音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
臍の裏側を引っ張るような感覚が消えて、足の裏が床を捉えた。膝から下に崩れ落ちかけたが、ハリーはどうにか堪え、ドラコを肩に抱えて立った。
そこは、幾度か訪れたことのある校長室だった。窓の外には暗い夜の気配が満ちている。
細長い脚の銀の道具がいくつも小さな音を立てて動いており、壁の肖像画は誰もが眠っているようだった。暖炉では火が燃えていて、部屋中に暖かな光を投げかけている。ハリーの頬と手の甲に、熱がゆっくりと染みてきた。さっきまでのことを考えると、この部屋は穏やかすぎて現実味がないようにすら思えた。
ハリーの肩の上で、再びドラコの身体がずり落ちていった。なんとか腕に力を入れて抱え直そうとしたが、思うようにいかない。指は震え、自分の手とは思えないほどに強張っていた。
倒れそうになる二人を見かねたのか、横からシリウスの手がぬっと伸びてきた。
「ハリー、いい。私が持とう」
ハリーは何か言うより先に、シリウスがドラコの腕を取って自分の肩へ回していた。ずっと抱えていた重さがするりと自分の腕をすり抜けていくのを感じる。何もないほうの腕が、ひどく軽くなった。
シリウスはドラコを暖炉脇まで運び、置いてあった一人掛けの椅子へと座らせた。ドラコは背もたれにしなだれたまま、身じろぎもせずにぐったりとしている。ハリーは椅子の正面へ回り、その場へドラコの顔を窺うようにしゃがみ込んだ。
シリウスはハリーの一歩後ろで立ち止まり、そのまま二人を眺めて動かなかった。
部屋に沈黙が落ちた。
銀の道具が鳴り、暖炉の薪がぱちぱちと音を立てる。ドラコのうつろに開かれた目は暖炉のほうを見ているようでもあったし、何も見ていないようでもあった。ハリーもまた、何から口にすればいいのか分からないまま、そこにしゃがんでいた。
暖炉の灯に照らされて、この夜初めてドラコの青白い顔がはっきりと見えた。
目の下が落ち窪んで、唇には血の気がなかった。ローブはところどころ裂けていて、手には犬になった時についたらしい傷が赤く滲んでいる。
首には、なんの跡もなかった。肌は白いままで、赤くなっているところも、指の形らしきところもない。
それでも、ハリーの手のひらには、その皮膚に指が沈み込む感触がまだ残っている。ハリーは自分の指を握り込んだ。
「……具合はどう」
声が掠れて、うまく出なかった。ハリーは息を吸い直した。
「どこか痛いところはない?」
「大丈夫だよ」
存外すぐに返ってきた返事は、疲弊しきった様子とは裏腹な、穏やかな声だった。
ハリーは強く拳を握りしめた。
「……大丈夫なわけないだろ」
声のわななきを押し込めようとして、思ったより強い口調になる。ドラコがわずかに顔を上げ、こちらを見ていた。
ハリーは口を開きかけ、止めた。喉の奥が塞がるような感じがした。何も言わずに済ませることもできるだろう。今夜はもう充分に長いし、ドラコは体力の限界のようだった。それでも、ハリーは言葉を止めることができなかった。
「アトリウムで……僕が、君の首に手をかけたとき」
一度息を吸い、続きをなんとか口にする。
「君は、なんで抵抗しなかったの?」
ドラコは少し目を開いたあと一度だけ目を閉じ、それから微かに微笑みを浮かべた。
「……あんまりにも疲れちゃっていてね。動けなかったんだよ」
「違う」ハリーは首を振った。
「君はまったく、逃げようともしていなかった。……受け入れてしまったかと、思った」
ドラコは困ったように眉を下げた。その表情にも、ハリーの胸は切り付けられるように痛んだ。
