この作品もなんやかんやで五十話まで来れました。ありがとうございます
明神阿良也は、信じられない気持ちで万宵結愛を見詰めていた。
人間は、自分よりも動揺している人間を見ると、不思議と落ち着くものらしい。
「──結愛」
一言。阿良也は、名前を呼んだ。
「なに」
「ちょっと、落ち着いた方がいい」
「わたしは、落ち着いてるけど」
明らかに震えている声でそう言われて、堪らず苦笑しそうになる。
最初に会った時、阿良也は結愛のことを、得体の知れない女だと思った。
何を考えているかわからず、相手の欲しがる言葉をぽんと言うくせに、どこか飄々としていて、演じる者としては光るものこそあれど、まだまだ未熟で。
だが、その未熟さを補おうとする強い飢えがあった。
万宵結愛のそういう飢えた獣のような部分を、阿良也はなによりも評価していた。
けれどきっと、結愛の人間としての特色は、別にある。
警戒心の強い七生とすぐに仲良くなり、コメディリリーフの亀とは軽口を叩き合って場を和ませ、親友である夜凪景のことをなによりも大切にして、そしてこの数ヶ月、あのどうしようもない頑固親父である巌裕次郎と生活を共にし続けた。
だから、阿良也は言葉にして、その事実を指摘する。
「じゃあ、なんでそんなに泣いてんの?」
万宵結愛は、やさしいのだ。
「え」
そこでようやく、自分のことに気がついたように。
結愛は呆然と、頬から溢れる水滴を、自分の手のひらで拭った。
「これは、ちが……」
「らしくないよ。普段はあれだけ、人の心を覗き込んでるみたいなことを言うくせに。いや、逆か……」
阿良也はハンカチを取り出して、差し出す。
「人の心が見えすぎるから。自分の心に、気がつかないふりをしてきたのか」
本当なら、阿良也は結愛に言いたいことが、たくさんある。
病気があるなら、素直にそう言ってほしかった。秘密にせずに、団員全員に伝えてほしかった。
しかし、それは巌本人に言わなければならない文句であって、結愛に向けるのは筋違いだ。
なによりも、自分たちの親父のことを、こんなに思って泣いてくれる女の子を、責めることはできない。
「ごめん。でも、ありがとう。巌さんのわがままに、付き合ってくれて」
それは、阿良也から結愛への、感謝の言葉であると同時に。
劇団天球から結愛への、感謝の言葉でもあった。
「……なんで、なんで阿良也さんは、そんなに平然としていられるの!」
「これでも、ショックは受けているつもりだよ」
「みんなは……天球のみんなは、わたしなんかよりも、巌さんとずっとずっと一緒にいて! わたしよりも、たくさんたくさん悲しいはずなのに!」
「やっぱり自分のことが見えてないな」
あきれて、阿良也は言った。
「一緒に過ごした時間の長さで、人を大切に想う心の重さが決まるわけじゃない」
虚を突かれたように、きれいな顔が固まった。
続けて、七生が結愛の手を握る。
「そうだよ。私達も、結愛も。巌さんのことを大切に思っている気持ちは、一緒だよ。比べることなんてできないよ」
天球の全員が、涙を流す結愛のことを、やさしい目で見る。
天球の全員が、巌を思って涙を流す結愛のことを、この劇団の一員として認めていた。
整った顔立ちが、ますますぐしゃぐしゃに歪んで、団員たちを見回す。
「七生さん。じゃあ……すぐに巌さんのところに行こうよ」
「それは」
「だめだ。公演に穴は空けられない」
「亀さん!」
「わかるよ。お前の気持ちは」
先手を打って亀太郎にそう言われて、結愛が押し黙る。
「あの人の最期が。俺らの親父の最期が、病院のベッドの上で一人ぼっちだなんて……そんなことがあっていいのかって。この場にいる全員が、そう思ってるよ」
「それでも」
