幾重にも重なる無機質な壁面と冷淡な蛍光灯の光に晒された密閉空間。
ざらついたノイズを帯びた記録の向こう側で、“彼”は数年前に日本社会を震撼させたあの大事件。
『仮想の牢獄』に関する非情な記録が淡々と紡がれていた本に目を通していた。
「最終的に、四千人もの人々が犠牲となり────」
機械的な響きの語りに合わせて、監視カメラの焦点が観察室の内部へと絞られていく。
仕切られた頑丈な防護ガラスの向こう側、廃墟に近い一室の片隅に置かれた質素な椅子に腰掛け、“一人の男”が読書に耽っていた。
白衣を羽織り、自らの手で生み出したものの記録を静かに見つめるその背中には、かつて数千の命を奪い去った者の“師”としての動揺も窺えない。ただ、自らが構築した理想の世界を見届ける者特有の、計り知れないほどの静謐さだけがその場を支配していた。
手前側の観察室に立つ眼鏡を掛けた老練な男の強張った表情が、資料を抱えた腕の緊張と共に鮮明に映し出される。
その眼差しに宿るのは、かつての『教え子』に対する想像も絶するような憎悪なのか、あるいは取り返しのつかない悲劇への激しい後悔なのか。
「首謀者である茅場晶彦の死で、事件はその幕を閉じた··········」
男は不意に、目の前にある『装置』が正常に稼働しているかを確かめるために顔を上げた。
ひっそりと静まり返った薄暗い室内の中央に、威圧的な存在感を放つ巨大な情報処理機器が鎮座していた。
かつて数千の命を電脳の迷宮へと呑み込み、阿鼻叫喚の惨劇を現実に刻みつけた旧型メインフレーム。その外殻の中央には、拭い去れぬ狂気の刻印として『SAO』の三文字が冷たく刻まれている。
「生き残ったプレイヤー達は“SAO帰還者”と呼ばれ────」
部屋の沈黙を切り裂くように、眠りから呼び覚まされた機械の底から、低く鈍い駆動音が漏れ出し始めた。
ブゥン。
規則的な唸りと共に、巨大な黒いサーバーラックの両側面を走る縦長のスリットから、眩いばかりの青の燐光が走る。休眠状態にあった電子回路へ高圧の電流が一気に駆け巡り、幾重にも重なるデータストレージが目覚めの息吹をあげていく。
ブゥン。
床を微かに震わせる重低音は、まるで封印されていた災厄の怪物が、再び暗がりの中で拍動を取り戻したかのようであった。
「今は現実世界で··········普通の生活を取り戻している」
世間が語るその言葉は、過酷な牢獄から生還を果たした人々が穏やかな日常へと戻っていったという、ハッピーエンドのような平穏を謳っていた。
だが。
その欺瞞に満ちた社会の片隅で、死の記憶を宿した漆黒のサーバーは、何者かの手によって再び冷酷な光を放ち、新たな企みの胎動を刻み始めている。
そう。
今、始まろうとしていた。
<><><><><>
眼下に広がるのは、西新宿の空を切り裂くように屹立する超高層ビル群の威容であった。
冷たい夜風が吹き抜ける展望デッキの真上、無数の窓明かりを規則正しく灯した東京都庁の巨大な双塔が、天を衝く巨大な墓標のように聳え立っている。
行き交う車の帯が放つ赤い光の尾が、巨大都市の動脈のように果てしなく流動を続ける中、人気のない手すりに身を預けて街を見下ろす“一人の少年”の影があった。
『あーあ』
吐き出された乾いた嘆息と共に、“少女”は手元に抱えた小さな硝子容器、色とりどりの菓子を詰め込むための円筒形のポットを所在なさげに弄んでいた。
金属製の蓋はとうに外され、開口部から差し入れられた指なしグローブ越しの細い指先が、何一つ残されていない容器の底を空虚になぞる。
カチャ、カチャと。
指先の綺麗な爪が底を叩き、小気味よくも寂寥とした反響が夜の街に小さく零れ落ちていたが、欲するものが満たされる気配は微塵もない。弄ぶ行為そのものに飽きが生じたのか、あるいは期待を裏切られた幼い落胆故か、ふとした気の緩みによって、その容器は少女の華奢な掌から滑り落ちた。
