コミュ症を拗らせ過ぎた結果、もうひとりの人格を生み出してしまったぼっちちゃんの話 作:モルモルネク
「おねえちゃん……もう大丈夫だから」
わたしの腕の中で泣き続けていたふたりが、不意にするりと腕から抜け出して気丈にもそう告げていた。でも、その表情には未だ酷く泣き腫らした痕が鮮明に残り、嗚咽を漏らし続けた声は枯れ果てている。そんな姿を前にして、その言葉を安直に受け取れるはずもない。
「ふたり、でも」
「喜多ちゃんと虹夏ちゃん、待ってるから……」
鼻を啜り、零れ落ちそうな涙を堪えながらふたりが言葉を重ねる。その内容は、自分のことで手一杯であるべきの子供が言うには物悲しいほどに正しかった。
喜多さんと虹夏さんを部屋に置き去りにしてから、もう数十分ほど経過している。あんな状況で放ったらかしにされて、二人ともとても困っているはずだ。それを抜きにしたって、家に招いた客人を放置するなんて失礼だろう。
ふたりの言う通り、わたしのすべき行動は既に指し示されている。わたしが今すぐにすべきことは、部屋に戻って二人に事のあらましを説明することだって。それがひとりさんの為に最も優先されるべき行動だと、結論は出てしまっている。
でもそれは、ふたりのお姉ちゃんとして正しい行いなのだろうか。自分のせいで傷つけて泣かせてしまった妹を、泣き止んだからと置き去りにするなんて、姉のしていい所業なのだろうか。本当のお姉ちゃんなら、妹が心の底から安心するまで寄り添ってあげるものじゃないのか。そんな疑問が頭の中で渦巻き続けていて、行動に移すことができない。
ああでも、無意味な葛藤だ。結局わたしはひとりさんの生み出してくれた人格というだけであり、自分の身体を持った個人ではないのだから。今までと同じ、わたしはひとりさんしか大切にできないという単純なお話。
ひとりさんの為のわたしと、ふたりのお姉ちゃんであるわたし。それすらも両立し得ないなんて思いもしなかった。あるいは妹のふたりなら大事にできるなんて想いすら、わたしの思い上がりに過ぎなかったのだろうか。だとしたら、とんだ欠陥だ。
自分を慕ってくれる妹の姉であることすら満足に行えない。どこまで行きついても人でなし、そんな現実ばかりがどうしようもなく補強されていく。
「……ねぇ、ギター弾く方のお姉ちゃんはいつまで隠れてこそこそしてるの!?」
自己否定に塗れて硬直していたわたしの思考に、ふたりの幼くも鋭い声が刺さる。気づけばふたりは零れていた涙を乱暴に拭い去り、普段の生意気さの面影が残る表情でこちらを睨みつけていた。その視線の矛先はどうしてかわたしではなく、ひとりさんの方であるらしかった。
『えっ、わ、私?? 私はまだちょっとアレだからしばらく待ってほしいというか……』
「もう一人のお姉ちゃんは今大変みたいだからわたしが――」
「いいから、早く出てくるの! ギター弾かない方のお姉ちゃんが困ってるでしょ!!」
「え、ちょっ、ふたり!?」
『あああああああ!? でる、出てくるから揺らさないで!?』
まだ表に出たくなさそうなひとりさんに配慮してわたしが対応しようとするも、そんな都合は今のふたりにはお構いなしらしい。わたしの言葉に聞く耳も持たず、早くひとりさんを出せとばかりに肩を掴んで揺さぶってくる。
強引な時のふたりにひとりさんは頭が上がらないし、わたしはそもそも強引さを向けられたことがないので対応がよくわからない。両者そろってふたりの勢いに負けるしかなく、ひとりさんはたまらず表に飛び出てきて、わたしはいつもの意識の底に引っ込むことになってしまっていた。
ひとりさんが表に出るなり、頬にいくつかの温かい液体が伝い始める。まだ泣き止んでいなかった、だからひとりさんは表に出たがらなかったのだろう。数十分も泣き続けてしまうほどにひとりさんも傷つけて、悲しませて。わたしはどこまで、どうしようもないのだろう。
「ふたり、その、わ、私……」
同じように袖で涙を拭いながら、ひとりさんがふたりへと口を開く。でも、その言葉は尻すぼみで形になることはない。どこか後ろめたそうに逸らされている視線からは、謝りたいけど謝ることができない。そんな感情がありありと読み取れてしまう。
あのひとりさんが謝罪を躊躇う理由、それもきっとわたしのためなのだろう。わたしを蔑ろにしないがために、大切な妹に謝ることすら躊躇われてしまう。なにもかも、突き詰めればわたしのせいでしかないのだ。わたしがもう少し器用だったなら、上手に生きられる人間だったなら、ひとりさんもふたりもこんな辛さを背負うことはなかった。それかあるいは、そんな内面をわたしなんかが想像することそのものが烏滸がましかったりもするのだろうか。
「ねぇ、お姉ちゃん」
「な、なに……?」
「ギター弾く方のお姉ちゃんも、辛かったんだよね?」
「……え」
それは唐突な質問だった。怒りも悲しみも覗かせず、ただじっとひとりさんを見上げながらふたりが問いかける。ひとりさんも辛かった、わたしの遅すぎるにもほどがある呟きが今更拾い上げられていた。その問いは、ふたりにとってなにより優先されるような意味をもたらすとでもいうのだろうか。
「それは、うん。すごく辛かった……けど」
「そっか」
何度も痛感させられた事実のはずなのに、直接言葉にされると尚更に痛みが走る。わたしはただひとりさんに笑っていてほしくて、そのために生きようって最初に決めたのに。どうして、こんな存在に行きついてしまったんだろう。
「じゃあ、もういい」
「もういいって……」
「みんな同じだってわかったから。だからもういいの!」
ふたりの言葉の意味が、わからなかった。もういいって、なんだ。大好きなお姉ちゃんとの約束を破らせて、あれほど泣かせて傷つけておいて、それが何事もなかったかのように水に流されていいはずなんてないのに。いいわけがない、やめて、馬鹿なことを言わないで。意識が表に出ていれば、そう叫びだしてしまいそうだった。
「それは……いや、そうだね。ふたりの言う通りだ」
「うん!」
わたしの理解が追いつかぬままに、二人の仲でだけ話が完結していく。互いを気持ちよく許し合うその姿には、もはや一片の禍根もわだかまりも感じられはしない。同じ表情で、穏やかに笑い合うひとりさんとふたりは正しく姉妹なのだと感じられた。
何も分かりやしない。かろうじて分かるのは、わたしだけはきっと違うということだけだ。ふたりが何をもって同じと称したか定かではないけれど、わたしにはできっこないから。あんな風に許し合うことも、後ろめたさを吹っ飛ばしてあげることだって。未だにこの終着に納得できていないわたしでは、違えるにきまっている。
でもどうして、そんなことでわたしはショックを受けているのだろう。ひとりさん達とわたしが違う存在なんて、当たり前じゃないか。わたしなんかがひとりさん達と同じであることを求めるなんて、間違っているのに。同じでいたかったなんて、いつのまにかそんな幻想に酔っていたのだろうか。だとしたら人でなしの分際で、馬鹿げている。
「ほら、早く虹夏ちゃん達のところに戻る! ギター弾く方のお姉ちゃんが呼んだんだから、ちゃんと自分でおもてなししないとダメでしょ!」
「お、仰る通りで……」
後はもう完全にいつも通りだ。背伸びして少し大人ぶったふたりが、ひとりさんを叱るようにして話はおしまい。大きなすれ違いなんて何もなかったかのように、仲睦まじい姉妹の姿だけが存在している。
