「⋯⋯すまない、もう一度言ってくれるか?」
「奉仕部を、廃部にしたいと言ったんです」
驚きに目を見開きそうになるのをどうにか押さえつけている平塚先生に、俺は努めて冷静にそう言った。
随分説明不足だとは思うが、話というのは結論が先に来たほうが伝わり易い。視線で続きを促してくる平塚先生に、俺は話を続けた。
「雪ノ下なら、選挙に問題なく勝って生徒会長になると思います。けど生徒会選挙に出るのは雪ノ下だけじゃなくて、俺も由比ヶ浜も出ます」
「⋯⋯そういう事か」
俺の考えを読み取ったのか、やれやれと平塚先生はいつも雪乃がそうするように頭痛を抑えるようなポーズを取った。
やはり平塚先生は、“俺たちの先生”だと思う。多くを語らなくても、俺の意図する事はもう全て分かってくれていると、そう盲信できる。
「奉仕部は無くなりますが、俺たちのやる事は変わりません。平塚先生には、もし相談事や依頼があったら生徒会に来るように斡旋して欲しいんです」
「それは構わないが⋯⋯」
平塚先生はそこまで言って口を噤むと、タバコをもう一本取り出して火をつけた。その言葉の続きは、俺にも分かっているつもりだ。
何故、奉仕部を無くすまでの事をするのか。
奉仕部創設の経緯を聞いたことはないが、平塚先生にとっても奉仕部は特別な場所であったはずだ。俺の考えを理解するのと、奉仕部にかけた想いに折り合いをつけるのとでは、話が違う。
しかしそれでも俺は、奉仕部は廃部にすべきだと思っている。俺たちが生徒会に入れば、奉仕部部員であるという前に生徒会役員という肩書きが、そして責任がついてくる。そうなれば生徒会の事を最優先にすることになり、実質的に奉仕部は中途半端な存在──無くなったも同然になるだろう。俺も彼女も、そんな状態に上手く馴染める自信がなかった。
「彼女たちは、知っているのか?」
「いえ⋯⋯。雪ノ下が会長に立候補すると言い出すことを想定して、考えていただけです」
「そうか。なら急いだ方がいい。立候補の締め切りが近いからな」
「ええ、そうします」
俺は立ち上がって歩き出すと、応接スペースを出る直前に振り返る。ソファに座ったまま紫煙を吐く平塚先生に向かって、俺は深く頭を下げた。
「勝手なこと言って、すいません」
「なに、謝ることじゃないさ。⋯⋯それに私からの君に関しての依頼は、どうやら無事に達成できたようだしな」
平塚先生はつけたばかりのタバコの火を灰皿で消すと、立ち上がって正面に俺を捉えた。平塚先生の瞳は冬の朝のように澄んでいて、だから情けない顔をした俺まで鮮鋭に映されてしまう。
「比企谷。ちゃんと君の口から聞かせてくれ。君は今、孤独を感じているか?」
平塚先生の瞳の中の男は、その問い掛けに苦笑を浮かべていた。
先生らしくない愚問だ。答えなんてもう、決まりきっている。けれどその問いに素直に答えられないぐらい俺は歪んでいて、想いだけが真っ直ぐだった。
「これで孤独だなんて言ったら、あいつらに怒られますね」
「⋯⋯それが聞けたのなら、私に思い残すところはないよ」
平塚先生は俺の両肩に、そっとその両手を置いた。次の瞬間ぐるんと俺の身体を百八十度回すと、トンと背中を押す。
「行きたまえ。彼女たちなら部室にいるだろう。昼休みの時間は限られているぞ」
「はい」
平塚先生が今どんな顔をしているか知りたい気持ちはあったが、振り返る勇気はなかった。
背中を押された勢いをそのままに、少しだけ早足で職員室を出る。廊下に出てもまだ平塚先生の眼差しが向けられているような気がして、俺は背中を真っ直ぐに正すと、その歩みを速くさせた。
* * *
奉仕部の部室の前まで来ると、俺は少しだけ上がった息を整えた。
顔を上げて、真っ白のサインプレートを見る。俺はあと何回この光景を目にする事ができるのだろうかと考えて、やめた。感傷に浸っている暇などない。
「⋯⋯⋯⋯」
扉に手をかけて一気に開けると、箸を手にしたままの雪乃と結衣がポカンとこちらを見ていた。
机の上には、小さな弁当箱が二つ。今日も彼女たちは、ここで一緒に昼食をとっていたらしい。
「雪ノ下」
俺はいつもの椅子を掴むと、雪乃の目の前──本来なら依頼者が座るべき位置に、その椅子を置いて座る。
「さっき平塚先生から聞いた。生徒会長に立候補するんだってな」
「えっ⋯⋯」
俺がそう言うと雪乃は目を伏せ、結衣は小さく驚きの声をもらした。やはり雪乃は、まだ結衣に立候補の事を話していなかったらしい。
「それを受けて、俺から提案がある。それと雪ノ下と由比ヶ浜、それぞれに依頼も」
はっきりとした口調でそう言い、雪乃の目を正視する。長いまつ毛が起き上がり、その瞳が俺を捉えると、彼女は箸を置いてから口を開く。
「⋯⋯話を伺いましょう」
「まずは提案からだ」
俺はそう言うと雪乃から視線を外して、結衣を見た。いつの間にか結衣も箸から手を離していて、いつもより背筋が伸びている。
「俺も、生徒会選挙に出る」
「え⋯⋯。ちょ、ちょっと待って。ヒッキーも生徒会長に立候補するってこと?」
「違う、そうじゃない。ここからは依頼なんだが⋯⋯」
俺は椅子に座り直すと、今度は結衣を正面に捉える。ポカンと開けられた口と目は、次の発言を聞いたら更に開かれることだろう。
「由比ヶ浜には、副会長として立候補して欲しい。俺は書記として立候補する。全員が当選したら奉仕部は廃部にして、その活動は生徒会に移管する」
理解が追いついていない様子の結衣は、目をパチクリさせて頭の中をフル回転させていた。
「⋯⋯待って。何故あなたたちまで生徒会に入る必要があるの? 一色さんの依頼は、生徒会長になることの回避よ。私がなれば、それは──」
「それだけじゃダメだろ」
雪乃の言葉を遮ると、俺は真っ直ぐに彼女を見詰める。俺を見返す目に、蝋燭大の火が灯った気がした。
「奉仕部はどうなる。お前なしで奉仕部なんて名乗れるか?」
「それは⋯⋯大丈夫よ。生徒会の仕事は理解しているつもりだし、この部活だって続けられる」
「無理だな。雪ノ下は一つのことに集中するタイプだし、生徒会が忙しい時はそっちに集中して、手隙の時だけ奉仕部に参加するつもりか? それで俺たちが何も思わないとでも思ってるのかよ」
雪乃の瞳の中の炎は揺れ、すっと長いまつ毛が再び伏せられる。
