誰だって誤りはある。妖怪の賢者はそう言った。世の中に完璧な存在なんていない。それは正しかった。他でもない、八雲紫がそれを証明して見せた。
八雲紫の読みは誤っていた。あの、死者蘇生の噂は人々の不満のはけ口になり、人里の、喜知田が抜けたことによる不安は解消される。妖怪の賢者はそう言っていたじゃないか。なのに、このざまはなんだ。たかが妖怪をはけ口にするだけでは、彼らは足りなかったのだ。出ていく不満より、はるかに溜まっていくそれの方が多かった。少し穴が空いた程度では風船は萎まず、それどころかその穴から空気が入っていった。
空気を入れすぎた風船はどうなるか。
当たり前だが、爆発する。木っ端微塵にゴムは破れ、今まで中に収まっていた空気は散り散りになる。それを実感していた。
博麗神社を後にする頃には、ちょうど昼頃になっていた。本来であれば博麗の巫女に護衛を頼みたかったのだが、どうやら本当に霧の湖まで頭を冷やしにいったらしく、中々姿を見せなかった。帰ってくるまで居座っても良かったが、顔が広いと噂の彼女の知り合いに見つかっては面倒だ。そう思い、神社を出た。霧の湖に巫女がいる以上、妖精や低級の妖怪は近くに寄りつかないだろう、という算段もあった。だが、予想外だったのは、針妙丸も着いてくる、と主張したことだ。
「壊れちゃったお椀を直しに行きたいの」
そう笑う彼女の顔からは、涙は消えていた。直すも何も、一体その修理費は誰が出すのだ。そもそも私はお前の買い物について行くつもりはない。というより、今の人里は危ないからここで大人しくしておけ。人里には身長の入場制限があるんだぞ。考えつく限り、全ての反論を口にしたのだが、針妙丸は一向に首を縦に振らなかった。ただ、いいじゃん、と私の足にくっつくだけだ。誰かさんに似て、頑固だった。
幸か不幸か、人里へは何の障害もなくたどり着くことができた。一応、妖怪であるということすら針妙丸には隠しておきたかったので、陸路を使ったのだが、予想よりも時間はかからなかった。いくら人里から離れているとはいえ、人間がいけない神社では意味が無いのだろう。当然、いけないの枕詞には安全に、という文字はない。
人里の異変を最初に嗅ぎ取ったのは針妙丸だった。
「なんだか、人が少ないね」
人里の端の、私の店のすぐ近くに来た時に、ぽつりとそんなことを零した。
「そんなことはない」と私は否定したが、確かに人の姿は少なかった。いや、少ないどころではない。一人もいないのだ。確かに、人里の端は中央よりも妖怪に襲われやすい、といわれている。普通の人であれば特におとずれたりはしないだろう。だが、さすがに一人も見掛けないというのは稀だった。
まあ、稀とはいえ、偶にはそういう偶然があるのは事実で、その時の私は特に何も感じていなかった。このまま誰と会うことなく、慧音にでも針妙丸を押しつけよう。呑気にそう考えていた。だから、私の店先であたふたとしている妹紅を見掛けた時も、私の蕎麦を食べに来たのかと、本気で思った。
「おい蓬莱人。今日は閉店だぞ。残念だったな。土でも食ってろ」
「蕎麦屋さん、酷いこと言っちゃ駄目だよ」
いつも霊夢にやられているのか、めっと指を立てた針妙丸を無視し、妹紅に目を送る。いつも通りの赤いモンペを着て、いつも通りの白い髪をたなびかせているが、その頬はいつもとは違い、白くなかった。赤い。最初はペンキでも塗っているのかと思った。が、よくよく見てみるとそれが血だということが分かる。慌てて針妙丸の目を塞いだ。うわー、と楽しげな声を出す彼女を持ち上げた。おい慧音、と文句を言いたくなる。お前の友人は教育に悪いぞ。
「せい、いや。蕎麦屋。おまえ、どこ行ってたんだよ」
針妙丸の姿を見た妹紅は、気を利かせたのか言葉を濁した。
「こんな大変な時に、どこに」
「大変って何がだよ」
「話は後だ。いいから着いてこい」
「なんで後にするんだよ。今言え、今」
巫女といいこいつといい、どうしてそうも焦っているのだろうか。急がば回れ、という諺など、こいつらの辞書にはないのだろう。まあ、私の辞書にもないのだが。
「とりあえず、店に入れよ」
「そんな時間は」
「包帯が死ぬほどあるんだ。顔に巻け」
なんでだよ、と語気を強めた彼女だったが、自分の頬に手をやった後、何も言わずに頷いた。どうやら、怪我に気づいていなかったらしい。興奮して痛みを感じていなかったのか、それともその程度の痛みなど彼女にとって屁でもないのか。いずれにせよ、狂っているとしか言えない。
店の鍵は開いていた。単純に私がかけ忘れていただけなのだが、妹紅は何も言わなかった。きっと、勝手に家の中に入ったのだろう。血痕がぽつぽつと床に落ちていた。
「これ使えよ」近くにあった、少し黄ばんでいる包帯を渡した。妹紅が巻き終わるのを待って、針妙丸から手を離す。まぶしーと目をパチパチさせる彼女と妹紅の沈んだ表情は対照的だった。
「ありがとな」
「礼なんて要らねえよ。対価を払え」
「なら、また今度何でも言うことを聞いてやるよ」
「安請け合いすると、痛い目に遭うぞ」
「私の命の価値なんてそんなもんさ」
そう冗談を言っているものの、カラカラとした乾いた笑みしか出せていない。しおらしい巫女といい、元気のない妹紅といい、様子がおかしい奴らばかりだ。唯一まともなのは、針妙丸だけだった。いや、誰かに刺されたというのに、いつも通りというのもそれはそれでおかしいのかもしれない。
「えっと、慧音先生のお友達の人?」
包帯を巻き終え、ますます白と赤のコントラストがはっきりとした妹紅に、針妙丸は笑いかけた。
「いつも先生が言ってたよ。とても頼りになるんだって」
「ありがたいね。けど、私は役に立てなかったよ」自嘲気味に彼女は片頬をあげた。強者らしくない、弱者特有の笑みだ。
「私は慧音の期待に応えられなかったんだ」
「何があったんだよ」
別段聞いたところで私には何もすることができない。が、なぜだか気になった。
「ふだん能天気なお前がそこまで焦ることなんてあるんだな」
「能天気は余計だよ」ふっと息を漏らした彼女の包帯に赤色が増した。きっと、吐血したのだろう。それでも彼女は苦しむ素振りすら見せなかった。それどころではない、といった様子で私に鋭い目を向ける。
「大変なことになった」
「私はいつも大変だ」
