永遠に幸あらん。
そして、読者の皆様。お付き合い頂きありがとうございました。
月の蝕りの夢をみる。
ただ紅く染まるだけのはずが、たちまちのうちに欠けてゆく。
失ったものが、今でも心の宝箱にじっと影を残している。
日の光に
今日から、あと5年。歳を追うごとに、成長ではなく死に近づいている。
私はちゃんと終われるのか、ゆくあてもなく旅を続けることになるのか。
わからない。分からないことがおそろしい。
強くなった。代わりに持ち物が多くなって、失うものも大きくなった。
目が覚めて最初に感じる温もりに安堵して、私はそっと浅葱の髪を撫でた。
人間の代謝の匂い。汗の匂い、息の温かさ、柔軟剤のシトラス。柔らかな髪の匂い。
目覚ましをかけていないのに、スマホのバイブレーションが鳴りっぱなしだった。私のも、日菜のものも。
「おはよう、日菜」
「おはよう、おねーちゃん」
3月20日。私たちは22歳になった。
すごい通知、と日菜が呟く。おめでとうございます、という通知に一つ一つ返事を返しながら、人との繋がりが増えたものだと思う。前世はそもそも誕生日を大きく祝ったりさえしなかったしなぁ、とかつての友人に思いを馳せてみたり。一緒に飲みに行ったくらいの記憶しかない。
「今日はゆっくりできるんだよね?」
「貴方がそう根回ししたんでしょう」
「そうだっけ? ……二人同じ日だとスケジュールが合わせやすくていいよね」
週末に日菜のバースデーイベントがあることは知っている。誕生日当日にやるか週末にやるかという議論が起こって、日菜が週末に設定したらしいというのを白鷺さんから聞いた。客入りを考えてイベントを休日に開催するのは普通のことらしいけれど、日菜は今日を遊び尽くすために……つまり私欲のためにそうしたに違いなかった。なぜなら、誕生日当日も祝日だからだ。どちらでも変わらない。
「あとで少しだけRoseliaで通話してくるわ」
「うん。あたしもたぶんそうなるかな。彩ちゃんがおねーちゃんとも話したがりそう」
「そう? ……ああ、こういうイベントとか、好きそうだものね」
「おねーちゃんが考えてるのとは違うと思うけど、まあいいや」
決して仲が悪くなったわけではないけれど、丸山さんとの距離はずいぶん遠のいたように感じる。今でも彼女が苦しんでいるのならできる限りのことはしてあげたいと思うくらいの情は備えているが、彼女に頼られるべき存在は私ではなくなったからだ。
Pastel*Palettesの初期ならいざ知らず、今となっては丸山さんにも身近に悩みを打ち明けられる存在がいるはずだし、バンド内部の結束も固いだろう。互いの多忙も相まって、高校を卒業してしまえば会うこともなくなったし、どこか遠いところで成功していてくれれば良い、くらいの感情。
防寒のカーディガンを羽織って、スリッパに足を乗せる。暖房の効いていない肌寒い廊下を通って、リビングの暖房をつけた。
灰色の廊下からLEDの白が灯るリビングへ。カバーをかけられて幾分和らいではいるけれど、白色が強いライトがあまり好きじゃなかった。目が痛いから、というだけなのだが。
カーテンを開けて、外の光を取り込む。自然光は目が痛くなっても許せる。すべては気持ちの問題だった。
「寒い!」
「私の部屋に戻っていればいいじゃない。トーストくらい焼いてあげるわよ」
「んーん、我慢する」
ケトルでお湯を沸かす。トースターに食パンを放り込んで、フライパンに卵を2つ割り入れた。塩コショウを軽く振って水を加え、蒸し焼きにする。
「コーヒーはブラック?」
「そうね、今日は砂糖も入れようかしら」
「お昼はブラックだもんね」
「……気の済むまで歓待は受けましょう」
日菜がコーヒーを入れてくれる間に、トーストに目玉焼きを載せてケチャップをかける。健康のことを考えれば野菜ジュースかサラダボウルでも付け足すべきなのだろうが、今日はそういう気にもならなかった。不摂生という程でもないだろうから、一食くらいは妥協する。どうせ、日菜と同じものを食べるのだ。後でサプリやら日菜のチョイスのメニューやらで辻褄を合わされることもわかっている。
2人分をテーブルに並べて、いただきますの斉唱。
美味しくは感じるけれど面白みは無いいつもの味。朝食くらい日常に染み付いた味の方が良いのは確かだ。
