比企谷八幡生誕祭用の短編です。
ピュアッピュアな八雪をお届けします。

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プレゼントは、私の。

 八月八日は何の日ですか、と訊かれて、いくつ答えられるだろうか。

 パパイヤの日、エプロンの日、笑いの日。史実ではライト兄妹で有名なウィルバー・ライトが初の公開飛行した日であり、北京オリンピックでは八は縁起の良い数字だとして八月八日の午後八時八分に開会式が開催されたりもした。

 その風習は我が国に於いても同じで、末広がりを連想させるとして縁起のいい数字だとされている。そんな八のゾロ目の日に産まれた上に八幡なんて名前を付けられた俺は、語源だけ考えればジュシーポーリーイエイなハッピーマンに成長していそうなものだが、幸か不幸かおおよそ真反対の性格である。

 

 さて、そのハッピーマンに成り損ねた比企谷八幡という男は、今何をしているか。

 

 現在の時刻は午後五時を少し過ぎたところ。

 ここは高級マンションのエントランスで、座っているのは妙に座り心地の良い来客用のソファである。

 春先に宣告した通りマンションへと戻った雪ノ下に「あなたの誕生日はちょうど夏祭りが開かれているし、一緒に行きましょう」と誘われ、この状況である。

 インターホンで彼女を呼び出してから、五分ほどが経過していた。戸締りやら何やらをしていたとしても、そろそろエレベーターで下りてくる頃合いだろう。

 そう思ってエレベーターを見ると、ちょうど階数表示が一階を示したところだった。遠くから到着を知らせる電子音がして、音もなく扉が開く。その狭い箱の中から出てきた女性は、一直線に俺の方へ向かってくる。

 

「お待たせ」

 

 薄いピンクの浴衣を着たその女性がそう声に出してから、俺はようやくその人が雪ノ下雪乃だと確信を得る事ができた。髪型も雰囲気も、まるで普段と違っていたからだ。

 近付いて来てよく見てみれば、雪ノ下が着ているのは白地に朝顔の描かれた浴衣だった。髪はアップにされ、照明に照らされた首筋が眩しい。

 

「その⋯⋯。黙っていられると困るのだけど⋯⋯」

 

 気付けば俺は不躾な程に彼女を見つめ続けた挙句、一切の言葉を失っていたらしい。

 なんとなく、彼女は浴衣で来てくれるだろうと思っていたけど、はっきり言って想像以上の破壊力だ。控え目に言ってぐうかわでぎゃんかわできゅんです。最近の若者言葉は便利だな。

 

「いや⋯⋯。その色がちょっと意外だったもんでな」

 

 しかしそこはハッピーマン成り損ね代表の俺である。なんとか可愛い以外の語彙力を発揮しようとして、若干ネガティブな表現になってしまっていた。

 ただ実際ピンクの浴衣というのは、雪ノ下が自分で選んだにしては派手な気がする。年相応なチョイスではあるが、彼女の持つ雰囲気に対してガーリー過ぎると思ったのだ。いやでも私服は結構ガーリーファッションが多かったから、ある意味雪ノ下らしいと言えるだろうか? まあ可愛いからいいんだけど。

 

「あら、でもこの色はあなたが選んだものよ」

 

 雪ノ下はそう言ってくるりと半身に構えると、髪をまとめているピンクのシュシュを見せてくる。いつぞやに俺が贈ったそれに(かんざし)を合わせ、黒い髪とのコントラストは夜空に花が咲いているかのようだった。

 

「そういや、そうだったな」

 

 ぽりぽりと後ろ頭をかいて、ようやっと彼女から視線を外した。そうでもしないと、いつまででも雪ノ下雪乃鑑賞会が続いてしまいそうだ。

 それにしても俺が選んだ、って事は、わざわざシュシュの色に合わせて浴衣を準備したのだろうか。何それ健気過ぎておにかわじゃん。──とまた脳内でゆきのん可愛いのん祭りが始まろうとしていると、俺の心中とは反対に彼女の表情はどこか拗ねたような趣きがある。