「私も!」針妙丸が手を挙げる。「私もいつも大変」
「大変なことになったのは、慧音だ」
「慧音?」
確かにあいつはいつも大変そうだが、妹紅がそこまで焦ることもないだろう。何もかも一人で抱え込むあいつは、汚い水でしか住めないザリガニよろしく、大変で忙しい環境でしか生きていけないのだと、私は半ば本気で思い込んでいた。
「慧音はいつも大変だろう」
「そうじゃないんだ」
「そうじゃない?」
「訳を話せば長くなるが」
それに、子供に聞かせる話じゃない。そう呟いた彼女は針妙丸にむかい、にこりと微笑んだ。明らかに無理して作ったものだったが、それでも針妙丸も同じように微笑む。
「結論から言えば、慧音が矢面に立たされている」
「やおもて?」言葉の意味が分からず、首を傾げる。「矢を持てって、弓でも使うのか」
「違う」彼女は本当に辛そうな顔をした。
「人里のみんなから糾弾されてるんだ」
「は?」
「恨みを買ったんだよ。ミスをしたんだ、あいつは」
妹紅の言っていることが分からず、ただ呆然としてしまう。慧音が人里から糾弾される? なんでだよ。あいつほど人里に尽くしている奴はいないし、人里で愛されている存在もいなかったじゃないか。
「だから、とにかく着いてきてくれ」
今度の妹紅の言葉を断ることは、私にはできなかった。
針妙丸を一人で残しておくことに、不安がないわけではなかった。だが、いくら見た目が小さいとはいえ、彼女自身はそこまで軟弱ではないことを、愚かではないことを私は身をもって知っていた。なんなら、私なんかよりよっぽど強い。「大丈夫だよ。留守番には慣れているんだ」と胸を張る彼女の顔には露骨に寂しさが浮かんでいた。その顔を見ると、ここに残らねば、という使命感に駆られる。小人のためではない。子供一人に私の店の切り盛りを任せるほど、落ちぶれたつもりはなかった。それに、人里の守護者がどうなろうが、私の知ったことではない。勝手にくたばっていればいいし、そもそもあいつが簡単にくたばるとも思えなかった。だが、明らかに尋常ではない妹紅の様子を見ると、酷い目に遭っているだろう慧音の面を拝むのも悪くないと、そう思えた。結局のところ、私はその天邪鬼としての欲望に従い、妹紅について行くことにした。やはり、針妙丸を人里へと連れてくるべきじゃなかった。無理にでも置いていくべきだった。そう後悔する。が、後悔なんてしても意味が無いことは明らかだった。
人里の大通りに向かい、足を進める。が、それでも人間の姿は中々見えなかった。そこで、ようやく私は、これはよっぽど面倒なことが起きているのでは、と理解した。酷く見覚えがあったのだ。私が、人里中から責め立てられた、あの野菜の時と、全く同じだ。
「時間がないから、端的に説明するぞ」
妹紅はなぜか空をとばず、早足で移動しながらそう言った。
「お前、あの死者蘇生の噂、知ってるよな」
「またその話か」
「最近、その噂にある情報が伝わってな」
「珍しい妖怪の血じゃないと意味が無いってあれか?」
知っていたのか、と唇を噛んだ妹紅は、苛立たしげに地面を蹴った。
「まったく、馬鹿らしいよ」
「そうだな。最近、珍しい妖怪を売りつけるような輩が増えてるんだろ?」
「え?」妹紅はなんだそれ、と肩をすくめた。
「そんな商売があったら、さすがに慧音も私も、妖怪の賢者も動いているよ」
「確かに」だが、あったのも事実だ。
「それも気になるが、今は慧音のほうが心配だ」
「何があったんだよ」
「もう想像がついたんじゃないか?」
「つかねえよ」
「簡単だ。半獣って、珍しい妖怪と言えなくはないだろ」
あ、と声を零してしまう。確かに、そう言えなくもない。だが、それはあくまでも言えなくもない、といった程度だ。普通に考えれば、半獣が妖怪であるかどうかの議論からはじめなければならないだろう。だが、そもそも普通に考えられる奴は、そんな妙な噂に引っかかったりはしない。
「それで、とある人間が慧音を尋ねたんだ。喜知田を生き返らせたいから、その血を分けてくれって」
「そうか」
「慧音は受け入れたよ」
だよなと頷く。お人好しの慧音が、懇願してきた人の願いを聞き届けないはずがない。
「だが、まあ。当然だが、そのまじないを行っても、喜知田は生き返らなかった」
「だろうな」
「そしたらな、二つの反応が生まれたんだ」
どこか客観的に語る妹紅に違和感を覚える。慧音の歴史の授業のように、淡々と事実をまとめ、述べあげている。だが、彼女の眉が細かく震えているのを見た時、その理由が分かった。こいつは怒っている。だが、その怒りをぶつける所がなく、必死に隠しているのだ。哀れで、惨めだ。強者のくせに、と呟きそうになった。強者のくせに、なんてざまだ。「一つは、まあ有り体にいえば落胆だな。やっぱり、あの噂は嘘だったのか。と正気に戻った奴だよ。はかなく消え去った期待に驚愕する奴も、そのデマを流した奴に対する怒りを示す奴もいたが、その根底は落胆だったはずだ」
「それで、なんで慧音が酷い目に遭うんだよ」
「もう一つはな」私の言葉を無視した妹紅は、ぎゅっと拳を握った。
「もう一つは、諦めきれなかった人々の興奮だ」
「は?」
「慧音の血じゃ駄目だった。だが、それは半獣の血だから駄目だっただけで、別の珍しい妖怪ならいいかもしれない。そう思った奴がいたんだ」
「だから、なんだよ」それで慧音が酷い目に遭う理由が、糾弾される理由が分からない。
「よくよく考えろ。慧音がな、そう言われて何て答えると思う。先生の血じゃ駄目でした。でも、他の妖怪の血ならいけるかもしれません。もしよければ協力してくれませんか。そう言われれば、どうするか」
「無視する」
「あいつはそんなに器用じゃない」妹紅は悲しげに言った。「当然のように断ったよ、あいつは」
そういえば、と私は思い出した。慧音は、この噂を好ましく思っていなかったはずだ。
「人間は、一つの目的のために協力すると、凄まじい力を発揮する」気づけば、そんなことを口に出していた。慧音の言葉だ。
「その通りだ」妹紅は頷いた。「そして、その輪から外れる奴を、理不尽に嫌う」
「は?」
「皆、興奮してるんだよ。どこか、おかしくなってる」
「どういうことだよ」
「誰かが言ったんだ。『おいおい先生。どうして反対するんだよ。妖怪の血を少し貰うだけだぞ。それで、喜知田さんが戻ってくるかもしれないんだぞ』って」
