絢辻さんを救いたい話 作:紳士
教室の灯りが、背後で消えた。
廊下の床に伸びていた四角い光がなくなり、窓辺の電飾だけが残った。扉を閉めた生徒が僕たちを追い越し、階段の手前で振り返る。絢辻さんが挨拶を返すと、その姿も見えなくなった。少し前まで誰かの声で埋まっていた校舎に、二人の足音が響いた。
話したいことがあると言って連れ出したのに、階段を下りきっても、僕はまだその話を始められずにいた。絢辻さんは行き先を尋ねることもなく、昇降口の手前で僕が立ち止まると、隣で足を止めた。
「ツリーのところに行ってもいい?」
「うん」
昇降口で靴を履き替え、外へ出る。扉を開けた途端、冷たい空気がコートの襟元へ入り込んだ。校庭の向こうでは、畳まれた机を運んでいる人がいた。台車の車輪が舗装の継ぎ目を越える音がして、それも校舎の陰へ消えていった。
ツリーはまだ灯っていた。
明かりの下にいた人たちは、もういない。さっき二人で飲み物を持って立っていた場所まで歩くと、足元に落ちた金色の紙が一枚、風に押されて転がった。絢辻さんはそれを拾い、折り畳んでコートのポケットへ入れた。
「終わっちゃったね」
ツリーを見上げたまま、彼女が言った。
「うん」
「明日の朝も、何か忘れてないか考えながら起きそう」
僕は黒板の端に並んでいた作業項目を思い出した。横線が引かれるたびに別の仕事が増え、帰る頃には、また明日の分が書き足されていた。あの黒板も、さっき最後に残った生徒が消していた。
「今日の仕事は、もう終わり?」
「ええ。あとは帰るだけ」
それでも彼女は校舎の方を見た。窓に映っているツリーの明かりが、風に合わせて動いている。その窓のどれが僕たちの教室なのか、外からでも分かった。今朝はあそこに、青い飾りが掛かっていた。
片付けの時、飾りを外した窓からは、向かいの校舎がいつもよりよく見えた。使いかけのテープも鋏も、もうそれぞれの場所に戻っている。黒板のそばの棚には、青い帽子の雪だるまが残っていた。曲がった帽子を、結局あのままにしてある。
「……楽しかったわ」
絢辻さんの声につられて、僕も校舎から目を戻した。
「昼も言ってたけど、今はもっとそう思う。準備してる時は、早く終わってほしかったのにね」
「もう少しあってもよかった?」
「少しくらいなら」
彼女は笑った。僕も笑い返し、それから何も言えなくなった。
明日からは、準備のために教室へ戻ることもない。机を寄せて座ることも、切り終わった紙を渡すことも。学校へ来れば同じ教室にいるのに、あの放課後だけは、もうどこにもないのだと思った。
絢辻さんがこちらを向いた。
「それで、話って?」
このまま、また明日と言って帰ることもできた。昨日までと同じように、会う時間を決めるだけでも、彼女は頷いてくれるかもしれない。
けれど、それでは足りなかった。
「僕、今日はまだ帰りたくない」
絢辻さんは瞬きをした。
「……ここ、もうすぐ閉まるわよ」
「分かってる。学校に残りたいってことじゃなくて」
そこで一度言葉が止まった。うまく話せるように考えていたはずなのに、目の前に絢辻さんがいると、用意した順番が分からなくなる。
「絢辻さんと、離れたくないんだ」
彼女の唇が開き、何か言いかけたまま止まった。僕を見る目から、さっきまでの笑いが消える。けれど、顔を背けられることはなかった。
「……絢辻さん」
白い息が、言葉のあとからこぼれた。
「好きです。僕と、付き合ってください」
言い終わっても、周りの音は何も変わらなかった。遠くで台車が動き、枝についた飾りが触れ合っている。ただ、自分の心臓の音だけが、さっきより近くに聞こえた。
絢辻さんは僕を見ていた。やがて顔が下がり、長い髪に頬が隠れた。近くの枝が揺れるたび、赤と黄色の光が彼女のコートを滑った。
「……一昨日、あたしがあんなことを言ったから?」
声が聞こえた。
「考え直してくれたの?」
「自分の気持ちを考えたのは、あのあとだよ。でも、好きになったのは、もっと前だと思う」
彼女が顔を上げる。
「いつ?」
「それは、分からない」
答えると、眉が寄った。こんな時くらい、はっきりと言えたらよかった。けれど、思い返すたびに別の場面が浮かんできて、どれか一つを選ぶことはできなかった。
