「ただいま戻りました」
障子の隙間からひょっこりと顔を出した橙に、藍は苦笑する。
「お帰り、ご苦労様。結界の様子はどうだった?」
「まだしばらくは大丈夫そうです。あー、つかれたー」
藍は紫の式として、彼女の仕事を多数代行しているわけだが、その中でも簡単な物は自らの式である橙に任せることで、作業の更なる効率化を図る。そして此度のその仕事が、冥界の結界の点検というわけである。
藍にとっては簡単な作業であれど、まだ未熟な橙にとっては少し大変だったようで、押し入れから出したての炬燵にぐてー、と頭を突っ込み、ゆったり丸くなった。その様子に密かに微笑ましくなった藍は、炬燵から物の見事にはみ出した二本の尾を、撫でる。
「ふにゃっ」
橙が猫撫で声で反応した。おもしろくなったのか、藍はそのまま、さわさわと撫で続ける。
「ふにゃっ、らんさま、やめてください!」
「ふふふ、やめろやめろも好きのうち、と言う」
動揺のためか舌足らずになる橙の言葉に嗜虐心を煽られたのか、尚も藍は腕を動かす。実際、橙の尻尾は藍の手に合わせてうねうねと動いているものの、手の軌道を完全に逸れていくことはない。何だかんだで彼女も、この状況を楽しんでいるらしい。揺れる尻尾を見て、藍は何かを閃いたように手を叩いた。
「ああ、そうね。日頃の労いの意味を込めて、その二本の尻尾を繕ってあげましょう」
ちょっと待っていなさい、と言って、藍は押し入れの方に向かった。ガサゴソと何かをまさぐる音が数秒響いた後、あったあったと、二本のブラシを手に戻ってきた。
「炬燵から顔を出して、この座布団に頭を乗せていて」
橙は頷き、言われるがままにうつ伏せに寝転んだ。その主はというと、ブラシに付いていた諸々を払って、式の尻尾を優しく梳いていく。所々に毛玉の引っかかりを感じて、藍は眉を顰めた。
「橙、あなた最近尻尾の手入れを怠っていたでしょう」
「すみません、ちょっと放ってしまってました」
えへへ、と悪びれる様子もなく笑う橙に、藍は毒気を抜かれて苦笑した。
「まったくもう。身だしなみや一挙手一投足を意識しなくちゃ駄目だぞ? 八雲の式なんだから」
「はーい」
元気な返事だ。元気すぎて、本当にわかっているか心配になる……が、しつこくは言うまい。これは彼女を労うためのブラッシングなのだから、今日くらいは甘やかしてやろう。そう決意して、藍は慣れた手つきでブラシを動かしていく。本格的に作業が始まると、橙はいつも目を細めて、されるがままに静かにしている。まさに借りてきた猫である。
「毛玉、今日は妙に多いな」
「最近寒くなってきたからー、ですかね?」
「あー、もうそんな時期なのね」
換毛期である。冬の寒さに適応させるための、毛の循環期。見ればブラシにも大量の毛がついている。つい最近まで夏だった覚えがあったので、藍は少し意外な印象を覚えた。近頃は内職が多かったのもあって、季節の変化への認識が薄い。
「すると丁度、紅葉の見頃?」
「妖怪の山、すごくカラフルになってましたよ!」
「それはいいね」
山にも四季折々の顔があるけれど、やはり秋が一番美しい。個性的に色づいた木々、果実の実り、五穀豊穣。今度見に行こうかしら、なんて思いながらブラシの毛玉を払い、先が柔らかいブラシに持ち替える。今度は毛並みを整えていくのだ。
「藍様ー、聞いてもいいですか?」
「なに?」
ブラッシング中に橙から話しかけられるのは珍しい。藍が手を休めずに少しだけ身構えていると、式はちいさく顔を上げて、主の方に振り返りながら言った。
「藍様もこんな風に、紫様に尻尾を梳いて頂いたことはあったんですか?」
少し意外な質問だった。さてどう答えようか、と迷いながらもとりあえずお茶を濁す。
「ふむ、どうだと思う?」
「んー、どうですかねー」
まったく回答になっていない。思わず藍の口元も綻ぶ。
「まあ、わからないから聞いてるんだものね」
「紫様ならしそうだけど、しなさそうでもあるから難しいです」
「読めない人だからね」
巫女や魔法使いであるならば、「胡散臭いだけだろ」と一蹴する場面だろうが、式たちはよく
「よし、終わり。サラサラのフワフワになったな」
「えへへ、ありがとうございました!」
藍に撫でられながらも、二本の尻尾はぶんぶんと波打つ。心なしか、先程よりも光沢を帯びて見えた。
「そうだ、お茶を淹れてこよう。少し待ってなさい」
はーいとこれまた元気よく返事して、彼女は今度こそ炬燵の中へと潜っていった。手早く用意して戻るが、式は炬燵から出てこない。「ちぇーん」と呼び掛けてみるが反応はない。もしやと思い炬燵布団を捲ると、すやすやと寝息を立てる彼女の姿があった。
「まったく、熱々のお茶を飲まずに眠っちゃうなんて、勿体ないことするわねえ」
