碁石アレルギーとはなんぞや【完結】   作:Una

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最終話 未来

 塔矢くんを誘導してヒカルを誘い出す、という作戦自体は概ね成功していたと言える。

 

 昼食後の教室、退屈な数学の授業を聞き流しながらあかりは昨日のことを振り返っていた。

 

 惜しむらくは、自分の伝では監禁用の部屋を確保できなかったことだ。

 あの後、ヒカルが泣き止むまで抱きしめていたら、姉と両親が帰ってきてしまったのだ。

 母のただいまーと言う声に我に返ったヒカルは、自分の背にしがみついていた両腕を離して照れ臭そうに笑った。

 

 目元を真っ赤にして、少し鼻も出ていた。中学生とは思えない泣き顔で、でもそれは今まで見たことがない、心からの笑顔だった。

 

 あの笑顔を思い返して改めて思う。

 あと2時間家族の帰宅が遅ければ、ヒカルを完全に自分に依存させることができていただろうに、と。

 

 しかもあの後、母からドチャクソに叱られたのだ。

 時計を見れば7時を回っていて、日も暮れてすっかり暗くなった部屋で灯りも点けておらず、そんな娘の部屋から目元を真っ赤にしていかにも泣いた跡を残すヒカルが出てきたのだ。

 

 何をしたの? と静かに尋ねる母の目は疑心に溢れていて、自分の娘がよその男の子を傷物にしたのではと疑っていた。

 ヒカルと二人で必死に誤解を解きはしたものの、疑われるようなことをするんじゃないと結局怒られた。

 普通そういう疑いは男子の方に向けるものじゃないですかね。

 解せぬ。

 

 まあ、なんだかんだでヒカルが過去の柵から解放された感があるのは結構なことだ。

 おかげでヒカルはプロになると決めた。

 その成果をとりあえずは喜ぼう。

 

 よしよし、とあかりはニンマリ笑う。

 これで一緒にいられる時間が確保できるぞ、と。

 2度と私とは打たないなんて世迷言は言わなくなるだろう。

 

 とはいえ、これから忙しくなるだろうなとあかりは窓の外に広がる桜吹雪を眺めながら思う。

 

 これからヒカルはプロへの道を歩み始める。

 あれだけの実力だ、多くの囲碁関係者の注目を集めるに違いない。

 ヒカルも、藤崎あかり以外に視線を向けることになる。

 

 自分以外の存在がヒカルの目に止まることには身の毛がよだつほどの苛立ちを覚える。

 お金さえあればさっさとアパートなりを借りてヒカルと二人で暮らすのに。

 しかしヒカルと二人でさっさとプロになってお金を稼げば同棲するための部屋を借りることも簡単になるだろう。

 ヒカルを監禁するかどうかは、部屋を借りるまでに決めよう。

 

 あまりにもヒカルがよそ見ばかりするようだったらしょうがない。手錠とおまるの出番だ。

 

 まあ、たとえば? 周りに魅力的なものがたくさんあって、それでも私だけを見つめてくれるとかね、そんな状況が一番優越感に浸れるってゆーかぁ? 

 誰を愛そうが汚れようが最後に私の隣にいれば良いとか、なんかそんな気持ちがある。いや流石にそこまでは割り切れないか。

 

 その一方で、昨日みたいに、子供のように泣くヒカルの頭を撫でながら誰とも会わずに二人きりで暮らすのも悪くないな、なんてことも思ったり。

 

 正直どちらも捨てがたい。どっちに転んだとしても私は嬉しい。

 

 くふくふくふふ、と妄想に浸りながらあかりが笑っていると、数学の先生に「藤崎どうした気持ち悪いぞ」と注意された。

 失礼な先生だ、と憤るも、周りの生徒が一様にこちらをドン引きした顔で見ていたので、まあ、ヒカルが悪いな、とあかりは納得した。

 

 

 

 

 

 パチリ、パチリ、と碁石の置かれる音が室内に響く。

 授業が終わって放課後。理科室では恒例となった囲碁部の活動である。

 