「分かんねえよ。だから、なんでそれで慧音が」
「『先生、もしかしてあなた、妖怪の肩を持っているんですか?』って言われたんだ」
ひゅっと息が零れた。実際に見たわけではないのに、その場面がありありと脳裏に浮かぶ。おそらく、そう口にした人間も、本気でそんなことを思ったわけではないだろう。慧音の優しさは誰もが知っている。なんせ、天邪鬼の私が一目見た時に、近づきたくないと思った奴なのだ。私と真逆の、鳥肌がたち、気持ち悪いほどの善人の彼女のことを、本気で恨んでいる人間なんているはずがない。
「好きと嫌いは紙一重」妹紅は悔しそうに吐き捨てた。「まさにその通りだったよ。今でも人里の人間は慧音を信頼しているし、頼りにしている。だからこそ、反発は大きくなった。私はそう思っている」
笑えるな。私がそう言うと、彼女はきっと睨んできた。が、すぐにその目をそらし、空へと向ける。晴天だ。雲一つ無く、出てきたばかりの太陽が私を照らす。すがすがしい。空を見上げると、どこか慧音の姿が思い浮かんだ。綺麗な水色と、私たちを包み込むような暖かみが似ている。だが、その空に一筋の煙が立っていることに気がついた時、暖かみは完全に消え去った。黒々とした、嫌な煙だ。青空を蹂躙するかのように、もくもくと広がっていく。何かが燃えている。そう分かったのは、その煙にだいぶ近づいた時だった。
「覚悟しろよ」妹紅は呟いた。私に向けた言葉ではなく、きっと自分自身に向けた言葉だろう。「慧音の姿を見ても、うろたえるな」
燃えているものの正体は、おおよそ予想がついていた。だが、実際にその現場を目撃すると、衝撃を隠すことができない。
燃えているのは寺子屋だった。蕎麦屋が燃えた時と同じくらいの小さなボヤだが、それでもあの寺子屋が燃えているという事実は衝撃的だった。良心的なのに、良心的ではない。
「奇跡だ」思わずそう呟いてしまう。「烏、こういうのを奇跡って言うんだぞ」
かなり距離があるはずなのに、その炎の熱気が襲ってきている。と、思ったが、どうやらその熱気は炎だけが原因ではないようだった。
中々姿を見せなかった人間が、寺子屋周辺に所狭しと佇んでいる。いや、佇んでいるだなんて、生易しい物ではない。牙を研ぎ、爪を磨き、威嚇している、ように見えた。燃え上がっている寺子屋のすぐそばだけ、危険だからか円上に避けられていたが、そこ以外は人間でぎゅうぎゅうになっている。これでは慧音を探し出すことができないのではないか。そう思ったが、それは杞憂に終わった。彼女はその、誰もいない寺子屋のすぐ近くにいた。いつものように、壇上にあがる先生のように、そこだけぽつりと空間が浮かんでいるように見えた。だが、そこにいる先生はいつもの堂々とした姿ではない。
「おい妹紅」私の声は、なぜか震えていた。
「なんでお前は悠長に私を呼びに来たんだ」
「だから、早くしろって」
「そうじゃねえよ」妹紅を責めるのはお門違いもいいところだ。だが、問い詰めずにはいられなかった。
「なんで先に慧音を助けなかった。お前ならあの人間の輪の中からあいつを助けることなんて訳ないだろ。なにぼさっとしてんだよ」
「私だって、助けようとしたさ」
口元に巻かれた包帯を撫でた妹紅は、思い切り地面を蹴り飛ばした。少なくない衝撃が辺りに響き、砂煙がまう。当然、それは慧音を取り巻く人間にも伝わったはずだ。が、人の波は動かない。
「でも、慧音が断ったんだ」
「なんでだよ」
「人里の守護者だからだよ」はっきりと妹紅は断言した。「彼女は、こうしている今でも人里を守ろうとしている」
視線をあげ、慧音を見つめる。いったい彼女は何を考えているのだろうか。ぼんやりとだが、想像はつく。きっと、この期に及んでも彼女は自分を責めているはずだ。私のせいでこんなことになってしまったのだ。なら、私がどうにかするしかない。そう思っているに違いない。まったく、馬鹿らしい。なんて傲慢でおこがましいんだ。
「みんな、落ち着いて聞いてほしい」
立ち上がった慧音は、小さな声であるが、そう言った。ただそれだけで、騒いでいた群衆は水を打ったように静まりかえる。大勢の生徒に向かい、先生が注意をしているような、そんな錯覚に陥る。みんなが静かになるまで三分かかりました、そう言い出しても違和感がない。そう思っていると、慧音は実際に、「みんなが静かになるまで、三分かかりました」と口にした。はっとし、周りを見渡す。その誰もがぎょっとし、驚いていた。
「私は人里の守護者である前に、一匹の半妖であり、そして寺子屋の先生だ。貴方たちの半分は、私の元教え子だろう。いや、もっとか。私自身、全員の顔を覚えていると豪語するつもりはないが、少なくともこの場にいる全員くらいは、歴史の成績まで連ねることができる」
慧音はボロボロだった。だが、傷ついてはいない。彼女の心はまだ折れていないのだ。なぜか。信じているから。人里の人間を信じているから、折れていないのだ。
「だから、分かって欲しい。私は別に妖怪の肩を持っているわけではない。ただ、お前達になってほしくないんだよ。自分たちの利益のために、他者を平気で傷つけるような、そんな子になって欲しくないんだ」
そこで、慧音はふっと笑った。そう。笑ったのだ。憤る人間相手に、自分自身を責め立てている有象無象に笑いかけたのだ。寺子屋に火を点けられたというのに、だ。
人里の雰囲気が、落ち着いたように感じた。燃え上がる寺子屋を背に、優しく語りかけるボロボロの慧音の姿は、痛ましく、健気だった。このような不幸に見舞われて、なお笑い続けるだなんて、常軌を逸している。控えめに言って、気持ち悪かった。まるで聖人君子のようではないか。
だが、そう思ったのはどうやら私だけだったらしく、人間どもは口をパクパクと動かし、どこか恍惚とした表情を浮かべていた。さすが慧音先生、と拍手をする輩もいる。
「おい」
私は、もう一度妹紅を小突いた。
「全然糾弾されてないじゃねえか」
「私が来た時には、もっと酷かったんだよ。寺子屋が燃えてたんだぞ。ま、勝手に消えるぐらいの小さなものだったけど」
「誰が燃やしたんだよ」
「さあ」
妹紅は首を捻りながらも、どこかほっとした表情を浮かべていた。慧音が何かを話す度に、そうだ! と狂信的な信者のように声を上げている。
