嵐の夜。
雨風が大気を切り裂いて。
それでもなお、その古傷だらけの深海棲艦の声はよく通った。
「見逃シテヤル」
確かに、そう聞こえた。
口裂け女と呼ばれた、ル級flagship。
トラック泊地の敵対者。
その言動は、明らかに艦娘への怨みに満ちていた。
なのに、いよいよ艦娘たちの艦隊陣形を崩せるとなったその瞬間、彼女たちはなぜか追撃を止めた。
命までは奪おうとはしなかった。
砲口は、向けたまま、18人の深海棲艦たちは停止した。
3つの艦隊からなる深海連合艦隊はほとんど無傷。
対する艦娘たちは、損傷が大きい。息は荒く、艤装は壊されて、抗う力は残されていない。
勝敗は明らかだった。
「小娘ドモ。トラック泊地ニ帰ルガイイ。我々ハ、貴様ラナンゾニ興味ハ無イ」
口裂け女は強かった。
彼女が率いる艦隊は、1人の負傷者もださずに6人の艦娘たちを完封してのけた。
この2勢力の間には、もちろん数の差はあったけど、それだけではここまで一方的な結果にはならなかっただろう。
数においても、腕においても、口裂け女の艦隊が上回っていた。
負けたのだ。
ここから先、艦娘側に自由はない。
与えられた選択肢から選ぶしかない。
矜持を胸に、全滅するまで戦うか?
屈辱をのみこんで、生き延びるために撤退するか?
大和は、後者を選んだ。
「撤退」
そう命令されてしまっては、随伴艦の少女たちは従うしかない。
唇を噛んで、負傷した味方に肩を貸しながら、のろのろと撤退していった。
が、大和だけは違った。
まったく動こうとしなかった。
口裂け女を睨んだまま、嵐に立ち向かう灯台のごとく立っている。
「大和さん……?」
「私は、ここに残ります」
「え?」
誰もが耳を疑った。
「――というよりも、帰れません。“大和だけは逃がさない”……そうでしょう、先輩?」
口裂け女は、にぃぃと凶悪に笑う。
「ソウダ、ソノ通リ。ヨォク分カッテルジャナイカ……」
その深海棲艦はこう言った。
狙いは初めから大和1人だけだった、と。
他の艦娘は眼中に無い。
なぜならこれは復讐なのだから。
怨みとは、ぶつけるべき相手がいるものだ。
他の有象無象は関係ない。
だから他の艦娘は見逃してやる。……尤も、抗うなら別の話だが。
――大和を、置いていく。
艦娘たちは食い下がった。
仲間を見捨てていけるはずがない、と。
しかし大和はぴしゃりと遮った。
「あなたたちにそういう口を利く権利はない」
「っ」
「仲間を見捨てたくない? そんなの、誰だって同じ気持ちでしょう。私だって分かります。仲間はできる限り助けたい。……でもね、今のあなたたちにそれができますか? できるのなら、ともに戦いましょう。私だって死にたいわけじゃありませんからね。……で、どうなんです? 勝てるんですか?」
「そ、それは、やってみなければ……」
「やってみる?」
大和の声色が変わる。
「甘ったれたことを――言うんじゃない!」
一喝。
「これだけは肝に銘じなさい。こうなったのは、何のせい? 敵のせい? それとも運命のせいですか? ……違います。私たちが弱いせいですよ。私も含めて、腕がなかったのが悪いんです。だから、ちゃんと鍛えなさい。次はちゃんと救えるように。分かりましたか?」
風が吹く。
大和1人と随伴艦たち、その間を遮るように。
艦娘たちは、誰も抗えず。
涙を呑んで、遠ざかるしかなかった。
戦場には大和だけが残された。
大和1人と、深海棲艦が18人。
もう戦いは終わっている。
あとは事後処理を残すのみ。
「一丁前ニ、ナッタジャナイカ。臆病者ノ、小娘ガ」
「怨み言なら聞きましょう」
「フン。ソンナモノ」
口裂け女は目を眇め、ゆっくりと相手の損傷を確認した。
右腿。
右横腹。
左胸部。
左肩。
そして頭部からは血が流れ、右目を塞いでしまっている。
大破している。
もう一押しで、大和は沈む。
口裂け女は右手を挙げて、周囲の深海棲艦たちに砲を下げさせた。
自分がとどめを刺すために。
「……一応、聞かせてください」
「何ヲダ?」
「私たちを怨んだ、その理由です」
「怨マレル覚エハ無イ……トデモ、言イタゲダナ?」
「あなた達は、轟沈した。それは対潜攻撃をできる艦娘がついていかなかったせいです」
「……ソレデ?」
「でも、原因はあなたたちにあります。味方殺しの戦艦……それは確かに誤解でしたが、そう思われても仕方ない振る舞いをあなたたちはしていたんです」
「何ヲ言ウカト、思エバ……。大和ヨ、貴様ハ……思イ違イヲシテイルナ」
「思い違い、ですって?」
「タッタ今、貴様モ言ッテタダロウ? 誰カガ死ヌノハ弱サノセイダ、ト。マサニ、ソレヨ。8年前、我々ガ沈ンダノハ、我々ガ弱カッタノガ悪イノダ。潜水艦ノ包囲網ヲ、抜ケラレナカッタ。ソレダケヨ」