 あれから筒井・三谷・ヒカルの三人は積極的に囲碁部の部員集めに精を出し、夏目という碁に興味を持つ同級生を見つけたのだ。とはいえ彼はまだルールや基本も曖昧でまともな対局には程遠いが、それでも部員は部員。団体戦で参加できる! と喜びながら三人がかりで夏目に碁を教えていた。

 

 今は夏目に基本的な詰碁の課題を与え(三谷が以前碁会所でもらったものの一冊だ)、三谷と筒井は対局している。

 

 その横で、ヒカルは入学式の日以来二回目に理科室にやってきたあかりと対局していた。

 

 対局している筒井と三谷は気もそぞろだ。

 

 再びやってきたあかりは前回とはまるで違う、この世の春が来たと言わんばかりの輝く笑顔で理科室にやってきた。その隣にヒカルを引き連れて。

 

 いやお前ら前回とんでもない修羅場演じてただろうにどうした。

 

 囲碁部の空気をどん底に暗くしておきながらそんな幸せそうな顔で当たり前のようにやってこられるとこちらとしては納得できないものがあるのだ。

 

「ありません」

「ありがとうございました」

 

 あかりとヒカルが頭を下げ合う。

 対局はヒカルの勝ち、というか、そもそもこれはあかりが二子置いての指導碁なのだから勝敗に意味は特にないのだけれど。

 

 しかしその結果を見た三谷は半ば呆然と口を開き、

 

「……藤崎が石置いて負けるのかよ」

「三谷くん、藤崎さんって強いの?」

「俺が通ってる碁会所のおっさん相手に四面持碁とかやってた」

「その碁会所のお客さんは強いの?」

「俺と勝ったり負けたり」

 

 ほぁー、と筒井は感心の声をあげた。三谷相手に自分は三子置いていい勝負なのだ。それと同じレベルの大人相手に同時に持碁だなんて相当である。自分には逆立ちしても真似できない。

 

 横で二人の検討を覗き見していても、そのレベルの高さに半分もついていけない。

 局面ごとに石を並べては戻すを繰り返す二人に三谷が、

 

「つうか進藤、お前アレルギーはどうしたんだよ普通に打ってるけど」

「あー……治った」

「雑か。じゃあ、まあお前が大会出れるってことじゃねーの?」

「いや、俺プロ試験受けるから大会はちょっと」

 

 ヒカルの言葉に三谷と筒井、加えて詰碁の解説を読んでいた夏目も、えっ、と顔をあげた。

 

「進藤くんプロ試験受けるの⁉」

「マジかよお前」

「プロ試験って中学生が受けられるの?」

 

 三人がヒカルに詰め寄る。それをあかりがヒカルの前に出て食い止める。

 

「ほらほら、いきなり距離詰めちゃだめだよ皆。ヒカルと話したかったら私を通してくれないと」

「藤崎さんは進藤くんのなんなの?」

「マネージャー気取りかよ」

 

 三谷が、けっ、といじけたように吐き捨てた。それを聞き咎めたあかりが、

 

「まあどうしてもヒカルと対局したいっていうなら5分だけ許してあげなくもないけど」

「いやそこまでではねーわ」

「はー? 三谷くんってばヒカルの価値わかってないの? 今年中にプロになるヒカルと打てなくて本当にいいの?」

「いや次は三谷と打つよ、筒井さんも夏目も」

「は?」

 

 ヒカルの言葉に一瞬であかりの目からハイライトが消えた。

 

「なんで?」

「え?」

 

 ポカンとするヒカルに対し、他の男子三人は体を縮こまらせて身を寄せ合った。吹雪をやり過ごすペンギンの群れに似ている。

 

「なんで私以外と打とうとするの?」

 

 あかりの声は平坦で、なんの感情も宿していなかった。それがなお恐ろしいと三人は怯え、三谷と夏目が手と口の動きだけで筒井に流血沙汰になる前に止めるよう訴える。なんとかしてよ先輩でしょ。

 

「ねえなんで? やっぱり私を捨てるの? じゃあやっぱりおまる」

「捨てるわけないだろ、俺にはあかりしかいないんだから」

「えっ」

 

 お? と三人が顔をあげた。

 