「最初に手伝った時は、こんなふうになると思ってなかった。何かできることがあればって、それくらいだったんだ」
「……そうでしょうね」
「でも、途中から、手伝いに行くって言うと安心してた」
「安心?」
「会いに行く理由になるから」
言ってしまうと、手伝いに行く時には感じなかった恥ずかしさがあった。
終わっていない仕事がある。誰かが手伝った方が早い。そう言えば、部活を終えてから教室へ戻ることも、駅へ向かう足を止めることも、僕には説明できた。彼女に頼まれていなくても、行っていいと思えた。
何をすれば役に立つかは、ずいぶん考えた。その前に自分が何をしたがっているのかは、何度も後回しにしていた。
「図書室で一緒に本を読んだ時、三十分が、思ってたよりずっと早く過ぎたんだ」
窓際の机を思い出した。話さなくなってからも、隣ではページをめくる音がしていた。姿勢を変えた時の衣擦れまで聞こえる距離に、彼女は座っていた。
「本が面白かったから?」
「それもあると思う。でも、今なら、絢辻さんと一緒だったからかなって」
絢辻さんはこちらを見たまま、何も言わなかった。
「今日も、戻らなきゃいけないって言われた時、まだ一緒にいたかった」
「……一緒にいたじゃない。打ち上げでも」
「うん。でも、あれだけ人がいても、絢辻さんがこっちを見たら分かった」
彼女が視線を落とした。
僕もそれ以上、理由を並べるのをやめた。全部話そうとすれば、今まで過ごした放課後の分だけ、ここにいなければならなくなる。
「一昨日、そばにいてほしいって言ってくれたことに、昨日は嬉しかったって答えたけど。僕も、そばにいてほしい。絢辻さんに何かしてあげられる時だけじゃなくて、何もなくても」
彼女は俯いたまま動かなかった。急いで返事をもらいたい気持ちと、このまま聞いていてほしい気持ちが、両方あった。僕の白い息が届く手前で薄れ、次の息も同じところで消えていった。
「……ずるいわね」
「え?」
「あたしに言わせたあとで、自分はそういう言い方をするの」
顔が上がる。怒っているようにも見えたけれど、目が合うとすぐに逸らされた。ツリーの明かりを映した横顔に、僕は続きを言えなくなった。
「でも、まだ分からないでしょう」
次にこちらを見た時、声は低くなっていた。
「あたしが、どんな人間なのか」
◇
ツリーの明かりの中を、白いものが横切った。
最初は、また飾りの切れ端が飛んだのかと思った。けれど、それは彼女の肩に落ち、コートの上で小さな水の跡になった。空を見上げるほどの余裕はなく、僕は絢辻さんの顔へ目を戻した。
「望月君の知らないこと、まだあるの」
「うん」
「今、一緒にいて楽しいからって、この先もそうだとは限らない」
彼女の指が、持ち手を強く握った。
「話したら、そんなこと考えてたのかって、嫌いになるかもしれない。……自分でも、どう説明したらいいか分からないことだってあるの」
僕は答えかけて、口を閉じた。
そんなことはない、と言いそうになっていた。今まで見てきた絢辻さんを思い出せば、それを言うための理由はいくらでも並べられた。けれど彼女が話しているのは、その中にないものだった。
「まだ聞いてないから、大丈夫だって簡単には言えないけど」
絢辻さんの目が動いた。
「……だったら」
「でも、聞きたい」
彼女の言葉が止まる。
「知らないことがあるから、ここで終わりにしたいとは思わない。これからも会って、話して、知っていきたい」
「いい話ばかりじゃないのよ」
「それでも、絢辻さんから聞きたい」
風が吹き、彼女の髪が顔へ掛かった。絢辻さんはそれを直さなかった。僕も手を伸ばせないまま、髪の隙間からこちらを見ている目を見つめた。
「それを聞いてから、決めればいいじゃない」
「好きかどうかを?」
「……そうよ」
「今、好きなんだ」
彼女が黙った。
「全部知るまで待ってたら、いつ言えるのか分からない。今、絢辻さんと一緒にいたい。それを、また言わないまま帰りたくないんだ」
言葉を切ると、呼吸の音まで聞こえた。思っていたよりも強い声が出ていた。絢辻さんは何も言わず、風に髪を乱されたまま、こちらを見ていた。
