Miss.グリフィンドール   作:リン@ハーメルン

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幕間1-Ⅲ 旦夕

 吐き気がする。眩暈もする。

 摩耗し、薄れゆくはずだった恐怖の記憶が頭の中を駆け巡る。血液を通して全身が侵されるような不快な感覚に見舞われ、さながら血の呪いのごとき不条理に、悲嘆に暮れることの虚しさを悟った。

 不明の累をどれだけ誇示したところで、血に刻まれた因果は覆らない。はるか昔、友と永訣した祖先から続くしがらみも、純血に拘泥し続けた愚かな血族の結末さえ、愚かに過ぎると嘲笑を送りたくなる。

 彼女は揺るがない。心を閉ざす術を会得しているからこそ、今日まで生きながらえてきた。それは確固たる自身を確立した証左である。

 彼女は省みない。闇の帝王の一瞥から逃れることなど出来やしないのだから、手を汚すことに躊躇いが生ずるような、殊勝な感性など持ち合わせていなかった。

 彼女は屈しない。翼を失い、地を這う竜こそが蛇なれば、その毒牙を突き立てるまでにあらゆる策を講じ、実行してみせる。(まばゆ)い黄金の影へと貶められてさえ、秘めた野心の種火を失うことはなかった。

 

「リディア? まだ談話室にいるなんて」

「ダ、ダフネこそどうして……ももも、もう新入生は皆寝てますよぅ」

「羽ペンを忘れただけです。それに新入生どころか全員が部屋にいるはずでは? というか貴女、またミス・グリフィンドールの使い走りをしてるんじゃないでしょうね? 貴女たちの()()()とやらがどれだけアストリアに悪影響を与えているか……」

 

 大理石で覆われた冷たい内壁。窓の外からは湖を通して月明かりが差し込む静謐な空間。ランプや蝋燭、カンテラの灯火が揺れるたびに、ヒンヤリとした風が頬を撫でつける。

 不運にも出くわしたのは小生意気な妹分のダフネだった。曰く、談話室に忘れた羽ペンを深夜になってから気づいたらしい。

 全く────()()()()()とそっくりだ。危機感の欠如、一般的に優等生とされるダフネでさえ魔法族の優れた第六感はこの様である。だから死喰い人(デスイーター)と体制側とで蝙蝠を演じていたグリーングラス家当主が、既にリディアの手に落ちていることにさえ気づけない。*1

 殺意、悪意、そういった意思の矛先を感じ取れなければ、開心術はもちろんマグルごときの銃器・火器にすら遅れを取るだろう。

 

「さて、ペンはどこに───」

 

 一通りガミガミと文句を吐き出して満足したのか、ダフネが背中を見せた瞬間

 

服従の呪文(インペリオ)

 

 蛇語で唱えられた呪文が、スネークウッドの杖から放たれた。

 

 ───今宵、私は談話室へ忘れた羽ペンを取りに戻った

 ───初めてのホグワーツ。由緒正しきスリザリンの談話室の神秘的な光景にふと心を奪われた

 ───きっとアスティが入学した時も同じように感動してくれるはず

 ───気恥ずかしい笑みを零しながら、私は寝室へと帰っていった

 

「どこまでも……愚かな子」

 

 足取りも確か。忘れた羽ペンもしっかり掴み、どこか多幸感に満たされ恍惚とした表情でダフネは寝室へと帰っていく。それを見送るリディアは、侮蔑を込めて吐き捨てた。

 デミガイズ製の透明マントを纏い、談話室を後にする。教職員やフィルチ、ホグワーツに務める屋敷しもべ妖精の巡回パターンも、忌々しきグリフィンドールのおかげで不本意ながら把握していた。

 不本意、というのは嘘ではない。流石にダンブルドアは当然、スネイプやマクゴナガルほどの魔法使い、魔女の目を騙せるなどと思い上がってはいない。けれど今夜は確実に、目的地へとたどり着く保証があった。その呼び出し人こそがホグワーツの教師本人なのだから。