これでよかったじゃないか。ふたりはわたしが何をする必要もなく元気に立ち直って、ひとりさんとも無事に仲直りすることができた。これ以上の結果なんて望むべくもない。ひとりさんとふたりが良ければそれで、そこにわたしの感情が追いつく必要性なんて欠片もないのだから。
『えっと、もう一人の私』
『……どうしましたか?』
『これを持っていけばいいんだよね? あと他にやっといたほうが良いこととかあるかな』
『……上着を替えたほうが良いかもしれません。そのままだと、虹夏さん達にいらぬ心配をさせてしまうかもしれませんし』
『あ、そっか。ありがとう、もう一人の私』
わたしの心を置き去りにしたままに、ひとりさんはもう部屋に戻る準備を進めていた。切り分けたフルーツタルトと飲み物を持って、わたしに次に取るべき行動を尋ねてくる。反射的にわたしの口から紡がれた返答は、その場限りのごまかしでしかなかった。
わたしが真に助言すべきなのは、部屋に戻ってからの虹夏さん達への対応についてなのに。そもそも、今こうして行動をひとりさん任せにしていることそのものがおかしい。今この状況に至ってしまったのは、全てわたしの身から出た錆なのだから。わたし自身が直接虹夏さん達に説明して事態を収めるべきなんだ。
なのに、いそいそと予備のジャージに着替えるひとりさんに身を任せたまま、わたしの心はいつまでも行動を起こしてくれない。わたしなんて、ひとでなしと、自己否定の言葉ばかりがグルグルとわたしの頭をめぐり続けていた。
「ふたり、お姉ちゃん達は戻るけど」
「うん。お父さんとお母さんが帰ってきたら、また呼ぶね」
準備を終えて、ひとりさんが一歩ずつ階段を登っていく。部屋に戻ったら、虹夏さん達はどんな反応を取るのだろう。わたしの存在に対してどのような態度と言葉が向けられるのか、ネガティブな想像ばかりが膨らんでいく。ひとりさんに信じるべきなどと言っておきながら、当事者となったら彼女達の優しさを疑って。今の臆病なわたしが何を、ひとりさんに言ってあげられるというのか。
『その……もう一人の私のことについてなんだけど』
『……はい』
『虹夏ちゃん達には、私がなんとか説明しようと思うんだ……』
『本当ですか?』
『う、うん。もう一人の私みたいに上手に説明することなんて絶対できないけど、虹夏ちゃん達を呼んだのは私だから……私がしなきゃって、思うから』
『ですね……それが、良いのかもしれません』
それがわたし自身の役割の放棄であることを自覚しながら、ひとりさんの提案に頷くことにした。渡りに船とばかりに明らかな負担をひとりさんに押し付けて、恥ずべき行いだとは分かっている。それでも、今のわたしの精神状態でまともな説明ができるとは思えなかったから。
それ以上に、虹夏さんと喜多さんを前にして今の自分が何を口走ってしまうのかがわからなくて、恐ろしかった。コントロールできない感情から放たれる言葉は間違いなく、人を傷付けるものだから。そんなものをぶつけて誰かに迷惑をかけるくらいなら、わたしの自我なんて何を差し置いても表に出るべきじゃない。それこそ、一生。
「あっ、その、すいません……大変長らくお待たせしました」
「お帰りなさい、ひとりちゃん」
ひとりさんが恐る恐ると部屋に戻ると、喜多さんが明るい声色で出迎えてくれた。ただ、形作られた表情には浮かない感情が見え隠れしていて、ふたりとの一件が未だ尾を引いていることが鮮明に感じられた。
部屋の中央のテーブルにはスケッチブックと色鉛筆が広げられている。でも準備をしていただけで、待っている間に二人でTシャツのデザインを考えていたという訳ではないのだと思う。リョウさんならともかくとして、虹夏さんと喜多さんが今回の一件に無関心を装えるとは思えない。
「えっと、ぼっちちゃん……ふたりちゃんとは大丈夫だった? 喧嘩になったりとか、してないかな」
喜多さんの対面に座り、ひとりさんに問いかける虹夏さんの声には、心配の色が強く滲み出ていた。ひとりさんが誤魔化したとはいえ、いや、ひとりさんがあんな風に冷静に誤魔化したからこそ、ただ事じゃないと感じ取れてしまったのかもしれない。
「あっいえ、喧嘩だなんてそんな……最終的に、さっさと戻りなさいって私が怒られちゃったくらいですので」
「よ、よかった〜!! ……本当にごめんね、あたしがふたりちゃんに余計なこと聞いちゃったばかりに。後で、改めてふたりちゃんにも謝らせて欲しいな」
「あっはい」
ひとりさんの返答を聞いて安堵する虹夏さんの姿を見て、僅かばかりの安心感をわたしも覚える。虹夏さんも喜多さんも、こうして純粋に姉妹の仲が壊れていないか心配してくれる人なのだから、きっと大丈夫。そうやって彼女たちの優しさに縋らないと、平静を保てそうにもなかった。
「あっあの、さっきふたりがした話についてなんですけど……」
「よし! それじゃさっそく、みんなでTシャツのデザイン考えよー!」
「で、ですね!」
話を切り出そうとしたひとりさんに、虹夏さんの大きな声が被さる。空元気気味に大きく張り上げられたその声は、食い気味に追従した喜多さんの様子も相まって、まるでひとりさんの話を意図的に遮っているようだった。
「え、ちょ、に、虹夏ちゃん……?」
「ほら、ぼっちちゃんもこれに描いて! ね?」
「あっはい……え??」
虹夏さんからスケッチブックを押し付けられて、ひとりさんは大きく混乱している。そこになんのフォローもせずに、作業に移ってしまう虹夏さん達。その様子はわたしの眼から見ても、明らかにらしくないように映った。やはり、意図的に先ほどの一件を掘り返させないようにしている。これがわたし達がいない中で、二人が出した結論ということなのだろうか。
『わ、私……何か間違った!?』
『いえ、そんなことは。ただ単に、聞かなかったことにしてくれたのでしょう。……立ち入ってはいけない事情だと判断されても、不思議ではないでしょうから』
わたしの話をするふたりもそれを止めに入ったひとりさんも、虹夏さん達の眼から見れば尋常ならざる様子に見えたに違いない。虹夏さんも喜多さんも優しくて、きっと人の痛みが良くわかってしまう人だろうから。傷つけないために、浮かんだ疑問に蓋をするという選択肢を取ることはなんらおかしいことではない。むしろ、姉妹の仲をたびたび気にしていた虹夏さんがそう判断したのは自然ともいえた。
『二人とも、優しいもんね……でも、わたしはどうするべきなんだろう。虹夏ちゃんと喜多さんには、もう一人の私のことは話しちゃいけないのかな』
ひとりさんの抱いた葛藤に対する解答を、わたしは当然持ち合わせていなかった。このままなかったことにされてしまえば、約束を破ってまで伝えたふたりの覚悟と想いが報われない。しかし、ひとりさんとふたりの仲を気遣って一歩引いてくれた虹夏さん達に、わたしの存在を突きつけて再び苦悩させることが正しいとはとても思えない。
結局、私が全てだ。ふたりの悲しみも、ひとりさんの葛藤も、虹夏さんと喜多さんの心苦しい気遣いにしたって全部、私の存在が原因に繋がっていく。
『ごめんなさい、ひとりさん』
『ど、どうしてもう一人の私が謝るの?』
『わたしのことで沢山辛い思いをさせて、傷つけました……だから、ごめんなさい』
わたしの口から漏れ出たのは何かの答えなんかではなく、ひとりさんに対する謝罪だった。ひとりさんとふたりの間ではすでにわだかまりなく終わった話。それをわざわざ蒸し返すべきではないって理解もしている。でも、わたしにとっては何も終わっていやしないから。
