秒読みの契約 ~あなたに三つの冠を~   作:雲ノ丸

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第19話 裏切り

 坂路において、スペシャルウィークは意図せずバ群をかわして、先行集団から抜き出て順位を一息に繰り上げた。

 トレーナーとの坂路対策のトレーニングが功を奏した。誰もが減速する上り坂で、彼女だけは加速して突き抜けた。詰まったバ群も、冷静に流れを見極めていたからこそ鋭く射抜くことができた。

 

 そうして下り坂に入る前に、スペシャルウィークとエルコンドルパサーが並んだ。

 

(エルちゃん……!)

 

 スペシャルウィークは内側。そしてエルコンドルパサーは大きく外側。止まる気配のない風切り音を聞きながらも、スペシャルウィークはすぐに視線を切って前を見つめた。

 

 ――あっ、と。

 下り坂に入った直後に、スペシャルウィークは思わず息を吐いた。

 

 目の前の逃げ三人が、早くも加速した。この下り坂こそ勝負どころだとばかりに、今までの鈍足を感じさせない鋭い脚で上がっていく。上がりながら、外側に膨らんでいく。

 

 そうして、前が開く。

 

(スカイさんが見えた!)

 

 セイウンスカイは先頭、最内。勝負を仕掛けてきた逃げ三人に加えて、更にセイウンスカイの横にもう一人。

 

 その五人が、真横に広がった。

 

(……あっ)

 

 スペシャルウィークはようやく気づいた。

 策がはまった瞬間を見せつけられて、やっと何が起こったのかを理解した。

 

 自分の脚が余り過ぎている違和感の正体、その全貌を思い知らされた。

 

 壁なのだ。スペシャルウィークの目の前にあるのは、広がった鉄壁だ。

 有利に追い抜くことを許さない。追い抜こうとすれば、その更に外へ迂回しろと強制する壁。

 

 セイウンスカイなら悠々と先頭に出られるだろうに。

 わざわざ彼女は、競り合う他の子に合わせて走っているーー!

 

 がつん、と頭が震える。

 今から外側に移動しても間に合わない。エルコンドルパサーが既に迂回している。その更に外に行くのは、今から最終直線までコーナー続きの東京レース場では自殺行為だ。遠心力に体をもっていかれる。たとえ耐えたとしても、外側に回るためのロスは致命的な差を生み出す。

 

 これが三人までなら、まだどうとでもなった。自慢の差し脚をもって一息に突き抜ける、と覚悟を決められた。

 しかし、五人に加えてエルコンドルパサーの計六人。並んだ更に外側に行くことが、どれだけ不毛なことか。

 

 スペシャルウィークはすぅ、と空気を吸い込む。青々としたターフの香りの中に、泥臭さと喉を焼くような熱気が混じっていた。

 

 スペシャルウィークは内側を突き進む。セイウンスカイのすぐ後ろについて走る。

 

(スカイさんは必ず、最高のタイミングで前に行く!)

 

 だから倣って、食い破れとペースを上げる。

 仕掛けるタイミングは一瞬。その刹那を閃いて差し切るのだと。

 

 スペシャルウィークは覚悟を決めた。

 

 

 

 

 

 

 レース後半に差し掛かる、その上り坂。

 エルコンドルパサーは何度となく、前に潰され垂れてくる他のウマ娘をかわして追い抜きにかかりながら、思考を必死に働かせていた。

 

(やっぱり、垂れ方が異常デス……次の下り坂で一気に抜かないと――!)

 

 エルコンドルパサーは順位を繰り上げるうち、自然と外側に追いやられていた。垂れてくるバ群の塊を避けるために、内から食い破るスペースがなかったせいだ。

 そんな状況に置かれて、エルコンドルパサーはジリジリと胸を焼かれるような衝動に駆られる。早くいけ、と本能が急かしてくる。

 

(わかってる! でも、こんな上り坂で脚を使い過ぎたら――ッ!)

