何も無いんだ、と思っても怖くなる。
だって。何も無いなんて、有り得ないから。
ふとした拍子に、見えてしまったりもするから。
やけに大きく聞こえる、時計の針の音。でも眠れないのは、そのせいじゃない。隣に、千夏先輩がいるからだ。
普段はまず入らない、千夏先輩の部屋で。ベッドの横に敷いたマットレスの上、俺はまんじりともせず天井を見上げている。
勿論同意の上だし、なにかいかがわしい事をしようという意図もない。俺は先輩に一緒に寝てほしいと言われて、ここにこうしているだけだ。……うん、それだけだ。先輩の寝息が、漂う甘い香りが、たまらなく興奮を煽るけれども。煽るけれども、それでも根性で耐える。先輩のため、そして俺のために。
遡ること、数時間。風呂にも入って後は寝るだけ、明日は日曜だし朝練も無い。早めに寝て寝溜めしようかなーと思ったり思わなかったりしていた頃、千夏先輩が俺の部屋にやって来たのだ。
先輩はまっすぐ俺を見つめ、そして。
「大喜くん、私と一緒に寝てください」
そう、とんでもない事を言い出した。
寝る、一緒に。それはつまり、同衾と言って。つまりそれは、それは――。
血が沸騰しそうになるのを、なんとか押さえ込む。いや待て、違う。絶対違う。
千夏先輩はそういう人じゃないと思うし、例え罷り間違ってそういう人だったとしても、相手は選ぶだろう。俺なんかと、……そういうことをしたいと思う筈がない。考えてて哀しいけど。
そうなると、どういう事なのか。俺はバカだし気が利かない、考えたってどうなるわけじゃない。
聞いてしまうしか、無いんだ。
「えっと、あの。それは……その」
直接的な話をして良いのか、どうなのか分からない。そもそも聞き方が分からないまま、しどろもどろになってしまう俺。
そんな様子を察したように先輩は、俺の手を取って。
「――こんな時間にね、読むべきじゃなかったんだよ」
真剣きわまりない顔で、そう言った。
先輩の部屋に置かれた紙袋、その中を見やる。漫画中心に小説など、大量の本がそこに犇めいていた。
天文部の友達が貸してくれたんだけど、と言う先輩に薦められ数ページ捲った所で、先輩がおかしなことを言い出した理由が分かった。――怖いんだ、これ。このまま読み進めたら俺も眠れなくなりそうな、ガチで怖いやつだ。
表紙の感じからすると、多分全部そういう本だな。
「面白いって言うから試しに読んでみたら、なんかねー…物凄く怖いし不安を煽る系でねー……」
ただでさえ怖いのに読んだあとでまたジワジワ来るタイプか、そりゃ夜読んじゃダメです。
つまり先輩は、一人だと怖いから一緒に寝てほしいと言っているわけだ。
なるほど、納得はいった。
まあ、笑ったりはしない。怖いものは怖いから、俺だって嫌だ。まして先輩は縁もゆかりも無い家で赤の他人に囲まれて過ごしているんだ、ふと不安にかられた時の心細さは相当だろう。こういう時には、お役に立たなければ。
「分かりました。俺が床で寝てますから、安心して寝てください」
さすがに同じベッドで、と言うのはあまりにもあまりにもだ。そんな事したら、俺が良心の呵責で死んでしまう。
まあ普段だって、壁一枚隔ててるとは言え殆どくっついてるみたいな距離で寝てるんだ。問題ないだろう。
問題ないだろう、なんて甘すぎた。俺がそう気付いたのは、電気が消された直後。
安心したのか先輩はすぐに健やかな寝息を立て始めたものの、俺は自分のバカさ加減を噛み締めつつ悶々とするしかない。壁なんか無い、手を伸ばせば届く、そんな状況で――寝られるかよ。
千夏先輩にとって俺は、弟みたいなもんなんだろう。でも俺にとって千夏先輩は、大好きな人で。誰よりも大切な人で。そして、
そう思いつつ目を閉じ、必死で眠りに落ちようとする。が、そんな時に限ってどうして邪魔が入るのか。
「ん、……まぶしぃ……?」
突然窓の外から光が入り込み、そして横へと流れて消えていく。車のヘッドライトかなにかだろうか、こんな時間に住宅街でハイビームになんかすんなよな、こっちは寝てるんだからさ。幸い先輩はぐっすり寝てるせいか、特に反応した様子はない。……アイマスクとかあれば持ってくるんだけど、まあ良いか。