自分でも、随分ずるい言い方をしていると思う。それでもこの場で彼女を説き伏せなければ、先はない。
「そんな事になるぐらいなら、生徒会に一本化した方が何かと都合がいい。そういう提案だ」
「⋯⋯だとしても、私の独断にあなたたちを巻き込むわけには」
「それは違うよ」
不意にそう言ったのは、さっきまで沈黙を守っていた結衣だった。
結衣は椅子の上で雪乃に向き直ると、今まで見たことも無いぐらい強い視線を彼女に送る。
「巻き込んでいいんだよ。今までだって、そうしてきたじゃん。あたしも、ヒッキーも、ゆきのんの側に居たいんだよ。そんな理由だけじゃ、ダメ?」
思いも寄らなかった助力の言葉に、俺はぐっと胸が詰まった。
思い返してみれば、結衣の言葉はいつも本質を突いていた。そしてそうであるが故に、その言葉は反論を許さない程に強い。本当にいつも、俺は彼女に助けて貰ってばっかりだ。どうすれば返せるか、見当もつかないぐらいに。
「ヒッキー」
結衣は俺の方に向き直ると、同じ強さのままの視線がこちらに向けられる。その目は言外に、既に覚悟は決まったと言っていた。
「ヒッキーの提案に、あたしはのるよ。でも依頼は断るね」
「⋯⋯は?」
「副会長は、ヒッキーがなって」
呆気に取られる俺に、結衣は続ける。
「だって⋯⋯言い出しっぺはヒッキーでしょ? それにヒッキーじゃなきゃダメだと思う」
何故、と聞きたかったが、目に込められた力を抜いた結衣はその続きを言うつもりはなさそうだった。
結衣は雪乃の目を見ながらその手を取ると、まるで
「それでいい? ゆきのん」
結衣のその手は、握り返されたのかどうか。側から見ているだけでは分からない。
「⋯⋯本気なの?」
「本気だよ。ダメって言われても、勝手に立候補しちゃうぐらい」
さらりと言ってのける結衣に、雪乃ははっと短く息を吐く。彼女の瞳の中の炎は、もうすっかり消え去っていた。
「分かったわ。⋯⋯ごめんなさい」
「ううん、それも違うよ。こういう時は、ありがとうでいいの」
ね、と結衣が微笑みかけると、雪乃は引き結んでいた口を解いた。
「そう、ね⋯⋯。ありがとう」
雪乃はそう言って、右手を握ってくる結衣の手に左手を重ねた。彼女のその小さな所作が確かな雪解けを思わせて、俺はその眩しい光景に思わず目を細める。
「比企谷くん」
俺に向き直ると、雪乃は迷いの消えた目で俺を正視した。
「あなたから私への、依頼の内容を聞かせて貰うわ」
「ああ、それなんだが⋯⋯」
正直、この空気の中では物凄く言い出しにくい。これ、めっちゃ情けないお願いだしなぁ⋯⋯。
「葉山に応援演説を頼んだらしいけど、悪いが断ってくれ。あいつには俺の応援演説を頼みたい」
「それは構わないけれど⋯⋯。何故?」
「ぶっちゃけ、雪ノ下や由比ヶ浜なら誰が応援演説しても選挙に勝てるだろうが、俺はそうもいかない。お前らと違って無名もいいところだからな。推薦人集めも一色と葉山に手伝ってもらうつもりだ」
なるほど、と二人は頷いてくれるが、それもそれで実に情けない話だった。しかし背に腹は代えられまい。俺だけ落選とか、本気で洒落にならない。
「⋯⋯急いだ方が良さそうね。私たち三人で、九十人分の推薦人を集めないといけないのだし」
「うん⋯⋯。でもきっと大丈夫だよ」
結衣はそう言って、雪乃の両手で握られた左手の上に、右手を重ねる。
「今まで全部、なんとかなってきたもん。あたしも頑張るから、きっと大丈夫」
子どもを諭すような優しい声音に、俺まですっかり安心してしまう。
これでようやく、奉仕部としての方針は決まった。
余程のイレギュラーがなければ、奉仕部はもうなくなる。一度なくなって、小町がまた始めてくれたような、そんな復活はあり得ない。今度こそ完全に、奉仕部は失われるのだ。
「⋯⋯じゃあ後の詳しい話は、放課後に詰めるか」
時計を見れば、もう昼休みは十分と残されていない。すっかり昼飯を食いそびれてしまったが、不思議と空腹は感じなかった。
「ええ。ではまた後で」
「うん⋯⋯」
俺はどこか安心したような表情を浮かべる彼女たちに頷きを返すと、立ち上がり部室を後にする。
廊下に出て扉をピシャリと閉めると、思わず大きく息を吐いた。するとその息に重なるように、大仰な溜め息が耳に届く。
「⋯⋯いつからそこにいた」
「⋯⋯君が部屋に入った、少し後からだよ」
壁に背を預けた葉山隼人は、俺を見ずにそう言った。
「すまない。聞くつもりはなかったんだけど、扉が少し開いていたから」
つまりは全部が全部、葉山は聞いていたという事だろう。
確か俺の知る世界線では廊下ですれ違うだけだったが、本来葉山は打ち合わせの為に部室へと呼ばれていたのだ。
「別にいい。説明する手間が省けたからな」
俺が歩き出すと、葉山も歩調を合わせて歩き出す。もう彼が奉仕部の部室を訪れる理由は、何もない。
「俺への
「随分高くつく貸しだな」
はっ、と喉から抜ける息の音で苦笑すると、葉山は廊下の真ん中で歩みを止める。俺も足を止めると、彼を振り返った。
「協力するのは別に構わない。ただ一つ教えてくれ」
その目は常にないほど厳しく、ともすれば青白い炎さえも灯すほどに研ぎ澄まされていた。俺が身体ごと向き直るのを認めると、葉山は重苦しい声で問い掛ける。
「結局君は、どっちなんだ?」
またその質問かよ、と俺は思わず天井を仰いだ。
だが葉山の気持ちも、俺には分かる。彼には彼なりの向き合い方で、彼女たちを大切にしているのだ。であればできる限り真摯に向き合うのが、礼儀というものだろう。
「俺が好きなのは雪ノ下だ。雪ノ下の為なら、何だってする。だから生徒会選挙にも出る」
俺が言い切ると、葉山はその勢いに気圧されたように目を
「なら結衣は⋯⋯。結衣の気持ちはどうなる? 君だって、気づいてるんだろ」
葉山は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、細められた目は俺を睨みつけていると言っていいほどに険しい。
その顔を見て俺は、場違いな程に安堵していた。
結衣のまわりには、沢山の人がいる。その中に本気で彼女の事を慮ってくれる人がいてくれる事は、何よりもありがたい事だった。
