ヘスティアの灯火   作:ダンブルドア同好会会長

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長め


第二十一話 光があるなら影もある

 

夏のイギリスの昼は長い。夜と呼ばれる時刻になっても日が照っていることがままある。

しかし暑さ地獄になるのかと言うとそうでも無く、湿度が低いため比較的過ごしやすい。

そんなイギリスの、ウィンダーミア湖の畔に付け根を構える山を少しだけ登ったところに、ネランディアの住処はあった。

家の周りには名も知れぬ野花が咲き、セストラルが翼を伸ばしてのんびりと歩いている。

日が上り、下がろうとしたちょうどその時。

ギルデロイ・ロックハートは呻き声を上げながらベッドから身体を起こした。

 

「ここは……」

 

薬草の香りが充満する空気に、ドライフラワーが掛けられた木製の壁。部屋の隅には藁の入った木箱が積まれている。

眠気に惑わされ慣れぬ部屋に一瞬困惑すると、ギルデロイは電流の如く痛みの走った右腕を抑えた。

ダメだ、まだ痛い……手をつくんじゃなかった。ベッドの縁から掴んでいた手を離す。起きようという気持ちが一気に萎え、ギルデロイが目を瞑りながらベッドに臥せると、寝室のドアが開いた。

 

「起きたか、体調は?」

「……まあまあですかね。腕はまだ痛いです」

「少し治りが遅いな……君は思ったより疲れていたらしい。一日の半分は眠っていた」

 

ご両親が亡くなったなら疲れもする、とネランディアは言った。

ベッド脇の窓からは空に輝く太陽が、木々の葉の隙間から見える。爽やかに扉から顔を覗かせた彼を、ギルデロイは薄く目を開けて見た。

 

…………顔の良さは、自分と互角だろう。きっと互角だ。互角のはず。負けてない。

 

神聖な魔法生物の一翼を担うアールヴに対して対抗心剥き出しのギルデロイ・ロックハート。

そんなみみっちいことを彼が考えているとも知らず、少し黙る彼にネランディアは薄く微笑んだ。

 

「右腕の傷は呪いの類ではない。呪いであれば治癒に数週間はかかる所だったが、明日には元の調子を取り戻せる」

「明日ですか?」

「不満か?」

 

ギルデロイががばりと起き上がった。金色の前髪がくるりと跳ねた。

少し眉根を寄せたネランディアは窓の外を見るように顎でしゃくる。

 

「既に日は傾き始めている。今から出たら夜に触れるだろう。死喰い人がお前に襲撃する絶好のタイミングだ」

「でも、私は急がねばならないのです」

 

何故だ?とネランディアは問うた。顔は真剣なものになり、入口の壁に寄りかかる。彼の背に挟まれた弓がガタリと音をたてた。

……ヘスティアを救う為だなんて、言える訳が無い。もしも彼が闇の帝王の手先だったら?

ギルデロイは、親身なネランディアに沈黙を貫いた。唇を噛むギルデロイに、ネランディアは組んでいた腕を解く。傾聴の姿勢を崩したようだった。ネランディアのさらりとした髪が胸元に垂れる。眉をぴくりと上げる。

 

「……まあいい。この時勢、人を疑うのは良い事だ」

 

ギルデロイは弾かれるように俯いていた顔を上げた。そこまでは……いや、まあ、そうなんだが、助けて貰った癖に、と思われたくない。

扉に手をかけたネランディアの背を見つめていると、彼は振り向いた。少しばかり悲しそうな顔をしていた。

 

「君のような幼い子供まで命を狙われているとはな」

 

既に成人済みであるギルデロイも、彼にとっては幼子同然らしい。

言葉が見つからず気まずげに視線を下げるギルデロイに、ネランディアはふっと口角を上げた。

 

「今から準備をする。テーブルに置いた食事を食べたら直ぐに表に出てこい」

 

深くは追及しないらしい。

ニュートの知り合いだって言わなかったら、助けなかった癖に。ギルデロイは深いため息をつきながらベッドに倒れると、数秒も経たずに起き上がった。

 

