ほのぼの鬼殺隊生活(完結)   作:愛しのえりまき

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設定と登場人物について 
この番外編では、いとめ様の作品である【野良着の隊士・改編】が舞台となっていましたが、今回の現代編では【野良着の隊士】の続編である【目覚めれば巡り逢いて】の設定をお借りしています。
主人公・蓬萊斗和(ほうらいとわ)はキメツ学園の農業コースの教師として赴任し、そこで数学教師の不死川さんと出会いました。
大正時代に蓬萊斗和の継子であった舘坂佳成(たてさかよしなり)は農業コースの同僚教師として、小野寺夏世(おのでらかよ)は斗和の妹として登場します。



第三十三話 彼岸花と夕日・再会 最終回その二~現代編(完結)

(ヤット……見ツケタ……!)

男は気付かなかった。男を見つめる視線。

 

 仕事の行き帰りや買い物等の外出時にも、至る所にある樹木や電柱、そこからじっと男を見つめる眼。ふと視線を感じて男が周囲を見回しても、怪しい人影は無い。男を見ていたのは、人ならざるモノたちだった。

 

 男は気付かなかった。小さな黒い影は、この男をずっと探し続けていた。

 

 長い間、男もまた探し続けていた。物心ついてから、あるいは物心つく前からかもしれないが、ずっと探しているものがあった。

 

 

 誰かと再び巡り会う“約束”。

 

 ――それは転生を果たしても尚、失われることなく受け継がれた記憶。時空を超えた約束だった。

 

 

 

 鬼殺隊は最終決戦において鬼舞辻無惨を倒し、鬼は滅んだ。千年の永きに渡り鬼を追い続けて来た鬼殺隊はその役目を終え、最終決戦を指揮した産屋敷耀哉は鬼殺隊の解散を宣言、最後の鬼殺隊当主となった。

 蓬萊斗和は鬼舞辻無惨との最終決戦を生き延び、同じく決戦を生き延びた不死川実弥と晴れて夫婦となり、子供や孫たちにも恵まれ、幸せな人生を生きた。

 本来最終決戦で斗和は死に、終わるはずだった「野良着の隊士」の物語。しかし、物語はある異分子の混入によって改変を重ね、斗和が亡くなった後もパラレルワールドとして続いていった。

 

 

 

 あの最終決戦から時代は移り変わり、ここは現代、令和の世。

 

 鬼殺隊士や所縁のある人々の子孫、また転生を果たした本人など、多くの関係者たちが鬼のいないこの世界で暮らしていた。

 

 東京郊外のとある街に、広大な敷地を持つ小中高一貫校、キメツ学園があった。

 

 転生した蓬萊斗和は、高等部に新設された農業コースの教師として昨年この学園に赴任し、同じく転生して高等部の数学教師として働いていた不死川実弥と再び運命的に巡り合った。お互いに惹かれ合ってすぐに交際が始まり、交際するうちに二人とも前世の記憶を取り戻し、結婚して幸せに暮らしていた。二人の周囲には明らかに転生者と思われる人も多くいたが、二人は敢えて記憶の有無を訊ねることはしなかった。記憶を戻していない者に、凄惨な戦いの記憶をわざわざ蘇らせる必要はないと自重していた。

 

 学園の正門前には大きな河が流れ、広い河川敷にはグラウンドもあった。河川敷から緩やかに連なる土手には四季折々の花が咲き、土手の上には数百メートルにも渡って桜並木が整備され、学園関係者だけでなく近隣住民の憩いの場所となっていた。

 

 強い陽射しは夏の名残を留めるが、時折吹く風は涼しく、秋の訪れを示していた。

 

 河沿いの土手にはススキの穂はまだ出ておらず、コスモスと彼岸花が風に吹かれて咲いていた。赤い絨毯のように咲き誇る彼岸花の群生は本当に見事で、ちょっとした名所になるほどであった。

 

 河沿いの土手の上には広い一本道が続いていた。いつもは通学の生徒たちでごった返すが、休日の今日は生徒たちの姿は無く、晴れ渡った空と気持ち良く開けた河原の景色が広がっていた。

 

 斗和は授業の準備や日頃やり残した事務仕事をするため学園に向かっていた。平日なら授業はとっくに始まっている時間だが、休日の今日は気にする必要も無い。いつもは時間に追われて髪を振り乱して爆走するこの道を、秋の匂いを感じながらゆっくりと歩いていた。

 正門まであと十数メートルというところで斗和はハンカチを落としたが、授業のある日と違い多少気が緩んでいたためか、その事に気付かないまま学園の正門へと入って行った。

 

 土手に座っていた男がふと周囲を見渡し、落ちているハンカチに気付いた。しかし落とし主と思しき女性の後姿はすでに校門の中へ消えようとしており、呼んでも声は届きそうもない。男は直接渡すのは諦め、後で学園に届けようと落とし物のハンカチをポケットにしまった。

 

 男もまた、大正時代に鬼殺隊士として鬼との戦いを経験した転生者だった。この男自身にはその記憶は無く、男を覚えている者も誰一人おらず、記録にも残ってはいなかった。現代で男は五十代、医師として日々の業務に忙殺されながらも懸命に生きていた。

 

 

 

 男は昔から不思議に思っていることがあった。

 

 朝、目が覚めると何故か泣いている。子供の頃からそういうことが時々あった。見ていた筈の夢はいつも思い出せない。そのくせ、何かを失った漠然とした悲しみだけが、目覚めてからも長く残っている。

 

 ただ一つだけ、はっきりと分かることがある。

 

 自分には約束がある。誰かと再び巡り会う約束。それ以外の内容は思い出せないが、とても大事な約束。この感覚は、きっとそれと関係があるのだと。

 

 両親も他界し仕事以外には何にも縛られない自由気ままな一人暮らしだが、最近ある奇妙な事件が起きていた。

 

(俺はまた……)

目覚めた時、その日も男は涙を流していた。

 

(“約束”って何だろう?大事なことなのに何で思い出せないんだろう?)

いつものように、正体の分からない悲しさだけが胸に残っていた。

 厚いカーテンの隙間から漏れた光で、部屋は薄明るくなっていた。今日も朝から良い天気のようだ。

 

「カァァーッ!!起キロ!ボーット生キテンジャネーヨ!」

今日も喧しい声がして、ガラス戸をガツガツとつつく音がする。

 

(また来やがったなこのくそガラス!今日はいつもより激しいじゃねーか!)

