黎明廻戦   作:鯖のごった煮

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第一一話 『なきがらの海』

 領域展開。

 

 それは、呪術における最奥の技術。術式を極めた先に辿り着く呪術戦における奥義。術師は勿論、呪霊でも使える存在は限られた、文字通りの必殺技だ。

 

「ここは…」

『くらい、くら゙いぃぃ……』

 

 乙骨の視界一面には、真っ青な水面が広がっていた。太陽はおろか星すら見えない空の下、どこまでも続く透き通った水面。乙骨たち以外に生物も全くいないためか、広がる波紋が嫌に目に入った。

 

 さざめく水面の先。乙骨の足元には、無数の骨が敷き詰められている。

 

 頭蓋骨、肋骨、脊柱、骨盤——種類を問わない沢山の骸たち。ぐしゃぐしゃにひび割れ歪んだそれらが、青い水の下に海砂のごとく横たわっていた。乙骨の足裏にも尖った凹凸が感じられる。余すところなく骸が沈んでいるというのに、満ちる水は不気味なほどに澄んでいた。おかげで、連綿と地面を埋める白骨が良く見える。

 

 これが、ボンドルドの生得領域。

 

「ユウタ、どうぞ体を楽にして下さい」

 

 ボンドルドの領域は、既に名が失われている。

 

 領域展開とは自身の生得領域、つまりは心象風景を呪力で周囲に構築する行為。しかし、度重なる『精神隷属機(ゾアホリック)』の使用により分散、変質したボンドルドの精神は、もうまともな生得領域を宿していない。歪み、狂いきってしまったそれは、本来領域として展開することもままならないレベルのものなのだ。

 

 彼の領域を領域たらしめているのは、ひとえにその洗練さと、そして彼自身の強固な意志によるもの。『精神隷属機(ゾアホリック)』の影響すら意に介していないそれにより、ボンドルドは領域の展開を可能としていた。

 

 名を喪っても、人間性を喪っても、自らが抱いた祈り、願いを、ボンドルドは決して忘れない。

 

「ッぐ、ゔぅ」

『ゆゔた!?』

 

 乙骨は突然に左の手の平を頭にあてがい、両膝をゆっくりと水面に沈めた。骨が刺さって膝が痛い。頭が痛い。目眩がする。何の脈絡もない、唐突な事態。これは、この現象は、つまり。

 

「領域、の……必、中…!」

「…ご明答です、ユウタ」

 

 領域展開は、生得領域を周囲に構築することが本質ではない。むしろ呪術戦における領域展開の意義、長所は、その先にこそ存在している。

 

 周囲一帯に拡げられた領域は、術者の生得術式を付与することで始めて領域として完成する。それ以前のものはあくまで不完全な領域。領域展開における絶大なアドバンテージを得ることが出来ていないのだ。

 

 その長所とは、付与された術式の必中効果。術式の刻まれた領域は術者自身の体内に等しく、故にその攻撃は必ず当たる。領域に巻き込まれた者は例外を除き、術者の攻撃を躱す手段が存在しないのだ。だからこその呪術の奥義。ボンドルドの場合は子機としての魂の部分で繋がっている白笛を介することで、『精神隷属機(ゾアホリック)』に刻まれた術式を領域に付与している。

 

 即ち、強制洗脳。

 

「ぐ、うぅ……」

『ゆゔたぁぁ゙ぁ』

「安心して下さい。術式効果は弱めてあります。少々頭が痛むだけです」

 

 ぴしゃり、ぴしゃりと。水たまりに蹲る乙骨の元に、ボンドルドが余裕げに歩み寄る。

 

 ボンドルドは彼の言葉通り、自身の術式の出力を大きく弱めていた。今の乙骨は精神を大きく乱されてこそいるが、ただ乱されているだけだ。このままボンドルドが術式を解除すれば、すぐさま立ち上がり反撃を開始するだろう。

 

 あれから2年を経た現在。祈本里香という呪霊の根源について、ボンドルドは彼なりの結論を導き出していた。

 

『大丈夫』

「う、ん。まだ、動け、る」

 

 光明は、2年前のボンドルドと乙骨の戦いの中にあった。

 

 あの時、ボンドルドが放った『枢機へ還す光(スパラグモス)』。それで両腕を寸断された直後から、見るからに祈本は狼狽えていた。魂すらも焼き切る光と言っても、あくまでその効果は一時的な再生封じだ。特級に分類されるレベルの呪霊である祈本が、あそこまで狼狽えるのは不自然なことだった。

 

