山の空気は、街と匂いが違った。
研究員の男は、じっと装蹄師の男を見つめている。
薄暗い工房内で、金属を叩いたときの、高く、硬く、重さのある音が一定のリズムを刻み、響いている。
その男は鉄を叩いていた。
赤く熱した鉄の棒を、左手に持ったヤットコ鋏でつかみ、右手に持ったハンマーで叩いて思い描いた形に変えていく。
鉄の棒の持ち方を変え、思う部分に曲げを加えながら、叩き、冷やし、また熱して、整形していく。
ある程度形を整えて、左手の道具を持ち替える。
平面を穿って模様を打ち込み、また形を整え、表面を削り慣らしていく。
10分前には一本の鋼棒であったものが、みるみるうちに形を変え、目的の成形物の姿を現しつつあった。
それから5分ほど、男はさまざまな角度から眉間にしわを寄せつつ眺めては、鉄をたたいた。
最後に大きめの水を張ったバケツにしっかりと沈めて熱を取り、布で水気を取って台に乗せた。
「っと、こんなところかな…」
ガラン、と重たい音を立てた台の上には、20分前の鉄の棒から姿を変えた、蹄鉄が横たわっていた。
「かわらないねぇ…」
いつのまにか研究員の男の背後に立っていたアグネスタキオンが呟いた。
その声を聴いた装蹄師の男はアグネスタキオンの突然の登場に片眉をあげたが、さも当然のように応答した。
「もうこんなのは流行らねぇけどな」
装蹄師の男はそう言って煙草を銜えると、工房の外へ歩いて行った。
「…何を感じたんだね?キミは」
二人残ってから、アグネスタキオンは研究員の男を覗き込むように見つめた。
研究員の男はすぐには答えられなかった。メモ用に用意したノートには何も書いていなかった。
「…うまく言えません」
職人の手仕事というものを目の当たりにして圧倒されていた。
熱、音、重さ。
アグネスタキオンは無造作に転がっていた蹄鉄をひとつ、手に取るとその造りを一通り眺め、研究員の男に手渡した。
「…うん。それでいいんだ」
アグネスタキオンは微笑んだ。
「なにせ、長い付き合いの私たちでさえ、わからないことだらけなのだからねぇ…」
アグネスタキオンは作業場の、雑然とした様子を懐かしそうに眺めまわしながら呟いた。
工房の外から、遠く鳥の声がした。
研究員の男は手の中の蹄鉄の重さを確かめた。
◆
数日後。
装蹄師の男は学園の会議室に居た。
傍らには研究員の男も当然居る。
学園の会議室は、研究員の男が入ったことのない、学園の上層階の端にあった。
長テーブルの片側に蹄鉄メーカーの担当者が三人、反対側に後輩の男の会社の人間が一人、そしてトレセン学園で直接ウマ娘たちとやり取りをしているURA側の担当者が二人、座っている。
装蹄師の男は上座でも下座でもない、テーブルの端に椅子を引き寄せて、どこか他人事のように腰を下ろしていた。研究員の男はその隣に、存在を消すようにして座った。
打ち合わせを仕切っているのは後輩の男の会社の人間だ。
資料をめくりながら、蹄鉄の素材と製法について説明する。どうやら次期に採用を検討している標準スペックの蹄鉄の仕様を詰めているようだ。
メーカー側が質問し、部下やURAサイドの人間が答える。
装蹄師の男はほとんど口を開かなかった。
一度だけ、メーカーの担当者が装蹄師の男に直接水を向けた場面があった。重心のかかり方と素材の厚みの関係について、知見に基づいたニュアンスを聞きたい、という問いだった。
装蹄師の男は少し考えてから、答えた。
「彼女たちの足裏は、極めて精密なセンサーでもあります。素材の厚みよりも剛性、それも数値上のことではなく、剛性の感じ方を意識した方がいい」
部下がそれを受けて補足し、打ち合わせは続いた。
会議室を出たところで、研究員の男は思い切って訊いた。
「…蹄鉄、以前とはずいぶん変わりましたか」
装蹄師の男は廊下を歩きながら、会議の時のように少し考えるようなしぐさをして、答えた。
「世の中はもう、俺なんかをとっくに追い越して先に行ってるよ」
それから、少し遠い目をしてぼそりと付け加えた。
「昔よりだいぶマシな世界だ、な」
装蹄師の男が少し、柔らかい顔をした。
◆
打ち合わせを終えて向かった学園内の食堂は、昼時を少し過ぎていたが、まだ人が残っていた。
向かい合って定食を食べていると、気配がした。
ピリピリとした、物々しいというか禍々しい空気。
思わず、研究員の男は顔を上げた。
「…どういう風の吹き回し?」
数多いる優駿の集まりであるトレセン学園トレーナー陣の頂点に屹立する女傑、東条ハナ。
立ったまま、装蹄師の男を見下ろしている。
驚きと、それ以外のものが混じった複雑な表情だった。
耳には今日も、彼女のトレードマークとして有名な蹄鉄型のピアスがきらりと光っている。
「まぁ、仕事だよ」
装蹄師の男は箸を置かずに答えた。
「仕事で」
東条ハナは繰り返した。声の温度が少し変わった。
「あなたはいつもそうやって適当に…せめて事前に連絡くらい…」
研究員の男は、自分の定食を見つめたまま、できる限り気配を消そうとした。
史料課で幾度となく目にした名前だった。
現在の肩書きも、学園における立場も、知っている。