人の言葉を話すカラスが朝早くから毎日やって来ては、クチバシで男の部屋のガラス戸をつついて無理やり起こすのだ。カラスはこの貴重な休日の朝もやって来ていた。

 

 

 

 

 出会いは一ヶ月程前の早朝。

 

 マンションの高層階であるにも拘らず、ベランダに続くガラス戸を外から叩かれて男は仰天した。高層マンション専門の空き巣か強盗か、そう思って用心しながらカーテンを開けると、ベランダには一羽のカラスがおり、小首を傾げてこちらを見上げていた。

 

(カラス?カラスが窓を叩いたのか?)

男は動物が大好きだったが、カラスに寄り付かれては困ると思って追い払った。カラスは翌日もまたやって来て窓をつつき、起こされた男は追い払う。そんなことが一、二週間、夜勤の無い日は毎日続き、男も慣れてしまった。それに、やって来るのはその一羽だけで、たくさんのカラスが集まって困るという事も無かった。カラスの方でも男が本気で追い払おうとしていないことを見抜いたのか、男が追い払う真似をしてももう恐れる素振りも無く悠々としていた。早朝の招かれざる客に最初は辟易していた男だったが、カラスが毎日訪ねて来るうちに段々とこの触れ合いが楽しみになっていった。

 

「しょうがないヤツだな、餌食うか?」

男はパンをちぎってカラスに放ってみた。カラスは投げられたパンと男を交互に見ていたが、男を見上げてカアッ!と一声鳴いた後こう言った。

 

「肉ヨコセ!」

「何だよ贅沢だな、カラスのくせに。肉が良いのかよ……ええええ!!!喋った!」

男は驚きのあまり腰を抜かした。片言っぽいが、カラスは確かに人語を話した。

 

「何ヲ驚イテルンダ?カラスガ喋ッタラオカシイカ?」

「いやおかしいだろ!普通は喋らねーよ!」

「アタイハ特別ナカラスダカラナ!」

「と……特別なの?」

信じられない事態を目の当たりにして男はゴクリを唾を飲み込み、思わず変なことを聞いていた。男を鼻で笑い、ふんぞり返るカラス。そのカラスは人の言葉を理解して使い、男と会話が可能であったのだ。

 

 その日を境に、カラスは男に話しかけるようになった。男は最初は驚き恐れていたが、割と簡単にファンタジーな物事を受け入れる性質であり、二、三日で慣れてしまった。何より初めて会ったような気がせず、すぐにカラスとのやり取りも楽しむようになった。

 

 

 

「ほれ、肉だぞ」

昨日のこと、男は唐突にこいつに名前を付けようと思い立った。やって来たカラスに、男は取っておいた残り物の小さな肉を放ってやった。カラスは早速肉をつつき、嘴で咥えて飲み込もうとしていた。

 

「今日からお前の名前はマスカラスだ。カラスだけに」

男は何気なくそう言った。

 カラスが動きを止めた。咥えていた肉片がポロリと落ちたが、カラスは食べるのも忘れたようにじっと男を見つめた。

 

「どうした?」

いつも喧しいこのカラスが急に黙り込んで見つめてくる。突然雰囲気が変わったので、男も少々戸惑いつつカラスを見返した。

 

「アリガト……」

不意にカラスがお礼を言った。その声は少し震え、よく見ると目も潤んでいるような気がして男は違和感を覚えたが、

「アリガト……リンドー」

続けてそう言われて、男は驚いた。

 

「お前……どうして俺の名前を」

一度も名前を教えた覚えはない。それなのに何故知っているのか?

 どこかで会っているのかとも思ったが心当たりは無く、それとも自分に何か所縁のある存在なのか、と男は不思議に思った。

 

「明日ダ!」

カラスは我に返ったように肉を拾い上げて平らげ、意味ありげにそう言って、ベランダの床から柵の上にひょいと飛び移った。

 

「おい!何のことだよ!」

男は勝手に名付けたカラスに呼びかけたが、カラスは返事も無く飛び立ってしまった。

 

 そして迎えた今朝。ガツンガツンといつになく強く窓ガラスをつつくマスカラス。男は欠伸をしながら起き上がり、カーテンをめくって窓を開けた。

 

「何で毎日毎日来るんだよお前は!まあ今日は起きてたからいいけど」

朝の眩しい光に眼を細めながら、男はベランダにいるマスカラスに話しかける。今日も朝から爽やかな秋晴れだ。

 

「今日ダ」

マスカラスは神妙にそう告げた。

 

「何だよ、きょうって。今日の日ってことか?」

男は怪訝に思いながら訊き返す。

 

「今日ダ」

「だから何のことだよ」

「ヒガンバナ」

「ひがんばな?彼岸花がどうした?」

「行ケ」

「行け?今日彼岸花を見に行けってことか?まあ休みだし予定も無いからな。うーん、見に行くって言えば……あっ、おい!」

必ズ行ケヨ!マスカラスはそう言い残してベランダから飛び去ってしまった。

 

 今日は世間でも休日、そして男にとっても本当に久しぶりの非番の日だった。

 

(マスカラスが言う通り、散歩がてら彼岸花でも見に行くか。この辺りで名所って言えばキメツ学園の近くの河原かな?それにしても“今日”って何だ?)

男はベランダから部屋に入り、カーテンを全開にして改めて窓の外を眺めた。秋晴れの空、普段と変わらない街の景色が広がっている。

 朝の光を見るとホッとする。生きている実感が湧く。子供の頃から何故かそうだったが、それは今も変わらなかった。

 

 普段は既に家を出ている時間なのだが、今日は何となくテレビを点けて朝の情報番組を聞き流し続けていた。

 

(おっ、良いことあるかな?)

