絢辻さんを救いたい話   作:紳士

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第二十六話 ヤクソク

 

 学校へ戻ると、昇降口の明かりはまだついていた。靴箱の前で絢辻さんが立ち止まり、僕も隣で靴を履き替える。廊下には人影がなく、上履きの底が床を擦る音がよく響いた。

 

 教室の扉は、僕が出ていった時のままだった。

 

 絢辻さんが先に入る。机に広げられた資料を見てから、その脇へ屈み、落ちていたペンを拾った。僕も床の紙に手を伸ばす。裏返すと、隅に靴で擦ったような跡がついていた。

 

「それ、こっちに置いて」

 

 示された机へ紙を戻すと、絢辻さんは他の資料と重ね、端を揃えた。折れた角を指で伸ばしてから、作業表を一番上に載せる。

 

 僕は鞄を自分の席へ置いた。戻ってくる途中で冷えた手を擦り合わせていると、教卓の方から紙をめくる音がした。

 

「……箱、あと一つあったわね」

 

「窓際の?」

 

「うん。蓋を開けてもらえる?」

 

 中には、まだ紐を通していない飾りがまとめて入っていた。絢辻さんは一枚取り上げ、作業表と見比べる。僕も近くへ椅子を寄せたが、彼女は飾りを箱へ戻した。

 

「これは明日の朝にするわ」

 

「じゃあ、今日は何を?」

 

「切りかけの分だけ仕上げて、仕分けまで。そっちの束、お願いしていい?」

 

「分かった」

 

 鋏を手に取る。絢辻さんは箱に紙を貼り、残っている作業を書き込んだ。それから机の上を空け、切り終えた飾りを色ごとに並べ始めた。

 

 途中まで入っていた切れ目に刃を合わせる。細いところを切り落とさないよう紙を回していると、向かいから手が伸びてきた。

 

「そこは残して。折るところだから」

 

「この線?」

 

「そう。切るのは外側だけ」

 

 教えてもらったところで鋏を止める。確かに、同じように見えていた線は途中から点線になっていた。

 

「……危なかった」

 

「危なかった、で済んでよかったわね」

 

 絢辻さんは僕の手元を確かめ、自分の作業へ戻った。僕も紙を持ち直す。先ほどまで床に落ちていたペンが、彼女の右手で作業表に印をつけていった。

 

 教室の時計が進む間、時々、仕分ける場所を尋ねた。絢辻さんが答え、僕が箱へ収める。話すことがなくなれば、それぞれの手元へ戻った。

 

 最後の一枚を切り終えると、机の上には細い紙屑が散らばっていた。僕がそれを集めている間に、絢辻さんは作業表を閉じた。

 

「今日はここまで」

 

 窓際には、さっきの箱が残っている。彼女はその蓋を閉じ、明日の作業を書いた紙が見える向きに置き直した。僕も鋏を片付け、紙屑を捨てる。

 

 椅子を戻してから顔を上げると、絢辻さんは机の中を確かめていた。何かに手を触れたまま止まり、やがてそれを鞄へ移す。ファスナーを閉じた後も、しばらくその場を動かなかった。

 

「絢辻さん?」

 

 呼ぶと、彼女はこちらを向いた。

 

「帰る前に、もう一か所だけ付き合って」

 

     ◇

 

 教室の明かりを消し、昇降口へ向かった。途中の職員室で絢辻さんが準備を終えたことを伝えると、中から先生の声が返ってきた。

 

「お疲れさま。気をつけて帰ってね」

 

「はい。お先に失礼します」

 

 扉を閉めた彼女に続いて歩く。階段を下りながら行き先を尋ねると、校舎の裏、とだけ返ってきた。

 

 靴を履き替えて外へ出る。絢辻さんは校門へ向かわず、建物に沿った通路を進んだ。角を曲がると、窓の明かりも届かなくなる。外灯の下に、古い焼却炉があった。

 

 その前で、彼女は鞄を開いた。

 

 取り出されたものを見て、僕は足を止めた。

 

 手帳だった。

 

