PDFのリクエストがあり、ハーメルン様で掲載させていただきます。

pixiv様の方でも掲載させていただいております。
拙い文章ですが、ご容赦ください。



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第1話

 いつだって、私はそうだ。

 口にすべきタイミングを見失って、手を伸ばそうと指に熱を込めてみれば、途端に頭の中が冷めて行く。

 告げるべき理由と意味に喘いで、何を伝えればいいのかと。

 その輪郭が、淡くぼやけ、霞んでいく。

 携帯電話を手にベッドに寝転んで仰いだシーリングライトの光に幾度となく飛ばして問い掛けも、重量に身を任せてしまえば、必然的に私の中へと回帰して重くのしかかり、行き先を奪われまいと携帯を握る手が動く。ネットの海で彷徨う度、浮かぶ願いが勝手気儘に指を動かし、迷路に迷い込みながらも情報を呼び起こしていくのを止められない。

 開いた画面の先にある情報に目を凝らす。

 こういう物を一緒に付けたいと言えば、彼がどんな反応をするのかなんてそれこそ幾重にも頭の中でそのビジョンが明瞭に過ぎる。

 けれどそのどれもが困った彼の顔を浮かび上がらせる度に、掴もうとしていた何かに手を触れることを躊躇ってしまう。

 口にしてしまえば、彼はきっと戸惑いながら了承を見せるだろう。

 その表情を見つめてしまえば、失敗したと考える自分にぶつかって、彼に私がどう思われてしまうのか想像するだけで溜め息が溢れた。

 それに、今度行われる球技大会。

 彼は何をやるのかなんてことさえ、聞けずに今日へと至る。

 ただ応援したいとは思いながらも私は彼に無茶をしてほしいわけではない。頑張ってほしいなんて軽々しく言えるわけはなく、学校生活を鑑みれば比較的な楽で色んな意味であまり目立たない種目に参加しようとすることは分かっている。

 そこに私が何かを言うことで変にプレッシャーを与えてしまうのではないかと不安に囚われてしまえば、余計にと唇は堅く重く塞がったまま、喉奥にザラつく想いが居場所を失って身の内で淀み溜まっている。

 プレッシャーを与えずにさらりと遠回しに聞く方法は無いのかと思考にふけった結果、いつも通りと解散していく部室から離れてしまえば、当然のようにタイミングを見失う。

 

 それに、それに…だ。

 

 私は別に目立ってほしいわけでもない。

 頑張っている姿は見たいとは思う。

 でもそれをわざわざと公の場で見せる必要など無いのではないかという話だ。

 そばにいれば、きっと見れるから。

 だから────。

 

 彼が頑張っている姿は、私だけが知っていればいい。

 

 なんて素面で口に出来るはずもない。

 こうして、その言葉を思い描いただけで顔が火照っていくのを痛感する。

 でも淀の中で確かに鈍かろうとも眩く煌々と瞬きを生みだして、私の視界の中にチラついているのだ。

 その瞳の縁に微かにソレが映り込む。

 画面越しに光沢を放つように、私へと催促するように輝くモノへ不意に購入ボタンに伸びた指先を寸前で止める。ぱたりとベッドに投げ出した両手が重く、熱く身を焦がす。溜め息が室内に立ち篭るように溢れた。

 唇からは彼の名前が聞こえた気がした。

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 球技大会を間近に控え、生徒会長然として今日も今日とてわたしの城に腰を据えていれば、自然と味覚が寂しいことに気付く。

 理由付けとか居心地とか紅茶とか色々と理由があるにせよ、会長として仕事はしているのだから多少の糖分補給は許容されるべきである。

 まあ、なまじ仕事が出来てしまうだけに苦労も背負ったりしているけど、その分だけ後々にデカい利子として待遇やら自己紹介欄に明記される取得情報やらでもうけっ!と出来るのは、職員室の先生達の顔色を目視しても明らかだ。

 騙された場所でなんやかんやと会長職の座に据えられ、なんやかんやと役割に遵守している、いや遵守出来るだけの素養があったのだから、もう結果オーライと思わなければ、今すぐにでも先輩に責任を取ってもらうまである。

 実行委員会との打ち合わせまでに作成しなければならない資料のチェックやら、開催予定の日程調整と念のために天候の確認から雨天時のスケジュールの変更点と見直し、使用する機材の動作確認と備品の数量チェック等々と、構内をぱたぱたと歩き回る羽目になる。

