空は青くて、雲は白くて、太陽はオレンジ。
幼い頃の僕は、クレヨンのレパートリーと同じ16色の世界を見ていた。
空は青いのよと言われたから空は青く見えていたし、木の幹は焦げ茶色、木の葉は緑だった。
世界の見え方が変わった日のことを、明確に覚えている。
小学校の下校路。指定された通学路を抜け出して帰るのが好きだった。
川沿いの堤防を通って、少し遠回り。人通りの多い遊歩道と、夕日を反射して煌めく水面。護岸工事によって舗装されたコンクリートの隙間を縫って生えるたんぽぽ。どこかの誰かが植えたコスモス。
その日、僕は絵描きの爺さんに会った。
画家だったのかは分からない。趣味で筆を執っただけだったのかもしれない、と思う。大仰な道具も持っていなかった。オレンジと黒の表紙のスケッチブックを抱えて、斜面に腰掛けて黙々と筆を走らせている老人に、あの時僕が無性に心惹かれたわけを、今では理解できる。
『どうして空を紫に描くの』
確か、そう尋ねた。昼の空は青、夕方はオレンジ。二元論の世界に生きていた僕に突き付けられた未知の表現だったと言ってもいい。
『私にはそう見えるからね』
彼の言葉は簡潔だった。西を指さしてオレンジと言い、東を指さして藍色と言う。間のグラデーションを紫。雲にかかった影を黒紫。
きっかけに過ぎない。何かを教えてもらったわけではないと思う。私にはこう見える、と端的に告げられただけで、僕の視界を色付けたのは、僕自身の気付きによるものだったはずだ。
空が常に薄くグラデーションを描いていることに気がついた。雲の重なりに色相の違いを見いだせるようになった。太陽が白くなった。
葉は成長した葉ほど色濃く、新芽は鮮やかな黄緑色をしている。木の幹はのっぺりとした茶色ではなく、それどころか表面はコケやら菌類やら、多様ななにかに覆われてさえいる。
その翌日から、僕は絵を描くようになった。
花びらの根元と先端で色が違うことを初めて知った。
葉脈の規則性を発見した。植物に毛が生えていることも、僕は知らなかった。川の流れに波があることも、あんなに頑丈そうな川を渡す橋が実は揺れていることも。
僕の世界は何倍も広くなった。
知ることは、僕の世界を大きくした。
お金をかける必要は無いよと言われたので、僕の画材は本当に、有り合わせのものだった。図工で使っていた水彩絵の具。油性マジック。筆ペン。夏休みのポスターに使ったパステル。40色の色鉛筆。
自分の視界についての理解が生まれた。写実的に風景を描く方法を思いついて、一点透視図法と名前がついていることを後に知った。
写生コンクールで優勝した。別にどうだって良かった。僕は、絵を描く度に広がっていく世界に夢中になっていた。
マンホールの蓋の模様の意味に思いを馳せた。トンボに縄張りがあることに気がついた。
初めて、空の色に紫を使った。
「何描いてるの?」
氷川日菜と名乗る少女に出会ったのは、中学3年生になった頃だった。
美術部に入ったものの、部員は漫画やアニメイラストにしか興味がなくてつまらなかったから、あまり顔を出さなくなっていた。代わりに自転車で少し遠出をして絵を描くようになった。
「絵」
「や、わかるけど」
公園のベンチに座って、スケッチブックに筆を走らせる。
描いているのは、公園の中から覗くビル群。僕は木陰に座っているのに、公園のフェンスの1歩外に出ればそこはもう大都会東京である。
自然を描くのが好きだからこの公園に立ち寄ったけれど、描いているのは東京の街並みだった。
「上手いね」
「どうも」
描き始めて1時間ほど。ぶらりと立ち寄ったらしい少女が僕に話しかけた。この近くの女子中の制服。
好奇心を覗かせる瞳。オシャレポイントの編み込み。整った顔立ち。スラリと伸びた脚。ネコみたいだ、と思った。
描いている最中に話しかけてくる人は、結構多い。僕が子どもだから話しかけやすいというのもあるのだろう。
大抵は、絵を褒めてくれる。嬉しいことには嬉しい。あの爺さんの言葉を借りるようではあるが、絵は僕が見て、感じたものを篭めている。それが褒められるのは、僕の感性が褒められているのに等しい。