 

 下り坂で加速が利かなくなる。

 いや、加速したとして終盤のラストスパートを走り切れなくなる。

 

 エルコンドルパサーほどのパワーがあれば、横三人に広がった先団を追い抜きにかかることは……ギリギリではあるが出来る。

 問題はその後。そんな無茶をした脚のまま、加速し続けなければいけないことである。

 

(仕掛けどころが下り坂なんて、誰でもわかる! ソコしか仕掛けるタイミングがないッ!)

 

 それは、東京レース場の特徴のせいだ。

 日本ダービーの舞台、東京レース場の芝2400mにおいて、上り坂は約1130mほどの地点から始まる。レースが後半に差し掛かる手前といったところだ。一方、下り坂の開始は約1330m地点と、実に200mの坂が続くのだ。

 もちろん、心臓破りの坂などと言われるような大層なものではない。むしろ、緩いといって差し支えのない上り坂。それでも、200mという距離が続くのであれば、そこに全力を出し続けることは出来ない。一瞬ではなく持続して、緩いとはいえども上り坂を加速し続けることの、いかに難しいことか。

 

 更なる問題はここから。

 下り坂が入ってからすぐ――約1370m地点から、コーナーに入る。

 

 どれだけ緩いコーナーであろうと、まっすぐ走ることは出来ない。直線と違って、速度を上げれば上げるほど、遠心力に振り回される危険が嵩を増す。

 そして、このコーナーを境に。

 

 最終直線、525.9mを残して、直線は訪れない。

 

 先述した通り、コーナーとは危険を伴う。人間の速度であっても、全速力でコーナーを曲がり切るのは難しいのだ。

 それが、ウマ娘の速度ともなれば、一体どうなるのか。

 

 鍛え上げられた体幹、人間よりも頑丈な肉体をもってしても、振り回される。

 強いウマ娘であればあるほど、コーナーの負荷は増していく。

 

 だから、仕掛けるなら終盤を迎える前の最後の直線。その下り坂の他には存在しない。

 

(駆け引きなんて、初めからなかったッ)

 

 最善の選択をするために後ろに陣取ったはずが、気が付けば最悪の手札を掴まされた。

 

(今から抜くとしても、横並びになった三人の横――)

 

 考えていたら間に合わない。

 放置したらどうなるか、エルコンドルパサーの直感が叫ぶ。ここでいかないと、勝負にすらならない、と。

 

(ッ! 勝つのはこの、最強ッ! エルコンドルパサー、デスッ!」

 

 本能からか、それとも闘争心の発露か。

 エルコンドルパサーが飛び出した。先団手前に燻っていた位置取りを、一息に押し上げようとターフを蹴り上げる。

 

 一瞬、スペシャルウィークが内側に居たのを目の端に捉えたが、今のエルコンドルパサーにそれを気にする余裕は残っていない。

 怒涛の追い上げとはまさにこのことか。上りの坂路も知ったことかと、覚悟を決めて風を切る。あと一息、と先団の三人に迫る。あと、3バ身。あと、2バ身――と、その差を詰め切ろうと、さらに勢いを乗せようとした、第一歩。

 

「――ッ!」

 

 その第一歩よりも一歩早く、先団三人が風になって駆け抜けた。

 やられたッ! と、即座に状況を理解したのは、今までの状況をしっかりと見ていたエルコンドルパサーだ。

 

 上り坂で事前に加速していったエルコンドルパサー。そのパワーは、他の同世代のウマ娘を歯牙にかけないほどのモノを持っていたが。

 ここで前と後ろの位置関係の差が、エルコンドルパサーに逆風となって襲い掛かる。

 

(速くッ!)

 

 エルコンドルパサーもまた、下り坂に足を踏み入れて、加速する。

 詰めていた差は振り出しにもどっていたが、それを気にしている余裕はない。更に、前方の三人が外側に膨らんでいるのがよく見えた。

 

 逆風の位置関係とは、上り坂と下り坂のギャップだ。

 先団の三人は、エルコンドルパサーよりも当然前に居る。前に居れば必然、上り坂を後ろのエルコンドルパサーよりも早く駆け抜ける。後ろの彼女よりも、下り坂に早くたどり着ける。

 