研究員の男が見掛けても遠くから眺めるだけの、ある意味エアグルーヴ理事長よりも遥かな高みにいる存在。
その人物が今、目の前の装蹄師の男に向かって、抑えながらも確かな何かを滲ませながら言葉を続けている。
しかし当の装蹄師の男はどこ吹く風とばかりに、顔色一つ変えていない。
それどころか、研究員の男が見たところ、どこかそれを楽しんでいる風ですらある。
…これは、この件の発端であるあの日記を裏付けるような状況ではないか。
研究員の男は改めて、装蹄師の心中を聞いてみたいと思った。
しかし、それを問うには自分がまだ少し、理解が及んでいないことも解っていた。
東条ハナのところへ、若いウマ娘が遠慮がちに近づいてきたのはそのときだった。
相談があるのか、困ったように少し距離を取り、東条ハナの様子を窺っている。
「…後で」
東条ハナは装蹄師の男にそれだけ言い残して、ウマ娘の方へ向かった。
しばらく、そこに取り残された二人は黙って食事を続けた。
研究員の男は、箸を持つ手が少し緊張していることに気づいた。
記録の中にある人物と、今見たものの温度差を、どう言葉にすればいいかわからなかった。
装蹄師の男は何事もなかったように飯を食っていた。
「なに緊張してんだ。古い知り合いってだけだよ」
装蹄師の男は研究員の男の様子のおかしさを察し、その一言だけをフォローのつもりで寄越したらしかった。
装蹄師の男のその横顔を見ながら、研究員の男はこの男の罪深さの一端を垣間見た気がした。
◆
一服でもして帰ろうか、としたところを二人はつかまった。
廊下の角を曲がったところに、エアグルーヴ理事長が立っていたのだ。
待ち構えていたのか、偶然なのか、判然としない立ち方だった。
「先生、少し時間はありますか」
装蹄師の男は、研究員の男に済まなそうな表情を向けた。
理事長室は広く、静かだった。
練習トラックからのランニングの掛け声や、中庭での談笑の声が薄く聞こえてくる。
エアグルーヴ理事長手ずから茶を入れられ、応接セットでよもやま話が続く。
学園の近況、業界の話、共通の知人のこと。
研究員の男は隅の椅子に座って、なるべく存在を主張しないようにしていた。
理事長の背後にある机には、精緻に花柄が彫り込まれた蹄鉄が飾られている。研究員はそれを観察していた。
ひとしきり話したところで、エアグルーヴが言った。
「今年の年末、山の工房で少し集まりたいと思っているのですが」
「別にかまわねぇよ」
装蹄師の男はあっさりと答えた。
「好きにしろよ。いつもそうしてるだろ」
何をいまさら、というように笑いながら、装蹄師は答えた。
「…いつもそうやって、先生は…」
エアグルーヴは小さく息をついた。
◆
理事長室を出れば、夕暮れが近かった。
学園の端にある喫煙所は、練習トラックを見渡せる位置にあった。
フェンス越しに、まだ走っているウマ娘たちの姿が見える。
装蹄師の男は柵に腕を預けて、煙草を吸いながらトラックを眺めていた。
研究員の男はその隣に立って、同じ方を見ていた。
言葉はなかった。
装蹄師の男はウマ娘たちを遠目に眺めながら、時々、眉を顰めた。
足音がした。
振り返ると、いつぞや研究員の男が声をかけられた沖野トレーナーがいた。
「一本くれよ」
装蹄師の男は黙って煙草を差し出した。沖野は火をもらって、柵の反対側に寄りかかった。
しばらく、三人で煙草を吸った。
「懐かしいか」
沖野が言った。問いかけというより、独り言に近い声量だった。
「…そうでもないかな」
装蹄師の男は答えた。
沖野はトラックに目をやったまま、言った。
「あの娘たち、どう見える」
装蹄師の男は少し黙った。言葉を探している、という風に見えた。
それからゆっくりと視線を動かした。
「あの娘」
装蹄師の男が指した先を、沖野は確認する。
「怪我明けじゃねえか。たぶん左足、ヒザあたりか。まだ痛いんじゃないか。隠してるようだが」
沖野の顔が少し動いた。
「あっちの娘」
また別の娘を指し示す。
「上半身と下半身のバランスが崩れかけてるように見える。なんか隠れてトレーニングでもしてんのかね」
「…」
沖野はやれやれ、といった風に首を振る。
「そこの娘は…うーんちょっとここから遠すぎてよくわかんねえな。足…足元。なにかおかしい。蹄鉄が摩耗してんのか…?」
沖野は舌打ちをして、頭をかきむしるような仕草をして、スマートフォンを取り出す。
かけた相手はトラック上にいたトレーナーのようで、話しながら、沖野は装蹄師の男を横目で見ている。
その表情は、呆れと、それ以外の何かが混じっていた。
研究員の男は思わず訊いた。
「…なんでそんなことがわかるんですか」
装蹄師の男は煙草の煙をゆっくりと吐き出した。
うーん、と唸り、また言葉を選んでいるようだった。
「…まぁカンだな。どうやらまだ鈍ってはいないらしい」
それから少し間を置いて、続けた。
「これでも、今まで伝説の娘たちばかり見てきたんだぜ」
トラックの上で、ウマ娘たちはまだ走っていた。夕陽が長い影を作っていた。
研究員の男は、今日もノートを取り出さなかった。