 普段のオドオドとした演技ではありえない身のこなしと、箒を必要としない飛行術でホグワーツ城を瞬く間に駆け抜ける。吹き抜けや階段は障害にすらならず、目を光らせる肖像画たちやゴースト、鎧の立像すらも、透明マントの効果で気づいた様子はない。

 およそ数分も経たないうちにリディアがたどり着いたのは───闇の魔術に対する防衛術の教室、その教職員室に通ずる扉の前だった。

 

「お待たせしました、クィレル教授。ゴーントです」

「蛇語を使え……と、ご主人様は仰っている」

 

 互いに声を潜めながら、正体を晒したリディアと同様、道化を辞めたクィレルが尊大に言い放つ。

 虚栄からくる自尊心、脆弱な精神、扉越しでさえ臆病な本心が筒抜けだ───内心でクィレルを見縊りながらも、リディアは唇を微かに窄めて蛇語を紡いだ。

 

『我が君、貴方様の忠実な(しもべ)が、伏して謁見を所望します』

 

 心を無にし、まるで乞うかのようにリディアは地面に頭を垂れた。

 帝王に虚言は通じない。今はクィレルの後頭部に取りつかねばまともに活動できないほど衰弱してしまっているが、リディアと帝王との繋がりにおいて、さしたる支障にはなりえない。

 

『……久しいな。いや、貴様の両親がボロ雑巾のようにくたばったのが、つい昨日のことのようだ』

 

 シューシューと空を切るようなか細い声が扉の向こう側から聞こえてくる。

 リディアは、頭を伏せて俯いたまま沈黙を保つことしかできなかった。

 

『フン、その頑固さは貴様の()()と変わらんな。どうだ? 貴様に安寧は毒であっただろう? 貴様は俺様にも、あのグリフィンドールにもなれん出来損ないだ。だからこそ、身の程をわきまえているのだろうが』

『我が君、私は……』

『黙れ。仔細はクィリナスから聞いているな。貴様はただ、俺様に賢者の石を献上すればよいのだ。いいか、これは帝王からの「命令」だ』

 

 帝王の勅令にリディアが抗えるはずもない。

 いつか聞いた悲鳴と、いつか見た緑の極光。白痴な幼子は、ただ帝王の権威のためだけに生存を許されている。

 

「……では、戻るといい。身の丈に合った立ち振る舞いをするのが賢明だ」

 

 それっきり、扉の向こうから蛇語が聞こえてくることはなかった。

 リディアはゆらりと幽鬼のように立ち上がり、踵を返す。閉心術を維持したまま、凪のように心を落ち着かせて。

 血に刻まれた呪いには決して抗えない。この呪いは帝王から授かり、後継者としての資格を持つリディアに刻まれた桎梏だった。

 

 ────だから、だから、帝王が帰還する前に不純なるグリーングラスを降したのに! これも全て、あのグリフィンドールが!!

 

 湧き立つ激情が堰を切る寸前に、リディアは自身の頭に杖先を添えて呪文を唱える。

 

「……っ! 『服従の呪文(インペリオ)』」

 

 全身に突き刺すような痛みを齎す血液が冷えていくのを感じる。思考は冷静でも制御しきれない激情を抑えるため、リディアは自らに『服従の呪文』を施した。

 視界が緑に染まっていく。さながら揺り篭にいるような居心地の良さによって、つい先程まで苛まれていた恐怖を和らげることができた。己が望む在り様を演じる────自分に()()()()()『服従の呪文』こそ、リディアが扱う闇の魔術で最も研鑽された呪い(カース)であった。

 

(賢者の石がホグワーツに? 確か、ダフネの入学準備の日にクィレルはダイアゴン横丁にいた。私の『呪い』からして、漏れ鍋で出会った時から帝王に憑依されていたのは確実……()()()と被っている? 今日の、いいえ昨日の日間預言者新聞にはグリンゴッツに強盗が入った日にはもう、金庫はもぬけの殻。賢者の石はニコラス・フラメルが最初にして唯一の製作者。その共同研究者として有名なアルバス・ダンブルドア────)