すごく辛かったと、ひとりさんの悲しみを思い知ったから。それをなかったかのように、水に流してしまうことが出来なくて。これはひとりさんの為の優しさではないのかもしれない、ただ赦されたいだなんてわたしの身勝手でしかないのかもしれない。でも、どうしても黙ったままでいることがわたしにはできなかった。
『あの、もう一人の私』
『……はい』
『それって、もう一人の私が謝らなきゃいけないことなのかな』
『え?』
その返事に耳を疑った。ひとりさんがどんな考えのもと、そんな感想を抱いてしまったのかがこれっぽっちも理解できない。だって大切な人を悲しませ傷つけておいて、それを謝らなくていいだなんて。それでは本当に、人でなしの所業みたいじゃないか。
『ご、ごめん。私変なこと言ってるよね……今のは失言ということで、忘れてほしいというか』
『い、いえ! できれば、どうしてそう思ったのか聞かせていただけないでしょうか?』
『えっ、う、うん。もう一人の私が望むなら、もちろん』
考えをまとめているのか、スケッチブックと睨めっこするかのように俯いて黙り込むひとりさん。同じように、虹夏さんと喜多さんも黙々と机に向かって作業を進めている。あれほどお喋り好きな喜多さんまでそうしているのを見るに、皆が今回の一件について考えをまとめ切れていないのかもしれない。普段の結束バンドの様子とは程遠い静寂だけが、部屋中を包み込んでいる。
『もう一人の私のことで傷ついたり悲しんだりしたっていうのは、確かにその通りなんだ』
『……はい』
謝るということは、ひとりさんの口から直接わたしの所業を突きつけられるということ。それは承知のはずだったのに、お前のせいで傷ついたと本人に言われるのは予想以上に堪える。なんとかその動揺を悟られぬように返事をするのが精いっぱいだった。傷つけたわたしが、傷ついた素振りなんて見せるわけにはいかないのに。
『でもそれはもう一人の私が大事で、大切だったからだよ』
『ひとりさんがそう思ってくれるのは嬉しいです。けど、だからといってわたしの罪がなかったことにされていいはずが――』
『そうだけど、そうじゃなくて! 辛くて悲しかったこの気持ちも、大切にしたいんだ。もう一人の私のことが好きで、大事に想えてるんだって私の証拠だから! だから謝ってほしいなんて思わないし……罪だなんて、呼んで欲しくない』
一つも尻込みすることなく真正面から叩きつけられたひとりさんの想いに、言葉を失う。きくりさんと一緒に路上ライブを行うと決めたあの時と一緒だ。ひとりさんはもう、わたしの形ばかりの言葉だけで自分の考えを揺らがせることはない。その覚悟の源泉がどこから湧いて出るものなのか、その正体を未だわたしは掴めていなくて。わたしの知らなかった一面をいくつも覗かせるひとりさんの姿が、時折まぶしくも感じられた。
ひとりさんの語ってくれた気持ちは、正直わたしにこそ馴染み深いものだ。ひとりさんのことで傷ついたこともあったし、悲しんだことだって何度もある。でも、それをひとりさんに謝ってほしいと思ったことなんて一度もない。悲しんだ記憶も辛かった経験だって、その一つ一つが愛おしいものだから。だからひとりさんの論理が理解できてしまう。痛いほどに、よく分かる。
きっと同じ気持ちなんだ。ふたりの語った、同じとはこういうことだったんだろうか。みんな誰かが大切だから傷付いて、でもその傷も分かち合えれば痛いばかりではない。だからいいのだと、そういう意味だったんだろうか。
だけど、同じであることの奇跡をわたしは決して喜んじゃいけないはずだ。だって、わたしがひとりさんの全てを愛おしいと思えるのは当たり前のことだ。そうであることを望まれて、ひとりさんが生み出してくれた存在なんだから。わたしのような存在の奇妙な当たり前を、どうしてひとりさんまでもが持ち合わせていないといけないのか。
そんなのは、あまりにも苦しいじゃないか。この重さと狂おしさを、ひとりさんに受け入れさせちゃいけない。だって間違っている。でもそれは、どうしたらひとりさんを傷付けずに伝えられる。ひとりさんのことは決して否定したくなくて、けれど自分を否定するのはひとりさんを追い詰め続けるばかりで。八方ふさがり、ひとりさんの言葉を止めることが出来ない。
『それに……やっぱり私は。自分のこと以上に私を優先してくれるもう一人の私が、大好きだから』
『……そんなわけ、ないでしょう』
ぽつりと、ついにひとりさんを否定する言葉が漏れ出てしまう。もう我慢することが出来なかった。わたしはもう知ってしまっている。わたしが自分を蔑ろにする度にこの人が何を感じて、どれほど傷ついていたのか。その片鱗を垣間見てしまった。そんな相手をどうして、穏やかに許容してしまえる。もっと怒っていい、不満を漏らしたっていいのに。どうして。
『ひとりさんの本当の想いは、そうじゃないんでしょう!? なってほしいわたしが、変わってほしいわたしが居るんじゃないんですか?なのにどうして、そんな風にわたしを認めてくれるんですか……どうして』
こんな問い詰めに意味はない。たとえどんな答えをひとりさんが用意してくれたって、結局変われやしないのに。自分の存在が赦されるべき理由を求めてるだけだ。どうしてどうしてとそればかり、誰かから理由をもらわなければ自分を保つこともできないなんて、みっともないにも程がある。
『確かに居る、けど。そんなこと言えないよ』
『……どうしてでしょうか?』
『だって私も、自分のことがあんまり好きじゃなかったから』
え、とわたしの口から間抜けな声が漏れた。それはわたしにとって大前提といっても良いほどに、周知の事実だったから。ひとりさんが自分のことをあまり好いていないなんて、知ってるに決まっている。そうじゃないと、わたしはこうして生まれてなんていない。
人見知りのコミュ症で陰キャで、そんな風に一度自己嫌悪に陥ってしまえばもう止まらない。それこそが、わたしにとってのひとりさんの始まりだった。
『中学の始めくらいの頃だったっけ、覚えてる? もう一人の私に、人生代わってくれないかって提案したこと』
『え、ええ。今でも昨日のことのように思い出せますけど……』
『あれ、実はけっこう本気だったんだ。もう一人の私のお陰で生きやすくはなったけど、実際私が上手に生きられるようになった訳じゃないし……なら、カッコよく生きられるもう一人の私がやった方がいいじゃんって』
『……ふふ、やっぱり。あの時のひとりさん、少し怖いくらいでしたし』
『ば、バレてた!? へへ、もう一人の私にはお見通しだね』
どん底を這いずっていたメンタルが、懐かしさで少しだけ安らぐ。あの頃はわたしもひとりさんに襲い掛かる問題に対処するのに手一杯で、自分のことなんて考える暇もないその忙しなさが幸せで堪らなかった。でも今は違う。わたしは自分の身の振り方を否が応でも考えなければいけないんだ、ひとりさん自身で歩む日常のために。
『あれからギターにずっと没頭して、結束バンドのみんなに出会えた。それでようやく最近、自分にちょっとだけ自信が持てるようになってきたんだ』
『素敵なことです。ですから、わたしにだって言いたいことを躊躇う必要なんてありません。自信を持って、言っていいんですよ』
『……じゃあ、自信を持って言うね。私がちょっとだけ自分を好きになれたのは、全部もう一人の私のお陰だよ。大好きなヒーローに、たくさんの勇気をもらったから』