 つまり、どれだけエルコンドルパサーが踏み込んだところで、本命の仕掛けどころに先にたどり着くのは、前に居る三人だった。

 下り坂、地形の有利に乗っていち早く加速した三人に、上り坂という地形の不利を背負って加速するエルコンドルパサー。

 

 肉体の仕上がりは当然エルコンドルパサーに軍配が上がるものの、それだけのギャップを背負ってしまえば、五分に持ち込むことはまず不可能だ。

 結果として、エルコンドルパサーは出遅れるような形にはめられた。

 

 間に合わず、コーナーに入り。

 

「あっ」

 

 エルコンドルパサーの目の前に現れたのは、壁だった。あるいは、鳥籠というべきか。

 最内にいるセイウンスカイを筆頭に、広げられた翼のように真横に広がる五人のウマ娘たち。付け入る隙のない絶壁を前にして、カッと一瞬で頭が沸騰するような激情に駆られた。

 

 前半にも関わらず、垂れてきたウマ娘たち。

 先頭に居座り、悠々とターフを駆けるセイウンスカイ。

 仕掛けどころを失い、しかし誰もが逸早く仕掛けた下り坂。

 

 レースを俯瞰するように走っていた彼女は、誰に、何をされたのか、理解した。

 もしもこれに逸早く気づけたなら、エルコンドルパサーは様子見などすぐに切り上げて、先頭集団にまですぐに駆け上がっていた。しかし、それももはや後の祭り。

 

 壁に綻びが生まれたときには……手遅れだと、直感が叫ぶ。

 もう、エルコンドルパサーに残された手札は、一つしかない。

 

(その作戦ごと)

 

「食い破るッ!」

 

 エルコンドルパサーもまた、翼を広げる。

 大翼の先を担い、そのまま突き抜けようと息巻いたものの、やはり、と彼女は眉を顰めながらも、懸命にターフを踏みしめる。

 

(っ、身体が、外に……!)

 

 それはまさしく、ハリケーンに晒されているかのような感覚だ。ぶつかり続ける風の障壁と、遠心力に身体があらぬ方向に吹き飛びそうになる。加速すればするほど、その力は強くなり、元来のパワーを活かせない。活かそうとすれば、身体が耐えられない。

 

 普通のウマ娘なら、そんな大外からコーナーを走り抜けること自体、長くは続かない。すぐに無理だと悟って、後ろに下がり機会を窺うものだが。

 

 エルコンドルパサーはなまじ、その才能が膨大であり。闘争心がウマ一倍強かったこともあり、そんな障害に耐え切りながら走れてしまう。退くという選択肢が頭に浮かぶたびに、それを薪に力を生み出す。

 

 そして、彼女は地頭も優秀である故に、この根比べに勝てると確信してしまった。勝ち抜いて、最終直線に入る前には食い破れると、自信を持ってしまっていた。

 だから、この作戦を打ち破れるのだと、エルコンドルパサーは疑わない。

 

 足元に、大きな落とし穴があることにも気づかずに。

 決して同条件ではない、不利条件のギャップにまで気づくことなく。

 

 あるいは、彼女は敢えて見ないふりをしていたのかもしれないが。

 

 意地に根性、闘争心。その全てを力に変えて、コンドルは嵐を突き進む。

 

 

 

 

 

 掛かったね、と。

 セイウンスカイはその口元に笑みを浮かべながら、カチリと親指を押し込んだ。

 

 大翼の先にエルコンドルパサーが位置どったのはすぐにわかった。それしか選択肢がないことは、仕掛け人のセイウンスカイが一番わかっていた。そろそろ来るだろう、と思って視線を向けてみれば、彼女は確かに大外から猛進しようと歯を食いしばっている。

 

(他の子に自分の勝敗を委ねるなんて、エルちゃんは絶対にしない。いつ垂れるかわからない子なんて、待っていられる筈がない)

 

 もしもエルコンドルパサーが、先行策によって構うものかと先団を食い破っていたのなら、セイウンスカイはなす術もなく負けていた。どんな修正案を思いついたとしても、取り返しのつかない状態になっていた。小細工を仕掛けたところで、よくて勝率は2割あったかどうか。

 