重力に従って硬い地面へと衝突した容器は、カランという音を響かせるだけで割れもせず、そのまま緩やかな軌道を描いて足元を転がっていく。足元を離れていくその愛らしい器へ視線を追う素振りすら見せず、白と黒を基調とした豪華な舞台衣装に身を包む少女は、ただ不服そうに形の良い唇を小さく尖らせていた。
その赤い瞳には、晴れ舞台を唐突に奪われた幼子のような未練が色濃く残されている。
見下ろす西新宿の街並みは幾千の灯火を連ねて無機質な光の海を形成していたが、彼女が求めているのはそうした静止した景観の壮麗さではない。己の旋律に熱狂し、喝采を叫び、熱狂の渦の中で身を委ねていた無数の群衆の気配そのものであった。
名残惜しそうに身を捩り、退屈そうに胸元で手を組んだ少女は、夜の闇を震わせるようにして、儚い不満をこぼす。
『もっと歌いたかったなぁ··········』
少女のその言葉は機械的で、だがそれは間違いなく華やかな祝祭の余熱を惜しむ純粋無垢な祈りそのものであった。
そんな彼女の我儘を、手すりに身を預け、夜風に髪を靡かせながら直立していた“青年”は笑って受け止めると、ゆっくりとした挙動で振り返る。
手すりから片手を離し、視線を向けた青年の顔には、日常の荒んだ生活の中で張り詰めている刺々しい陰鬱さは微塵も窺えない。
むしろ。
心の底を蝕む暗い感情を押し潰すかのように、慈しみと歓喜を秘めた笑みが口元に浮かんでいた。
「歌えるさ··········明日も、明後日も」
言葉だけではない。
確信を含んだその声には、単なる慰めや方便を遥かに超えた、揺るぎない約束の響きが宿っていた。
『ほんと!?』
青年の言葉が耳に届いた瞬間、少女の表情を曇らせていた憂鬱さは消え去り、パァッと満開の花が咲き誇るような無邪気な輝きがその顔全体を満たしていく。
跳ね上がるようにして身を乗り出した彼女の姿は、生身の血肉を宿した人間のそれと何ら変わらぬ瑞々しさを放っていた。
だが。
どれほど生命の躍動を精巧に模倣していようとも、青年の瞳に映るその愛らしい姿は、耳に固定された最新鋭の携帯端末である“オーグマー”が、微細な光の粒子を収束させて映し出す電子の幻影に過ぎない。
現実の空気を震わせるこの声も、触れ合えば温もりを伝える皮膚の組織も、この世界の上には存在していなかった。
しかし。
少女が浮かべた無垢な歓喜の光を、青年は記憶に刻みつけるように見つめ続ける。
その瞳の奥に揺らめいていたのは、少女が抱く純真さとは対照的な、果てしない執念であった。
かつて、あの過酷な仮想空間の牢獄の世界で己の無力さに打ちひしがれ、恐怖に支配されて立ち竦むことしかできなかった過去の自分に対する激しい後悔と無念。
そして何より。
青年は、誰にも聞かれることのない確信を静かに心の中で呟く。
(ああ·······だって)
青年の耳に付けられた無機質な機械の外殻が蒼白の燐光を細かく明滅させていた。
瞳の奥へと直接信号を送り続けるその小型端末と歩調を合わせるように、青年の胸の奥で今尚蝕み続ける怨嗟の焔が、冷ややかな殺意の刃へと形を変えていく。
全ては奪い去られた少女の魂をこの地に再び繋ぎ止め、散っていった彼女の微笑みを永久のものとするための計画。
社会が謳う偽りの平和を覆し、あの悪夢から生還した者達から等しく『欠片』を奪うための舞台の幕が、今まさに上がろうとしていた。
青年は拳を握りしめ、眼前に広がる摩天楼の巨影を見下ろしながら誓う。
(僕達の復讐は───まだ始まったばかりだからね)
<><><><><>
再起動を果たした漆黒の情報処理機器。
その莫大な電子の海、何層ものプロトコルに隔てられた隔離区画の最奥に、崩壊を免れた領域が取り残されていた。
かつて、何人ものプレイヤー達がそこを目指し、しかし到達すること叶わぬまま歴史の彼方へと葬り去られた場所。
浮遊城アインクラッド───第一◯◯層。
天を覆うのは、現実の空では決して見ることのできない、黒と碧が不気味に入り混じった仮想の黄昏であった。見渡す限りの鉄と石が敷き詰められた広大な回廊の先、神殿の如き威容を誇る玉座の間には、本来あるはずの支配者の姿はない。