 

「その⋯⋯。それだけ?」

 

 じとっと梅雨時期の如く湿度の高い視線を向けられ、背中に汗が伝う。そう言えば俺はまだ、まともに褒めてすらいないのだ。

 

「いや⋯⋯。めっちゃ似合ってるし、可愛い⋯⋯。うん、とても良い⋯⋯」

「そう。ありがとう」

 

 勝った、とでも言い出しそうな表情で、雪ノ下は口元を綻ばせた。言わされた感が若干あったりするが、全て事実なのでそれ以上言い募る事も何もない。

 どちらからともなく歩き出すと、エントランスの出入り口に向かう。外に出ると耳をつん裂くようなけたたましい蝉の大音声(だいおんじょう)と、むわっとした熱気に包まれた。その瞬間、タイミングを逃してしまったのだと気付く。

 しかし、それでも。

 俺はズボンでかいてもいない汗を拭うと、隣を歩く雪ノ下の左手を取った。ちらりと窺う視線が、横顔に注がれるのが分かる。

 

「⋯⋯はぐれるといけないからな」

「あら、まだそんな言い訳が必要?」

 

 おかしそうに雪ノ下は笑うと、握り返す手に力を込めた。浴衣姿に見惚れてしまってからこの方、彼女には調子を狂わされっぱなしだ。

 雪ノ下は下駄を僅かにからころと鳴らしながら、そう言えば、と言の葉を繋ぐ。

 

「どうしてあなたは浴衣を着ていないの?」

 

 そう言う雪ノ下の視線の先の俺と言えば、ハーフパンツにティーシャツというどこにでもいそうな出立ちだ。

 

「いや、別に約束してないし⋯⋯。なんかあった時に動きやすい方がよくない?」

「別に祭りに行くだけで、何もないと思うけど⋯⋯」

 

 またまた拗ねた表情が戻って来てしまって、雪ノ下は不満を露わにするかのように手提げ袋を揺らす動きを大きくさせる。長財布でも入っているのか、妙に細長いそれがチラチラと見える度に俺は責められているような気分になる。

 

「っていうか持ってないんだよ、浴衣」

「そう⋯⋯。残念ね」

 

 基本ぼっち体質の俺に誰かと浴衣で祭りに出かけるとか言うイベントが訪れるとは露ほども思っておらず、浴衣や甚兵衛と言った類いの和装は全く持っていないのだ。

 そんな答えでも多少は気が紛れたのか、雪ノ下は拗ねるというよりも言葉通りに残念そうな表情になる。

 

「そんな見たかったのか。浴衣姿」

「当たり前じゃない」

 

 秒で答えられて、悪い事をしたなと素直に後悔が湧いてくる。俺が雪ノ下の浴衣姿を期待したように、彼女の方も同じ気持ちだったのかも知れない。

 

「⋯⋯浴衣、買おうかな」

「ええ。来年は、あなたもね」

 

 そう言って雪ノ下は繋いでいた手をぱっと離すと、俺の小指にその細い小指を絡ませた。

 

「約束」

 

 小首を傾げ、ひっそりとした声で彼女は言う。透き通った瞳に、呆けている誰かの顔が映った。

 これはちゃんとしたやつを、買わないとだな。

 来年、きっとそのまた来年も、着る事になるだろうから。

 

 

       *       *       *

 

 

 電車を乗り継ぎ祭り会場の最寄駅に着くと、案の定凄まじい人出だった。

 どこに行こうと鳴り止まない蝉の鳴き声と、建物の外に出る度に襲いくる茹だるような暑さ。それに加えて人熱(ひといき)れと来れば即効で帰りたくなるのは仕方のない事だと思うが、今この時にそんな事ができるはずもない。提案するだけでまた頭痛いのポーズを取られるのは必定だろう。