掛け布団を頭から被り、遮光しつつ意識を緩めていく。時計の音は相変わらずだけど、こうやってれば次照らされても多少はマシだろう。
とにかく、大丈夫。このまま眠れなくても寝そけた分、明日自分の部屋でぐっすり眠れば良い。どうせ日曜なんだから。朝になるまで俺がここにいれば、千夏先輩は安心して眠れるんだ。
ふとした拍子に、意識が浮上した。どうやらあれこれ考えつつも、俺は眠ってたらしい。今何時かな、とスマホを触ろうとした。けどその手が、動かない。あれ変だな、と思ったその時だった。
背中になにか、当たっている。大きくて暖かいものが、押し当てられている。
首もとに感じる、空気の流れ。熱を孕んだ、それは――吐息のような。
「……、ぁ……っ」
身体が動かないのは、当たり前だ。
何か言おうにも、口さえ動かない。心臓の鼓動が、時計の音を掻き消すほどの大音声になっていくのが分かる。
どうしよう、寝惚けているんだろうか。まさか自分の意思でこんなことするわけがない。どうにかして動いて、張っ倒してでも起こすべきだろうか。いやでも今先輩が起きちゃったら、俺の人生詰むんじゃないだろうか。どう考えても寝込みを襲おうとしてる感じになるぞ、絶対。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう。
どうしよう……。
悩んでも焦っても、背中の柔らかい感触が思考を塗り潰してしまう。
そのまま、脳のリソースを使い果たし。気絶するように、意識のスイッチが切れた。
「大喜くん、おはよう」
突然聞こえてきた先輩の声と、射し込んでくる光。一瞬混乱するけど、すぐに昨日のやり取りを思い出した。
どうやら先輩は朝までグッスリ眠れたようで、すっかり元気になっている。ま、とりあえず良かった良かった。
ベッド脇に置かれている先輩のスマホを見ると、時計表示モードでいつもの起床時間を示している。先輩はオンでもオフでも、大体同じタイムサイクルで生きているから。……俺は予定がないとついつい長く寝ちゃうけど、見倣わないといけないな。やっぱり先輩は立派な人だ。
……と。俺は小さな違和感を抱いた。抱いてしまった。
「先輩、ここって時計無いんですよ……ね?」
「ん? うん、スマホで足りるし」
じゃあ、そうなると。あの音は、一体。あの不快な音は、……あれ?
いや、気にするな。きっと気のせいだ。ストレスが溜まり過ぎたのかもしれないし、朝日を浴びて心をリセットしよう。
そう思って窓の方を見た瞬間、俺は更に余計な事に気付いてしまった。
ここは、二階だ。そして住宅街のど真ん中だ。どうやったって、車のヘッドライトなんか入ってくる訳がない。それに隣の部屋を小三からずっと使っている俺は、夜中に光が入ってきて目が覚めた事なんか一度もない。……あれー……?
まさか。俺はまさか、そういう体験をしてしまったのか。
着替えようとしだした先輩に慌てて背を向け、大慌てで自分の部屋へと戻る俺。胸の鼓動はやっぱり激しいけど、これはチラッと見えてしまったせいじゃない。その筈だ。だから顔が熱いのも、仕方がないんだ。
しかしそうなると、あのハグもそうなのか。……そうだろうな。だって俺は記憶にあるかぎり、壁に背を向けて寝ていた筈だ。どうやったって、後ろに人が入るスペースなんか無い。じゃあ一体何に抱き締められ、何を押し当てられていたんだろう。怖い、マジ怖い。なにこれ、俺に何が起きたんだ。
いや、考えるな。忘れろ、二度寝して記憶から消そう。
ベッドに潜り込んだ時、まさにその時。壁の向こうから、なにかが聞こえた。「また一緒に寝て」と言われたような気がしたけれど、返事はしない。怖いから。
先輩がそんなこと言う筈無い。いやもう考えるな、昼まで寝てしまえ。母さんが文句を言うまで寝続けるんだ。
寝てしまえばきっと、忘れるから。それが一番だ。……きっと。
扇町さんも経験あります。
小さい頃ちょくちょくヘッドライトの列を窓から見ていた記憶があるんですが、あの家からは見えるわけないんですよ。
私は何を見ていたんでしょうか。