 

 ────嗚呼、なんて茶番なのだろう

 

 血液の沸騰が収まれば、パズルとさえ呼ぶには稚拙な出来事の数々を、線で結ぶことが出来てしまう。

 そもそも、あの黄金の瞳の前ではどんな(はかりごと)も隠し通せやしない。闇の帝王さえも預言に関しては門外漢であるというのに、あの女は予見の資質も兼ね備えている。性質(タチ)が悪いことこの上ない。

 クィレルの悲劇も、帝王の再来というリディア自身の不幸も、世界から一身に寵愛を授かるあの女の双眸には何も価値を映さなかったのだろう。業腹で、けれど『服従の呪文』による自己暗示でさえ拭い切れない恥辱を植え付けられる。

 だが事態を俯瞰すれば、リディアにとって悪くはない展望だった。少なくともハリー・ポッターか闇の帝王か、どちらかが滅びる運命にあるというのなら、今年度中にリディアの望みが絶たれるわけではないのが確定した。それを僥倖と見るか、クリスティーンにイニシアチブを握られ続ける現状を甘受する自分を唾棄すべきか、回答に困るのは事実であるが……。

 

「はぁ……もう、寝よ」

 

 賢者の石に関して、クィレルから情報を聞いた限りでは教職員が守りの仕掛けを施しているらしい。正直に言えば帝王の命令は無茶ぶりにも等しかった。教職員が本気で、それも侵入者の生死を問わない仕掛けを施しているのなら、ダンブルドアくらいしか賢者の石に辿り着ける魔法使いはいないだろう。元死喰い人の上澄みでもあるスネイプすら、ダンブルドアが本気で仕掛けを施したのなら突破できるとは思えない。

 或いは、プライドを投げ捨ててクリスティーンに賢者の石を乞うのか。享楽主義者とまではいかないが、普段のリディアが取るはずもない奇策を提示したら、面白がって協力してくれる可能性はある。リディア自身にかけられた呪いも、彼女ならば或いは────という有りもしない妄想は、とうの昔に捨て去っていた。

 

 ────血は、魂の記憶である(『死に至る呪い、血の桎梏』より)

 

 そんな一節を、ダフネが夜の闇横丁で禁書を手にしたあの日、リディアは盗み見ることに成功した。

 『磔の呪文』によって破壊された精神を癒す『回帰薬』なる薬を発明した人物こそ、『死に至る呪い、血の桎梏』を著したクリスティーン本人なのは有名な話だ。

 そして焚書されかけ、マーリン勲章すら剝奪されかねない事態になったのは、ここ数年のことで記憶に新しい。もっとも、日刊預言者新聞を始めとしたメディアがどれだけ扇動しようと、『回帰薬』を調合できるのはクリスティーン本人のみということもあり即撤回されたが。

 だがリディアはより事情を詳しく知っている。『回帰薬』は精神を()()ための魔法薬ではない。いまなお『血の呪い』に侵され続けるアストリア・グリーングラスという検体(サンプル)を、リディアはクリスティーンと共に診続けていたから、薬そのものは無聊の慰めによる副産物でしかないことを知っていた。

 だから、だから、だから……かつて、(こいねが)ったのだ。尊厳も何もかもを捨て去って。けれど黄金の眼差しは、決してリディアに向けられることはなかった。なぜなら────

 

「……! レベリオ(現れよ)

 

 思考の海から浮上し、リディアの危機感が警笛を鳴らす。魔法力のうねりを感知した方角に振り向き、呪文と共に杖を振った。

 夜陰で満たされた廊下の燭台に明かりが灯る。石畳には人影がリディアの他にもう一つ、形作られていた。

 

「やれやれ。ようやくフィールドガイドに秘密の部屋が載ると思ったのだがね。無駄足だったようだ」

 