砂糖を1杯、牛乳をひと回し。黒からブラウンになったコーヒーに口を付ける。熱がうつったマグカップが手のひらを温めた。
「それで、今日はどうするの?」
「ん〜、どうしよっか? いつも通りっていうのでもいいけど……」
「味気ない?」
「うん。セッションはいつも通りだし、夕方からはゆっくりするにしても、軽くお出かけくらいはしたいなーって」
そうね、とひとつ頷いた。
日々満ち足りているというのも考えものだ。特別な日に、特別な幸せを探すのが難しくなる。特に今回は誕生日に休めるかも怪しいところだったから、事前になにか準備することも難しかった。
半熟の黄身がこぼれそうになるのを上手く受け止めて、エッグトーストを食べ切る。テレビをつけようとリモコンを手に取った日菜が、思い直したのかそのまま手を引っ込めた。
「そうだ、出かける前にプレゼント渡してもいい?」
「ええ。……私のも持ってきましょうか」
トーストを載せていた皿を洗って、テーブルを軽く拭く。コーヒーの二杯目を淹れて、プレゼントを取りに各々自室に戻った。包装された箱を抱えてリビングに戻る。暖房が効き始めているらしく、朝一番よりは幾分暖かく感じた。
日菜は手ぶらで戻ってきた。小さなものらしい。
「私からでいい?」
「うん」
「じゃあ、はい。誕生日おめでとう」
「ありがとう。……開けていい?」
「もちろん」
プレゼント選びにはいつも苦戦する。日菜は普段から欲しいものは自分で稼いで買うタイプだし、私よりもアンテナが高いし、その上センスもある。私は自分のセンスを信じてなどいないので、なにか半端なものを渡して日菜をがっかりさせてしまわないか、常に脅えている。
候補は色々と考えた。時計とか、ベースケースとか、ストラップとか。けれども日菜はあまり時計をつけないし、ベースケース──ギグバッグも新しいものを買うほど古くなっていないし、ストラップを含めた楽器周りの道具は使い勝手が第一だから自分で選んだ方が良いだろう、とボツになった。
通販サイトやカタログをしばらく眺めて、ピンと来たスニーカーがあったのでそれをプレゼントすることにした。軽く確かめたが、同じ配色の靴は持っていないようだったし丁度いいかと思ったのもある。グレーを基調に、水色のロゴと靴紐の厚底スニーカー。幅も広めでシルエットが大きく見える靴だから、日菜ならこれはこれで上手く履きこなせるだろう。
これは偏見を多分に含んだ意見だが、お洒落でセンスのある人間は、あえてアンバランスなサイズのグッズを上手く使いこなしている印象がある。そしてセンスのない私なんかは、それを真似してオーバーサイズのシャツを着てみたりワイドスラックスを履いたりするのだ。
「わ、可愛い! ……これ高かったんじゃない?」
「安物を身に付けさせるわけにもいかないでしょう」
「うーん、いや、そうかもだけど……ううん、とにかくありがとう! 今日から履くね! あとでスプレー掛けてくる」
思ったよりも気に入ってくれたらしい。セーフ、と心の中で安堵。
箱に仕舞い直されて安置されたスニーカーに感謝の念を送っておく。2杯目のコーヒーに口をつける。落ち着いた甘さが、けれども喉に絡みついた。
「あの、ね。あたしのプレゼントなんだけど……」
「……? ええ」
「あたしのためのものになっちゃったかも」
ほんの少し気まずそうに、部屋着のパーカーのポケットから日菜が小さな箱を取り出した。手のひらに収まりそうな、ほぼ正方形の箱。つまり、その中身は──
「右手の人差し指で測ってあるんだけど……」
指輪だった。隼と太陽のモチーフが彫り込まれたリング。ハワイアンなものとはちがう、宗教や文化的な匂いのしないデザイン。それから、裏側には私の名前が刻印されている。
「もしかして、オーダーメイド?」
「もちろん。……ちょっとはしゃぎ過ぎたかな〜、とは思ったけど……」
「私のあげたスニーカーに『高かった?』とか、よく言えたものね」
「それはそれ! これはこれ! 誕生日おめでとう!」
「……ありがとう。ずっとつけておくわ」
「ちなみに、あたしの分も作ってあります」