いや、感謝を述べるのが先だろう。

 

自分がこんな卑屈な考えを持っているだなんて。

高潔で文武両道の最先端の、誰からも慕われるギルデロイ・ロックハートだぞ?ホグワーツの中心人物で、数々の記録を打ち立てた………そこまで考えて、ギルデロイは首を振った。ナルシズムは加速するからいけない。自分がカッコよすぎるのが悪い。

 

……桜にドラゴンの琴線、自制心と精神力の高い所有者のみが扱うことが出来る……

 

酷く昔に呟いていたヘスティアの声が、頭の中で反芻される。

ギルデロイは項を摩った。

どうやら自分は、思っていたより嫌な人間らしい。

生まれてこの方十八年、ギルデロイ・ロックハートの初めての発見であった。

 

 

◇◇◇◇

 

 

「先程は礼も言えず、すみませんでしたね」

 

セストラルに鞍をつけていたネランディアが振り返った。右腕を抑えながらこちらに歩いてくるギルデロイを見ると、手に持っていたらしいマントを投げる。受け取ったギルデロイがそれを広げると、漆黒とも言うべき生地が広がっていた。

 

「朝のうちに雲の上を行くつもりだったが……今からは凍えるほど寒くなるからな。雲の下を通るしかない。ここら辺はまだ死喰い人が彷徨いている可能性があるから、南の方角に山を登ってから飛べ」

「南の方角……」

 

ギルデロイのコートの留め金を持つ手が止まった。

ネランディアは鞍を付け終わったのか、ギルデロイの方に振り向く。

南の方角とは、元来た道であった。ギルデロイの脳裏に、死の呪文に撃たれて死にゆく母親の姿が過ぎった。

 

「奴らはお前が北に進んでいると考えている。が、元いた家には戻るなよ。罠があるかもしれない。まっすぐ山頂に向かえ」

 

ひょい、とまるで子供を高い高いする様に、ネランディアはギルデロイをセストラルの上に乗せた。黒のコートのフードを被ると、まるで異邦を放浪する旅人のようだ。

セストラルは人の胸あたりまで脚がある。ギルデロイは急に高くなった視界に目を瞬かせた。

 

「似合ってるんじゃないか?」

 

少し意地悪く笑ったネランディアがギルデロイに手網を持たせる。

 

「いいか、日が落ちて、辺りが闇に包まれるまで待つんだ。空へ飛び立つ時が一番気が付かれやすいからな。この山を避けて、遠回りしながら北に飛べば夜明けには着く。着いたらセストラルを離せ。自分の家の位置は覚えている筈だ」

 

昨日彼らが出会った位置まで見送るらしく、ネランディアがセストラルの首を撫でながら彼らを先導していた。一方ギルデロイは、骨ばったセストラルに慣れるべく足を動かしながら、自分の体を落ち着ける位置を探っている。

遂に、あの場所まで着いた。

 

「ここでお別れだ」

「……ありがとうネランディア、何から何まで」

「礼には及ばん。ニュートに会ったら、借りは返したと伝えておいてくれ」

「是非そうする」

 

ギルデロイはネランディアに向き直った。

セストラルガぶるりと鼻を鳴らす。日の光を浴びたネランディアは、やはり眩しいほど美しかった。

 

「……もし学校を卒業したら、また来てもいい?」

 

気が付いたら口がそう動いていた。

ネランディアは目を見開くと、少し考え、首を縦に振った。

 

「しかし、その頃には私は故郷に帰っているかもしれん」

「故郷の場所は?」

「スウェーデンの何処かだ。あとは自分で探せ」

 

お前なら探し出せる、とネランディアは言った。

世界の何処かの森の奥深くに住むというアールヴは、未だあまり存在が解明されていない。ケンタウロスのように魔法使いを嫌っている訳では無いが、そこには確かな壁があった。

 

ギルデロイはセストラルを進める。ネランディアは立ち止まっている。

彼がもう着いてこないことを感じて、少し恐ろしくなり、手網を強く握った。ここからは死喰い人がいつ襲ってきてもおかしくない。

自分が命を守るしかない。

 