 けれどもし、祈本の魂に関わる『縛り』を乙骨が結んでいるのならこの現象にも合点がいく。ボンドルドという第三者による魂への干渉によって、『縛り』の成果物である底なしの呪力自体が不確かなものになってしまった。それ故のあの怯えよう。自分自身の呪力(こんかん)そのものを揺るがされてしまっては、まともに動くことも出来はしまい。

 

 祈本の魂を乙骨の手によって抑留する。それこそがきっと、彼らが結んだ『縛り』の内容。

 

「ユウタ、そんなに無理をしないで」

「……」

 

 だからこそ、乙骨にボンドルドの精神を植え付けることは祈本の魂の解放——つまりは『縛り』の破綻、祈本の消滅に繋がりかねないのだ。底なしの呪力を持つ祈本は掛け替えのない存在、出来れば失いたくはなかった。それに、乙骨と祈本はここまで仲良くなることが出来たのだ。呪いとヒトという垣根を超えて深く繋がった彼ら。その関係を引き裂いてしまうことは、ボンドルドとしても本意ではない。

 

 乙骨の成長ももう十分実感できたことであるし、ボンドルドとしてはこのまま頭を冷やしてもらうのが理想だ。しかしながら、水面に深く沈む乙骨の瞳には、未だ強い戦意が満ちているように思われた。

 

「里、香…アレをしよ、う」

 

 乙骨は刀を握る右手を、暗い空に高く掲げた。

 

 何も光を映さない白い刀身。細長いそれに、祈本の大きな手の平が添えられる。同時に刃が帯びる呪力が、強く強く渦巻き始めた。ボンドルドの支配しているはずの空間が、ぴりぴりと震えている。悲鳴を上げている。

 

 特級過呪怨霊、祈本里香。その体を構成する呪力に底はなく、そしてもう一つの性質があった。この2年間で乙骨が理解し、己が力としたその特徴。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」

 

 深淵に一つ、火が灯った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これは…枢機の光ですか!」

 

 乙骨の刀から噴き出す眩い光を見て、ボンドルドは思わず乙骨から距離を取っていた。

 

 目の前のこれは、間違いなくボンドルドの装備する特級呪具と同質のもの。万物を消し飛ばす光の帯が、構えられた刀身をくまなく覆い隠している。暗闇に包まれた辺り一面を、春光がごとく照らしていた。

 

 術式の模倣。あの五条ですら不可能なことを、乙骨はたった今成し遂げているのだ。

 

「なんと…なんと素晴らしい……!」

 

 結界術や簡易的な式神などを除けば、術式とは個人個人で固有のものである。才能と称しても過言ではない。ある人物に刻まれている生得術式を他人が真似をするのは原則として不可能。特級呪具である『枢機へ還す光(スパラグモス)』のものならば尚更だ。

 

 しかし法外な『縛り』により、祈本は呪霊として変幻自在な呪力を手に入れた。その結果としての術式模倣。おおよそあらゆる術式を、彼女は自らのものとして還元できる。

 

「……」

 

 喜びに体を震わせるボンドルド。彼の眼前にて、乙骨がぎこちないながらも立ち上がる。そのまま両手を光剣へ。焦げ付く手の平も気にせず、乙骨は輝く刀を振り上げた。

 

 やがて。

 

「里香、離れていろ」

 

 ボンドルドの領域。暗がりに満たされたその世界を、乙骨の光が灼き尽くした。

 

 縦横無尽、疾る刃が空を、水面を、骸たちを抉る。跡形もなく斬り刻んでいく。重みすら感じられた昏い闇が、いとも呆気なく引き千切れていく。

 

 領域は閉じ込めることに特化した結界。並一通りの攻撃では破壊することは勿論、小さな穴すら開けることは難しいだろう。その分外から内に対する強度は落ちてしまっているが、そもそも領域に入ることそのものが自殺行為であるのだから何も問題はない。

 

 しかし『枢機へ還す光(スパラグモス)』は、強度を無視した絶対の破壊。それは呪術の極致たる領域とて例外ではない。延々と伸びるその閃光は、射線上の悉くを焼き尽くす。

 

「ああ…本当に素晴らしい」

 

 合計にして8連撃。流れるように放たれたそれを浴びて、ボンドルドの領域全体がひび割れた。亀裂から垣間見えるのは『前線基地(イドフロント)』の一室。確実に、彼の領域の崩壊が進んでいる。

 

 散っていく水と骸と闇の世界。その中央にて、ボンドルドは満足げに手を広げていた。

 

「いやはや、大変驚きました。よもや『枢機へ還す光(スパラグモス)』を再現し、私の世界を破壊するとは」

 