だが。
その静寂の中に、異質な存在感を放つ“影”が一つ、悠然と佇んでいた。
床に届くほどの長い銀髪が、実体のない仮想の風を孕んで滑らかに靡く。
黒の革衣を纏い、長身を誇るその男は、かつて命を賭けて攻略しなくてはならない世界の終着点に設えられた最上級の玉座に、深く腰を下ろしていた。
男の周囲を取り巻く大気には、無数の粒子が渦を巻いて漂っている。
それはサーバーの起動に伴って生じた単なるエラーではない。
以前からこの男が己の精神の断片を世界中のネットワークに放ち、散乱させていた『欠片』の数々であった。
電脳の海を漂流する微細な端末、海底ケーブルを行き交う膨大な信号、そして今まさに大都会の空を飛び交う拡張現実の電波。
それらの現実世界の光景が、光の奔流となって男の意識へと次々に流し込まれる。
男の薄い唇に、酷く冷酷な嗤いが刻まれる。
『悲しみ·······怒り·······罪悪感·······後悔』
電子が脈のような働きをし、そしてそこから伝わってくるのは、現実の東京で繰り広げられている小さき復讐劇の始まりであった。
命を落とした少女の姿を『電脳の歌姫』として祭り上げ、かつての生還者達から『記憶の欠片』を吸い上げようと奔走する哀れな研究者と、憎悪に瞳を濁らせた青年の愚かな足掻き。
死を恐れ、結果失われた温もりを仮想の偶像に求めて泣き叫ぶその執念は、男にとっては何とも滑稽で、同時に極めて都合のよい舞台装置に過ぎなかった。
『悲しむことはない』
あの人工知能の少女が、人々の記憶を糧として実体のような存在感を獲得しつつあるのならば。
星の記憶を抱き、肉体を失いながらも精神の核を保ち続けてきた自分が、このネットワークを利用して新たな器を作り出すことなど造作もない。
『もはや世界は一つではない。運命の拘束を逃れた世界が、新たな時を刻んでいる。この世界もまた·······“リユニオン”する』
男が静かに指先を翻すと、玉座の周囲を浮遊していた無数の電子の断片が、鋭利な模様を描いて結合を始めた。
旧型の規格で固定されていたアインクラッドの空間構造が、男の意志に呼応して歪みを生じさせていく。
それは既存のプログラムに対する侵食であり、閉鎖されていたはずの迷宮から現実世界という名の新たな大地へと手を伸ばす侵略の合図であった。
男の胸裏に過ぎるのは、かつて己を拒んだ星の残滓と、今もなおこの世界に紛れ込んでいる忌まわしき因縁の気配。
東京の街で、偽りの平和に身を委ねる者達。
復讐の焔を灯し、仮初めの神を気取る矮小な人間共。
彼らが血眼になって集めようとしている記憶の奔流すら、いずれは己が君臨するための糧として飲み干してしまえばいい。
男は玉座から緩やかに立ち上がると、その猫のように縦長の瞳で前を見据える。
『手を貸そう·······』
その銀髪の隙間から覗く瞳には、感情の温もりなど欠片も宿ってはいない。
ただ。
全ての命をあるべき場所へ還し、世界を己の支配の下にしようとする、果てなき邪悪な意志が宿っている。
電脳の牢獄と現実の境界が。
今まさに、音を立てて崩れ始めていた。
<><><><><>
東京都千代田区、秋葉原。
世界の先端技術が齎す熱量と、ゲームへの欲望が交錯するこの巨大な繁華街の中心部に暗い夜空を鋭利に切り裂くようにして、秋葉原の巨大な街並みが聳え立っていた。ビルの壁に規則正しく配置された窓明かりは夜の空気を優しく照らし出し、人工地盤で構築された広大な広場には、陽が落ちてなお衰えを知らない群衆の喧騒が不気味なほど渦巻いている。
大通りを行き交う無数の車両が放つ光の尾を追いかけるように、一つのバイクが低く太い排気音を響かせながら走る。
ブロロロロロ、と。
夜の空気を切り裂いて滑り込んできたのは、鉄の塊めいた重厚さを誇る大型二輪車に乗った二人組であった。