指輪の意匠をひとしきり眺めて、箱ごと日菜に返す。一瞬固まった日菜に右手を差し出すと、少し緊張した様子で人差し指に嵌めてくれる。日菜の言った通りサイズはピッタリだった。右手なら邪魔にもならないだろう。
「じゃあ、日菜の分を貸してくれる?」
「……いいの?」
「最初くらいはね」
黒い箱を預かる。日菜の指輪は──月と波のデザインだろうか。……ああ、なるほど。
日菜の手を取る。私よりも少しだけ小さな手のひらを撫でて、人差し指にリングを通す。
「嗚呼、あたしもう死んでもいいかも!」
「滅多なことを言わないの」
座っていることに耐えられなくなったのか、飲みかけのコーヒーを残したまま日菜は自室に駆け戻っていった。……そのうち戻ってくるだろう。
日菜の分までコーヒーを飲み干してカップを洗い、歯を磨いて顔を洗う。食後すぐに歯を磨くのは良くない、というのはよく言われることだが、じゃあ食後2時間待って歯を磨く、なんてことをしていたら出かけられないまま一日が終わることになる。この社会は完璧に生きられるようにはできていないのだ。
「あ! おねーちゃん! コーディネートするから着替えるの待って!」
自室に戻る途中、キャミソール1枚で部屋から出てこようとした日菜を部屋に押し戻す。
窓を開けて空気を入れ替えていた自室は、廊下よりも寒かった。窓を閉めてリビングの方に避難する。
しばらくすると、日菜が服を抱えて戻ってきた。黒に近いネイビーのカッターシャツとブルーのネクタイ、グレーのデニムスキニー。いささかハイコンテクストというか、サブカルに寄り過ぎじゃないかと思うものの、日菜を信用して袖を通す。
「それで、どこに行く?」
「映画はどう? 千聖ちゃんが出てるやつ、丁度今週公開だし」
「……じゃあ、そうしましょう」
イベントは昼からだ。それまでの3時間ほどは、待機時間と言っても良かった。買い物をするにもここ数日の支出は大きかったし、映画は無難な落とし所と言える。
日菜がおろしたてのスニーカーに足を通した。少しだけ身長差が縮まる。玄関の暗がりに、指輪がぼんやりと光っていた。
3月も下旬になれば、晴れた日にはジャケット一枚でもそれほど寒くは感じない。植え込みの陰でオオイヌノフグリが花を咲かせていた。
ネットでチケットを買ってから向かったので、無事に席は確保できた。白鷺さんが出演する映画は、青春バンドものらしかった。調べると、かなり評価が高そうだ。音楽面に力を入れるためにギターが弾ける白鷺さんをキャスティングしたとの事だから、それが幸を奏したということだろう。実際に楽器ができる人だけで演者を固めて、作中の演奏も全て本人がやったのだとか。
「白鷺さんを取られてしまったわけね」
「千聖ちゃんはPastel*Palettesだよ。青春ホリックバンドにはあげない」
「いまから観る映画に敵対心を抱いてどうするのよ」
「おねーちゃんが変な事言うから……」
飲み物だけを買って、シアターに入る。見た感じ、シートはほとんど埋まっていた。好評なのは間違いないらしい。
結論として、映画はそれなりだった。芝居は良かったし音楽も良かったけれども、ドラマ3,4話分、と言った感じの感想。恋愛のときめきだとか、そういう部分が琴線に触れなかったのが乗り切れなかった要因なのかもしれない。
隣の日菜も、似たような表情だった。
「千聖ちゃんになんて言おう」
「思った通りのことを伝えればいいんじゃないの?」
「そうするとメンドクサイんだよ。どのシーンが微妙だったかとか、このシーンはどうだったのとか、根掘り葉掘り聞いてくるんだから」
良い友人関係を築けているようで羨ましい限りだ。それと、安心する。
「SFにすればよかったなー。多少つまんなくても映像が凄ければ楽しめただろうし」
時計を見れば12時12分。いい時間だね、と日菜が言った。それから、電源を切っていたスマホの電源ボタンを押す。
つぐちゃんがヤキモキしてるらしいよ、といたずらっぽい笑み。青葉さんからの密告らしい。日菜と連絡を取り合うような仲には見えなかったが、イタズラっ子同士波長が合ったりするのだろうか。羽沢さんの苦労が偲ばれる。
足を羽沢珈琲店へ向ける。
一月に私たちが羽沢さんを大阪へ誘拐して、散々にもてなした後。ぷんぷん、と擬音がつきそうな表情で、それでいて嬉しそうで楽しそうに、「お二人の誕生日にはとびきりのケーキを作りますからねっ!」と羽沢さんが言った。