 乙骨の刀に漲る光が霧散した。同じタイミングで、ボンドルドの領域が完全に陥落。元通りの薄暗い研究室が顕になる。

 

 投げかけられるボンドルドの賞賛を無視して、乙骨はボンドルドの元へと走り出した。刀を握る両手は、『枢機へ還す光(スパラグモス)』が生み出した熱でじくじくと痛んでいる。その上で、乙骨は煤けた刀に呪力を流し込んだ。領域展開直後——大量に呪力を消費した今こそが、目の前のボンドルドを殺す絶好の好機。素早く正確に、一撃で彼の命を奪い取る。

 

 故に、乙骨が選択したのは。

 

「「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」」

 

 乙骨とボンドルド。両者の声が重なり、その武装から輝く光刃が顕現する。一瞬の混乱。しかし彼らの身体は、両腕は、もう動き出している。

 

 光と光がかち合った。揺れ動く謎めいた光剣が、ぶつかり打ち合い火花を散らす。

 

 『枢機へ還す光(スパラグモス)』と『枢機へ還す光(スパラグモス)』、特級を冠する規格外同士の正面衝突。凄まじいリーチを持つそれらの応酬は、余波として床、瓦礫、そして天井を粉々に刻んだ。ほどなくして研究室の天井そのものが、コンクリート塊と化して崩落していく。

 

「ッッ!!!」

 

 やがて、弾かれたのは乙骨の刃。

 

 前提からして手数が違う、積み重ねてきた経験が違う。二対一、『枢機へ還す光(スパラグモス)』の取り扱い。全てにおいて、ボンドルドは乙骨を上回っていた。両肘から蒸気を漏らす彼の姿は、あくまで淡々と落ち着いている。

 

 光剣をかち上げられ、大きく仰け反る乙骨。直後、刀に纏う悍ましい光が消失した。隙だらけの彼の胴体に、ボンドルドの尻尾が肉迫して。

 

『待っで』

 

 振り下ろされた祈本の拳。ボンドルドは即座に乙骨への追撃を中断し、飛来するそれを紙一重で躱した。そのまま彼は、這うような姿勢で乙骨の側面に回り込む。

 

 体勢を整えたばかりの乙骨は、忍び寄る彼の姿に気づけていなかった。

 

「ッか、ぁ」

 

 下から上へ。高速で振るわれたボンドルドの欠けた尻尾が、乙骨の顎に直撃した。

 

 全身にささくれだつような衝撃が走る。ぐらつく視界の端には、黒い火花が轟いていた。『黒閃』を伴う尻尾のアッパー。それを受けて、乙骨の身体が上空へと飛翔する。天高くまで、打ち上げられた。

 

「ま、だ——」

「『明星へ登る(ギャングウェイ)』」 

 

 空中にて足掻く乙骨に、乱反射する紫の光が続けざまに放たれた。呪力を帯びた鋭利な光たちは、瞬く間に乙骨の元へと距離を詰めていく。

 

 咄嗟に乙骨は呪力で体を強化しようとした。しかし『明星へ登る(ギャングウェイ)』は既に乙骨の眼前まで到達している。不完全な呪力防御の結果、乙骨の肌が裂け、その全身に沢山の浅い切り傷が刻まれた。まばらな血がその傷口からまろび出、辺り一帯が赤色で汚される。

 

『憂太ぁ゙!!』

「おやおや」

 

 傷を受けた乙骨を見て、怒り叫ぶ祈本がボンドルドに連撃。床面すらも容易く瓦礫に変えたそれは、けれどボンドルドの肉体を捉えることが出来なかった。軽やかに彼女の殴打を回避したボンドルドは、勢い良く壁を駆け上がっていく。

 

 砲弾もかくやという速度で壁面を駆け登ったボンドルドは、5秒足らずで乙骨の地点まで辿り着いていた。中空で悶える乙骨に、追いついた。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」

「! 『枢機へ還(スパラ)——」

 

 走る勢いのまま振るわれた光剣。乙骨はそれに同じ光で対抗しようとした。だが発動が間に合わない。半端に生じた光の刃がボンドルドの光線を受け、その衝撃を殺しきれず乙骨は大きく吹き飛ばされた。

 

 そのまま乙骨は、ボンドルドの登る壁とは反対側の壁面に激突。凹んだそこに身体をうずめた。ボンドルドは壁を蹴り、苦しむ乙骨の元へと跳躍する。

 

『憂太を、虐めるな』

 

 ボンドルドの進路を阻んだのは、遅れて浮上してきた祈本だった。乙骨のすぐ前に躍り出た彼女は、怒りのままにボンドルドへと殴りかかる。唸る空気。身を宙に預ける今のボンドルドにとって、彼女の攻撃は回避困難なはず。

