った。指先を顎に当て、問いの返答を思案する。
「経緯…………まあ、成り行き、でしょうね」
「な、成り行き、ですか」
「ええ、特に劇的な出会いがあったというわけではありません。気が付いたら出会っていたという感じなので…………ああ、そういう意味では、小夜さんと私が出会ったことは────むしろ必然といえるのかもしれませんね」
「な、なるほど…………?」
阿頼耶は分かったような分からないようなという表情になると、そんなもんかと肩をすくめる。私は苦笑を浮かべた。
「本当に、特別なことなんて何もありませんよ。私とあなただって、ほんの何回かお話しただけの関係です。それ以上のことは何もありませんでしたから…………安心してください」
阿頼耶は私の言葉に対し、どんな表情を浮かべたものか迷っているような何とも微妙な顔つきになると、暫くして「そうですか」とだけ言った。
「ふふ、少し冗談が過ぎましたね。病み上がりなのに揶揄うような真似をしてしまい、どうもすみません。何だかんだ、生きていてくれたのが嬉しかったのだと思います」
私はそこで目を伏せ、
「一目見ただけだと、生きているのか、死んでいるのか…………分からなかったものですから……」
「…………あっ」
阿頼耶は何かに気が付いたような声を上げると、
「ご心配を…………おかけしました」
そう、神妙な口調で言い添えた。
「…………」
目線を彷徨わせ、言葉を探す。己の無事を案じていた者に対して、原因となった出来事を忘れた人間が何を言えばいいのか、そんなの私にだってよくわからないけれど、阿頼耶はそれを考えようとしてくれているようだった。
阿頼耶が言う言葉なら、何でもいいような気もするし。
阿頼耶が選ぶ言葉だからこそ、きちんと考え抜いた言葉が欲しいとも思う。
私はそんな矛盾した気持ちを抱え、脳裏から言葉を引っ張り出している阿頼耶を見つめた。
「…………当然、今の俺には、前の自分がどうしてあんなことをしたのか…………よく、分からないんだけど」
阿頼耶はぽつりぽつりと語り始めた。伏せられた瞳が迷うように揺れている。私は彼の言うことに、選び取っていく言の葉に、静かに耳を傾ける。
「色んな人から話を聞いた後でも、何で俺が五条悟に挑んだのか、とか。どういう理由で呪詛師を助けようと思ったのか、とか。本当に、誰のどんな話を聞いても、まるで分からなかったくらいで…………」
阿頼耶がそう言った時、胸の奥がきゅうってなって、ちょっとだけここから逃げ出したい気持ちになった。
阿頼耶は、記憶を失う前の自分がどうして私を助けたのか理解できないと言った。
なんで命を懸けたのか、なんで五条悟に挑んだのか、今の自分には到底分からないと言った。
だったら、あの時の阿頼耶の選択は。
私を逃がした決断は。
本当は糾弾して引き渡すつもりだったのだけれど、ふと魔が差した結果に過ぎないのだろうか。
「それでも」
阿頼耶の声に、ふと意識を引き戻される。彼は私の目を真っ直ぐに見据えた。
「それでも、きっと、その時の俺には、それがすごく────大事な事だったんだと思います。血まみれになってまで成し遂げたい事だったんだと…………そう、思います」
言い切った後で、でも、と彼は付け足す。
「でも…………後悔のないように行動することと、それを周りが心配しないことは、イコールじゃないから…………」
息を吸い、意を決したように、
「だから────ありがとうございます」
阿頼耶は、そう言った。
「心配してくれて、ありがとう、ございます」
人を包む毛布のような暖かさで、阿頼耶は笑った。
笑って、礼を言った。
「こちらこそ────ありがとうございます」
私の返礼でふと頭の中の何かが繋がったのか、阿頼耶は「あ、」の形でぽかんと口を開いた。愕然とした顔のまま、口元が「もしかして……」と動く。
暫くの間そうして驚きを露わにしていたが、次第に目を逸らし、首に手をやり、どこか気まずげな空気を醸し始めた。
「────あ、ああ。うん。いや、まあ、前の俺がやったことだし……今の俺には、実感がないっていうか…………」