謝罪の言葉を考えていた思考の全てを、愚直なまでの感謝の表現に全て吹き飛ばされる。わたしはもうヒーロー足り得ない。今まさに弱音を吐き、ひとりさんに頼りきりで醜態を晒してしまっている。何もかも変わってしまったはずなのに、ひとりさんがわたしをヒーローだと慕ってくれるその憧憬は変わっていないのだと、証明してくれるかのようだった。
『ずっと、自分なんてこれっぽっちも好きじゃなかった。でももう一人の私がスゴイって、大好きだって今日まで認め続けて支えてくれたから……私は変われた』
『ひとりさん、わたしはそんな……』
『人ってそんなに簡単に変われない。もう一人の私が今までの人生ほとんど私に使ってくれてやっとなんだ……だから変わってなんて言えないし、絶対に言いたくない』
ここ最近のわたしをひとりさんがどんな感情で見続けていて、どんな覚悟で黙って肯定してくれていたのか。その重さと誠実さを、悉く思い知らされている。ひとりさんがわたしに言いたいことを言わないのは、決して後ろめたさや申し訳なさからではなかったのだ。自分の人生に照らし合わせて、優しさを持ってその最善を成し続けようとしていただけ。
本当の想いじゃないなんて、侮りでしかなかったんだ。
『もう一人の私。私いま夢が……ううん、目標があるんだ』
『目標、ですか?』
『うん。ギタリストとして、皆の大切な結束バンドを最高のバンドにしたい。そしてその音楽を通していつか、もう一人の私に自分のことを好きになってもらいたいって』
今のひとりさんを見ているとどうして苦しいのか。こんなにも後ろめたく、消え去りたい気持ちになるのかようやくわかった気がする。ひとりさんはもう自分だけで未来に想いを馳せ、前に進むことができるからだ。
わたしの仕事はずっと、ひとりさんの代わりに前に進むことだった。困難を前にして、後ろに全力で逃走しようとするひとりさんの代わりに前に進んで、安全になった道をひとりさんに指し示していくこと。でも、ひとりさんはやがてわたしという道標を既に必要としなくなった。わたしは前を見る必要がなくなって、ひとりさんが今まで歩んできた道を振り返るしかなくなった。私ががむしゃらに歩んできたぼろぼろの道のりが、ひとりさんを傷付けていた事実を直視するしかなくなったから、こんなにも怖くなったんだ。
だけど、ひとりさんは結束バンドとの未来を思い描いているだけでも良かったのに。どこまでも真摯にわたしのことを振り返ってくれていた。結局お互い転んでばかりだったはずの道なのに、かけがえのない道程だったのだと屈託なく笑ってくれる。それどころか、当たり前のように続きを描きだそうとしている。わたしの本音を察しているのに、わたしとの未来予想図に一切のヒビも入ることはない。
当のわたしにひとりさんの夢に釣り合うほどの気持ちなど一切ありはしない、虚しすぎる目標。その自覚をもってしても、先ほどのように否定の言葉は形となってくれない。理由の一つは、未だ消える覚悟も持てないわたしの心では、ひとりさんと張り合えるとは思えなかったから。そしてそれ以上に、とても単純な話として、途方もなく嬉しかったから。
わたしの大好きな人が、わたしのお陰で自分を好きになったと言ってくれて。わたしの為に、わたしの大好きな音楽をささげようとしてくれている。そんな嬉しいことって、きっと人生に二度とない。そんな出来事を拒めるほど、わたしは自分に厳しくあれやしない。必死に取り繕ってみせたところで、結局わたしも意志脆弱で優柔不断の不安定な存在だった。
『……わたし、自分のことが全然好きじゃありません。多分、嫌いです』
『う、うん、知ってる』
『今でも、自分はいつか消えるべきなんだって思ってます』
『それも、知ってる……もう一人の私と違って、気付いたのは最近だけど』
『それでもいいんでしょうか、わたしは』
『いいんだよ。ありがとう、もう一人の私』
わたしは既にひとりさんのヒーローではない。そして当然、後藤ひとりという個人でもない。正しく名乗るべき名すら存在しない、正真正銘の人でなし。でもどうやら、わたしはそんな存在に成り下がってもいいらしい。許されるみたいだ。
そんな曖昧な存在であり続けることに嫌悪はある。自分を好きになれるだなんて、夢にも思うことはない。それでも、ひとりさんの心の在り方と望んでいる未来がとても、綺麗に見えてしまったから。変われるとは思えないけど、変われたらどんなに素敵なことだろうって思えたから。人でなしのわたしでもそれくらいは、信じられるようだったから。
だからもう少しだけ、見えやしないわたしの明日を模索してみようと思うんだ。
『ごめんなさいを受け取るんじゃなくて、ありがとうをもう一人の私には贈りたかったの……回りくどくなっちゃったけど、ようやく言えた』
いつかわたしも、そうなれるだろうか。ひとりさんにごめんなさいじゃなくて、心からのありがとうを贈れるような存在に。無理だと、人でなしのわたしが出してしまう結論は無慈悲だけれど。いつか自分を好きになれたなら、ヒーローでも人でなしでもなく、ひとりさんの代わりでもない何者かになってみたい。そんな望みくらいは、わたしでも抱えられるみたいだ。
『ひとりさん。わたし達のこと、虹夏さん達に話しましょう』
『えっ、で、でもそれは……』
『ひとりさんが話したいと思っているのなら、そうするべきです』
だからこそ、わたしはそう口にすることにした。たとえヒーローでなくなったとしても、ひとりさんの為に在りたいという心構えが変わるはずもないのだから。抱えていた秘密を大切な仲間にだからこそ話したいなんて、至極当たり前の感情だ。わたしならともかく、それをひとりさんが躊躇う必要なんてない。
受け止めて貰える自信がないと言うのなら、わたしがひとりさんの代わりに保証しよう。たとえ自分が信じられなくたって、大切な人の仲間を信じてあげることくらいはできる。今のわたしにだって、それくらいやれる筈だ。
「ひとりちゃん……このタルト、とっても美味しいわね!」
「えっ?……あっ、えっと、お口に合ったのならなによりです?」
作業に無理やり没頭していたはずの喜多さんが、不意に出したお菓子の感想を告げてくる。まるでいつも通りを演出するかのように。ただ、いつも通りなら喜多さんはそうじゃないはずだ。スマホをすかさず取り出し写真を撮って、SNSにあげるくらいは絶対にするはず。
だからこのままじゃいけない。初めて友達が遊びに来た日、ひとりさんにとっての大切な思い出になって欲しい。こんな無理やりに作った空気ではなく、秘密を打ち明けて心から笑いあえる光景をわたしは望みたいから。
「ほんと、美味しい! 急な話だったのにこんなお菓子まで用意してくれてありがとね、ぼっちちゃん」
「しかもこれ、こないだ王族のブランチで紹介されていたお店のものなんですよ! いつか食べたいと思っていたので、すごく嬉しいんです!」
「へー、そんな有名なお店のなんだ。すごいね、喜多ちゃんへのリサーチばっちりだ」
「あっ、やっその、それは……それは全部、違うといいますか……」
話を切り出すとすれば、今なのだろうか。そのお菓子を買ってきたのはひとりさんじゃないと打ち明けて、今までの誤解とすれ違いに終止符を打つ。ひとりさんも同じ考えなのか、必死にそのための言葉を探しているようだった。
「ねぇ、ひとりちゃん」
「えっ……ど、どうしましたか?」
「もし間違えてたら申し訳ないんだけど……このお菓子を選んだのって、ひとりちゃんじゃないんじゃないかしら?」
「え」
「き、喜多ちゃん……?」