「それでも、答えは変わらない。雪ノ下に必要だから、由比ヶ浜も生徒会に入ってもらう」
「それで結衣が傷つく事になるとしてもか?」
その葉山の一言に、俺の脳裏に遥か昔の出来事が浮かぶ。東京湾へと続く河口に架かる橋の上、タバコをふかしながら、彼女は言った。
『誰かを大切に思うという事は、その人を傷つける覚悟をする事だよ』
まるで今の俺に言い訳を与える為の言葉みたいだ。それでもその言葉は真理を突いていたし、まちがっていないと信じている。
「⋯⋯それでも俺は由比ヶ浜には、雪ノ下のそばにいて欲しい。それにこの状況で由比ヶ浜だけ生徒会に入らないって方が、傷つくだろ」
葉山はその言葉を聞き届けると、ふと眼力を弱めた。ようやく、俺の本気は伝わったらしい。
「比企谷の気持ちは分かった。⋯⋯余計なお世話かも知れないけど、中途半端な事はしないでくれよ」
「はっ⋯⋯。お前にだけは言われたくねぇな」
思わず鼻で笑ってしまった俺を、葉山はジロリと睨みつけてくる。その反応は図星だと言っているようなもので、
「まったく、人に物を頼む態度とは思えないな」
「別に頼んでねぇよ。ただ貸しを返せと言ってるだけだ」
「本当にいい性格してるな、君は」
キンコン、と予鈴が鳴る。急がなければ、五限目の授業に遅れてしまうだろう。
俺と彼にしては、随分長く話し込んでしまったようだ。俺たちは再び歩きだすと、それっきり言葉を交わす事はなかった。
* * *
放課後になり奉仕部の部室へ向かう──前に、俺には行くべき場所がある。
数日前と同じ、特別棟の一階の外。保健室の隣にポツンと三段だけある階段に座り込んで、俺は今か今かと約束した人物を待っていた。
「お疲れ様でーす」
軽やかにそう言って現れたのは、奉仕部への依頼人である一色いろはだ。
いろはスカートの端を膝の内に折り込みながら、俺の横に腰かける。
「解決策、教えて貰えるんですよね?」
「ああ」
一瞬だけいろはと視線を合わせると、小さく息を吐いてアスファルトの地面を見詰めた。そして今日の昼休みの出来事を、出来るだけ分かりやすく説明する。
雪乃が生徒会長になる事で、いろはからの依頼を達成する事。俺と結衣も生徒会に入り、奉仕部の機能は生徒会に移管する事。この解決案に対して平塚先生の了承も得ているという話を進めるたびに、いろはの目は見開かれていく。
「え⋯⋯。それ、本気ですか? わたしが生徒会長にならないようにする為に、そこまでやるんですか?」
「そうだ。それに雪ノ下も、やっても構わないと思っている。⋯⋯というか、やりたかったんだと思う。じゃなきゃ生徒会選挙の規約なんて、覚えてるわけないだろ」
俺の答えに、いろはは何を思っているのか気の抜けたような表情をしている。いろはにしてみれば、随分と荒技的な解決策だと思えるだろう。
「それならいいんですけど⋯⋯。生徒会と奉仕部の活動の両立なんて、出来るんですかね?」
「そこは大丈夫だろ。元々暇な部活だからな」
それにいろはが奉仕部に入り浸るようになってからというもの、ほとんど生徒会関係の仕事ばかりになったのだ。だから
「はぁ⋯⋯。ただ一つ、疑問なんですけど」
いろははそこで言葉を切ると、俺の目を覗き込んできた。仕草や表情からも真意を見逃すまいと、瞬き一つすらせずに見詰め続けてくる。
「どうして空いている会計じゃなくて、書記に立候補するんです? 全員当選しても、一人不足するんですよ?」
いろはの疑問はもっともで、そして実に答えにくい質問でもあった。
小町が総武高校に入学した時には、もう奉仕部は廃部になっているだろう。元の世界線で小町が守って欲しいと願ったあの場所は、失われてしまうのだ。だからその代わりのポジションとして、席は一つ空けておきたい。
しかしそんな想いを話せるはずもなく、俺はもう一つの理由の方だけ話す事にした。
「確かに人数が少ないのは痛手だが⋯⋯。それでも俺は、奉仕部の三人でやりたい。俺たち以外の不純物は要らないんだよ」
そう言い切ると、いろははポカンとした表情で俺を見続けていた。
「⋯⋯なんだよ」
「いえ、⋯⋯なんでもないです」
どう見たってなんでもなく無いのだが、これ以上追及するのはやめておいた。おそらく墓穴を掘る結果にしかならないだろう。
いろははすっと立ち上がると、何を思ったのか俺の真正面に立つ。そして綺麗に腰を折り曲げ頭を下げると、その状態のまま言った。
「先輩たちを巻き込んじゃって、すいません。それから、ありがとうございます」
「やめてくれ」
俺がそう制すると、いろははゆっくり頭を上げた。その目は真剣そのもので、彼女のそんな表情は随分久しぶりに見た気がする。
「なにもタダでそんな役目を引き受けるなんて言ってないぞ」
「はい⋯⋯?」
俺の一言で、深刻ですらあったその顔は「何言い出すんだコイツ」とでも言うように訝しげな表情を浮かべていく。
「一つ約束してくれ。生徒会で困ってる時とか、人出が足りない時は手を貸して欲しい」
「⋯⋯はい。それは構いませんけど」
「本当だな?」
「ええ、もちろん。私のお願いの為に生徒会を引き受けて貰うんですから、そのぐらいはします」
「本当に本当だな?」
「いやしつこいな⋯⋯。やりますってば。先輩たちのこと、超手伝いますから!」
「よし」
俺はそこまで聞くと立ち上がり、いろはの目の前に携帯をかざした。
画面の中の再生ボタンを押すと、たった数十秒前の会話が再生される。いろはが俺たちの事を手伝うと、超手伝うと、小さな筐体の中からそう証言していた。
「これで言質は取ったからな。しっかり手伝ってもらうぞ、一色」
「は⋯⋯? え、マジかこの人⋯⋯えげつな⋯⋯」
ドン引きしているいろはに向かって、俺は口角を引き上げる。
これが俺からいろはに贈る、俺たちと関わりあう為の口実だ。もちろん理由を与えたとしても、一緒に居てくれるかどうかは彼女次第だが。
「それじゃ段取りの方は、葉山と相談しながら進めてくれ。頼んだぞ」
「はーい⋯⋯」
肩を落として溜め息を吐くいろはの姿に俺は頬を緩めると、踵を返した。
根は真面目ないろはの事だ。きっとあの頃のように──今度は生徒会室に入り浸ってくれるだろう。今はそう信じるしかない。
俺は校舎に入る前に、部室のある辺りの窓を見上げた。