 まあでも、大体のモノ(7割)は副会長に任せて、わたしはこの玉座の上に座って結局と先生方に提出する資料の最終確認をしているんだけど……って、結局仕事やんけ……、と舌打ちをしそうになる意識を抑えて、ちらりと空席を跨いで出入り口付近に蟠る感情の群れに目線を溢す。

「たまに話題についていけない時があって…」

「そう、確かにそれは問題ね」

 こっちに気を遣っているつもりなのか、小声でぼそぼそと話している我らが書記ちゃんと雪乃先輩。

 ……いや、めっちゃ気になるんだよなぁ。

 小声でやられると余計に意識がそっちに外れちゃうんですよ。

 それを教室でやられると結構アレだけど、こと生徒会室でもやりますかねソレを。しかも会話の内容は大体把握出来てしまう辺り、わたしがちょっと憎い。

 もはや書記ちゃんとセット扱いの副会長が今はいないから、ああー、すっきりー。心なしか空気が上手いなーなんて赤ペンを指でくるりんとしていたら、来襲した雪乃先輩がこの前のお菓子のお礼だと言ってクッキーを差し入れに来てくれたところからガタガタと平穏が崩落していく音が雑音じみて耳を打ち始め。

 この前はありがとう、一色さん。と言ってクッキーの入った包みを差し出してきた雪乃先輩の顔と来たら、にっこりと微笑みながら、まったく別の感情を見え隠れさせていた。

 いや、隠す気は多分無いのだろう。

 あれだけ露骨だといっそ清々しいけど、それをぶつけられる方としてはたまったモノじゃない。

 ありがとうございますー、と軽快な声音が勝手に自分の唇から溢れてみれば、気にしないでと怪しく黒々と笑うその表情は怖いけれど内面は想像すればするほど、目の前に立っているこの綺麗な先輩の乙女心が全開で「は?かわいいなこの人」と思う反面、勘弁してほしいなーと告げる事も出来ずに手のひらの上で軽くも重々しく存在を浮かび上がらせる菓子袋がひとつ。

 部屋の片隅で雪乃先輩の覇気にあてられた書記ちゃんが肩を窄めて小さくなっているのを視線に捉えていれば「それじゃあ」と退室に踵を返したその背中に声を掛けようとした時、待ったをかけたのは、めっちゃか細い声だったのに、間違いなく室内に沁みていった書記ちゃんの呼び声だった。

 何事かとわたしも雪乃先輩も顔を向ければ、声を上げた当人はびくびくとしながらも次の一声を絞り出し、そして────。

 

「デー、あ、えっと……遊びに行く時とかは、雪ノ下先輩はどうなんですか?」

「そ、そう…ね。まあ私達も、そんなずっと話しをしているわけではないし」

「そうなんですか?」

「ええ。でも、そういう時間も、悪くないものだって……思うから」

 

 はぁー!

 出た、出ました!

 いつか来るんじゃないかなー、来ないでほしーなと思ってた会話が目の前で繰り広げられていますねこれは。書記ちゃんも雪乃先輩も話題が話題なだけに少し照れ臭いのか、若干居た堪れないというか恥ずかしいというか、見てる分には目の保養だなー、いいなーと思わないでもないけど、今わたし仕事してるんですけど!

 は、 なんですかこれ、わたしが一体なにをしたっていうんですかねぇ!

 ただの女子トークじゃなくて、そういう間柄の誰かがいるという前提で成り立つ会話なだけに、参加資格の無い人間は迂闊には入り込めない。

 ジェネレーションギャップよりもタチが悪いトークテーマが展開されてしまえば、わたしが出来ることなんて仕事しかないんですよ。

 はー、つっかえ、わたし。仕事しよ。

 というかおい書記。

 仕事舐めんなよ、働け。

 なんて言えるはずもなく、これでもかとけぷんと咳払いをひとつ繰り出せば、甘い雰囲気も少しは振り払えたのか、書記ちゃん達がわたしの方へと目線を配した。「あ、そっかいたんだ…」みたいな色合いが見え隠れするんだけど、そうなんですよ居たんですよ。