私は呆れ、興ざめしていた。何が人間の輪に入れない奴は阻害される、だ。何が妖怪の肩を持ってるんじゃないですか、だ。こんなの、糾弾されたなんていえない。少なくとも、アマチュアだ。糾弾されるプロの私からすれば、甘いも甘い。かき氷のシロップをそのまま飲んで、練乳をがぶ飲みするくらい、甘い。つまり、反吐が出た。
一件落着だな、と微笑んだ妹紅は、ひょいっと軽く飛び、熱弁を振るう慧音の元へと飛び立った。私からしてみれば、そもそもその『一件』すら起きていないので、何の感慨もない。ただ、慧音が勝手に騒ぎ、勝手に納得されただけだ。茶番にもほどがある。
だが、そうは問屋が卸さなかった。
こんな下らない喜劇を見るだなんて、阿呆らしくなった私は、とっとと針妙丸のいる店へと戻ろうと振り返った。こんな大量の人間がいる場所に、これ以上いると正体がばれるのでは、という不安もあった。
慧音の言葉が急に止まり、群衆が静まりかえったのはその時だ。足が止まる。何が起きたのか、気になった。恐る恐る寺子屋の方向を向く。
目を疑った。なんで。どうして。まるで意味が分からない。頭が固まり、動くことができなかった。その場で立ち尽くし、呆然とするほかない。
燃え上がる寺子屋の中から、二人の人物が現れた。逃げ遅れた人がいたのか、と最初は思った。だが、その二人は酷く落ち着いた様子で、しかも明らかに寺子屋にいていいような年齢ではなかったので、すぐにその可能性は消え去った。
皆、何が起きているのか理解できていなかった。燃えさかる寺子屋から、外の騒ぎなど知らないかのように平然と出てきた彼らは、どこか浮き世離れしていた。もしかして、これは幻覚なのでは、と訝しむくらいだ。
だが、私はこれが現実だということをすぐに認識した。その理由は簡単だ。その、寺子屋から出てきた二人組に見覚えがあったのだ。
それは、例の老夫婦だった。小魚を買い取り、一人息子を生き返らせようとした、弱々しい二人。彼らが涼しい顔して、寺子屋から出てきたのだ。
それだけならまだよかった。ただ出てきただけならば、無事を喜び、心配し、受け入れられただろう。慧音によって和らいだ人間達ならば、そうしたに違いない。
だが、現実ではそうならないことは明らかだった。なぜか。彼らの恰好が原因だ。服装こそは普通の、みすぼらしいボロだが、持っている物が異様だ。老婆の方は何やら大きな包みを肩にかけ、米俵を運ぶようにゆったりとした足つきで出てきた。その包みの透き間から、何やら光る物が見える。絹の織物だと分かったのは、ちょうど太陽が寺子屋の黒煙を切り裂き、スポットライトのように婆を照らした時だった。
そして、もっとまずいのは老夫のほうだ。彼は背中に大きな荷物を抱え、きっとそれは老婆のように高値の物を積み込んだのだろうが、重そうにのっしりと足を進めていた。が、問題なのはそこではない。彼が手に持っている物が問題なのだ。
彼は、少しの衣類と、大量のマッチ棒を両手に抱えていた。明らかに、今使ったものだ。本当は背中の袋に入れたかったのだろうが、入らなかったに違いない。だが、だからといってそれを持って外に出るのは愚かだ。こんなの、罪を自白しているようなものではないか。
「悪いことをしたらどうするか」
私は人知れず、呟いていた。
「堂々とする」
だからといって、それは堂々としすぎだろ、と嘆きたくなってしまう。
目の前の燃え上がる寺子屋から、いかにもな怪しい老人が出てきた時、慧音と妹紅は特に反応しなかった。あまりにも自然に出てきたため、元々ここに住んでいたのか、とでも思ったのかもしれない。だが、さすがに見逃すほど馬鹿ではなかった。
「あの、あなた達」
そう呼び止めた慧音の声は、決して鋭くなかった。心配そうですらある。
「どうして、寺子屋にいたんだ」
ゆっくりと振り返った二人の老人は、きょとんとしていた。まさか、自分たちの存在に気がつくだなんて、と驚いているように見える。
「無事なのはよかったが、説明してくれないか。なんで寺子屋にいたのか」
「なんでって」
老人は肩をすくめた。互いに顔を見合わせ、首をかしげている。そんなの、質問する意味がないことは、慧音だって分かっているはずだった。
「なんででしょうね」
小さく老夫がそう呟いた。と、共に彼らは荷物をどさりと置き、大きく跳躍した。え、と漏れた声は一体誰のものだろうか。まさか、あの老人がこんなにも機敏に動くだなんて、思えなかったのだろう。慧音はおろか、妹紅ですらそいつらの姿を見失っている。
私はそいつらの姿を必死に目で追おうとした。が、群衆に紛れたせいか、上手くいかない。あんなに弱々しかった彼らが、まさかこんな素早く動けるだなんて。感心や驚きよりも、落胆が先に出た。なんだよ、全然弱くないじゃないか。
だが、多勢に無勢。群衆の中の誰かが大きな声で、捕まえた! と叫んだ。まるで子供が嬉々として虫を捕らえたような、そんな声だ。
今度は慧音たちではなく、その老人達の周りに人が集まっていく。嫌な感じだ。先ほどまでの感動的な雰囲気はとうに消え去り、また、凶暴で愚劣な空気に戻ってしまっている。「あ、こいつ」その、老人を捕まえた、と叫んだ青年が、また声を上げた。
「こいつ、あの時の」
あの時って、どの時だよ。誰かがそう声を上げた。それに応えるように、青年は目を上げる。
「この前、こいつが売りに来たんだ。人魚を。珍しい妖怪の血じゃないと死者蘇生ができないってことを教えてくれて、それで捕まえていた人魚をわざわざ売りに。けど、高くて買えなかったんだ」
え、と困惑した声を出したのは誰だ。私だ。話が違う。誰に言うでもなく、そう口走っていた。周りの人間が目を向けてくるのもお構いなしに、私は呟くのを止められない。お前らは小魚を売りつけられたんじゃなかったのか。なけなしの金で買ったんじゃなかったのか。
「ええ、確かに私はあなたに人魚を売りましたよ」
あっけらかんと、老父は言った。ふっと眉を下げる。それだけで酷く弱々しい顔になった。儚く、脆い顔だ。
「でも、それは人里のためだったんです。私たちは別に生き返らせたい人などいませんから、譲ろうと思って」
開いた口が塞がらなかった。どういうことだ。いったい、何が起きている。彼らは嘘を吐いていたのか。私を騙していたのか。