占いのコーナーでは、男の星座は今日の運勢の第一位だった。すっかり気を良くした男だったが、番組のキャスターが続いて読み上げた星座のコメントを聞き、思わずコーヒーを淹れる手を止めてテレビの画面を凝視した。

 

「長く果たせなかった約束を果たせる日!」

ラッキーアイテムは焼きお握り。

 

(約束……)

男の頭の片隅には、この言葉が常にあった。

 何時の頃からかも分からないが、物心ついてからずっと、と言っていいくらい昔からだ。関連した記憶も無く、詳しいことは何も分からず、果たしようもないまま時間だけが虚しく過ぎて行った。

 

 顔を洗い、男はふと鏡に映った自分の顔にある痣に目を留めた。生まれた時からある、左耳介の近くから左眼の下を通って鼻にまで届く横一文字の痣。幼い頃はもっと濃かったが段々と薄くなり、成人する頃にはほとんど目立たなくなった。最近は気にすることも無かったが、今は何故か気になってじっと見つめてしまった。

 

 その時、鏡に映った自分の顔に少女の顔が重なり、少女の背景には見たことも無い景色が広がった。

 

 ――夕日に照らされて咲くたくさんの彼岸花と少女。少女の顔には、鼻から左の眼の下を通り、左耳介の近くにまで走る大きな横一文字の傷跡――。

 

 

 鏡に映った自分の顔ではない。痣が傷痕のように見えたとしても、左右が逆だ。男の痣は顔の左側にあるが、それならば鏡に映る顔の傷は向かって左になる筈だった。しかし、鏡の中の少女の傷痕は男の痣と反対側、男から見て右側にあり、治癒組織が盛り上がった傷痕は男の痣よりもずっとはっきりとしていた。顔の左側に痣と傷痕がある者同士が向かい合っている、この事態はそんな図式だった。男は思わず自分の顔の痣に触れたが、鏡の中の少女は同じ動作をすることなく一瞬で消え、鏡の中に広がった風景も同じように消えた。

 

(何だ……今の?)

鏡の中には左の頬に手を遣る自分がいた。

 

 不意に訪れた懐かしい喪失感に胸が疼いた。そのくせ、全く記憶にない初めての光景だった。実際に体験したことではなく、今までに見た映画か何かの一場面かとも思ったが、心当たりが無かった。ただ、また一つ思い出した事があった。

 

 ――また、どこかで会えるよね?

そう聞かれた。

 

――必ず会える。会いに行くよ!約束だ。

それは不可能なのだと分かっていたが、俺はそう答えた。例え不可能でも、また会えると信じていたかった。

 

――約束だよ!

相手もきっと分かっていて、それでもそう言ってくれた。

 

 相手や状況までは思い出せなかったが、確かに蘇る記憶。本当に自分の記憶なのか信じられなかった。先程の少女が約束の相手なのだろうか?その約束を果たすのは今日なのか?再会が嬉しいのか悲しいのか分からない。それとももっと複雑な事情なのだろうか?

 

 何かを思い出しかけている、もやもやした気持ちだった。

 

「考えてても仕方ない。さあ、行くか」

男はコーヒーを飲み終えると身支度を整え、気分を切り替えるためにわざと声に出して立ち上がり、部屋を後にした。

 

 不思議な縁に導かれ、全てが滞りなく進んで行く。まるで、今日がその日だとずっと前から決まっていたかのように。

 

 

 

 最寄駅から数分も歩けば大きな河に突き当たる。その河沿いの土手の上は広い遊歩道になっていて、キメツ学園までは一本道を行くだけだ。彼岸花を見るのに適当な場所を探しながら歩いているうちに、男はいつの間にかキメツ学園の正門近くまでやって来ていた。ススキの穂はまだ出ておらず、男の周囲にはコスモスと、そしてたくさんの彼岸花が赤い絨毯のように咲き誇り、時折吹く風に揺られていた。男はこのひと際見事な彼岸花の群生の近くに腰を下ろし、ゆったりと流れる河を眺めて朝の澄んだ空気を吸い込んだ。

 

(彼岸花の花言葉って何だろう?)

男は不思議な胸の昂ぶりを鎮めるため、ふと頭に思い浮かんだどうでも良い疑問について考え始めた。

 

 彼岸花の花言葉は幾つかある。“転生”。そして“再会”もその一つであることを、男は知らなかった。

 

 斗和が学園の中へ入ってからも、男は河原の土手にいた。約束という言葉を反芻してみても、誰かと再会することなのだという以外、何も思い出せない。そもそも再会と言うならば以前に会っている筈だが、やはり心当たりがないのだ。もしかしたら今生きているこの人生ではない、前世からの約束なのか。

(前世って?!何を考えてんだろう俺は。元々そんなの信じる人だっけ)

男はふと頭に浮かんだ突拍子もない考えに苦笑いした。

 

(何も起こらなくても良いじゃないか。青空の下でボーっとする、たまにはこんな時間も必要だよな。あんまり劇的なイベントが起こってもそれはそれで困るだろうし。このままで良いんだ、きっと)

気付けばもうお昼も過ぎていて、これからドラマチックな何かが起こるとはとても思えない、平和な秋の日だった。ただ何もない、何もしない休日を満喫したと思えばいい。男はそう考えようとした。しかし、それは本音ではない。

 隠されていた何かを知ってしまう不安もあったが、本当は何かが起こるのを心のどこかで期待していた。

 マスカラスに言われた“今日”という言葉もずっと頭を離れなかった。それ以外の根拠は何も無かった。

 

(もう少しだけここで待ってみよう)

何となく男はそう決心した。考えてみれば、今まで待ってきた歳月に比べれば今日の一日くらいどうということはなかった。男は大きく伸びをして、再び河面に目を遣った。

 

 

 

 

 

 お昼も近くなって、斗和は何気なく窓の外を見た。爽やかな秋晴れの空から視線を下げると、ゆったりと流れる河面に秋の陽射しが反射してキラキラと光っている。野球場もある広い河川敷、彼岸花の咲く河原の土手。平和な秋の休日だった。

 よく見ると、その土手に座る中年と思しき男がいた。

 

(あの人、何してるんだろう)

斗和は何故かその男が気になった。

 

 時間の縛りや急な用事を言いつけられることも無く、斗和は誰にも邪魔されずに当面の仕事を片付けていった。集中力が途切れた時、ふと前世の出来事を思い出したりしたが、仕事は概ね順調だった。

 

(もうこんな時間か。夢中になりすぎてお昼食べ損ねちゃった)

