クリア特典:Archives 作:豆腐
ピッ、ピッ、ピッ。
無音の部屋を闊歩する、規律乱れぬ電子の足音が私の耳を歩いていた。
朧に微睡む意識の中で、霞がかった視界を見慣れた天井にぼんやりと向ける。
私は自分の心臓と同じリズムの機械的なビートから意識を除けて、ほんの少し吐息を漏らした。
――眠っている時間がずいぶんと多くなった。
今は何時だろう。
ここに窓は無いからおひさまで昼夜を把握することは出来ない。
時計は7時を指している。深夜に目が覚めたわけじゃないみたいで、ほんのりとした安堵を抱いた。
時間の感覚もずいぶん曖昧になってしまったなぁと、思考に積もった埃を払うように思う。
けれど私は朝が好きだ。リサが毎日起こしに来てくれる時間だから。
……ほら、微かに足音が聞こえてきた。
「あら。エヴリン起きてたの? 珍しいね」
ドアが開く音がして、リサが顔を覗かせた。
彼女は陽だまりのような笑顔を浮かべながら、「おはよう」と私のベッドに腰かける。
「大丈夫? 昨日まで長旅だったから疲れてない?」
「うん、大丈夫。全然眠くないの。むしろいつもより元気」
「それは良かった。すごく楽しかったもんね。人の多いところは外出許可が下りなかったから田舎の方になっちゃったけど、のどかで良いところだったし。宿屋のベイカーさんたちもとっても良い人で……」
リサの澄んだ声が私の記憶を呼び起こす。
昨日まで私はリサとちょっとした旅行に出かけていた。
お仕事じゃない、生まれて初めての旅だった。
そうそう。お客様第一号だ~って、すごく親切にもてなしてくれたベイカーさん夫婦ははっきり覚えてる。まるで家族にでもなったみたいな心地よさだった。
自宅の畑で作ったお野菜が美味しくて、周りも自然がいっぱいで、空気も綺麗だったなぁ。
そばの沼地に大きなワニがいたのはびっくりしたけど、遠目に見てる分にはなんだか可愛く見えてくるから不思議だ。
あぁ、何もかも新鮮で、とてもとても楽しかった。
「あ、ゴーストもお土産喜んでくれてたよ。あの面白いお面、被って仕事するって言ってた」
「ほんと? ふふ、マルチネスさん……怒られないといいけど」
「大丈夫だよきっと。でもだいぶ無理を通してくれたみたいだし、またお礼しなくちゃね」
「うん。何が良いかなぁ?」
「エヴリンのプレゼントだったらゴーストなんでも喜ぶと思うよ。……あっ、じゃあさ。今日は一緒に何か作ってみる? わたしも非番だしさ、簡単なお菓子とかなら作れるかも。安直だけどクッキーとかどう?」
「いいねいいね、お菓子作り。ぜひそうしましょ」
……と言っても、今の私には型抜きとデコレーションくらいしか出来ないけれど。
「よーし、そうと決まればさっそく着替えよっか! はいエヴリン、わたしの手を握って。起こすからね」
そう言いながらリサは私の
白くて、柔らかくて、すべすべで、とても綺麗なリサの手。
私の手はもう枯れ木みたいになっている。
シミのパーマークに覆われた、骨と皮だけの骨董品のような手だ。
それはもう、どう見ても老人の手だった。
リサと出会って三年が経った。
訓練を積んだ私はリサと共に戦場を駆け、数多の生物兵器を屠り、多くの人生を救い続けてきた。
あの暗くて悪意に塗れた研究所のような、負に満ちてばかりの生活は終わりを告げた。
本当に本当に、毎日が黄金のようだった。
見た事もない綺麗なものをたくさん見れた。知らなかった人間の暖かい部分を知った。美味しいものを数えきれないくらい食べることが出来た。
なにより私には、かけがえのない家族が出来た。
私は恐怖を蔓延させる怪物ではなく、力を正しく使う「エヴリン」になれた。
けれど、そんな幸せももう長くはない。
ここ数年で私の躰は急激な老化が進んでいた。
もってあと数ヶ月……いや、数週間。
ひょっとすると、もう直ぐお迎えの時間なのかも。
これは病気じゃない。寿命なのだとリサは言った。
兵器として造られた私は、普通の人より何倍も何十倍も早く年をとるよう設計されていた。