言葉を引き継いで、阿良也は言う。
「親の死に目に会えないのが役者だ。俺たちはみんな、そういう覚悟をして、舞台に立っている」
阿良也は、正面から結愛を見据える。
艶やかな濃い茶髪が、伏せた顔にかかって表情を覆い隠す。
ぽたぽたと床に落ちる雫が、表情が見えなくても結愛の感情を痛いほどに物語っていた。
「結愛ちゃん」
ぱちん、と。
それまでずっと口を開いてこなかった景が、バレッタで長い黒髪をまとめた。
その印象ががらりと変わる。
普段は背中で長髪を靡かせているからこそ、短髪の少年のように変化した外見は、景がすでに役に入っていることを物語っていて。
私は芝居をやる、と。
「……景ちゃん」
言外にそう告げられて、結愛は信じられないものを見るような面持ちで、親友を見た。
意外だな、と阿良也は思った。が、すぐに当然だな、と思い直した。
夜凪景は、万宵結愛に支えられている。それは、付き合いの短い天球の団員たちから見ても、紛れもない事実ではあったが。
「景ちゃん。お願い。一緒に、巌さんのところに行こうよ」
「行けないわ」
「なんで」
「これから、本番だもの」
なんてことはない。
覚悟ができていたのは、景の方で。
覚悟ができていないのは、結愛の方だったのだ。
「景ちゃん!」
「結愛ちゃん。巌さんは演出家で、私達は役者よ」
それは、親友としての言葉ではない。
同じ舞台に立つ役者としての、共演者への疑問提起。
「結愛ちゃんは、ちがうの?」
「……」
ぐしゃぐしゃで、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃな表情。
しかし、そのあらゆる感情がないまぜになった表情に、阿良也はようやく、結愛の素顔を見た気がした。
「もういい。わたしだけでも、行くから」
万宵結愛は、控室から逃げ出すように出て行った。
しばらく、沈黙があった。
「……ふーっ」
「大丈夫か、七生?」
「うん、大丈夫。結愛がいなかったら、私ももっと狼狽えてたかもしれないけど」
「そりゃ俺もだ。いや……全員そうか」
劇団天球の役者たちは、芝居の準備を始める。
いつも通りに。まるで、この場に巌がいるかのように。
「夜凪、追いかけなくていいの?」
「うん。大丈夫。阿良也くんこそ……」
「心配はしてないよ。結愛は、巌さんが選んだ役者で……
乱れた集中を、元に戻すために。
阿良也は、再び椅子の上に座り込んだ。
「主演の俺が信じなきゃ、嘘になる」
★★★★
わたしがおかしいの?
違う。おかしいのは、みんなだ。
巌さんよりも、舞台を優先してる。みんなの方がおかしい。
走る。
だめだ、という感情だけが、わたしの心に満ちていた。
ゆあゆあ、と。あの低い声でそう呼ばれる声だけが、フラッシュバックする。
走る。
わかっていた。
みんなは役者で。
巌さんに認められていて。
でも、わたしだけは……巌さんに「結愛」と。
名前で、呼んでもらったことがない。
走る。
本当は、わかっているんだ。
わたしだけが、役者になれていない。
走る。
でも、それなら。
じゃあ、いいじゃないかって。
そう思う。
役者じゃないのなら、すべてを放り出して、わたしだけが、巌さんの側にいたって、いいじゃないか。
走る。
劇場の出口に向かっていたわたしの手を、誰かが唐突に掴んで、引き止めた。
☆☆☆☆
巌裕次郎は、ぼんやりと天井を見上げていた。
声が出ない。喉から何一つ、音を発することができない。
自分の体のことは、自分が一番良くわかっている。
死にかけている、と。そんな色濃い実感があった。
そんな実感を得てもなお、巌は舞台のことを考えていた。
自分の病状は、ニュースになっているだろうか?