評価には重みがある、と同じ美術部の同級生が言っていたのを思い出す。曰く、クラスメイトの言葉には価値がない。美術がわかる、部員からの評価には価値がある。素人から見たらどうせどれも同じなんだから、と鼻で笑った彼の言葉に
そりゃあ、尊敬してる画家に褒められたら有頂天にもなるだろうけれど、クラスメイトに褒められたって嬉しい。僕が見ている世界を彼らが覗き見て、『美しい』と思ったのならそれ以上何を望めるだろうか。
もっともこれは、絵を描くことに対するスタンスの違いでしか無いのだろうとも思う。
僕にとっては、自己表現だ。彼にとっては、承認欲求を満たす道具かもしれないし、崇高な芸術に至る手段かもしれない。
負の感情を絵描きの意欲にしたくはないな、と思った。
「楽しいの、絵を描くのって」
「まあ、楽しいよ」
「現実を切り取って描くだけでも?」
「……それは、写生のことを言ってる?」
「それに限んないけど、うん」
手を止める。脇に置いていたカバンから小さなノートを取り出して、鉛筆と一緒に彼女に手渡した。
「なに、これ」
「ネコを描いてみてよ」
「ネコ?」
「うん」
言うと、彼女は少し引っかかった様子で曖昧に頷いて、それからノートにさらりとネコを描いた。マズルとヒゲ、耳とシルエットでネコと分かる。アイコンを強調した、イラストとしてのネコだった。
「イラストのネコだね」
「うん。ネコって言ったから」
「じゃあ、なるべくリアルに描いてみて」
写実的に、という注文をつけると、彼女は低く唸るような声を上げて、鉛筆を白紙の上に彷わせた。数分そうしていたと思うと、さっきのイラストをベースに少し細部を書き足したものを描き上げた。
「難しいだろ?」
「うん。でも、当たり前じゃん。描いたことないんだから」
「そりゃそうだよ。ちなみに、これがネコの写真。ヒゲはもっとたくさん生えてるし、耳の形も違うし、毛の生え方も、骨格構造も少し違う」
膨れっ面。気分を害してしまったらしい。ただ、言葉そのものに怒っていると言うよりも、それ相応の答えを返してくれるんだろうな、という威圧に見えた。
「見えてるようで、何も見えてないんだよ。歩き慣れたはずの通学路の風景を、何も見ずに絵に起こせる?」
「難しい、かも」
「普段ぼんやりと見てる世界は、実際には世界のほんの浅い部分をどれほども抽象化して、表面だけ見知った気になっているだけ」
写真を見ながら描いてみて、とスマホを手渡す。
今度は随分と上手かった。ネコの虹彩や瞳孔のつくりとか、毛並みの向きとか、皮膚のたるみまで表現してみせる。
「遠い景色が白く見えるのを意識したことはある? 太陽が登っている側の空は白くて、その反対側は青が濃いのは知ってる?」
スマホを返される。ノートには3匹のネコが並んでいる。彼女は次のページを捲って、もう一度ネコを描き始めた。今度は、最初のイラストのリメイク。同じ角度から同じポーズのネコを描く。三回目よりは少し下手で、一回目とは見違えるほどに写実的なネコの絵だった。
「……なるほどね。なんにも知らなかったや」
ノートと鉛筆が返ってきて、僕は自分の絵に向き直った。日が少し傾いて、光の当たり方が変わってしまった風景を、上から重ねていく。
彼女はしばしば、感動したように僕の絵を眺めていた。ベンチの木目を眺めてみたり、チガヤの葉をちぎって葉脈をなぞってみたり。もし、少しでも彼女の世界が変わったのなら嬉しい。
「絵を描いて、見てるんだ」
「そう。僕の世界を広げてる。描かなきゃ、見えてないものが見えないから」
「ふぅん。……やっぱり、上手いね」
「どうも」
写実的に描く部分もあるし、僕の世界を現実に浸食させることもある。フィクションとノンフィクションの境界みたいな絵は、僕の手癖だった。
色遣いがもっと上手くなりたい。
現実は7色の白い光から引き算で色をつけているというのに、僕達は一つ一つ足し算で色をつけていかなければならないのだから、やっぱり難しい。