 

「凄い人ね⋯⋯」

「だな⋯⋯」

 

 祭り会場の神社に着いてからというもの、俺たちの声に生気はない。本殿に向かって緩やかな坂を作る参道には屋台が並び、その数に対して多過ぎる祭り客たち。

 道中辛うじて飲み物だけは買って飲んだが、食べ物を買おうとしても焼きそばやたこ焼きと言った腹に溜まるものはかなり待たされそうで、何も買えていなかった。

 参道に連なる屋台と屋台の間には、人々が立ち止まり飲食するスペースのようなものが出来上がっている。そこにちょうど人二人分の空隙を見つけると、俺たちはそこに身を滑り込ませ、人混みを眺めた。

 そうして二人でいると、何故雪ノ下は俺を夏祭りに誘ったのだろうと、純粋な疑問が湧いてくる。こういう人が多く集まるイベント事というのは、本来彼女の苦手とするところのはずだ。

 ちらりと雪ノ下の方を窺うと、ちょうど彼女もこちらを見たタイミングだったのか、バッチリと目が合う。

 

「ちょっと、外すわ」

 

 それを機とみたのか、雪ノ下はそう言ってそっと握り合っていた手を離した。しかしそれは、再び俺の手によって繋ぎ止められる。

 

「いや待て。こんな人混みの中で単独行動したら迷子になる」

「このぐらいでなる訳がないでしょう⋯⋯。それに、その⋯⋯」

 

 雪ノ下の手が俺の手を振り解こうと、中途半端な力で引かれぷらぷらと揺れる。そしてぼそっと、消え入りそうな声で一つの事実を告げる。

 

「お手洗いに、行きたいだけだから⋯⋯」

「あ⋯⋯。うん、そう⋯⋯か」

 

 んもー! 八幡ったら過保護!

 というかこれ想像以上に恥ずかしいし雪ノ下も顔真っ赤だし、完全にやっちまったパターンだこれ。

 

「すぐ戻るから」

「⋯⋯おう」

 

 今度こそ手を離すと、雪ノ下は人混みに流されるように参道を上へと上っていく。

 その姿を俺は、彼女が見えなくなるまで見詰め続けていた。

 

 

       *       *       *

 

 

 雪ノ下がお手洗いに行く、と言ってから、もう十分以上が経過していた。

 すぐ戻ると言った割りに遅い。ひょっとしたらトイレが混んでいるだけかも知れないが、それにしたって心配になってしまう。

 まさか迷う事はないと思うが、この人出だ。うっかり人並みに流されて、全然違う場所に出る可能性も否定できない。

 一分ほど前に送ったラインは、既読にならないまま。これは本当に迷った感じか⋯⋯。

 俺は短く息を吐き出すと、神社の本殿へと続く参道を歩き出した。

 目の前には、とにもかくにも人、人、人の頭だ。目を凝らしてその人波を見ながら歩いていると、意外にもすぐに雪ノ下の後ろ姿を発見する。あのピンクのシュシュと簪は、彼女のそれで間違いないだろう。

 隙間を掻い潜るように速足で雪ノ下の元へと近付いていくと、誰かと話している事に気付く。

 その話し相手の男は、大学生ぐらいだろうか。大袈裟な身振り手振りで、何事かを熱心に語りかけている。しかし茶髪にパーマをあて、アロハシャツを着ている男が雪ノ下の知り合いだとは到底思えなかった。

 これはあれか⋯⋯。ラノベにゲーム、二次創作にと大人気のお決まり展開、夏祭りに一緒に来た彼女がナンパ男に絡まれちゃってどーするの俺⁉︎ ってやつだな。俺は詳しいんだ。

 いや本当にあるんだなこんな事。まあ普段から美少女な雪ノ下が浴衣を着てつよつよ美少女になってしまえば、ナンパされるのも無理はない。いや待てよ暢気(のんき)にそんな事考えてる場合じゃねぇな。