 綻びなんていくらでもある作戦だった。逃げが2人しかいなかったのなら、すぐに大逃げに切り替えるか、集団を団子にした上で逃げ切るか。あるいは、上り坂の時点からペースをぐちゃぐちゃにかき乱すか。どれを選択したとしても、スペシャルウィークを、エルコンドルパサーを、キングヘイローを。三人の誰か二人は、どうやってもフリーにしてしまう。

 

 もしも、もしも、何てキリがない。レースに絶対なんてありえない。

 だから、セイウンスカイがやることは単純だ。

 

(敵を知り己を知れば百戦危うからず、ってね)

 

 何をやったら、誰が、どう動くのか。

 そして、自分がどこまで実現可能なのか。

 

 ひたすらにそれだけを考えた。それだけの布石は今まで積み上げてきた。

 セイウンスカイは徹底的に、作戦の精度を突き詰めただけだ。

 

 ここから先は、もはやセイウンスカイのウイニングランだ。

 

(大差勝ちは……まぁ、ごめんね。でも――)

 

 ――3バ身差。

 

 ぐうの音も出ない完全勝利というには、些か足りない差ではある。

 だが、ここまで積み上げてきた作戦のすべてが型にはまり、その上で予定通りに勝てたのであれば。

 

 それは実質、セイウンスカイの完全勝利であることに疑いはない。

 

(今から、証明するよ)

 

 ――時計は持った。

 握りしめる。

 

 ――描いた地図に誤りはない。

 道案内は完璧だ。

 

 ――準備は?

 

「いいよ」

 

 

 

 レースは終盤に差し掛かっている。

 それでも、セイウンスカイは横に並んだ相手に合わせてペースを上げる。そろそろ最高速度(あたまうち)に達する相手も現れる頃合い。

 

 デッドヒートという名の助走を続けた。意地の張り合い、この先頭争いこそが勝敗を左右する。そう思い込ませたのは他ならないセイウンスカイだ。仕向けたのは、仕掛けたのは、セイウンスカイだ。

 

『続く、続く! いまだに続く! デッドヒートが止まらないッ! このままゴールまで熾烈な先頭争いを続けるというのか!?』

 

 だから、彼女だけは最後の仕掛けどころを心得ている。

 

 早すぎてはダメだ。外に居るエルコンドルパサーに隙を見せれば、食い破られる。

 遅すぎてはダメだ。後ろから迫っているであろうキングヘイローに蹴散らされる。

 

 タイミングは一瞬だ。瞬き一つの遅れが致命傷になる。

 

 最終コーナーに入っても、まだ溜める。

 

 ――すぅ、と。

 セイウンスカイは力を抜いた。

 吸い込んだ熱気は血潮の流れに乗って力が漲る。青々としたターフの香りは、濁った思考を透き通らせる。

 

『ここで外の5番――後ろに下がるッ! 大外のエルコンドルパサーが内に詰め寄った!』

 

 カチリ、と。

 スイッチが入る。親指を押し込んだのと同時に、セイウンスカイは確かにその音を聞いた。

 

 音は、最初の一歩と重なって。

 

 

 

 内ラチを、疾風が迸る。

 

 

 

『セイウンスカイが飛び出した! セイウンスカイが抜け出した! 頭一つ、いや、1バ身――2バ身ッ! 内からセイウンスカイが飛び抜けた! 後続を置いてけぼりに、今! セイウンスカイの一人旅――』

 

 飛び出したそのわずかな隙間。

 今か、今かと息を潜めていた彼女が閃いた。

 

(――来たッ!)

 

 セイウンスカイが抜け出た隙間を射抜き、飛び出したのはスペシャルウィークだった。

 スペシャルウィークは、この機会をずっと待っていた。外側から追い抜くのが無理だと悟ったその瞬間から、彼女はこの瞬間だけをずっと待っていた。セイウンスカイが抜け出すタイミング。そこからの大逆転、巻き返しだけを狙って、ずっと、ずっと足を溜めていた。

 

 その末脚の爆発は、まさしく一閃。

 雷の如くセイウンスカイの横まで射抜いた彼女は、しかし衰え知らずに更なる加速をもって、追い抜きに掛かる――!