お昼まで頑張ろうと思っていたが、気付けば正午もとっくに過ぎておやつの時間と言っても良い頃だ。窓からは午後の陽射しが差し込んでいた。

 せめてお昼はゆっくり食事をしようと作ってきた焼きお握り。あの頃も絶品だったが今も美味い、と夫の実弥も褒めてくれるちょっと自慢の品だ。思いの外仕事が捗り、職員室の冷蔵庫に入れたまますっかり忘れてしまっていた。

 

(せっかく調子が出て来たところだから、もう少しやってしまおう)

斗和は昼食を後回しにして、再び書類仕事に全集中で取りかかった。

 

 仕事に没頭しているうちにいつの間にか陽は傾き、窓から差し込んでいた午後の陽射しは既に黄昏の光に変わっていた。区切りの良いところまで仕事を片付けた斗和は、手早く帰り支度を始めた。用事で出かけていた夫の実弥も夕方には戻ると言っていたし、そろそろ夕食の準備もしなければならない。焼きお握りは持って帰って家で食べよう、そう思った時。ある場面が斗和の脳裏に蘇った。

 

 大事そうにお握りを両手で持ち、じっと見つめている隊服姿の誰か。眼には涙が浮かんでいて、斗和は思わず声をかけた。「美味しかったから」と答えた誰かのひどく寂しそうな笑顔に、斗和は何故か胸騒ぎを覚えたのだった。

 

 鬼殺隊にいた大正の昔、斗和は大勢の人にお握りを振る舞ってきた。実弥はもちろんその弟の玄弥にも、煉獄親子や仲の良かった村田隊士、継子だった館坂佳成(たてさかよしなり)、任務を共にした隊士や隠の隊士たちにも。しかし、心に浮かんだ人物はその誰でもなかった。その人の顔も名前も、その場面の後どうなったのかも分からないが、思い出そうとした斗和は、古傷が疼くような胸の痛みを覚えた。

 斗和はしばし考え込んでしまったがハッと我に返り、時間を気にしながら後片付けを済ませて職員室を出ようとした。

 

(まだいる……)

窓から河原の土手を見ると、お昼前に見たあの男の後ろ姿があった。斗和は、何故か気になって仕方がなかった。

 

 黄昏から夕暮れへと、世界は表情を変えていく。夕日に照らされ、河沿いの土手の斜面にはたくさんの彼岸花が咲いている。彼岸花が咲き乱れるこの光景は最近毎日見ているが、斗和は今日に限ってそれが特別なものに思えた。

 

(ああ、きれいだな。鬼殺隊に居た頃もこんな彼岸花の群生をどこかで見た気がする……どこだったっけ?)

どうにも落ち着かない斗和は、わざと他のことを考えてこの男から気を逸らそうとしたが、いつ、どんな状況だったのかは思い出せず、逆に気になることが増えてしまった斗和は一人苦笑した。

 

 学園の正門を出て右に曲がり、土手の上の道を駅の方へ歩き始めると、すぐにあの男の後ろ姿が間近に迫って来た。

 

 一人きりで仕事をしていたせいなのか、ふとした時に昔の事をよく思い出してしまった。そんなボーっとする時間が無ければもっと仕事を進められたのに、と斗和は少し自分が腹立たしくなったが、それもあの男から注意を逸らそうとする言い訳だった。

 

(どうしてこんなにドキドキするんだろう?)

斗和は、この男のせいだと本当は分かっていながら自分に問いかけた。

 

 男の姿がどんどん近くなる。斗和は男から視線を外して無関心を装い、足早に通り過ぎようとした。

 

 男の後ろを通り過ぎたその時。

 

 ドクン、と不意に心臓が跳ねたような気がした。自分の鼓動が相手に聞こえてしまうのではないかと思ったほどだった。

 

 人助けをする以外に、見ず知らずの他人に斗和が自分から声をかけることなど無かった。しかしその時、どうしてもその男に話しかけなければならない気がしたのだ。

 それを振り切って斗和は歩き続けたが、心中の葛藤を表すように一歩、また一歩と歩みが遅くなり、ついに足が止まった。

 

 斗和は深呼吸をして意を決し、回れ右をして男の方へ歩み寄った。

 

「すみません、何をされているんですか?」

激しく動揺していることを見せないように細心の注意を払いつつ、斗和は男に声をかけた。

 

 急に声をかけられて男は驚き、座ったまま振り向いて斗和を見上げた。

 

「人を待ってる……みたいなんです」

優しげな顔立ちの中年の男は驚き戸惑っているように見えたが、斗和の穏やかな様子に安心したのかすぐに微笑みを返し、のんびりとした調子で答えた。

 

 男の右側に立っているので、斗和からは男の顔の右半分しか見えなかった。

 

「みたいって?待ち合わせの約束をされているのでは?」

男の言っている意味が分からず、斗和は怪訝に思い男にさらに尋ねた。

 

「約束……そう、約束ですね、いつかまた必ず会おうって。だから待ってるんです。だけど約束の場所がどこかも分からないし、日時も分からない。そもそも本当にそんな約束をしたかどうかすら怪しいんですけど……。でも、今日ここで待っていたら何となく会えるような気がして」

男は困ったように曖昧な笑みを浮かべてそう答えた。だが斗和は、男の間の抜けた言葉を聞いても何故かそれを否定する気持ちにはならず、益々興味を引かれた。

 

「あの、相手の方は?どなたを待っていらっしゃるんですか?もう近くに来てるのかも」

立ち入って聞いても良いものか、そう思いながらもまた斗和は尋ねた。辺りを見回してみても、それらしい人影は見えない。

 

「うーん、それが、その……。正直言うと誰を待ってるのかも分からなくて」

「それじゃあお相手に会っても分からないじゃないですか!」

「あはは、全くその通りですね」

場所も日時も相手も分からず、約束したかどうかすらも怪しい再会のために、男はずっとここに居ると言うのだ。あまりに緩い答えに、いくらなんでもぼんやりし過ぎていると斗和はさすがに呆れ、男は自分でも可笑しくなって頭を掻いて照れ笑いした。

 

 男は相変わらずのんびりとした様子で笑っていて、他人を緊張させる要素が全く感じられなかった。斗和は先程までの強い緊張感が解れて自然に笑顔になったが、あてのない約束のために待ち続けるこの中年男が少し哀れにも思えてきた。