さあ、今からは彼女たちに会って、選挙に向けての打ち合わせをする時間だ。そしてあの部室の光景を、俺たち三人の時間を、心に刻み込まなければ。
俺があの部室で過ごす時間は、もうそれほど残されていないのだから。
* * *
それからは生徒会選挙に向けて、慌ただしい日々が続いた。
生徒会選挙に向けて推薦人集めと、応援演説者の確保、それぞれの選挙公約決めに、演説の台本。万が一を防ぐための生徒会選挙規約の熟読まで、僅かな瑕疵一つ見落とさないほどの集中力と覚悟で俺たちは選挙の準備を進めてきた。
そして十二月になり、ついに生徒会選挙当日。
今日は三、四限目の授業の代わりに全生徒が体育館に集められ、生徒会選挙の演説が行われる。集まった投票用紙は即日開票され、放課後には全ての結果が明らかになっているだろう。
俺と結衣は立候補者の待機場になっているステージ袖の前室に通され、椅子に座って出番を待っていた。プロムのプロモーション撮影の際に、着替えに使ったあの部屋だ。
向かいの席には副会長と書記ちゃん──というのはこの世界線では語弊があるが、残念ながら本名を覚えていない二人は緊張した面持ちで同じく出番を待っていた。
その隣に座るいろはも含めて、彼女たちの学校生活は本来送るべき日々とはまた違った日々が訪れる。俺の与えた変化によって副会長と書記ちゃんは付き合う事もなくなってしまうだろうと考えると、一番の被害者は彼らなのではないかと思うが⋯⋯それも生徒会のイベントか何かで強引に引き合わせれば何とかなるかも知れない。随分無責任だとは思うが、俺はもうこれ以上まちがい続けるわけにはいかなかった。
「ゆきのん、遅いね」
結衣の問いに、俺は「ああ」と短く返事をした。たしかに、珍しい事のように思える。こういう時彼女は、一番にここにいそうなものなのに。
そう考えていた所に、出入り口の扉がコンコンとノックされる。返事をすべきかどうか迷っていると、ノックから数秒の後に扉は開かれた。
「え⋯⋯」
部屋に入ってきたのが一瞬誰か、分からなかった。
そこに立つのさっきまで話題に上がっていた雪ノ下雪乃のはずなのに、見慣れた彼女の姿ではなかったからだ。
「ゆきのん、髪⋯⋯」
「ええ」
強烈な違和感の正体は、彼女の髪の長さだった。雪乃のトレードマークであるはずの長い髪は肩口でばっさりと切り落とされ、赤い小さなリボンも付けていない。陽乃さんの髪の長さとよく似ているが彼女ほど髪を
「切ったのよ」
雪乃は髪を一房摘むと、はらりとそれを遊ばせた。事もなげに見れば分かることを言う彼女は、まるでこちらが大仰に受け止め過ぎているとでも言うかのようだった。
「その⋯⋯似合わない、かしら」
しかし雪乃は、俺たちの反応を否定と捉えたのか、途端に自信を失ったかのような表情になる。
似合うか似合わないかで言えば、どうしようもなく似合っている。どちらかと言えば自信なげなその表情こそが、彼女には似合わない。
「あの⋯⋯」
さっきまで口をパクパクさせていたいろはは腰を上げようとし──俺はそれを手を
雪乃が髪を切ったその理由は、間違いなく俺の決断によるものなのだから。
「えっ、と⋯⋯。どう、して?」
俺が聞かずにいようとした事を、結衣は混乱を残しながらもそう訊いた。多分それは彼女しか訊けない事だと、本能で理解したように。
「⋯⋯決意表明、と言ったところかしら」
雪乃がそう言ってしまえば、それはきっと取り違えようもない真実なのだと思う。
雪ノ下雪乃は虚言を──嘘を吐かない。彼女が自らに課した不文律は、俺の知る限り消え失せる事はないはずだから。
それっきり場を満たした沈黙を打ち破るように、コンコンと低いノックの音がする。返事を待たずに入ってきたのは、平塚先生だった。
「そろそろ出番だ。舞台袖にいくぞ」
俺たちはそれぞれに返事をすると、椅子から立ち上がり真っ直ぐに出入り口の扉へと歩いていく。
さあ、これが本当の大一番。
新しい未来は、これから作られる。俺は自らを鼓舞するように、強く体育館の床を踏み締めた。
* * *
生徒会選挙の結果は午後より開票され、放課後一時間もしない内にその結果は確定される。
俺たちは訪れた生徒会室の中、ホワイトボートに大きく書かれた立候補者の名前を見ていた。
総武高校生徒会選挙結果──。
会長・雪ノ下雪乃。
副会長・比企谷八幡。
書記・由比ヶ浜結衣。
それぞれの名前の上には、当選を示す薔薇の代わりに大きく花丸が描かれていた。
「嬉しいっ。今私、すっごく嬉しいよ!」
さっきからめぐり先輩は同じ事を繰り返し言っては、困惑する雪乃を抱き締め続けていた。放っておけば頬擦りでもしそうな勢いに、俺も結衣も苦笑するしかない。
「あの⋯⋯城廻先輩、そろそろ⋯⋯」
「あ、うん⋯⋯そうだね」
ようやくめぐり先輩は抱擁を解くと、雪乃と一緒に俺たちを見た。きっとこれから、生徒会長として膨大な量の引き継ぎを受けるのだろう。
「先に帰って貰って、構わないから」
「うん」
めぐり先輩が開けた扉の前で、振り返って雪乃はそう言った。結衣は柔和に微笑むと、バイバイと胸の前で手を振る。
カチャンと扉が閉まると、瞬く間に生徒会室は無音に包まれた。
過去に何度も、いろはの手伝いで訪れた生徒会室。これから奉仕部のあの部屋の代わりに俺たちはここへと集まり、また紅茶の香りが漂うのだろう。
これでもう俺の知る世界線は、完全に途絶えた。これから先の事は、全く何も想像できないし、分からない事だらけだ。
「ねぇ、ヒッキー」
結衣は暫く室内を眺め回していたかと思うと、パイプ椅子に腰掛け足をプラプラさせながら言う。
「⋯⋯ありがとね」
「⋯⋯なにが」
彼女が言わんとしている事は何となく分かるのに、俺ははぐらかすようにそう言った。
「あたしたちの場所、守ってくれて」
真っ直ぐに向けられたその微笑みは、俺には優し過ぎるように思う。
結局俺がとった選択は、自分が後悔しないようにしたと言われたらそれまでの事だった。彼女の為だと、自分自身に
「⋯⋯でも奉仕部はなくなるぞ」
「部活はね。でもあたしたちの場所は、なくならないよ」
結衣の視線が眩し過ぎて、俺は思わず目を逸らした。
