クトゥルフ神話
パルプ・マガジンという安価な大衆娯楽の一種の露悪的な側面から生まれ出でた架空の神話
それは今現在も、日本や発祥の本国である米国にて創作の題材の一つとして不動の人気を得ている。
作家のハワード氏を始めとする作家達の連作とも言える案の複合体であるそれらには、言いようのない海への、そしてその住人達への畏敬の念で象られている。
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プールの底がまるで抜け落ちるかのように三輪と神楽輪がぽっかりと空いた真黒い空洞へと流れ落ちる。
だらりと脱力し、落下する二人の体をぬるりとした巨大な触手が掴み取っていた。
その元を辿ると、酷く奇怪な姿の領域の主があった。
巨大な蛸と人間の頭が半々で混じり合ったような奇怪な姿。その顎らしき部分から、無数の触手がニョキニョキと生えていた。
それだけではない。
神楽輪から直接呪力を吸い取るように触手を絞めると、顎の下から先が徐々に生え始めていた。
「GuoOOAHHHH!!」
領域の主は歓喜の唸り声を上げた。
ちまちまと非術師を自らの領域内に誘い込み、"御主人"の言う通り格好の餌が釣れた。
これはこの戦いに勝利するだけを意味するのではない。"幼体"の自分がいよいよ生体になれる祝福すべき瞬間だ。
このクトゥルーの名を冠する呪霊は、生後僅かながら完全にそれを理解していた。己を理解していた。だが、一つ致命的なミスを犯す。
「…反転術式」
それは、己は知っていても、餌ではない呪術師を知らなすぎたと言う事。
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神楽輪視点
「…一か八かだったけど割と何とかなった。」
目の前には悠々と私の呪力をちゅーちゅーと吸い上げていたが故に、何の防御も回避もできずに、むしろ自分から私の反転術式の正のエネルギーを体内に取り込んでくれた間抜けが一匹。
形状からしてクトゥルフ神話系への恐怖から生まれた呪霊なのかな…色合いは赤だったけど、私の呪力を吸ってる間に緑色に変色し始めていた。まだ成長途中だったわけね。私と三輪ちゃんを掴んでいた触手をはじめ、生えかけていた首から下に顔の一部も綺麗に消し飛んだ。
「…汚い手で三輪ちゃんを操りやがって…私がヤケになったとでも思った?」
刀を胸から引き摺り抜いて胸にできた血飛沫で赤い造花のように咲いている傷を反転術式で治す。
三輪ちゃんが普段から刀を手入れしてくれてるおかげで、ずいぶんスッキリ抜けた。
「ありがと、三輪ちゃん。返すね。」
私はまだ惚けた様子の三輪ちゃんに刀をそっと手渡す。本当に彼女が居なければもっと苦しい怪我を負わないと奴を引き摺り出せなかったかもしれない。
のたうち回る醜い不格好な顔のような姿になった呪霊は辛うじて残った職種の元でむくりと立ち上がると、今度はまだのぼせたような赤い顔で立ち上がる事もおぼつかない三輪ちゃんを目掛けて、蛸のよような鋭い顎にびっしりと生えた歯を剥き出しにして飛びかかろうとした。
-----させるわけない。
私はそれより早く呪力の弾性で地面を蹴ると、薄汚い呪霊の目に渾身の蹴りを喰らわせてやった。
「HI GYA AHHHH!!!」
全く耳障りでしょうがない唸り声だなあ。
もうトドメにしちゃおうか…。
楽に仕留めたくはなかったんだけど、まだ呪力を吸われてる人が上のプールで苦しんでる。
「死ね」
「……!! AHHHHHHHHH!!!!」
だが呪霊はまだ足掻くつもりのようだ。耳を劈くようなクソ甲高い悲鳴のような叫びと共に、呪力が一気に呪霊の元へと四方八方から飛んでくる。
それと同時にニョキニョキとまた触手が生えはじめた。
「!おまえ…まだあの人達から呪力を吸い上げるつもりか…!」
攻撃してくるのにカウンターでまた反転術式を喰らわせてやろうと身構えたが、呪霊はニヤリと勝ち誇ったように、そして嘲笑うように顔を歪ませると、瞬時に交代して真黒な結界に体をめり込ませた。
また逃げて状況を振り出しに戻すつもりか…!