 

「そうだ、これ!朝、落としませんでした?」

男は斗和が落としたハンカチを差し出した。

 

「ありがとうございます!でもどうして私のだって分かったんですか?」

斗和はハンカチを受け取ってぺこりと頭を下げた。仕事を始めてからハンカチが無いことに気付き、どこで落としたのかと気になっていた。同時に斗和の中で、また蘇る記憶があった。

 

 夕日に照らされて咲くたくさんの彼岸花。その中で何かを手渡された記憶だった。

 

「貴女が通り過ぎた後に落ちてたので、そうじゃないかと」

「じゃあ朝からここに?!どのくらい待たれてるんですか?……その、随分長い時間待っていらっしゃるようだから」

お昼前どころではない、自分が出勤して来た時には男は既にこの場所に居たと言う。だとすれば少なくとも六時間、あるいはもっと長い時間待っているのかもしれない。余程ヒマなのか、頭のネジが相当緩んでいるのか、もしかしたら若年性の認知症で徘徊しているのではないか、そんなことも斗和の頭を過った。いずれにせよ、斗和は「何時間待っているのか」と聞いたつもりだった。

 

 男は右側にいる斗和から視線を外し、正面の河の方へ向き直った。

 

「物心ついてから。もしかしたらその前から、ずっと待っていた気がします」

男は河面を見つめたままそう言って、それから何かを呟いた。

 

 

 五十年。それが男の答えだった。

 

 

 斗和の顔から微笑みが消えた。

 

 

「ああ、違うんですよ。何か大袈裟に言っちゃいましたけど、ただ待ってるだけなんですよ。すみません!……でも何でだろう、今までこんなこと誰にも話したこと無いのにな」

自分の言葉で重くなってしまった雰囲気を察し、男は慌てて付け加えて照れ笑いした。斗和の心がザワザワと波立ち、さっき以上に大きく揺れ始めた。

 

「どう考えても思い当たらなくって、もしかしたら前世からの約束なのかなって……。おかしいですよね、こんな話。お会いしたばかりなのに変な事言ってすみません!あの、決して怪しい宗教の勧誘ではないんですよ」

男は笑いで誤魔化そうとするが、その真剣さは斗和にも痛いほどに伝わって来る。物心ついてから今日までずっと、それを忘れずに生きてきた。詳細が分からなくても、男にとってはとても大事なものなのだろう。

 

 “頭のネジが緩んだ人”というイメージは消え去ってしまった。斗和は息苦しくなるほどの緊張感に囚われたが、この感情の理由が分からない。

 

(もしかしたらこの人が待っている相手は私……?)

唐突に斗和はそう直感した。穏やかな、しかし何かを隠しているような、そんな男の笑顔にもどこか懐かしさを感じる。だが必死に記憶を探っても何も思い当たらない。初対面とは思えないが、今世でも、明治から大正、昭和と生きた前世でも関わった記憶は無かった。

 

 お互い何も言い出せず、気まずい沈黙が生まれた。

 

 ぐううう。ぎゅるる。

 

 沈黙を破り、わりと大きな音で男のお腹が鳴った。

 

「そう言えば今日は何も食べてなかった……」

男はお腹を押さえてそう言うと、恥ずかしそうに笑った。

 

 高まった緊張が一気に緩み、斗和もほっとして思わず笑顔になった。

 

「そうだ、お腹空いてますよね?!お握りなんですけど、お昼に食べ損ねちゃって。良かったらどうぞ!」

斗和は男の傍にしゃがんで、アルミホイルに包んだ焼きお握りを男に差し出した。

 

「ありがとうございます!わあ、焼きお握りですか!」

男は恐縮しながらもお握りの包みを受け取った。アルミホイルの包みを開けると焼きお握りが二つ。焦がし醤油の良い香りに男は顔を綻ばせた。

 

「朝のテレビで“今日のラッキーアイテムは焼きお握り!”って言ってたんですよ。やけに細かいなと思ったんですけど、こういうことだったんですね!いただきます!」

男はそう言うと、早速一つ目のお握りを頬張った。

 

「美味しいです!何だか懐かしい感じがします」

男は一つ目のお握りをすぐに平らげたが、何やら首を捻っている。そして二つ目のお握りを一口食べた時だった。

 

「あれ?これは…………」

お握りを咀嚼していた男は顔色を変えて食べるのを止め、残りのお握りを両手で大事そうに持ったまま、真剣な眼差しでじっと見つめていた。

 

 ラッキーアイテム。約束を果たせる日。

 

 ――約束――。

 

 また、どこかで会えるよね?

 

 必ず会える。会いに行くよ!約束だ。

 

 約束だよ!

 

 やり取りを交わした相手の顔が、声が、鮮明に蘇る。

 

(何ですぐに気付かなかったんだろう?ずっと、ずっと想っていたのに)

押し寄せる記憶の奔流。男の中で、前世の記憶が蘇っていた。

 

 ――君がどの世界にいても、俺は必ず会いに行く。例え君が俺のこと忘れていても、俺自身が君を忘れていたとしても。どこかの世界で、時の流れのどこかで、いつか必ず――。

 伝えられなかった言葉までもが、あの頃の切なさと共に蘇った。

 

 

 

 

「あの……大丈夫ですか?気分が悪いんですか?」

斗和は心配になって男に尋ねたが、男は斗和の問いかけも耳に入らない様子でお握りを見つめている。反応が無いので斗和はさらに声をかけようとしたが、男を見てハッと息を呑んだ。

 男の眼には今にも溢れ出しそうなほど涙が浮かんでいた。

 

「懐かしい味……そうか……そう……だったんだ…………。やっぱり美味しいな」

男は鼻を啜りながら呟いて、またお握りを食べ始めた。

 

 

 

「貴方は…………」

斗和はもう一度男に声をかけた。お握りをじっと見つめて涙ぐんでいる男の様子は、仕事中に思い出した遠い記憶の場面と全く同じだった。

 

「いえ、体調が悪いんじゃないんです。お握りが美味しくて……何だか眼から鼻水が出てしょうがないや……」

男は慌てて涙を拭って誤魔化し、残りのお握りを食べ終えると、深く、大きく息をついて立ち上がった。

 

「お握り、本当に感激するぐらい美味しかったです!ご馳走様でした!」

男はそう言うと右側に居る斗和の方へとまっすぐ向き直り、流れる涙を拭って晴れやかな笑顔を見せた。

 

(あの痣は!)