「俺が碁を忘れずにいられたのも、碁をまた打とうと思えるのもみんなあかりのおかげなんだ。二人でプロになって、ずっと死ぬまで碁を打っていこうぜ」

「う、うん……」

 

 あかりが死んだような無表情から一転、赤面して俯く様子に三人は目を見開く。まるで女子中学生みたいだと三谷は失礼なことを思った。

 

「よし、じゃあ三谷打とうぜ」

「は?」

 

 ドスの利いたあかりの声に、うわこっちきた、と三谷は蒼白になった。筒井に助けを求めるも、じゃあ僕は夏目くんと打つよなんて言いながらさっさと碁盤を広げて石を握った。

 

「いや、俺はまだお前を独り占めできるほどの実力ないから、うん、遠慮しとくわ」

「は? 三谷くんヒカルと打てる機会を自分から捨てるってどういうこと?」

「どういうことっつーか、どうしろっつーんだよ」

「三谷くんはヒカルに自分と打ってくださいって縋り付いてよ。その上でヒカルは私と打つからって断るの」

「もうめんどくせーよお前!」

 

 うーん、とヒカルは考え、

 

「じゃあこうするか」

 

 言いながらガチャガチャと折りたたみ式の碁盤を二面広げ、ヒカルはあかりと三谷の両者と打つ二面打ちの構えをとった。

 

「これなら三人で打てるだろ。あ、筒井さんと夏目も入る? 四面打ちもできるよ俺」

「違うそうじゃない、そうじゃねーよ進藤」

「どうしよう、ヒカルがちょっとおバカになった」

 

 あかりが両手で顔を押さえて嘆いていると、窓から声が聞こえた。

 

「藤崎さん」

 

 そこにはおかっぱがいた。

 うわまた来た、なんて三谷と筒井は思う。

 窓からこちらを睨むおかっぱ頭を横目にしながら夏目が、

 

「筒井先輩、あれ誰ですか? 海王中の制服着てますけど」

「塔矢アキラ。塔矢名人の息子で、小学生の時点でもうプロ並の実力があったって噂」

 

 へー、と夏目がおかっぱ海王生をまじまじと眺めていると、そこにあかりが近づいていった。

 

「久しぶりだね塔矢くん」

「……久しぶり。あれから、どう?」

「あれ?」

 

 あれってなんじゃい、とあかりは首を傾げる。

 アキラはヒカルにその鋭い視線を向けて、

 

「進藤くん。君は、相変わらず藤崎さんにまとわりついているんだな」

「え?」

「付きまとうだけでなく、囲碁部なんかに引き込んで。藤崎さんはプロになれる逸材なんだ、こんなところで時間を潰す暇も、君に邪魔される筋合いもない。わからないのか?」

 

 えぇ……と囲碁部内に微妙な空気が流れる。男子三人がまた身を寄せ合う。

 

「筒井さん、藤崎って入部届け出したっけ?」

「いいや、まだ」

「え? あの藤崎さんって部員じゃないのに理科室の真ん中で碁打ってるの?」

 

 自分から乗り込んできたんですけどそいつ、と三谷がアキラに向かって小声でぼやく。

 それを一切無視してアキラはヒカルに宣言した。

 

「勝負だ、進藤」

 

 なんか言い出したぞ、と男子三人が視線を交わす。

 

「僕が勝ったら、2度と藤崎さんに近づくな」

「……俺が勝ったら?」

「好きなことを命令すればいい。なんでも言うことを聞いてやる」

「勝負の方法は?」

「もちろん、碁だ。五子置いてもいい。ハンデとしては足りないかもしれないけどね」

 

 理科室に並ぶ碁盤を指差してアキラは告げた。

 

「筒井先輩、あの人ズルくないですか? プロ級の実力で素人に勝負を申し込むって」

「うん、まあ……それだけ必死なんじゃないかな。藤崎さんが出血した理由をまだ勘違いしてそうだし」

「遠くから眺めてる分にはおもしれーなあいつら、たまにこっちに飛び火するけど」

 

 アキラの宣言にヒカルは笑った。

 

