満ちた月が空に陣取っている春の夜。窓から優しく撫でてくる陽光によって昼間に見事な熟睡をかました結果、目が完全に冴えきって眠れない自分は、なんとなく夜風に当たりに外をほっつき歩いている。
最初は夜遅くに散歩する気はなく、眠くなるまでゲームでもしようと考えたものの、知り合い誰一人として都合が合わず、1番深い交流の相手とは連絡すら取れないという悲惨な結果にやる気を喪失し、手持ち無沙汰になって外に出てきたが、特に目的を持たず定めずに足を動かしているうちに、家からそれなりの距離がある、街灯が鈍い光で僅かな明度を保つ小さな公園にまで足を運んでいた。
中央に大きな桜の木があること以外は大それた特徴があるわけではない、しかし、数々の大切な思い出が作られている場所で、自身の記憶の中央にいる人物を無意識のうちに探してしまい、こんな時間に人がいるはずもないと、己を律して踵を返そうとしたその時、なにげなく視界に捉えた桃色の花びらを運ぶ温かな風が導いた先、太い幹が死角となっていたところに、彼女はいた。
造られた光が及ばない場所で、月光に当てられた艶やかな黒い長髪を春風と遊ばせる、舞い散る桜を紫苑の瞳に映している少女は、彼女と深い親交を築いている自分でさえ、声をかけることすら憚られるほど美しかった。
しかし、こちらが喉を震わせずにいるあいだに、あちらが自分に気付いたらしく、彼女は一瞬口元を綻ばせたものの、すぐさま頬に空気を含ませながら早足で駆け寄ってくる。
「・・・こんばんは」
いつもより低い声でされた挨拶に、引き攣った笑みを浮かべつつ答えると、今晩唯一連絡が取れなかったネトゲの相棒兼、男女の関係的な意味で長い交流をおこなってきた白金 燐子が、膨れっ面のまま弁解を要求してきた。
「わたしに、気付いてましたよね…。それなのに…どうして声を、かけてくれなかったんですか…!」
その問いの答えである自身の胸のうちを、洗いざらい口にするのが恥ずかし過ぎる故に言葉へ変換するのを躊躇っていると、目の前の少女が発する圧が徐々に膨張を始めたので、ええいままよと正直に白状すると、黒髪の少女は刹那にぽかんと感情が薄めた。そして瞬きひとつのあと、すぐさま耳の先まで真っ赤に染める。
あまりの心情のわかりやすさにこっちまで頬に熱がこもり、互いに口を紡いでしまうので、微妙な空気が瞬く間に形成されて時間が経つほどにどんどん増幅されていく。正直、口を開くのも困難な雰囲気になってしまったのを肌で感じるが、このままなにもしないのは最大の悪手だと思ったので、なんとか声を出すべく空気を深く吸い込んだ。
「「あ、あの…!」」
しかし、なんたる偶然か、一言一句変わらぬ言葉の羅列が些細なズレひとつなく重なり、再び2人の間に沈黙が訪れる。
羞恥と気まずさでごっちゃになって絶叫したがる心情を体現させぬよう、歯を噛み締めて必死にブレーキをかけていると、突如、眼前の少女が発する笑みの音によって沈黙が破られた。
「ふふっ、凄い…偶然ですね…。こんなこと…初めてじゃないですか?」
今までの記憶を辿ってしっかり確認し、本当に心当たりのない自分がぎこちない返事と共に頷いたあとも、燐子は穏やかに笑い声を響かせていて、羞恥心が気まずさを上書きする形で胸の中を占領するが、嬉しそうな彼女の姿を見ているうちになんとか心の感情と区切りがつけられたし、喋りにくい空気が一新されたので、いまさら急浮上してきた疑問である、ネトゲの誘いが届かなかった件について訊ねてみると、燐子はハッと表情を硬直させたのち、申し訳なさそうに瞳を伏せる。
「す、すみません…!スマホ…家に置いてきているので…」
テンションが急下落した少女に向かって、別に気にしてないからとぶんぶん首を振ったが、連絡したのは陽が落ちた直後の決して遅い時間ではなかったはずなので、なにかあったのか心配になったこちらがそれを言葉にして彼女にぶつけたところ、燐子は視線を下げたまま頬に朱色を帯びさせた。
「わ、笑いませんか…?」
赤面と上目遣いの合わせ技に一瞬思考がフリーズしたが、すぐさま笑わないと急いで口を回したこちらに、彼女は恥ずかしそうに小さな声で言葉を紡ぎ始める。
「今日は…朝方まで作曲していて…。バンドの練習も休みだったので…昼過ぎまで…寝てて…目が…その…」
つまり、燐子も理由は違えど自分と同じく昼寝をして眠れなくなってしまい、散歩に外へ出てきた…ということなのだろうか。
どんどん声量が左下りとなっていく少女がこんな時間に外にいる理由が、まさかの自分と瓜二つだと理解できたせいで、たどたどしい言葉を彼女が最後まで紡ぎ終わる前に、我慢できずに吹き出してしまった。それを目の当たりにした燐子が、赤い場所がないくらい顔に熱を宿らせ、涙目で抗議する。
「ひ、酷いです…!笑わないって…言ったじゃないですか…!!」
珍しく声を張り上げる彼女に慌てて弁解を試みるが、理由を知ってもなお彼女の機嫌が治らないことを、下から突き刺さってくる鋭い視線が物語っているので、こちらとしてはただひたすらに平謝りを繰り返すほかなかった。
「・・・本当に、反省してますか」
しばらくして、ようやく口を開いてくれた燐子の言葉にこくこく何度も頷きかけると、目の前の少女はなにも言わずに両手を広げ、じっとこちらを見つめてくる。紫の視線がねだっていることを明確過ぎるほどに受け取ったが、実行するには多少、いや、かなりの羞恥心に目を瞑らなければならない。
だが、これをスルーすると冗談抜きで日を跨いでも許してくれないので、彼女を見つける前にこの時間帯に人はいないと頭の中で決めつけていたくせに、誰かいないか入念に視界を左右に揺らすことで周囲を確認してから、深い呼吸を繰り返して暴れる感情を胸の奥底へ押し込めると、眼前の少女の肩をぎこちなく抱いた。少女は大きく身体を震わせたが、抵抗することなくこちらの胸にすとんと収まる。
心臓が忙しなく脈動を始め、体温が際限なく上昇して思考能力が相反するように下り坂を転がり落ちる。さらにはそんな状態の自分に、燐子は鼓動や体温も余すことなく伝えてくるため、血の巡りは勢いを増すことはあっても、衰えさせることはなかった。
これ以上続けていると、なにかがダメになる予感を未だ危うく形を保った知性が伝えてくるが故に、少女を抱く腕の力が緩んでしまう。
「だ、だめです…!」
しかし、燐子はそのことにいち早く気付き、こちらを逃がさんとして背中に腕を回すので、結果的に彼女とは距離が縮まり、体温や香りなどの情報がより濃く入力されて声にならない悲鳴が喉の奥まで出張ってきた。
桜の花びらが地面に落ちるまでで急速に溶けていく思考へ、少女はより強く抱きしめてとどめの言葉を放つ。
「・・・もっと…ぎゅってしてください…」
その催促に応えることへのブレーキをかける理性は存在せず、要求のままにより強く彼女へ寄り添うと、少女も一切の言葉を紡がないでこちらに体温を預けてくれた。
桃色の雨が降り注ぐ、長い、長い時の中、空っぽな頭に1人の少女の存在を刻み続けた。