図書室で渡された本の表紙が浮かんだ。
面白かったことにしなくていい。聞きたいのは、僕が本当に思ったことだと、彼女は言った。
「……僕だって、怖いよ」
それも、口から出た。
「何が?」
「今、返事を聞くのが」
口にしてしまうと、黙っていた時よりも怖くなった。絢辻さんの顔を見ながら、僕は続けた。
「昨日、話せるようになったばかりなのに、これを言って、もう会いたくないと思われたらどうしようって。廊下を歩いてる間も、ずっと考えてた」
「……あたしが、そう言うと思ったの?」
「そんなことは言わないって、思ってた。でも、返事を聞くまでは、やっぱり怖いんだ」
笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「ごめん。格好悪いね」
絢辻さんは何も言わなかった。
彼女の足元を見てしまいそうになって、顔を上げ直した。膝の脇に下がった鞄が重い。持ち直そうとした指がうまく動かず、同じところを握り直す。好きだと言った僕をどう思うのか、それが聞きたかった。
雪がもう一つ、二人の間へ落ちた。
絢辻さんは、ようやく髪を耳に掛けた。上げた手をすぐには下ろさず、指先を耳の後ろへ当てたまま、目を伏せる。
「……会いたくないなんて、思わないわよ」
胸の奥に詰めていた息が、そこで初めて抜けた。
彼女は鞄を足元へ下ろした。持ち手から離れた指が、コートの袖に半分隠れる。僕の方へ身体を向け直してから、絢辻さんは顔を上げた。
「今日、望月君が誘ってくれて、嬉しかった」
「うん」
「何を手伝えばいいかじゃなくて。一緒に回りたいって、言ってくれたから」
僕は頷いた。
「だから、ちゃんと時間を空けたの。本部の交代も確かめて。……呼ばれたら戻らなきゃいけないのは分かってたけど、できるだけ長くいられるように」
窓際で待っていた彼女を思い出した。何も持っていなかった両手と、こちらを見つけて窓から離れた姿。その前にどんなふうに時間を作ったのか、僕は聞いていなかった。
「もっと一緒にいたかったのは、あたしも同じよ」
絢辻さんはそこで言葉を切った。校舎の方で重い扉が閉まり、風の音が戻ってくる。その中に、息を吸う音が聞こえた。
「望月君に、何かしてほしいことなら、いくらでも言えたのに」
視線が僕の胸元で止まる。
「今は、うまく言えない」
僕は自分の鞄を地面へ置いた。立ち上がると、絢辻さんの目がこちらへ戻る。何も持たなくなった手は、コートの脇で冷えていた。
「待ってるよ」
絢辻さんは一度、目を閉じた。黒い髪に乗った雪は、すぐには消えなかった。小さな白い粒が形を失っていく間、枝の飾りが触れ合う音がしていた。
「……あたし……ううん。わたし、望月君のことが好き」
開かれた目が、僕を見た。
「一緒にいたい。明日も、そのあとも」
聞こえた言葉を、もう一度胸の中で繰り返した。明日も、そのあとも。彼女の唇はもう動いていないのに、その声だけがいつまでも残っていた。
頷こうとして、喉の奥が詰まった。絢辻さんの顔が見えなくなるのが嫌で、目を伏せることもできなかった。
「……うん」
ようやく返事をすると、彼女の口元に笑みが浮かびかけた。けれど、それが形になるより先に、二人の間の距離がなくなった。
コートの胸元に額が触れ、両腕が背中へ回される。僕は足を踏み直して彼女を受け止めた。俯いた頭がすぐ下にあり、髪に乗っていた雪が顎に触れた。
彼女の肩の向こうへ腕を伸ばした時、あの夢の感覚が一瞬よみがえった。白い景色の中で、触れようとしても動かせなかった手。指先を開くと、今はコートの布地に触れた。冷えた表面を手のひらで包み、そのまま背中へ腕を回す。絢辻さんの身体が動き、僕を抱く腕にも力がこもった。
どのくらい強く抱きしめていいのか、分からなかった。手の位置を直そうとすると、彼女の指が僕のコートを掴んだ。背中に寄った布が引かれる。その力に合わせて、もう一度抱き寄せた。
髪が頬に触れた。いつか傘の下で感じた、石鹸に似た匂いがした。彼女が息を吐くたび、胸元でコートが動く。自分の鼓動も伝わっているのだろうと思うと、余計に速くなった。けれど、今はもう隠しようがなかった。