「いいぜ、打とう。来いよ塔矢」

 

 ヒカルは、それは嬉しそうにアキラを誘った。アキラと打てることが、アキラから打とうと誘われたことがこれ以上ないほどの喜びだと言わんばかりの笑顔だった。

 

 その笑みをアキラは挑発と捉えたらしく、眉間に深いシワを寄せて不快感を露わにした。

 アキラは窓の桟を乗り越えながら桟に腰掛け靴を脱ぐ。

 

 靴下の状態で理科室に飛び降り、靴を窓わくに置いたアキラは、碁盤の前で椅子に座るヒカルを睥睨する。アキラの鋭い視線を見上げるヒカルの目は期待に満ちた暖かさがある。

 

 そんな二人のぶつかり合う視線を遮る女が一人。

 

「待って!」

 

 あかりだ。あかりは両手を胸の前で組んで、

 

「私のために争わないで!」

 

 ヒロイン気取り出したぞあいつ、と三谷があかりを指差す。筒井と夏目は苦笑いだ。

 しかしアキラは大真面目に、あかりに慌てて言葉を紡ぐ。

 

「藤崎さん、安心して。僕は君を」

「どうしてもヒカルと打ちたいなら私を倒してからにして!」

「え?」

 

 え? と男子三人組も首を捻る。

 祈るように組んでいたはずのあかりの両手の指は何故かするりと解かれて、がっしりと腕組み状態でアキラの前に仁王立ちだ。

 

 我が屍を踏み越えていけと言わんばかりの漢らしい背中だった。

 

 うぐ、と喉を詰まらせたアキラは、数拍の逡巡を見せ、しかしヒカルにかけられた声に思考を断ち切った。

 

「あのな、塔矢」

「な、なんだ」

「あかりはちゃんと今年のプロ試験受けるぞ」

「……そ、そうなのか?」

 

 狼狽えながらあかりを見れば、あかりは腕を仰々しく組んだまま大袈裟にウム、と頷いた。

 

「で、でもだったらなおさら部活なんてしている暇は」

「大丈夫だよ塔矢くん、碁の勉強はちゃんとできるから。それに研究会には今週からまた行かせてもらうし。前回は休んじゃったけど」

「そ、そうか!」

 

 ぱあっ、と明るく顔を綻ばせたアキラは、しかしさらにあかりとの対局の機会を増やそうと言葉を重ねようとする。

 しかし背後の窓から声をかけられ言葉に詰まった。

 

「ん? おい君、他校生がなんの用だ、何を騒いでいる。スリッパは? 玄関の窓口で入校許可は取ったのか?」

 

 生活指導の先生だった。

 くっ、とアキラは悔しそうに呻き、ヒカルを指さす。

 

「今日のところはこれで勘弁してやる。だがくれぐれも藤崎さんの邪魔は、いえすみません所用があったもので、はい帰りますお邪魔しました、失礼します」

 

 いかつい生活指導の先生の、窓から伸ばされた筋骨隆々の腕にまるで猫のようにつまみ上げられたアキラは、ぷらりと吊り上げられたままキリッとキメ顔でヒカルに釘を刺した。

 

 唖然とした一堂の凍りついた空気の中で、いち早く再起動したのはあかりだ。アキラの行く末にさほど興味がないからかもしれない。

 

「ねぇヒカル」

「ん?」

 

 あかりはまた瞳からハイライトを消して、首を過剰に傾けながら、うっそりとヒカルに迫った。ふらり、ふらり、と左右に揺れる頭に煽られる長い髪があかりの表情を覆い隠した。

 真っ黒な髪の隙間から覗き込む眼球は血走っていて、小柄なヒカルを見下ろすその苛烈さに、ただそばで見ているだけの三谷たちすらその悍ましさに怖気立った。

 

「ヒカルはずるいね……」

「ずるい?」

「ヒカルがね、あんまり他の人ばっかり構っちゃうとね、私寂しくて、ヒカルのこと、部屋に閉じ込めたくなっちゃうの。誰の目にも留まらない部屋にね、鍵は私だけが持ってて、ヒカルの世話は全部おまる」