観客に、良からぬ感情を抱かせているかもしれない。
初日の公演に、とんでもない荷物を持ち込んでしまった。
演出家失格だ。
でも、あいつらなら、きっと大丈夫だろう。
そんな確信と安心が、巌にはあって。
けれど、一人の少女の顔を思い出して。死にかけの老人は、意識を手離すのを踏み留まった。
まだ死ねない。
まだ伝えられていないことがある。
だから。
──生きてぇ。
死にかけの老人に相応しくない、強い生への執着を巌は抱いていた。
あるいはその執着が最後のチャンスを、呼び込んだのかもしれない。
唐突に、扉が開く音が響いた。
「失礼」
「なんだきみは!? この病室は今、関係者以外の立ち入りは……」
「申し遅れました。私、こういう者です」
声が聞こえた。
主治医と誰かが、言い争う声。
「そちらの寝たきり老人との契約は済んでおります。書類はこちらに。多少の無理は、どうか聞いていただきたい。ご安心ください。金なら積みますので」
ベッドの上の病人を見下ろして、スーツ姿の男は告げる。
「困るんですよ。あなたに死んでもらっては……それは、契約違反です」
見慣れない、白衣を着た外国人たちを引き連れるその姿は、まるで
──頼む。あの子を、俺に預けてほしい。
──こちらこそ、よろしくお願いします。
ああ、たしかに。
この男とは、そういう契約を交わした。
「彼女の面倒を公演終了まで見ると、そう約束したはずでしょう?」
耳が痛い。
癪に障る。
それでも──
「死にかけの老人の運命を、捻じ曲げに来ました。金の力で、ね」
本当に変えることができるかは、本人の気力次第ですが、と。
その口元が、歪に微笑んだ。
★★★★
景ちゃんが、追いかけてきてくれたんだと、そう思った。
でも、わたしの手を掴んで引き止めたのは、景ちゃんではなかった。
「……千世子ちゃん」
「大丈夫? ひどい顔だね」
千世子ちゃんは、いつも通りの声音と笑顔で、ふわりと笑った。
そのまま手を引かれて、廊下の隅に誘導される。
「千世子ちゃ……ごめ」
「謝らなくていいよ。ニュースは見たし、顔を見れば大体何があったかはわかるし」
言いながら、濡らしたハンカチを目元に当てられた。
「涙が止まらないのは仕方がないけど、擦るのは絶対ダメ。本番前だし、万宵さんのきれいな顔がもったいないよ」
頬に触れたハンカチは冷たくて。
でも、その言葉はとても温かくて。
わたしは縋るように、千世子ちゃんの細い体に、抱き着いた。
「ごめん。ごめん……わたし、いま、おかしいから……だから、ちょっと……ごめん」
「うん。いいよ。好きにして」
頭の後ろを、撫でられる。
身体だけじゃなく、指の細さもそれでわかった。
ぽんぽん、と。
背中をあやすように、叩かれる。
「ごめんね。夜凪さんじゃなくて」
「……そんなことない」
「でも、ほんとは夜凪さんに追いかけて来てほしかったんでしょう?」
「……今は、千世子ちゃんが、いい」
「ふふっ。それなら、慌てて客席から飛び出してきた甲斐があったかもね」
スターズの天使に抱きつく、なんて。
こんな光景、誰かに見られたら、それだけで大変なことになる。
でも、そうしたいから、わたしは千世子ちゃんに抱きついてしまった。
抱き締める。ふわふわの髪の、その毛先の感触を、頬で感じる。
生きている人間は、あったかい。今は、その温かさだけを、感じていたかった。
「つらい?」
「……うん。つらい」
「しんどい?」
「うん。しんどい」
「こわい?」
「めちゃくちゃこわい」
「そっか」
質問しているくせに。
千世子ちゃんはそれ以上の答えを求めずに、ただ「よしよし」と、わたしの背中と頭を撫でた。
「抜け出してきたのか、とか。そういうこと、聞かないの?」
「さっきも言ったでしょ? 見ればわかるから。それに事実として、抜け出してきたんでしょう?」
全部わかってるよ、と。
そう言いたげな口調だった。
「千世子ちゃんは」
「うん」
「本番を投げ出して、出ていく役者がいたら、軽蔑する?」
「軽蔑する」
「役者、失格だと思う?」
「失格だと思う」
本当に迷わない、即答だった。
「じゃあ、わたしはやっぱり、役者失格だ……」
「そうかな? 逆に聞くけど。万宵さんは、どうして今まで、動画配信を続けてきたの?」
「それは……見てくれる人たちがいるから」
「そうだよね。今日もいるよ。このお芝居を観に来てくれた、お客さんたち」
一つ一つ。
言い聞かせるように、千世子ちゃんは言う。
「自分は役者じゃない。その覚悟ができていない、なんて。そんなのは結局、自分に対する言い訳。お金を貰って、期待を背負って、役に成ったのなら。どんなに小さな舞台の上でも、どんなに安いカメラの前でも、その瞬間から、役者は役者になる」