少しばかり足を進め、ギルデロイはふと後ろを振り返った。

不思議なことに、もう誰の姿も見えない。ギルデロイは一人になってしまった。

 

「聞き忘れてたことがあった」

 

しかし、ギルデロイは知っている。

見えないだけで、存在するものがあることを知っている。

 

「この子の名前は?」

 

その時、不思議な言葉が耳に聞こえた。

木が囁いたような、緑葉が喋ったような。以前に聞いた言葉でもあった。

勿論ギルデロイが意味を知るはずがない。少し緊張が解けて、彼は笑った。

 

「いつか意味を聞きに行く」

 

ギルデロイはセストラルの首を叩いた。闇のような蹄が青々とした草を踏みしめる。小ぶりな名も知れぬ白の野花が、木の葉の隙間から差す光を目掛けて咲き誇る。

何故だかギルデロイは、木々が笑っているような気がした。

 

 

◇◇◇◇

 

 

ネランディアと別れて数十分、ギルデロイが山の中腹まで来た頃の事。

地元の人間にはアランドゥールと呼ばれるその山の際に生えた、左から三つ目の巨木の天辺に陽の光が隠れ始めたちょうどその時、ギルデロイは大きく手を上げて伸びをしていた。

セストラルの背は骨ばっており、それに沿うように鞍も彎曲している。乗り心地が良いとはお世辞にも言えなかったが、ギルデロイに贅沢を言う余裕はなかった。腰がゴキゴキと鳴る。

 

「……ヘスティア、どうしてるかなあ」

 

ヘスティアの置かれている状況を見れば酷くマイペースな一言だったが、彼女が敵に囚われているという事実は、ギルデロイにとってあまりにも現実味が無かった。友人が拷問を受けている姿が想像出来ないし、普通誰しもがそうだ。ネズミが一匹、『捕まった、逃げろ』とだけ言っただけで、現実を直視できるわけも無い。

昨日親が殺されていることも、ヘスティアが捕まっていることも、何もかもが非現実的だ。

 

「……死んでない、よなぁ」

 

ギルデロイがそう呟いても、帰ってくるのは穏やかな小鳥の声だけだった。

こんな平和なところによく死喰い人が来たな。浄化されて無くなっちゃうだろ。

ギルデロイはそんなことを考えながら、ふと自分の胸ポケットに、固い感触があることに気が付いた。

高さ三センチ程の円柱……ヘスティアに借りた折りたたみ望遠鏡だ。どうやら前使ってから入れっぱなしにしていたらしい。丁寧に伸ばしてみると、分かる限りで六十センチ弱にもなる。ギルデロイはそれを少しばかり見たあと、少し先の方に見晴らしのいい崖がある事に気がついた。

 

……あそこなら、自分がいた家を見ることが出来るかもしれない。

 

近付くなと言われていたが、遠くが見る分には良いだろう。

父も母も、今はギルデロイの傍にいない。何故だか、まだ彼らが生きているような気がした。

両親が死に、ギルデロイは―――いくら成人しているとはいえ、まだ学生で。孤児となったのだ。

死に際だって酷くあやふやなもので、ギルデロイは後ろ髪を引かれていた。

 

夕焼けが空を侵す。雲の影が赤色に煌めき、森を焼いていた。

見晴らしのいい崖とは言っても、それはつまり遠くからでも見られやすいということでもあって。ギルデロイは岩陰に隠れて、望遠鏡を目にあてた。

少し視線をぐるぐる変えていると、家がやっと視界に入った。

 

家は無惨にもバラバラにされていた。

水分を失い炭のように黒くなった家の柱があたりに散らばり、オレンジ色の屋根瓦は原型を留めているものの方が少なかった。

ニュート・スキャマンダーは木製の家を好んでいた。暖かみがあって、とても居心地が良い。よく、燃えただろう。

 