「じゃあ卒業したら部屋借りて一緒に住もうぜ」

「えっ」

 

 まじで? と三人がガタリと起立した。

 あかりの狂気が一瞬で霧散する。

 ヒカルの言葉でビクンと頭が上がったおかげであかりの髪が正位置へと戻る。

 その下から出てきたのは、顔を真っ赤に染めた少女の顔だ。

 

「プロになったらできる限り対局する時間増やしたいしさ。だったら今までみたいにどっちかの家とか図書館に集合じゃなくて同じ家に一緒に帰った方が時間や手間が掛からなくていいし。それに同じ部屋で生活してたら時間も気にしないで対局できるしな」

 

 総員着席。

 うわぁ、と三人組は引いた。

 こいつ、女子と同棲する目的が碁を打つためだけって男としてやばくない? こいつの頭には囲碁以外ないの? そんなことを同時に思う。

 

 嫁の方はどう思ってるんだ。恐々とあかりの方を伺うと、あかりはぽわっと赤面したまま無言でコクコクと人形のようにただただ頷いていた。

 

 あんなんでいいんだ。そう三人は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「伊角さん」

 

 場所は碁会所の近くにあるファーストフード店。窓際のカウンター席でポテトをつまんでいた伊角は、待ち人の声に丸椅子ごと振り返った。話しかけてきたのは、院生として割と付き合いの深い和谷だ。

 

「おお和谷……どうした? しかめっつらして。もしかして、予選がダメだったのか? まだ三日目だろ」

「いや、俺は3勝したよ。来月はよろしく」

「あ、ああ。でもじゃあどうした?」

「フクが落ちた」

 

 え、と伊角は声をあげた。

 フクとは、今年初めてプロ試験を受ける小学生の院生である。その年ですでに院生の一組で、手はまだまだ荒いし読みも危ういが、早碁などでは伊角でもおっと思わせる手を打ってくる将来が楽しみな子供である。

 

 そのフクが三日目で落ちた。つまり予選で三連敗を喫したと言うこと。

 

「調子悪かったのか? それとも組み合わせが悪かったか? 相手は誰だよ」

「フクの相手は三人とも外来だった」

「外来? 強いのか?」

 

 伊角の問いかけに和谷は数瞬の躊躇を挟んで、こくりと頷いた。食いしばる口元はいかにも悔しそうで、どうしたことかと伊角は首を捻る。

 

「三人とも、俺より一個下。中一」

「中一? あ、もしかして塔矢アキラ?」

「ああ。一人は多分そうだった。外来の女子に塔矢くんって呼ばれてた」

 

 あー、と伊角は呻く。それはブルーにもなるだろう、と。

 和谷が所属している森下プロの研究会は、師匠の因縁から塔矢門下をライバル視しており、先輩のプロ棋士が何かにつけ塔矢門下の同期プロを意識させられるのだと以前和谷の口から聞いていた。

 

 その秘蔵っ子たる塔矢アキラが噂通りに強く、プロ試験という場で対局することが決まってしまったのだ、心中お察しする。

 

「やっぱ強かったか?」

「……強かった。フクに並べてもらった。噂以上だ」

「そっか……」

 

 それは気を引き締めていかなければなるまい。もちろん初めから手加減や油断など誰が相手でもするつもりはないが。

 

「負けてたんだ」

「? 誰が」

「塔矢アキラが、負けたんだ。今日負けて2勝1敗だ」

「負けた?」

「さっき言った外来の一人。もう一人の外来も馬鹿みたいに強い。それこそ、塔矢アキラ並に」

 

 ゴクリ、と伊角の喉が鳴った。

 なんだそれは。

 プロ並と言われる塔矢アキラと、それと互角かそれ以上の実力者がさらに二人。

 つまり、

 

「今年、院生からは合格者いないかもしれない」

 

 つぶやくような和谷の一言が、キュッと伊角の心臓を握った。

 

 

 

 

 

「ありま、せん」

 

