音割れポッターBBの知識だけでドラコ・マルフォイになってしまった 作:樫田
医務室の明かりはほとんど落とされていて、ベッド脇に置かれたランプが一つ灯っているだけだった。長い病棟の奥の方は暗がりに沈んでいて、並んだベッドの白いシーツだけがぼんやりと浮かんでいる。試験が近づいてノイローゼ気味になっていた生徒たちも、もう寮に戻されたらしい。ビンクも入院の準備に向かったため、この広い部屋にいるのはマダム・ポンフリーと僕だけだった。
マダム・ポンフリーは手早く僕の手首へ軟膏を塗り込んでいた。縄で擦れた痕にも、犬になっていたときについた細かい傷にも、彼女はテキパキと治療を施していく。その間にも、彼女の口からは僕へ向けられたつぶやきが漏れ続けていた。
「まったく、あなたときたら、毎年のようにびっくりする理由で運ばれてくるんだから……それにしても、二年連続で磔の呪いを受けるなんて! それも、今回の相手は……。本当に、ここまで意識がはっきりしているのが信じられないくらいだわ……それでも、数日は医務室で様子を見なきゃいけませんよ。無理は絶対にしてはいけません」
「いつぐらいに、動いてよくなりますか」
僕の言葉に、マダム・ポンフリーはしかめっ面で頭を振った。
「まだ、そんなことを言っていい段階にないわね。O.W.L.のことが気になるのは分かるけど、事情が事情ですから、校長先生が配慮してくださるでしょう」
試験のことなんて、これっぽっちも頭になかったが、そう思ってくれているなら、それはそれでありがたい。
マダム・ポンフリーは手に持っていた小瓶から紫色の液体をゴブレットへ注ぎ、それをずいと突き出してきた。僕は受け取る前に尋ねた。
「僕以外の、神秘部に行った生徒がどんな怪我をしたか……ご存知ですか」
「それを確かめるために、これから聖マンゴへ向かわなくてはなりません」
マダム・ポンフリーはゴブレットを持った手を下ろさないまま答えた。
「でも、聞いたところによると、今のところ向こうで入院し続けなければならない子は一人もいないそうよ」
そこで彼女は少しだけ微笑んだ。
「十一人もの子供を運搬するのは骨でしょうが……まあ、大丈夫ですよ。安心なさい」
十一人。ハリーを入れると十二人だろうか。その人数を、僕はここに至るまで確認できていなかった。
僕がゴブレットを握りしめたまま動かずにいると、マダム・ポンフリーは声の調子を変えた。
「さあ、お飲みなさい。磔の呪いに特効薬はありません。痛めつけられた精神も、完璧に元通りにはならないでしょう。でも、休むことで癒されるものもあります。今はもうお眠りなさい」
ゴブレットを両手で抱えるようにして口元へ運んだ。縁に唇をつける直前、ゴブレットを掴んだ親指を唇へ添え、その指の腹で液面に触れる。随分前にできるようになった杖なし無言呪文での消失呪文は見事に成功し、喉を鳴らしてみせている間に紫色はきれいに消えた。
空になったゴブレットの底を確かめて、マダム・ポンフリーはしっかりと頷いた。
脱いでいたローブをベッド脇の椅子へかけ、横になって目を閉じる。しばらくの間、彼女がこちらを見ている気配があったが、やがて足音は事務室のほうへ遠ざかり、そこで何か物音がしたあと、大きな荷物を抱えているような足取りで医務室を出ていった。
扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。
一人になると、さっきまで少し薄れていたものが、また身体の内側を隅々まで満たしていった。
──ああ、大失敗だ。
ハリーは神秘部にやってきて、十二人もの子供の命が脅かされた。ダンブルドアがずっと守っていたらしい『予言』は、彼自身の手で破壊されることになってしまった。もともと成功させる気はなかったが、ヴォルデモート卿の計画は打ち砕かれ、その責を負う父は逮捕されてしまった。父はアズカバンに投獄され、あの吸魂鬼たちに苛まれることになるだろう。僕の策略が穴だらけだったせいで。
そして、僕は生き延びている。
どうにか、どうにかして、この失態を挽回しなければならない。
……まず喫緊にすべきことは何か。弁明だ。ヴォルデモート卿に、変わらぬ忠誠を表明せねばならない。
僕はベッドから身を起こした。
彼から見て、今の僕はダンブルドアの庇護下に降ろうとしている裏切り者にしか見えないことだろう。
しかし、今回の失敗で、ヴォルデモート卿の中で僕の存在が完璧に無意味になったわけではないと思いたい。何やらクラウチに、僕のことを回収させようとしていたようだし、まだ使われどころはあるはずだ。
──でも、それでまた、ハリーへの餌にされてしまったら? また僕に、無意味で誤った執着を向ける人々が傷つけられたら?