校舎の方で、戸を閉める音がした。
遠くに残っていた物音も、やがて途切れた。風がツリーの枝を揺らし、飾り同士が触れ合う。目を上げると、明かりの届くところだけ、降ってくる雪が見えた。赤や黄色をかすめて白く戻り、彼女の肩へ落ちる。一粒が溶け、布に染みて見えなくなった。
ずっと、何か言わなければと思っていた。昨日も、今日も、ここへ来るまでの間も。今は、声をかけたら彼女が顔を上げてしまうかもしれない。それが惜しくて、何も言えなかった。
絢辻さんが、僕の胸元へ額を寄せ直した。
腕の中にいる人の重みを受け止めながら、髪に頬を寄せた。黒い髪にも、僕の肩にも、雪は降り続いていた。払おうとは思わなかった。
背中に回された腕がほどけないまま、僕も、絢辻さんを抱きしめていた。
「ねぇ、望月君」
胸元から声がした。腕を緩めかけると、背中のコートを引かれた。
「あのかめさんね。やっと、自分に気づいてくれる人に会えたんだって」
絢辻さんは僕の胸に額を預けたまま、黙っていた。やがて、コートを掴んでいた指が緩み、背中に手のひらが添えられた。
僕も、彼女を抱く腕に力を込めた。
やがて絢辻さんが顔を上げた。すぐ近くで目が合う。何か言おうとした僕より先に、彼女が微笑んだ。
「わたし、あなたに会えて良かった」
↓以下は作者コメントとなりますので、読みたい方だけぜひ。
ここまでご読了いただき、本当にありがとうございました。
これにて、『絢辻さんを救いたい話』は完結とさせていただきます。
橘純一が別のルートを選んだとしても、絢辻さんのそばに立ってくれる人がいる。「わたし」を見つけて、二人の世界を築き上げた原作には到底敵いませんが、違う世界でも誰かに必要とされ、誰かに愛されて、ずっと走り続ける彼女の隣を歩いてくれる人がいる。そんな、原作とは少し違った一つのエンディングとして、本作を受け取っていただければ幸いです。
読んでいただいた方の中には、「救う」というタイトルに疑問を持った方もいるかもしれません。そもそも絢辻さん自身、誰かに「救われる」ことを望んでいるわけではないでしょうし、ゲームやアニメを外側から見ている私たちが、「この子は救われるべきだ」と決めつけること自体、少し烏滸がましいことなのかもしれません。『絢辻さんを救いたい話』と銘打ちながら、最後には少しだけ、そのタイトルへのアンチテーゼのようなところへ辿り着きました。
最初は「助けたい」と思って近づいた湊が、最後にはそれとは別の理由で彼女の隣にいる。そのあたりも含めて楽しんでいただけていたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。
ちなみに純一については、森島先輩のスキBESTルートを走っている想定です。創設祭の日に二人とも姿が見えないということは……?
この作品については、作者自身が六年もの空白期間を作ってしまいながら、その間にいろいろな経験をして、こうしてまた戻ってきて、最後まで書き切ることができました。
六年越しでも待っていてくださった方。
再投稿してから見つけてくださった方。
感想や評価をくださった方。
ここまで読んでくださったすべての方に、心から感謝しています。
学生時代、絢辻さんのエンディングで脳を焼かれ、その後しばらく喪失感に苛まれた方も多いのではないでしょうか。そのせいで他ルートへ行こうとしてもナカヨシ止まりになったり、あるいはスキBADを見てしまったり。座標40-48の話なんかも含めて、色々と思い当たる方もいるかもしれません。
かくいう私も、その一人でした笑
だからこそ、この物語が同じように絢辻詞というヒロインに心を掴まれた誰かにとって、ほんの少しでも拠り所になるような作品になっていたなら、とても嬉しく思います。
また機会があれば、「ちょっとおまけ劇場」と題して、本編では書き切れなかった小話や、十年後までとは言わない、最終話から少し先の二人の話なんかも書けたらいいなと思っています。
それでは。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
また、どこかでお会いしましょう。