阿頼耶はしどろもどろに目線をあちこちに彷徨わせる。出会って早々詰問されたり揶揄われたりした少女が、実は自分が記憶を失う理由だったことを知り、どう扱ったものかと戸惑っていた。
私は万感の思いを込めて、そんな彼に笑いかける。
「それでも、ありがとう」
胸の奥にわだかまる熱さがそのまま声となり、二人だけの応接間に響き渡る。錯覚だろうか、正面にいる阿頼耶が目を伏せ、その頬に微かな赤みが差したような気がした。
「────お兄ちゃんっ」
「……………………………………………………え?」
逃がしたってそういうこと? 生き別れの肉親は差し出せねえだろみたいな? いやいや待て待て落ち着け俺、この歳になって実は妹がいたなんてイベントは世界広しといえどそうそうあるもんじゃない。そんな事象が発生したのならば副作用としてなんかとんでもないことが起きるはずって起きてんじゃん記憶失ってんじゃんもうやだお家帰るー!
ぎゃーすか言いながら頭を抱える阿頼耶。私は心の中でぺろりと舌を出し、いたずらの結果を愉快な心持で眺める。
────これくらいは許してほしいよね。
揶揄うことで記憶を落とした不手際をチャラにしてあげようというのだから、感涙にむせび泣いてほしい。
少しだけ、鼻の奥がつんとした。多分、埃のせいだった。
*
「というわけで、色々と不幸な元JK呪詛師の末那ちゃんと、そんな不幸なJK呪詛師を助けるためには僕と殺し合いくらいやってやらあ! と覚悟ガンギマリなボランティア術師、阿頼耶くんで~す!」
石畳が敷かれた空間に軽薄な現代最強の声が響き渡る。諸事情あって些か疲れ気味の体を抱えながら、俺は目の前に並ぶ黒い制服を身に纏った生徒たちに軽く会釈した。
「ちなみに、阿頼耶くんは一年分の記憶を失っていま~す。あっはは。記憶喪失って本当にあるんだねえ」
お前のせいだろうが! と言いたかったが意志の力で抑え込んだ。第一印象は大事だ。
「いやお前のせいだろうが」
「しゃけ」
そしたらポニーテールの女性が代わりに言ってくれていた。サンキュー、姐さん。
目の前に並ぶ、都立呪術高等専門学校に通う高専生徒たち。
俺と末那さんに対する彼らの反応は、もろ手をあげて歓迎するというものではなかったが、とはいえ明確な拒絶や嫌悪といった悪感情とも異なる感じの、なんというかフラットな感じであった。
「色々と思うところはあるかもしれないけど、青春を謳歌する者同士────仲良くしなよ」
「はあ」
「しゃけ」
「パンダはそのつもりだぞ」
先ほど俺の代わりに突っ込んでくれたポニーテールの女性を含む、向かって右側の二人と一匹がそう言い表し、
「…………」
「うい~っす」
「睫毛なが……化粧水何使ってんだろ」
左側の三人がそんな感じで反応した。
五条さんは満足そうに頷くと、片方の手をひらりと振る。
「じゃ、僕は出張あるからこの辺で。ば~はは~い」
「五条先生てぎりぎり平成生まれだよな……? なんでケロヨン?」
「いやお前も知ってんじゃねえか」
去り際、五条さんが放った意味不明な言葉に明るい髪色の男子がそのネタの古さを指摘すると、つんつん頭の黒髪の男子が突っ込みを入れた。
ちなみに彼が指摘したケロヨンは昭和生まれの蛙のキャラクターなのだが、2014年に冬眠から覚めたという設定で復活し、今では栃木県のご当地キャラクターとして活動していたりする。どうでもいいけどなんで俺はこんなに古のゆるキャラに詳しいのだろうか。
ふと、向かって右側にいた生徒たちが、ぞろぞろと俺を囲うようにして近づいて来る。
俺は震えあがった。僕お金ないです。
「おう、これからよろしくな。あらやん」
と怯えたのも束の間、どうやら彼らは友好的に俺を迎えてくれるらしかった。パンダが深みのあるバリトンボイスで言い、
「たかな」
と口元を隠した青年も歓迎の言葉を今なんて? て、Take it now? もしかして最近帰って来たばかりの帰国子女で、発音がネイティブ過ぎて言うこと全てがおにぎりの具に聞こえるとかだろうか。リスニングは苦手なんですけど……。は、はうどぅゆどぅ?