 

『飛び出したのはスペシャルウィークだ! 鋭い閃光がセイウンスカイに追いついたッ! ここまでかセイウンスカイ!? スペシャルウィークが、あっという間に――』

 

 

 

(ここからが、私の全身全霊ッ!)

 

 スペシャルウィークのスパートは、まさしく最高のタイミングだったと自負できるほどのものだった。

 一瞬の狂いもなく、息を吐く暇さえ与えずに、抜け出た瞬間に彼女は飛び出した。

 

 完璧な奇襲だ。

 スペシャルウィークの考えは当たっていた。セイウンスカイの最高のタイミングに、彼女もまた便乗する。そこだけに集中出来たからこその、瞬きさえ許さない光の強襲。

 

 踏み出すタイミングさえ、一致していた。

 呼吸は落ち着き、その脚は力強く大地を蹴り上げる。

 

 セイウンスカイが仕掛けて、抜け出したと確信する。確信して、さらにギアを上げる正念場。

 そのギアを上げるまさに第一歩目に、スペシャルウィークが並んだ。

 

 並んだ瞬間、先に大地に足をつけたのはスペシャルウィークだった。

 

(これで――ッ!)

 

 その一歩で、セイウンスカイを置き去りにできる。

 もう、セイウンスカイは修正不可能だ。スペシャルウィークはまさに、息を吐く暇も与えずに奇襲した。ここで追い抜けたなら、もはやセイウンスカイは巻き返せない。その雷の如き刹那の力は、スペシャルウィークの特権だ。

 

 勢いに乗ったウマ娘の加速力は、競り合うそれよりも遥か先を行く。上り坂と下り坂、あるいはスタートダッシュとラストスパート。勢いに乗るとは理不尽なもので、それはある種「ゾーン」に至るような恐ろしい力を生み出し続ける。

 

 だから、ここでスペシャルウィークが勢いのままに走れたのであれば。

 追い抜かれ、逆に勢いをくじかれたセイウンスカイという構図になったのであれば。

 

 そのギャップを埋めることは絶対に敵わず、セイウンスカイの敗北は免れない。

 

 

 

 ――だから、必然なのだ。

 

 

 

(えっ)

 

 セイウンスカイが、笑った。

 獲物を見つけた狩人のように。あるいは、陰に潜む道化師(ジョーカー)のように。

 

 ドン、とかつてないほど力強い足音が、スペシャルウィークの耳から腹の奥まで響いたかと思えば。

 

「っ」

 

 横に並んで、先に大地を蹴り上げた筈のスペシャルウィークが。

 

『――並ばないッ! セイウンスカイが逃げ出したァ!』

 

 明確に一歩、追い抜かれた。

 一歩だけではない。息を呑んだスペシャルウィークを尻目に、セイウンスカイは第二歩を大きく、誰よりも力強く、ターフを抉り飛ばす勢いで蹴り上げる。

 

 そして三歩目。

 これがまさしく分水嶺だった。

 

 最終コーナー終わり間際。

 三歩目で、いよいよ最終直線に出るところ。

 

 大きな一歩が、コーナー終わりに強引にねじ込まれる。

 その一歩だけで、体の向きを変える。最終直線に身を乗り出す。

 勢いを殺さず、勢いのままに加速しながら、真っ直ぐに。

 

 水流の如きコーナリング。

 激流となりて、最終直線に飛び込んだ――ッ!

 

『セイウンスカイ、完全に抜け出したッ! 後続はまだ4バ身後ろ!』

 

 最終直線、525.9mの長丁場。

 いち早く、誰よりも鋭く、誰よりも速く、駆け出したのはセイウンスカイ。

 

 勢いのままに、彼女は千切る。全身全霊を絞り出し、ラストスパートを駆け抜ける。

 

『スペシャルウィーク、最終直線に抜け出した! しかし先頭とはまだ5バ身、いや6バ身差があるぞ! 後ろの子たちは間に合うのか!?』

 

 誰もいない。

 前にも、横にも、すぐ後ろにも、セイウンスカイを取り囲むのは空白だった。

 

 何も遮るものがなく、邪魔立てするものは誰もいない。

 