「おまえ」老夫婦に近づいた妹紅は遠目でちらりとこちらを見た。そして不快感を滲ませ、唾を飛ばす。「おまえらが、特殊な妖怪を売買していた奴ってことで間違いないんだな」
「は、はい。でも、悪気はなくて」
「どうやって捕まえた」
「え?」
「その人魚をどうやって捕まえた」
「そんなの単純です」恐る恐るといった様子で、老婆は口を開いた。「人里の外に出て、捕まえたんですよ」
「おまえらが?」
「そうです。私たち、こう見えても中々強いんですから」
何の冗談だ、と笑い飛ばすことはできなかった。先ほどの機敏な動きを見ていると、弱小妖怪ぐらいであれば、勝ててしまいそうだ。少なくとも、私には。
ということは、だ。彼らは小魚を買ったのではなく、自分たちで捕まえたということか。なんでも商売になる。そう呟く老婆の姿が頭に浮かぶ。商売にしていたのは、他でもない二人だった。そういうことなのか。
「それで? 寺子屋に火を点けた理由を教えて貰おうか」慧音の声には、先ほどまでの優しさは消え去っていた。「誤魔化すなよ」
「分かってます」
そこで、老夫婦は表情を変えた。観念したのか、ふるふると首を振り、大きく息を吸っている。そうすると、彼らの顔に刻まれた皺がより深くなり、鬱蒼として、おどろおどろしい物になった。
「実は、寝るところがなくて、偶然泊まっていたんです」
「嘘だろ」妹紅がすぐさま否定した。「なら、そのマッチはなんだ」
「寒かったので、火を焚こうと」
「だとしても、そんなにはいらないだろ」
「確かに、そうですね」
何が可笑しいのか、ふふっと笑った老夫婦の顔は、楽しそうだった。私に見せた、あの弱者特有の笑みではない。見たこともないものだった。
「火を点けたのは消すためですよ」老人が顔を上げた。私の方を一瞬見て、にやりと笑った、ように感じた。自分の被害妄想であってくれ、と願うも、明らかに二人はこちらを見ている。
「今回は、ちょっと火が強すぎましたけどね」
「消すためって、何を」
「痕跡ですよ」さも当然かのように老父は言った。「私たちが入ったという痕跡を消すためです。ほら、言うでしょ。立つ鳥跡を濁さずって」
「なんでそんなことをする必要が」
「慧音先生、あなた、もう分かってるんじゃないですか?」今度は老婆が言う。
「貧乏人が他所様の家に忍び込む理由なんて、ひとつしかないでしょう」
「盗みか」
「そうです」
にわかに、群衆がざわめいた。盗み? と繰り返し声が聞こえる。その中の一人が私だった。何を盗んだんだ。若さか?
「農家をやってたんですが、最近の不作で駄目になってしまったんです。私たちには子供がいたんですが、もういなくなってしまったので」
きっと、大志という少年のことだろう。彼らの子供が病死したという話は、やはり本当だったのだろうか。それすら嘘だったのだろうか。それとも、彼らがいま口にしていることも嘘なのではないか。疑心暗鬼に陥り、頭がこんがらがってくる。私なんかよりも、よっぽど天邪鬼に向いていると言えた。
「だから、二人で盗みをしていたんですよ。まあ、仕事みたいなものですね」
仕事って、それかよ、と思わず声を上げてしまう。盗みが仕事かよ。貧乏そうにもかかわらず、やけに高そうな薬を持っていた理由も、やっと分かった。あれは盗品だったのだ。だが、なぜそれを私にくれたのかは謎だ。売ればかなりの金になっただろう。それこそ、小魚と同じくらいに。
慧音も妹紅も、どうすればいいか困惑しているようだった。まさか、こんな大勢の前で寺子屋が盗人に入られるだなんて思わなかったのだろう。最悪なタイミングだ。寺子屋が燃えているのと、慧音が糾弾されていることに、何の因果関係もなかったのだ。たまたま、その時に二人が泥棒に入った。そういうことなのだろう。
この二人はどうなるだろうか。確かに今まで通り人里で暮らすことは難しくなるだろうが、そこまで悪いようにもされないはずだ。困窮しているのはどの人間も同じで、さすがに盗みだけでどうこうされることはない。その時はそう思っていた。楽観視していたと言ってもいい。
だが、老父が「あの噂がこんなに広まって、困ってたんです」と言った瞬間、人里の雰囲気が変わった。憤りと共に、どこか同情的な雰囲気も広がっていたが、それが一気に消え去った。むしろ、ハイエナの中にか弱き羊をぽつりと放り込んだような、殺伐とした空気に変わる。
「最初はね、そこまで考えていなかったんですよ。ただ、最近人里で火事が頻出してる、ってことを知り合いから聞いて、ちょっとまずいなって思ったんです。妻とやっている仕事がばれるかもしれないなって」
彼の声は決して大きくはなかった。それどころか、小さく、か細い。けれど、その独白は人里の隅々までに響き渡っているように感じた。それほどまでに、群衆は静まりかえっている。嵐の前の静けさだ。
「私はね、手品が好きなんですよ」そんな群衆に向かい、老父は子供のような笑顔を見せた。「違うところに、どこかに注目を集めて、皆がそこに見ている時に、何かをする。それと同じことを考えたんです」
「どういうことだよ」慧音は困り切っていた。彼女自身も、異様な人里の雰囲気に気圧され、飲まれつつあるのか、自然と声に語気が含まれている。「何が言いたい」
「つまりは、インパクトの大きなことが起きれば、そっちにみんなが注目して、それ以外のことを見落としがちになるってことですよ」
「だから、それはどういう」
「私たちが起こした火事の噂も、もっと重大なことが起きれば、見落としてくれるかもしれない。そう思ったんです。だから、それとなくみんなに吹聴したのですよ、死者を生き返らせる方法があるって。まあ、ここまで尾ひれがつくとは思いませんでしたが」
はじめはただ写真にお祈りするってだけでしたもんね、と老婆が優しく老父に言った。その姿はどこからどうみても普通の老夫婦で、和やかだ。だが、彼らを取り巻く状況はすでに最悪なものになってしまった。なぜそれを口にしてしまったのか。きっと、彼らは分かっていないのだ。自分自身の置かれた立場に。口にしていることの重要性に。ただ、雑談をしている程度の認識しかないのだ。
さらに息を吸う老父の姿を見て、黙れ、と思わず叫んでしまう。それ以上言わなくていい。言ってはいけない。もう、取り戻しのつかないことになる。
