歩いて少し、大した疲れもなく足を運んだのは雑踏で賑わうファミレス。
何度も何度も、彼女と一緒に勉強して来た舞台。
窓際の先に見えた紫色の髪の毛を視界に入れ、何名なのかを聞きに来た店員さんに『連れが先に来ているので』と申し訳ないが退いてもらい、大衆に喜ばれるこの場で唯一、紅茶を嗜むその女性の前に座った。
鞄を椅子の横に下ろし、ひとつ深呼吸を漏らしてその目を見据える。
「──ごめんなさいね、今日はどこも混んでいたもので、こんなところでお話しをすることになっちゃったけれど......」
「いえ、お気遣いなく。
騒がしくても静かでも、
朝比奈まふゆの母。
娘のシンセサイザーを何の迷いもなく捨て、今回は和久井一也という存在をハエのように叩き落とそうとする存在。
だが、俺のやる事は変わらない。
話して帰る、それだけ。
彼女の声色は変化なく、その口角を上げて世間話が始まる。
それはまふゆの話だとか、ここ最近のマイナスなニュースだとか。
正直に言ってこれらが本題という事はあり得ない。
この世間話は、いわば自分の話を通しやすくするために柔らかい土壌を作るための話題。
提案を通すための道を広げるための巣作りみたいなものだ。
「春先の模擬テストは少し心配だったけれど、最近は結果もいい感じなのよ。
本当に、
「......はは、教えてもらう身としても凄いものだと感じます。
まふゆさんはやりたい事に打ち込める人でもありますからね。」
適当に話題を合わせながら、彼女が言った言葉を反芻した。
『まふゆはいい子だから』
まふゆを消えたいなんてという気持ちから解放しようとした時、しきりに放っていた『いい子』という言葉の出どころは母親。
ここから考えつくのは、これまでまふゆがとって来た行動や思考、そして夢は皆この母親から『いい子』というレッテルを押し付けられた結果のものという事。
最たる例が彼女の夢だと言っていた医者。
「でもいい子だけではないですよね。
この前なんて、学校の帰りに話していたら脇腹をブスッと!
痛いしくすぐったいしでなんなのって思いましたけど、あの子供っぽい所は僕好きですね。」
「......そう、あの子がそんな事。」
一瞬彼女の顔が曇り、上辺だけの笑顔の裏で次の会話を組み立てる。
やはりまふゆは母親の前ではずっと『いい子』ということか。
俺に見せた行動のほとんどは彼女に割れていない、つまるところ押し切る術はある。
と、急にテーブルを囲む雰囲気が変わった。
まふゆの母親が放つ声色がほんの少しだけ低くなり、これからが本題だと言うように心臓が鼓動を早める。
口火を切ったのは母親の方。
「あなたもわかっていると思うのだけれど今まふゆは受験生で、夢を叶えるためにあなたへ勉強を教えている時間もふざけている余裕もないと思うの。
もしあなたがあの子のことを思うなら、
ポケットに手を突っ込み、話を聞きながらストレス発散用の枝豆のおもちゃを握り潰す。
提案というのは信頼の形であり、どちらでも私はその結果を受け入れますという意思表示でもある。
しかし──
目の前の母親が語る提案は、いわば『さっさと消えろ』という類の強要。
まるでマフィアが袋越しに銃を突きつけながら『国外旅行でもどうですか?』と問うように、まふゆもそう願っているという言葉も混ぜてそうしろと言って来たのだ。
なるほど、と少し納得した。
そりゃあ何も分からなくなる。
「......そうですね、まふゆさん本人が願うのならそうするでしょう。」
「理解してもらえて助かるわ、じゃあ──」
その答えに彼女は揚々と食いつく。
だが、勿論それを許すわけがない。
「
貴女はまるで彼女が望んだかのように言いましたけれど、ここに本人がいない以上その意思は不確定でしかない。」
「でもまふゆは言ったわ。
『わかった』って、それは不確定なこと?」
「ええ。
音声に残してますか? 書面に残っていますか?
