鈍として青く   作:ヤン・デ・レェ

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月琉様 コンでんす様 1鍵様 リオさん様 誤字報告ありがとうございます。


御本尊

 

 

 

 

 

人が住むには余りにも危うい山に、一人の尼が住んでいた。

 

尼は美しく、志高く、誰からも尊敬されていた。

 

だがある時、尼は不治の病にかかってしまう。

 

それ以来、尼のもとを訪れる者はおろか、彼女を救おうと動く者は誰一人としていなかった。

 

そして今、尼の命の火は消えようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

吾輩は以蔵を看取り、再び時空を切り裂いた。足を踏み入れると浮遊感が一瞬、吾輩を襲い、それから間もなく硬く動かぬ地面の上で立っていた。

 

周囲を見渡せど、見える者は緑のみ。鬱蒼として、人の手の入らない山の最深部に降り立ってしまったようだ。

 

だが、吾輩に焦りなどなかった。牛若と共に暮らした、天狗の治める山での山伏修行を思い出せば、この人っ子一人いそうにない山も住めば都よ、といった具合である。

 

だが、吾輩の予想とは裏腹に、どうやら先客が。

 

僅かにだが、生命の気配を感ぜられたのだ。

 

吾輩は吾輩の直感に突き動かされるままに、その生命の気配を追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

辿り着いた先は、なんとも古めかしい…言い方を替えれば倒壊寸前の寺院であった。

 

生命の気配は、この奥から発せられているようである。

 

蛇が出ようと、獲って食ってしまう吾輩に、恐怖などなかった。

 

例え霊が出ようとも、吾輩には問題なかった。

 

「たのもーーー誰かある」

 

果たして、そこには薄汚れた布団と、そこに伏せるやせ細った尼が一人、身動ぎ一つせずに横臥していた。

 

「家主殿…かな?」

 

返答はなかった。代わりに、鼻が曲がるような腐臭と、汚物の処理がなされていない不潔さが眼鼻を衝いた。

 

「病、であるか」

 

吾輩は、一宿をここで済ませることに決めた。

 

身勝手にも決めて、そしてその対価として、一宿の恩を果たすつもりで、横臥して今にも崩れてしまいそうな、この気の毒な若い尼を救うことにしたのだ。

 

「一晩、泊めて頂く代わりに、一つお礼を差し上げる」

 

吾輩は一方的に宣言し、右手に剣を持つと、左手の脈を僅かに傷つけた。

 

パタパタと、鮮血が舞った。

 

「吾輩の血で恐縮であるが、どうかよろしくお願い申し上げる」

 

鮮血は眠る尼の口を伝い、その喉へと伝い、そしてその肉体の隅々までを巡った。

 

ゆっくりとゆっくりと、介抱するように、吾輩の血は、家主殿の血に馴染み、血を浄めていった。

 

吾輩は腕の傷が治ったのを確認してから、どっこいせと、家主殿の隣で一晩を明かした。

 

 

 

 

 

 

 

もう二度と、自らの力で起き上がることなど出来ないと思っていた。

 

不治の病に侵されて、何も、文字通り何もできず、ただただ祈るばかりの日々だった。

 

命の灯はしぶとく、粘っていたが、もう直に楽になるだろうと、そう感じていた。

 

あの人が来るまでは…。

 

私は、私は惨めで仕方なかった。真言立川詠天流の宗主の子として生まれ育ち、その戒律に基づいて人生を送ってきた。

 

間違ったことなど一つとして犯さなかった。

 

だのに、だというのに、御仏か、或いは神が許したのか。私はこの身に病を抱えて、ありとあらゆる侮蔑を受けて、そうしてこんな山奥にまで逃れて来た。

 

最早、誰も私の事を救ってくれないのだと、最早、祈りは届かないのだと、動かなくなる一方の肉体に染みて理解させられた。

 

惨めに、不潔に、私は腐っていくのだと。

 

生涯最後の祈りを捧げるのならば、私は祈りの代わりに、自らのことを蔑ろにし、見捨てて行った全ての人々をお恨みします。

 

憎悪で身に焼いて、この病弱でなんら救いを許されなかったこの身を焼いて。私は祈りましょう。せめて、せめて私だけでも、私自身の為にお祈り申し上げましょう。

 

そうして、醜く、汚らしく、微弱な生を細々と続ける事十数年間。ようやく、その時が来たのです。

 

私はもう、指一本さえも動かせなくなってしまいました。

 

誰かの援けが無ければ、他力がなければ、最早何もできなくなってしまいました。

 

これ即ち、死。私には、もう自力で死ぬ力も残されていなかった。

 