きっと結衣なりに、奉仕部をなくす決断を肯定しようとしてくれているのだと思う。けれど奉仕部と永訣する事に違いはないし、小町がまた始める理由も可能性もない。
あののんべんだらりとした、どこか牧歌的な光景は消失する。その事を思うと俺は自分で決めた事なのに、胸を抉り取られたかのような痛みを覚えていた。
「⋯⋯んっ」
結衣は両手を上げて伸びをすると、何も言わないまま立ち上がる。
「ね、散歩しない?」
結衣はどこかすっきりした顔で、俺を見下ろしながら言った。雪乃は待たなくていいと言ったけれど、結衣は彼女の帰りを待つつもりであるらしい。
「⋯⋯いいけど」
どうせやる事もないし、俺はそう返事をするとパイプ椅子から立ち上がった。
生徒会室を出ると、結衣はどこか行く当てがあるかのように、すたすたと先行する。特別棟の廊下を歩き、階段を登り、やがて校舎と特別棟を繋ぐ空中廊下に出た。四階の廊下には屋根がなく、よく風が通るそこは屋上に近い雰囲気を持っている。
もう失ってしまったこの世界線の先では起こり得ない事だが──いつかの夕焼けの中、結衣と雪乃が涙と抱擁を交わした、あの場所だ。
「やっぱり外は気持ちいいねー」
さらさらと髪を風に遊ばせながら、結衣は手すりに手をついて空を仰ぐ。夕陽は真っ赤な光を撒き散らしながら、体育館の屋根の向こうへと消え行こうとしていた。俺も手すりに手を置くと、それに寄りかかり黙ってその景色を眺め続ける。
この場所で、こんな気持ちでいる事が不思議だった。選挙が上手くいって安心しているのに、先の分からない不安が僅かに混じる。けれどどちらかと言えば希望の方がずっと強く在って、まるで新たなフィールドに立った物語の主人公のような気分だ。
ふと隣を見ると、結衣はその瞳に茜色の雲と夕陽を閉じ込めて、静かに佇んでいた。俺の視線に気付いたのか、結衣はゆっくりとこちらを向くと──。
「⋯⋯好き」
──彼女は何の聞き間違いもないようにはっきりと、まるで犬や猫が好きだとでも言うように何気なく、俺にその言葉を届けた。
「あたし、ヒッキーのこと、好きだよ」
それから彼女はもう何も取り違えないように、真っ直ぐ俺だけを見てそう言った。
その声は常の彼女よりもいくらか低く落ち着いていて、その目は公園で遊ぶ子どもでも見守っているかのように優しい。
まるでノーモーションからのストレートだ。花火大会の時のように予見する事も何も出来ずに、俺はその剥き出しで無防備な言葉の前に動けずにいた。
「なん、で⋯⋯」
無理矢理ひねくり出した声も、その言葉も、およそ考えうる限り酷いものだった。その質問は、なんの意味もなさない。
「ヒッキーがゆきのんの事が好きなのは、分かってるよ。でも分かったからって、もうどうにもなんないし」
夕陽が完全に、体育館の向こうへと消えた。
撒き散らされた残照だけが、ぼんやりと彼女の顔を照らしている。
「諦めようって、思ったよ。でも無理だった。だってヒッキー、かっこいいんだもん」
えへへ、とまるで恥じらうように、場違いなほど明るく彼女は笑った。俺は手すりから身を離し結衣に向き合うと、お互いを正視する。
「だから、ちゃんと言うね」
俺の全身を視界の中に収めようとするかのように、ゆっくりと一歩だけ、結衣は後ろに下がった。
「比企谷八幡くん。⋯⋯あなたが好きです。お付き合いしてもらえませんか」
結衣のその言葉に、ぐっと胸の内側が狭くなる。声音も、浮かべられた微笑みも、風の無い海のように穏やかだった。
結衣の瞳の中で、鮮やかなグラデーションを描く空が、刻一刻と色を変えていく。その表情には僅かな憂愁も哀切もなく、きっとそれは──。
「⋯⋯すまない。俺は由比ヶ浜の気持ちに、応える事はできない」
きっとそれは、俺の答えをもう、彼女は知っていたから。だからそんな風に、笑っていられたのだと思う。
「うん⋯⋯。ちゃんと答えてくれて、ありがと」
結衣はそう言って、肩に込めた力を抜いた。ありがとうなんて言葉を受け取る資格なんて、俺にはなかった。
「すまん⋯⋯」
いつかこうなる事は、分かっていたのに。俺は雪乃を──いつも自分の選択ばかりを優先していた。
結衣が気持ちを止められないだろうという事も、全部分かっていた。それで傷つく事になろうとも、俺はそれですら肯定して今までやり直してきたのだ。
「どうして謝るの?」
口元には笑みを浮かべたまま、しかし芯のある目で結衣は俺に問いかける。責めるわけでもなく、新緑を揺らすそよ風のように優しい声が、微かに鼓膜を震わせた。
「だって俺は⋯⋯。由比ヶ浜のこと、傷つけて⋯⋯」
「傷なんてどこにあるの?」
結衣は腕を開くと、小さく首を傾げた。
「ヒッキー、たぶん勘違いしてるよ。だってあたしを傷つけられるのは、あたしだけだもん」
当たり前でしょ、とでも言うように笑みは消えることなく俺に注がれ続けている。その表情は俺の呪縛を解こうと、祈りに満たされているかのように思えた。
「ヒッキーはゆきのんに告白して振られたとしたら、それで傷つく?」
「それは⋯⋯」
思いも寄らなかった質問に、俺は何も答えられなかった。行き場の失った言葉の端くれが、藍色の空へと溶けていく。
「上手くいかなくて、あたしなんてダメなんだーって思うから、傷つくんだよ。でもあたしは、ダメだなんて思わない。ヒッキーのこと好きになってよかったって、本気でそう思うから」
結衣の言葉にのった感情は、どこまでも深く俺の心の中に染み入ってくる。結衣の瞳が僅かに潤いを帯び、茜雲が形を変える。
一体、どうして。
結衣はどうして、そこまで強くあれるのだろう。きっとその理由を作ったのは俺で、救われるのもまた俺だった。俺は結衣のことを、一つも救えていないというのに。
「あたし、本当に本気で誰かを好きになったの、初めてだったんだ。すごく⋯⋯すごく好きで、ヒッキーのこと考えてるだけで、なんか感動して泣けてきちゃうぐらい」
結衣の一言ひとことが俺の心の根っこの方を掴んで、彼女の目から一時足りとも目が離せない。さっきより少しだけ開かれた目は、もう見間違えようもなく濡れていた。
「あなたのことを好きになれて、本当によかった。だから、謝らないで」
結衣が瞬きをした瞬間に、宝石のように煌めく涙が、一筋彼女の頬を伝う。
どこまでも尊く、息を呑むほど美しい落涙。それが俺に一つの事実を、情け容赦もなく突きつける。