「だから、私たちが出てきたのも、そのせいなんですよ。私たちの流した噂のせいで慧音先生にまで迷惑を掛けてはいけないと思ってね」
なぜか得意げに鼻を擦った彼は、ぼそぼそと呟いた。
「私は、自分たちの尻拭いは自分でしたいタチですから」
なら、尻拭いをして貰おうか。騒ぐ群衆が大きな口となり、そう叫んだような気がした。
私はふと、八雲紫との会話を思い出していた。『人間だって理性は、良心はある。どんなに相手が弱くとも、理由がなければ、一方的にいたぶったりはできないわ』彼女はそう言った。たしかにそれは間違っていないのだろう。
だが、逆にもし理由があるならば、人間はたとえ同族相手にも、どこまでも非情になれる。それこそ、一方的にいたぶることはできる。不満のはけ口の対象にすることができる。そのことを、嫌というほど痛感することになった。
「あの噂、嘘だったのか」
夫婦に一番近い、青年が悲痛な声を上げた。
「嘘だよな。嘘って言ってくれよ」
「ですから、言ってるじゃないですか。あれは嘘だって」
老父は本当に辛そうに顔を伏せた。
「私たちも、こんなに噂が広まったからには、もしかしたら本当になるんじゃないか。私たちが適当に考えた死者蘇生が、案外当たっていたりしたんじゃないか、と思ったんですが、やっぱ噂は噂ですよ。こんなんで、死人が生き返るはずがないんです」
気づけば、人の流れは徐々に夫婦へと動いていた。餌に群がる蟻のように、ゆっくりと、だが着実に近づいていく。その輪から逃れようと必死に後ろへ進むも、私の力ではどうすることもできない。無数の人間にもみくちゃにされながら、流れに押されていく。包帯がほどけないか、正体がばれないかと不安になるが、誰も私のことなんて気にしていなかった。彼らの目には老夫婦しか映っていない。
「つまりは、あなた達は俺たちを騙したんですよね」青年が叫ぶ。慧音がたしなめるように、そいつの名前を口にしたが、聞こえていないようだった。
「俺たちが、喜知田さんを生き返らせるようとしているのを知って、こんな酷いことをしたんですか」
「いえ、知りませんでしたけど」
「挙げ句の果てに、自分たちの作り出した噂を使って、商売をしようとするなんて、人魚を売りつけようとするなんて、悪質すぎます」
「ぐうの音も出ません」
小魚の、酷く痛ましい姿がありありと脳裏に浮かぶ。彼女を痛めつけたのも、目の前にいる夫婦ふたりなのだろうか。許せない、とは思えなかった。もちろん、小魚を痛めつけたからといって、私が怒る理由もなければ、義理もない。あんな弱小妖怪がどうなろうと、知ったことではない。が、腹が立たなかったのは、それだけが理由ではなかった。
彼らは悪人か。そう訊ねられたら、どう答えるだろうか。彼らは嘘を吐く。それも、ごく自然に何でもないように、すらすらと。きっと、それが日常と化しているのだろう。嘘つきは泥棒の始まり。泥棒を始めてから嘘つきになったのか、嘘を吐いたから泥棒になったのかは判然としないが、彼らにとって、盗むことも、嘘を吐くことも日常と化していた。なぜか。そうしなければ生きていけないからだ。
彼らは悪人か。死者蘇生の噂は、確かに悪質だ。人間は信じたいことを信じる。喜知田がいなくなった時期にこんなことを言われたら、誰もが縋り付きたくなるだろう。それを分かってて、あえてこの噂を吹聴したのだとしたら、悪質極まりない。とばっちりで痛めつけられ、売られそうになった小魚など、いい迷惑だろう
だが、それでも。
「みんな落ち着け!」
にわかに騒がしくなってくる人々に、慧音が叫んだ。先ほどまで誰もが慧音の言葉に耳を貸していたというのに、今では全員がそっぽを向いている。貸していた耳はもう返して貰います、と言わんばかりだ。それほどまでに、頭に血が上っている。
「面白かったか?」
その群衆の中から、一際大きな声が響いた。誰が発したか、どこから聞こえてくるか分からないほど、辺りは錯綜している。
「俺たちが、そんな噂で惑うザマを見るのが、そんなに面白かったか!」
いえ、と二人は必死に首を振っていた。先ほどまでのどこかのんびりとした雰囲気はかき消え、焦燥しているように見えた。二人で抱き合いながら、唇をわなわなと震わせている。
「しかも、盗みまでするなんて許せん。火を点けるだなんて言語道断だ。燃え広がったらどうする」
「ちゃんと、燃え広がらないように私たちが触れた物をまとめて、そこに水をかけてから火を」
「そんなの言い訳じゃねえか!」
段々と人間達の声が大きくなっていく。そのたびに周りの人間も動き、私はその波に揺すられる。抜けようともがくも、どうすることもできなかった。空を飛べば脱出できるだろうが、それは最後の手段だ。妖怪だとバレたくはない。空を飛べる人間と勘違いしてくれればいいが、それはそれで面倒だった。
「しかも、弱小妖怪を捕まえて、売ったんだろ?」
「え、ええ」
「なんてひどい!」どこからか女性の絶叫が聞こえた。「妖怪でも、いい妖怪もいるんですよ! なのに、弱いからっていじめたらかわいそうです」
はあ? とどこかで誰かが呆れの息を吐いているのが聞こえた。誰か。私だ。意図せず怒気が籠もった声が出てしまい、困惑する。が、それでも怒りは隠せない。逆に、人里の中で弱小妖怪を虐めたことのない奴なんて、誰一人いないはずだ。他でもない私が言うのだから間違いない。
どこかの誰かが、小さな石を老人に向かって投げた。勢いもなく、怪我もしない位の物だったが、心を傷つけるのには十分だったのだろう。二人は初めて涙を見せた。私に見せた涙とは違う。本心からの涙だ。
その石が切っ掛けになったのか、群衆が牙を剥いた。待ってました、と言わんばかりに、手近にあった物を投げつけはじめる。石や枝、簪といった洒落にならないものまであった。
「おい止めろ。止めてくれ!」
慧音が叫んだ。妹紅もその飛んでくる物が二人にぶつからないように、自らの体を盾にしている。
「落ち着いてくれ。確かに彼らは悪いことをしたが、だからといって感情的になるな。きちんと、私たちが罰を下すから、落ち着いてくれ」
「でも先生」一番手前にいる青年が、悲痛な声を上げた。「さっき、言ってたじゃないですか。自分たちの利益のために、他者を傷つけては駄目だって。この老夫婦はその代表例じゃないですか。なんでかばうんですか」