個人の心の中にある事象であればいくらでも改変がきく、それを僕は確定事項として受け入れる事はできない。
......それとも今すぐまふゆさんに電話しましょうか。
貴女がいないと思えば、彼女は真実の言葉をしゃべりますよ?」
少しの静寂が場を包む。
正直言ってボイスメモとか取られてたら危なかったろうが、どうせこの人のことだから取っていないだろう。
だって17年間、まふゆに言葉を伝えるだけで思い通りになっていたのだから。
しかしこれだけで終わるはずがなく、彼女の劇場、その第二幕が始まる。
演目は、『貴女はどう思うか』だ。
「あなたはどう思うの?
もしあなたと一緒にいることにまふゆがうつつを抜かして受験に失敗したとして、人の人生を壊してしまったことに責任を取れる?」
「取りますよ。」
舐めるな。
わかりやすい脅し程度で諦めるのならば、そもそも俺は彼女と共に歩こうなどと思っていない。
「受験料が大体最大でも十万いかないぐらいでしたよね。
その程度ならかき集めて出しましょう。」
「そういう話ではないのだけれど。」
「......そうですね。
知ってますか? 今この辺で一番有名な病院の院長先生は一回浪人したらしいですよ。
ちょうど父親が同僚で教えてもらったのですが...... 一浪したから人生は壊れるのでしょうか?
もし彼女が受験に失敗したとして、『まふゆはいい子じゃないからいらない』と言うようなら勿論引き取らせていただいて養いますよ。
父親に頼らざるを得なくなるとか、高卒で働かなくちゃとか、障害はありますけどね。」
「......高校生が軽々しく責任を取る、なんて言わない方がいいわ。
まふゆにはいい大学へ行って、夢だった医者になるって言う目標があるの。
それは、あなたのような
「不真面目、ですか?
俺が。」
失笑が溢れる。
おそらく母さんから聞いた情報だけでこちらを見ているのだろう、全くお笑いだ。
もはや外面を取り繕うための『僕』すら仮面から外し、鞄の中からあるものを取り出して差し出す。
それは個人で受けて来た模試の結果であり、笑っちゃうほど上手く行った夢への道筋。
聞いていた話と違うと言うのだろう、表には出さずとも彼女がこちらを見るその目が、想定外ということと結果の良さを示している。
「俺は医者にはなりたくないんです。
どちらかと言うとカウンセラーとか、人の心に寄り添う仕事をしたいと言う夢がある。
あなたがこちらの母から聞いた医者という目標なんて、俺にとっちゃどうでもいいことなんですよ。」
加えて、まふゆは模試でさらにいい結果を取っている。
趣味や部活やらを掛け持ちしながらそれをやっているというのに、俺が多少朝と夕方を一緒にいたところで何が変わるというのか?
彼女の言う俺がまふゆから離れるべき理由なんてのは『母親としてまふゆを操りたいからこじつけた理由』でしかない。
まふゆは誰に言われずとも、自分の実力でやりたいことをやるだろう。
そしてそれは── 医者ではない。
「まふゆさんに聞いたんですよ、春先。
『人を助けたいなんてありきたりな理由じゃない、貴女自身の医者になりたい理由』を。
彼女はなんて言ったと思います?」
「それは......」
「答えれないならそれで。
ステージの演目で言うのなら『嘘の夢』。
『私はみんなに勧められて』
それしか彼女の口から出てこなかったのが真実。
目指していたものは違うのに、そちらに向く事は許されず矯正されてしまう。
誰がそんなハリボテの夢に対して、自分自身のなりたい理由なんて言えるものかよ。
「彼女自身から
それは本当にまふゆさんの意志を汲んでいると言えますか?」
「そうよ、それがまふゆにとって一番いいの。
音楽なんて、あの子の幸せには必要無い。
──あなたも。」
「幸せ。
がんじがらめにされて手にした幸せなんて虚構でしか無い。
......たとえそれを掴んだとして、自立したまふゆさんがあなたと言う母親を失ったらどうなると思います?