 この場合の対応は、もう分かっている。

 そんなに大それた事をする必要はないし、難しいものじゃない。問題はちょっと、というか大分気恥ずかしいだけ。しかし当然ながら、手段など選んでいる場合ではなかった。

 

「雪乃」

 

 俺は雪ノ下の後ろに立つと、何事かを喋っている男の声を遮るように、はっきりとそう呼んだ。

 振り返った彼女と、目が合う。驚きに目を見開いた雪ノ下の表情を、場違いにも可愛いなと思ってしまう。

 

「遅いから心配したぞ。知り合いか?」

「あー、連れがいたんだ。引き止めてごめんね〜」

 

 雪ノ下が答えるより早く男はそう言うと、さっきまで本当にそこに居たのかと疑わしくなるぐらいの素早さでその場を去って行った。どっとした疲れが、背中にのしかかってくる。

 残された俺たちは目を合わせると、どちらからともなく視線を外した。本当にもう、いきなり名前呼びとかなんなの。全部あのナンパ男の所為だ。

 

「その⋯⋯。ありがとう」

 

 雪ノ下の方に視線を戻すと、彼女は俺を見ながらぽしょりとそう言った。ほっとしたような表情を見て、ようやく俺の顔にも柔らかさが戻ってくる。

 

「いや、いいけど⋯⋯」

 

 雪ノ下はそっと手を伸ばすと、俺の手を取った。指を絡ませ合い、ギュッと握り込む。

 それを合図にして、俺たちは参道の石段を上り始めた。相変わらずの人混みは、もう何も気にならなくなっていた。

 

「手、震えてる」

「は? 今それ言う? デリカシーって知ってる?」

 

 俺が言い募ると、雪ノ下はくすくすと笑いながら腕を絡ませてくる。一等距離が近くなって、ふわりとサボンが香った。

 

「いいのよ。私が止めてあげるから」

「いやよくないしそれ超情けないし⋯⋯。マジで勘弁して⋯⋯」

 

 そうは言っても雪ノ下は腕を解くつもりもないらしく、くてんと頭を倒して俺の肩にしなだれかかる。

 ──こうして居れば、どこからどう見ても恋人同士に見えるでしょう。

 そんな声が聞こえて来そうなほど、全てがあり得ないほどに近い。

 

「⋯⋯つーか、意外だな。ナンパの対処とか、慣れてそうなのに」

「そうね」

 

 そうね、って、雪ノ下さん⋯⋯。今めっちゃ心配になったんですが。

 しかしそうであるならば、余計に訳が分からない。どゆこと? と雪ノ下の顔を見ると、満月みたいな微笑みが浮かんでいる。

 

「あなたに助けて欲しかったからかも」

 

 その言葉と表情に、語彙力喪失どころか日本語も忘れてポカンと口を開いていた。

 本当にこいつはもう、なんなんだよ。可愛いは正義なんて誰かが言ったが、逆だ。可愛いはギルティ。今、俺が決めた。

 

「いや、助けるけど⋯⋯。変に構うのは止めろよ。お前の身に何かあってからじゃ遅いんだし」

「お前じゃないでしょ」

「はい⋯⋯?」

「⋯⋯雪乃」

 

 じっと下から見上げてくる目は潤み、彼女の頬は浴衣と同じ色に染まっている。懇願するような表情に、心臓が止まるかと思った。いや、一瞬本当に止まっていたかも知れない。

 

「⋯⋯いや、なんで」

「さっきはそう呼んでくれたじゃない」

「あれは緊急事態でだからだな⋯⋯」

 

 いや待てよなんで俺こんな頑なに拒否しているんだ? 見事なまでに頭が湧いてしまったようで、上手い返しも何も思い浮かばない。

 そんな様子の俺を見ながら、雪ノ下はうんと一つ頷いた。

 

「ではこうしましょう。あなたには誕生日プレゼントとして、私の名前を呼び捨てにする権利をあげるわ」

 