それがどうやらケーキだけでは済まなそうだ。
祝日だからか人通りの多い商店街を通って羽沢珈琲店へ。ガラス戸を開けるとベルが鳴って、羽沢さんのよく響く声が飛んでくる。
「日菜さん、紗夜さん。お誕生日おめでとうございます!」
ありがとう、と返すと、少し待っててくださいね、と店の奥へ早足で消えてゆく背中。
「ちなみに、この後の展開がわかっていたりする?」
「うん。ウチにくるんだって。お店だと他のお客さんの迷惑になるからーって」
そういうのは私にも報告するものなんじゃないかと思うのだけど、そう言えば羽沢さんに「いつでも来てくださいね」とは言ったような気がする。どちらにせよ報告を止めていたのは日菜だろうから羽沢さんを責める気はないのだが。
羽沢さんのお母様に「つぐみさんにはお世話になっています」なんて挨拶をしたり、少し前に青葉さんが帰ってしまったことを聞いたりしている間にも羽沢さんが戻ってくる。……大荷物を抱えて。
「あの、それは?」
「ケーキです! それと、食材とか……」
慌てて幾分かを引き受ける。羽沢さんは固辞していたが、荷物を一人に持たせる方が外聞が悪いと言うと渋々ビニール袋を渡してくれる。ケーキが入っているらしい紙箱は、羽沢さんの手元だ。
「お昼だけ、お邪魔しますね」
「ずっと居てくれてもいいけどねー。ウチの子になる? 部屋は余ってないけど」
「考えておきます」
「あーあ、流されちゃった」
花屋の外をふらふらと飛び回っていたミツバチが、ケーキの箱に止まった。甘い匂いに釣られたらしい。羽沢さんが困った顔をしてミツバチを見つめているので、私の手のひらに誘導する。風に乗せて解き放ってやれば、また花屋の方へ戻って行った。
「普段は紗夜さんがキッチンを使っているんですよね?」
「そうね。日菜も料理はするけど、基本的には私」
「お借りしても大丈夫ですか?」
「もちろん。冷蔵庫のものも好きに使ってもらって構わないわ」
──代わりに、
冗談めかして言うと、羽沢さんも楽しそうに笑った。
「いつか、紗夜さんの手料理も食べてみたいです」
「えー、あたしの手料理は〜?」
「日菜さんは自分で料理得意じゃないって言ってたじゃないですか」
「今得意になったの」
「もう……」
羽沢さんが呆れた表情になって、日菜がけたけたと笑う。
ダラダラと話しながら歩いていたら、すぐに家に着いた。
鍵を開けて電気をつける。3人で扉をくぐるのは初めてで、不思議な感覚だった。
「こっちがおねーちゃんの部屋でー、こっちがあたしの部屋! お手洗いはこっちで、リビングはあっち」
プライバシーの概念の欠片もない日菜が、平然と私の部屋のドアまで開け放った。羽沢さんが心配そうにこちらを見たのは多分気のせいではないと思う。
リビングのテーブルに荷物を置いて、3人で順番に手を洗う。羽沢さんにキッチンの道具の場所を軽く説明して冷蔵庫の使用許可を出したら、早々にキッチンを追い出されてしまった。曰く、「紗夜さんはぜったいに手伝ってくれるからダメです」との事。
「追い出されたわ」
「つぐちゃん張り切ってたからねー。あ、お父さん達は夜に来るって」
「……結局来るのね。仕事があるなら無理しなくてもいいのに」
「いいじゃん。あの二人、あたしたちのライブ映像擦り切れるくらい観てるんだよ。それくらい親バカなんだもん。好きにさせてあげようよ」
言いながら、日菜は嬉しそうだった。なんだかんだと日菜は両親と仲が良い。成人してからのこういうコミュニケーションこそ得難いものだと思うし、親子仲が良いことは素晴らしいことだ。前世ではついぞ何もしてあげられなかったことを思うと、殊更に。
夜は何を食べに行こうとか、今日はお酒を飲む気があるのかとか、2人にライブをしてあげようとかそういう話をしている間に、キッチンから良い匂いが漂ってくる。
Bluetoothのスピーカーから、日菜が好んで聴いているジャズの名盤を流す。
そう時間を置かずに、羽沢さんが私たちを呼ぶ。とはいえ、キッチンとリビングが隔てられているわけではないから、料理が完成しつつあるのはこちらからもわかっていた。
「できましたよ!」
「わ、美味しそう」