日も落ちかけてきたので、画材を片付けて自転車のカゴに詰め込む。結局、3時間くらい描いていただろうか。近場にいる時の感覚で時間を使ってしまった。
「明日も来る?」
「遠いから頻繁には来れないよ。めんどくさいし」
「じゃあ、次はいつ来るの?」
「うーん、晴れたら来週」
自転車で30分くらい。遠いと言うほど遠くはないけど、毎日は御免蒙る。暑いし。
「木曜日ね。……キミ、名前は?」
「旭」
「なのに夕日描いてるんだ」
「何言ってんの?」
約束ともつかない何かを交わして別れた。……結局向こうは名乗らなかったな。なんだったんだ。
自転車を漕ぎ出す。少しだけ錆のついたチェーンがキリキリと音を立てて回る。夕焼けを追いかけて走る。この躍動感も、風の音も、絵にできたら良いのに。
次の週、彼女は絵の具を持ってきた。
画用紙とアクリル絵の具。学校の美術で使っている画材だろう。そこでようやく、彼女は氷川日菜と名乗った。
「隣で描いていい?」
「どうぞ」
先週とは別の画角で描き始めた。
公園の奥まった方に悠然と聳え立つクスノキを中心に、夏を描く。
幹の質感ひとつとっても、根元とそれ以外では全く違う。春の若芽や枯れかけの葉は赤みが差すから、この時期でもわずかに赤みがかった部分が残っていた。葉脈の形はシンプルで、凡そ木の葉と言われて想像するような形をしている。葉の間から小さな花が慎ましく覗いていた。
ひとつの絵の中に大きなシンボルを複数持ってくるのはあまり好まないけれど、クスノキに負けないくらい大きな入道雲を描いた。底は藍と灰。日が当たらない角度は空にたなびいて馴染むような奥行きを見せる。西側は白と黄色に。いくつもの雲が連なったような構造と、どこまでも視線を吸い込まれそうになる高さ。
案外、悪くない。クスノキと入道雲の位置関係と大きさの問題で絵に奥行きが出るから、思ったよりも平たくならなかった。
一息ついて、彼女の方はどうだろう、と隣を覗き込んだ。迷いなく筆を動かしていたのも、初心者のくせにやけに綺麗に線を引いていたのも見ていたから、結構期待値を高くして構えていた。
僕と同じクスノキのモチーフ。車両の侵入を防ぐポールと、ツツジの植え込み。
描きかけの絵に、風が吹いたように錯覚した。
木の葉が擦れる音。吹き抜ける風の音。
「風、
「……見える。見えるよ、すごい」
手が震えた。常識を超えた何かを目の当たりにしているような、そんな気がしていた。
僕は、風景の瞬間を切り取って描いている。僕が見てとった一瞬には動きがなくて、前後との繋がりも断絶している。それは、絵である以上は仕方がないのだと思っていた。写真でもそうだ。躍動感は捻り出せるかもしれないけれど、逆に言えばそれがせいぜいだった。
彼女は、存在を絵に写している。クスノキの表面じゃなくて、その存在そのものを。植物の動きを。
自分でも何を言っているのか分からない。だって、理解できちゃいないから。どうして風が読み取れるのか。梢が風にそよぐ葉擦れの音を、どうして聞き取れたのか。
描かれた木や、フェンスや、雲の存在から、通り抜ける風が浮かび上がってきたような感覚。
僕の知らない世界が、彼女の手の中にはあった。
「僕には描けない」
「え?」
「それ。まだ僕には見えないから」
絵ばっかり描いてきたのが逆に良くなかったのかな、なんて思った。戯言だ。そして、負け惜しみ。
「見え方の違いなんじゃない? あたしには君みたいに静かに止まっている景色が見えないみたいだし。……見たものしか描けないんでしょ?」
「違うんじゃないよ。僕の方が欠けてるんだ。劣ってる」
「そんなことは──あは、何その表情。心配して損した」
「どんな顔してる?」
「すっごい楽しそう」
「だろうね」
楽しいのかは分からない。
あの日に感じた興奮を、今日も感じている。
少しずつ、僕の絵が停滞しているのを実感していた。
技術は上がり続けている。ずっとデッサンや模写をしているようなものだから、そりゃあ上手くはなっていく。熟れても来るし、癖も染み付いている。