 へぇー、ざんしーん、八幡ちょーうれしー。

 ⋯⋯となるはずもなく、相変わらず俺の思考能力はその辺りを飛んでいる羽虫レベルに成り果てていた。

 

「⋯⋯代わりにあなたを名前呼びにする権利も貰うけど」

「それプラマイで言ったらゼロじゃねぇか⋯⋯」

 

 ようやっと言葉を取り戻すと、ぽつりと俺はそう溢す。

 まあ、別にいいんだけど。きっと、いつかはそうやって呼び合う日は来るのだ。きっかけが少し、気に食わないだけだ。

 

「それもそうよね⋯⋯」

 

 俺の僅かばかりの反論に、雪ノ下は何やら真面目に考え込んでいる。

 あのぅ、そこまで本気で捉えなくてもいいんですよ? と声をかけようか迷っていると、雪ノ下はぱっと顔を上げて「いいこと思い付いた」と言わんばかりに言い放った。

 

「ではあなたには私の初めてをあげるわ」

「────」

 

 途轍もない最大瞬間風速を誇る暴風の如き雪ノ下の発言に、またも俺の思考能力は吹き飛ばされた。一緒に理性までぶっ飛ばされそうになって、俺はマーライオンのように口を開け、驚きを垂れ流す事しかできない。

 

「え、⋯⋯あ」

 

 黙ってしまった俺の反応から、ようやく雪ノ下は自分が何を言ったのか気付いたらしい。参道を照らす提灯のように頬を赤く染めると、あわあわと言い繕う。

 

「ちっ、違うのよ。そうじゃなくて⋯⋯。いえ何も違わないけど⋯⋯。でもとにかく違──」

 

 それは雪ノ下が俺を見ながら弁明している途中、石段を一つ上がろうとした瞬間の事だった。段差に躓いた雪ノ下の腕があっという間に離れていき、俺は咄嗟にその手を握って引っ張る。

 ざりっ、と砂利道を抉る大きな音がして、間一髪のところで転倒は免れる。しかし一瞬、彼女の足が妙な曲がり方をした気がした。

 

「大丈夫か?」

「え、えぇ⋯⋯。ごめんなさい」

 

 そう言って雪ノ下は両の足を地面についた。一応、立つ事自体に問題は無さそうだ。

 しかし「じゃあ行くか」と一歩踏み出した瞬間、ぐらりと雪ノ下の身体が(かし)ぎ、腕に込められた力が強くなる。

 

「全然大丈夫じゃねぇじゃん⋯⋯」

「⋯⋯そうみたいね」

 

 一生の不覚、とでも言い出しそうなほど顔を(しか)め、雪ノ下は短く息を吐いた。

 恐らくは捻挫しているのだろう。当たり前だが、この人混みの中で足を引き摺らせながら歩かせる訳にはいかない。

 人波は立ち止まってしまった俺たちを避けるようにして流れ、時折無機質な視線が送りつけられる。

 

「ほれ」

 

 俺は雪ノ下に背を向けてしゃがみ込むと、両手を後ろに向けて広げた。

 

「あの⋯⋯」

「早く。往来の邪魔になってる」

 

 多少の棘を含ませて言うと、雪ノ下はすんなりと俺の提案を受け入れた。背中に重みを感じると、雪ノ下の膝裏に手を入れて立ち上がる。

 こんな状態では、買い食いだなんだというのももう無理だろう。踵を返すと、元来た道を辿っていく。

 

「重くない?」

「お前の気持ちに比べたら軽い」

 

 申し訳なさそうにする雪ノ下を(ほぐ)すための軽口は、しかし効果がてきめん過ぎたらしく、彼女は俺の首に回していた腕を締め上げてくる。肩甲骨の辺りにささやかで柔らかな感触が広がり、ギブギブと俺は首を回して降参を表明した。締め上げる力が抜けていき、柔らかさも消えていく。