おもむろに疑問を投げかける喜多さんに、虹夏さんが信じられないといった表情を向けていた。ひとりさんもきっと、似たような表情を向けているに違いない。そしてわたしの心の内も、同じ感情で満たされている。まさかこのタイミングで喜多さんの方から踏み込んでくるなんて、予想外にもほどがあった。
「ずっと変だとは思ってたの。SNSの話をしただけで倒れちゃうくらいその手の話が苦手なはずなのに、私が話すオシャレや流行の話にも妙に詳しい時があるなって。まるでずっと、傍で誰かに教えてもらってるみたいに」
喜多さんの推察はかなり真に迫っていた。喜多さんへの会話のサポートとして、わたしがひとりさんに助言を行った回数は数知れない。普段のひとりさんの様子とまるで一致しない知識。他者とのコミュニケーションに長けた喜多さんがそれを違和感として察知したのは、道理だったのかもしれない。
「きっとそれを教えてるのは、ひとりちゃんの憧れの人なんだろうなってずっと思ってた。そして、さっきふたりちゃんの話を聞いてやっと気付けたの。その人はただの憧れの人なんかじゃなくって、ひとりちゃんにとってなによりも身近な――」
「喜多ちゃん!!」
核心に迫ろうとした喜多さんを、虹夏さんの大きな声が阻んでいた。思わずといった様子で立ち上がり、喜多さんに向けられる目線は強く諫めるような雰囲気を帯びていた。この様子を見る限り、ふたりの話し合いで立ち入らないという選択を強く推したのは虹夏さんの方だったのだろう。
「わかってますよ!!」
喜多さんも立ち上がり、真っ向から虹夏さんに視線を返す。その眼には確かな意思が宿っているようで、どんな叱責にも一歩も退く気がないことが伝わっていた。
「伊地知先輩の言う通りだって……ひとりちゃんとその家族にとってデリケートな問題で、私達が安易に立ち入っちゃいけないことだってくらいわかってます。でも、ひとりちゃんからはもう逃げないって私は決めたんです!!」
喜多さんの覚悟に満ちた声が、部屋中に響き渡る。虹夏さんとの話し合いを無視してまで、どうして喜多さんが踏み込んできてくれたのか。それはなにも難しい話なんかじゃなくて、きっと過去からの延長線上の話でしかないのだ。ひとりさんが逃げずに、後ろ向きに全力で喜多さんに手を差し伸べたあの日からの。
ひとりさんの手を取って結束バンドに戻り、ひとりさんから逃げないと決めた。そして、ひとりさんの大切なものを大切にしたいとまで言ってくれた人。喜多さんはひとりさんの友達として、今もその宣言通りに動いてくれているだけなのだろう。
そもそもとして、喜多さんは異常な行動力の持ち主だった。ギターを弾けもしないのに勢いでバンドに入ってしまうように、常人なら躊躇う部分で迷わずアクセルを踏み込んでしまえるような人なのだから。この結果に行きついてしまうのも当然のことだったのかもしれない。
『もう一人の私、いいよね?』
『ええ、話しましょう。喜多さんの勇気と虹夏さんの心遣いに、報いるためにも』
ひとりさんを想って一歩踏み込んでくれた喜多さんに、一歩引いてくれた虹夏さん。どちらの気持ちも決して間違いではなく、ありがたいものだ。そんな二人の感情がこれ以上対立しない為にも、ここで全てを打ち明けてしまおう。
「あの、私話します! い、いや、そうじゃなくて……二人に話したいことが、あるんです。どうか、聞いてくれないでしょうか」
「ひとりちゃん……是非、聞かせて欲しいわ」
「……ぼっちちゃんがそう言うなら、あたしも」
ひとりさんの気持ちを汲み取ってくれたのか、二人とも座って矛を収めてくれる。思えば、こうして誰かに真正面から打ち明けるなんて初めてのことだ。その最初がこんな形になるだなんて予想もしなかったけれど、その相手が結束バンドの皆さんでよかったと心から思える。わたしにとっては存在がかかっている一大事のはずなのに、不思議と心は落ち着いてくれていた。
「喜多さんの言う通り、このお菓子を選んで買ってきたのは私じゃありません。これを選んでくれたのは私の憧れの人……もう一人の私なんです」
「もう一人の私……それが、ひとりちゃんの憧れの人だったのね」
「……やっぱり、そういうことだったんだ」
ひとりさんから告白を受けての二人の反応は驚愕ではなく、まるで全ての辻褄が合ったかのような納得を含んだものだった。喜多さんはひとりさんとの普段の交流から違和感を感じ取っていたようだし、虹夏さん相手なんてわたしは何度も表に出てきてしまっている。そして先ほどのふたりの発言がとどめとなって、やっぱりかという感想の方が二人にとっては強いのかもしれない。
でも、こうして自分から打ち明けたことに意味があるんだって、わたしは思うんだ。
『……い、言えた! で、でも、ここからどう話そう?』
『えっと……どう、話しましょうか?』
『も、もう一人の私も思いつかない? わ、私が何か考えないと!?』
『す、すいません! ……えぇと、最初から一つずつ順序だてて話すとか』
ひとりさんからのヘルプに、とんでもなくだらしのない返事をしてしまう。何を勝手に安心して気を抜いているんだ、馬鹿かわたしは。むしろ、詳細な事情を話すこれからが本題だというのに。こういう時に頭を働かせるくらいしか取り柄がないのだから、本当にしっかりしなければ。
「……よし、伊地知先輩にひとりちゃん。実はTシャツのデザインが完成したんです、見てくれませんか!」
「えっ、い、今!?」
「はい、今だからこそです! ほら、早く見てくださいよ~」
「い、いいけどさ……」
「あっ、私も大丈夫です」
脈絡のない喜多さんの提案に、皆揃って困惑を隠しきれないでいる。会話の内容を定め切れていなかったわたし達にとっては渡りに船な訳だけれど、急にどうしたのだろう。理由もなく話の腰を折るような人じゃないから、なんらかの意図が含まれているのは確かなんだろうけど。わたしにはそれを察することができそうにもなかった。
「こ、これ、どこかで見たことあるような?」
「体育祭で見るやつ!?」
喜多さんが自信満々に掲げて見せたデザインは非常に既視感を覚えるもので、虹夏さんの指摘通りに体育祭でよく見るクラスTシャツそのもの。青春コンプレックス持ちのひとりさんとわたしにとっては、なんとも反応に困る一品だった。
「コンセプトは友情・努力・勝利です!」
「友情努力はともかく勝利って……しかもこの優勝ってなに? ライブにそんな概念ないけど」
「えっと、ノリです! 私、体育祭みたいな雰囲気が好きなんです。皆の心が一つになる気がして」
「……そ、そう」
「ひとりちゃんはどう? 体育祭とか、好きだったかしら?」
いかにも喜多さんらしい持論を展開して虹夏さんを圧倒したかとおもえば、ひとりさんに向き直りまた一見関係なさそうな問いを投げかける。ひとりさん、そしてその陰に居る誰かを見つめるその表情はとても優し気で、ここまでしてくれてようやくわたしは喜多さんの言動の意味を理解することになった。
「わ、私はあんまり運動会とか体育祭とか好きじゃなくって……多分、学校行事の中でも一位を争うくらいには苦手でした」
「そ、そうだったのね」
「私みたいなクラスになじめない陰キャにとって、拷問行為にすら等しい期間だとすら思っていましたし……」
「く、暗いなぁ」
「で、でも、もう一人の私が来てくれてからはそれだけじゃなくなったといいますか」
「ねぇ、聞かせてくれないかしら。ひとりちゃんともう一人の大切な人、二人の体育祭の話」
「うん、あたしも聞きたい!」
「わ、わかりました!」