「……もう、やめてよ……お願いだから……僕が、君を殺してもよかったの?」
どうにか絞り出した言葉には、情けないほど涙が滲んでいた。
ドラコは暖炉のほうへ目を向けたまま、しばらく何も言わなかった。それから、再び目を閉じて眉根を寄せると、ゆっくりと唇を開いた。
「……今夜、僕は神秘部で死ぬ予定だった」
「……どうして? どうしてそんなことを言うの?」
声が震えた。込み上げてくるのが怒りなのか悲しみなのか、ハリー自身にも分からなかった。
ドラコはすぐには答えなかった。息を継ぐ音が、暖炉の音に混じって聞こえた。
「……完全に意図したわけでこそ、なかったが……代案は、なかった……それが、最もいい結果を導くだろうと、考えていた……」
言葉は途切れ途切れで、何か思い返しているようだった。
「最もいい結果って……なんだよ」
ドラコは絞り出された言葉には答えず、ハリーの瞳を見つめて悲しそうに笑った。
「それなのに、君たちは……来てくれてしまったね」
どこか自嘲的なつぶやきのあと、そのまま視線は下に逸れた。
アトリウムで、ドラコが死を受け入れたとわかったときと同じ苦しみが、ハリーの身体の内側を走り抜けた。胸の奥から鈍い痛みがせり上がってきて、喉に詰まった。目の縁が焼けるように熱くなり、視界が滲んだ。
ハリーは強く瞬きをして、なんとかそれを押し戻した。何かを伝えようとしたが、言葉が出てこなかった。
僅かな沈黙のあと、ドラコは再び顔を上げた。
「……今年、僕は君を利用した」
静かな声だった。ハリーは開きかけていた口を閉じた。
「ファッジが君をどう扱うか、僕は見て、知ってた」
ドラコは暖炉のほうを見ていた。
「それを……唆すような真似すらした」
ハリーの背後で、シリウスが身じろぐのが分かった。
「……ファッジがどうするか、知っていたの?」
確かめる必要がないと分かりながらも、ハリーは訊いた。その答えも、まったく聞きたくはなかった。
「……ああ」
ドラコは弱々しく口の端を上げて小さく笑った。
「君とダンブルドアに、ファッジの敵意が向いている間は……彼を自由に動かすことができたから……死喰い人たちの動きを抑える餌を用意できると、思った……」
ドラコの瞳に、明らかな痛みの色が宿った。
「でも……それが、何になっただろうか。結局君は危険に晒された……」
薪が崩れる音がした。ハリーはやはり返す言葉を持っていなかった。
「……今年だけじゃない」
しばらくして、再びドラコは目を伏せ、静かに言った。
「去年も……その前もずっと、僕は君の苦しみを看過してきた」
「そんなこと、絶対にない」
ハリーは反射的に言いきっていた。
ドラコは息を吐いた。その音は、痛みを堪えているときのそれに似ていた。肘掛けに乗せた手の指が、途中まで曲がったところで止まっている。
「いいや、ハリー。僕は、君だけは……君だけを……」
そこで言葉が止まった。唇が動いたが、音にはならなかった。
やがてドラコはハリーの瞳にまっすぐ目を向けた。灰色の瞳は、隠しようもなく揺れていた。
「僕はずっと、君を守れていない……」
絞り出された言葉が、唇からこぼれ落ちる。
「……いいや、守らない……それが、まるで当たり前のように……」
ドラコは目を逸らさなかった。灰色の目に、薄く涙が滲んでいた。まばたきはなく、視線はハリーから動かなかった。
ハリーは一瞬手をさまよわせ、膝の上でしっかりと握りしめた。しゃがんだままの脚が痺れ始めていたが、動く気になれなかった。
「僕は君に守ってほしいんじゃない」
声は震えていたが、それでもありったけの意志を込めて言い切る。
「お願いだから、自分を大事にしてよ。自分をどうでもいいものみたいに扱わないでよ」