「では、どうして……」
「ドウシテ? クックッ……ドウシテ、ダッテェ?」
肩を揺らしながら。
心底、面白そうに口裂け女は首を傾げてみせた。
「貴様ラ、当時ノトラック泊地ノ艦娘ハ……戻ッテキタ我々ニ、ナント言ッタ?」
かつて轟沈してしまった4人の戦艦娘たち。
彼女たちは深海棲艦になったことに気づかずに、トラック泊地に戻ってきた。
しかしなぜか警戒されている。
様子がおかしい。
無線を繋いだ。
艦名を伝えた。
そうしたら、その名の艦娘たちはもう沈んだ、と返された。
口裂け女たちは驚いた。
自分たちが深海棲艦になってしまったことに気がついた。
もうトラック泊地には戻れない……納得はできなかったが、理解はできた。
人類と深海棲艦は、水と油の関係。
けして相容れないだろう。
だから上陸させてもらえない。
仕方のないことだった。
ここまではいい。
問題は、直後に攻撃されたこと。
敵対の意志はないと、何度も伝えた。
しかし返されたのは砲弾の雨だった。
『化け物が一丁前の口を聞くな!』
『海の底に沈め!』
「――我々ハ、確カニ、艦名ヲ伝エタ。元ハ艦娘ダ、ト……。ソノ上デ『オ前ラハ要ラナイ』ト、サレタノダ。……存在ガ否定サレタノヨ。コレホドノ侮辱ガアルカ? 我々ハ、何ノタメニ国ヲ守ッテキタノダ? アレガ、カツテノ同胞ニ行ウ事カ?」
傷だらけのル級flagship。
彼女の頬から、笑みが消えた。
「ダカラナ、我々ハ、報イヲ受ケサセル事ニシタノヨ。人様ニ『要ラン』ト言ウノナラ、今度ハ自分ガ『要ラン』トサレテモ文句ハ言エマイ?」
「……だから、殺したんですか」
「ソウダ。アノ当時、トラック泊地ニ居タ艦娘ハ……特ニ、我々ヲ攻撃シ、罵声ヲ浴ビセタ艦娘ハ……必ズ殺スト、心ニ決メタ」
「だから、3年前! 提督も殺したんですか!」
「ソウダ。アノ、ボンクラ……攻撃命令ヲ出シタロウ?」
「あれほど世話になったのに……!」
「ハッ! 管理業務ヲ、世話トハ呼バンヨ。アンナ奴、畜生ニモ劣ル」
人に仇なす深海棲艦――その称号に相応しい、捕食者の貌が表れる。
「ソシテ、貴様デ、終ワリダ。大和……貴様ヲ沈メレバ、我々ノ復讐ハ完遂サレル」
「……」
「トハイエ、貴様ハ8年前、我々ヲ攻撃シナカッタ。果タシテ殺シテモヨイモノカ……迷イガ無イト言エバ、嘘ニナル」
「今さら、何を言うんです?」
「命マデハ獲ラント言ッテイル。土下座シロ。ソシテ詫ビヲ入レルノダ。『排斥ヲ止メナカッタ私ニ非ガアリマシタ』トナ。ソウスレバ、許シテヤルヨ」
「ふふ」
大和は、不敵に微笑んだ。
「その種の後悔は、確かにあります。ありますが……提督と仲間たちを殺してきたあなたたちに下げる頭はありません!」
中指を立てる。
愛らしい駆逐艦娘の得意技。
精いっぱいのファックユー。
「イイゾォ……」
口裂け女は、壮絶に嗤った。
「ソレコソ、
一切の躊躇なく。
16inch三連装砲が火を噴いた。
砲弾は雨粒を飛び散らし、まっすぐ大和の心臓部へと吸いこまれる。
直撃。
装甲を食い破り、柔らかな肉を抉り潰す。
大和の足が宙に浮き、長身が海面に叩きつけられた。
波へとぶつかる。
慣性のままに天を仰いだ。
腕はずぶずぶと浸かって、血潮あふれでる胸元は海水に浸かり――だが、そこで止まった。
「……オヤ?」
大和は、動かない。
が、それ以上は沈まなかった。
「マダ、生キテイルノカ……。流石ハ、大和型。シブトイモノダ」
覗きこみ、確認する。
「ま、まだです……」
口裂け女は驚いた。
胸が潰れているかもしれないのに、まだ喋ってる。
「あの、子が……いる……」
「ナンダッテ?」
「ゆう……だち……」
大和は、か細い声を繋げて、こう言った。
――砲撃命中率100%の駆逐艦がいる、と。
全員が鼻で笑った。
そんな奴がいるわけない。
所詮、沈む間際の虚仮おどし。
誰もがそんな戯言を信じなかった。
口裂け女は淡々と、とどめを刺すために主砲を構えた。
すると、
「ム……」
海が、
大和の周りの海が、煌々と赤く色づいた。
出血の色ではない。
「コレハ……。ドウヤラ海ガ、貴様ヲ歓迎シテイルヨウダゾ」
新たな深海棲艦を作るため。
海が、生け贄を喜んでいる。
「貴様ハ、殺ス。……ガ、コノ生キ地獄ニ連レコムノハ、ヤハリ忍ビナイ」
ガチャリ、と。
口裂け女は、16inch三連装砲を構え直した。
照準を、大和の眉間へ。
「頭ヲ、砕ク。ソウスレバ、例エ深海棲艦ニナロウトモ、記憶ト人格ハ消エルダロウ。――サラバ、大和」
そして。
トリガーが、引かれた。