喜多さんは体育祭の話について聞きたがっている訳じゃない。それを通して、ひとりさんが自然とわたしの話をできるように取り計らってくれたんだ。わたしの話をする上で空気が重苦しくなり過ぎないように、ひとりさんを問いただすような形にならないように。ひとりさんの思い出話として、わたしのことを知ろうとしてくれている。とてつもなく繊細な心配りだった。
喜多さんはどうしてこんなにも、会話のとりなし方が上手なんだろう。こんな風に私も誰かを安心させられる喋り方が出来たなら、そう思わずにはいられなかった。
「前に色々なことから逃げたって言いましたけど、厳密には違ってて……本当はもう一人の私に代わってもらってたんです」
「学校生活殆ど逃げたみたいな口ぶりだったから少し心配してたんだけど、そういうことだったんだね」
「じゃあ、体育祭ももう一人のひとりちゃんが代わりに出たってことよね?」
喜多さんの狙い通りに、和やかに会話が進行していく。ひとりさんと虹夏さん達の間で当たり前のようにわたしの話が行われているのが不思議で、どうにも落ち着かない。
「は、恥ずかしい話ですが、私は体育祭の期間をやり過ごせればそれだけでいいと思っていたんですけど……」
「けど?」
「そうやって何かを代わって貰うたびに、もう一人の私は信じられないくらい頑張ってくれるんです。体育祭の時も、絶対活躍してみせますからって。目標は女子リレーのアンカーだって、運動不足にも程がある私の身体で沢山練習してくれて……」
「なんか、想像できる気がする。きっとさ、ぼっちちゃんの為にそこまで一生懸命になってくれたんだよね」
「は、はい! 私が体育祭で肩身の狭い想いをしないように、素敵な思い出になりますようにって。いつも、私のことを最優先に考えてくれてですね……」
「うんうん、ぼっちちゃんが大好きって思ってるのが十分に伝わったよ……そういうとこ、そっくりなんだなぁ」
ひとりさんの為に一生懸命になれる存在。虹夏さんがわたしをそうイメージしてくれていることは嬉しいけど、それ以上に気恥ずかしいと思う気持ちが強い。わたしを語るひとりさんの様子を見て、不覚にもひとりさんを語ってしまったわたしを虹夏さんが連想してしまっているようだから、尚更に。
「陸上競技をやっている子も多いですから、さすがにアンカーにはなれなかったんですけど。それでも、もう一人の私はたくさんの種目で活躍して、クラスメイトの皆からも認められていて……私もすっごく、嬉しくて。私にとって本当にヒーローだったんです。そんなヒーローが現れるようになってくれたお陰で、私は体育祭が嫌な日じゃなくなったんです」
「すっごく素敵なお話ね!! ひとりちゃん、私感動したわ!!」
「あたしも。ぼっちちゃん達のこと、ようやく少しだけわかってきたような気がする」
「そ、そうでしょうか……だったら、嬉しいです」
わたしにとっては、振り返ると疑念ばかりが渦巻いてしまう思い出だ。わたしが加減も知らずに張り切ったせいで、後藤ひとりは運動をそこそこできるのだとクラスメイトに思わせてしまった。それが基準となってしまったばかりに、その日からひとりさんは一度も体育の授業や体育祭に参加することはなくなってしまったから。ひとりさんの可能性を奪ってしまっただけだったのではと、今でも自問自答するときがある。
でも、今のひとりさん達を見ているとそんな葛藤を抱くことこそが間違っているようにも思えるんだ。ひとりさんにとってわたしがどう在るべきなのか。何が正しくて何が間違っているのか、その判断基準が根底から揺らいでいく。それを改めて定義することが、ひとりさんのために変わるという本質なのかもしれない。
「他にも聞いてみたいわ、ひとりちゃん達のお話」
「は、はい。もう一人の私の話なら、たくさん喋れると思いますので……!」
「お姉ちゃーん、入っても大丈夫ー?」
更に会話が膨らもうとしていた瞬間、部屋の向こうから元気なふたりの声が響く。時計を確認すると、いつの間にか時刻は正午を迎えていて。お父さんたちが帰ってきたら呼ぶと言っていたし、ふたりの要件はそれ絡みに違いない。ふたりの声がいつもと変わらなかったことにほっとしてしまい、自分が如何に引き摺るタイプなのか直視させられるようで少し辛い。
ひとりさんが大丈夫だろうかと暗に視線で訴えかけると、虹夏さんと喜多さんも快く頷いてくれた。
「う、うん、大丈夫」
「お昼ご飯だよ! それで、よかったらお友達も一緒にどうかってお父さんが!」
ふたりの用件はやはり想定通りで。朝から買い物に出かけていたのはこのためだったろうし、そもそも私自身も前日に料理の下ごしらえを手伝っている。この話を聞いた時点で、お父さんとお母さんはひとりさんの友達と一緒に食卓を囲むつもりだったに違いない。
問題があるとすれば、虹夏さん達がそれを受けてくれるかどうかではあるけれど。
「と、いうことみたいなんですけど……」
「「ぜひ!!」」
腹を割って話し合い、蟠りを解消した今の状態なら、二人の返事なんて分かりきったようなものだったかもしれない。
◇
「いやー、感動だな~。ひとりの友達が遊びに来る日がくるなんて」
「たくさん食べてねー」
「ありがとうございます!」
お父さんとお母さんも交えて、家族全員とひとりさんの友達が一緒に食卓を囲む。ひとりさんが何度妄想の中で夢想したのかわからない光景。待ちに待ったこの瞬間にわたしも感動の余韻に浸りたいところではあるのだけど、そうも言ってられない致命的な問題が一つ。
それは今まさにわたしが表に出て、エプロンを装備し食卓ではなくキッチンに居ることに他ならない。どうしてわたしはひとりさんを差し置いて、せっせと料理に励んでしまっているのだろうか。
『すいません、ひとりさん……できる限り急いではみますので』
『ゆ、ゆっくりで大丈夫! お父さんとお母さんの前だと、虹夏ちゃん達の前で何喋ったらいいかわからないし……むしろ丁度いいかも』
そうは言っても、本日の主役であるはずのひとりさんだけが蚊帳の外なこの状態はやっぱりおかしい。こんな状態に陥ってしまったのは単純に、お母さんにお料理をお願いと頼まれてしまったからだ。他ならぬひとりさんのお母さんに頼まれたとなれば、わたしに断る術があるはずもない。
もちろんわたしだって、料理なんてお父さんとお母さんに任せてしまえばいいと思ってる訳ではない。でもわたしの知るご両親なら、ひとりさんが友達との時間を満喫できるように、この役目を率先して引き受けてくれるものだと思っていただけ。勝手に落胆するなんて失礼にも程があるし、お母さんたちにはお母さんたちなりの考えがあるだろうことも予想はできる。しかし、この状態はわたしにとってこの上なくもどかしい。
「ぼっ……ひとりちゃんは、普段からお料理をよくするんですか?」
「ええ、そうなの。中学生の頃くらいからよく手伝ってくれるようになってね、今ではふたりのおやつなんかもよく作ってくれるのよ」
「お料理上手のお姉ちゃんで羨ましいわ、ふたりちゃん」
「でしょ! ギター弾かない方のお姉ちゃんはなんでもできるんだから!」
虹夏さん達とふたりの仲もすっかり元通りなようで、隣に座っている喜多さんに甘える様子は見ていて微笑ましい。しかしなんだろうか、こうして家族から友達に自分のことを話されるというのは、すごくこそばゆい。からあげを揚げている目の前の音より、何倍も鮮明に聞こえてしまうみたいだ。
「そういえば……こないだ、友達にあげるんだって。張り切ってサンドイッチを作ってたこともあったね」
「あー……今日は来てないんですけどそれ、あたしの幼馴染の仕業です。その節はひとりちゃんに大変ご迷惑を……」