街灯の光をその滑らかな車体に照り返しながら、低く安定した制動音と共に停止する。その愛車のシートに深く腰掛け、全身を黒一色の装束で包んだ少年の和人は、両足でしっかりとアスファルトの地面を踏みしめると、エンジンを静かに停止させた。
パッ。
手慣れた様子でサイドスタンドを立て、頭部を覆っていたヘルメットを外した少年の額には、夜のビルの間を吹き抜ける風に撫め回された前髪が微かに乱れている。
「ぷはっ!!」
後ろに乗っていた女性、明日奈も安全の為にと彼から渡された可愛らしいヘルメットを外し、新鮮な空気に溜息を吐く。
愛車から降りた彼の視線の先、広場の中心部にはすでに異様な熱気に包まれた人だかりが形成されていた。
ザワッ、ザワッ。
広場を埋め尽くす人々は皆一様に最新鋭の端末、オーグマーを耳の辺りに固定し、期待と高揚の入り混じった言葉を熱心に交わしている。
そこから更に進んだ先、ビルとビルの間にある路上には『歩行者天国実施中』という、この先は車が入れないようにと置かれている看板もあった。これからこの広大なオープンスペースを臨時の戦場に見立てて開始される、拡張現実型ゲームの野外討伐戦を待ち望んでいるのだ。
「場所が告知されたのたったの三◯分前なのに、もう結構集まってるね」
「·······それだけプレイヤーの数が増えてるってことだろうな」
和人が漏らした低く落ち着いた呟きは、周囲を埋め尽くす群衆の興奮交じりのざわめきにかき消され、夜の空気に溶けていく。
本当に、現実は変わった。
二人が歩みを進めるにつれて、それが改めて実感できる。皆ポイント欲しさに集まったのもあるだろうが、それ以上に生身の体で戦うのが楽しいのだ。仮想で再現された世界でなく、本物の世界で戦うことの楽しさ、それは電子で構成された五感では決して味わえない素晴らしさがある。
例えば疲労。
仮想世界でも一応はスタミナという設定があったりするものだが、それでもゲームの仕様上通常の人間が動ける以上の数値で入力されており、疲れが目立たなかった。あまり過度に動くと現実の脳が処理に追いつけず、それで疲れを再現させていたが、それは簡単に言えば頭の使い過ぎに近く、体への疲弊、筋肉が一時的に弱まるみたいなことにはならなかった。
現実の運動も兼ねて、皆が戦いたがっている。
これから行われる戦闘開始の瞬間を、集まったプレイヤー達は今かいまかと待ち構えていた。
その雑踏の奥から、周囲の喧騒を力強く割り裂くような快活で野太い呼び声が二人の鼓膜を震わせる。
「おう!! おせぇぞキリの字!!」
声がした方へ視線を向ければ、派手なバンダナを頭部に巻き、顎に薄い不精髭を蓄えたクラインこと壺井遼太郎が、親しみやすい笑みを浮かべて片手を掲げていた。
その背後には、かつて幾多の死線を共に潜り抜けた彼の戦友達であるギルド『風林火山』の面々が、頼もしげな笑みを浮かべて陣取っている。
「クラインさん!!」
明日奈が嬉しげに声を弾ませて駆け寄ると、遼太郎は意外そうに目を丸くし、頭を掻きながら問いかけた。
「おろ、アスナも一緒なんか?」
「キリト君があんまり乗り気じゃなかったので、強引に引っ張って来ちゃいました。それに、じゃんけんで勝ったので!!」
「?」
快活な悪戯っぽさを秘めた明日奈の言葉に、和人は頬を掻いた。
ここに来る前に繰り広げられた、彼のバイクへの相乗りを賭けて勝負した少女達。
ゲームが開催される前に送ってくれるタクシー役に選ばれた和人は、しかし大型とはいえバイクではせいぜい二人を乗せるのが精一杯であり、その場にいたアスナやリズにシリカの三人全員を乗せるわけにはいかなかった。それで少女達はその座を賭けてじゃんけんで勝負し、見事彼の後ろの席を勝ち取った明日奈が、今回は和人が運転するバイクに乗ることを許された。
遼太郎にはどういう意味なのか理解できなかったが、然程興味もなかったようで、
「まぁ、いいや」
笑い飛ばすように遼太郎は頼もしげに太い腕を誇示し、背後の仲間達へ向けて豪快に咆哮する。