 というかここわたしの部屋なんですよね。

 仕事も舐めちゃだめだけど、わたしも舐めないでくださいね。

 生徒会長だぞ。

 まあ、そんなことは言わないけど。

「雪乃先輩がクッキー持ってきてくれましたし、ちょっと休憩にしましょうか」

 にっこりと微笑みながら包みをかざすように持ち上げて強調してみる。

 書記ちゃんは微妙に頰を引攣らせているから、どうやら私の内面のある程度は察することが出来たらしい。

 良かったー、顔に出てて。嬉しくもないけど。

「せっかくですし、雪乃先輩も少し休んで行きませんか?」

「え?……あっ、そうね。じゃあ」

 お言葉に甘えて、とあっさり了承する。

 お話しもまだあまり進んではいないので本人としても都合は良いんだろう。ホッとしている書記ちゃんの様子からしても、まだまだ話したいことはあるみたいだし。まあ散々言いましたけど、わたしだってそこまで鬼じゃないですよ。話したければどうぞどうぞと席をご用意しましょう。仕事はやってられないけど。

 とりあえずと冷蔵庫をがぱりと開き、品揃えを確認するけど、雪乃先輩は淹れてくれる紅茶の味を思い出してしまえば、流石に紅茶を出す気にはなれないので、シンプルに冷えた麦茶を取り出して紙コップに注ぐ。

 どうやら二人とも、わたしのことは味方とでも思ってくれているのか、特に萎縮した様子もなく、立ち話もなんだとパイプ椅子に腰掛け、途切れていた議題を再度持ち上げていた。いつの間にかわたしが飲み物を用意する流れになってしまったけどまあ致し方ない。お茶にしようと言ったのはこっちだし、その辺りは甘んじてと人数分の紙コップを各々の位置に置く。

「その……私も聞きたいことがあって」

 と、雪乃先輩がそう口火を切った。

 書記ちゃんもだけど、わたしも声には出さなかったけど驚いてしまう。

 雪乃先輩が書記ちゃんに何の相談だろうか。

 興味自体は無いわけではないのでおとなしく二人が並んで座る対面に腰掛けて、何事かと次の瞬間を構えてみる。

 雪乃先輩は小さく深呼吸をひとつすると、意を決したように言葉を放った。

「理由も無く身に付けるものを相手に送るって、どう思うかしら?」

 いまいちと本題が掴めない問いかけだった。

 明確な主語を持たない。

 具体的に何を聞きたいのかが不明瞭で、正直言えばわたしも書記ちゃんも言葉に惑う。書記ちゃんに至っては、頭にはてなマークでも浮かべながら首を傾げている次第だった。

 でも、迂闊には近付けない。

 手を出せない、出したくない。

 奉仕部にいて、あの場所にいて。

 この人の、この人達のめんどくささはよく知っている。

 お米ちゃんほどではないけど先輩のめんどくささも雪乃先輩のソレも、同様にどっちもマジでめんどい人達なのだ。

 こういう時に声を発するのはいつだって結衣先輩なのだが、あいにくとここにはいない。ちらりと出入り口を見てもいつもの朗らかなテンションであの挨拶をして登場してくれるわけがない。

 ────なので、わたししかいないのだ。

「プレゼントだって言って、渡すのじゃダメなんですか?」

 問い掛けに雪乃先輩の反応は鈍い。

 答えあぐねて、勝手に袋小路。

 結衣先輩の言う通りだ。

 というかやっぱりすごいな、あの人。

 こんな人達とあの場所にずっといて。

 まあ、わたしも人のこと言えないのか。

 じーっと湿った目線を配してみれば、雪乃先輩はもじもじと身を揺らしながら、躊躇うように言葉を必死に紡ぎ出そうとしている。ていうかなんですかそれ、かわいいんですか。はいかわいいです。なんかすみません。

 ほんっっと、反則だなぁ……。

「だ、だって……」

「だって?」

「………………重いって思われないかしら?」

 は?

 は、いまさら?

