某所のネタです
柱間は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。柱間には政治がわからぬ。柱間は、里の火影である。酒を飲み、博打で遊んで暮して来た。けれども兄権侵害に対しては、人一倍に敏感であった。きょう未明柱間は里を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のうちはの居住区にやって来た。柱間には父も、母も無い。女房のミトがいる。年齢不詳の、内気に見える妹と三人暮しだ。この妹は、里の或る律気な一忍を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。柱間は、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばるうちはの居住区にやって来たのだ。先ず、その品々を買い集め、それから里の大通りをぶらぶら歩いた。柱間には竹馬の友があった。マダラである。今は此のうちはの居住区で、頭領をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねて行くのが楽しみである。歩いているうちに柱間は、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、居住区全体が、やけに寂しい。のんきな柱間も、だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、二週間まえに此のうちはの居住区に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった筈だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。しばらく歩いて老爺に逢い、こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。柱間は両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「頭領は、人を弟にします。」
「なぜ弟にするのだ。」
「弟心を抱いている、というのですが、誰もそんな、弟心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を弟にしたのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、弟さまのイズナ様を。それから、イズナさまの御子さまを。それから、奥さまを。それから、側近のヒカク様を。」
「おどろいた。マダラは乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、後ろに立たせる事が出来ぬ、というのです。このごろは、部下の心をも、お疑いになり、少しく兄弟が多くいる者には、弟ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば幻術にかけられて、弟にされます。きょうは、六人弟にされました。」
聞いて、柱間は激怒した。「呆れた奴だ。放って置けぬ。」
柱間は、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそマダラの屋敷にはいって行った。たちまち彼は、門の警備員に捕縛された。調べられて、柱間の懐中からは水切り用の石が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。柱間は、マダラの前に引き出された。
「この水切り用の石で何をするつもりであったか。言え!」暴君マダラは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。マダラの顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「うちはの居住区を暴君の手から救うのだ。」と柱間は悪びれずに答えた。
「おまえがか?」マダラは、憫笑した。「仕方の無いやつだ。おまえには、おれの孤独がわからぬ。」
「言うな!」と柱間は、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。マダラは、一族の者の忠誠をさえ疑って居る。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、おれに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私怨のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「おれだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の兄としての地位を守る為か。」こんどは柱間が嘲笑した。「他人を弟にして、何が平和だ。」
「だまれ、千手の者。」マダラは、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。おれには、人の腑の奥底が見え透いてならぬ。おまえだって、いまに、弟になってから、泣いて甘えたって聞かぬぞ。」
「ああ、マダラは悧巧だ。自惚れているがよい。俺は、ちゃんと兄弟になる覚悟で居るのに。兄権乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、柱間は足もとに視線を落し瞬時ためらい、「ただ、私に情をかけたいつもりなら、弟になるまでに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、私は里で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、嗄れた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」柱間は必死で言い張った。「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、このうちはの居住区にマダラという頭領がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を幻術にかけ弟にして下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて頭領は、残虐な気持で、そっと北叟笑んだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの俺を、三日目に弟にしてやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、おれは悲しい顔して、その身代りの俺を幻術弟刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと弟にするぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。兄の立場が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
柱間は口惜しく、地団駄踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、マダラは、深夜、マダラの屋敷に召された。暴君マダラの面前で、佳き友と佳き友は、二週間ぶりで相逢うた。柱間は、友に一切の事情を語った。マダラは無言で首肯き、柱間をひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。マダラは、縄打たれた。柱間は、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
柱間はその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、里へ到着したのは、翌る日の午前、陽は既に高く昇って、里人たちは野に出て仕事をはじめていた。柱間の年齢不詳の妹も、きょうは兄の代りに書類仕事の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、疲労困憊の姿を見つけて驚いた。そうして、うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」柱間は無理に笑おうと努めた。「うちはの居住区に用事を残して来た。またすぐうちはの居住区に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
妹は頬をあからめた。
「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、里の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
柱間は、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのは夜だった。柱間は起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿のマダラは驚き、それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、葡萄の季節まで待ってくれ、と答えた。柱間は、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。婿のマダラも頑強であった。なかなか承諾してくれない。夜明けまで議論をつづけて、やっと、どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた里人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引きたて、だだっ広い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。柱間も、満面に喜色を湛え、しばらくは、マダラとのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、夜に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、外の豪雨を全く気にしなくなった。柱間は、一生このままここにいたい、と思った。この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。ままならぬ事である。柱間は、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。柱間ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、
「おめでとう。俺は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐにうちはの居住区に出かける。大切な用事があるのだ。俺がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事ぞ。おまえも、それは、知っているな。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけぞ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
花嫁は、夢見心地で首肯いた。柱間は、それから花婿の肩をたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と里だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、柱間の弟になったことを誇ってくれ。」
花婿は揉み手して、てれていた。柱間は笑って里人たちにも会釈して、宴席から立ち去り、仮眠室にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。柱間は跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの男に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って弟刑の台に上ってやる。柱間は、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、柱間は、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
俺は、今宵、弟にされる。弟にされる為に走るのだ。身代りのマダラを救う為に走るのだ。マダラの奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、俺は弟にされる。若い時から名誉を守れ。さらば、木ノ葉隠れの里。若い柱間は、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。里を出て、野を横切り、森をくぐり抜け、隣町に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。柱間は額の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。俺には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。まっすぐにマダラの屋敷に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、と持ちまえの呑気さを取り返し、好きな小歌をいい声で歌い出した。ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って湧いた災難、柱間の足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、繋舟は残らず浪に浚われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、海のようになっている。柱間は川岸にうずくまり、男泣きに泣きながら六道仙人に手を挙げて哀願した。「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、マダラの屋敷に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために弟になるのです。」