 

「おっと」

 

 ボンドルドの動きは滑らかだった。

 

 身体を水のようにしならせて、横殴りの拳をやり過ごす。刹那の攻防、最小限の所作で祈本の殴打を躱したボンドルドは、彼女が庇う乙骨へと左手を伸ばした。

 

「『月に触れる(ファーカレス)』」

 

 左手から射出された黒い触腕。さながら濁流のようなそれが、乙骨の全身に纏わりついた。蠢く呪霊の肉が、乙骨の腕を、足を強く捕らえた。身体中の筋肉が締め付けられるのを感じる。

 

 呪霊の触手を携えたボンドルドは、乙骨の真上の壁へと着地した。

 

「ユウタ、どうか——」

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』!!」

 

 乙骨の刀から再び凄まじい光が噴出。辺りの暗がりを照らしたそれを、彼は強引に振り回した。乱れ狂う白光は、瞬く間に周囲の空間を斬り刻んでいく。呪霊と、それが張り付く壁面。それら全てが、ばらばらに寸断された。

 

「これはこれは、お元気ですね」

 

 ボンドルドは二歩、乙骨の元から後退した。

 

 直後に、ボンドルドの半歩先に祈本の巨腕が叩き込まれる。コンクリートの壁にめり込む拳。ボンドルドたちが立つ壁面全体に罅が入り、遂にはそこに大穴が空いた。崩れた壁の先へと、ボンドルドと乙骨、そして祈本は躍り出る。

 

「なっ…!」

「おやおや」

 

 果たしてその眼下には、ひたすらに水面が広がっていた。

 

 どうやらボンドルドたちが戦っていた場所は、『前線基地(イドフロント)』の外縁部に位置していたらしい。ここは『前線基地(イドフロント)』の外部のダム湖。頭上に浮かぶ夜空は、心なし赤みを孕んでいた。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』!」

 

 『前線基地(イドフロント)』の外であろうが、中であろうが、乙骨は知ったことではない。ただボンドルドを殺すだけだ。乙骨は迸る激情のままに、手に持つ光刃をボンドルドへと走らせて。

 

 伸びる光剣が、真下の水面を僅かに掠めた。

 

「おおっと」

 

 水面が爆ぜた。

 

 吹き上がる荒波。ぶくぶくと泡立つ大量の水が、乙骨と祈本を呑み込んでいく。唐突に発生したそれは、小規模な嵐にも思われた。

 

「ユウタ、お気を付け下さい」

 

 落ち着いた声でそう告げたのは、いつの間にやら『前線基地(イドフロント)』の外壁に張り付いていたボンドルド。ただ一人荒波の範囲外に逃れた彼は、未だ渦中にいるであろう乙骨たちに声を投げかける。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』は大量の熱を伴います。空間を焼き切るほどの熱を水中に撃てば、水は空気に変わり大爆発が起こってしまう」

 

 それは、『枢機へ還す光(スパラグモス)』の弱点の一つ。

 

 強度を無視した圧倒的な火力を実現するその光は、それ故に多大な熱量を放出する。水に触れてしまえば今のような爆発が起こる上に、発動時間も限られてきてしまう。『月に触れる(ファーカレス)』ほどでないにしても、中々に厄介な代物なのだ。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』は、時と場所を選——」

 

 次の瞬間、ごつりと。

 

 立ち昇る白波から伸びた祈本の巨腕が、ボンドルドのI字仮面を掴んだ。彼の言葉が止まる。祈本はそのまま、引き摺るようにしてボンドルドを外壁から落とした。突然の不意打ち、そして祈本の膂力に、抵抗が間に合わない。

 

「ボンドルドさん」

 

 ボンドルドは、祈本に抱えられた乙骨を見た。全身の黒い焦げ跡を晒した彼は、右手に刀剣を携えている。真っ直ぐにボンドルドを、射抜いている。

 

 やがて着水するボンドルド。その姿を認めた彼は、緩やかに祈本の片腕から足を離した。

 

「一緒に堕ちましょう」

 

 乙骨は、右手の刀を振り翳した。見るからに黒ずみ、所々爛れてすらいるそれを高く振り上げた。その行為が、その呪力が、意味するところは。

 

「『枢機へ還す光(スパラグモス)』」

 

 水面が、爆ぜた。

 

 弾け渦巻く破壊の中心で、ボンドルドと乙骨が縺れ合いながら墜落していく。水中にて輝く呪力の奔流は、今も尚爆発を生み出し続けていた。激しい水泡に揉まれながらも、乙骨は術式の発動をやめなかった。その左手は、ボンドルドの首を強く握り締めている。