 いや、雪乃先輩めっちゃ重いですよ。

 早々にあのババ、こほん…あのお母さんと陽乃さんと一緒の食事に連れていくって普通に考えて相当だと思いますよ。未来先走り過ぎでしょ。一緒になってから十周年記念もきっとあっという間でしょうね。一年後にはどうなってるかわからないっていうか若干怖いですよ。

 ……なんて言えるわけないんだよね。

 ていうか、やっぱ可愛いなこんちくしょう。

 乙女全開かよ。

 こんなの可愛いに決まってる。

 案の定に書記ちゃんも「可愛い…」って呟いてるし、うんうんわかるわかる〜。みんなこうやって雪乃先輩に魅了されていくんだ。奉仕部だってある種の雪乃先輩のハーレムだからね。結衣先輩も、この人こと好きすぎでしょ。

 そしてわたしも、か。

 なんだか深いため息が漏れる。

 めんどくさい人だなぁ。

 まあ可愛いんだけど、くそっ。

「むしろ軽いより重いほうが人間覚悟決めるものですよ。先輩なんて下手すると最低限のことでしか重く生きられなくて周りが苦労するんですから、今の内にしっかり身の回りを補強しておかなくてどうするんですか」

 お米ちゃん然り、なんだかんだと世話を焼いているのはほっとけないからだ。普段あんな感じのくせになんか妙なところで重く責任抱えて、抱えたと思ったらめんどくさく考えて手放して、最初から背負おうとしてなかったんじゃと思ったら、実はしっかり線引きしてある程度背負い込もうとしてたりとか、いやマジでめんどくさいなあの人、引くわー。

 ていうかほんと、責任取れ。

 まあそれはそれとして。

 ここはこれぐらい言ってみないとダメか。

 微笑みを従えて、雪乃先輩を見定める。

 訝しげにわたしを見るこの人に向けて、笑みと共に高らかと、それこそ宣言するように。

 

「あんまり軽くしてると、逃げられちゃいますよ」

 

 ハッと、息を呑む気配がひとつ。

 わたしが確認するまでもなく、視界の中に綺麗なモノが映り込んでいる。口元を緩め、幾らかの余裕と上等だと言わんばかりに勝気に微笑んでみせるのはやっぱりこの人しかいない。

 

「そうね、気をつけるわ」

 

 ああ、やっぱり綺麗だな。

 わたし、この人の後輩で良かったと思う。

 来年度も再び生徒会の長としてこの場所にいなければと奮い立つ理由がやっぱりとここにあった。見送るならこの人達がいい。見送るのならこの立場でいたい、と思わせてくれる。

 

 でも、それとこれとは話が別で。

 

「はい、気を付けてくださいね」

 

 なんて、お返しとばかりに笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

× × ×

 

 

 

 

 

 

 がやりと騒々しく放課後に突入した教室で、これまたいそいそと本日も部室に行く準備をしながら、意識的にしろ無意識にしろ視線は正面に聳えた背中に向けられていた。

 俺の視線がそれほどまでに熱を帯びていたのか、ぴくりと肩を動かして振り向きざまに周囲に笑顔でもばら撒いてんのかコイツはと思うようなイケメンな葉山くんが、「何か用か?」と言わんばかりに目線で促してくる。

 ううん、何もないよ。

 なんて言う訳ねーだろ、てめぇ……。

 俺の視線はチラッと延長線上にある黒板にチョークによってでかでかと明記された内容に基づく至って人間的な感情だ。

 右脇に球技大会と枠付けした上で流れるように球技名と参加人数、そこからクラス内の参加者が点々と綴られている。見たことあるような無いような名前がずらりと並べられた中、その片隅で比企谷八幡の名前の上に、葉山隼人という名前がセットで記載されている。

 いや、俺も俺だけどね。

 いつも通りと机と突っ伏して睡眠学習していたらなんかこうなってたってだけなんだけど。

 葉山くんさぁ、なに?

 なんか最近やけに俺とセットじゃない。

 そんなに海老名さんを喜ばせたいの?

 恩を作っておきたいとかそういうこと?

 なら俺も便乗出来るだろ。

 とりあえず今すぐマッ缶奢ってもらうわ。

「球技大会、頑張ろうな」

「……お手柔らかにな」

 なんて言っとけばいいんだろぉ!?

