絢辻さんを救いたい話 作:紳士
学校へ戻ると、昇降口の明かりはまだついていた。靴箱の前で絢辻さんが立ち止まり、僕も隣で靴を履き替える。廊下には人影がなく、上履きの底が床を擦る音がよく響いた。
教室の扉は、僕が出ていった時のままだった。
絢辻さんが先に入る。机に広げられた資料を見てから、その脇へ屈み、落ちていたペンを拾った。僕も床の紙に手を伸ばす。裏返すと、隅に靴で擦ったような跡がついていた。
「それ、こっちに置いて」
示された机へ紙を戻すと、絢辻さんは他の資料と重ね、端を揃えた。折れた角を指で伸ばしてから、作業表を一番上に載せる。
僕は鞄を自分の席へ置いた。戻ってくる途中で冷えた手を擦り合わせていると、教卓の方から紙をめくる音がした。
「……箱、あと一つあったわね」
「窓際の?」
「うん。蓋を開けてもらえる?」
中には、まだ紐を通していない飾りがまとめて入っていた。絢辻さんは一枚取り上げ、作業表と見比べる。僕も近くへ椅子を寄せたが、彼女は飾りを箱へ戻した。
「これは明日の朝にするわ」
「じゃあ、今日は何を?」
「切りかけの分だけ仕上げて、仕分けまで。そっちの束、お願いしていい?」
「分かった」
鋏を手に取る。絢辻さんは箱に紙を貼り、残っている作業を書き込んだ。それから机の上を空け、切り終えた飾りを色ごとに並べ始めた。
途中まで入っていた切れ目に刃を合わせる。細いところを切り落とさないよう紙を回していると、向かいから手が伸びてきた。
「そこは残して。折るところだから」
「この線?」
「そう。切るのは外側だけ」
教えてもらったところで鋏を止める。確かに、同じように見えていた線は途中から点線になっていた。
「……危なかった」
「危なかった、で済んでよかったわね」
絢辻さんは僕の手元を確かめ、自分の作業へ戻った。僕も紙を持ち直す。先ほどまで床に落ちていたペンが、彼女の右手で作業表に印をつけていった。
教室の時計が進む間、時々、仕分ける場所を尋ねた。絢辻さんが答え、僕が箱へ収める。話すことがなくなれば、それぞれの手元へ戻った。
最後の一枚を切り終えると、机の上には細い紙屑が散らばっていた。僕がそれを集めている間に、絢辻さんは作業表を閉じた。
「今日はここまで」
窓際には、さっきの箱が残っている。彼女はその蓋を閉じ、明日の作業を書いた紙が見える向きに置き直した。僕も鋏を片付け、紙屑を捨てる。
椅子を戻してから顔を上げると、絢辻さんは机の中を確かめていた。何かに手を触れたまま止まり、やがてそれを鞄へ移す。ファスナーを閉じた後も、しばらくその場を動かなかった。
「絢辻さん?」
呼ぶと、彼女はこちらを向いた。
「帰る前に、もう一か所だけ付き合って」
◇
教室の明かりを消し、昇降口へ向かった。途中の職員室で絢辻さんが準備を終えたことを伝えると、中から先生の声が返ってきた。
「お疲れさま。気をつけて帰ってね」
「はい。お先に失礼します」
扉を閉めた彼女に続いて歩く。階段を下りながら行き先を尋ねると、校舎の裏、とだけ返ってきた。
靴を履き替えて外へ出る。絢辻さんは校門へ向かわず、建物に沿った通路を進んだ。角を曲がると、窓の明かりも届かなくなる。外灯の下に、古い焼却炉があった。
その前で、彼女は鞄を開いた。
取り出されたものを見て、僕は足を止めた。
手帳だった。
指先で押さえられた表紙も、使い込まれた角も、覚えていた。拾った時には、その小さな一冊から何を知ることになるのか、考えもしなかった。
「……それ、持ってたんだ」
「毎日使うもの」
絢辻さんは手帳を開いた。何枚ものページに細い文字が並んでいる。書き足した箇所には印があり、端には小さな付箋もついていた。
僕は中を覗かず、彼女の手元から目を上げた。
「随分書いたわね」
絢辻さんはページの厚みを親指でなぞった。途中で一度止まり、何かを読んでから、次へめくる。
「頼まれたこととか、好きなものとか。覚えておくと便利なのよ。前に話したことを覚えてると、喜ぶ人もいるし」
紙をめくる音が続いた。外灯の光を受けたページに、何本も引かれた線が見えた。
「こう言えば断らない、とか。そういうことも書いたけど」
僕は、自分の名前の下にあった文字を思い出した。頼まれると断れない。あの時は驚いたが、すぐには否定できなかった。
「僕のところにも、あったね」
「……ええ」
彼女はページを戻しかけ、やめた。そのまま手帳を閉じ、両手で挟む。
「まだ、その通りだと思う?」
尋ねると、絢辻さんは僕を見た。
「部活を最後までやりたいって、断ったじゃない」
「そうだったね」
笑っていいのか迷った。彼女も笑わなかったが、僕から目を逸らすことはなかった。
やがて、手帳の表紙へ視線を落とした。
「またこれを開いて、望月君に何て言えばいいか考えるのは、もう嫌なの」
声は静かだった。
僕は何か答えようとしたが、言葉が浮かぶ前に、彼女が鞄へ手を入れた。取り出した小さなライターを見て、手帳と焼却炉へ交互に目を向ける。
「燃やすの?」
「うん」