斗和は男と初めて正面から向き合い、男の顔の左側に薄っすらと痣があることに気付いて衝撃を受けた。

 鼻から左の眼の下を通り、左耳介の近くにまで走る大きな横一文字の痣。夕日の当たり具合なのか、それはやけにハッキリと見えた。

 その痣を見て、この男が待っている相手は自分だと斗和は確信した。

 

 斗和にも同じ箇所に生まれつきの痣があった。思春期から治療を開始して今では随分薄く目立たなくなったが、以前は嫌でたまらなかった。何故こんな醜い痣がある顔に生んだのかと親を恨んだりしたが、昨年キメツ学園に来て運命的に不死川実弥と出会い、前世の記憶を戻したことで斗和は自らの顔の痣の由来を理解したのだ。

 

 前世で鬼殺隊士であった斗和は、任務で顔を斬られた。傷痕は肥厚性瘢痕として盛り上がって残り、顔のこの大きな傷は心の傷ともなった。しかし最終決戦の後、盛り上がった瘢痕組織がほぼ無くなって色素沈着も薄くなり、傷痕は明らかに目立たなくなっていた。当時も今も、理由は分からないままだった。

 

 断片的に斗和の記憶が蘇り始める。まるで霧が晴れていくように、思い出の中の人物の顔がはっきりとしてくる。

 

「半分こだ」そう言って斗和の手を取り、蒼白い顔で弱々しく微笑んだ誰か。その誰かが斗和の傷痕を自分に移したのだ。斗和の傷は薄くなり、その誰かの顔には斗和と同じ傷が現れていた。

 

 斗和は眼を見開き、男の顔を凝視した。どうしても眼を逸らすことができなかった。

 

 

 吹き抜ける風が彼岸花を揺らし、閉ざされた斗和の記憶の扉をそっと開けた。不死川実弥と出会って前世の記憶を戻していた斗和であったが、まだ大事な何かを忘れているような気がしていた。しかし今、ようやくその答えが見つかった。

 懐かしい思い出が斗和を前世へと誘う。命を懸けて共に戦ったあの頃へ。そして、初めて会ったあの景色の中へ。斗和の脳裏に一人の少年の面影が鮮やかに蘇り、目の前の男と重なった。

 

「あっ……ああ……!」

斗和は両手で口を覆ったが、感情の昂りで言葉にならないその声を止めることはできなかった。

 斗和の眼に涙が溢れた。

 

 顔に傷のある鬼狩りの少女と夕日の少年がそこにいた。

 

「思い……出した……全部思い出したよ……!倫道君!倫道君だよね?!……会いに来てくれたんだね……」

斗和は万感の思いを込め、百年以上の時を経て再びその名を呼んだ。一緒に過ごしたちょっとした日常や、共に鍛錬し戦ったこと、別れの時に倫道が初めて告げた自分への秘めていた想いや切なさも、斗和は全てを思い出した。あの頃の事、今世の事、聞きたい事や話したいことは山ほどあった。

 

「忘れててごめんなさい……倫――」

言いかけた斗和を男の言葉が遮った。

 

「いえ、俺はそう言う名前ではありません。貴女とお会いしたことも無いと思いますし、申し訳ないですが人違いではないでしょうか?」

男は必死に感情を抑えて怪訝な表情を作り、そう答えた。

 

 彼岸花の花言葉。“転生”、“再会”。そして“悲しい思い出”。

 

 奇跡的に再び同じ時代に生きている。しかし今世では、何の接点も無くそれぞれの人生を生きている赤の他人。目の前に居るのは鬼殺隊士として共に戦い、密かに想いを寄せていた前世の土柱・蓬萊斗和ではないのだ。

 百年越しの束の間の再会。斗和は今、きっと幸せなのだろう。男にはそれだけで十分で、再び巡り会えた運命に感謝した。

 

「えっ……?」

長く失っていた記憶を取り戻し、せっかく会えたのに、何故そんなことを言うのか斗和には理解できなかった。

 

(記憶、戻してないのかな?私の事覚えてないの?)

斗和は疑問に思った。だが「心当たりがない、それは自分のことではない」と言われてしまってはどうしようもなかった。斗和はそれ以上何も言えず、男を見つめた。そう言えば、前世でもなかなか本心を見せてはくれなかったことも思い出しながら。

 

「美味しいお握りいただいたら、何だか吹っ切れました。約束のことも今日でもう終わりにして、前を向いて生きていきます。変な話に付き合わせてしまってすみません」

思い出は思い出のまま、斗和の新しい人生に干渉しないようにと考えた男は頭を下げ、立ち去ろうとした。

「そう……ですか、分かりました。すみません、勝手に勘違いして取り乱しちゃって」

斗和は涙を拭って微笑んだ。倫道はこのまま別れた方が良い、そう考えているのだろう。

 

「元気で」

斗和は寂しさを振り切ってそれだけを言うと、男を見つめていた。

 

 男は本当は駅の方へ行きたかったのだが、斗和と一緒の方向になってしまうのでわざと反対方向に歩き出そうとした。どう行けば帰れるのかは全く分からなかったが、このまま去ろうとしたその時。羽音と共に空から黒い影が舞い降りて、男の頭に止まった。

 

「カアァァ!!リンドー!斗和チャン二会エタナ!来テ良カッタダロ!」

喧しく喋る黒い影は今朝も男の家に現れたカラス、マスカラスであった。

 

「ちょっ、ば、馬鹿!!違うって!何言ってんだお前!」

「リンドー!思イ出シタダロ、リンドー!!」

大慌てになり取り乱す男だったが、カラスは嘲笑うように男の名を喧しく連呼した。

 

「マスカラス!てめえぶっ殺すぞ!いや、あの……あ、あはは、何言ってるんでしょうね、このくそガラスは。全然知らない奴なんですよ」

男は斗和に向かって愛想笑いをしつつカラスを懸命に追い払おうとするが、前世で自分の相棒だったその名をしっかりと呼んでいた。

 

「リンドー!カンドーノ再会!」

「韻を踏むな!上手い事言ってんじゃねえ!」

叫びながら飛び回るマスカラスに男は完全におちょくられており、斗和は呆気に取られていたが、あの頃と変わらない大騒ぎをしているこのコンビに可笑しさが込み上げて、ついに笑い出してしまった。

 

 水の呼吸 陸ノ型・ねじれ渦!