まるでマグルの映画のようだ。

家の周りの地面は黒く煤で覆われ、花壇は死んでいる。

ギルデロイは取り憑かれたようにそれを見ていた。

 

何分経っただろうか。ふと見ると、瓦礫の下に、何かがあった。

ギルデロイは限界まで望遠鏡を伸ばす。不思議なことに、望遠鏡は何処までも伸びていった。

柱に埋もれた、煤けた手。少し角張った大きな手。

 

その手は――――僅かに動いたように見えた。

 

その手を見た瞬間、ギルデロイはセストラルの手綱を引き、元来た道を走らせていた。

ネランディアの忠告なんてどうでもよかった。

ここで引き返さないと、永遠に後悔する気がした。

 

 

◇◇◇◇

 

 

……戻ってきて、しまった。

 

息を荒く吐きながら、ギルデロイは丘を下ったところに倒れる、目の前の家を眺めた。ここまで走ったのはセストラルの筈なのに、手綱を握っている間満足に息をついていなかったからかギルデロイは額に大粒の汗をかいている。

 

昨日、恐怖に喘ぎながら隠れていた低木の隣に、ギルデロイは降り立った。

震える自分、狂ったような雄叫び、平和な昼を穢すもの達。ギルデロイの脳裏に、鮮明に記憶が流れた。

セストラルの首に手を当てながら、ギルデロイは進む。

 

丘を下りる途中に、母親の遺体があった。

自慢の金髪を振り乱し、ギルデロイにそっくりの魅力的な瞳は、恐怖に見開かれている。花柄の薄いワンピースからは生々しい白んだ脚が覗き、靴の片方は脱げていた。関節を変な角度に曲げながら死んでいた。埋葬もされていなかった。凍える晩を、この寒空の下、一人で、この地面に横たえられて。

ギルデロイの心臓が強く強く握り潰されたような気がした。

人間としての尊厳を奪われた母親を目の当たりにして、怒りで前が見えなかった。

 

愚かだった自分を、見返りなく抱きしめてくれた母親。

何も出来なかった自分を、まるで世界一の宝物だと育ててくれた母親。

見栄ばかり張る自分に、誰にも負けない自信をつけてくれた母親。

 

気が付けば、彼の瞳からは涙が溢れていた。強く握られた右手の握り拳に呼応するように、肩に付けられた傷の血管がドクドクと、はち切れんばかりに波打っている。

ギルデロイは強く地面を踏みしめた。

母親の方はもう見なかった。もう一度、少しでも見てしまったら、正気を保てる自信がなかった。

 

必ず帰ってくる。

自らの手で、安らかに土に眠れるように。

 

そう心に重く決めて、ギルデロイは父親の元に急いだ。

 

 

ギルデロイは、父親の手が見えていたはずの場所に駆け寄った。

瓦礫を退かすと、父親の腕が見えた。力がだらりと抜けた腕だ。涙がギルデロイの頬を濡らしている。口元を震わせながら、ギルデロイは父親を引き摺り出した。ギルデロイより体重が重かったはずの父の身体は、酷く軽いように感じた。幼い頃見上げていた身体は、いつの間にか見下ろせるようになってしまった。

涙を流しながらギルデロイは父親を引き摺った。力が入り切らず、不格好に引き摺った。

まだ残っていた、汚れたクリーム色の壁に父を寄りかからせる。脈をとってみると、まだ弱々しくはあるが生きている。

 

「父さん……父さん」

 

ギルデロイは父親の頬を弱く叩いた。肌がこれ以上ないほど冷たい。寧ろ、生きているのが不思議なぐらいだった。

縋るようにギルデロイは何度も名前を呼んだ。

 

すると、父は首をゆっくりともたげた。

ギルデロイが安堵に息を吸うと、息を止めた。期待に心臓が強く鳴っている。

父が目を開いた。灰色の目だ。

 

本来ならば白いはずの結膜が、灰色に変色している。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ギルデロイ」

 

 

 

 

 

父親の顎が、がこりと開いた。口の中から、黒い蛇が顔を出す。獲物を見つめる目だった。

黒い肌で覆われた大蛇が、父親の頬に触れていたギルデロイの腕に巻きついた。

 