わたしの友達、ではない。
スターズのプロとして、一人の役者として、百城千世子は言葉を紡いでくれていた。
「大丈夫。あなたはもう役者だよ。万宵さん」
けれども。
今のわたしには、その優しさこそが、苦しい。
「……でもそれじゃあ、だから……だから、わたしには舞台の上に立つ責任があるって。千世子ちゃんは、そう言いたいの?」
「うん、そうだね」
目の前の仕事から逃げ出すな。
与えられた責任を果たせ。
役者としての千世子ちゃんの言葉はどこまでも正論で。
「無理。無理だよ」
だからこそ、その正論をどうしても昂った心が拒絶してしまう。
「覚悟はしてたつもりだったのに……巌さんがいつ、どんな時にいなくなっても、わたしは、巌さんの期待に応える演技をするつもりだったのに……でも、無理だった。できない。できないよ……」
情けない告白だった。
甘えた嘆願だった。
でも、それらはすべて、わたしの正直な心の内だった。
「そっか」
千世子ちゃんは、わたしの背中と頭から手を離して。
そして、胸に手をやって、押した。
「なら、私も正直に言うね」
体を押されて。
縋りついた体を、押し退けられて。
拒絶される、と。
そう思った。
「役者として、とか。プロとして、とか。とりあえずそういう言葉を並べたててはみたけど……」
けれど、
「でもまぁ、ここまでは建前」
逆だった。
「おい、万宵結愛」
抱き締めていた腕を、完全に振り解かれる。
首元を、掴み上げられる。
「こっちを見ろ」
体を、壁に押しつけられた。
わたしよりも小さな体から出ているとは思えない、強い力だった。
「不安はわかる。心配なのもわかる。コンディションは最悪で、演技なんでできないくらい心もボロボロで、辛くて苦しくて……」
熱い感情だった。
触れると、火傷してしまいそうなほどに。
「それでも、客席には私がいる」
「……え?」
さっきまでの、理路整然とした諭し方とは違う。
言いたいことを、そのまま言ってるような口調だった。
「私はね。今日、
捲し立てられる。
「でも、私という一人の観客が……一番楽しみにしているのは、あなたの演技」
一人の人間が、今。
私だけを見ている。
強く、強く、求められている。
「だから、魅せてよ」
以前、千世子ちゃんに言われたことを思い出す。
──私もね、見てほしいんだ。たくさん見てほしい。万宵さんが夜凪さんを見ているみたいに。夜凪さんが万宵さんを見ているみたいに。たくさんたくさん、私のことを見てほしいの。
今日は逆なんだ、と。
わたしが、千世子ちゃんに見られる番なんだ、と。
何故か、とても自然に、そう思えた。
「地震が起きても、火事になっても、この劇場に隕石が落ちてきたって、私はあなたから目を離さない。ずっとずっと、見ていてあげる。私は今日、あなたの観客になるから」
ううん、それも違うか、と。
千世子ちゃんは言葉を重ねて。
「私が、あなたと夜凪さんの、物語を見届けるから」
悪魔みたいな、天使の笑顔。
物語の中で、本物を生む。
それは、あの日。デスアイランドで、わたしができなかったこと。
景ちゃんと千世子ちゃんが作る世界に、手を伸ばした。
届かなかった。
今日は届かせる。
わたしが、届かせる側になれる。
「……」
ポケットに振動を感じて、スマホを見る。
件名のないメールが一件。いつも長ったらしい業務連絡を慇懃無礼な文面で送りつけてくるプロデューサーからの連絡は、今日に限ってはたった一行だった。
『こちらはおまかせください』
スマホを、握り締めた。
今日という日のために、天球のみんなはたくさんの稽古を積んできた。
今日という日のために、巌さんは自分の全てを懸けて、指導を行ってきた。
わたしという役者はきっと、たくさんの人に支えられている。
その想いに、応えなければ……嘘になってしまう。
「うん。良い顔になったね」
千世子ちゃんの身体が、今度こそ、わたしから離れる。
離れる前に、その爪先が、少しだけ伸びて。
吐息が耳に触れて、唇の熱に頬を撫でられた。
「……千世子ちゃん」
「願掛けだよ。私の仮面、貸してあげる。終わったら、返しに来て」
「……ありがとう」
わたしは、巌さんに選ばれた
わたしは、観客の
わたしは、観客の心に
──嘘吐きだらけのこの世界で、嘘を吐かない覚悟をした者を役者という。
この気持ちだけは絶対に、嘘ではないから。
「見ててね。千世子ちゃん」
だから、変わろう。
「わたしの、お芝居を」
他の誰でもない。
巌裕次郎の舞台で。