理解のある人だけ読んでください。
突然だが、俺の趣味はオナニーだ。
朝から晩まで、チンポをシゴいている。
チンポをシゴくことが生き甲斐なのか、それとも生きるためにチンポをシゴいているのか。もはやその境界すら薄れるほどに、毎日チンポ磨きは欠かさない。(境界は薄れても精子は薄くないが。)
……しかし、こんな俺にも悩みがある。
しかし、そんな些細なもので人を判断するのが人間なのである。
言おう。
俺のチンポは、
さながら、ピサの斜塔のように。それを知る友人は、俺の下半身をこう呼ぶ。
“ピサの相棒”
と。なんとも言えぬその悲壮に暮れてしまいそうな名前は、私に相棒の矯正を施させるには充分であった。
しかし、一体どうしたものか。
まさか下半身の相棒のことを馬鹿正直に医者に言いに行くわけにも行くまい。
僕のチンポがピサの斜塔なんです。なんて言えば、鼻で笑われるであろう。
それだけは避けたかった。
珍妙な話ではあるが、私は自身のチンポ、ひいてはオナニーにはプライドがあるのだ。
それを笑われて明日のうのうと過ごしていけるかと言われれば、やはり首を横に振るしかなかったのである。
医者を頼れないとなれば、これまた相棒の出番であろう。
ああ、失敬。相棒は相棒でも、下半身のそれでも、左手のことでもない。そうだな、現代人の相棒とでも言おうか。
つまり、スマートファンである。
近年スマホ依存症なる言葉が生まれる程に社会現象と名を馳せたその機器の利点は、オカズの収集だけには留まらない。なんと、情報すらも集めることを可能とするのだ。
入力する単語は「チンポ右曲がり」である。オカズ探しに何度も検索エンジンを使ってはいるが、未だうだつの上がらないその検索ワードには思わず目から白濁液を流しそうになる程だ。
しかし、それでもネットというのは偉大である。
いやそうでなければきっとここまで広まってもいないのだろうが。
数百万件のヒット。
上からいくつかのサイトをみて、情報を比較する。
幸い、サイトトラベルには耐性があった。〜漫画の夜やら、〜sivやら。様々なサイトを比較しエロ漫画を見なければならないシコラーにとってこれは当たり前のことであった。
鍛え上げられたサイトトラベルによって生み出されるのは、疑いようのない完全無欠の知識である。
そんな知識様が直々に御教授下さったピサチンポの治癒法はただ一つ。
左腕から右腕へと、オナニーの手を変えることであった。
私は憤慨した。それはメロスの邪智暴虐の王へに対する憎悪に等しく、またユダ教徒のメシアを愛することと等しい。
シコラーにとって右腕でのオナニーとは、それすなわち、浮気に等しいのだ。
生涯寄り添うことを誓った相棒を、これからの永遠を歩むと決めたあの日を、忘れもしないあの涙を。俺は裏切ることとなるのだ。
しかし右曲がりのチンポは悲鳴をあげていた。
斜塔は斜塔であるから世の遺産なのだ。もしあれが塔であったならば、ただの古ぼけた時代遅れの産物としかなり得ない。
しかしピサチンは違う。珍棒は真っ直ぐに、何にも邪魔されず、すっくと立つからこそ珍棒であり得るのだ。
斜チンは遺産にはならない。
遺産とは、使い古された過去の産物であり、もはや機能を持たない。
チンポがそうであって良いものか。いや、そうであろうはずが無い。
チンポの、相棒による、オーガズムのための自慰。かのリンカーンがエッチモンドでそう人民を鼓舞したように、チンポとは相棒がいて始めて成り立つのだ。
しかしチンポが完全で無いことは、それはオーガズムの不完全を意味する。
それは、直視するには虚しすぎる、どうしようもない矛盾であった。
相棒は言った。俺なんかを捨てて頭を治療しろと。
しかしその言葉にかまけて亀頭の完治にうつつを抜かしていれば相棒が浮かばれない。
思考は同じところをぐるぐると回り、されど答えは出ず。
宵の闇の中で自慰を繰り返す日々。
決断の時はすぐそこに迫っている。
友人とのおふざけで生まれただけの代物であります。