人は、窮地に陥った時にこそ真価を発揮する。生物としての生存本能故か。残った命の灯火を燃やし尽くし、それまででは考えられないような力を出して、脅威に抗う。追い詰められた鼠が猫を噛むように、瀕死の剣士が格上の鬼と相打った事例も数多くある。痣の効果も同じ。自身の生命を前借りし、急激に燃焼させる。痣者になると体温が上昇するのは、まさしく命を燃やしていることの証明に他ならない。
ならば―――鬼はどうだ。鬼に窮地は無い。上弦ともなればその身はほとんど不死と言って差し支えない。人ならば致命の傷であっても瞬時に修復し、命の危険を感じることなどない。油断はしていなかった。だが、その思い込みこそがこの油断に繋がった。―――独孤。この鬼の真価は、人と同じく窮地に至った時にこそ発揮される。鬼であり、人でもある半端者。油断なく狩るならば、全力の技で即座に四肢を断ち、再生の限界まで斬り刻むべきだった。決して追い詰めず、出会った瞬間に行動不能にすべきだったのだ。
「――――――ふむ。もし次に裏切りの鬼が出たならば、そのようにするとしよう」
刀を下ろす。土埃が晴れた先には、左半身のほとんどを失った独孤が日輪刀を支えにしてかろうじて立っている。血を使いすぎたのだろう、修復能力は機能していない。荒く肩で息をし、仇のようにこちらを睨みつける様は、まるで人間のようだった。
「…驚嘆した。貴様の技は、確かに進化したものだった…」
独孤の放った技は、月の呼吸の一部を打ち消して私にまで届いた。相殺ではなく消滅。―――独孤の新たな技とは、血鬼術を消す血鬼術だった。自身の存在すら否定する血鬼術。呼吸と組み合わせて使えば上弦すら苦戦するだろう。
「…しかし、それもここまで。…所詮は、私の肩を浅く斬るだけの未熟な技に過ぎぬ…」
―――今はまだ。更なる研鑽を積めば、この技はあの方にまで届きかねない。此度の戦いにおいても、もし初めからこの技を自在に使われていたら、ともすれば苦戦していたかもしれない。
これ以上独孤を窮地に追い込んではならない。油断無く安全に仕留めるため、接近せず再生が追いつかないほどに月の呼吸で全身を斬り刻む。そして上弦の陸と戦う剣士らを殺し、耳飾りの小僧を殺す。独孤は放っておけば日光で焼け死ぬだろう。それで盤石。日の呼吸を継ぐ剣士は消え去り、あの方を脅かすものは今後現れることがなくなる。
「月の呼吸 陸ノ型―――」
刀を振り上げ、技を出すべく血を操る。そうして気付く。―――技が出ない。それだけではない。独孤につけられた肩の斬り傷が未だ修復されていない。傷口から血が滴る様は、鬼となって数百年一度も目にしたことのなかった光景だ。技が出ない異常。傷が治らない異常。それらの原因は、間違いなく―――。
―――くつくつと笑い声。死に体となり、立っていることがやっとの身体にも関わらず、独孤は喉を鳴らして笑っている。その目には、先程までには無かった微かな光があった。
「―――日の呼吸による斬撃は、鬼の再生を否定する日輪の斬撃。そこに、血鬼術を否定する血鬼術を組み合わせた」
「…なにを」
「作ったのは、鬼そのものを否定する技。呼吸でもなく血鬼術でもない、鬼であり人である俺にしかできない、唯一無二の技術だ」
「――――――」
ぞわりと、足元から冷たい何かが身体を伝い這い上がってくる。それは縁壱との戦いでも感じなかった感情。自身の死を覚悟した瞬間にも無かった、得体の知れないものに対する畏怖。
たった今わかった。独孤はすべての鬼の天敵だ。縁壱の意志を継ぎ、新たな到達点へと導く存在。人の上位に立つのが鬼なら、独孤は鬼を滅ぼすことにのみに特化した異端。存在していればいつか、あの方を真正面から倒す力をも手に入れる。―――それだけは、なんとしてでも回避しなければならない。
呼吸で身体能力を強化し、地を蹴る。独孤はまだ動けない。殺すなら今だ。狙うはやつの持つ日輪刀。あれを奪い取り頸を落とせば、日の出を待たずして独孤を殺せる。絶好の機会。今、ここで、やつだけは殺さなくては。
「―――花の呼吸 陸ノ型 渦桃」
「―――っ!」
その前進を何者かに阻まれた。急停止し、横から飛び込んできた技を回避。大きく後方に跳び、その何者かを見定める。
「―――させないわ」
年若い女の剣士だった。首元には花の痣。随分と久しぶりに見た、痣者の剣士。
「…上弦の陸を、狩ったか」
「ええ。あとはあなた一人よ、上弦の壱」
「私と戦うつもりか…その身体で」
「彼を守るためなら、戦うわ」
「…ほう」
目には強い光。大した意志の強さだと思う。痣によって既に肉体は限界、呼吸を続けることすら死に繋がりかねない状況だというのに、それでも諦めず前を向く胆力は称賛に値する。
だが、それも無駄。たとえ鬼の力が使えなくても、死にかけの者二人程度殺すのは容易い。
「ならば…死ね…」
「―――お前がな」
月光が陰る。視認するより先に、技を繰り出す。
「音の呼吸 肆ノ型 響斬無間」