けれど上達の幅は酷く狭くて、自分の絵に感じる面白さとか充足感とか、そういうものは年を追うごとに薄れていた。
そこに、これだ。
美術展に行った時の感覚。
僕と同年代の、それもほとんど絵を描かないような少女がこんなものを描けるという事実。
どうしようもなく、テンションが上がる。
「ねぇ、明日、来れる?」
「遠いから頻繁には来ないんじゃなかったの?」
「気が向いたらその限りじゃないんだよ」
「ふぅん。いいよ、明日来てあげる」
彼女はにんまりと笑って、それから「もう少し待って」と言った。
「あたし、原色って結構好きなんだよね」
言いながら、空に青を塗りたくる。べっとりとした、
「パワーがあるじゃん。エネルギッシュだよ」
「言いたいことはわかるけどね。黄色とか」
「黄色! いいよね。くすみ色ばっかの百貨店にぶちまけてさ」
黄色の絵の具を握り締めて、暫し迷った挙句に元に戻す。
それからしばらくして、日が落ちる直前に彼女は描きあげた。
「あげる。だから、君の絵をちょうだい」
「……いいけど」
同じ風景を描いたはずの絵は、まるで違っていた。
僕の絵は、言うなれば蝶の標本。死体を固定して、ピンで止めて、褪せないように、腐らないように箱に仕舞った絵だ。
彼女の絵は、温室での展示なのだった。絵というフィールドに閉じ込めているのは変わらない。けれどどれほどかの自由があって、羽ばたける空間があって、ドアを開けたら翔び去ってしまうような躍動感がある。
「また明日!」
彼女の絵を仕舞って、僕はまたペダルを踏み込んだ。
蒸し上げる太陽から逃げるように、次の日も自転車を漕いだ。アサヒなんて名前でも夏の日差しは嫌いだ。
夏は何もかも美しいのに、外に出ると途端に心の余裕が持っていかれる。
「で、今日は何描くの?」
「……君を描かせて欲しい」
「言うと思った。いーよ、綺麗に描いてね」
「……見たまましか」
「描けない、だよね。わかってるって。だから綺麗に描いて」
「はぁ」
いつだってそうだ。理解したいなら描けば良い。泥臭く積み上げて、一歩一歩世界の地図を作っていく。彼女は
「じっとしてた方が良い?」
「暴れ回らなければなんでもいい」
「じゃあ今日も描こうかな」
最初に僕が描いていた画角で、彼女は筆を執った。その横顔を眺めながら、僕も描き始める。
人を描くことは比較的少ない。似顔絵を描いたりすることはあれど、描きたいと思うような人が少なかったからだ。あとはまあ、人を描くのは失礼だ、というなんとなくの思い込みから。
彼女は堂々としていた。存在が世界に根を張っているような、重厚な存在感と、指先から滾るエネルギー。背筋を伸ばし、赫赫たる様相で筆を持つ。
線を引く手にブレがない。景色を眺めては、感じ入るように目を大きく開いて、小さく息を吐く。色じゃなく、動きで世界を見ているんじゃないか、とふと思った。
「あたしが何か新しいことをやると、何故か嫌われるんだよね」
不意に彼女はそう言った。
そこに自嘲の色が混ざったのを、視覚的に理解する。
「ピアノ、ダンス、テニス、弓道。……どうしてだろうね」
「なんとなくわかるよ」
「じゃあ、絵も。でも君は、あたしのこと嫌いじゃないでしょ」
「嫉妬はしてる。めちゃくちゃ悔しい。それ以上に感動して、興奮してるだけ」
その誰かも、僕みたいに飛び越えられたのだろうと思う。小手先の話じゃなく、もっと人間としての、芯になる部分の話だ。
僕はきっと、彼女よりも真っ直ぐに線をひける。早く色を塗れる。構図の巧拙が判断できる。けれど、表現力という1点で、既に後塵を拝している。
どんな芸術にも、スポーツにも、そういう、一朝一夕には磨けないような、個人の資質に左右される何かがあるに違いない。そして彼女はそれを全部、持ち得ているのかもしれなかった。
──何色で塗ろう。
少し迷った。
結局、見たままに塗ることにした。今度は、感じたままに塗ろうと誓って。
「他の子にはそんな執念がなかったってこと、かな」
「さぁ。君の態度の問題かも」
「痛いところ突くね」