病気じゃないから治せない。リサより先におばあちゃんになってしまった私は、一日のほとんどをこうしてベッドの上で過ごしている。
目は霞むし、膝が痛くて自力じゃ立てなくなった。今じゃ車椅子がお友達だ。
顎の力も弱くなって柔らかい物しか食べられないし、そもそも食欲がそんなにわかない。お肉大好きだったんだけど、今は果物の方がいい。
常に心電図に繋がれて異常がないか検査されている。これは保険だ。万が一私の命が危うくなった時、私の中の『菌』が悪さをしないか監視しなくちゃいけないからだ。
その監視要員には、もちろんリサも含まれていた。
彼女は私のそばをあまり離れなくなった。ずっと傍にいてくれて、いつも私を見守ってくれている。
それだけはヨボヨボになって得た唯一のメリットだったかも。おかげでちっとも寂しくない。
「さぁさぁ、おめかしはこんな感じでどうかなー?」
「うん、素敵。ありがとう」
ロクにお化粧も出来なくなった私の代わりにリサが身支度を整えてくれる。
私が動けるのはもはやこの施設の中だけになったし、人になんて滅多なことじゃ会わないけれど、それでもお洒落は大事だ。
少しでも綺麗になったら気持ちが前向きになるものね。
◆
ゴーストへの贈り物はとても喜んでもらえた。
今の私にはこれくらいのことしか出来ないのが歯がゆかったけれど、彼とリサの笑顔を見られたから十分だ。
……ちょっと疲れた。
ほんの少し動くだけで疲労感がドッと押し寄せてくる。けれど不快じゃない。充足した倦怠感で間違いない。
不便な体にはなってしまったけれど、楽しいことがたくさん増えた証拠だ。
眠るのだって怖くなくなった。あの白い檻の中に閉じ込められていた昔の頃は、目覚めることが怖かった。
無機質な日々の繰り返しを機械のように強いられるのが辛かった。誰も愛してくれる人のいない灰色の人生が大嫌いだった。
今は違う。
私は間違いなく、この瞬間こそが幸せなんだ。
「…………」
眠い。
とても、眠い。
「――――、――」
そばでリサが私に何か語り掛けてくれている。
けれど私の耳は何も捉えない。声が遠く離れていくように、少しずつ静かになっている。
瞼が重い。まるで石になっちゃったみたいだ。
体を巡る血潮の潮騒が、ゆっくりになっていくのが分かった。
……うん。分かってる。
自分のことだから、不思議と確信が湧いて来る。
きっとこれが、『エヴリン』の潮時なんだって。
自分でも驚くほど冷静に、私は私の蝋燭が消えかかっている事実を受け止めた。
恐怖は無いよ。これっぽっちも。
私はただ眠るだけ。深く、深く、海の底へ沈んでいくように。
「……リサ」
ああ、やっぱりこれが最後だ。
一言を振り絞るだけで、こんなにも重く感じる。
でもまだダメ。まだ眠れない。
だってこれが最後なら、まだやり残したことがあるもの。
「りさ」
神様に無理を言って、ほんの少しだけ時間を貰う。
最後の最後だもん。自分の声できちんと、彼女へ言葉を送りたい。
でも何て言おう? ああもう、こういう時に限って優柔不断になってしまう。遺言くらい考えておけばよかった。
そんなこと、考える暇もないくらい幸せだったんだけれどね。
「りさ、おねえちゃん」
……私の様子を見て察したのかな。それとも生体電気のシグナルで分かったのかな。彼女の手を握る力が強くなった。
唇の動きでわかる。「なぁに?」って微笑んでくれている。
きっと怖がらせないためだ。優しい彼女は、私の心を支えようとしてくれているに違いない。
大丈夫。私、怖くないよ。
感情を読み取れるリサなら、私の心、伝わってくれてるかな。
伝わってると……いいな。
「――――、――――」
声が出ない。掠れてしまって、ただ呻くような音の漏れだけ。
ああもう役立たずの喉め。もう少しだけ頑張ってよ。
あと少し。少しで良いの。そしたら自由になれるから。
だから最後に、ほんの少しだけ無茶を聞いて。
想う。
一番彼女に伝えたいモノはなに?