頭の中で自分の声が囁いて、体を支えようとベッド脇の椅子の背にかけていた手が一瞬止まった。
……でも、それでも、彼らは間違っている。彼らは僕に幻想を投影しているだけで、本当にこちらの正体を知っているわけではない。それに、僕のことを真に思うなら、僕の命ではなく、僕の望みを大事にしてくれたっていいはずだ。
願い通りに動けないならば、生きていたって仕方がないのだから。
ふらつきながら、僕はベッドを出て医務室の出口へ向かった。重心が高くて、足取りがちっとも安定しない。四本足で、しかも重心の低い犬の姿のほうが、まだずっとちゃんと歩けた……
そっと扉を開けて医務室から出たところで、横の廊下からしゃくりあげるような声が聞こえた。
そこにいたのは、ビンクだった。僕の寝巻きや日用品なんかが入っているであろう、大きな布袋を胸に抱えて、廊下の途中に立ち止まっている。
こちらを見上げたテニスボールのような目が、見る間に見開かれていき、その縁には涙が盛り上がっていった。
「坊ちゃんは、お休みになっていなければならないはずです」
ビンクはひび割れた声で言った。
「坊ちゃんは、もうどこにもゆく必要などないはずです!」
静まり返った城に、その痛々しい叫びが響き渡った。
「ちょ、ちょっと、ビンク、静かにして……」
命令のつもりではなかったが、ビンクはパッと口を引き結び、唇を噛んで押し黙ってしまった。しかし、そのまま猛烈な勢いで首を振りながら、抱えた布袋ごと、僕の行く手に立ちはだかろうとする。小さな身体が、廊下の真ん中で必死に踏ん張っていた。
僕は途方に暮れてしまった。彼女を深く傷つけていることは分かっている。押しのけて進むことも、今この瞬間に黙って寝室へ帰らせることも、命じさえすればできてしまうが、それだけはしたくなかった。そして、それをしないで済ませる方法が、何一つ思いつかなかった。
「ビンク、お願いだから、泣かないで……」
僕は膝を折り、できるだけ小さな声で言った。
「僕は……したいことをするのが、いちばんの幸せなんだよ。だから……これでいいんだ。どうか、行かせてくれ」
その言葉を聞いて、ビンクは絶望的な顔をしたまま布袋をひっしと抱え込み、その場に崩れ落ちて、声を押し殺しながら咽び泣いた。
握りしめられたクリーム色の布地に大粒の涙がぼたぼたと落ちて、微かな松明の明かりの下でも、布の色がたちまち変わっていくのが分かる。首を絞められているかのような苦しげな泣き声が、誰もいない廊下に微かにこだました。
僕はその場に根っこが生えてしまったように動けなかった。
どうやったらビンクは分かってくれるのだろうか? 何を言えば、この子が泣き止んでくれるのだろうか。
完全な馬鹿になってしまったかのように、言うべき言葉がさっぱり思いつかない。頭の中にあるのは、早く行かなければならないという焦りだけで、それすらも足を動かす役には立たなかった。
どれだけそうしていたのかは分からない。
ビンクの押し殺した泣き声に紛れて、それが近づいてくることを、僕は最後まで聞き取れなかった。
「そこで何をしているのですか」
階段を登り、こちらにやってきていたのはマクゴナガル教授だった。
焦りで思わず息を呑む。まずい。教授に見つかった状況で、ホグワーツの外に出るのはとても難しい。門まで人目を避けて歩き通すどころか、この廊下から動くことすら怪しくなってくる。
ここは一度医務室に戻り、出直すべきだろう。そう方針を切り替え、僕はできるだけ穏やかな口調で答えた。
「少し寝つきが悪くて……ロンたちが移送されるとも聞きましたし、それが気になっていたんです。ごめんなさい。すぐにベッドに戻ります」
しかし、マクゴナガル教授はその言葉にぐっと眉を寄せた。眼鏡の奥の目つきは、いつもより一段と厳しい。
「寝つきが悪く? マダム・ポンフリーは聖マンゴへ出発する前に、あなたに一番強い睡眠薬を飲ませたと言っていましたが」
マクゴナガル教授は僕の返事を待たずに話し続けた。
「神秘部での戦いについて、リーマスから報告を受けました。彼によれば、『ポッターは白い大きな犬を抱えて戦場から離脱した』そうです。マルフォイ……あなたは、動物もどきの術を使い、何をしようとしたのですか」
教授の瞳にはありありと悲しみが滲んでいたが、その口調は決然としたものだった。そこには教師としての使命が、愚かな真似をした生徒を諌めようとする意思が現れていた。
それを見た瞬間、僕の胸の中で何か言いようもないものが暴れた。頭からすっと血の気が引いていくのを感じる。
「……それを聞いて、どうするのですか」
マクゴナガル教授は訝しげに眉を顰めた。
「ひょっとして、以前していただいた約束を守ってくださるのですか。僕が『他人のために動物もどきの姿になった』と宣えば、あなたはホグワーツの教職を辞してくださるのですか。