 

 男は素手でありながら、前世で身につけた鬼殺の技を放とうとした。

 

「ちょっと倫道君、もう止め!そこまで!」

「だって斗和さん、こいつ生意気な事言うから懲らしめないと!」

斗和が慌てて男を制止し、男は文句を言いながらも仕方なく構えを解いた。斗和は男の腕を押さえ、しっかりと視線を合わせた。

 

「今、“斗和さん”って言ったよね?」

「うっ……」

斗和のいたずらっぽい笑顔に、男は――倫道は何も言い返せなかった。

 

「マスカラス!久しぶりだね、ありがとう!――久しぶり、倫道君!」

斗和はマスカラスに挨拶をし、軽く睨む真似をしながら男にもう一度声をかけた。

 

「う……うん、久しぶり」

カッコよく去って行くという目論見が完全に外れ、グダグダの展開となって倫道はバツが悪そうに答えたが、斗和に会えた嬉しさが勝り照れくさそうに笑った。

 

 斗和はスマホで誰かに電話を架け、何かを買っておいてと頼むと、もう一度倫道に向き直った。

 

「倫道君、やっと会えたんだからゆっくり話そうよ。私の家に来て!夕飯も食べて行ってよ」

何でも無いように誘う斗和だが、

「そんな、若い女性の家におじさんが上がり込むのはダメだよ」

倫道の遠慮に斗和はキョトンとしていたが、そういう勘違いかと納得した。

 

「大丈夫、実弥さんと結婚して一緒に暮らしてるの。さっき電話したらまだ外だったけど、もう帰って来るから」

それを聞いた倫道は斗和にくるりと背を向け、バタバタと逃げようとした。

 

「待って!大丈夫だから!」

斗和は逃げようとした倫道の襟首をガッチリ掴んだ。

「大丈夫じゃないでしょ!不死川さんの留守に上がり込んでたら、半殺しどころか全殺しにされるよ!」

倫道は尚も逃げようとする。

 

「大丈夫!実弥さんも記憶戻してるから!」

そう言いながら斗和は倫道の腕も掴み、

「倫道君、ゲットだぜ!」

と完全に捕獲した。

 

 土手の上の一本道を斗和と倫道は並んで歩き、マスカラスは見守るように二人の頭上を飛んでいたが、やがて飛び去ってしまった。

 

 

 

 

(急にすき焼きとはどういう訳だぁ?何か良い事でもあったみてェだな)

斗和の夫、不死川実弥は駅前の商店街で斗和に頼まれた買い物をしていた。先程斗和から電話があり、夕食はすき焼きにするから三、四人分の材料を買って来て欲しいと頼まれたのだ。電話の声ははしゃぐような感じではないが、しみじみと喜びが伝わるようなトーンであり、本当に嬉しいことがあったのだと実弥は推測した。

 

(まぁこんなもんだろ。だが三、四人分ってこたァ誰か他に居ンのかぁ?)

不思議に思いながらも、不死川は家路についた。

 

 

 

 斗和と倫道は帰宅したものの、いざ面と向かうと照れがあり、少しぎこちない空気になった。

 

「そうだ、郵便受け確認するの忘れちゃった!見てくるからゆっくりしててね」

斗和は倫道にお茶を出すと、自分を落ち着かせる意味もあり集合式の郵便受けまで行き、意味も無く中を覗いて部屋へ戻ろうとしたのだが、そこに思わぬ珍客がいたため一緒に部屋に連れ帰った。

 

「ごめんね、何にも来てなかった」

「うん……えっ?」

斗和は倫道に声をかけた。倫道はまだ緊張した様子でお茶を啜っていたが、斗和の後ろからとことこ歩いてリビングに入って来るマスカラスを見てブッとお茶を噴いた。

 

 

 

 

 不死川はアパートの自室近くまで来て異変を感じた。部屋の中からは、「止めて!」という斗和の叫び声と「大人しくしろ!」と言う男の声、争うような物音がしていた。最悪の事態が頭を過る。

 

「斗和!!」

不死川は玄関のドアを蹴破るように開け、憤怒の形相で部屋のリビングに飛び込んだ。

 

「……おい、お前ら何してんだ?」

不死川がそこで見たのは、カラスを追い回す中年男とそれを必死に止める斗和、というギャグ漫画のような光景だった。

 

 

 斗和から事情を聴いた不死川は、倫道をじっと見つめた。倫道も内心ビクビクしながらも不死川を見返す。不死川は徐々に驚いたような表情を浮かべたが、最後に二ッと笑顔を見せ、倫道を抱き締めた。

 

「思い出したぜェ!久し振りじゃねぇか!……なあ、水原倫道!」

倫道は不死川の好意的な反応に少々戸惑ったが、しっかりと自分の名を呼んでくれることに胸が熱くなった。

 不死川は斗和を護ってくれた事や弟の玄弥との仲を取り持ってくれた事に礼を言い、倫道も挨拶を返していると、そこに呼び鈴が鳴った。

 

「お姉ちゃん!お義兄さん!挨拶に来ました!」

玄関前に居たのは、夏世(かよ)と館坂佳成(たてさかよしなり)のカップルだった。今世では夏世は斗和の妹、佳成は斗和の同僚の農業コースの教師であった。二人は斗和の紹介で出会ってすぐに仲良くなり、今日は婚約した挨拶をしに家を訪ねると斗和に話してあったのだが、斗和はうっかりと忘れてしまっていた。

 

「お客さんですか?じゃあ私たちはまた改めて」

玄関から室内を見ると不死川と倫道が親しそうに話していたため、佳成はそう言って帰ろうとした。前世の記憶を戻している斗和と不死川は、二人が死別した前世のつらい記憶を戻さないように注意していたのだが、佳成はリビングにいる倫道としっかり顔を合わせていた。

 