 対局を終えた受験生に周囲を囲まれた中での一局だった。

 噂の塔矢アキラがどれほどのものかと、敵情視察のため皆真剣な眼差しで石の並びを追っていた。

 その打ち筋は、さすが塔矢名人の息子。

 鋭く、苛烈で、相手を殺さんばかりの気合いを込めた打ちこみに、見ている受験生たちに己との力の差をまざまざと見せつける。

 

 しかし、その相手は、院生ですら戦意を喪失させるような攻め手の数々を、なんとも鮮やかに躱していった。

 

 初めはまるで早碁かという速さで手が進む。塔矢アキラの打つ勢いの強さに碁盤が甲高い音を立て、対局している周りの受験生たちも、今日はやたらと塔矢アキラは気合いが入っているなと感心していた。

 

 しかし時間が経つにつれて塔矢アキラの気勢が削がれていく。石を打つ音が弱々しくなり、長考が増え、あれだけ早く手が進んでいたはずなのに気づけばそこ以外の全対局が先に終わることになっていた。

 

「くっ」

 

 塔矢アキラが苦しそうに呻き、劣勢を凌ごうと右辺を厚くしていく。しかし相手の前髪メッシュは中央へと手を伸ばし、それを失着と見た塔矢が光明を見たと言わんばかりの勢いで噛みつく。息を吹き返した塔矢が俄然張り切って上辺へと手を広げようとしたところでしかし彼の手が止まる。

 

 なぜ? と、和谷を含めた観衆が心の中で首を捻る。ちらりと和谷が塔矢へと目を向ければ、彼の盤面を睨みつけていた鋭い眼差しは驚愕に目を見開いていた。

 

 何事か、と思っている間にも手は進み、さらに7手ほど進んだところで数人が、あっ、と声を上げた。

 それに続くように和谷も気づく。

 同時に、全身に寒気が走り抜ける。

 

 先の、明らかに失着と見られた前髪くんの一手が、いざここに至って塔矢の攻め手を厚くするために打つべき、絶対に必要と思われる場所に陣取っていた。

 

 そこを取れなければ塔矢の陣容はどこもかしこも薄いままで、しかし前髪くんは先の失着の一手を軸に広げていけばそれだけで盤石。苦々しく歯を食いしばり、塔矢が最後の抵抗とばかりに左辺から下辺へと攻め立てるも結局それすら潰されて、塔矢は中押し負けを喫した。

 

 対局が終わり、院生たちは口々に今の一局の感想を言い合う。検討はしないのかと期待の目が向けられる中、当の本人たちは身じろぎもせずまた一言も口を開かない。

 

 俯いたまま、膝の上で握りしめる手が震えている。

 

 しばらくして、ふっと塔矢アキラが体から力を抜いた。

 目線をあげ、前髪メッシュを視界に捉えた。

 

「進藤くん」

「ああ」

 

 しばし、塔矢アキラは言い淀み、しかし意を決してガバッと頭を下げた。

 

「ごめん」

「え、おお?」

 

 進藤と呼ばれた彼は戸惑うように疑問系で応じる。その表情は身長相応の幼さで、対局中の厳しい顔とのギャップに和谷の脳が一瞬混乱した。

 

「藤崎さんの邪魔をするななんて、失礼なことを言った」

「ん、ああ。いや気にすんなよ。俺だってアレルギーがどうのって言ってたし」

「そう言ってくれると助かる」

 

 はあ、と塔矢は息を吐いた。一体なんの話をしているのか部外者にはよくわからない。この二人は以前から関わりがあったのだろう。いきなり謝罪から始まるあたり、良好な関係では無かったのだろうが。

 

「もしかして、緒方さんにはバレていたのか? 君が碁をここまで打てるってこと」

「あー、まあ、うん。あかりに教えてるとこ見られて」

「そうか。いや、君たちの話をしていたとき、緒方さんがなぜかニヤニヤと笑っていた気がしてね。そのときは気にしていなかったが、今考えると……まったく」

 

 あの人も人が悪いな、と塔矢は苦く笑った。

 

「進藤くん」

「あ、くん付けしなくていいぞ。同い年なんだし進藤って呼び捨てで」

「では、進藤。どうだろう、あれから君は研究会に来なくなっていたが、これからは君も」

 