 

その瞬間、ギルデロイの背にとてつもない悪寒が走った。

凍りついたように身体が動かない。息が荒くなる。

大蛇は、太いその身体をうねらせて、ギルデロイの首に巻き付き始めた。

ギルデロイの視界は朧気になり、何も聞こえない。

ギルデロイの首と腕が巻き付かれているのに、まだ大蛇の長さには足りないようだ。父親の口からはまだ鱗の覆った大紐のような身体が滑り出ていた。

 

どこからか、恐ろしい声が聞こえる。

蛇がシューシューと囁く声じゃない。

 

ギルデロイは何も聞こえなくなった。何も分からない。

自分は、どうなっているんだ。聴覚も視覚も機能しなくなっていった。

 

死を待つのみなのか。

 

ギルデロイの顔は青くなり始めた。もっときつく、蛇に締められる。

ギルデロイは身体を仰け反った。右腕で懸命に藻掻く。

 

 

 

―――その時だった。

 

セストラルの嘶きが聞こえた瞬間、ギルデロイの息は復活した。

ゴホゴホと息を吸い込む。気が付けば目の前の父の口からも蛇は抜き出されたようで、父は血を吐き出している。ぜいぜいと痛みに喘いでいた。

 

どうやらセストラルが大蛇を無理やり剥がしたらしい。まさかの命の恩人だ。

少し離れた場所で、あの蛇が身体をうねらせている。また襲われないうちにと、ギルデロイは呼吸を整え父親の顔を見た。

灰色がかっていた目は元の白を取り戻している。口の端から血を垂れ流すこの弱々しい男こそ、ギルデロイの父だ。

 

「父さん……」

 

ギルデロイはもう一度彼を呼んだ。

定まらぬ焦点に惑いながら、ギルデロイの父は口を開いた。

 

「ギルデロイ……生きていて、良かった……」

 

ギルデロイの目から涙が流れた。父親が、息を吹き返したのだ。

 

しかし今は一息つける時間はない。大蛇が去ったとはいえ、ギルデロイの父の身体はどんどんと冷たくなりつつある。ギルデロイは自分の羽織っていたマントで父を包み、暖かくなる魔法をかけた。

 

ギルデロイは蛇を見た。

 

セストラルが今蹴ったりしているが、蛇はもんどりを打つだけで傷一つついていない。それに、ギルデロイが先程感じたあの恐ろしい気配。

嫌な予感がした。この場から早く去った方がいい。一刻も早く。

 

「セストラル!もう行くぞ!」

 

ぶるりと鼻を鳴らしてセストラルがやってくる。かなり怒っているようで、蛇を睨み付けていた。

ギルデロイは急いで父を担ぎあげ跨らせると、自身もその後ろに跨る。不思議と先程より身体に力が漲っていた。

 

「おい!いたぞ!!!」

 

後ろの方から、死喰い人の声がした。

ギルデロイは目の端に残る涙を拭うと、後ろを振り返る。

先程ギルデロイがこの家を眺めていた場所から、三人の死喰い人が丘を下ってきていた。

母親の姿が見える。横たえられた遺体が見える。

 

ギルデロイはめいいっぱいセストラルの腹を蹴った。

セストラルが嘶き、翼が広がる。セストラルは駆け始めた。

どんどん加速する脚に、地面は置いていかれる。広げられた翼が羽ばたき、風を受けていた。ギルデロイの母親譲りの青の瞳が、前を鋭く睨んでいる。手綱をしっかり握った手は、父親と同じく角張っている。

 

雄大な茜色の空が、闇に覆われていく。ギルデロイはもう闇が怖くなかった。夜空に、散りばめられた宝石のような星々が瞬いている。

どんな場所にも希望がある。その希望の掴み方を、ギルデロイは知ったのだ。

 

セストラルが飛び立った。

燃えるような焔を宿した夕日の中に、黒い影が飲み込まれていく。セストラルの滑らかで黒黒しい肌が光を反射して、エメラルド色に艶めいていた。

……死喰い人は、追ってこない。飛ぶ術がないからだ。

 