「よしなり……じゃなくて、館坂先生すみません。今ちょっと取り込み中なので」

図らずも佳成と倫道を再会させることになってしまい、斗和は焦りながら佳成に謝り、大慌てで二人を帰そうとしていた。

 

「お姉ちゃん、今日家に行くって言ったでしょ?」

鍋の食材まで買い込んでしまったため夏世は不満気だったが、また改めて、と玄関ドアを閉めて帰って行った。

 

(不死川先生と一緒にいた人。あの姿、あの声。俺はどこかで会っている)

違和感を覚えていた佳成は、集合郵便受けの付近で足を止めた。夏世が不思議そうに見上げていると、佳成は「あっ」と声を上げた。佳成の中で何かが弾け、佳成は顔色を変えて斗和の家へ駆け戻った。訳が分からない夏世も佳成の後を追って斗和の家の玄関前まで戻って来た。

 

「俺は、今度こそお前を離さない」

佳成は玄関のドアの前で夏世を抱き締めた。いきなり何を言い出すのかと夏世は益々訳が分からなかったが、何故か言葉を発することができずにただ佳成の行動を見つめていた。佳成は呼び鈴を鳴らすや否や斗和の家の玄関ドアを開け、リビングに駆け込んだ。

 

 斗和、不死川、倫道が驚いて佳成を見つめる。

 

「師範……!不死川さん!……倫道さん!」

いつも穏やかな佳成が、声を震わせて小さく叫んだ。

 

「思い出しちまったかぁ……気ィ付けてたのによぉ」

不死川がやれやれと言った様子で呟き、倫道も複雑な顔で佳成を見つめた。

 

 その後は夏世までもが前世を思い出し、あの頃出来なかったすき焼きをすることができた。

 

「何でお前がいるんだよ!」

あの頃のように、倫道の頭の上にはちゃっかりとマスカラスがスタンバイしている。

 

「カラスノ勝手デショ!」

「勝手じゃねーわ!帰れ!」

「斗和チャン二会エタノハ誰ノオ陰様ダ!?オマエハアタイガイナイト何ニモデキネーカラナ!」

ぐぬぬ!と倫道が悔しがり、不死川は呆れ、斗和、佳成、夏世は爆笑し、あの大正の頃のままだと懐かしんだ。

 懐かしい話や今だから言える話で盛り上がり、改めて感謝を述べたり古傷を舐め合ったり逆に抉りあったりして楽しい時間は過ぎていった。

 

「使うの……?邪眼」

そろそろお開きになろうとした時、不死川に挨拶をしている佳成と夏世を見ながら、斗和がこっそりと倫道に聞いた。斗和は、佳成と夏世が前世の記憶を取り戻したことを心配していた。

 

「いや、あの二人は大丈夫なんじゃないかな。前世のつらい記憶があっても、今度こそ幸せになれるよ」

倫道は首を振り、幸せそうな二人を見ながら小声で答えた。

 

 佳成と夏世は挨拶をして仲良く帰って行き、斗和、不死川、倫道の三人と一羽のカラスが残った。またいつでも来い、不死川は倫道にそう言ったが、

 

「せっかくまた会えたけど、今月いっぱいで東京から山梨に引っ越すんですよ、俺」

倫道は以前から思っていた。重症者だけを扱うのではなく、地域に根差し、全ての段階に関わりたい。その思いを実現するため、今働いている地域の中核病院を辞め、祖父母が生前暮らしていた山梨県の医療過疎地で診療所をやろうと決めていたのだ。

 

「「ええ?」」

「カアァ?!!」

不死川と斗和も驚いたが、マスカラスが一番驚いていた。記憶を戻し、再会を果たしたと言うのにまた離れてしまうのだ。電車だと十分から三時間以上の距離になり、業務の忙しさもあって簡単には会えなくなる。

 

 

「不死川さん、ちょっと斗和さんを借りるから少し眼を瞑っていてくれ」

倫道の言葉に不死川は無言で軽く頷くと、倫道に背を向けた。

 倫道は斗和を見つめ、遠慮がちに軽く抱き寄せた。斗和は戸惑っていたが、倫道の想いに応え、友情と感謝を込めて抱擁を返した。

 

「物語はこれからも続いていく。斗和さん、頑張って」

「ありがとう、倫道君も」

数秒間抱き合い、離れ際にそう言って二人は抱擁を解いた。

 

 

「元気でなァ」

「また会おうね」

不死川と斗和はそう言って送り出し、倫道とマスカラスは帰って行った。

 

 

 

「リンドー、遠クニ行ッチャウノカ」

倫道の頭に乗ったままマスカラスが聞いた。

 

「ああ、前から決めてた事だ。お前も来るか?」

倫道がわざと面倒くさそうに答える。

 

「オマエガ来テ欲シイッテ言ウナラ、行ッテヤラン事モナイ」

「いやお前が来たいって言うなら、連れて行かん事も無い」

「オマエガ、ドーシテモッテ言ウナラ一緒ニ行ッテヤル!」

「お前が泣いて頼むんだったら連れて行ってやるわい!!」

バカバカしい攻防の後、

 

「あー分かった分かった、来てくれよ」

「最初カラ素直ニ言エ!オマエハアタイガイナイト、何ニモデキネーカラナ!」

高笑いするマスカラス。

 

(くっそー何か腹立つなコイツ)

そう思いながらも、全く新しい環境で気心の知れたマスカラスの存在は安らぎにはなる。

 

「あと一週間しかないんだ、急いで荷造りしないと!」

倫道は誰にともなく宣言した。中年男が頭に乗せたカラスと喋っているこの状況は、誰かに見られたら通報されるに違いない。しかし、ずっと気になっていた約束を果たし、倫道は清々しい気分だった。

 

(斗和さんもみんなも頑張って生きてる。俺も負けてられない!)

誰も結末を知らないこの物語の世界。これからも生き抜いていく決意を固め、倫道は駆け出した。その足取りはあの頃のように軽かった。

 

 

 完

 




今回で【ほのぼの鬼殺隊生活】及び、【同・コラボ番外編 野良着の世界にほのぼのを】は本当に完結となります。これまでお読みいただいたりお気に入りをつけてくださった方、本当にありがとうございました。【野良着の隊士・改編】もぜひお読みください。
最後になりましたが、コラボしてくださったいとめ様にも厚く御礼を申し上げます。
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