「お前らもそうだよ。いくら彼らが悪いことをしたからと言って、傷つけていいわけじゃない」
慧音がそう口にした瞬間、人里の雰囲気が更に変わった。今まで慧音に向けられていた、冗談みたいに同情的な、狂信的な信頼が消え去っていったかのように感じた。人間どもは、すでに決めたのだろう。彼らは悪で、退治しなければならない存在だと、彼らさえいなくなれば、少しは人里もよくなると、そう信じたのだ。それを慧音が邪魔するだなんて、人里の守護者として矛盾している。そう感じたに違いない。野菜の時と同じだ。
「慧音、まずいんじゃないか?」妹紅が小さな声で呟いた。「これはまずい」
私の周りの人間たちの熱がさらに上がった。ああ、確かにまずい。もはや収拾がつかない。人間どもは冷静さを完全に失っていた。このままでは、人里の雰囲気は最悪になるだけだ。もはや慧音では止められない。そして、誰にも止められるものではないとそう思っていた。
だが、その流れは止まった。妹紅の脇を通り過ぎ、小さな石が老夫婦に向かっていく。鋭く、早い。しまった、と焦る妹紅の動きがゆっくりに見えた。
しかし、その石が夫婦に当たることはなかった。その直前に飛び出してきたそいつが、身をていし、かばったのだ。痛そうにうずくまるが、幸運なことに怪我はなさそうだった。思わず、舌打ちが出る。そんなことをするような馬鹿なやつは、私の知る限りひとりしかいない。けれど、信じたくなかった。なんで、と声が漏れる。なんでここにいる。
「けんかはだめだよ!」
小さな体をのけぞらせ、針妙丸は叫ぶ。留守番ぐらいこなせよ、とそう呟くことしかできない。
いったいどこに隠れていたのか。突然の針妙丸の登場に、誰もが面食らっていた。慧音も妹紅も老夫婦も、あれほど憤っていた群衆ですら地団駄を踏む彼女の様子を見つめている。最初は、毒気が抜かれたのかと思った。いくら冷静さを失っているとはいえ、人間たちも、こんな針妙丸の呑気な姿を見ると、怒る気力を失ったのではないか。間抜けな小人に免じて、許してやるかと、そういう気になったのだと思った。
だが、もしその程度で落ち着くのであれば、見るからにか弱そうな老人二人をそもそもいたぶったりはしない。そう気づくまでに、時間はかからなかった。
「お嬢ちゃん、妖怪か?」
そう訊ねたのは誰だろうか。姿は見えないが、しわがれた声だった。最初に訊くのがそれかよ、と呆れる。先ほど、妖怪でもいい妖怪はいると言ったばかりじゃないか。なのに、なぜそれを訊くのか。
慌てて慧音が針妙丸のもとに駆け寄るが、それよりはやく針妙丸が口を開いた。その姿はどこか自慢げですらある。
「そうだよ。私は小人なんだ」
「小人?」
「そう! かの有名な小人だよ?」
一部の人間は針妙丸に見覚えがあったのか、驚き、不安げな表情をしていた。が、大半が鋭い目をしている。なんだこのガキ、邪魔しやがって、と非難する声すら聞こえた。
「だめだよ喧嘩は。みんな仲良くしないと」
「喧嘩じゃないんだよ」やっとのこと針妙丸を捕まえた慧音が、悲しそうに言った。
「先生が何とかするから、もう帰るんだ」
「えーでも」いつになく、針妙丸は強気だ。「いじめはだめだとおもう」
「いじめ?」
「そうだよ。みんなで弱い人をいじめるのはよくないでしょ。正邪もよく言ってた」
「いま、正邪と言いましたか?」
針妙丸の呟きに反応したのは老父だった。その声は酷くかすれており、儚い。
「あの天邪鬼のことですよね?」
きっと、その老父の言葉に深い意味はなかったはずだ。単純に、聞き慣れない単語を鸚鵡返しにしてしまっただけだろう。現に、老父はすぐにはっとし、開いた口を慌てて閉じ、カタカタと震えはじめる。私なんかが口を開いてごめんなさい、そんな声が聞こえた。
そう。老父の小さな声でも聞こえるくらい、人里は静まりかえっていた。だが、決して怒りが冷めたわけではない。むしろ、逆だ。ぽつぽつと、天邪鬼という言葉が聞こえてくる。怒気と嘲笑が混ざった声だ。
妹紅がもう一度小さく、まずい、と言った。その通りだ。これ以上なくまずい。だが、針妙丸の口は止まらない。慧音が口を押さえようとしているが、間に合わなかった。
「たぶん、そろそろ生き返るんじゃないかな」
え、と困惑する声が聞こえた。きっと、人里の全員が同じような顔をしているはずだ。いま、この小人は何を言ったんだ、と。それは慧音も妹紅も、私ですら例外じゃなかった。
「えっとね、正邪の写真に、私の血を付けたんだ。ほら、珍しい妖怪の血ならいいんでしょ? 小人って珍しいし、たぶんいけるはずだよ」
人里の空気が凍った。それは何も、鬼人正邪が本当に生き返ることを危惧したわけではないだろう。ただ、鬼人正邪を生き返らせようとした、という事実に衝撃を受けているのだ。たった、一人しか生き返らせることができない。こう噂に付け加えたのは誰かは知らないが、それを少なくとも一瞬でも信じた彼らにとっては、衝撃的だったのだろう。
そして、凍り付いたのは私も一緒だった。血まみれで神社で倒れていた彼女の姿が頭に浮かぶ。なぜ彼女が怪我明けにもかかわらず、妙に落ち着いていたのか。博麗神社という場所で、短期間で怪我をすることになったのか。やっと分かった。分かってしまった。それは、私を生き返らせるためだったのだ。
「ごめんなお嬢ちゃん」おずおずと老父が口を開いた。「それ、嘘なんだ」
「うそ?」
「私たちが噂を流したんだ。皆を騙していたんだよ」
声もなく、石がもう一度投げつけられる。が、今度は老夫婦を狙ったものでなかった。一切のずれなく、針妙丸へと向かっていく。慌てて妹紅が体を投げ出し、それを頭で受けた。どこかが切れたのか、血が流れる。
「おい!」慧音が、今まで見たこともないような形相で叫んだ。
「何してる! 止めろ!」
だが、投石は止まらない。それよりも、かえって勢いが増していった。何だこれ。なんでこんなことになってやがる。
慧音は涙ながらに大声で止めてくれと懇願し、妹紅は血まみれで石を体に受ける。めそめそと泣く老夫婦は後悔のためか唇をかみ切り、針妙丸は初めて悪意を向けられたからか、唖然としていた。いったい、これは何だ。