ギルデロイが前を睨んでいると、太陽の中に、黒い点が見えた。物凄い速さでこちらに向かって来ている。

ギルデロイは“それ”が何か、分かったような気がした。

ギルデロイは魔法で手綱を長くし、出来る限り父に巻き付け、落ちないようにした。

黒い点が、すぐそこまで迫っている。

 

「闇の帝王殿のお出ましじゃないか」

 

ギルデロイは少しばかり笑った。自分の置かれている状況が、一か月前なら想像できないほどのものだったからだ。巻き込まれた事態の重さを知る。ヘスティアの顔が脳裏に過った。

ギルデロイはそれでも前を向く。恐ろしい蛇の顔が見えるほどになっても、恐怖に背を向けなかった。

 

彼は、昨日までのギルデロイ・ロックハートでは無い。

ギルデロイは、自信に満ちた目で奴をまっすぐ睨む。かの闇の帝王は薄ら寒い何かを覚えた。この前、自身を射抜いた瞳に似ていた。

ギルデロイの美しい金髪が風に揺れる。

 

「残念だったな、ヴォルデモート。どうやら君は私を捕えることが出来ないらしい」

 

いつかのコンパートメントで友人に武勇伝を嘯く時のように、ギルデロイは自信満々にそう言った。頬は笑んで、目には光が宿っている。

一つその時と違ったことは―――自信に確かな裏付けがあったこと、だろうか。

 

「レイブンクローのシーカーは、飛ぶことなら誰にも負けない」

 

放たれた緑の光線を避け、ギルデロイは風に逆らうように急降下を始めた。

 

 

 

◇◇◇◇

 

 

 

「ヘスティア、ご飯だぞ。今日はチキンの……ヘスティア?」

 

 

蛾がランプの周りを、パタパタと羽ばたいている。……酷く、耳障りだ。

 

「ヘスティア、大丈夫か?」

 

うるさい。うるさい。うるさい。

 

老婆のような手をした女は、震える手でシチューの入った皿を受け取った。俯いた顔は見えない。長い緊縛の生活で固まってしまった腰は、もうほとんど動かなかった。

今日の拷問は辛かった。ベラトリックスが怒りをぶつけてきたからだ。ギルデロイは逃げおおせた。良かった。良かった。良かった。

シチューを持つ手の爪は、ひとつ残らず剥がされている。

 

なんで私、秘密の守り人なんかしちゃったんだろう。早く秘密を喋りたい。

ギルデロイが死んでくれたら―――いや、違う。ギルデロイは生きていて欲しい。でも、死んでくれていたら、私は秘密を喋ることが出来たのに。

足を動かすと、不意につま先に力が入った。左足の爪があった場所が、血で滲む。

 

女は悲鳴をあげて皿を取り落とした。

汚れた床に、暖かかった白いシチューが広がる。

もう、食べられなくなってしまった。

 

「おい、ヘスティア!!!」

 

焦ったようなアントンの声が聞こえる。

そうだ、私は、ヘスティアだ――――……アントンを安心させなければ。力強い声色で、安心させて、逃げる道を探さなくちゃ。

 

気が付かぬうちに、女の頬には涙が伝っていた。

 

味方を、売ろうとしていた?

 

こんな自分、誰も助けてくれない。

涙がシチューの上に零れ落ちた。

 

男が汚れるのも構わず、大丈夫だと呟きながら、女を抱きしめた。

女の顔からはとめどなく涙が溢れている。男の目からも溢れている。

女の青色の瞳から、光が消えていく。

 

蛾がランプの中に飛び込んで行った。蝋燭の火が燃え移り、やがて動かなくなる。

彼らは自らの本能に殉死したのだ。それがこの世の摂理であり、自然だ。

 

 

 

 

では、彼女は?

 

正義に殉死出来る人間が、この世にどれほどいる?

 

 

 




彼女の心には、もうダンブルドアが見えない。
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