濁流は、柱間の叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今は柱間も覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。柱間は、ざんぶと流れに飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻きわけ、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、六道仙人も哀れと思ったか、ついに憐愍を垂れてくれた。押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。柱間は馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に滝隠れの角都が躍り出た。
「待て。」
「何をするんぞ。俺は陽の沈まぬうちにマダラの屋敷へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「俺にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これからマダラにくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、滝隠れの命令で、ここで俺を待ち伏せしていたのだな。」
角都たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。柱間はひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、
「気の毒だが正義のためぞ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、柱間は幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、敵の忍を三人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突破して来た柱間よ。真の勇者、柱間よ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、やがて弟にされなければならぬ。おまえは、稀代の不信の人間、まさしくマダラの思う壺だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身萎えて、もはや芋虫ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。俺は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。六道仙人も照覧、俺は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら俺の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども俺は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。俺は、よくよく不幸な男だ。俺は、きっと笑われる。俺の一家も笑われる。俺は友を欺いた。中途で倒れるのは、はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、俺の定った運命なのかも知れない。マダラよ、ゆるしてくれ。お前は、いつでも俺を信じた。俺もお前を、欺かなかった。俺たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は俺を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、マダラ。よくも俺を信じてくれた。それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。マダラ、おれは走ったのだ。お前を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! 俺は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。敵の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。俺だから、出来たのだよ。ああ、この上、俺に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。俺は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。マダラは俺に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、身代りを弟にして、俺を助けてくれると約束した。俺はマダラの卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、俺はマダラの言うままになっている。俺は、おくれて行くだろう。マダラは、ひとり合点して私を笑い、そうして事も無く俺を放免するだろう。そうなったら、俺は、弟になるよりつらい。俺は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ。マダラよ、俺も死ぬぞ。お前と一緒に死なせてくれ。お前だけは俺を信じてくれるにちがい無い。いや、それも俺の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。里には俺の家が在る。里の民も居る。妹夫婦は、まさか俺を里から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を弟にして自分が兄になる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。俺は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々と、何か小さく囁きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるように柱間は身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こうぞ。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。俺を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。俺は、信じられている。俺の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬぞ。俺は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! 柱間。
俺は信頼されている。俺は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢ぞ。悪い夢ぞ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。柱間、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 俺は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、六道仙人よ。俺は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、跳ねとばし、柱間は黒い風のように走った。野原で酒宴の、その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走った。一団の旅人と颯っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、幻術にかかっているよ。」ああ、その男、その男のために俺は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、柱間。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。柱間は、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、うちはの居住区の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。
「ああ、柱間様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰ぞ。」柱間は走りながら尋ねた。
「うちはカガミでございます。貴方のお友達マダラ様の弟子でございます。」その若い忍も、柱間の後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が弟刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬぞ。」柱間は胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。頭領が、さんざんあの方をからかっても、柱間は来る、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。俺は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! うちはカガミ。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」
言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、柱間は走った。柱間の頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、柱間は疾風の如く刑場に突入した。間に合った。
「待て。マダラを弟にしてはならぬ。柱間が帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄れた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに幻術用の柱が高々と立てられ、縄を打たれたマダラは、徐々に釣り上げられてゆく。柱間はそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、
「俺ぞ、刑吏! 弟にされるのは、俺ぞ。柱間ぞ。彼を人質にした俺は、ここにいるぞ!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。マダラの縄は、ほどかれたのである。
「マダラ。」柱間は眼に涙を浮べて言った。「俺を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。俺は、途中で一度、悪い夢を見た。お前が若し俺を殴ってくれなかったら、俺は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
マダラは、すべてを察した様子で首肯き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高く柱間の右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「柱間、おれを殴れ。同じくらい音高くおれの頬を殴れ。おれはこの三日の間、たった一度だけ、ちらとお前を疑った。生れて、はじめてお前を疑った。お前がおれを殴ってくれなければ、おれはお前と抱擁できない。」
柱間は腕に唸りをつけてマダラの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君マダラは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、おれの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、おれをも仲間に入れてくれまいか。どうか、おれの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
「万歳、頭領万歳。」
妹の扉間が、緋のマントを柱間に捧げた。柱間は、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「柱間、お前は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛いお前の妹は、柱間の裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、豪快に笑った。