描きあげる頃には、また日が沈みかけていた。
「上手いね」
「どうも」
「これちょっと、自画自賛っぽくない?」
「どっちかと言うとナルシズム。自画は僕だろ」
「確かに。……あたし、こう見えてるのかぁ」
彼女の方はまだ描き上がっていなかった。僕は遠出をしたときには3時間程度で形になるような絵しか描かないようにしているけれど、彼女にその縛りはない。まだ色を塗り始めたくらいで、結構な大作になりそうだった。
「何か分かった?」
「全然」
「じゃあ、また来週ね。その絵、頂戴」
「うん」
自転車に跨って漕ぎ出そうとするときに、彼女が風景の写真を撮っているのが見えた。
翌週、色の話をした。
「写真と比べてみたんだけどさ、やっぱり全然色違うよね。ファインダー越しの世界ってやつ?」
「うん。だから絵のために写真は撮らないようにしてる」
「なるほどなぁ」
また彼女を描くために、彼女の隣りに座った。今日は見たままを塗るんじゃなくて、感じたように塗るつもりだった。スマホのレンズが世界を補正して写しているように、僕の目だって正しいものを写しているとは限らない。
「先週の話だけどね。やっぱりあたしは、どっちが劣ってるとかじゃないと思うんだ。君の色に関する感覚は、一足飛びに真似できない。だから君は、他の人と違って折れない」
彼女の瞳を黄色で塗った。髪の色は空よりも透き通るように。
腕には血潮が通っていて、白い指先には緑の絵の具がついている。
世界に溶け込んでいるようで、強烈に存在を匂わせてくる重厚な色。
褒めてくれるのなら、少しでもそれに値するような絵にしたい。
その日も彼女は「上手いね」と言って笑った。
週に一度あるかないかの逢瀬は、すっかりと主導権を逆転したまま、高校に入っても続いていた。
美術科のある高校に行かないことを意外に思われたけれど、あくまで趣味だと言い返すと酷く納得されたのを覚えている。
芸術を学ぶことには興味があった。ただ、それはそれとして他人に自分の絵を採点されるような環境とか、周りと比較し合うような場所に身を置きたくはない。それで多少の成長性を損ねたとしても、自分の芯をブレさせない方が僕にとっては余程重要だった。
「ギターを始めたんだ」
「へぇ。いいんじゃない。……となると、ここで会うのもお終いかな」
「……もう描かないの?」
「え、僕? 僕はたぶん、いつまでも描くけど」
「そうじゃなくて、あたしを。……絵を描かないあたしのことは、興味ない?」
彼女の感情が揺らいだのを、久々に見た。
何度でも彼女を描いて、その度に得られる結論は「分からない」。その一方で、僕の絵が著しく成長しているのは明らかだった。彼女を題材に描いたもの以外にも、ほとんど毎日描いている絵に動物を入れることから始めた。明確に動きを持っている動物を入れることによってようやく、動きが読み取れるような絵が描けるようになってきた。今度は動物を除いて、静物の流れを掴み取ろうとしている。
「そんなことは無いけど、絵も描かないのにここに来るの?」
「うん。どうせ、家だと練習しにくいし」
高校二年生も目前、これ以上彼女を描く意味があるのかと考えるようになってきた。
多分この二年、誰よりも彼女を見て、描いてきた。それで自分に納得できないなら、このアプローチじゃ足りないか、あるいは間違っているということなのだろう。
彼女はギターを手に、僕の隣に腰掛けた。何にも繋いでいないエレキギターの間の抜けた音。
「音も、君が言ってたとおり、今までは全然聴こえてなかった。雨の音にしても、演奏の巧拙にしても、飽きるほど聴いた歌謡曲のシンセやギターにしても。たぶん、味覚も嗅覚も触覚もそうなんだろうなーって」
「……楽しい?」
「うん。世界が広がる感覚。君もやったら?」
「興味はあるけど、しばらくはいいかな。また行き詰ってからで」
「ざんねーん」
ギターの巧拙は分からないけれど、ポーズはサマになっていた。ピックを弦に引っ掛ける動作とか、既に迷いなくネックを滑る左手とか。