 指先で押さえられた表紙も、使い込まれた角も、覚えていた。拾った時には、その小さな一冊から何を知ることになるのか、考えもしなかった。

 

「……それ、持ってたんだ」

 

「毎日使うもの」

 

 絢辻さんは手帳を開いた。何枚ものページに細い文字が並んでいる。書き足した箇所には印があり、端には小さな付箋もついていた。

 

 僕は中を覗かず、彼女の手元から目を上げた。

 

「随分書いたわね」

 

 絢辻さんはページの厚みを親指でなぞった。途中で一度止まり、何かを読んでから、次へめくる。

 

「頼まれたこととか、好きなものとか。覚えておくと便利なのよ。前に話したことを覚えてると、喜ぶ人もいるし」

 

 紙をめくる音が続いた。外灯の光を受けたページに、何本も引かれた線が見えた。

 

「こう言えば断らない、とか。そういうことも書いたけど」

 

 僕は、自分の名前の下にあった文字を思い出した。頼まれると断れない。あの時は驚いたが、すぐには否定できなかった。

 

「僕のところにも、あったね」

 

「……ええ」

 

 彼女はページを戻しかけ、やめた。そのまま手帳を閉じ、両手で挟む。

 

「まだ、その通りだと思う?」

 

 尋ねると、絢辻さんは僕を見た。

 

「部活を最後までやりたいって、断ったじゃない」

 

「そうだったね」

 

 笑っていいのか迷った。彼女も笑わなかったが、僕から目を逸らすことはなかった。

 

 やがて、手帳の表紙へ視線を落とした。

 

「またこれを開いて、望月君に何て言えばいいか考えるのは、もう嫌なの」

 

 声は静かだった。

 

 僕は何か答えようとしたが、言葉が浮かぶ前に、彼女が鞄へ手を入れた。取り出した小さなライターを見て、手帳と焼却炉へ交互に目を向ける。

 

「燃やすの?」

 

「うん」

 

 絢辻さんはライターを握ったまま、閉じた手帳を見ていた。表紙を押さえる指が動き、一度だけ角を撫でる。

 

「覚えておきたいことも、あるんだけどね」

 

 何が書いてあるのかは聞かなかった。僕が読んだのは、その中の何ページかだけだ。

 

 彼女は表紙を開いた。最初のページに目を落とし、そこから束になった紙をゆっくりと送り、最後まで見た。閉じる時、付箋が一枚、表紙の外へはみ出した。絢辻さんはそれを中へ戻した。

 

 焼却炉の扉が軋んだ。

 

 僕が鞄を預かると、絢辻さんは屈み、手帳を炉の中へ置いた。ライターが乾いた音を立て、小さな火が灯る。彼女の手に隠れて炎が見えなくなり、ほどなく紙の端から細い煙が上がった。

 

 手を引いた絢辻さんが立ち上がる。

 

 紙が縮れ、火がページの縁を伝っていった。隙間にあった文字が浮かび、それも黒く変わっていく。拾った時にはあんなに目が離せなかったのに、今は一つも読み取れなかった。

 

 絢辻さんは、握ったライターを下ろしたまま見ていた。

 

 僕も隣へ立つ。炉の中で紙が崩れ、炎が高くなった。顔に熱が届いてから、自分が近づきすぎていたことに気づき、半歩下がる。

 

 絢辻さんは動かなかった。

 

 表紙が反り、綴じられていたページの形が崩れていった。彼女の指が一度ライターを握り直したが、それ以上は何もしなかった。

 

 僕たちは、火が小さくなるまでそこにいた。

 

「望月君」

 

 呼ばれて顔を向ける。絢辻さんはまだ炉の中を見ていた。

 

「覚えておいてね」

 

「うん」

 

 彼女がこちらを向いた。

 

「ここがあたしの再出発点だから」

 

 外灯の下で、黒い瞳が僕を捉えていた。

 

「うん。覚えておく」

 

 絢辻さんは頷いた。それからもう一度、形の崩れた手帳へ目を戻した。

 