絢辻さんはライターを握ったまま、閉じた手帳を見ていた。表紙を押さえる指が動き、一度だけ角を撫でる。
「覚えておきたいことも、あるんだけどね」
何が書いてあるのかは聞かなかった。僕が読んだのは、その中の何ページかだけだ。
彼女は表紙を開いた。最初のページに目を落とし、そこから束になった紙をゆっくりと送り、最後まで見た。閉じる時、付箋が一枚、表紙の外へはみ出した。絢辻さんはそれを中へ戻した。
焼却炉の扉が軋んだ。
僕が鞄を預かると、絢辻さんは屈み、手帳を炉の中へ置いた。ライターが乾いた音を立て、小さな火が灯る。彼女の手に隠れて炎が見えなくなり、ほどなく紙の端から細い煙が上がった。
手を引いた絢辻さんが立ち上がる。
紙が縮れ、火がページの縁を伝っていった。隙間にあった文字が浮かび、それも黒く変わっていく。拾った時にはあんなに目が離せなかったのに、今は一つも読み取れなかった。
絢辻さんは、握ったライターを下ろしたまま見ていた。
僕も隣へ立つ。炉の中で紙が崩れ、炎が高くなった。顔に熱が届いてから、自分が近づきすぎていたことに気づき、半歩下がる。
絢辻さんは動かなかった。
表紙が反り、綴じられていたページの形が崩れていった。彼女の指が一度ライターを握り直したが、それ以上は何もしなかった。
僕たちは、火が小さくなるまでそこにいた。
「望月君」
呼ばれて顔を向ける。絢辻さんはまだ炉の中を見ていた。
「覚えておいてね」
「うん」
彼女がこちらを向いた。
「ここがあたしの再出発点だから」
外灯の下で、黒い瞳が僕を捉えていた。
「うん。覚えておく」
絢辻さんは頷いた。それからもう一度、形の崩れた手帳へ目を戻した。
火が消えた後、傍の水道から汲んだ水で燃え残りを濡らした。絢辻さんは最後まで確かめ、焼却炉の扉を閉める。預かっていた鞄を返すと、彼女はライターをしまった。
いつもなら手帳を入れるはずの場所に、何も入らなかった。
◇
校舎の角を曲がると、校門の明かりが見えた。
絢辻さんは手を擦り合わせながら歩いていた。さっき水道を使った時に袖が濡れたらしく、片方だけ折り返している。
「明日、忙しい?」
僕から尋ねると、彼女が顔を向けた。
「朝はね。始まってからも、何度か確認に回ると思う」
「休憩は取れそう?」
「交代で取ることになってるけど。どうして?」
校門へ向かう足を緩めた。
「時間が空いたら、絢辻さんと一緒にいたい」
彼女も歩調を落とす。
「どこか回ったり、何か食べたり。いつ頃なら空いてる?」
言い終えると、急に彼女の顔を見づらくなった。門の向こうへ目を逃がしかけたところで、名前を呼ばれる。
「望月君」
「何?」
「それ、誘ってるの?」
「……うん」
絢辻さんはしばらく僕を見ていた。それから、自分の袖口へ目を落とす。折り返したところを指で整えている間、僕は返事を待った。
「空いてる時間、確認しておくわ」
「分かった」
「長くは抜けられないかもしれないけど」
「一緒にいられるなら、それでいいよ」
彼女の指が止まった。
顔を上げた絢辻さんと目が合う。すぐに何か返ってくると思ったが、彼女は口を開きかけたまま、僕を見ていた。
「……じゃあ、休憩に入る前に連絡する」
「うん」
絢辻さんが歩き出し、僕も隣へ戻った。折り返した袖はそのままだったが、彼女はもう触らなかった。
校門を出たところで、絢辻さんが足を止めた。
「でも、明日だけじゃないからね」
「何が?」
「会いたい時は、自分から言うこと。あたしが呼ぶまで待ってなくていいのよ」
彼女は僕の返事を待っていた。神社で一緒にいたいと伝えた時よりも、近いところに顔がある。
「うん。言うよ」
絢辻さんが右手を差し出した。
僕はその手を見てから、彼女の顔へ目を戻す。
「それって、契約?」
「ううん、約束」
今度は、迷わず手を取った。
指先は冷たかった。握り返されると、さっきまで風にさらされていた手のひらに、彼女の体温が重なった。
絢辻さんは僕の手を一度見て、顔を上げた。
「忘れないでよ」
「忘れない」
手が離れた。
彼女は指を曲げてから、その手で鞄を持ち直した。僕もポケットへ手を入れかけたが、結局そのまま下ろして歩いた。
駅へ続く道には、まだ開いている店の明かりが落ちていた。パン屋の前を通ると甘い匂いがして、空腹を思い出した。夕食の時間は、とっくに過ぎている。
ちょうど同じ時に、絢辻さんも店の窓へ目を向けた。
「お腹すいたね」
「……言わないで。忘れてたのに」
「何か買ってく?」
「今食べたら、家で夕飯が入らなくなるもの」
そう言いながらも、並んだパンを見ている。僕が立ち止まると、絢辻さんはこちらへ顔を戻した。
「買わないわよ」
「見てただけだよ」
「顔に書いてある」
そのまま歩き出す彼女に追いつく。角を曲がるまで、パン屋の明かりが背中に当たっていた。
いつもの分かれ道で、絢辻さんが足を止めた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
彼女は手を上げ、帰り道へ向かった。僕も手を振り返し、その姿が角を曲がるまで見送ってから、駅へ向かって歩き出した。