 その微笑みに準じてなんかそれっぽい言葉を告げてみればどっかから変な音が奇声と連れ立って聴こえてきたような気がしたけど無視して、目の前の笑顔に相対してみる。

 あれー、おかしーな。

 笑顔が引き攣ってるな。

 あ、表情筋が死んでるだけか。

 これ以上ここにいても特定の人間を喜ばせるだけなので、さっさと教室を後にする。

 くそぅ、ことこうなったらいっそ仮病という手もあるがそれはそれで葉山が次の一手を打ってきそうだな。どうにかしてあいつを介入させない方法を考えるしかないか……って、なにこれ。なんで俺とあいつで頭脳戦やってるの。これって告白?海老名さんの願望によって作られた世界に生きてるのかな俺たちは。

 ────と、そこで。

 奉仕部の部室のある特別棟へと球技大会の日程について頭を回していれば、不意に正面に現れた人影に思わずと急停止した。

 突然の襲来にぶつかりそうになる身体を捻って回避し、どうにか触れることなく逸れることにも成功し、そちらに顔を向けてみれば、見覚えのある後輩が亜麻色の髪の奥でにっこりと微笑みを潜ませながらこちらを見つめていた。

 え、なに?

 なんか怖いわー、この子。

 あらよく見たら一色さんじゃない。

 もうこいつぅ、生徒会長なんだからそんな怖い顔して構内をウロつくのやめなさい。

 え、そもそも生徒会長になったのはだって?

 ……なんかすいませんでした。

「こんにちは、せーんぱいっ」

「……おう」

 いやマジでこわいんだけど。

 え? 俺なんかしたっけ?

 思い当たる節がありすぎてむしろ無いまであるのだが、マジで普通にピンとこない。アレかソレともアレか、俺は何らかの締め切りに追われていたんだけどすっかりそれを忘れてアプリゲームの課金に勤しんでいたとかかな?

「例の件、お願いしますね〜」

「ああ、あれね。はいはい、了解了解」

 うん、アレね。

 …………アレ?

 うーん、なんだったっけな。

 思い出せないなー、八幡。

「いや、例の件ってなんだよ」

「何言ってるんですか、球技大会の実行委員のお手伝いですよ。審判引き受けてくれるって言ってたじゃないですか〜」

 あまーい声音で伝えられる八幡の中に存在しない記憶……思い、出したっ。というわけでもなく本当に全然記憶にないんだけど。

 というか、え、審判。

「いやあれだ、球技大会はちょっとな」

 仮病の予定だしなー。

 そもそも受験生なんだけどな俺ってば。

 その辺分かってるよねいろはす。

 いいの?受験生働かせていいの?

 生徒会長選挙、大丈夫なの?

「働いてくれたらご褒美もありますよ」

「ご褒美?」

「なんだと思いますか?」

 一色は笑顔を振り撒いて言葉を紡ぐ。

 陽に艶めいて色粧した相貌には怖いくらいに張り付いた笑みと同様に、底知れぬ甘味に惑うような声音を伴って俺の耳に侵入してくる。

 言い知れぬ恐怖と不安に襲われ、身動きを失いつつある俺の元へ、ぺたんと可愛らしい足音と寄り添って歩み寄る一色の姿に思わず息を呑んでみれば、とんっと肩に触れた指先に込めた力がふわりと耳元にリップで色付いた艶めかしい唇を運び。

 

「…………なんだと思います?」

 

 容量を超えたナニカに怯えるように後退る身体に従って距離を取れば、それすらも狙っていたと言わんばかりに微笑む一色の姿があった。

 大事なことだから、二回言ったんだよね?

 そうだよね?

 なんて問い掛けをしたところで、この後輩は笑みを浮かべて巧みにいなすに違いない。

 思わぬところから逃げ場を封じられ、否応にも球技大会大会に参加することになってしまったなんて事実に気づくには、鼓膜に触れた謎掛けが暫く許してくれそうにない。

 耳朶に残った亜麻色の甘い声音が擽ぐるように意識を揺らし、近付いていた足音を知る術もなくこの後輩によって退路を断たれるのだ。

 

「────随分、楽しそうね」

 

 なんて、冷たい言葉が全身を這うように撫でた。びくりと震えてしまった身体に鞭打って視界を傾けてみれば、これまた見覚えのある人影が楽しそうな笑顔で、それこそ、全てを威圧するように佇んでいた。左右から溢れて色彩の異なる笑みがぶつかることもなく、さりとて俺を通り過ぎて衝突しているかのようだった。

 あぁ……紅茶が飲みたいなぁ。現実を逃避するには寒々しい気配が満ちる廊下の片隅で、陽に混じって何かが起こっていた。

 怖いくらいに照り付ける笑みによって。


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