「なよっとしてんなあ……肉食ってるか?」
最後に、応接間からグラウンドを見ていた時に目が合った、喧嘩が強そうな女性が俺の体を見てそう言った。
「あ、はい。よろしくお願い……パンダが喋った!?」
なんだこれ。なんでパンダが喋ってるんだ。新種か? 学会への報告はどうした!?
「さっきから喋ってたろ」
「しゃけしゃけ」
「パンダが喋っちゃダメなんですかあ? パンダ差別ですかあ?」
驚く俺にそれぞれの声がかけられる。眼を飛ばしてくるパンダが暑苦しかった。
「うし、じゃあ取り敢えずグラウンド行くぞ」
踵を返した女性(そういえばまだ誰の名前も聞いていない)に続き、他の二名もどこかに向けて足を振り出す。出遅れた俺は小走りで追いながら、これまでずっと気になっていたことをその背中に尋ねた。
「あの…………」
「あ?」
女性が肩越しに俺を見る。眼光の鋭さに思わず財布を取り出しそうになった。へ、へへっ、命は勘弁ですぜ……。
「あ、えと、その…………俺って二年扱いになるんですか? その辺のこと、五条さんから何も聞いてなくて……へ、へへ」
女性の眼光にビビった結果、俺の口調がなんか三下みたいになっていた。そのまま揉み手をする勢いである。旦那あ…………へへ、勘弁してくださいよお……。
ちなみに五条さんはまじで何も説明しないまま、応接間にいた俺と末那さんをここまで連れてきた。あの最強犬の糞とか踏めばいいのに。
「あ? ああ、そうだよ。お前が二年で、元呪詛師が一年。なんか知らんけど分けるらしいな」
強そうな女性は態度とは裏腹に俺の学年事情をきちんと説明してくれた。この時点で彼女は俺にとって五条さんよりも敬うべき人と認定される。やっぱ持つべきものは若々しさとチャラさをはき違えた子どもみたいな大人じゃなくて、しっかり者の姉御肌の先輩だよなあ。持っている長物とかやばい足運びとかを見るに姐さんより番長という感じだが、俺は早くもこの女性に好感を抱いていた。へへっ、姐さん、牛乳とアンパンでも買ってきましょうか……?
「経験の差だろう。だってお前、ボランティアでちょいちょい呪霊祓ってたんだろ? 実戦経験ありの外部協力者だったら、そのままスライドさせた方が都合がいい。教師の負担も分散するしな」
「しゃけしゃけ」
「ボランティアってところが変態じみてるな。実は破滅願望とかあるのか?」
手下Bのロールプレイをしていた俺は、パンダと青年の言うことに納得の頷きを返す。早くも姉御からドン引きされるというハプニングはあったが、持ち前の営業スマイルで「力を持つ者の責務ですから……」と言い、事なきを得た。
「ええ…………変態かよ」
気のせいだった。より引かれただけだった。
「俺は好きだぞ、お前みたいなの」
「うめ」
「パンダさん…………おにぎり先輩…………」
「誰だよおにぎり先輩」
優しい言葉をかけてくれるパンダとおにぎり先輩に俺は感動に震えた。おにぎり先輩の方は優しい言葉をかけてくれたのかは分からないがきっとニュアンス的にはそういうことだろう。俺たちは早くも言葉よりも先に心で通じるソウルメイトに至ろうとしていた。
「んじゃ、『無下限呪術のない五条悟』がどんなもんか。見せてもらおうじゃねえか」
え。
ちょっと待て。
姉御が放った言葉に、共振していたソウルの震えがぴたりと止まる。
誰が何だって?