ドラコの喉が、一度だけ動いた。その目に滲んでいたものが、まばたきと一緒に落ちる。
そして、ドラコはハリーから目を逸らした。
ドラコは膝のあたりへ目を落としたまま、しばらく黙っていた。首が支えを失ったように前へ傾いて、前髪が顔にかかっている。
「……そんなふうに、考えているわけじゃない……どうでもいいものだなんて、思っていないよ」
ようやく出てきた声は、ハリーがこれまで聞いたどの声よりも弱かった。
「……でも、わからないんだ……どうやったら、みんな救われる?」
顔は上がらなかった。声はさらに小さくなっていく。
「……使えるものは、僕自身しかないのに……それすら十分に使わないで、どうやって……」
最後のほうは、ほとんど聞き取れなかった。ローブの裾から覗いた手首に、暖炉の光が当たっている。そこには、縄のような擦れて赤くなった跡があった。
そのとき、ハリーの背後でシリウスが動く気配がした。
シリウスはしゃがんだハリーのすぐ隣で足を止めると、ドラコを見下ろすように顔を向けた。
「……その気持ちは、私にもわかる」
シリウスは静かに言った。
「自分の命を差し出すことで、全てどうにかなってくれと願う日は、戦争をしていれば誰にでも来る」
ドラコは項垂れたまま、動かなかった。
「しかし、君の周囲の人間のことを考えろ。君自身が君のことをどう考えていようが、周りも常に、同じように扱ってくれてるわけではない」
シリウスの声から、さっきまでの穏やかさが抜けていた。厳しさの滲む、きっぱりとした言い方だった。
「それに……」
シリウスは固い口調で続けた。
「君が身を捨てた程度で救われるものなど、たかが知れている」
その言葉を聞いて、ドラコの顔がふと上がった。その目はまっすぐにシリウスを見ていた。ハリーはドラコが何か言い返すのだと思ったが、首から再び力が抜け、また膝のほうへ落ちた。
「……じゃあ、どうすればよかった?」
絞り出された声はもう、ほとんど息だけになっていた。
「これぐらいしか、できることはないのに……」
そのまま、ドラコは膝を上げて抱え、顔を腕に埋めた。
ハリーも、シリウスも、告げられる言葉を持っていなかった。
静まり返った部屋の中で、周囲を暖かく照らしていた暖炉の火が、緑色に変わった。
炎の中に人影が現れ、ダンブルドアが炉床から歩み出た。それに続いて、足元から小さな影が続いて出てくる。その場に姿を現したのは、ビンクだった。
ビンクの目は、出てきた瞬間から椅子のほうへ向いていた。大きな目がさらに見開かれ、耳の先までが動いた。ビンクはその場に釘付けになってしまったようだった。
ダンブルドアは灰を払いもせず、部屋の中を見わたした。黙りこくった三人の様子を眺め、ダンブルドアは人を落ち着かせる微笑みを浮かべた。
「まず、知っておくべきことを伝えておこう。君たちの友人は全員、聖マンゴに運ばれて検査を受けておる。重傷の者はおらん」
椅子の上で、膝に回されたドラコの腕がわずかに緩んだ。しかし、ドラコは顔を上げなかった。
「神秘部に残っていた死喰い人はすべて押さえられ、連行された。逃げた者はおらぬ」
ダンブルドアはそこで言葉を切った。
ビンクが椅子のほうへ歩き出していた。しかし二、三歩行ったところで、足を止めた。何かを思い出したように、その場に立ち尽くしている。
「坊ちゃま……」
ビンクは絞り出すように声をかけた。
ドラコの膝から、顔が上がり、ビンクの顔を見る。そのまま、視線はその額で止まった。
そこには乾いた傷が幾筋か残っていた。まだ塞がりきっていないものもあって、暖炉の光の中で赤黒く見える。
ドラコはくしゃりと顔を歪めると、唇を振るわせた。