 そこまで塔矢が言いかけたところで、進藤と名乗る少年の小さめな体が浮き上がった。

 

 後ろから脇の下に手を差し込んだ少女が進藤を持ち上げたのだ。

 

「ほらヒカル、帰ろ? じゃあね塔矢くん」

「え、あかり待ってくれ俺は結果書かないと」

「もう書いておいたよ、中押しでしょ」

 

 ぬいぐるみのように持ち上げられた進藤は、今度は山賊に攫われる町娘スタイルで肩に担がれ、そのまま出口へさっさと運ばれてしまった。

 

 唖然と見送る受験生の面々は、このまま突っ立っていてもしょうがないと徐々に捌けていき、最後はぼんやりと終局を迎えた盤面を眺めていた塔矢だけが残った。

 

 やがて石を片付け始め、碁盤ごと持ち上げた塔矢アキラの顔を、和谷は直視した。

 

 そこには負けた悔しさも、黒星に対する焦りもない。

 

 そこには、新しいおもちゃを見つけた子供のような輝きと、まるで獲物を見つけた猛禽類のような鋭さが同居した、碁を打つことと碁を打つ相手の存在にただただ喜ぶ13歳の姿があった。

 

 

 

 

 

 

 

「あかり、もう降ろしてくれよ。いい加減腹に肩がめり込んでキツい」

「あ、ごめんねヒカル」

 

 ビル街に出たところで運ばれ方に不満を漏らしたヒカルをよいしょと自分の正面に降ろし、あかりはその肩を両手で掴んだまま正面から見つめた。相変わらず背は低い。来ているシャツはいつも通りの「5」シャツだ。

 

「どうした?」

「……ううん。ヒカルはやっぱり強いんだなあって思ったの。今日はすごかったね」

 

 行こ? とあかりが右手を差し出せば、ヒカルは当たり前のように左手で握った。

 そのまま二人並んで歩き出す。

 

 まだ日が高く、休日であるためか人通りが多い。すれ違う人とぶつからないように歩けば、夏の日差しの下、剥き出しの肘どうしが軽く当たった。

 

「二人で予選突破だね」

「ああ、俺たちが当たらなくて良かったな」

「今日はお祝いだね」

 

 えへへと笑う。対してヒカルの表情に一瞬影が差した。

 もちろんそれを見逃す藤崎あかりではない。

 

「どうしたの?」

「ん、いや……」

 

 口ごもるも、今さらあかり相手に隠す意味もないと思い直し、ヒカルはすぐに言葉を並べ始めた。

 

「碁ってさ」

「うん」

「一人じゃ、できないんだよな」

「? そりゃね」

 

 どうした急に。

 

「俺は、佐為はずっと一人だったって、そう思ってた」

「うん」

「俺がそうしたんだって、俺のせいで佐為は碁を打てなくて一人だったって」

「うん」

 

 でも、とヒカルは首を振る。

 

「佐為は、俺といたんだ。ずっと一緒にいて、いっぱい教えてもらった」

 

 受け継いだのだ。

 たくさんのものを受け継いで、それは今も自分の中に溢れんばかりで。

 

「佐為は一人じゃ無かった。俺と一緒にいて楽しかったって言ってくれた」

 

 はあ、とヒカルの口からため息が漏れる。

 

「俺も、一人じゃ無かった」

 

 俯き、誰かに語りかけるようにヒカルは言う。

 

「俺は、自分がずっと一人だと……いや、一人でいないといけないって思ってた。佐為は俺を恨んだまま消えて、それからずっと佐為のことだけ考えてた。いつか死んだとき佐為に赦してもらうため、そのときまで碁を楽しんじゃいけないってずっと考えてた。そんなこと、あいつは望んでないのに」

 

 碁を蔑ろにすることをあいつは望んでないと、そう気づくことができた。

 ふ、とヒカルが顔をあげる。あかりへと振り返り、その瞳にあかりの顔を収めた。

 

「あかりのおかげだ」

「な、何が?」

 

 ぎゅ、と手をつなぐ力が強くなる。

 

「今日改めて思ったんだ。俺のそばで、俺と碁を打ってくれる人がいる。それがとてつもなく嬉しいって」

 