 

「な、んと…す、ばらし……」

 

 全身を泡立つ水に覆われ、ボンドルドはうまく身動きを取れずにいた。強い水圧に『暁に至る天蓋』がぎしぎしと軋む。直近でここまでの爆発を浴びれば、天与の肉体も無傷では済まない。ボンドルドは乙骨と共に水の激動に体を任し、ダム湖の内を漂流して。

 

『あお゙ぉ』

 

 気づけば、ボンドルドと乙骨の真上には拳を振りかぶった祈本がいた。落ちてきた拳がボンドルドの右腕に直撃。ごきり、と二の腕の骨が悲鳴を上げる。

 

 呪いは呪いでしか祓えない。

 

 それは、呪術においては当たり前の知識だ。肉体が呪力で構成された呪霊に物理攻撃は効かず、だからこそ呪術師は自身が学んだ呪術でその祓除に臨む。散弾銃、戦車、そしてクラスター爆弾ですら、呪霊に傷をつけることは不可能なのだ。

 

 故に。人の身を持たない祈本は、止まらない水の爆発に左右されることはない。多少の干渉は受けたとしても、その果ての損傷が存在しない。

 

『あお、あお゙、あお!!』

 

 乙骨の背後を付き纏いながら、祈本はボンドルドに連撃を放った。

 

 とめどない拳の嵐。ボンドルドはなんとか身を捩りそれをやり過ごそうとするが、この激流の中では身体も満足に動かせない。放たれた祈本の殴打はボンドルドの両腕、脇腹、左足に命中し、それらを粉々に砕いてみせた。ボンドルドの肉体が、どんどんと傷ついていく。壊れていく。むしろこの状況でまだ生きていることが、ボンドルドの肉体の身体能力の高さを裏付けていた。

 

「あ、あ………」

『もっ゙ど』

 

 やがて、ボンドルドの横っ腹を祈本の巨腕が穿った。水中にて吹き飛ばされるボンドルド。彼は『前線基地(イドフロント)』の外壁に衝突し、そのまま壁を破って内部へと転がり落ちた。

 

 続いて乙骨も『前線基地(イドフロント)』の内部に侵入。祈本のそれに追従した。水の急流で遠くまで飛ばされた乙骨は、体勢を立て直しなんとか床へと着地する。同時に『枢機へ還す光(スパラグモス)』の発動を取り止めた。手を握る右手、その感覚はもう完全に麻痺してしまっている。

 

「……ボンドルドさん」

 

 立ち上がり、乙骨はボンドルドの方へと顔を向けた。

 

 ボンドルドは、水浸しの床に無防備な姿で倒れ伏していた。恐らくは半死半生の状態。乙骨が後一撃でも加えれば、このボンドルドは活動を停止するだろう。着実に止めを刺すために、乙骨はボンドルドの元へと歩み寄る。

 

「まだ、生きて……!?」

 

 三歩ほど歩いて、乙骨は目を見開いた。

 

「ああ…」

 

 ボンドルドは全身から血を垂れ流しながらも、むくりと起き上がった。

 

 ひしゃげた両腕の外装。その隙間から、獣めいた毛が伸びる。ぽおと瞬く全身。ぼこぼこぼこぼこと、彼の肉体が再生していく。仮面の隙間が、足の装甲が、灰色の獣毛で覆われていく。先端が失われたはずの彼の尻尾からは、新たな尻尾が生えていた。厚い毛皮に覆われた、長い尾が。

 

 

 

 

 

 

「これが…『祝福』なのですね…」

 

 

 

 

 

 

 ボンドルドの肉体は、ふわふわになっていた。

 

「アナタは…まさか……」

 

 乙骨は口に手を当て、唖然としてその様を見つめていた。滝のように雪崩れ込む水を背景に、ボンドルドは慇懃に毛むくじゃらの両手を広げる。乙骨の方へと、歩み出した。

 

 乙骨の視線の向かう先は、ふわふわの彼ではなく。

 

「……なんで」

 

 どうして、今まで気づかなかったのだろう。

 

 ボンドルドが背中に背負っている機器、そこに宿っている呪力。どうして、本当に何故、乙骨は今までそれに気づけなかったのか。

 

「ユウタ、君の友達のリコはいい調子ですよ」

 

 反転術式、ボンドルドの考える『祝福』の形の一つ。それが使える者を、乙骨はかつて見たことがあった。他ならぬ、2年前のあの日に。

 

 なんで。

 

 彼女だけがずっと無事だと、乙骨は盲信してしまったのだろう。

 

「さあ笑って。実験の成功を、祝いましょう」

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