汚い薄い布団に包まれて、いつやってくるかもしれない死を待つのみの身の上を憎んで、私はそっと意識を手放しました。

 

 

 

 

 

 

私が仮死の眠りについてから、どれほど経ったでしょうか。

 

気がつけば、隣に誰かの温もりを感じていました。けれど、私には心当たりなど無くて…。

 

あれ?どうして意識が戻っているのでしょう…起き上がることだって、で、出来てしまいました。

 

あぁ、どうしましょう、汚れて果てた私の肉体は、やせ細ってはいるものの、何時の間にやら新しい衣に変えられていました。

 

髪も、痛んでいたのが、宗主の娘として祈りを捧げていた時のように、美しく艶が溢れんばかりです。

 

身体も、痩せてはいるものの、肌艶はこれまでになく透き通っていて…なにより、動けます。自力で、起き上がり、立ち上がり…できるのでした。

 

私には何の心当たりもありませんでした。けれど、女の勘が囁くのです。隣で眠っていた、この御仁が私を救ってくれた張本人であると。

 

神すら見捨て、御仏に裏切られた私を、この殺生院キアラを救い給うた、真の神様が、真の人間が…唯一無二の御方が、ここにいらっしゃるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

サイトウは、キアラが起き上がるなり、長欠伸を呑気に打ち上げて、それから彼女と向き合った。

 

「元気になったようで何より。ところで、吾輩は寝床を探しておるのだが、しばらくここの屋根を借りることは出来まいか?」

 

サイトウが尋ねれば、キアラは首を物凄い勢いで縦に振った。

 

「えぇ、えぇ、是非に是非に。貴方様が私に施して下さったご恩は、一生涯に渡るもの。どうぞ、心行くまでここに」

 

「ならば喜んで。恐縮ですが、居座らせていただこう」

 

サイトウは喜び、キアラも喜んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

キアラが恢復したという噂は、彼女の美貌を目当てにする男たちの間で直ぐに広まり、連日のように誰かが押しかけては求婚を迫った。

 

尼に求婚を迫るというのは何とも不信心な事だったが、一方で彼女の流派にとっては優先すべき事柄にも近しい儀式だと言えた。

 

快楽が根底にある、立川詠天流の宗主となったキアラを、一度でいいから味わいたいと、その刹那的美貌に多くの虫が集った。

 

もしも昔のキアラであれば、どうぞどうぞともてなし、その日の晩には宗派の戒律通りに交わったであろう。

 

だが、今や殺生院キアラの身に触れて好いのは、ただ一人の居候だけであった。

 

我が身に触れさせず、戒律を敢えて破ったキアラを、同じ教団に属する者達は罵り、或いは嘲った。

 

だが、キアラが身も心も捧げている男が、キアラの美貌が霞むほどのものであることに気づく頃合には、もう誰もが黙って、指をくわえて悔し気にキアラの幸運を妬んだ。

 

キアラは美しかったが、男の方が更に圧倒的に美しく、艶っぽかった。

 

だから、と言うと語弊が生まれるが…キアラは男を極力人目に触れさせず、かと言って自分は誰よりも男の傍に侍り、少しでも長い時間、男を独占した。

 

男と出会ってから十数年後、キアラは酔わせた男を襲い、遂に念願の契りを結んだ。

 

 

 

 

 

 

 

男とキアラの暮らしは唐突に終わりを迎える。

 

ある夏の晩のこと、キアラが近所から貰ってきたスイカを、男が目隠しして割ろうと、木刀を振り降ろした瞬間だった。

 

ブゥン!と、大きな蜂が耳元で飛翔する様な音と共に、時空の割れ目が、男により切り裂かれて、そこに在ったのである。

 

「あぁ!?だめです!行かないで!!」

 

キアラはそう叫んだ。

 

だが男は、目隠しを取る間もなく、時空の割れ目に呑み込まれてしまった。

 

残されたのは、割り損なった冷えたスイカと、初めからそこには誰も居なかったかのように、沈黙を守る森だけだった。

 

キアラは跪いて、天を憎々し気に仰ぎ見、ただ己の為だけに、男へと、愛した男へと祈りを捧げると共に、男との二人の幸せを壊したこの世界への復讐を誓った。

 

「あぁ、そんな、私の御本尊様…嗚呼あああああああッ!?」

 

その日を最後に、キアラを見た者は居ない。

 

キアラと同様に、男を見た者もまた、この時代には誰一人としていなかった。

 

そして数年後、詠天流は信者の不審死が相次ぎ、その存在をこの地上から抹消された。

 

今を以て、キアラの消息は未だ不明である。

 

 

 

 

 

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