 故に、革命は成立した。

 ここから先は小細工無しの力の押し合い。積み上げてきた勝利の風に乗って、暴風となりて突き進む。

 

 青いターフに吹き荒れる。

 たった一人の足音響く。

 

 セイウンスカイの一人旅。

 

(これで、私の完全勝利――)

 

 太陽が、雲に隠れた。

 サッと、セイウンスカイの世界から色が抜け落ちる。

 

 あと、たったの1ハロン。

 勝負のタイムリミットが迫る中。

 

 ダン、ダン、と後ろから地響き届く。

 音は大きく、複数、迫りくる。

 

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。

 

(まずい)

 

 必死に、セイウンスカイは両手を、両足を動かした。

 

(まずい、まずい、まずい)

 

 地響きが、足の裏まで伝わってくる。

 

(まずいまずいまずいまずい、まずい――ッ!)

 

 歯を食いしばる。

 スローモーションの世界の中で、全てを出し切りがむしゃらに走る。

 

 早く、早く動け、と苛立ちさえ力に変えて、前のめりに駆け抜ける。

 

 すぐ横で、足音が轟いた気がした。

 すぐ横に、誰かが閃いた気がした。

 さらに横で、嵐の吹き抜ける音が聞こえた。

 

(――前にッ!)

 

 たった半歩を、前借する。

 ほんの一瞬、瞬きよりも短い時間。身体がふわりと軽くなり、前を行く。

 

 そしてそのまま、セイウンスカイは突き抜ける。

 

 逃げる、逃げる、逃げ出した。

 音が聞こえなくなるまで逃げぬいて、ぐちゃぐちゃの視界ながら必死に前を見て。

 

 

 

(……あ、れ?)

 

 ゴールが見えなくて。

 次のコーナーに足を踏み入れそうになって、彼女はようやく足を止めた。

 

 キョロキョロと、呆然とした様子で周りを見て、ようやく耳に届くのは歓声だ。

 声援ではない。勝利を祝う歓声が、やっと耳に届いた。

 

 後ろを振り返ってみれば、ライバルたちが困惑した様子で、少し遠くから彼女を見ている。

 

 慌てて、電光掲示板を見るために顔を上げた。

 

 

 

 ――3着、キングヘイロー。ハナ差

 

 ――2着、スペシャルウィーク。ハナ差。

 

 ――1着、セイウンスカイ。

 

 

 

 頭の中が、真っ白になった。

 

 

 

 

 

 

 完璧な筈だった。

 

 ロケットスタートを決めて先頭で突き抜け、ペースを落として先頭集団を垂れさせた。巻き添えを食らわせる形で、先行、差しの位置関係をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。

 先頭は絶対に譲らなかった。意固地な先頭争いの可能性は、「セイウンスカイは必ず一度後ろに下がる」という、これまで一貫して行い続けた作戦を餌に潰してみせた。

 

 中盤の直線に入った時には、もう後の祭りだった。上り坂までの距離は1ハロンを切っている。いくら垂れているとはいえども、先行差し集団もまた距離を取ろうともがいていた。仕掛けるにはまだ早い、とレース前半というまやかしがブレーキをかける。まさか、最初のコーナーで本格的に仕掛けるわけがない。上下3人前後、左右ほんの少しの軸の調整が精々だ。

 そうして仕掛けどころを見失ったところに、現れるのは上り坂。そこで誰もが気づくのだ。「次の下り坂で仕掛けないと間に合わない」と。

 

 その傾向が顕著だったのは、先頭からほんの少し距離を取った逃げの三人だった。彼女たちはセイウンスカイが下がるその瞬間に駆け上がる算段をしていた。しかし、いつまでも下がる気配がない。そうしてジリジリとゴールが迫るうちに、レースは後半に突入。先の長いコーナーに、すぐ目の前の上り坂。そして少し先の下り坂。

 ここで気づくのだ。「あれ、セイウンスカイの下がるタイミングってどこ?」と。

 

 上り坂で減速するならまだわかる。体力の温存に違いない。しかし、下り坂とコーナーで後ろに下がる意味があるのかどうか。

 行きつく先は一緒だった。「下がる気がない」と。あるいは上り坂で下がるのかもしれない、と様子見はそこまでに切り上げた。

 