 あかりは勝手ににやける口元を抑えるのに必死だった。

 ヒカルの中は佐為と呼ばれる誰かでいっぱいだった。その心に他者が入り込む隙なんかまるで見えなかった。

 一時は諦めかけたときもある。

 それでも諦めないで、ずっとずっとヒカルの心をノックし続けた。

 その結果、ヒカルは6年締め切られていた心の扉を、やっと外へと開け放ってくれた。

 ヒカルの苦しみが晴れたことも、その目が私を向いてくれていることも。

 今のヒカルのあり方が、長年の努力が認められたようで、この数年を思い返すだけでじんわりと涙が溢れそうになる。

 だから、とヒカルが万感の思いであかりに言葉を告げた。

 

「これからも、たくさん塔矢と打っていくよ」

 

 ……。

 …………は? 

 

「今日塔矢と打って思ったんだよ。やっぱり俺は塔矢とライバルでありたいって。もちろん塔矢だけじゃない、他にもいろんなプロもいて、塔矢先生だってまだ現役だし。すげえ人たちとタイトルを目指してぶつかり合って、前はできなかった対局をいっぱいしていくんだ。たくさんたくさん碁を楽しんでいいんだ。それがすげえ嬉しいんだ」

 

 手を繋いだまま踊るように語るヒカルを、あかりは冷めた目で見つめていた。やはりおまるの出番なのだろうか。

 他の人に目移りしますなんて宣言をされて私が喜ぶとでも思っているのだろうか。というかなんでそのライバルの中に私がいない。そんな憤りをヒカルに向けんと睨みつけようとしたところで、

 

「そんな風に思えるようになったのは、全部あかりのおかげだ」

 

 ありがとうな、とヒカルに笑いかけられた。

 その朗らかな笑顔を見ただけで、やさぐれた気持ちが一瞬で融けてしまった。

 

 やっぱりずるい、とあかりは思う。

 

 そうやって上げたり下げたり、まさか自分を弄んで楽しんでいるんじゃないだろうか。

 

「大好きなんだ」

「……碁が?」

「碁が。碁が好きで、碁を打つのが楽しい。だから、俺は碁を続けていくよ」

 

 好きだから打つ。

 楽しいから打つ。

 

 そんな単純なことを言えるようになるまでに、随分と遠回りをしたものだ。あかりは半ば呆れながらそんなことを思った。

 

 ふぅ、とあかりも息を吐いて、

 

「私も打ち続けるよ、ヒカルのライバルになれるように」

 

 いつか塔矢くんも視界に入らないくらいの存在になってみせる。そう空を見上げて、決意を固めるようにグッと左の拳を握った。

 

「あー……」

「? 何よ、私じゃライバルにはなれないって?」

「いや、というかあかりはライバルというより……仲間というか?」

「仲間?」

「いや違うな、仲間じゃなくて、ライバルでもなくて、しっくりくる言葉が見つからないけど、うーん」

 

 うんうん唸るヒカルにあかりは首を傾げて、

 

「えー? なになに、なんて? 私とヒカルはどういう関係なの?」

「……よくわかんねーや。まっ、あかりがこれから一番多く打つ相手だってのは決まってるけどな」

「うん」

「ずっと打っていこうな。プロになっても、引退しても、ヨボヨボの爺さん婆さんになっても碁を打ち続けような」

「うん!」

「さっさと帰ろーぜ、今日の塔矢との対局並べてやるよ、検討しようぜ」

 

 二人は手を繋いだまま、並んで歩いていく。

 

 たくさん打とう。

 神の一手を目指して。

 佐為がよく言っていた、神の一手を。

 

 正直、まだ後悔は消えない。

 

 簡単に消えるわけがないのだ。

 

 きっと、死ぬまで佐為のことを忘れることはないと思う。

 

 それでいい、とヒカルは思う。

 

 佐為のことを忘れないように、これからも生きていこう。

 

 ごめんなさいとありがとうを一緒に抱えながら、自分は碁と共に生きていく。

 

 

 

 

 

 




活動報告に後書き載せました
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