 石壁に寄りかかり、表紙が皮で施された厚手の本をパタンと閉じて、クリスティーンが呆れたように頭を振った。

 

「……覗き見とは趣味の悪い。その家名も地に落ちたものですね。コソコソと賊のような立ち回り、碌でもない祖先の血もそこまで穢れてしまいましたか」

「おいおい、これ以上失望させないでおくれよ。君が暴露呪文を唱える直前まで私は普通にお散歩していただけさ。まさかこの私が一々、君のやる事なす事を監視しているとでも? ジョークにしてはセンスも品もない。自惚れはよしたまえ、憐れみすら覚えるじゃないか」

 

 クリスティーンが薄く笑んだ。嘲笑である。妖しさを帯びた金珀の双眸は、表層には侮蔑を、眼窩の底にはどこまでも無機質な光を孕んでいた。

 

「二年前にした忠告で君を勘違いさせてしまったかい? 私が視るのは、飽くまで予見に関わる部分だけさ。君がどんな小細工をしようが、私の(あずか)り知るところではないよ。どうせ、ハリーには何ら影響がないのだから」

「私が……賢者の石を帝王に渡したとしても?」

「ヴォルデモートが賢者の石を手にしようが、預言自体は変わりやしない。結末が訪れるまで運命は定まらないからね。苦難の道もまた一興、実に()()()()()()花道じゃないか」

 

 そんなセリフを事も無げに口にできるのは、クリスティーンが予見の資質を持っているからなのだろう。一体どれほど先の未来を見通しているのか、想像するだけで嫌悪が込みあげてくる。

 よほど感情的になっているようで、リディアの深緑の瞳と同様、クリスティーンの瞳孔は蛇のように縦に裂けていた。サラザールの娘とゴドリックの嫡男、その血を色濃く反映した体質は、嫌でもリディア自身と比較してしまう。

 

「……まるで、自分は傍観者気取りとでも言いたげですね。自惚れはそちらでしょう。運命から見放されているのに、思い上がりも甚だしい」

「ククッ。その(うんめい)に呪われている君は、惨めに地面を這うだけ。世界は残酷だね、ミス・ゴーント。()()()()の中で愛されて生まれた君が、それを奪った相手に従属するしかないだなんて」

 

 刹那、『服従の呪文』による自己暗示を打ち破るほどの憤怒に染まり、リディアは荒々しく杖を振り上げた。

 

『アバダ───!』

『遅いよ』

 

 確実に殺す───殺意が足りなければ機能しない『死の呪い』を、ありったけの魔法力を上乗せして放とうとするも、詠唱なく飛来したクリスティーンの武装解除呪文がリディアの手から杖を弾き飛ばしてしまう。

 乾いた音を立てて廊下に転がる杖は、蛇語であれば手に持たずとも機能するという珍しい性質を秘めている。けれど、拾い上げる相手もまた蛇語を扱い、継承者としての資格があるのならば、なんらアドバンテージにはならなかった。

 

『眠れ』

 

 クリスティーンが放つ蛇語によって、芯材に使われているバジリスクの牙が活動を停止した。僅かに残っていたリディアの魔法力も、霧散して杖から消え去ってしまう。確かめるように数秒だけ軽く杖を振ってから、興冷めを隠そうともせずクリスティーンは()()()()()()()()()()()()()を放り捨てた。

 投げ返された杖を乱雑にキャッチしたリディアは、揺らぐことのない殺意を目に宿してクリスティーンを睨みつける。度を越した讒謗も、血筋の正当性も、何もかもがリディアにとって憎悪の対象であった。

 

「このっ、誰からも愛されたことがない()()が! よくも!」

 

 負け惜しみである。無様な遠吠えに過ぎないと分かっている。けれど行き場のない怒りからリディアは怨嗟の言葉を吐き出さずにはいられなかった。

 どうせ冷笑されて終わりだ────激情とは裏腹に、そんな諦観からリディアは逃げるように踵を返そうとした、その瞬間のこと。

 