無下限呪術のない五条悟……?
誰が?
俺が?
なんだろう………………不穏なこと言うのやめてもらってもいいですか?
「ほら行くぞ!」
「あひんさー!?」
首根っこを掴まれて連行されてゆく阿頼耶くんじゅうななさい。
美少女とエンカウントできたと思ったら実は元呪詛師で、しかも「生き別れの妹ですよ。これからよろしくね、お兄ちゃんっ」とかいう道徳のない嘘を吐かれ、挙句の果てにたった今とっても不名誉な名で呼ばれている疑惑が浮上し、なんかもう色々と現実を受け止め切れなかった。
…………ぼくもうお家帰る。
弱音を吐いた。でも誰も助けてくれなかった。
くそう。こんな世界滅びてしまえ。
*
ずるずると連行されていく阿頼耶。なんだか今まで見たことがない感じのテンションだった。
あれも記憶を失ったせいなのだろうか。
「じゃ、よろしくね。私は釘崎野薔薇。こっちの陰湿そうなのが伏黒恵で、こっちの馬鹿っぽそうなのが虎杖悠二ね」
「誰が陰湿だ……」
「俺を傷つけない紹介方法もあったよね?」
茶髪の女性が隣の男子二名を指し、それぞれの名前を紹介する。
私から見て右側にいる色素の薄い髪の男子が虎杖悠二で。
左側にいる暗そうな男子が伏黒恵らしい。
二人の男子には見覚えがあった。
一人は一度、私がまだ人を襲っていた時に、犯行後ニアミスした時の少年。
もう一人は電車で席を譲られた少年。
二人とも、私と既に会ったことがあることには、気が付いていないようだった。
「末那と申します。よろしくお願いします」
「ん、よろしく」
「おう、よろしくな」
「…………」
釘崎と虎杖がそれぞれ返答する中、伏黒という少年だけが何も言わなかった。
何も言わないが、物言いたげな雰囲気はあった。
「伏黒……あんたなんか言いたそうね」
釘崎がその雰囲気を指摘する。
伏黒はむっつりした顔で首を横に振った。
「いや、別に」
素っ気ない態度を取られた釘崎は、トンカチを持った手で伏黒の顔を指し示した。
「別にじゃないでしょーがあるでしょーがその顔は。俺は言いたいことあるけどここで言うのもなんだし辞めときます。でも含むところがあることだけは匂わせときますって面してるでしょーが!」
「そんな雄弁かよ……」
伏黒は大きくため息を吐くと、頭の後ろを掻き、
「お前のせいで人が死んだ」
吐き捨てるように言った。
「伏黒……」
「事実だ。こいつは面白半分の小遣い稼ぎで人間を襲い、挙句の果てに自分の力の実験台に使ったんだよ」
諫めるように名前を呼んだ虎杖も、伏黒のその言葉に沈黙する。釘崎さんも不機嫌そうな顔をしていたが、あえて口をはさむことはなかった。
「俺は別に、罪だとか罰だとかってことを言いたいんじゃない。どうせ誰も裁けやしないからな」
だから、俺はこいつの罪を問いたいんじゃない。
伏黒は私の目を真っ向から見据えた。
「お前は、何のために高専に来た」
ぴくりと虎杖の眉が動く。伏黒はお構いなしに続きを言った。
「何のために、呪いを学ぶ」
同じことを、ついさっきひげ面の男にも聞かれた。
何のために呪術を学ぶ。何のために高専に通う。
「別に、理由なんてありませんよ」
「…………」
「私には力があって、その使い道によっては秩序を守る組織に殺されたり、逆に秩序を守る側になれたりする。だったら、秩序を乱して殺されるよりも、それを守る側に立った方が良いと、そう思うだけです」