 

「お前じゃないでしょ」

 

 そしてぽしょりと、さっき耳にしたばかりの言葉が、随分と近い場所から耳朶に響く。すれ違う人々はそれぞれに一瞬俺たちを見たかと思うと、すぐに屋台の方へと視線を戻す。

 

「そうだったな」

 

 雪ノ下の身体は想像よりもずっと軽くて、なのに俺の背中はやたらと熱い。だから例え今俺の頬が赤くなっていたとしても、仕方がないと思う。

 

「雪乃」

 

 何気なく、意味もなく、ひっそりとそう彼女を呼んだ。

 俺の背中に柔らかな感覚が戻ってくると、雪乃(・・)は小さな声で「八幡」と、ただそう呟いた。

 

 

       *       *       *

 

 

 参道を抜け、祭りの会場を後にすると人影は徐々にまばらになっていく。道を照らす灯りが提灯から不親切な間隔の街灯に変わる頃には、俺はしっかりと汗だくになっていた。いかに雪乃の体重が軽いとは言え、この真夏に人一人担いで歩くのはやはり相当な労力を要するのだ。

 最寄駅への道すがらに見つけた公園に入ると、雪乃を背中から下ろして二人ベンチに座る。頼りない街灯だけが、薄ぼんやりと俺たちを照らしていた。

 

「その、ごめんなさい⋯⋯」

 

 雪乃はベンチに座ったまま俺に向き直ると、申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「いや、謝るなよ。不慮の事故なんだし」

「でも、不慮と言うより不注意だし⋯⋯。何よりせっかくのあなたの誕生日だったのに、台無しにしてしまったと思って」

 

 ぽしょぽしょと沈み切った声音で言うと、このまま萎んで消えていってしまうんじゃないかと思ってしまう。雪乃と一緒に過ごす誕生日が、台無しになどなりようがないというのに。

 

「全然台無しになってないだろ。⋯⋯浴衣姿も見れたし」

「⋯⋯今それを言うのは卑怯だと思うわ」

 

 薄暗がりの中でも分かるぐらい、雪乃はまた頬を染めていく。卑怯なのはあなたの可愛さだと思いますが、それはそれとして。

 

「あの時、何を言おうとしてたんだ?」

「え⋯⋯?」

「ほら、足挫く前に」

 

 あの時、雪乃は「私の初めてをあなたにあげる」と言ったが、何か重要なキーワードが抜けている。彼女の真意を確かめない事には、どうにも落ち着かない。

 

「あれは⋯⋯。これから起こる色々な初めてを、一緒に迎える権利をあげる、みたいな意味よ」

「お、おう⋯⋯」

「⋯⋯改めて言うと、恥ずかしいわね」

 

 いや言われているこっちも相当恥ずかしいのに、あなたまで恥ずかしがらないで下さいよ⋯⋯。と頬の彩度を上げていく雪乃を見ながら、俺は心中(ひと)()つ。

 

「けどそりゃ、貰い過ぎだな」

 

 しかしもし、彼女の言葉通りの未来が訪れるのだとしたら。

 それは望外に明るく、想像もできないぐらいの未来になるのだろうと、根拠も無しに信じる事ができる。

 思えば俺は雪乃から、今までどれだけのものを貰ったのだろうか。全く返せる気がしないし、もし返すとしてもきっと一生がかりになるのだろうと、そう思う。

 

「でもちゃんと、プレゼントは用意してあるのよ」

 

 そう言うと雪乃は手提げの中から、細長い箱を取り出した。綺麗にラッピングされたそれは、当然中身を窺い知る事は出来ない。

 

「お誕生日、おめでとう」

「おお、ありがと⋯⋯」

 

 両手で差し出されたそれを、俺も(うやうや)しく両手で受け取った。

 家族以外からこうしてプレゼントを貰うのは実質的に初めてで、しかもそれが雪乃からという事実に、ちょっとどころではない感動を覚える。え、何これ、誕生日プレゼントってこんなに嬉しいものなのん?