何もかも自分で考えることを放棄させられたせいで、何も分からない道に勝手な都合で放り出されるんだ。
貴女の説く幸せはあくまで
これが俺の答え。
俺がまふゆに願うのは、誰にも縛られず自由に自分のしたいことをして、その上で自分の幸せを掴み取ってほしいと言うこと。
幸せになってくれるのならその隣に俺以外がいても構わないし、今みたいに道を外れてしまったのなら俺が全力で朝比奈まふゆの進みたい道へ戻す手伝いをする。
その願いの為だけじゃなく、まふゆがまふゆでいられるあの4人と一緒にいる為に──
この母親が、邪魔で仕方がない。
「......帰らせてもらいます。
あなたとは分かり合えないみたい、帰ってまふゆと話させてもらうわ。
この事は他言無用でお願いします。」
そう語気を強めて立ち上がった彼女を呼び止め、その手から紅茶の代金分のレシートを奪い取る。
そもそもここを指定したのは俺だ、なら俺が払うのが筋だろう。
鞄を持ってすれ違いざま、彼女の耳元で囁いた。
「信じるって言うのは呪いで、貴女はきっとまふゆにそれ「」を使って導いてるんだろう。
でもそれは彼女に必要のない呪いだ。
それに...... 俺は彼女と一緒にいなくちゃいけないから。」
そう言ってシャツを少し浮かせ、見せたのは首筋の噛み跡。
瘡蓋ができてもう少しで治りそうなそれは、人間がつけたものに間違いない。
「だから。
もし、こうして話しても、貴女が彼女から全て奪おうとするのなら。
──俺は貴女の全てを否定する。
これは、まふゆに認められて消えずに済んだ俺が、彼女の鏡として行う覚悟だ。
あんたには絶対に渡さない......!」
「......」
無言で店を出て行くまふゆの母親を見送り、どっと来た疲れに押し付けられるがまま椅子に座る。
俺にできるのはここまで。
ここからもし咲たちの方へ矛先が向いたとして、俺にできる事はない、頑張ってと言うくらいか。
彼女の手段である提案は自分に責任がこない攻撃手段でもあり、同時に提案した側が認めなければ無力化される諸刃の剣でもある。
後は...... まふゆ次第だ。
......お腹が減った。
もののついでだ、期間限定のハンバーグでも食べよう。
「すいませーん、このレモンの清涼ハンバーグを──」
俺は俺自身を認めることができただろうか。
......できたさ、ちっぽけな正義感とエゴでここまでこれたんだから。
「ねぇ、まふゆ?」
靴を履いて玄関を出ようと言う時、後ろからお母さんの声がした。
先日少し話し合って一也のことを聞かれたが、明日が早いと突っぱねたのが昨日の話。
「お母さん信じてるわ。
まふゆはちゃんと、いるものといらないものを選べるって。
まふゆはいい子だもの。」
一瞬戸惑ったが、いつものように笑ってみせる。
扉を開けて答えを返した。
「うん。
私にとって、一也くんは
行ってきます。」
その時、お母さんがどう言う顔をしていたかは分からない。
でも、それよりも優先したいことが私にはあった。
二人とも大好きだけれど、彼の方が好きになった、と言うだけなのだから。
『お母さんは大丈夫?』
「うん。
少し話しただけ。
......趣味も、続けるから。」
「それは良かった。
......ところでさ、ちょっとやりたいことがあるからこう、腕を開いてもらっていい?」
言われるがままに腕を開けば、彼は空いた脇下から腕を通してギュッと密着する。
よくあるハグの形。
3秒くらい経ってからだろうか、彼は頭を上げてこちらに笑顔を向けてきた。
憑き物が落ちた優しい笑顔で、先日まで父親のことで悩んでいたとは思えない。
かわいい。
「ほら、ハグにも色々効果があって!
βエンドルフィンがどうとかオキシトシンが──って、んんっ?!」
その口を奪ってから、開いていたこちらの腕をたたみ力を入れて抱きしめる。
解放したのは何秒後だろう。
一也の顔は真っ赤になって、息も絶え絶え。
「エンドルフィン、出た?」
「──出た出た、出た。
でも急にやるとびっくりするかなー......」
「そう。
じゃあ行こうか。」
「うん、まふゆ。」
これはとある男が笑う為の物語、その外伝。
失った女性と振り回される男が、自分自身を認めることのできたお話。
終わりです。
また会えましたらよろしくお願いしますー。