「おーし!! みんな!! アスナにいいとこ見せてやろうぜ!」
「「「「「おおぉぉぉオオオオオッ!!!!」」」」」
遼太郎の鼓舞に応じ、男達の腕が一斉に夜空へと突き上げられる。
あの浮遊城の過酷な戦場で幾度となく繰り返されたその掛け声は、現実の秋葉原においても何ら変わらぬ熱量を保っていた。
彼らといると、あの時の光景を思い出す。
七四層迷宮区で、疲労に足がふらふらだったあの軍隊がそのままボス部屋へと入っていってしまい、その地獄絵図の中にアスナとクライン達と共に飛び込んで行った時のことを。
準備もほとんど整えていなかったから、勝てる見込みも極めて薄く、それでもなんとか勝てたのは彼らがいたからだ。
キリトとアスナだけでは絶対に無理だった。
ほんと、彼らには助けられてばかりだ。
その騒々しい身内特有の空気感を前に和人は首を振りながらも、張り詰めていた肩の力を微かに緩める。
しかし、感傷に浸る時間は長くは残されていなかった。
ふと見上げた高層建築の壁面、そこにある巨大な街頭ビジョンのデジタル表示は、無慈悲な正確さで定められた開戦の時を刻み続けている。表示された時間が最後の数十秒を満たそうとしたその時、明日奈の表情から先刻までの柔和な笑みが消え、歴戦の剣士が持つ気配がその身を包んだ。
スッ、と。
彼女は迷いのない動作で右手を胸ポケットへと伸ばし、専用のコントローラーを取り出す。
「キリト君、そろそろだよ」
「ああ·······」
促された和人もまた、腰にある鞄の奥へと手を滑らせ、携帯していた円筒状のコントローラーを掴み出した。
手のひらに伝わる無機質な金属の冷たさが、眠っていた彼の感覚を急速に研ぎ澄ましていく。このコントローラーには斬った感触を味わわせるために振動機能を司る部品が組み込まれており、そして臨場感の向上を目的とした最新技術も搭載されている。
その中身は企業秘密だが、重みが変化するというのは今までにないものであった。
二人はコントローラーを構えると息を合わせるようにして、前方の開けた空間へと力強く一歩を踏み出した。
ザッ。
靴底が舗装された地面を鋭く擦る。周囲の喧騒が遠退き、視界の全てが眼前の仮想の空間と収束していく。二人は手にした起動デバイスを掲げ、肺の空気を一気に吐き出すようにして、声を揃えて叫んだ。
「「オーディナル・スケール、起動!!」」
その起動呪文が放たれた瞬間、耳に付けられたオーグマーから強烈な電子的波動が放射され、視界の枠組みそのものが変貌していく。
パリ、パリィン!
宙に潜んでいたドローンから放射される無数の情報コードが実体化し、眩いばかりの青い燐光を放つデータ片となって二人の全身を包み込んでいく。
現実の街並みを背景に展開される、圧倒的な密度の描画シーケンス。
着慣れた私服が光の粒子によって包まれ、新たな衣を織り成すようにしてこのゲームを象徴とする防具と洗練された衣服が次々と形成されていく。
明日奈の身体を覆う上着は白と鮮烈な朱色を基調とした、かつての閃光を思わせる高貴な戦闘ドレスへと変貌を遂げた。腰回りのパーツや軽快なブーツが光の明滅と共に噛み合い、優美でありながらも隙のない佇まいが現実の街の中に確立される。
同時に、和人の姿もまた、黒と白を基調とした特殊戦闘衣へと変わっていた。その右手には電子の集束によって顕現した剣が、鋭い切っ先を伴って握られている。
二人の腰と背中には鞘まで再現されてるが、これはただの飾りなので特に意味はない。だが二人からすればあの仮想空間のような動きで戦いたいという欲があるため、鞘の重みを自分達で再現できるようにそれぞれの位置に固定できるショルダーバッグを持ってきた。
光の残照が虚空へと散っていく中、二人は互いの背中を預け合うようにして、具現化した武器を構える。
その手に携えるのは、現実を侵食する電脳の怪物を討ち果たすための虚構の刃。
だがその瞳に宿るのは、いかなる強敵をも見据えて揺るぐことのない闘志。