 セイウンスカイが仮に下り坂以降で下がるのだとしても、もう彼女たちには関係なかった。

 何故なら、間に合わないから。その下り坂でもしも先行組に抜かされ呑まれようものなら、勝ち筋は完全に消えてしまう。そんな負け筋を放置したままに出来るはずもない。後ろから誰かが迫っていることは、走っている彼女たちにはよくわかっていた。

 

 そうして、下り坂で逃げ全員が仕掛けたデッドヒート。誰もが脚の余っている中、最初で最後の勝負所。これにて、エルコンドルパサーを、スペシャルウィークを、後ろに居る全員を阻む壁が完成した。エルコンドルパサーは大きく消耗する外側に追いやられ、スペシャルウィークはセイウンスカイの後手に回る。

 この壁を時が来るまで維持し続けた。これは、セイウンスカイの隙を守るための砦だった。

 

 こうしてエルコンドルパサーは封じた。ならば、あとはスペシャルウィークとキングヘイロー。

 

 セイウンスカイは、意識の隙を突いた。

 位置を調整して、スペシャルウィークが横に並んだその瞬間から三歩。その三歩で、最終直線に抜け出せるような位置で、一息に加速する。

 

 追い抜いた! と、確信した瞬間に、抜き返してやるのだ。

 確信と現実にズレが生じた時、誰しも少なからず動揺するものだ。その動揺は、綺麗に循環していた呼吸を乱し、息を呑ませる。そのたった一度の呼吸の乱れは、勢いをくじき、加速に刹那の綻びを生み出すには十分すぎた。

 

 たとえ動揺しなくても問題ない。追う側と、追われる側。コーナーから直線に抜け出たと同時にトップスピードに到達したセイウンスカイと、これからまだ加速が必要なスペシャルウィーク。その差だけで、3バ身の差は固いと踏んでいた。

 

 ここまでくれば後の祭りだ。

 

 エルコンドルパサーは消耗しきっている。

 スペシャルウィークにはもう抜かせない。

 キングヘイローは、最終直線に出るまで、どれだけ前に行こうとしてもセイウンスカイの築いた砦にぶつかる。最終直線で外側に行って抜け出したとしても、そこから加速するキングヘイローでは、トップスピードで先に行くセイウンスカイの影は踏めない。

 

 そうだ。

 セイウンスカイの作戦は、面白いほど綺麗にはまったのだ。

 

 

 

(……はまった、のに)

 

 レース場に繋がる地下通路。ふらふらと、セイウンスカイは心ここにあらずといった様子で歩いていた。

 既に他のウマ娘たちはそれぞれの控室に戻っている頃合いだ。今この場にはセイウンスカイか、あるいは。

 

「おめでとう、セイウンスカイ」

「……トレーナー、さん」

 

 彼女のトレーナーくらいのものだった。

 彼は柔らかく微笑みながら、彼女の横に位置取り歩きはじめる。

 

「そうだな、先にこれも言っておこうと思う」

 

 顔を上げないセイウンスカイに、彼は何とも気楽な様子で。

 

「三冠おめでとう。君はもう、菊花賞に勝っている」

「……はい?」

 

 何を言っているんだ、と思わず顔を上げたセイウンスカイが見たのは。

 意地悪く笑っている、彼の顔だった。

 

「菊花賞は、最も強いウマ娘が勝つ。怪我さえなければ『逃げる』だけで君が勝つ。この結果は覆らないさ」

「……そんなの、わからないと思いますけど。今日だって、スペちゃんに、キングに……負けそうでしたし」

「それでいいんだ」

 

 えっ、と弱々しい声が、彼の声に掻き消える。

 

「ここで大差勝ちしたなら、他のウマ娘からの意図的なブロック。序盤のデッドヒート。対策に対策を重ねられ、あるいは無謀な大逃げ。評判だけが独り歩きして、レースペースもへったくれもなくなっていたかもしれない」

 

 それだけじゃない、と彼は続ける。

 