──なぜ俺は、勘違いしていたのだろう。
結衣と俺がこうして絆を紡いでいくのがまちがいだなんて、どうして思ったのだろうか。
噛み締め過ぎた奥歯が、ぎりりと軋む。
嗚呼、まただ。
どんな時も選択を
「ね⋯⋯。すごく性格の悪いこと聞いていい?」
「⋯⋯なんだ?」
少しだけ口調を砕けさせると、結衣はじっと俺の目を見詰めながら問いかける。
「もしも⋯⋯ゆきのんがいなかったら、ヒッキーはあたしのことを好きになってくれてたのかな?」
祈りの込められたその問いの答えを、俺はもう持っている。とても簡単で、どうしたってまちがえようもない事実を、俺は知っていた。
「当たり前だろ。きっと⋯⋯いや、絶対好きになってた」
「⋯⋯そっか」
安心したかのように、すっと結衣はその瞼を閉じた。俺もそれにつられるように、いつの間にかこもっていた力を目から抜いて、そっと目を瞑る。
だから俺は、見逃してしまった。
結衣が一歩、こちらに詰め寄ったのを。ブレザーの裾を掴む、震える手を。隠しようもない熱を持った、唇を──。
「────」
唇に伝わった柔らかさと熱さに、俺ははっと目を見開く。
結衣はあどけないぐらい無垢な笑顔で、俺を見ていた。
「まだ付き合ってないんだし、これぐらいいいよね」
とん、と結衣は俺の肩口に額を押し付ける。熱い吐息が、触れ合ったそこから伝わる熱が、今はっきりと一つの真実を暴き出す。
俺はまちがいなく結衣を──由比ヶ浜結衣という女の子を、愛していた。
理屈や理性や思考ですら消え失せる心のずっと奥底で、それは確かに
本当はずっと、気付かない振りをしていた。その気持ちの大きさに気付いてしまえば取り返しがつかなくて、どうしようも無くなるのは分かっていたから。その想いを、その感情を幸せな形に昇華させるのはとても難しくて、そうするには俺も彼女も不器用過ぎたから──。
「あたし、先に帰るね」
何も言えないまま固まっている俺にそう言うと、結衣は踵を返した。小走りで遠ざかっていく背中を呆けた表情のまま見ていると、結衣は開け放たれた扉の前で振り返る。
「ヒッキー! これからもよろしくねーっ!」
ぶんぶんと大きく両手を振って、元気のいい
結衣は扉の向こうに消えるその一瞬前に、口に手を添え、一際大きな声で言った。
「ありがとー! 大好きーっ!」
* * *
生徒会室に戻ると、そこに結衣の荷物はなかった。さっきそう言った通りに、彼女は先に帰ったらしい。
パイプ椅子にどっかと座り込むと、大仰にため息を吐いた。目を閉じると脳裏にはさっきまでの光景が映しだされ、最初から最後まで流れる度にまた最初に戻る。
そうやって何回も何回も記憶の中の映像を巻き戻していると、カチャリと入口の扉が開いた。
「あら、まだいたの」
生徒会室に入ってきた雪乃は、そう言って僅かに微笑んだ。ようやくめぐり先輩からの引き継ぎが終わったらしい。
「先に帰ってもいいって、言ったのに」
「いや⋯⋯。まあ待つのは、部活で慣れてるからな」
よっ、と椅子から立ち上がると、床に置いたままだった鞄を背負う。
「もう帰れるんだろ?」
「ええ」
雪乃も鞄を肩にかけると、部屋の照明を消した。生徒会室を出ると、雪乃は静かに扉に鍵をかける。
今日から彼女が手にするのは、奉仕部の部室の鍵ではなく、生徒会室の鍵だ。そんな小さな変化すら、変えてしまった事の大きさを俺に知らしめる。
職員室に寄って鍵を返すと、昇降口から外に出た。一緒に帰ろう、とは一言も言っていなかったが、俺が自転車を取ってくる間、雪乃は何も言わずにに待っていてくれた。
「お待たせ」
こくりと雪乃は小さく頷くと、自転車を押す俺の隣を歩き出す。置かれている環境は大分と違うが、合同プロムをやると言い切ったあの日と状況はよく似ていた。
海浜公園通りをひたすら真っ直ぐ歩いて、京葉線の高架をくぐる。学校を出てからただの一言も喋りはせず、自転車から聞こえる微かなラチェット音だけが時折聞こえてくる。
「⋯⋯本当は」
なんの前置きもなく、ポツリと雪乃はそう言った。促すように彼女の横顔を見ると、雪乃は静かに言葉を紡いでいく。
「あなたたちを、巻き込みたくなかった。私一人、生徒会に入ればいいと思っていたの」
その言葉の意味を俺は何度も咀嚼して、そして理解する。
きっと雪乃は、俺や結衣の力を借りることなく、本当に自分の力で事を成したかったのだと思う。やはり俺は結局のところ、本当の意味で彼女の願いを叶えてなどいないのだろう。雪乃を絶対に一人にしないなんて、俺のエゴもいいところだ。
「あなたと一緒に居るのは、とても怖いことだから」
しかしその俺の導き出した答えはまるで違うのだと言うように、雪乃は思いも寄らなかった事を口にする。
「あなたの考えていることが、まるで分からないの。またあなたが自分を傷つけてしまうのかも知れないと思うと、本当に怖かった」
陸橋の坂に差し掛かると、一際ゆっくりとその坂を登っていく。一歩一歩、その言葉を噛み締めるように。
「何より分からなかったのは、私の方だけど。⋯⋯あなたと一緒にいると、本当に自分が分からなくなるの」
坂を登り切る。俺は思わず、立ち止まる。雪乃の背中が遠ざかって行くのを見ながら、自転車を停めて再び歩き出す。
「なぁ」
俺がそう声をかけると、雪乃は立ち止まった。こちらを振り返ることはせず、ただ沈黙のまま次の言葉を促していた。
「修学旅行の夜、お前に言ったことを覚えてるか」
別にここに来たから、と言うわけじゃない。本当はずっと前から、聞きたかった。彼女の言葉を、彼女の答えを、ずっと俺は欲していたのだ。
「⋯⋯ええ」
「俺の気持ちはあの時から、何も変わってない」
俺がそう言っても、雪乃は振り返る事をしなかった。それでも構わない。正しく伝えられるのなら、そうする事はまちがっていないと言い切れるから、彼女に届いていてさえいれば構わない。
「俺は雪ノ下のことが、好きだ。ずっと前から、誰にも負けないぐらい、自分でも笑っちまうぐらい、好きだ」
国道を走る車のタイヤノイズが、引いては返す波のように耳朶を撫でていく。雪乃の表情は、未だに分からない。それでも俺は、語りかけるのをやめない。