幸せになる権利。八雲紫が口にした言葉を思い出す。これが幸せなのか? こんなのが私の望んだ幸せなのか? 『どんなに良い奴だって、どこかで悪い感情を心の中で弄んでるんだよ。逆に、どんな悪人だって、良心を少しは持っている』どこからか、懐かしい声が聞こえた。つい、蕎麦と同じでか、と声を漏らしてしまう。まったく、馬鹿馬鹿しい。
あの老夫婦は悪人か。いや、違う。元凶ではあるが、悪人ではない。うずくまっている彼らを見る。懐から取り出した、何か小さな紙切れをみて、必死に謝っていた。写真だろうか。その口は確かに、ごめんよ大志、と動いていた。やはり彼らは人里の連中にリンチされるほどの悪人では絶対にないだろう。なら、その老人二人をいたぶっている人里の連中は悪人か。これも違う。こいつらはただ、目の前の不安から逃げたくて、やり場のない怒りをぶつけずにはいられないだけなのだ。それを非難できる奴もまた、いない。なら、悪いのは誰か。そんな奴はいないのだろう。誰もが苦しみ、もがき、あがいている。ただそれだけなのだ。
『正義のヒーロー、似合ってるじゃない?』そう笑う八雲紫の声が聞こえる。ふざけるな。私が正義のヒーローだなんて、笑えるだけだ。笑ったついでに顔を上げ、針妙丸を見た。状況が理解できていないのか、呆然としているものの、自分の登場が事態を悪化させたことだけは分かっているらしく、顔を青くしていた。そんな彼女のすぐ近くまで、石が迫っている。悪意で色づけされた石だ。
私にとっての幸せとは何か。
どうすればいい。全てを助けることは無理だなんて、そんなことは分かっていた。私は正義のヒーローではない。当然だ。そもそも誰かを救いたくもない。なら、私は何だ。私は蕎麦屋だ。指名手配されることもなく、食料に困ることもなく、平和に暮らす蕎麦屋。ああ、なんて幸せなのだろうか。豊かで、牧歌的で、呑気で。そして反吐が出る。
私にとっての幸せとは何か。
胸に手を当て、大きく息を吸う。混乱し、悪意が氾濫した人里を見渡す。涙目の針妙丸と目が合ったような気がした。ざまあない。平和ぼけしたことを言ってるからこんな目に遭うのだ。針妙丸の夢を思い出す。わたしはきっと、正邪がみんなを助けてくれると思うんだ。阿呆らしい。誰がそんなことするか。私にはそんな義理もなければ意味もない。
私にとっての幸せとは何か。
だが、だからこそ気に食わない。私はこいつらを悪人だと、認めるわけにはいかない。悪人でないにもかかわらず、さも凶悪犯のように扱われているという事実を認めるわけにはいかない。おこがましいにもほどがある。下克上もしていないくせに、と唾を吐く。
どうせバレるなら、格好良くバレなさい。鶏ガラのせせら笑いが頭に浮かんだ。
私にとっての幸せとは何か。
荒れ狂う人々から何とか距離を取り、空に浮かぶ。周囲にいた人間が驚き、戸惑いの声を上げた。手で包帯をほどき、台風の目のように人が退いている針妙丸たちの元へと向かう。自然と笑みが浮かんだ。そうだ。これでいい。
私はミイラ女でもなければ、もちろん蕎麦屋でもない。天邪鬼だ。
私にとっての幸せとは何か
そんなの、嫌われることに決まっていた。
「よう針妙丸」
ぽかんとしている針妙丸に向かい、気取った様子で声をかける。まだ現実をうまく認識できていないのか、彼女はぽつりと正邪、と呟くだけだった。そんな彼女の横に立ち、頭を撫でる。大きく息を吸い、言った。
「殺しに来たぞ」
私の登場に、誰もがぽっかりと口を開いていた。夢でも見ているのか、と首を捻っている。そのすきに、私は考えていた台詞を、意気揚々と言った。
「残念だったな。死者蘇生、私が使わせて貰ったぞ。小人を脅していた甲斐があった」
脅し? と誰かが反復する。死んでいるのに、どうして脅せるのか。そう思っているのだろうか。もちろん、その問いに私は答えることができない。だが、そもそも答える必要はない。小人がいやいや天邪鬼を生き返らせたと思わせられれば、それでいいのだ。人は信じたいものを信じる。見るからに幼い針妙丸を悪者にするよりは、私の方が、極悪非道な天邪鬼を悪者にする方がはるかにましだろう。それに、私は正真正銘の悪人だ。こいつらとは違う。なんていったて、下克上なんてやらかしたのだから。
正邪、と嬉しそうな顔をする針妙丸の正面に立ち、群衆から隠す。慧音と妹紅もようやく頭が追いついたのか、人間を落ち着かせようと必死に声をかけている。が、そんなことをしても意味はない。
「正邪、なんで出てきたんだ」そんな中、疲れ切った顔の慧音が小さな声で言ってきた。
「いま出てきたら、お前また!」
「慧音だって言ってたじゃないか」
「言ってたって」
「物語は単純な方がいいだろ? 悪人がいて、退治されて、終わりだって」
「お前」
「誰が悪人か分からないから悪意が変なところに向かうんだよ。針妙丸とかお前にな」
「だからといって!」
「それに私は天邪鬼だぞ。嫌われて喜ぶ妖怪なんだ。そんなことも忘れちまったのかよ」
私はもう一度、群衆を見渡す。どこか見慣れた光景だった。慧音や針妙丸、二人の老人に向けられていた目が、全て私を見ている。手品と同じだ。私が出てきたら、皆はそれに注目して、他はどうでも良くなる。確かにその通りだった。
「死者蘇生、嘘なんじゃなかったのか」
一番手前にいた青年が、そんなことを呟いた。老人たちの方を弱々しく見る。
「貴方たちが作り出した嘘だって」
「嘘じゃねえよ」
嘘だ。だが、私は自信満々にそう言った。嘘を吐くのは私の専売特許だ。人間になんか渡してやるものか。
「その嘘ってのが嘘なんだよ。うそうそだ」
そう笑い、わざとらしく体をくるりと回す。内心、いつ石が飛んでくるかと冷や冷やしていたが、首を振りその恐怖をかき消す。
「いいかお前ら。覚悟しとけよ、今度こそ下克上してやるからな。どうだ、希望しかないだろ!」
そう笑い、思い切り地面を蹴る。そして、空を飛んだ。また、喜知田の護衛のような超人的な人間がすぐさま私を退治してくるのでは、と思ったが、そんなことはない。ゆっくりと、あえて姿をさらすように人里の北へ移動する。「追え!」という悲鳴と共に、大きな足音が聞こえてきた。恐怖と絶望を隠すように、もう一度大きく笑う。やっぱり、天邪鬼はこう出なくては。
「憎まれっ子世にはばかるっていうしな」
私の声は、すぐに人間たちの怒声によって上書きされてしまった。