「いえいえ。その時のあの子、すごく楽しそうだったから。むしろ、こっちがお礼を言いたいくらいで」
「そうだったんですか?」
「そうそう。普段は料理なんて黙々とやるのに、その日は鼻歌なんて歌ってたりして見るからに上機嫌で……あれには驚いたなぁ」
「お母さん、お父さん! 友達の前でそんなことまで喋らなくっても……は、恥ずかしいよ!」
「あらあら」
お父さんとお母さんにリョウさんとのやり取りでの浮かれ具合を暴露されてしまい、思わず振り返り割って入ってしまう。わたしとしてこの会話に混ざるつもりなんてなかったのに、両親に交友関係を言及されるのがここまで照れ臭いだなんて思いもしなかった。
何処となく、虹夏さんと喜多さんのわたしを見る目が生暖かい気がする。もしかすると、表に出ているのがひとりさんじゃないということがバレているのかもしれない。事情を話した今となっては特段問題はないけれど、それにしたって気まず過ぎる。
大体、こんな曖昧な気持ちのままなのに友達だなんて公言してしまってどういうつもりなんだ、わたしは。
『確かに。あの時のもう一人の私は、すごく楽しそうだったかも』
『ひ、ひとりさんまで……もう』
ひとりさんにまで言及されてしまう辺り、その日のわたしの浮かれ具合は酷いものだったのだろう。機嫌を露骨に態度に出してしまうなんて、わたしがするべき立ち振る舞いじゃないのに、猛省だ。
「ひとりとバンド組んでくれてるんだよね?」
「くれてるっていうか、あたしがお願いしてメンバーになってもらった感じでして」
「そっかそっか。やっぱり、音楽は人と人を繋ぐんだよ。な、ジミヘン!」
ひとりさんが友達を連れて来たことがよほど嬉しかったのか、お父さんはいつになく上機嫌だ。鳴き声で返事をするジミヘンも、気のせいかどことなく嬉しそうにも見える。
音楽は人と人を繋ぐ。ありふれた言葉かもしれないけど、本当にその通りだと実感を持って頷ける。ひとりさんは音楽を通して多くの縁を作りつつある。それが末長く、かけがえのないものになって欲しいとわたしは願っているから。
「どうぞ、唐揚げ揚げたてです。手前がにんにく醤油で、奥が塩麹になってます。お好みで七味とレモンをかけて召し上がってください」
「「わ〜、美味しそー!」」
『お、美味しそう……』
ひとまず唐揚げが出来上がったのでテーブルへと運ぶと、虹夏さんと喜多さんが大変嬉しい反応をしてくれた。家の味を二人が気に入ってくれたのなら、わたしとしても嬉しい限りだ。
好物を前にしてお預けをくらってしまっているひとりさんについては申し訳ないけど、もうしばらく我慢してもらうしかなかった。
「料理までしてもらっちゃって……何から何までありがとね、ひとりちゃん!」
「い、いえ! お客さんをもてなすのは当然のことですから、気にしないでください」
虹夏さんから少しだけ申し訳なさそうにお礼を言われてしまい、慌てて首を横に振る。ひとりさんのことを抜きにすれば、本当にこれくらいなんてことないのだ。そもそも下ごしらえは殆どお父さん達がやってくれていたし、わたしは最後に揚げただけ。それでお礼を貰ってしまおうなんて、恐れ多いことだろう。
「すっごく真面目だ!? ……こんな風にあたしが言っていいのかわからないけど、なんだかひとりちゃんらしいなって思った。もちろんいい意味でね?」
「わたしには勿体無い言葉です……では、ごゆっくり」
ぼっちちゃんではなく、ひとりちゃん。虹夏さんがそう呼んでみせる相手が誰を指しているのか、それはもう明らかなことで。わたしはもう惚けることすらもできないから、その言葉を正面から受け止める他ない。わたしらしいなんて言葉を、ひとりさん以外から受け取る日が来るなんて思いもしなかった。
その褒め言葉が受け止めきれず自分に相応しいとも思えなくて、半分逃げるような形でキッチンへと戻る。自分がどんな表情を浮かべているのか不安で仕方なくて、顔にそっと手を触れる。そうでもして確かめないと、自分の頬がみっともなく吊り上がっていやしないか怖かった。
何気ない一言でこんなにも舞い上がってしまうから、さっきみたいにお父さんやお母さんに揶揄われてしまうというのに。結局わたしも、対人関係では未熟極まりないのだと痛感するばかりだ。
「喜多ちゃん、一緒に食べよう!」
「はーい」
奇麗で明るくて面倒見のいいお姉さんが構ってくれるのが嬉しいのか、ふたりは喜多さんにべったりだ。今も膝の上に乗せてもらって、思う存分に甘えている。普段なら喜多さんのポジションにはわたしが居ることを考えると、ちょっとばかりジェラシーを感じないでもない。いや、止めよう。妹を通して友達に嫉妬するだなんて、姉馬鹿という言葉では済まされないみっともなさだ。
手伝っただけなんて謙遜したけれど、やっぱり自分が作った料理を美味しそうに食べてくれるのはどうしたって嬉しい。みんなの様子をじっと窺うたびに、和気あいあいとした空気に自然と頬がほころんでしまう。
さて、後はどうしようか。サラダも出したし、唐揚げも揚げ終わったので一通りの料理は全部済ませてはいるけど。お父さんのはしゃぎっぷりを見るに、もう一品くらいは何かあった方がいいような気もする。冷凍のたこ焼きがあったはずだから、それも揚げて揚げダコにでもするのがいいかもしれない。それなら、ゲームか何かをすることになっても手軽につまめて丁度いいだろう。
「この子、少し変わったところがあるでしょう……それで、みんなに迷惑とかかけてない?」
「いえ、迷惑だなんてそんな!」
『……お母さん?』
準備をしている途中、和やかな雰囲気のまま虹夏さんに投げかけられたお母さんの言葉に手が止まってしまう。語調は柔らかく笑顔で、会話の内容自体は娘の素行を軽く心配するだけのもの。そのはずなのに、虹夏さんを見据える眼だけは不釣り合いに真剣みを帯びていた。まるで、何かを見定めるかのように。
それだけで、なんとなくわかってしまう。この質問をして何かを見定めるために、お母さんは一度ひとりさんを蚊帳の外に置こうとしたのだと。きっとひとりさんが表に出ていたら、止めてしまうだろうから。現にお母さんの会話がただの軽口ではないことに気付いたのか、ひとりさんは疑問の声を浮かべている。
作業の手を止めたままに、聞き耳を立ててしまう。わたしにはこの会話は止められない。お母さんが誰の友達を見定めて、どんな考えを知ろうとしているのか。その正体に目を背け続けたわたしに止める資格なんてあるはずもない。
「確かに、ひとりちゃんはちょっと……いや、かなり変わっているとは思います。社交的かと思ったら人見知りだったり、無口かと思ったら饒舌だったり。何が好きでなにが苦手かとか、今でもわからないことでいっぱいです」
虹夏さんの語る率直な所感に、ひどく申し訳なくなる。振り返ってみれば、虹夏さんの前で一番ボロを出してしまっていた。違和感だらけだったろうに、今までよく何も聞かずにひとりさんの傍に居てくれたものだと思う。そんな優しい人なのだから大丈夫って、わたしが直接お母さんに言えたのなら。こんな質問をお母さんにさせることも、なかったのだろうか。
「でも、わかったこともあるんです。どのひとりちゃんもすっごくあたし達のことを見てくれていて、一生懸命に優しくしようとしてくれてるんだって」
お母さんの視線の意図に気付いているのかいないのか、虹夏さんは真っ直ぐに言葉を繋いでいく。そうあれたならと、羨んでいるわたしの理想のように。
