認めてもらえないのは嫌だけど、相手に一方的な我慢をさせるのも心苦しい。
さて、どうしたものか。
いっそ、どちらでもない方向へ行ってみるとか?
あれはワーズワース55の法則だったな、確か。
なんて言うかまあ「道楽者の屁理屈」を纏めた本だから、理に叶っているところはあるけど大分偏ってるやつだ。
ただ、まさか自分がそれを痛感するとは思わなかった。
大人たちがいない猪股家、その台所。俺と千夏先輩は背を向けあい、黙ったまま立ち尽くしている。
気まずい沈黙の果てに千夏先輩が、ぽつりと呟いた。
「大喜くんが、そんな人だとは思わなかったよ」
呆れたような、怒ったようなそんな声。千夏先輩の表情は伺えないけれど、でもきっと不機嫌顔だろう。
そんな風に思わせたくはないけど、でも俺だって引き下がれない。と言うか引き下がるタイミングを失ってしまったし。
これ以上先輩の機嫌を損ねないように胸の奥だけで溜め息を吐き、天井を見上げて俺は思い返す。
『ワーズワース55の法則第五章、第四の法則 「カレーを作る人は一家に一人、が家庭円満の秘訣である」』
確かにそれは真理なのだ、だってそうしなかったせいで俺たちは、こんなにも揉めているんだから。
母さんたちが揃って留守にすると知ったのは、まさかの帰宅直前だった。体育館の補修で部活は休み、珍しく早帰りしようとしたその時になって漸く。もっと早く連絡してくれないと困るし、そしてなぜ俺でなく先輩にLINEするんだよ母さん。千夏先輩を自分の娘だと思ってませんか、実際それは歓迎すべき事だけど、でもちょっと気が早いと思うんですよ僕は。そりゃまあ家族的な存在かもしれませんが。
「晩御飯どうしようかな、ファミレスとかだと誰かに会うかもしれないよね」
「コンビニってのもあんまり……ですしね」
ちょっと小腹塞ぎくらいならまだしも、一食そのものをコンビニで済ますのはちょっと抵抗ある。一応アスリートだし、俺たち。雛だって「糖質気になるから」って鯛焼きを我慢したりするんだから、こっちもそれなりに気を遣わないとなんか悔しい。
まあ、良いんだけどさ。
でも本当にどうしようか、と思っていると。
「んー、なんか適当に作ろうよ。確かお野菜結構あったし、スーパーであれこれ買って……カレーとか?」
先輩がピッと指を立てて提案してきた。なるほどカレーか、それは悪くないな。それに先輩と一緒に買い物して一緒に料理、とか何だか新婚夫婦みたいだ。……そして家族はいない、と来てる。いやまぁ、なにもしませんけど。嫌われたくないし。
でもちょっとだけ期待はしつつ、並んで歩く帰り道。
なんかもう、これだけで幸せだ。
幸せではあるんだけど、でも二人で買い物って大丈夫だろうか。それこそ誰かに見られたら大変じゃないか。そんな事を考え始めたのは、なんとスーパーに入ってからだった。どんだけバカなんだ俺、あと千夏先輩も少し考えてほしかった。まあ、幸せ過ぎてどうでも良いけど。家以外でこんな近い距離にいられる事って少ないし。
「えー……と、由紀子さんって普段どれ使ってる? うちはコレなんだけど」
ひょいっと千夏先輩が掴んだカレールーの箱は、偶然にも猪股家御用達のやつ。こういうのも縁なんだろうか、ちょっと嬉しい。
お互い魚より肉派、という事で予算も考えて豚肉の切り落としを1パック。
さすがにカレーだけでは寂しいのでお惣菜コーナーから揚げ物を一つ、まあ育ち盛りだし。
それから細々と色々カゴへと放り込み、二人でお金を出しあってお会計。
幸い知り合いには会わずに住んだし、平和平和。
……と、思っていたのだけれど。
最初に待ったを言ったのは、先輩だった。
「え、ジャガイモ入れるの?」
「あ、はい。それはまあ、普通に……」
小粒のジャガイモを洗って包丁の背で皮をこそげ落とそうとしていた俺は、先輩が何を言っているのかよく分からなかった。
だって、ジャガイモだ。カレーに入れる野菜と言えば、ジャガイモと玉ねぎと人参が定番だと思うんだけど。
それより俺が気になったのは、先輩が掴んでいる金属板の方だ。
「あの千夏先輩、……何をどうする気ですか、その下ろし金で」
「玉ねぎの下拵え。……すりおろして入れるもんでしょ、形があると溶け込まないし」
いや、いやいや。いやいやいやいや。
玉ねぎだって具なんだから、櫛形にするもんじゃないのかな。先輩の家では野菜を煮溶かすのが普通だったりするんだろうか。
何となくこの時点で、なんだか妙な予感はした。
俺と千夏先輩は全然違う環境で育ってきたわけだから、すれ違いは仕方がないんだけどさ。
どうやらカレーに関しては、それが顕著らしい。他にもあれこれ、食い違いが表面化していった。
まあ、ここで俺がちゃんと立ち回れば良かったんだけど。
「あ、じゃあ千夏先輩の好きな方で良いですよ。俺は別に……」