伏黒が納得していないのがはっきりと分かった。彼は私の答えを聞くと、眉間の皺を深くしていく。
関係構築には失敗だろうか。私は少し目を伏せ気味にする。どうせ答えるなら、胸の内の全てを答えておこうと思った。
「それに世の中には、たった数か月を共にしただけの女の子を、命を懸けて助けようとするような、そんな馬鹿みたいなお人好しがいるんですよ」
私は先ほど連れて行かれた背中を思い出す。情けない姿だったが、あれは私を二度も救った。
そうして二度とも、私に見返りを求めることをしなかった。
今の彼は、そんな出来事があったことすら忘れてしまったけれど。
「私は知らなかった。あんな人間がいることを。誰かのために自分をそのまま差し出してしまえる人間がいることを。そうしてそんな馬鹿な人間が、私と同じ世界に生きていることを」
言葉を区切る。どうせなら真正面から主張をぶつけてやろうと思い、私は伏黒の顔を真っ向から見据えた。
「────いいかもな、って思ったんです。こんな世界だったら、まあ、いいかもな、って」
自分の表情が柔らかくなったのが分かった。
自分が生きている世界の肯定。
阿頼耶がそれを可能にしてくれた。阿頼耶がいたから、私はそう思えるようになった。
こんな世界なら、良いかもな、と。
生きてやっても、良いかもな、と。
世界は汚いだけじゃない。勿論、綺麗なだけでもない。
ただ、真に美しい輝きを放つ信念は、どれだけ泥にまみれていようと────その輝きを失うことがない。
私は、その輝きの隣に立ちたい。立っていいと思えるようになりたい。他ならぬ自分自身が、あの透き通る光の近くにいることを許せるようになりたい。
だから私は、呪いを学ぶ。
呪いを学び、呪われた人を助ける。
そう、決めた。
「それが理由じゃ、駄目でしょうか」
虎杖と釘崎は真剣な表情で私の話を聞いていた。彼らとて、私について思うところがあったのだろう。やがて二人は私の言葉に納得したのか、伏黒に目を向けると、返答を待つように瞼が閉じられた顔を見つめた。
「……………………取り敢えず、フィジカルを鍛えることから始めるぞ。呪力を身に纏えない分、どうしたって肉体は貧弱になる。足りない膂力は技術でカバーするしかない」
伏黒は一息に言い放つと、そのまま阿頼耶たちが消えた方向に足を向ける。
「幸い、白兵戦がえげつない人が転入してきたからな。あの人に教えてもらえばいいだろ」
肩越しにそう言い、伏黒はグラウンドに向かう。その背中に虎杖と釘崎が駆け寄った。
「何してんの、いくわよ!」
釘崎が振り返り、私に手を振る。虎杖もこちらを振り返り、私が動き出すのを待っていた。
この先は呪いの道だ。
暗く、淀み、鬱屈とした下水道のような世界。
感情の排泄物と戦う世界に、私は身を投じていくのだろう。呪霊、呪詛師、きっと私なんかよりもよっぽど邪悪な者たちが、この先には待ち構えている。
私は人間を嫌いになるだろうか。男をより憎むだろうか。
私は口元に笑みを浮かべる。空を仰ぐと、快晴とは程遠い分厚い雲の層が出迎えた。
大丈夫。
どんなことがあっても、この暖かな感情だけは────消えることはない。
私は芽生えた淡い恋心を宝物のようにしまい込み、呪いにまみれた道を歩き始めた。