「おねーちゃんがね、ギターやってるんだ。おねーちゃんの見てる世界を知りたくて触ってみたんだけど、家じゃ練習しにくくて」
新しく何かを始めると嫌われる。いつか彼女が言っていたのを思い出した。
「お悩み相談? それとも愚痴?」
「わ、イヤな言い方〜。モテないでしょ」
「これだけ付き合い長ければ分かるだろ」
「まあね」
聴き良い音というか、感じ入るような音じゃない。良い音なのか良くない音なのかも分からないまま、今日も浅葱を筆に乗せた。
「あたしも友達いないからさ、愚痴聞いてよ」
「いいけど、僕は友達くらいはいるからな」
「お絵描きばっかりのくせに?」
「お絵描きには需要があるらしいんだ」
聞き流されたらしい。いい加減に描きなれた羽丘の制服に、今日はいつもより濃く色をつける。
「……おねーちゃんに嫌われてるの。ギターも、真似するなって怒られるだろうなぁ」
「残念ながら、その気持ちはわかるかな。お姉さんは、君を責めるの? それとも自分を責めるタイプ?」
「あたしには何も言わないよ」
「……僕が君のこと嫌いだったら、当たり散らしてただろうな」
「ふぅん。まあ、20点かな」
「厳しい」
パステルブルーのギター。なんとなく想像していたよりも小さくて、サイズ感覚を調整し直した。
無責任な慰めの言葉を掛ける気にはなれなかった。今までの話を少しずつ繋ぎ合わせれば、別に彼女の姉は彼女のことを避けてはいても決定的に嫌っていないように思えるけど、「大丈夫だから」と背中を押して玉砕した場合には責任が取れない。
「言葉にするのって、案外大事だよ。僕が必死に絵に込めてる想いでさえ、言葉にしてしまえば過不足なく完璧に相手に伝わってしまうんだから」
これも余計な発言だろうか、と思って口を噤んだ。びよん、と間の抜けた音を出して、ギターの弦が震える。
右足のスニーカーの近くを、クロヤマアリがフラフラ歩いていた。
その日は完成まで漕ぎ着けられずに解散になった。
彼女は深く考え込んだ様子で、1時間以上も黙っていた。
また来週、と言わないまま別れた。
次の週、彼女は何事も無かったかのように現れた。今度はアンプを持ってきてくれて、輪ゴムギターに毛が生えたような音ではない、ちゃんとしたエレキギターを奏でてくれた。
「特に進展はなかったけど、ちょっと思い出したことがあって。あたし、人が真剣に努力して上達してる姿を見るの初めてだったかもなーって」
「……僕のこと?」
「うん。おねーちゃんは練習してるところあんまり見せてくれないし」
「はぁ。そりゃよかったね」
「みんな一つ一つ真剣に積み重ねてるんだもんね。そんなことすらあんまり考えたこと無かった、かも」
既に素人目にはとても初心者に見えないようなフレーズを奏でながら、聞きようによっては傲慢に聞こえるようなことを言う。
どこまでが本当なのかは分からないけれど、彼女は物事のコツとか核心を掴むのが物凄く得意な人間なのだろうから、牛歩でじりじりと成長していく他人が理解できないのかもしれない。事実、僕が見ている前でも驚異的な上達速度を発揮していた。
「どうしたって嫉妬はされると思うけどね、君は」
「そうなのかな。あんまりその感情がわかんないや」
その日も絵は完成しなかった。水彩画のくせに何度も厚塗りして、色がくすんでいく。
次の週、彼女は来なかった。代わりに書き置きがあって、もう頻繁には来れなくなる旨が書いてあった。描きかけの絵をどうしようかと考えながらしばらく立ち尽くす。
たまの遠出でしか無かったし、今度は別の場所に足を運ぼうか。今日は描く気にもなれなくて、そのまま公園を後にした。
花咲川の堤防に出ると、生温い風が吹き抜ける。
色、音、動作、匂い。
絵に込められたらどれほど良いだろうか。或いは、感情さえ。
河原に下りる。ウザったいほどに伸びたイネ科の草本。外来種っぽいツル植物。アレチノギク。風に草がそよぐ葉擦れの音。川のせせらぎ。鋭く鳴くツバメの声。草と湿った土の匂い。
彼女との縁が切れたことを、僕は結構惜しんでいるらしかった。