「ふむ……愛、愛ね。いい響きじゃないか」

 

 思い掛けないクリスティーンのセリフが、リディアの足をその場に縫い留めた。

 

「感情の昂ぶりが魔法力発現のきっかけとなり得るのは周知された事実だ。そしてハリー・ポッターを護り抜き、反対呪文が存在しない『死の呪い』を打ち破ったのも愛が起因となる古代魔法。私とダンブルドアはそう踏んでいる」

 

 ────それがなんだ。多少、マシな頭があれば誰でも推測できる。

 

「君が、()()()()()古代魔法を認識できるようになったのは、愛を失い、その尊さを理解した瞬間からだろう?」

 

 ────なぜ、それを知っている?

 

「無論、愛だけじゃないさ。憎しみ、嫉妬、あらゆる感情は我々魔法族の原動力になる」

 

 ────そうだ。だからこそ奴は、力を失った今でさえ闇の帝王として君臨している。

 

「薄々感づいていたのではないかな。誰かを憎んだこともなければ妬みもしない私が、なぜ古代魔法を認知しているのか……愛だよ」

 

 そんな聞くに堪えない悍ましい空言(そらごと)をほざき、クリスティーンが妖しく微笑んだ。

 リディアは、急速に頭が冷えていくのを感じた。『服従の呪文』を使ってすらいないのに。絶えることはないと思っていた瞋恚の炎が、まるで風前の灯のよう。今まで忌み嫌ってきたことの無意味さ不毛さに、自身のアイデンティティが崩れていく。

 

「嘘、ありえない。だってお前の母親は、お前を心底憎んでいた。父親は、お前が生まれる前に帝王に殺された」

「スネイプから聞いたのかい? それともグリーングラス卿(おにんぎょう)からかな。そういう抜け目ないくせして臆病なところ、私の母に驚くほどそっくりだ」

 

 コツ、コツ、コツ……。薄ら寒い廊下にクリスティーンの靴音だけが木霊する。揺れる燭台の炎が、二人の影を暗がりに溶け込ませた。

 弱視を患うリディアの眼には、クリスティーンの輪郭が判然としない。既に眠りから覚めたサラザール・スリザリンの杖で感知を試みている。けれど黄金を湛える瞳の輝きが深みを増すほど、クリスティーンと世界の境界が朧げになっていく。

 

「この私が、誰からも愛されたことがないと言ったね。その通りだ、返す言葉もない」

 

 セリフとは裏腹に、自虐や自嘲は一切見られなかった。クリスティーンは淡々と事実を述べているだけ。憮然とした彼女の表情こそ、荒々しい本性を隠したリディアとは対極な、何物にも執着しない澆薄な人格の真実だった。

 

「正確には、母は私を憎んでいたわけじゃないよ。嫉妬……いや異物への忌避感かな。どのみち感情に理屈は通じない。我が子としてではなく隣人として折り合いをつければいいと、私は生まれた時から()()を知っていると教えてあげたんだ」

「……マセガキ」

「3歳児なんてそんなものだろう?」

「可愛げのないクソガキ」

「君ほどじゃないさ。それで、母は私に尋ねてきたよ。なら、一体誰がこの私に愛を授けたのかとね」

 

 話術を用いているわけでもない。声に魔法力が宿っているわけでもない。だのにリディアは紡がれる言葉から意識を逸らすことは出来なかった。

 

「私はこう答えた。世界に愛されているのに、それ以上に何を求める必要があるのか……それが母と交わした最後の会話だったかな」

 

 他人の生き死に頓着しない傲慢さは言わずもがな、この女にとって他人とは自分か、自分以外かでしかないのだ。

 リディアは今度こそ身を翻して帰路についた。これ以上の問答は無駄だった。理解する意味も価値もない。いずれリディアが自らの呪いを超克し、()()()()()()たらんとする道程において、クリスティーンはいつまでも傍観を気取るのだろう。きっと、ハリー・ポッターとヴォルデモートの因縁がどんな結末を迎えたとしても、それを肴に今生を享楽し尽くすに違いない。