「俺のこと、ちゃんと分かるように伝えるから。怖いって言うんなら、安心できるまで側にいる。自分が分からないって言うなら、ちゃんと理解できるまで付き合うから」
あまりに拙くて、直情的で、何の捻りのない言葉たち。それでも彼女に伝わりさえすれば、なんだってよかった。分かりやすければその分だけ、ちゃんと全部伝えられると思うから。
「だから俺は、雪ノ下を一人にはしない。俺の勝手かも知れないけど、それでも絶対に一人にしない」
見詰め続ける背中が、微かに
流れるのはヘッドライトの光と、深い沈黙。後にできることは、もう何も残されていない。狂おしいほどの愛情も、張り裂けそうな胸の叫びも、どんな言葉でも足りないから、正しく伝わるのを祈るだけ。それだけしかもう、できない。
「比企谷くん」
ゆっくりと。
雪乃は振り返り、正面から俺を視界に捉える。
改めて、彼女を美しいと思った。透き通るような白い肌も、一つの瑕疵もない細面も、鈴を転がしたような声も、どんな賛美の言葉を尽くしても正しく彼女を形容できない。
血色のいい唇が形を変え、努めて冷静でなんの感情も灯さない声が、一つの問いを俺に投げかける。
「それは私と付き合いたい、ということでいいのかしら?」
真っ直ぐな瞳の中で、赤いテールライトが瞬いた。
思ってもなかった角度からの問いかけに一瞬戸惑いながら、俺は頷いた。
「ああ、そういう事になるな」
「そう⋯⋯」
ふっ、と。どこか諦めるかのように、雪乃は口元を緩めた。
「ならその告白は、断るわ」
その言葉の意味がストンと俺の胸に落ちた瞬間、俺も真似をするように力なく笑う。俺たちの間を吹き抜けた風が、雪乃の短くなった髪を揺らした。
「生徒会長と副会長が付き合っているだなんで、適切ではないでしょうし。それに⋯⋯」
雪乃の言葉に、俺は思わず短く息を吐いた。
こうなる事は、もうほとんどもう分かっていた。雪乃ならそう言うかも知れないと、心の片隅で想像していた。
見詰め続ける瞳が、不意に揺れる。その事実を確かめるように、俺は一歩だけ彼女に近寄った。
「きっとあなたに、頼りきりになってしまうから。⋯⋯だからっ」
毅然としていたはずのその声は、頼りなげに震えている。
「だからあなたとは、付き合えない」
手を伸ばせば届くほど近くにいるのに、俺は雪乃に触れる事を許されていない。それでも俺を満たすのは、絶望や諦念などでもなく、確かな温かさだった。
雪乃なら、きっと大丈夫だ。
大丈夫になった彼女を、俺はもう知っているから。自分の足で立ち、歩み、そしていつかその隣に俺が居ることを許してくれるだろうと、そう言い切れる。
「けど⋯⋯」
雪乃は一歩俺に詰めると、袖が触れ合うほど近くなる。瞳の中に映し出された俺は、自分でも見たことがないぐらい、安堵に満たされた表情をしていた。
「⋯⋯一年、待ってほしいの。とてもずるいお願いだと思うけれど」
その言葉に、俺はかぶりを振って応えた。ずるくても、何も構わない。
「全部終わったら、ちゃんと言うわ。私から、あなたに、ちゃんと」
雪乃の額が、俺の肩口に押し付けられる。ブレザーの前裾が握り込まれ、俺はようやく彼女に触れる事を許されたのだと分かった。
「ああ⋯⋯それでいい。何年でも、待つから」
彼女の腰に腕を回すと、そっとその華奢な身体を抱き寄せた。余りに細いその身体が折れてしまわないように。慈しむように、ゆっくりと力をかけていく。
「⋯⋯だからもう少しだけ、こうさせてくれ」
すんと雪乃は鼻を鳴らし、肩口につけられた額を強く押し付けた。
触れたところから伝わってくる熱の名前を、俺はもう知っている。
だからその熱を少しも溢さないように、俺は彼女を抱き締め続けた──。
* * *
──夢を見ていた。
奉仕部の部室で、雪乃に笑顔を向ける結衣。
──彼女の顔が、悲しみと傷心で濡れていく。
火の粉を舞わせるキャンプファイヤーの灯りに照らされ、泣き笑いの表情を浮かべる留美。
──彼女の顔が、諦念と孤独に沈んでいく。
文化祭のエンディングセレモニーの後、ステージの前で人の輪に囲まれて笑う相模。
──彼女の顔が、心無い言葉で歪んでいく。
陸橋の上で、夜風に吹かれながら眦に雫を溜めた雪乃。
──彼女の顔が、喪失と空虚に淀んでいく。
そんな夢を、俺は見ていた。
* * *
目を開けるとそこには、見慣れない天井が広がっていた。
カーテン越し柔らかな光が部屋を満たし、どこか懐かしい甘い香りが漂う。起き上がって辺りを見回すと、すぐに俺以外の人の姿を見つけることが出来た。
「やっと起きたの。随分ぐっすりと眠っていたわね」
雪乃は俺と目が合うと、柔らかく微笑んだ。
その肩には縦抱きにされた我が子の頬があてられ、細く白い手がトントンと優しくその背中を叩いていた。けぷっ、と小さなゲップの音がすると、彼女はその腕の中へと抱き直す。
「この子が大きな声で泣いていても起きないんだもの。ちょっと心配したわ」
少しだけ大人びた声を酷く懐かしく感じながら、かけていたブランケットをめくる。その瞬間、ひらりひらりと一枚の紙が床に落ちた。拾い上げてそれを見た瞬間、どくんと心臓が跳ねる。
『やればできるじゃないか』
殴り書きのような、見間違えのないあの特徴的な文字。それでようやく、俺は完全に理解する。
──戻ってきた。
やっと。やっと俺は、彼女の元に帰ってこられたのだ。
「あぁ⋯⋯」
返事とも呻きともつかない言葉を吐き出すと、俺はフラフラとソファーベッドから立ち上がり、思わず雪乃の腰に縋りついた。
その腰の細さも、その匂いも、その温もりも、ずっと俺が求めていたものだった。堪らなく愛しい、命を賭してでも守り抜かなければいけない存在が──俺の全てが、そこに在った。
「ちょっと、急にどうしたの?」
戸惑う雪乃に、俺は語る言葉を持たなかった。
ただ今は、彼女の存在を感じていたい。俺の中を全て、彼女で満たしていたかった。
「⋯⋯なあ、この子の名前は?」
「本当にどうしたの? それを今日、訊きに行くのでしょう」
雪乃の答えを聞いて安堵の息を吐くと、俺はそっと彼女の元を離れてソファーベッドに座る。
ようやく、本当に長い時間をかけて、戻ってこられた。
だが俺のさっき見た夢は、一体何だったのか。そもそも俺の過ごしたあのやり直しの時間は、どうなった?