恋ではなかった、と思う。少なくとも、彼女へ向ける感情の中で1番大きかったものは、恋じゃない。同じ視座に立ちたかったのだと思う。
彼女の絵を見ても、彼女を描いても、彼女の見ている世界を、彼女が内包した世界を僕のキャンバスにトレースすることはできなかった。
僕が描いた彼女の絵が魅力的に見えないのは、やっぱり動きがないからだと思う。あの、指先からつま先、背筋まで一切の無駄なく統制された所作だとか、何気なく見せる仕草だとか、絶え間なく変わる表情だとか、風景を睨む目付きとか。そういうものを、僕は絵に落とし込めていない。
前に進みはしたけれど、欲しかったものは手に入らなかった。概ね、そんな2年だった。
次の日、僕はスランプに陥った。自分の絵にこんなに否定的な感情が沸き起こったのは初めてで、ショックというより情けなくなってしまった。恐らく人生で最も描いたであろう空を描いて、化粧を施したような雲が描き上がったことに絶望しかけた。
良い機会だと、貯めていた金で機器を買い揃えた。液晶タブレットやら、PCやら。当たりをつけに行った家電量販店で電子ピアノを見つけた時に彼女のことがよぎったけど、早速音楽に逃げるのはプライドが許さなかった。逃避ではなく前進するために音楽をやりたいと思うまでは触らない。
慣れないペイントソフトにイライラしながら幾つか描いてみて、しばらくはアナログの方が完成度が高いだろうなという感想を抱く。慣れたらまた認識も変わってくるのだろうけど。
もうあの公園へは足を向けなかった。
連絡先も交換していない。名前を知ってはいるけれど、呼ぶことさえしない。互いに君とだけ呼び合う浅い関係。どうということは無い、切れるべくして切れた関係だ。
SNSを始めた。幾つか絵を投稿して、ギャラリーにしておくためのアカウント。ぽつぽつとフォロワーは増えていたけれど、例えば絵の仕事を得るためにアカウントを大きくしたい、ということでもないから、わりかしどうでもよかった。
絵を描いては投稿して。画面を見る媒体によって絵の色調がまるで変わって見えることに気がついて愕然として。半年くらいは描き続けただろうか。
彼女と再会したのは、ネットニュースの見出し画像だった。
アイドルバンドの口パクバレ。それも、生演奏を謳ったデビューライブでの出来事だったらしい。読むに耐えない記事だった。記者の思想が透けて見える文章。
何してるんだ、とは思いつつ、彼女の事情なんか知らないから意図を予想することさえできない。
関連ワードの検索結果がネガティブなもので埋め尽くされているのに辟易して、スマホを閉じた。
言葉が津波のように見えた。波涛となって押し寄せる罵詈雑言、誹謗中傷が、彼女達の心を削りとってやしまわないか。
筆を執った。
僕にはなにもできない。
狂濤を乗り越えられる船を出すことも、高台に彼女の手を引くことも。
翼を描く。いささかポエティックだろうか。別に構わなかった。
彼女を描く。もう見ずとも描ける。いずれは認知が歪んでしまうだろうけど、まだ。
脳裏に鮮明に映し出せる。彼女の瞳を原色の黄色で塗った。
タグをつけて、ネットの海に彼女を解き放つ。何十何百何千の中の一つでも、肯定が伝われば良い。
彼女の心が、歪まずにあれますよう。
その日から、僕はしばしば彼女の絵をSNSに載せるようになった。仕切り直しの再デビューライブとか、ファーストシングルの発売とか、そういう節目に合わせて。
Pastel*Palettesのファンの人たちがフォロワーに増えていくのと比例して、Pastel*Palettesの活躍も地上波でよく見るようになった。あの頃、つまらなさそうに生きていた彼女は今や、充実した日々を送れているようだった。その色彩に翳りはなく、その才能には枷もない。
『8月24日、25日のPastel*Palettesのライブにフラワースタンドを贈ろうと考えているのですが、それに載せる氷川日菜ちゃんのイラストを描いていただけませんか? ご料金等は──』
大学1年の夏、SNSにメッセージが来ていた。恐らく初期の方にフォローをくれていたPastel*Palettesファンの人だ。うっすらと記憶にあった。