 火が消えた後、傍の水道から汲んだ水で燃え残りを濡らした。絢辻さんは最後まで確かめ、焼却炉の扉を閉める。預かっていた鞄を返すと、彼女はライターをしまった。

 

 いつもなら手帳を入れるはずの場所に、何も入らなかった。

 

     ◇

 

 校舎の角を曲がると、校門の明かりが見えた。

 

 絢辻さんは手を擦り合わせながら歩いていた。さっき水道を使った時に袖が濡れたらしく、片方だけ折り返している。

 

「明日、忙しい?」

 

 僕から尋ねると、彼女が顔を向けた。

 

「朝はね。始まってからも、何度か確認に回ると思う」

 

「休憩は取れそう?」

 

「交代で取ることになってるけど。どうして?」

 

 校門へ向かう足を緩めた。

 

「時間が空いたら、絢辻さんと一緒にいたい」

 

 彼女も歩調を落とす。

 

「どこか回ったり、何か食べたり。いつ頃なら空いてる?」

 

 言い終えると、急に彼女の顔を見づらくなった。門の向こうへ目を逃がしかけたところで、名前を呼ばれる。

 

「望月君」

 

「何?」

 

「それ、誘ってるの?」

 

「……うん」

 

 絢辻さんはしばらく僕を見ていた。それから、自分の袖口へ目を落とす。折り返したところを指で整えている間、僕は返事を待った。

 

「空いてる時間、確認しておくわ」

 

「分かった」

 

「長くは抜けられないかもしれないけど」

 

「一緒にいられるなら、それでいいよ」

 

 彼女の指が止まった。

 

 顔を上げた絢辻さんと目が合う。すぐに何か返ってくると思ったが、彼女は口を開きかけたまま、僕を見ていた。

 

「……じゃあ、休憩に入る前に連絡する」

 

「うん」

 

 絢辻さんが歩き出し、僕も隣へ戻った。折り返した袖はそのままだったが、彼女はもう触らなかった。

 

 校門を出たところで、絢辻さんが足を止めた。

 

「でも、明日だけじゃないからね」

 

「何が?」

 

「会いたい時は、自分から言うこと。あたしが呼ぶまで待ってなくていいのよ」

 

 彼女は僕の返事を待っていた。神社で一緒にいたいと伝えた時よりも、近いところに顔がある。

 

「うん。言うよ」

 

 絢辻さんが右手を差し出した。

 

 僕はその手を見てから、彼女の顔へ目を戻す。

 

「それって、契約?」

 

「ううん、約束」

 

 今度は、迷わず手を取った。

 

 指先は冷たかった。握り返されると、さっきまで風にさらされていた手のひらに、彼女の体温が重なった。

 

 絢辻さんは僕の手を一度見て、顔を上げた。

 

「忘れないでよ」

 

「忘れない」

 

 手が離れた。

 

 彼女は指を曲げてから、その手で鞄を持ち直した。僕もポケットへ手を入れかけたが、結局そのまま下ろして歩いた。

 

 駅へ続く道には、まだ開いている店の明かりが落ちていた。パン屋の前を通ると甘い匂いがして、空腹を思い出した。夕食の時間は、とっくに過ぎている。

 

 ちょうど同じ時に、絢辻さんも店の窓へ目を向けた。

 

「お腹すいたね」

 

「……言わないで。忘れてたのに」

 

「何か買ってく?」

 

「今食べたら、家で夕飯が入らなくなるもの」

 

 そう言いながらも、並んだパンを見ている。僕が立ち止まると、絢辻さんはこちらへ顔を戻した。

 

「買わないわよ」

 

「見てただけだよ」

 

「顔に書いてある」

 

 そのまま歩き出す彼女に追いつく。角を曲がるまで、パン屋の明かりが背中に当たっていた。

 

 いつもの分かれ道で、絢辻さんが足を止めた。

 

「じゃあ、また明日」

 

「うん。また明日」

 

 彼女は手を上げ、帰り道へ向かった。僕も手を振り返し、その姿が角を曲がるまで見送ってから、駅へ向かって歩き出した。

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