思わぬ声に藍が顔を上げると、湯呑に口を付ける、導師服姿の主――八雲紫の姿があった。
「おはようございます、紫様。いつからいらっしゃったのですか?」
「ええ、おはよう藍。貴方が橙の尻尾を撫でまわしてた辺りからかしらね」
「ほとんどずっとじゃないですか」
声かけてくださいな、と藍は嘆息する。
「ごめんなさい、いい雰囲気だったものだから」
読めない笑顔を浮かべて、紫はお茶を啜る。この間の取り方は確実に何かある、藍の第六感がそう告げていた。
「懐かしいわね、昔はあなたにもあんな風にしてあげてたわ。それがすっかり大きくなって」
九本の尻尾をわしゃわしゃと撫でる紫。藍は困った顔をして、緩やかに距離を取る。
「お戯れを、紫様」
「あら、可愛くない反応。やめてください紫しゃま、でいいのよ?」
「……やめてください、紫様」
先程の自分と昔の自分を同時に思い出してしまって、藍の頬は少しだけ赤くなる。どうやら今日の主は、全面的にからかいにくる所存らしい。
「ねえ、久しぶりにしてあげましょうか?」
何を、だなんて馬鹿な質問は、この場面では不要だろう。
「結構です、そのくらい自分で出来ますし、お手を煩わすまでも――」
「その割に、尻尾に毛玉が目立っておりますわ」
再び尻尾を撫でられる。確かに最近は、忙しさにかまけて手入れを怠っていたかもしれない。
「しかしまだ仕事が――」
「仕事があるのに式の毛繕いをしていたのは、一体何処の誰だったかしら」
「式の毛繕いも主の仕事の内です」
「なら私にも、主の仕事を遂行させてもらいましょうか」
そこまで言われては仕方ない。作業から目を逸らし、「よろしくお願いします」と呟き、藍は座布団に座る。「よろしい」と笑って、紫はブラシを手に持ち背後に回った。慣れた様子で、九本の尻尾の隙間から器用に梳いていく。
「こう大きいと一苦労ね、少しくらいお手入れサボっちゃっても仕方ないわ」
「そうですね……」
ブラシが毛を掻き分けていく感覚が、酷く心地いい。強すぎず弱すぎず、的確に毛並みを整えていく力具合。そういえば昔はこれが大好きだったなあ、と藍は目を細めた。何年、何十年ぶりだろうか。こうしてもらうのは。
「お痒い所、ございませんか?」
「いえ、大丈夫です。とても快適でございます」
茶化すように聞いた主に、式は四角四面の返答をした。「それならいいけれど」なんて言って、紫は黙々とブラッシングを続ける。なんだかんだで彼女も、この時間が嫌いではないらしい。式を持った今では、藍にもその気持ちはよく分かるようになっていた。
「抜け毛、すごいわね。ストレスかしら?」
「換毛期だからでしょう」
「こう沢山あると、マフラーやセーターでも編めそうな気がしてくるわね」
「恥ずかしいのでやめてください」
人間で言えば自分の髪の毛で作ったウィッグを見るようなものなので、人によっては複雑な気持ちにもなるだろう。冗談よ、と紫は笑ったが、半分くらいは本気だったんじゃないかなぁ、と式は疑った。
「本当に手触りのいい尻尾よね、特にこの季節は重宝するわ」
「お褒めに預かり光栄です。昔、『藍の尻尾で冬眠するわ』なんて仰ってましたものね」
「そんなこともあったわね、今年こそはどうかしら?」
「仕事がございますので」
断ったものの、尻尾を褒められたのは素直に嬉しかった。妖狐にとって、尻尾は力の象徴であり、即ちそれを従える主の力量を示すことに繋がるから。しかしそれをおくびにも出さず、藍はすまし顔を続ける。
「それは残念」
そう言って、紫はブラシを持ち替えた。そろそろ仕上げに入るらしい。そこからは二人、何を話すでもなく黙したまま。ブラシの音と猫の寝息の中、ゆっくりと時間は過ぎていった。
「よし、終わり。一段と綺麗になったわね」
手触りも上がったし、と全身を尻尾に埋めながら、主は上機嫌な様子で言った。式は、或いはそのためのブラッシングだったのではなかろうか、と思う。苦笑しながらふと目を逸らすと、縁側越しに真ん丸のお月様が見えた。
「十五夜ですね」
「そうね、お団子は用意してあるかしら?」
「ございますよ、人里で買ってきたものが」
「それは重畳、今宵は月見酒と洒落込みましょう。貴女も付き合いなさい」
「はい、すぐに持って参ります」
仕事からは目を瞑ることに決めた。主の命の方が大切である。そんなことは、明日の自分に任せてしまえばいい。
立ち上がって台所に向かう前に、ふと振り返る。縁側に座る主の姿は、月明かりに照らされて優しく輝いている。その瞳が見つめるのは中秋の名月か、幻想の闇夜か、はたまた別の何かか。式ごときには計り知れぬな、と一息吐いて、藍は湯呑に口をつけて台所へと向かう。お茶はもう、とっくに冷え切ってしまっていた。