 

「開けてみて」

 

 促されて、俺はできる限り丁寧に包装を剥がしとっていく。すると現れた箱のロゴは、いつだったか見た覚えのあるものだった。

 少しばかりの緊張を覚えながら箱を開けると、やはりそこにあるのは見覚えのある──というよりも、見慣れたそれだった。

 

「これから色々とパソコンで調べ物をしたりとか、増えてくると思うし」

 

 雪乃からのプレゼント。

 それは俺から彼女の誕生日に送ったブルーライトカット眼鏡の、色違いのものだった。フレームは深い青に彩られ、俺には上品過ぎるようにも感じられる。

 

「かけてみて」

 

 言われるがままに、俺はそれを耳にかける。僅かに暗くなった世界の中で、雪乃は手提げ袋から眼鏡ケースを取り出すと、すちゃりと見慣れた眼鏡をかけた。

 

「⋯⋯おそろい」

 

 幼気(いたいけ)な言葉とはにかんだような表情が、視覚中枢から俺の脳を溶かそうとする。

 本当、マジかよ、こいつ。可愛い祭り続行中かよ⋯⋯。

 全くもって、これには堪らないものがあるし辛抱というものにも限度がある。だからまあ、突如として湧き出してしまった感情も、それに附随する俺の願いも、致し方ないものであるはずだ。

 

「⋯⋯雪乃」

「は、はい⋯⋯」

 

 いやなんで敬語⋯⋯。こっちもちょっと緊張しちゃうから、やめて欲しい。

 んんっ、と咳払いして、身体ごと雪乃の方を向く。そしてばっくんばっくんと煩い心臓に負けないように、彼女にちゃんと届くように、その願いを口にする。

 

「初めてを迎える権利の行使を、希望します」

「わ、分かりました⋯⋯」

 

 こっちまで固さが移ってしまって、どうにも格好がつかない。しかしそれもまた、俺たちらしいと思える。

 雪乃の肩に手を置くと、細い肩口がぴくりと震えた。俺の求めるものが何であるか、彼女は本当に理解しているのだろうか。そう思っていると、雪乃はそっと目を閉じた。

 ゆっくりと、彼女の息遣いを感じるほど近くまで、顔を寄せる。破裂しそうな心臓をなんとか押さえつけ、唇を近づけていく。

 そして──カチャっと。

 唇が触れ合うよりも僅かに早く、同じ形をした眼鏡同士がぶつかり合う。

 

「ふふっ」

 

 場違いな程に明るい声が、雪乃の口から漏れる。本当にもう、さっきからずっと格好がつかない事ばかりだ。

 

「初めては失敗ね」

 

 そう言って雪乃は、かけていた眼鏡を外した。俺も貰ったばかりのそれを外すと、もう一度彼女は目を瞑る。

 僅かばかりの時間を使って、俺は無意味に漏れ出てきそうな息を整える。そして今度こそは間違いなく、想いごと彼女に届くように、柔らかな部分を重ね合わせた。

 

「────」

 

 そうしていた時間は、五秒──十秒──いやそれ以上か。

 確かな熱を伝え合うと、どちらとも無く唇を離した。思わず見詰めてしまった薄桃色の唇を、雪乃は人差し指だけでそっと抑える。

 

「八幡」

 

 天上から降り注ぐような、天使の声が俺の名前を呼ぶ。

 呼応するように雪乃を見ると、彼女は赤い頬のまま言った。

 

 

「さっき初めての権利をあげると言ったけれど、二回目以降もあげる事にするわ」

 

 

 それから唇を重ねた回数は、途中から数える事を諦めてしまったから分からない。

 ただ一つ、これは余談になるのだが。

 足を挫いた雪乃の介抱の為に戻ったマンションで、結果的に送り狼になってしまったのは、無理もない話だと思うのだ。

 

 


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