それは……
マクゴナガル教授は口をきっと引き結んだ。その目には不可解の色が浮かんでいる。
「あなたは何が言いたいのですか」
僕は、口元に酷薄な笑みを貼り付けた。
「闇の帝王は、僕がダンブルドアの右腕である、この上なく優秀な職員を彼の下から立ち去らしめたと知れば、少しは機嫌を直されることでしょう」
マクゴナガル教授が目を見開いた。
「私の誓いを、『あの人』に取り入るために使うと、あなたはそう言っているのですか」
僕はさらに笑みを深くした。
「この度の大失態を、すべて贖うことはできないだろうが……しかし、まったく手土産が無いよりは、はるかに
……さあ、これで十分だろう。もう見放してくれ。僕には、あなたが心を砕くような価値はないんだよ。
軽蔑か、失望か、はたまたその両方か。自分で望んだことなのに、それを教授の目に見るのが恐ろしくて、僕は視線を逸らした。
しばらく返事は返ってこなかった。暗い廊下には、ビンクの啜り泣きだけが響いていた。
「……いいえ。あの誓いは、撤回します」
予想していなかった、しっかりとした声だった。顔を上げると、マクゴナガル教授の目はわずかに水気を帯びて輝いていたが、その瞳には決意が燃えていた。
「今から振り返ってみると、私があんな約束をしてしまったこと自体、大きな過ちだったと言えるでしょう。教え子が愚かな振る舞いをしたからといって、教職を辞すなどと!」
教授はかぶりを振り、まっすぐとこちらを見据えた。
「まったく、少し悪ぶって見せたら、簡単に諦めてもらえるだろうなどと……。マルフォイ、私の使命は、あなたのその浅はかな考えを叩き直すことです。あなたが真っ当に生きられるようになるまで、私が職責を放棄することはないと知りなさい」
僕は唖然として立ち尽くした。渾身の想いを込めたつもりだったのに、教授には僕の策がまったく通用しなかった。
もどかしさの中から、徐々に怒りが湧いてきた。
「……あなたは労力を割く相手を、間違えている」
低い声が廊下に響いた。
「一人の生徒にそこまで偏った愛着を向けては、依怙贔屓だと誹られても仕方がない……」
しかし、マクゴナガル教授は一歩も引かなかった。
「なんとでもお言いなさい。どの生徒をどのように扱うべきかは、私の決めることです」
自分の頭に、素早く血が昇っていくのが分かった。
「あなたは何も分かっていない。……今夜、僕は生徒十二人の命を危険に晒した! 無辜の子供たちに危害を振り撒く人間に目をかけるなんて、どうかしている!」
声が廊下に反響した。僕は荒れる息を整えながら、できる限り残忍に付け加えた。
「……それに、ホグワーツの教師であるあなたには、僕の卒業まで、あと二年ぽっちしか残されていない。その後に、自分が何に心を尽くしていたか悟っても、もう遅い……」
とびきり残酷に言ったつもりだったが、それでもマクゴナガル教授は毅然として言った。
「たとえそのような未来が待っていようと、今のあなたを見捨てる理由にはなりません」
その迷いのない態度が、どんな言葉より耐え難かった。
「僕はそんなことを望んでいない!」
叫んで、僕はその場から立ち去ろうとした。しかし、マクゴナガル教授は素早く回り込み、僕の行く手を塞ぐ。
「……どいてください」
「ベッドに戻りなさい」
「いいから、どいてくれ!」
「これは何事ですかな」
闇から湧き出すように、その声は廊下の向こうから聞こえてきた。そこから現れたのは、スネイプ教授だった。
黒いローブの裾が、床すれすれのところで音もなく揺れている。松明の明かりはその顔の半分しか照らしておらず、こちらを見ているのかどうかも判然としなかった。
「セブルス……」
マクゴナガル教授が呟いた。
僕の頭の中では、目まぐるしく計算が回っていた。門へ向かうどころか、この廊下から動くことすらもうできない。ホグワーツからの脱出が限りなく難しくなった今、ヴォルデモート卿へ何かを伝える手段は、スネイプ教授しか残されていない。
僕はよろめきながら、教授の方へと足を踏み出した。
「あなたの寮生が、処方された薬も飲まずにベッドを抜け出し、校外へ出ようと──」
マクゴナガル教授の固い声を最後まで聞かず、僕はスネイプ教授の胸元に縋り付いた。
「スネイプ教授……どうか、お願いです。我が君に、僕は決してダンブルドアのもとに降ったわけではないと、お伝えください。今夜の失態の後、ことを放置すれば、父が罰として殺されかねない。お願いです。僕はすぐにでも、我が君の元に馳せ参じようとしていたと──」
スネイプ教授は何も言わなかった。僕の言葉が途切れるのを待っている様子でもなかった。僕は、スネイプ教授が音も立てずに杖を抜いていたことに気が付かなかった。
向けられた杖先から、閃光が放たれ──
気がついたときには、昼の陽光の満ちた医務室で、僕は一人横になっていた。