「…やはり呪術師を知らないね。呪力消費的にそろそろキツいけど…まあ問題ない。」
私は燃えたぎるような怒り共に、胸にそっと左手を構える。左手の人差し指を立てて残りの指を握り、その人差し指を右手で包み込む。
それは智拳印と呼ばれる印相に似た構え。
「領域展開 自戒瞋恚菩薩」
人々にお前がつけた鎖ごとお前の身体の呪力をへし折ってくれよう。
「お前のことはもう嫌いだ。」
木造の菩薩像が静かに呪霊を見据える。至る所に血みどろの十字架が突き刺さる荒野。相変わらず殺風景な領域で嫌になるが、それ以上に不快なのは…
「Ah…Ah…ah…a…」
今まさに、その中央で全身から凄まじい血飛沫を空気中に撒き散らされてもがき苦しんでいるクソ呪霊。
その血飛沫はじわじわと付近の十字架に吸い込まれて飲み込まれていく。
「厳密に言えば呪力だけど…まあ領域のサービスだね。」
「お前が苦しんでいる姿を見るとスカッとする。」
呪霊は困惑と苦痛混じりの叫び声をさらに甲高く上げた。
だがすぐ搾り取れないとは。
これはやっぱり一級どころか特級格の呪霊だった。
しかしそれももうここで終わり。
呪霊はまるでじわじわと幼くなっていくかのように体を小さくしはじめた。
だがそれでもまだ往生際が悪い。
「GIAAA AH AH AH AH!!!!」
領域に入ってからずっと無言で俯いている三輪ちゃんに向かって必死の形相で駆け出した。
「…お前は私たちをただの餌だと思ったのかもしれないけど。勉強不足だったね、色々と。」
私的には手間が省けたわけだ。
瞬間、三輪ちゃんが凄まじい呪力を全身から放つ。
目にも止まらぬ速度で刀を鞘に差し直した。
「シン・陰流…」
「簡易領域!!」
瞬間、彼女の周囲に半球状の簡易領域が展開される。私の領域に付与された術式による教科は鈍くなるものの、彼女の簡易領域内では、彼女の反射神経は著しく向上する。
一閃。
「三輪ちゃんは今のお前の人質になんてならない。」
瞬間、勢いのまま呪霊の顔面は…否、残った全身の全てが綺麗にパカリと断面を見せて真っ二つになった。勢いのまま綺麗に中央の三輪ちゃんを素通りして後方まで二つの肉片が飛び散り、蒸気のように溶けて消えていく。
「…お疲れ様、三輪ちゃん。」
私はまだ俯いて残心の構えをとって硬直しているように見える三輪ちゃんを朗らかに労う。だがまだ三輪ちゃんは動かない。
「三輪ちゃん?大丈夫?どこか打ったんじゃ…」
あのクソ呪霊から搾り取った分の呪力はまだしっかり残っている。
反転なら治せるし…
そう言おうと口を開いた瞬間、三輪ちゃんが微かに震えながら先に何か言おうとして口をもごもごと動かした。
「………も。」
「も?」
「も…も…申し訳ありませんでしたああァ!!」
そして凄まじい速度でジャンプすると、私の目の前に向けてこれまた凄い勢いのジャンピング土下座を披露したのだった。
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三輪霞視点
「いや、だから気にしなくていいよ…ほんとに。全然平気だから。」
輪はそうやって曖昧に微笑んで、私の体を気遣ってくれさえした。私よりずっと華奢で頼りになるのは知ってたけど、いくらなんでもこれはちょっと生き恥…ですね…
その後、領域を解くと私たちはプールの中に戻っていた。そのあとは正気に戻っても記憶が抜け落ちてパニックになっている被害者を受付の男性と一緒に誘導して、取り敢えず呪いの霧が体内に溜まっていない方々は救急車に運んでもらう手筈がつきました!