「スペシャルウィークとキングヘイローだって、他の子たちにとっては要注意ウマ娘だ。その注目がすべて、セイウンスカイに向いた時……そんな展開はあまり、考えたくない」

 

 絶対の強さを誇る注目。

 確かに、セイウンスカイはそんな注目のされ方を、今までされたことはない。どちらかと言えば作戦を必死に積み立てて、何とか勝利をもぎ取ってみせたウマ娘。人を寄せ付けない孤高のウマ娘ではなく、親しみを持たれやすい前評判というのが実情だ。

 

「だから、このダービーは最高の結果だ。もう、世間には誰が勝つのかなんてわからない。またセイウンスカイが何かやるのか? それともスペシャルウィークが今度こそ差し切るか? キングヘイローが玉座に座るか? なんて、大盛り上がりするだろう」

 

 そして、と彼はそのペースのまま口を開き。

 

「確かにダービーに勝利した期待は乗っかるが、その期待を大言壮語がクッションになって、悪目立ちを避ける」

「……っ」

 

 まさか、とセイウンスカイはこぶしを握り締める。

 大言壮語というのは間違いない。日本ダービー前の記者会見で、トレーナーが吐いた言葉のことだ。

 

「唯一抜きん出て並ぶ者なし。この黄金世代でそれをやってのけられるウマ娘? 居るはずがない」

 

 セイウンスカイの足が止まる。

 彼はそのことに気付いて、彼女の二歩先で止まって、振り返る。

 

「……よく」

 

 絞り出すように、セイウンスカイは言葉を紡ぐ。

 

「よく、考えたら。そうですよね。セイちゃんだって、それくらい、わかってる」

「言葉は使い方が命だ。だから、この塩梅がちょうどいい。君の世間の評判は、菊花賞の勝利をもって完璧になる」

「……トレーナーさんの評判は?」

「考慮に入れる価値がない」

 

 ぷつん、とセイウンスカイの何かが切れた。

 

「ふざけないでよッ!」

「ふざけてなんてない」

 

 地下通路の中をキン、と高く反響するほど大きな声が飛び出した。

 そんな声が急に飛び出したにも関わらず、彼はあくまで波風立てない冷静な声音で否定する。

 

「私だって! これでも真剣にやってる!」

「わかってる」

「わかってない!」

「いいや、誰よりも俺が知っている」

「ならッ!」

 

 ヒートアップするセイウンスカイに向けて、トレーナーは大げさに首を振る。

 そして、彼は表情を落として口を開くのだ。

 

「所詮は仮契約だ。君の将来に一切の支障をきたさないことは約束する」

「違うッ! 私が言いたいことは――」

「いいか、セイウンスカイ」

 

 淡々と。

 どこかズレた論点を用いながら、肌に刺すような冷たい声音で彼は言う。

 

「所詮は仮契約だ。そして、トレーナーっていうのはウマ娘が強くなる、勝つための手助けをするだけだ。それ以外は全て不純物だ。勝手な同情も、憐れみも、気遣いも」

 

 ギリ、と音を立てる。それは歯噛みだったのか、それとも拳を握り込んだ音か。あるいはシューズが地面に擦れた音だったのか。

 

「……じゃあ、トレーナーさんはどうして、トレーナーなんですか」

「…………」

 

 彼はセイウンスカイの言葉に、すぐには答えなかった。

 代わりに、彼は抜け落ちた表情の上から、どこか曖昧な表情をつぎはぎして貼り付けて。

 

「忘れた」

 

 泣きそうな顔だった。

 悲しそうな顔だった。

 無理に笑っているような口元だ。

 頬が強張っている。

 

 どこまでも不器用に、彼は笑って答えた。

 

「っ……!」

 

 かつん、とセイウンスカイは地面を強く蹴り付ける。まるで癇癪を起した子どもが、やり場のない感情を叩きつけるように。

 

 そして、セイウンスカイはそれ以上口を開くことなく、彼を横切って控室に戻っていった。

 

 

「……最後の仕上げだ」

 

 彼は静かに、ぽつりとそう呟くと。

 背筋を伸ばして、ただ真っ直ぐ、出口の方に向かうのであった。

 

 

 

 離縁の毒が、しみ込んだ。

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