まあ、大した事でもありません。
油断するくらいが良いんですよ。
小さな日々の、裏側を。
夢を諦めない、そう誓いを新たにしたあの日から。早いもので、もう一ヶ月が過ぎていった。
どうなるものかと思った新生活にも慣れ、猪股家がすっかり我が家のように思えるようになっている。
まあ、その辺ちゃんと線引きは必要だけど。私は仮住まいの身、甘えすぎてはいけないんだ。
もう一ヶ月、まだ一ヶ月。いずれ来る、その時まで。
私は大過無く、猪股家で日々生活していくんだ。
「千夏、さ。ホントに大丈夫なの?」
「へ。……あーまあ、元気だよ」
食堂でお昼を食べながら、渚が急にそんな事を言うから少し戸惑ってしまった。
言うことは足りないけど、まあ何を言いたいかは分かる。渚たちには、春から親戚の家に居候していると言ってあるから。柄にもなく、心配してくれているんだろうな。
……親戚じゃなくてお母さんの友達の家で、ひとつ下の後輩が一緒だって言ったら驚くだろうなぁ。
さすがに言わないけどさ。色々揉めたくないし、面倒な事は好きじゃない。
「別に困ったこととかはないよ、皆優しいし。練習もちゃんとしてるでしょうが」
「そうだけどさ、やっぱ心配だよ。千夏は溜め込むからさ、なんかあったら渚おねーさんに言うんだよ?」
いやあんた同じクラスの同級生でしょうが、とデコを一発弾いてやって。
和やかな、いつもの時間は過ぎていく。
さて、五限は体育だ。食べ終わったら着替えてしまおうかな。
朝からずっとジャージでいられると楽なんだけど、それやると担任が嫌な顔するし。
制服で登校して練習着に着替えて朝練、HR前に制服に着替えて授業受けて……って考えてみたらスゴい手間なのに。
……でも汗かくし、そのままでいるとキツいかな。
ま、いいか。
一旦教室にもどって、更衣室へ行こうとした時だった。
手に持ったジャージに、僅かな違和感を覚えたのだ。
「……あれ?」
何処かが、違う。洗ってもらったとは言え、自分の服と言うのはなんと言うか「気配」が染み付くものだ。
でもそれが、感じられない。
「れ?」
嫌な予感と共に、折り畳まれたジャージを開いていく。
そして目に入った――「猪股」の文字。
「うわ」
やってしまった、やってしまったぞ私。
今朝は由紀子さんが私たち二人のジャージを出してくれて、大喜くんはその片方を掴んですぐに駆け出していったっけ。
ちゃんと確かめるべきだった、そうすれば朝練の時点で交換できた。
大喜くんからLINEも何も来ていないところを見ると、向こうは四限までは体育が無かったんだろう。
でもこれは、不味い。不味すぎる。
まさかこれを来て体育はできない、でも練習着も練習着でダメだ。
現在時刻は12:45。時間がない。
授業開始まで、あと20分。
さぁ――どうするか。
大喜くんにLINEしてはみたものの、誰も来なさそうな場所がお互い思い当たらない。
片っ端から探しては「誰かいた」「人通りが多すぎる」と候補地から消していき、時間だけが過ぎていく。
気は焦り、どんどん思考は鈍っていく。
どうする、どうする、どうする。
と。すれ違ったクラスメイトの顔を見て、一つの案が閃いた。
「ごめん、真理子! 鍵、今持ってる?! 貸して!!」
真理子は天文部所属。今の天文部には三年生がいないから、二年ながら部長をやっている。
確か定例の星空観測会用に、屋上の鍵を生徒会から預かっている筈だ。
……まあ星より「増えないかけ算」に夢中な子だけど。
普段から部室にそういう本とか積み上げてるし、「BLは女子高生にとって炭水化物のようなもの」とか言ってるし。
まあ、それは良いんだ。うん、それは。たまに貸してもらうけど、今はそっちじゃない。
「屋上のだったら、うん。貸すのは良いけど、放課後までに返してね」
「恩に着る!」
急いでLINEし、屋上目指して走り出す。ああ、九死に一生って感じだ。
にしても、油断したものだ。
「鹿野」が書かれたジャージで体育の授業を受けながら、心のなかで溜め息一つ。
私はもっと、気を張るべきなんだろうか。
猪股家は私の家じゃない、だから油断しないように心掛けないと。
……でも、だ。どうにかなったのも、事実だ。何かやらかしても、やっぱり最終的にはうまくいくかもしれない。
あまり気を遣ってると、由紀子さんたちに悪いしね。節度を持って、多少は甘えつつ距離感を適切に保とう。
そんな器用な事が私にできるか、それはいまいち自信無いけど。
私ガラッパチだから、細かいこと苦手なんだよね。
しかし、大喜くんには迷惑かけてしまった。後でちゃんと謝ろう。
と言うか授業出られたかな、私でさえ滑り込みだったのに。
何で座ったままだったんだろう。「先行っててください」って、自分だって急がないといけないのに。
座ったまま、立ち上がらなかった。顔を、真っ赤にして。
「あ」
そうだ、大喜くんは――オトコノコ、なんだっけ。忘れてた。
つまりそういう事、だったんだろうか。立ち上がったままじゃ立てないとか、血流がどうとかそういう。オトコノコの、……そういう事。
そうなると、迷惑どころじゃなかったかもしれないなぁ……。
私みたいなワンパクでたくましい子相手に、そうなる男子はそうそういないと思うんだけど。大喜くん、ちょっと変わった子なんだろうか。
やっぱりもうちょっと、気を遣うべきだな。
大喜くんの為にも、さ。
さぁ、どうしようか。授業が終わるまでには考えをまとめたいけど、無理だろうな。
なるようになる、のかなあ……。心配だ。
真理子さんのイメージベースは、『先生、好きです。』の天文部部長です。
名前が出てる友達が少ないんですよ、前に渚さんのセリフに出てきた名前はひらがなでしたし。