帳は上がったようで…。結局何だったのかな。
補助監督の人は何故か居らず、連絡も付かなかったので少し手間取ったのですけど、そこら辺も復活した受付がやってくれて、色々と助かったなって感じでした。
呪いの影響が強かった人々は一箇所に纏めて、補助監督の人に私が預けていた黒縄を回収して祓おうという形で落ち着き取り敢えず一安心。
「いやほんとにすみません…この任務が終わったら真依にも土下座しないと…。」
「いやいやいや。三輪ちゃんは悪くないから。謝るなら私だから。」
「いやいやいや。」
「いやいやいや。」
「………まあ取り敢えず待機してるはずの補助監督の人に黒縄を取りに行こ。話はそれが終わってからね。」
「はい…。」
(ヤベェ〜…なんかめちゃくちゃ邪ないい思いした気がする…こういうことはあんまりしたくなかったんだけど…。マジか〜…。)
役立たずどころか全力で足を引っ張った気がして、そしてその中で体験した事に満更でもない充実感を恥と共に感じている自分が正直ショックかも…。
「ああ、ちょっとお二人。待ってくれへん?」
先ほどまで他の被害者の救助を諸々手伝ってくれていた受付の男性が駆け寄ってきた。後ろにはヨタヨタと疲れ気味に歩く壮年の男性が見えた。グレーのスーツでかなりたっかそ〜な腕時計をしている。
「何か?その、今はまだやることが…。」
「手短に済ませます。」
壮年の男性がしわがれた声でそう答えた。
「…その。我々はまだ何があったのか正確に把握しているわけではないのですが…"管理人"として…いえ、巻き込まれた者を代表してお礼が言いたかったのです。本当に…ありがとう。」
瞬間、暖かい気持ちが溢れた。しかし輪は何故か顔が凍りついていた。
「管理人?あなたが?」
「…?ええ。はい。そうですが。」
その疑問の意図を朧げに理解した瞬間、私も絶句した。
彼が管理人でこの数日間ずっと巻き込まれていた…?なら私達が補助監督の人と挨拶したあの神経質そうな男は…
「急ごう!!」
私達は駆け出していた。
補助監督が不在の理由がそうなのだとしたならば、かなりまずいかもしれない。
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三輪霞視点
「…大丈夫ですか!?」
案の定というべきか、補助監督の車はすぐに施設の駐車場で見つかったものの、補助監督の女性の方は無事ではなかった。
「う…す…すみません。油断しました…。」
肩をザックリとナイフで切り付けられている。首にまでは届いていないものの、かなりの重症で動けないでじっとしていたらしい。
ご丁寧にスマホは壊されていた。
輪が身につけたばかりの反転術式で治すと、申し訳なさそうにそう呻いた。
「謝らないでください。貴女が悪いわけじゃない。」
「あの…我々と連絡を取り合っていた管理人を名乗っていた男が…クソ。気づくべきでした…。」
「黒縄は?」
「…………奪われました。」
…それが狙いだったのかもと、輪も私も思い至った。
黒縄は特級術物であり、高専内部でも輪が持っている事は伏せられていたのに。
「高専内部に協力者が居る…?」
「推測で語れる事でもないよ。とにかく高専側に連絡だ。」
輪は努めて冷静に振る舞っている。でも、本当に誰だったんだろう、あの花部と名乗っていた男性。あんな呪霊を操れるほど才能あるタイプにはとても見えなかった。一体何が起きてるの…?
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「ご苦労でした。"花部"さん。」
噂の的の青背広の男は、大阪のハズレにある空き地と名称する方が相応しいような、がらんとした公園の中に居た。
その目の前の人物に血に少し濡れた縄を神経質そうな様子で差し出すと、ニヤリとほくそ笑んだ。
「ええ、まあ苦労しましたが。まさかあんなクソガキどもとは…。」
「術師は年齢では計れませんよ。では報酬を送信させて頂きます。口座をご確認ください。」
差し出された相手は、無機質な口調でそう告げた。青スーツの男がその言葉に笑みを深めてスマホを開くのを、その白髪の中性的なおかっぱ頭の人物は、どこか白けたような眼で見つめていた。
「…おお。」
「ではこれで仕事は完了です。お疲れ様でした。」
笑みを浮かべるのも極めて事務的に見えたその人物は、縄を袋に詰めると早々に立ち去ろうとした。
だが青スーツの男はギラついた目を向けた。
「待ってくれよ。」
「………なんですか?」
「私はあんなに苦労したんですよ。あんなふざけた呪霊の領域に入って、あの管理人のパソコンをハックして情報を盗んで完璧に管理人を演じた。」
「そうですね。それで?」
「報酬に色くらい乗せてくださいよォ〜…ここまでやったんだからさぁ…。」
白髪の人物の目つきがますます冷たくなる。まるで絶対零度の威圧感。だが青背広の男は尚も言いすがる。
「言いんスかあ?ここで俺が満足しないと、うっかり高専に口が滑っちゃうカモ。」
「…はぁ。まあ構いませんが。」
そうして白髪の人物はゾッとするような美しい笑みを浮かべた。
青背広の男は歓喜の色を浮かべるが、瞬時に顔が文字通り、"凍りついた"。
「死をくれてやる。薄汚い野良犬が。」
その空き地を十数分後に通り過ぎた人物は、悲鳴をあげた。空き地はまるでアイススケートのよう。その中心には、間抜け面で凍りついた氷像が一つ立っていた。