口にした瞬間、後悔が襲ってきた。これは、悪手だった。もっとちゃんと、気を遣って喋るべきなのに。
気付いた時には、もう遅い。
「別に、……か。それで良い、ねえ。ふーん、そっか」
僅かに低い、怒気を感じる声が俺の後悔を助長してくれる。ああ、やってしまった。どうでも良いからそっちに合わせてやるよ、みたいな言い草じゃないか。これじゃ火に油どころか、爆薬を投げ込むようなもんだ。
そして。
……そして。すっかり不機嫌になった先輩と、どうして良いか分からない俺は台所に立ち尽くしている。
どうしよう、本当にさ。この気まずいまま猪股家のやり方で行くわけにも行かないけど、でも千夏先輩をこれ以上拗ねさせたくないからそっちのやり方でやってもらうのも難しいか。
こうしている間にもお腹は空いていくし、こんなアホな状況のまま家族が帰ってきたらそれこそ間抜けだ。
何か手はないか、何か。
どっちに進んでも角がたつ、進まなくても角がたつ。ああもう、どうするんだ俺。
正直謝って終わりにしたい、でもそれは千夏先輩を意固地にさせるだけだろう。振り上げた拳はお互い行き先を失って、文字通り打つ手も何もありゃしない。
――と。
追い詰められた俺の虹色の脳細胞はその時、持ち主にも分からない方向で活動し始めた。
それは――。
「……まあ、これはこれでアリかな」
「ですね、これはこれで」
母さんが買うだけ買ってほったらかしていた大きい圧力鍋の中に出来上がったのは、俺たちのどっちにとっても「非常識」なカレー。
どっちに行こうとダメだと言うなら、道がない所を無理矢理通れば良い。猪股家のやり方でも鹿野家のやり方でもなく、その場のノリで。
千夏先輩とこのまま喧嘩するくらいなら、カレー作りで失敗する方が遥かにマシだから。
どっちの意地も通さず、痛み分けで済ませよう。……そう思ってはいたのだけれど。
ジャガイモがじゃなくて里芋にしてみよう、玉ねぎはいっそ薄切りだ。
野菜室に入ってた大根や干し椎茸も入れてしまえ、余ってたヨーグルトや鯖缶も遠慮なく放り込む。
どうせならこれも煮込んじゃえー、と買ってきた揚げ物もホイッと。有りモノを適当に適当に。
ご飯が炊き上がるまで間に合うように、圧力鍋へとぶちこんで。
こんな適当でいい加減なカレー、有り得ない。有り得ないからこそ、
まあどうせ明日は休みだ、多少なら調子を崩したって構わないさ。ちょっと不味い夕飯でお茶を濁して、笑いのネタにしてしまおう。
そんな風に思っていたのだけれど、うん。
……うん。
俺たちの予想は、味見をした瞬間に大きく覆ることとなった。
「あ、これ結構イケる。出汁出てるわ、鯖と椎茸。里芋も良い感じになってる」
「揚げ物も煮溶けてるから濃いですね、これはご飯が進みそう……。もっと炊けば良かったかな」
最終的には俺と先輩の想像を遥かに越え、とても美味しいカレーが出来上がってくれたのだ。
何て言うか、カレーのポテンシャルって恐ろしいな。こんな適当でガラッパチな作り方でも美味しくなるんだから。
さて、そして。味見を終えて俺たちは、向かい合って食卓に着いた。
さっきまでの気まずさが嘘みたいに、笑顔で。
カレーの匂いは幸せの匂い、それに包まれて無事に夕飯は終わって。まだ大人たちが帰ってこない中、俺たちは二人で台所の片付けをしている。
……目下の問題は、まだまだ鍋に残っているカレーをどうするかだ。さすがに鍋一杯は作りすぎた、明日は一日カレーかな。それでも余ったら冷凍するか、まあ食べきるだろうけど。育ち盛りだし。
「いやぁ、発想の転換だねぇ」
「ですねぇ」
並んで洗い物をしつつ、千夏先輩の様子を伺ってみる。どうやら機嫌は直りきったみたいで、なによりだ。
何だかんだ言っても、楽しい一時だったな。千夏先輩と揉めるのは嫌だけど、こうやっていると本当に――
こんな穏やかな日々が、もっと続いてほしい。期限つきだと分かっていても、そう願ってしまう。
千夏先輩はいずれ、ここを出ていく。それはどうにも出来ないし、俺には異議を唱える資格もない。
それでも、俺は……。
「んー……これが私たちの定番、って事になるのかな。これから先も、そうやっていけると良いね」
じゃあ私お風呂点けてくるねー、と台所を後にした先輩の背中を見送って、俺はふと気付いた。
これから先、って何だろうと。
またカレーを作る機会があったら、って事なのかそれとも。……それとも他のあれこれって事なんだろうか。
なにか意味があるような、そうでもないような。
「……? うーん?」
まあ、良いか。
千夏先輩の真意なんて、俺にわかるもんか。
俺にわかるのは、今こうしているのが幸せだっていう事だけだから。
だからこそ、これで良い。これが良い。
ちなみに『ワーズワース55の法則』は実在します。
ワーズワースの庭と言う番組から生まれた、一言で言うと道楽な粋人の話……ですかね?