「お二人とも外食が多いのかなと思って、家庭料理らしいものにしてみました。時間がかかるものは家で作ってきたものを温めただけですけれど……」
筍と枝豆とアサリの和えご飯、菜の花と卵のスープ、新玉ねぎと豚肉のグリル、そしてロールキャベツ。確かに家庭料理らしいと言えばそうだ。羽沢珈琲店で出てくるようなメニューでは無い。
「いただきます」
「いただきまーす」
「お口に合えばいいんですけど……」
味は、さすがに普段から料理を研究している人間は違うなという感想だった。私が目分量でバサバサと調味料を入れるのとは違って、味のバランスがいい。似たような味になることもないし、調和が取れていて舌が飽きない。和えご飯は麺つゆと鶏出汁、スープはコンソメ、グリルは塩コショウ、ロールキャベツはコンソメだけれど、トマト缶を使っただろうソースが別に用意されていて、オリーブオイルとにんにく、バジルが香る。
「これすっごく美味しいよ!」
「本当ですか? ……よかった」
とにかく丁寧だ。外食で食べる気取った感じの料理とはまた違う美味しさに舌鼓を打つ。羽沢さんに弟子入りしたいくらいだ。真面目に頼んでみるのもアリかもしれない。
美味しいとだけ言うのもなんだか手間に報いていないような気がして、味付けについての質問を交えながら感想を述べていく。
「それで、ケーキなんですけど……」
「あたしは、箱が2つあるのが気になってたな〜」
「それはもちろん、2つ作ってきたからです!」
「そっかぁ……」
開けても大丈夫ですか、と言うのに頷く。食べ終えた食器を一通り引っ込めて、羽沢さんが白い箱を開けた。
ひとつはいちごのケーキ。生クリームの隙間から赤がこれでもかと主張してくるような、まさに「気合いの入った」ケーキだった。もうひとつは、オレンジのケーキ。こちらはクリームの割合が多くて、細かく砕いたピールがあしらわれている。
ホールケーキが二つ。とはいえ小さめの号だし、両親も来るから腐らせてしまうことはないだろう。
「お二人ともフルーツは好きでしたよね?」
「うん」
「苺が甘めのやつで、オレンジの方は少し甘さ控えめです。……切り分けましょうか?」
「そうね、羽沢さんの方が上手く切れるでしょうし、お願いしても良いかしら」
任せてください! とテンションMAXの背中を見守る。羽沢珈琲店では落ち着いた雰囲気の羽沢さんが、私たちの前でも素のテンションをさらけ出してくれるのが嬉しい。誘拐旅行でもそんな感じではあったけれど。
満腹感を主張する胃に緑茶を流し込んだ。ケーキ2切れ分の空白を作ってもらわなければならない。
スピーカーで流していた音楽が途切れた。アルバムを変えて、自動再生で流れてきたのはPoppin’Partyのアルバムだった。
誰よりも私を理解して寄り添ってくれる妹がいて、私の隣を歩いてくれる仲間がいて、後ろから見守ってくれる両親がいる。行く先々でくだらない話をして笑い合える友人がいて、楽器を持って語り合える後輩がいて、氷川紗夜を認めてくれる人達がいる。
失った過去の大半を振り切ってしまったのが少し寂しい。飲み込んで血肉となってしまった痛み達。シーグラスのことを忘れた日はない。けれども、この世界で私を形作るものが増えすぎて、前世の比重は日に日に小さくなっていく。
健全な成長なのだと思う。忘却しない限りは、それを軽んじていることにはならないとわかっている。だから、悔いや失望ではなく寂寥を感じているのだ。
指輪に刻まれた隼。日菜が背負った波。
今以上の幸せがあるだろうか。
嗚呼、5年後がすこし恐ろしい。
「切れましたよ!」
「ありがとう」
その日さえ超えれば、日菜の感情にもまた違った答えを出すことができるかもしれないし、やっぱりそれは無理なのかもしれない。
……幸せすぎて明日が恐ろしい、なんて、なんと贅沢な悩みだろう。
右隣の妹に目をやった。
2度目の人生の始発点から、ずっと私を照らしている光。
人差し指のリングに触れる。
取り分けられたケーキにフォークを差し込んで掬った。
目を瞑る。特大の甘みと、すっと抜ける苺の酸味。私の心と同じ味がする。
誰よりも速く飛ぶための翼は過去に置いてきてしまったから、今度は日菜と同じサイクルで、交互に一歩ずつ踏み出そうと思う。
「……今までで一番美味しい」