ただの広場であった空間は一瞬にして異世界のような街並みへと変貌し、戦火の幕開けを告げる地鳴りのような咆哮が、秋葉原の夜空へと高く響き渡ろうとしていた。
<><><><><>
遥か彼方の異なる世界。
キリト達が現実のゲームを楽しんでいる中、崩壊した魔晄都市の残骸を再利用して築かれた再生の街『エッジ』に、一人の青年が静かに歩いていた。
頭上に広がるのは、星の血を吸い上げて発生していた魔晄の分厚い雲と、あの『英雄』との闘いの記憶を脱ぎ捨てて久しい穏やかな夜空である。
腰には身の丈ほどもある巨大な大剣の一本を背負い、夜風にツンツンとした金髪の先端を小さく揺らすクラウドの歩調は、もう偽りの自分を演じて苦しんでいた頃の険しさを綺麗に無くしていた。彼が歩む舗装路の脇には、建物の合間から漏れる人々の生活の灯火が点在し、未だ復興の途上にある街特有の混沌としながらも力強い活気が細い路地の奥まで満ちている。
無骨な鉄骨や再利用された建材が並ぶ街並みは、あの過酷な時代を乗り越えようとする人々の足跡を色濃く残していた。
クラウドの肩に固定された小型の球体端末、《視聴覚双方向通信プローブ》が一定の周期で淡い光を点滅させている。
そのレンズの奥にいるのは、現実の肉体をこの地に持たないはずの一人の少女であった。
仮想の世界で戦い抜き、今は現実に戻るための努力を一生懸命に頑張っている少女のユウキの意識が、キリトとチャドリーが共同で開発した端末を介してこちらの世界に干渉している。彼女にとって、このプローブが捉える映像の全てが新天地の息吹を五感へと伝える唯一の窓口であり、世界を観察するための大切な器官であった。
周囲をきょろきょろと見渡すようにレンズの焦点を細かく動かしていた端末から、弾むような電子の響きがクラウドの耳へと届けられる。
『ねぇクラウド、今回はどこへ向かうの?』
好奇心に満ちたその問いかけに対し、クラウドは歩みを止めることなく、口元に僅かながらも柔和な含み笑いを浮かべた。
「ここしばらくは請け負っていた配達の仕事を休むことにしたからな。充分な時間もあるから、太陽の楽園と呼ばれるリゾート地、コスタ・デル・ソルにまで足を運ぼうと思っている」
その低く落ち着いた口調には、長きに渡る戦いの連続から解放され、束の間の休息を大切な仲間と共に過ごそうとする、穏やかな安らぎが満ちていた。
ここ最近は仕事ばかりで、休む暇もなかった。
別に仕事自体は嫌いではないが、毎日続けているとどこか退屈に感じてしまう。それで気分転換に仮想世界にダイブして遊ぶということを繰り返していたが、今はALOだけでなく全ての仮想ゲームはプレイヤー不足のためイベントを延期、やることも無くなってしまったので入る理由も薄くなっていた。
だからこそ、クラウドはしばらくは落ち着いて過ごそうと考え、心を癒すためにリゾート地に向かおうと考えた。
ティファも誘ったが、彼女はセブンスヘブンに残ると、店を預かる身として留守にはできないと、申し訳なさそうに微笑みながら首を振った。
日々の営みを支える彼女ならではの責任感に満ちた選択であり、同時に日頃から多くの重荷を背負いがちなクラウドに対して、心置きなく休息を満喫してほしいという無言の配慮でもあるのだろう。彼女の細やかな情愛に感謝しつつ、クラウドは今回の旅路を肩の上で電子の光を明滅させる少女と共に休暇を過ごすことを決めた。
『コスタ・デル・ソル!? うわぁ、どんなところなんだろう!! リゾート地で太陽の楽園って呼ばれるくらいだから、海があってお日様がいっぱいですっごく綺麗な場所なんだよね!? 楽しみだよクラウド!!』
それだけに、プローブの向こう側から伝わってくるユウキの無邪気な高揚感は、クラウドの張り詰めていた内面を心地よく和ませていた。
まだ見ぬ南国の陽光や潮風の薫る砂浜の情景を頭の中で思い描いているのだろう、肩の上の端末は彼女の興奮を代弁するかのようにカメラのレンズを小刻みに動かしている。