「……ごめんね、ビンク」
小さな声はもう掠れていて、暖炉の音に紛れそうだった。
ビンクは首を横に振った。長い耳が揺れ、震える指が黄色いエプロンの裾を握りしめている。
ドラコはしばらく動かなかったが、やがて膝を抱えていた腕がほどけ、片方の手がゆっくりと首元へ上がっていった。指が襟の内側へ入り、緩んだネクタイの結び目にかかる。
ビンクが、ヒッと引き攣った声をあげた。
「先に言っておくと、ドラコよ」
ダンブルドアの声が、すばやく部屋の向こうから届いた。口調は穏やかだったが、どこか硬さのある声だった。
「君がその屋敷しもべ妖精を自由にするなら、わしは即座に彼女をホグワーツに雇い入れよう」
ドラコのネクタイにかかっていた指がぴたりと止まった。
「そして、彼女には、今後君が自分の命を粗末にせぬよう、徹底的に張り付いてもらうことになるじゃろう。それがどれほど過酷な任務になるかはわからぬが……」
ビンクの目は、ダンブルドアとドラコの間を忙しなく行き来していた。
ダンブルドアは微かな厳しさの漂う目でドラコを見ていた。
「しかしそのとき、彼女は喜んでその職についてくれるであろうと、わしは確信しておる」
ドラコは再度苦しげにビンクを見た。ビンクも何も言わずに、眉を下げてドラコの顔を見上げていた。
ドラコの瞼が、きつく閉じられた。眉の間に皺が寄り、そのまましばらく開かなかった。やがて、ネクタイを掴んでいた指から力が抜ける。手が首元を離れ、肘掛けの上へ落ちた。
ドラコは背もたれへ身体を預けた。それきり、指の一本も動かさなくなった。
「ビンク」
ダンブルドアは少しだけ朗らかな声で、ビンクのほうへ顔を向けて話しかけた。
「ドラコを医務室へ連れていってやってくれるかね。ポピーには話を通してある」
ビンクは強く頷いた。それから椅子のそばへ寄り、指を鳴らした。
空気が波打つような音がして、椅子の脇に担架が現れた。白い布が張られたそれは、床から少し浮いたまま静止している。
担架へ移される前、ドラコの目が一瞬だけこちらへ向いた。ハリーと、その隣に立つシリウスを、一度だけ見る。しかし、その口が開かれることはなかった。
ビンクがもう一度指を鳴らすと、ドラコの身体がゆっくりと椅子から浮き上がり、担架の上へ横たえられる。そこでドラコは目を閉じた。
ビンクが担架のそばに立ち、壁の扉へ向かって歩き出す。担架がそれについて動いていく。
扉が開いて担架が通り、ビンクがそれに続いて出ていった。
扉が閉まり、部屋には暖炉の音だけが残った。ハリーはまだ、誰もいなくなった椅子の前にしゃがんでいた。
背後で、ダンブルドアが動く気配がした。
「ハリー」
ハリーは顔を上げた。ダンブルドアはいつの間にかすぐ近くまで来ていて、暖炉の光が銀色の髭を照らしている。半月型の眼鏡の奥の青い目が、ハリーを見下ろしていた。
「今夜、君はとても偉大なことを成し遂げた」
ハリーは何も返せなかった。
「さぞ疲れていることじゃろう。しかし……今、君に伝えなければならないことがある」
ダンブルドアの声は静かだった。ハリーの隣で、シリウスが小さく息を吸うのが聞こえた。
「君もまた、わしに問いたいことがあるじゃろう……どうか、聞いてくれるかね?」
ハリーはゆっくりと頷き、ダンブルドアを見つめ返した。
愛されることを恐れて周囲を傷つけまくるヤツは死んだほうがいいぞ! まあ、戦争中ならしょうがないが……しょうがないか?
ここから先は分霊箱チャートにがっつり関わってくる部分なので、しばし原作をしっかり読み込み、プロットをちゃんと練る時間をいただきたいと思います。次の更新は連休中くらいを目安にお考えいただければ……