「弐ノ型 珠華ノ弄月」
振り下ろす動作を中断。突如として迫りくる二人目の技に対応すべく技を切り替え、防ぎ切る。
「はっ、随分焦ってんなぁ上弦の壱ともあろうもんがよ!」
現れた二人目も恐らく柱。片腕を失い、血鬼術による毒のせいでこちらもほぼ死にかけ。大量の失血と弱々しいまでの脈動は、何故生きているのか不思議な程だった。
ここにきて、状況が一変した。一人ならば一刀で殺せる。しかし、血鬼術を使わず二人を一度に殺すのは不可能。一人を狙い技を使えば、自由に動けるもう一人に殺される。鬼の不死性を失っている今、本来ならば瞬きの間に修復する傷すらも致命傷足りうる。安易な判断では動けなかった。さらに。
「独孤さん―――!」
こちらへ近づきつつある耳飾りの剣士と女剣士。あれらも戦闘に加われば、私の死はもはや逃れられぬものとなる。死が近くにある恐怖。焦燥。忘れかけていたそれらは、縁壱との戦い以来に感じる屈辱だった。
『殺せ』
頭の中に声が響く。―――あの方の声だ。
『独孤を殺せ。刺し違えてでもだ』
あの方とて理解している。ここで独孤を殺せなければ、独孤が生きている限り永遠に安寧が訪れないことを。朝昼は日の光に怯え、夜は独孤に怯える。永久の束縛。永久の不自由。あの方が何よりも嫌うもの。
ここで独孤を殺せる確率は低い。しかし、言い換えればここで独孤を殺せる可能性がある。だから命じる。ここで殺せと。その可能性にかけるならば、たかだか鬼一人の命など安いものだと。
『独孤を殺せ、黒死牟』
やるべきことは決まった。斬る。斬るのだ。音の呼吸の使い手を斬り、花の呼吸の女を斬って、独孤の頸を落とす。あの方が命じた以上の結果を残してこそ上弦の鬼足りうる。刺し違えるなど馬鹿らしい。私はここで死なない。死ぬわけにはいかない。だから。
「――――――」
その時、私は独孤の目を直視した。―――してしまった。あの時の縁壱と同じ目だ。私を殺すべく構え、頸を刎ねかけたあの時と。自身の死を直感する。ここで先に進めば私は死ぬ。もう独孤に刀を振るう力など残っていないと理解していても、老いた身で全盛と変わらぬ技を見せた縁壱を思い出せば、安心などできるはずもなかった。
『どうした黒死牟。早く、独孤を』
死。命。侍。生。縁壱。私は―――私は。
◆
「―――逃げた、か」
黒死牟は消えた。俺を殺す最大の機会と己の命を天秤にかけ、命をとった。
最後は賭けだった。もし黒死牟が臆せずそのまま斬りかかってくるのなら、こちらとてただでは済まなかった。鬼の特性を失っても磨き続けた技術は無くならない。それも、数百年積み重ねた技術を持った者が、決死の覚悟で斬りかかってくるのなら、不死や再生などの能力を補ってあまりある。
だが、最後の瞬間にやつと目があった時、瞳の中に微かな怯えがあった。多分、やつは長く生き過ぎた。高く積み上げれば積み上げるほど喪失の恐怖は肥大する。それは上弦の壱とて同じこと。だから賭けに出た。その怯えを強く揺らした。結果、賭けに勝ってなんとか一命を取りとめたのだ。だが。
「――――――」
身体が乾いていく。血を流し過ぎ、使い過ぎた。再生どころか、こうして身体を今の形に保っているのでやっと。気を抜けば、そのまま砂のように朽ち果てていきかねない。
「――――――!!!」
近くから音がする。多分誰かが騒いでいる声だ。それくらいならわかるが、それ以上はわからない。取り込んだ情報を識別するだけの余裕さえもうない。だが、騒いでいるならきっと無事だ。もし誰か死んでいるのなら、静かになるだろうから。
「―――めよ独孤くん。あなたはまだ、死んじゃいけないわ」
収束し始めた世界が、またたく間に引き上げられていく。まず声が。そして色が。最後に感覚が戻って、全身を巡る血を感じる。これは。
「稀血…?」
肩に刺さる注射器を見る。珠世さんやしのぶちゃんが使っているものだ。
「ええ。いざという時の為に、用意しておいたの」
「出処は―――」
言いかけて、世界を見失った。ぐらわんぐわんと景色が撓む。脳味噌を直接揺さぶられているような強い酩酊感。ああ、なるほど、出処がわかった。確かにこれなら傷もすぐに治る。代わりにしばらく動けなくなるが。
「おい、じき派手に日が昇るぞ。酔っ払うのは勝手だが、屋内に退避してからにしろよ」
「…無茶言わんでくれ。これ、結構キツいぞ」
「そうか。生憎と俺は酔わない体質でな。全く以って気持ちがわからん、だからキリキリ歩け」
言いつつ天元は肩を貸してくれる。わざわざ見るまでもなく、天元とて瀕死に近い重傷だ。これ以上下手に動けば、天元のことだから死ぬことこそ無いだろうが、厄介な障害が残りかねない。
「…大丈夫だ。日が昇っても、多分、問題無い」
「はぁ?」
「―――陽光は、克服した」
形勢は変わった。鬼舞辻無惨。これからは鬼狩りがお前を探すんじゃない。お前が、全霊で探すのだ。己を脅かす天敵であり、己を昇華させる果実でもある、たった一人の鬼を。