胸の内が騒がしくて、どうにもならない。それを知るのは、恐ろしい。けれど俺は、彼女に訊かなくてはならなかった。
「なあ。⋯⋯俺たちが高校二年の時に生徒会長になったのは、誰だった?」
「何を言い出すのかと思ったら⋯⋯。大丈夫? 悪い夢でも見た?」
雪乃の問いかけに、俺は「いいから」と手を向けて首を振る。これだけは、ちゃんと確かめなくては。
「──一色いろは。あなたのよく知っている名前でしょう?」
その名前を聞いた瞬間、天地がひっくり返ったような衝撃に見舞われる。
この世界線は、あのやり直しの日々の延長線上にあるものではなかった。それが本来の姿であるはずなのに、身体がバラバラになりそうなほどの絶望に打ちひしがれる。
俺は自らの心の均衡を保つ為に結衣を傷つけ、留美には孤独を押し付けた。相模には消えない心の傷を与え、俺の周りの人々は時に怒り、時に呆れ、時に俺を軽蔑した。そして雪乃には──たくさんの失望と失意を、与えてしまったのだ。
「⋯⋯すまん。本当に、すまない」
がくりと項垂れるように、雪乃に向かって頭を下げた。謝っても失ったものは戻らないと分かっていても、そうしなければどうにかなってしまいそうだった。
「一体何に対して謝っているの?」
「⋯⋯夢を、見ていたんだ。高校二年の時の⋯⋯。それで色々、思い出した」
何度もまちがって、苦しんで、苦しませて。彼女たちに与えてしまった失望や辛さは、一体どれだけのものだったのだろう。想像し切れないぐらいの事を、俺は繰り返して来たのだと思う。
「お前のこと、苦しませたなって。きっと雪乃以外も⋯⋯沢山まちがえて、すげぇ傷つけたなって⋯⋯今更だけど」
「八幡」
気付けば雪乃は俺の目の前に立っていて、そう呼ぶなり俺の腕に我が子を抱かせた。未だ名前すらも与えられていない新しい命は、すぅすぅと微かな寝息を立てている。
「この子を見て」
雪乃は膝立ちになると、俺の腕の中の、まだ生え揃っていない柔らかな黒髪を撫でる。
「この子は、私たちの幸せよ」
まるで子供に言い聞かすようにゆっくりと優しい口調で言うと、雪乃は髪を撫でていた手を俺の手に重ね合わせた。
「
そう言われて俺は思わず、雪乃の目を覗き込んだ。その瞳の中には、今にも泣き出しそうな、情けない顔をした男がいた。
「あなたは私の幸せなの。今も昔も、きっと未来も、それは変わらない」
ふわりと、まるで桜が綻び咲くように、雪乃は笑った。まるで彼女の顔にだけ日差しが差し込んだかのように眩しくて、思わず目を細める。
「あなたの周りの人を、思い出してみて。あなたの所為で泣いている人はいる? 私はそんな人、知らないわ」
重ね合わされた手が、ぎゅっと俺の手の甲を握り込む。彼女の確信を、伝えるように。今から語る事は、全て真実なのだと言うように。
「あなたがここに居てくれるなら、きっと何もまちがってなんていなかったのよ。人を傷つけたり、悲しませたりせずに生きるなんて、不可能だから」
視界が淡く、滲んでいく。もう何も見えていないのに、それでも俺は雪乃を見詰め続けていた。
「──だから、そんな顔をしないで。私があなたから受け取ったものは、全部宝物なの。どんな言葉も、どんな痛みでも」
瞬きをした瞬間、ポロポロと大粒の涙を落としていた。ベビー服にいくつも滲みが広がり、止めどない嗚咽が漏れる。
まったく、酷い父親だと思う。この子が生まれ落ちた瞬間にだって、こんなにも泣きはしなかった。
「今日のあなたは、随分と泣き虫なのね」
あのやり直しの日々は、決して夢なんかじゃなかった。
今も俺と触れ合った彼女たちは、そして彼らは未来を歩き続けている。
きっと笑顔で、時に泣きながら、時に孤独を抱えて、今も生き続けている。
嗚呼、やっと。
やっと俺は、そう言える。
俺の青春に、なにもまちがいなんてなかったと。
十二年も経って、やり直して、彼女が教えてくれて、ようやくそう言える。
雪乃は俺の腕の中から、そっと小さな命を抱き上げる。
彼女の腕の中で安らかな寝顔を浮かべる我が子の頭を撫でると、その温もりは俺の心の奥底まで、見えないところまで染み渡っていく。
「さあ、あなた。もう行かないと」
「あぁ⋯⋯」
俺は受け取った温もりを胸に湛え、ゆっくりと立ち上がる。
そして彼女は微笑むと、真っ直ぐに俺を見て言った。
「この子に名前をあげましょう」
Fin.
あとがき
最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。
この長い物語も、無事完結を迎えることが出来ました。
この話を書き始めるきっかけは、Twitterでのタイムリープ物に関する二次創作作家仲間のツイートでした。
タイムリープという言葉から、まるで天から何か降って来たかのように一気にこの物語が構築され、気付けばプロットを叩いていました。
例えどれだけ読んでくれる人が少なくても、これは絶対に完結まで書かなければと、毎話全身全霊で書き連ねました。結果から言うと毎話何千人という方にこの物語を届ける事ができて、本当に驚いています。
私がこの物語を通じて伝えたかった事は、あとがきであけすけに言うのも憚れますが、ラストの雪乃の台詞に込められています。
こういった二次創作も含めて、小説は表現する事によって成り立っています。そして表現は受け取り手がいて、初めて成り立つものだと個人的に思っています。
だから私にとって、読んでくれたあなたが幸せそのものです。時間というリソースを使い、文庫本一冊分にもなるこの物語を最後まで読んで下さった事は、私にとってこの上ない幸せなのです。だから誰が何と言おうと、あなたがここに至るまでの経緯は何もまちがっていないと、そう言い切れます。この物語は俺ガイルという素晴らしい作品と登場人物たちに向けた愛であり、そして他でもないあなたに向けた愛なのです。
はてさて、少し問いかけさせてください。
この物語を通じて救われたのは、一体誰だったのでしょうか。
救え、というメッセージを送ったのは、一体誰だったのでしょうか。
もしよろしければ、感想や評価などでフィードバックをお願い致します。
創作されている方なら同意して頂けると思いますが、読み手からの反応は書き手にとっての生きる糧でありますので。
これからは過去作を加筆修正して投稿しつつ、新しいお話も投稿していく予定です。
それではまた、新しい物語でお会いしましょう。