 

「じゃあねウィンピー、良い夜を。残り滓のような野心を忘れたくないのなら、()()()を胸に留めておくといい」

 

 クリスティーンの新たな忠言に、どれだけの善意が含まれていようものか。悍ましさすら覚える。気配が完全に消え去ってなお、クリスティーンの異質な存在感が全身に纏わりついてるように感じた。

 黒煙を帯びてホグワーツ城内を飛び、スリザリンの談話室まで戻っても、クリスティーンから最後に投げかけられたセリフが忘れられない。

 かつて杖を奪うためにイルヴァーモーニーへ忍び込んだ時より、数段増して疲労が襲ってきた。

 リディアはひじ掛け椅子に深く身を預け、蹲るように両足を抱え込む。俯きながら瞳を閉じて呼吸を整えると、声色を震わせて弱音を独りごちた。

 

祖父(おじい)様……私は……」

 

 リディアと同じく、光に疎まれていた祖父の瞳。闇を憚りながらも、ゴーントの血筋という(うんめい)からは逃れられなかった、悲運とも言える祖父の生涯。そんな祖父の末路を、帝王が零落した今でさえ貶め続ける己の無力さに、何度自己嫌悪してもしきれない。

 熱を胸に留めておくといい────あの女がどれだけ不条理で理不尽でも、あの女自身の格が疑われるような嘘を吐くはずがない。

 冷静になっていく思考と、消えかけてなお燻り続ける胸に秘めた野心が、再び活動を再開していく。蛇のように縦に裂けた瞳孔も平時に戻った。

 熱の余韻が残る胸元に手を当ててほっと一息をつく。クリスティーンの言葉に従うのは癪だったが、妙に暖かくて仕方がなかったのだ。だからそう、胸元の内ポケットにある異物を取り出して────

 

「は?」

 

 無意識に気の抜けた声が出た。『服従の呪文』をクリスティーンや帝王にかけられたわけでもなく、記憶が改竄されたわけでもない。事実、闇の帝王への謁見は嫌というほど鮮明に思い出せる。

 ローブの内ポケットには何も入っていなかったはずだ。一連の記憶の流れに不整合な部分はない。だが現実として、リディアは内ポケットから取り出した()()を確かに握りしめていた。

 

(あ、あの女はどこまでも…!)

 

 薄明が見え始めた時分。己を律して怒号を胸中に押しとどめたリディアは、頬を引き攣らせながらソレを眺めることしかできなかった。

 クリスティーンが最後に放った『その熱』という言葉は、文字通り熱を放つソレを意味していたらしい。

 ソレの正体は辰砂のような赤色の鉱物だった。けれどマグルの世界に存在する鉱物とは異なり、独特な魔法力が秘められている。いつクリスティーンが忍ばせたのか定かではないが、そんな芸当をリディア相手に出来るのは彼女以外にはいない。

 

「もうっ……! もう……本当に、寝よ」

 

 唐突な出来事の数々に情緒が追い付かない。再びその鉱物を胸ポケットに戻して、リディアは蹲る姿勢のまま泥のように眠りについた。

 帝王が知ったらどうなるのかだとか、クリスティーンがこの『()()()()』を渡してきた理由だとか、明日……ではなく今日の朝食にゆで卵が出るのかだとか。その全てがどうでもよくなっていた。

 効力を失ったデミガイズの透明マントを毛布代わりに、リディアは夢の中へと旅立っていく。

 かつての愛と幸福を再び垣間見ることが出来たのは何年ぶりだろう。薄れゆく意識の中、野心だと思っていた胸元の温もりに、どこか悲喜交交とした懐かしさを感じずにはいられなかった。

*1
当然、気付かせないようにしていたわけだが

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