「だからあたし、思うんです。あたしはどっちのぼっちちゃんも好きだなって……なので、迷惑だなんてことありません」
「……そうなんだ。これからもひとりちゃんのこと、よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ!」
納得したように深く頷くと、お母さんは虹夏さんに頭を下げていた。そのときの表情にはとても見覚えがあって、リョウさんに料理を作った日と同じものだった。心の底から安堵したような、一つ肩の荷が下りたかのような、そんな表情。
その表情の真意について、目を逸らし続けてきた。その対象はわたしなんかではないのだと、無関心を装い続けて生きてきた。だけど、もう無理だった。誰を心配しての言葉だったのか、否が応でも心が認めてしまっている。だってひとりさんだけを心配するのなら、こんな言い方にはならない。こんな余裕もなく切実な言い方に、そうさせてしまったのはわたしだ。
ねぇ、お母さん。わたしはどうしたらあなたに心配をかけずに生きられたでしょうか。今でもよく、わからないでいます。
こんな感情は母親に向けちゃいけないものだとわかっている。でも、湧き出てくるのは存在し続けることの申し訳なさばかりだ。いつかわたしは違う感情を、例えばごめんなさいではなくありがとうを告げられるようになったりするのだろうか。それが本当に変わるってことなのだろうか。
変われるかはわからない。でもいつか向き合わなくてはいけないのだと、強くそう思う。
「ねぇ、喜多ちゃんはキラキラ星弾ける?」
「今はちょっと難しいけど、練習したら弾けるようになると思うわ……でも、どうしてキラキラ星?」
「えっとね、幼稚園の発表会でやったの。わたしはタンバリン!」
手を止めたままに、今度はふたりと喜多さんの会話に聞き耳を立ててしまう。会話の内容は、いつかにやった幼稚園の発表会についてのようだった。初めて楽器に触れたふたりが、とても楽しそうにタンバリンを叩いていたのを覚えている。タンバリンを抱えたまま眠ってしまうくらいに、熱中していた。
「練習の時にね、ギター弾く方のお姉ちゃんが一緒に演奏してくれてすっごく楽しかったの!」
「素敵な思い出ね! ひとりちゃんのギター、とっても上手でしょう?」
「うん! ギター弾いてる時のお姉ちゃんはね、誰よりもカッコいいんだよ!」
発表会での出来事がふたりにとって楽しい思い出になったのは、殆どひとりさんのお陰だと言っていいだろう。同じ組の友達と揉めてしまって演奏が嫌になったふたりに、誰かと演奏することの楽しさを教えてあげたのがひとりさんだったから。
わたしはふたりに、少しばかりの言葉をかけるくらいしかできなかった。それも理屈めいた、小難しい感情の話だったような気がする。大した慰めの言葉も言ってあげられないことに、無力感を感じて。ひとりさんが紡ぐ音楽に比べればわたしはなんてちっぽけなんだろうって、落ち込んでしまったくらいだ。
「喜多ちゃんはぎたーぼーかるで、歌ってギター弾く人なんだよね?」
「よく知ってるわね、ふたりちゃん」
「ギター弾かない方のお姉ちゃんに教えてもらったの」
喜多さんと同じように、私も少しばかり感心してしまう。確かにふたりに結束バンドの話をしたことは何度かあったけど、よく覚えていたものだと思う。それだけふたりがわたしの話を真剣に聞いてくれているということで、そんな些細な事が姉として凄く嬉しい。
「だから、喜多ちゃんが居てくれたらきっとみんなで演奏できるよね? ギター弾かない方のお姉ちゃんはギター弾けないけど、お歌は上手だから……ギター弾かない方のお姉ちゃんが歌うときは、喜多ちゃんがギター弾いて。ギター弾く方のお姉ちゃんの時は喜多ちゃんが歌って、ふたりもタンバリンして……そしたらさ、みんなでキラキラ星演奏できるよね?」
ふたりが抱えていた本音に、愕然とする。ふたりがわたしとも一緒に演奏したいと思っていたなんて、夢にも思いはしなかった。ふたりは上手いと言ってくれるけど、わたしの歌なんてひとりさんのギターの足元にも及ぶわけがなくて。だから音楽についてはひとりさんに任せればいいと思っていた。むしろ、ふたりとひとりさんが一緒に演奏する神聖な時間を邪魔してはいけないとすら思ってもいた。でもそれは全部、間違いだったのだろう。
演奏だけじゃないのかもしれない。ふたりはずっとひとりさんとわたし、みんな一緒に何かしてみたかったのだろうか。だからこうして喜多さんを頼ったのか。ひとりさんとわたし、両方を知った喜多さんなら完全ではないけど、一緒にそれを成し遂げることが出来るから。
「ええ、そうね。次に来る時までには絶対に覚えておくから、その時は一緒に演奏しましょ。キラキラ星を!」
「うん! ありがとう、喜多ちゃん!」
そんなふたりの込み入った願いに、喜多さんはなんの迷いもなく応えてくれた。普通、出会ったばかりの友達の妹相手にここまでしてくれるものだろうか。友達のいないわたしにはわからないけど、これを当たり前だなんて思わないようにしたい。誰かの優しさへの感謝を忘れぬように、心へ誓う。わたしにできることはほんの、それくらいなのだから。
喜多さんへ向けて、腰を折って頭を下げる。そうするとこちらに気付いた喜多さんが手を振ってくれた、輝かしいばかりの笑顔と一緒に。それに釣られるように、わたしも笑みを浮かべる。喜多さんに比べればとても不格好なものだろうけど、自分でも驚くほど自然に笑みを返すことが出来ていた。
『自分の家に友達がいるのって不思議だけど……なんだか楽しいね、もう一人の私』
『そうですね……本当に』
ひとりさんの呟きに、そっと頷く。ひとりさんと同じようにわたしも、この時間をとても楽しいと感じてしまっているのだろう。自然に笑うことが出来た理由も単純で、楽しかったから。
だってこんなの、楽しいに決まってる。大切な家族と友達が、当たり前のようにわたしを認識して受け入れてくれているのだから。ひとりさんの陰に隠れている必要もなく、自分の話題が出るたびに怯える必要すらない。自分の存在が許されているかのような、呼吸のしやすい感覚。こんな気持ちになるのは初めてのことだった。
夢見心地で、まるで酔っているかのような高揚感。この気持ちの処理の仕方がわからずに、ただぼうっと目の前の喧騒を眺めてしまう。
「どうしたんだ、ひとり?」
「……え? あ、ううん、なんでもない」
しばらく呆然としていたのがさすがにまずかったのか、心配したお父さんが近寄ってきたので慌てて作業を再開する。余韻に浸るのもいい加減にしないといけない、この穏やかな喧騒にひとりさんを返してあげねばならないのだから。私の仕事を再開しよう。
「ただ……お家が賑やかで楽しいなって、そう思ったんだ」
「そうか。よかったなぁ、ひとり」
そう、言葉にしてしまえばそれだけ。わたしにとっては少し縁遠いもので、明日には忘れるべき感情だってだけの話なのだから。
「本当に……よかったなぁ!」
だからお父さん、どうかそんなに嬉しそうに泣かないで。わたしはまだ、この胸の奥から溢れんばかりにみ上げてくる衝動を、許してあげることができないから。
お家訪問編、こんなにも待たせたのに終わりきらなくて申し訳ありません。まずは生存報告がてら、投稿の意思があることを示すことが大事だと思い投稿させていただきました……文字数も嵩んでしまいましたし。次話でこそ、お家訪問編は区切りとなります。可能な限り近いうちでの投稿を目指しますので、今後ともよろしくお願いします。