想定される絵のサイズや予算──正直タダでも構わないけれど──を問い返して、フラワースタンドについて調べる。
ファンが合同で送ったりすることもあるにはあるらしい。メッセージを添付したり、写真のパネルを貼ったりする文化があることも。アイドルコンテンツに対するものでイラストをつけるというのはあまり類を見なさそうな感じだったが。
『初期からPastel*Palettesを応援している貴方の絵こそが1番Pastel*Palettesの、日菜ちゃんの新たな門出に相応しいと思うんです』
絵なんかで良いのか、写真ならもっと良いものが公式から出ているだろうという言葉にかえってきたのがそんなメッセージだった。そう言われると手を抜くわけにはいかない。
ちょうど良いと言えばちょうど良いのだった。これを節目に彼女を描くのをやめにしよう。
元々は応援のつもりで始めたものだったから、僕の意図というか、目的は達成されているし、そうなると今の状況はただ自分の主義に反した絵を描き続けているだけになってしまう。
実際に見た風景を絵に起こすのが好きだ。もちろん、こんなに絵を描いて来たからには空想の風景を描くことだってあるし、人を描いたことも、好きな作品のファンアートみたいなものを描いたこともある。
ただし、今もずっと成長し続けているだろう彼女を、はるか昔の記憶だけを頼りに表現するのは心地が悪いなと思っていた。
『良いですよ、描きます』
イラストのサイズや構図なんかの注文を受けつつ、ペンを走らせていく。依頼主が共同名義で贈る人を募っているのを後目に、どうせなら今までに描いていない構図で描こうと思い至って、こちらに向かって手を伸ばしている構図にした。
彼女がファンにこんなことをするようには思えなかったけれど、まあ。
白い手袋、パステルブルーの衣装、ヘーゼルグリーンの瞳。置く色は写実性を強く。プリントしたときの色映りなんかも考慮すると、あまり淡い色使いにすべきでは無い。
いつもの3倍くらい時間をかけて描きあげて、締切前々日に提出した。
あとは野となれ山となれという感じで、夏休みを使って岐阜まで遠出をして絵を描いたり、電子ピアノを買ったりした。少しずつ手に馴染むようになってきた鍵盤が奏でる音色に、初めて絵を描いた頃のことを想起させられる。
そうなると絵が描きたくなって、結局ペンを持っていたりして。
8月24日に、フラワースタンドに寄稿した絵を投稿しておく。ここ暫くは風景画ばかり描いていたからか、いつもよりも反応が良かった。
朝食にロールパン、昼食に作り置きの野菜炒めを食べて、その日もぶっ通しで絵を描く。大学生になって、受験期よりも時間が増えたから、絵を描くペースも著しく上がっていた。
その日は投稿した絵のことなんかすっかり忘れて床に就いた。
SNSを覗いてひっくり返りそうになったのが翌朝。
『へたくそ』というリプライ。彼女も僕も大炎上していた。
ひとしきり笑ったあと、『見てないものは描けない』と返す。
『言おうか迷ってたけど、2枚目がいちばん上手かった』と即座に返事が返ってきて、また笑う。『もっと早く言ってよ』。
ダイレクトメッセージにチケットのリンクが届いていた。観に来い、ということらしい。
それから絵の依頼主からの謝罪が届いていて、そちらにはこちらこそすみませんと謝っておく。どう考えたって僕らが悪い。
今日の開場時間を調べる。開場が17時、開演が18時。全然猶予があった。
朝食を詰め込んで、紙と絵の具、最低限の荷物を持って家を出た。3年近く振りにいつかの公園へ。肌を焼く白光から逃れるように影を
ほんの少しの緊張感。
僕の絵に風は吹くだろうか。
夏を描く。筆先が、画用紙に触れた。薄い色水みたいな黄色を置く。今日は特に淡く塗ろう。あの日が透けて見えるように。
蝉の声に混じって、小石を踏む足音が聴こえた。
透き通るような声が耳朶を打つ。
「何描いてるの?」
──振り返ればそこには、あの日と同じ青が立っていた。