そんなの、決められないに決まってるよ。
こんな私に無償の愛をくれた素敵なあなたへ、心から感謝を伝えたい。
あなたが視るこれからの未来を一緒に見ることが出来ない自分が恨めしい。
私にまだ命があったらと、もしもを想像してしまうこのほろ苦さは、私が幸せだったからだって胸を張りたい。
いつもくれたあなたの声、しぐさ、温もりが、何より嬉しかったことを忘れないって叫びたい。
いっぱい、いっぱいあるよ。
伝えたいこと、いっぱいあるの。
でももう無理。伝えられるのは一度だけ。たった一度だけ。
今の私には、それが精いっぱいだから。
だからこそ、私は最後に、あなたへこの言葉を贈ります。
「ありがとう。おやすみなさい。また、明日」
もし、来世なんてものがあるのなら。
もう一度だけでいい。たとえ化け物になってもいいから。
生まれ変わったら真っ先に、あなたへ会いに行きたいな。
――とてもとても、幸せでした。
◆
「……安らかな表情だな」
「うん。本当に眠ってるみたい」
まだ暖かいエヴリンの手を握りながら、リサは眠る赤子を眺めるように微笑んだ。
きっと幸せだっただろうと思う。
こんなにも穏やかで、こんなにも美しい最期なら、きっと悲しむべきじゃない。
涙を流す方が逆に怒られちゃいそうだと、リサはそっとエヴリンの頭を撫でた。
――リサやゴーストが所属する民間軍事会社アンブレラの目標は、世界中に散らばった『負の遺産』をこの世から抹消することにある。
それはT-ウィルスと全く異なる系統の生物兵器、エヴリンとて例外ではない。
事の発端は三年前。新兵器の開発情報を入手したのが始まりだった。
情報の真偽を確かめるのがリサの任務だった。施設へ侵入し、データを奪い、仮にB.O.Wが存在したならその首を獲る。
いつもと同じ、対生物兵器の暗殺者として働いていた。
イレギュラーだったのは、ターゲットに人格があったことだ。
リサと同じように、ほとんど人間と変わりのない人格が。
これまでプラーガと呼ばれる寄生生物に感染した人間など、ある程度の知性を残す事例は報告されている。
支配種と呼ばれる特別なプラーガの場合のように、宿主の人格を犯すことなく超常の力を得た例もある。
しかしエヴリンはそのどれとも違う。
彼女は生物兵器と呼ぶよりも、怪物の力を持って生まれるよう造られた、人造人間とでも呼ぶべき特異点だった。
似たような境遇のリサだからこそ、エヴリンの異質さが浮き彫りに写ったと言える。
リサは彼女と遭遇した時、判断に迷いが生じた。
彼女は人か? 怪物か?
このまま始末するべきなのか。保護するべきなのか。
前例が皆無というわけではない。
T-Veronicaに適合したマヌエラという少女や、同じくG-ウィルスを馴染ませたシェリー・バーキン。
人間性を損なわずウィルスを従えた彼女たちは、監視下に置かれながらもこの世界のどこかで暮らしている。
ならばと、リサは少女の保護を選択した。
人間か怪物か。その境界線を見極めるためだった。
自分の境遇と重なったことは否めない。
しかしだからこそ、自分が適任だと判断した。
事実、エヴリンと共に帰還したリサには監視役の命が待っていた。
E型特異菌のデータを入手すると同時にエヴリンの有害性の把握。暴走時の処分。
もし無害であるならば、その懐柔を担うこと。
……ただし原則として、延命は行わないという条件付きで。
つまり、エヴリンの加速的な老化を食い止める投薬は禁じられていた。
今のアンブレラは生物兵器の排除を旗に掲げて活動している。
だというのに生物兵器を飼いならし、それを行使するというのは矛盾にして言語道断。
あくまでリサは特例中の特例なのだ。特例とはそう容易く増やせるものではない。
これは譲歩だった。人間としてのエヴリンと怪物としてのエヴリンを鑑みた上での、至極真っ当な処置だった。
彼女を人間として扱い、その命の限り保護をする。
ある意味、これは数年をかけたエヴリンの処分計画だったとも言える。
とても、とても優しい、処分だったのだ。
「……エヴリン」
建前はあくまで任務だ。エヴリンを安全にこの世から抹消するための計画だ。
けれどリサはそこまで冷酷になれない。彼女を処分すべき生物兵器として見ることは出来ない。
彼女にとってエヴリンは間違いなく家族だった。本当の姉妹のように愛していた。
悲しくないなんて、そんなわけあるもんか。
「っ、ぅ、ぅ」
リサは心まで死神にはなれない。
感情を排して任務を全うするなんて不可能だ。
しかしそんなリサだからこそ、エヴリンは心を許し暴走もしなかった。
リサは間違いなくエヴリンにとっての最善を選択した。死神になれないからこその最善だった。
「ねぇ、エヴリン。わたし、頑張るから。もっともっと頑張って、これ以上残酷なことが起きない未来にしていくから。だからエヴリン、もう一度この世界に生まれてきて。今度はきっと……もっと幸せになれるから」
手を握る。
それは誓いの印のように。彼女へ捧ぐ弔いのように。
そっと手のひらに口付けて、少女は微笑みと共に見送った。
「おやすみ、エヴリン。また明日」
これにて「The 5th survivor」は本当の本当に完結となります。
長らくお付き合いいただき誠にありがとうございました。
またいつの日か、ご縁がありましたら幸いの至り。