「と言ってもかなりの距離になる。こんな夜から出るのもそれが理由で、そこに行くまでの間はプローブを休ませながらになるから、途中の街の宿屋に何回か泊まることになるぞ」
『それでもいいよ!! それこそがボクにとっての楽しみだもん!! この世界の風景をもっと見れるんだったら大歓迎だよ!!』
レンズの向こう側で弾ける少女の元気に満ちた笑い声は、夜霧が立ち込め始めた薄暗い路地を明るく塗り替えていくようであった。肉体という檻を離れ、ただ電子の波形としてクラウドの肩に寄り添う彼女にとって、見知らぬ世界の地平を視界に焼き付ける行為そのものが、何物にも代えがたい至上の冒険に他ならない。
歓喜に胸を躍らせ、まだ見ぬ異郷の街道や宿場町の様子を想像しているユウキ。
南国への旅路に思いを馳せ、どこまでも浮き立つような情緒に身を委ねていた。
その時だった。
プローブが捉えるレンズの片隅が、前方の暗がりに生じた奇妙な違和感を鋭敏に感知した。
『ん·······?』
不意に怪訝そうに漏らされた彼女の呟きが、夜の静寂の中に微かな波紋を広げる。
歩度を僅かに緩めたクラウドは、異変を察知して肩の上の小さな相棒へと視線を巡らせた。
「どうした、ユウキ?」
『いや、う〜ん·······気のせいかもしれないんだけど··············』
ユウキは捉えた映像の残像をデジタル化された思考回路の中で何度も思い返すように、困惑の混じった言葉を慎重に紡ぎ出す。
『
少女の明かした不穏な指摘を受け、クラウドは即座に視線をその方向へと転じた。
長年の戦場で培われた鋭い警戒心が働き、深い陰影に沈む路地の奥を鋭く見据える。
街灯の届かない建物の隙間、崩れかけた壁面が落とす濃密な闇の細部まで観察するが、そこにはただ無機質な暗がりしかない。
人の気配はおろか、生き物の息遣いすらも全く感じられなかった。
視線を戻したクラウドは油断なく周囲の気配を感知しようと努めながらも、静かに言葉を返した。
「? 誰もいないぞ?」
その疑問に満ちたクラウドの言葉を聞き、肩の上のプローブは困惑したように小さく左右に揺れ動く。
ユウキは自身の入力データに生じた一瞬のノイズだったのだろうかと、処理された記憶の海を探るが、先程見えたはずの不審な姿はどこにもなかった。
『う〜ん·······じゃあやっぱり気のせいだったのかな?』
「機械の不調かもしれないな、まだまだ改良の余地が残されているとチャドリーも言っていた。もしかしたらそのせいで幻覚でも見たんじゃないか?」
『そう、なのかなぁ〜?』
これ以上確かめる理由もない。
クラウドは意識を前方の路地から引き戻すと、小さく息を吐き出して再び歩き出した。
肩の上で戸惑うように静止していた球体は、クラウドの規則的な移動の振動を感知して再びそのレンズの焦点を周囲の夜景へと滑らかに泳がせ始める。少女の内に生じた疑念の霧は、クラウドの現実的な指摘とチャドリーという天才サイボーグの名が出たことで、一先ずは気のせいということにしたらしい。
クラウドは少女の気配を肩に感じながら、復興の灯火が点在する街並みを通り抜け、休暇のための準備としてフェンリルがある車庫へと進んでいく。
<><><><><>
しかし。
二人がその場を立ち去り、誰もいなくなった空間に、
ゾン、と。
暗がりで見えなかったとか気のせいだったとかの次元を超え、確かにさっきまで誰もいなかったその場所に、“一人の少女”が立っていた。
立っていた、という表現は間違いではないが、少し違う気もする。
だって。
『··············』
この世界ではあまり見かけない格好、でもそれはフードを深く被っているから·······と言ってしまえば聞こえはいいかもしれないが、それよりももっと不自然な部分が目立っている。
ザザッ、と。
ノイズが走るその体は輪郭が歪み、この夜霧に溶け込むようにシルエットが崩れてはまた元に戻るを繰り返す。
彼女はそれでも前を見る。
去っていったあの青年の姿を追いかけるように、寂しさを交えた瞳で見る。