拝復
公園の紫陽花が枯れている
限りなく人に近いキミは
不定形の私を見ていた
オレンジの花が咲くことに
海月が水底に沈むことに
渡り鳥が旅に出ることに
虹の端が見えないことに
意味はない
世の
オレンジの花が散らされぬことに
海月の水槽に流れがあることに
渡り鳥を見送ることに
虹の端を目指し歩くことに
世の理はない
同じ形をした獣同士にしか伝わらない道理に
キミが姿を暴かれたのならば
翼の生えたけだものになって
星座を盗んでみせたってかまわない
遠吠えをひとつ
降り注ぐ孤独を噛み砕く
青色のともしびが
私の形を定める前夜
五人揃って、ようやくバンドが完成したみたいだと日菜ちゃんが言った。ギター、ベース、ドラムのスリーピースが揃って、バッキングやエフェクティブな演奏をするピアノがいて、ボーカルの私がいる。
バンドは大抵、四人か五人だというから、七深ちゃんが加わってようやく、ランニングライトは過不足なくバンドとして単体で演奏ができる条件を満たしたということだろう。
持ち曲が四つ。カバー曲をひとつかふたつ入れて、30分のライブを埋められないこともない。
新しい曲を作りたいとも思っているけれど、今は少し保留中だ。焦って中途半端なものを量産してしまうのは私としても不本意だし、次々に新しい曲を練習する方が成長に繋がるから、ということでカバー曲の練習をすることもあって暫くは今のままでもいいかな、と思っている。
実を言うと、次の曲では何を書くかは既に決めてしまっている。
書くには十分な材料が足りていなくて、停滞しているだけだ。
このままではいけないと思いながらも、一度安定期に入ったバンドの現状を崩すこともできずに漂っている。
例年より梅雨入りが少し遅かったらしい。梅雨に入ってもそれほど降られなかったせいか、あまり実感は無い。ただし風はむせ返るくらいに潤っていて、気温と相まって初夏の訪れを予感するには十分すぎるくらいだった。
五人で三回ほどライブをしてみて、私も随分慣れてきたように思う。たとえばMCで話せる内容が少しずつ増えてきた。お客さんに話題を振ってみて返事が貰えたり、あまり吃らずに話せたり。これは本当に成長というよりも慣れで、他のバンドの人たちのライブやMCを聞いて「こういうことをすればいいんだ」という学習を積み重ねてきた結果だった。
ライブが発表会ではなくコミュニケーションであるということに気が付くまで、随分と時間がかかった。
バンドメンバーともそうだけれど、音楽を通してお客さんとも繋がっている感覚を実感できるようになった。つぐみさんがライブに来てくれた日のように、七深ちゃんが手紙に書いてくれたように、私たちの歌が誰かの心に届いて、巡り巡って私たちに返ってくる。
それともうひとつ。大きな変化と言えば、練習場所が貸しスタジオではなく七深ちゃんのアトリエになったことだろうか。
高頻度でスタジオを借りるのは金銭的に勿体ない、という七深ちゃんの提言でアトリエを使わせてもらえることになった。日菜ちゃんに大きな負担を押し付けている自覚があったから、ほっとしたところがないと言えば嘘になる。
「蒸し暑いねー」
放課後、七深ちゃんのアトリエに向かう道中で日菜ちゃんとばったり鉢合わせた。とうに衣替えを済ませて夏服に身を包んだ日菜ちゃんは、それでも汗ばんでいる。
雨上がりの曇り空、気温は物凄く高いというわけでもなかったけれど、代わりに湿度が高くて鬱陶しい。生ぬるい空気が絶えずまとわりついてくる。
シャツの胸の辺りを摘んでパタパタと扇ぐ仕草に一瞬、視線がひきつけられた。風を通してもそれほど効果が認められなかったらしく、日菜ちゃんはうんざりした表情でギターケースを担ぎ直した。
「燈ちゃんは暑いの苦手そう」
「……うん。日菜ちゃんは?」
「寒い方がキライかな。暑いのもヤだけど。ほら、涼しさには即効性があるじゃん? クーラーでも氷でも。冬は暖房とかストーブつけてもすぐに温まらないから、あの時間が嫌い」
それは少しわかるような気がした。でも、私はやっぱり暑い方が苦手だ。冬は着込んでいればある程度凌げるけれど、夏はそうもいかない。シャツとスカート一枚でも暑いものは暑いし、日焼けのことを考えるとアームスリーブだったり日焼け止めだったり、何かしらの対策をしなければいけないのも煩わしい。
「梅雨前線の向こう側まで新幹線で
「……九州まで行ったら、梅雨明けしてるかも」
夏を迎えに行けたらいいのに、と日菜ちゃんが言う。そんなことが出来たら、どれだけ楽しいだろう。梅雨の虹を超えて、まだ誰もいない夏空を私たちでふたり占めできたら。
冗談だけどね、と笑って路地を進む。
民家の庭先に紫陽花が咲いていた。水仙と並んで、紫陽花は最も身近な毒草の一つであると聞いたことがある。カタツムリが紫陽花の葉を食べている、というイメージは間違いなのだとか。
もう一つ、紫陽花は土壌の性質によって花の色が変わるらしいとも聞いたことがある。私が見たことがあるのはもっぱら青紫の花だから、私の活動圏には酸性に寄った土が多いんだろう。
梅雨の象徴みたいな庭先を通り過ぎて、七深ちゃんの家が見えてくる。
日菜ちゃんと二人でゆっくりと話す機会が、この頃はあまりなかった。出逢った頃のようにひたすら私の話を聞いてもらっていたのがどちらかと言えば特殊な事例だったとしても、純粋に寂しい。
心の距離が可視化されたなら、私と日菜ちゃんとの距離は2ヶ月前よりも遠くなっているんじゃないだろうか。私の寂しさがそう見せているだけなのかもしれないし、私の遅遅たる成長が本当の距離を暴いたのかもしれないけれど、いずれにせよ。
私と日菜ちゃんの間には、雨の日に隣あって歩くときと同じくらいの距離が開いている。手を伸ばせば届きそうで、けれど傘と傘のあわいにはしとどに雨が降り注いでいる。
「そういえば、燈ちゃんがこの時間なの珍しいよね。学校出るのが遅かったの?」
「うん。図書委員の仕事があって」
「図書委員なんだ。でも、本はあんまり読まないって言ってなかった?」
「あんまり読まないけど……一人の仕事だから気楽で」
「あー、なるほど。見回りとかあいさつ運動とかないもんね。図書当番くらいで」
位置関係の問題で、同時に学校を出ると私の方が日菜ちゃんより早くアトリエに着くことが多い。けれど今週は図書当番があって、放課後も20分くらい拘束されてしまうから、あと何回かは日菜ちゃんと同じくらいの時間になりそうだ。
本はそれほど読まないけど、図書委員の仕事は嫌いじゃない。落ち着いた雰囲気の図書室は好きだし、司書の先生も話しやすい方だと思う。
それに、作詞を初めてからは本を読む頻度も上がった。以前までは読書感想文のために図書館で本を借りるのがせいぜいだったのに、学年が上がってから既に2冊読んでいる。他人の文章を噛み締めることを覚え始めたと言えるかもしれない。
それはさておいて、美化委員の清掃活動とか、風紀委員のあいさつ運動とか、まして放送委員なんかになってしまったら困るので、さっさと図書委員に立候補したというのが実際のところ。
「日菜ちゃんは、本も読むんだよね」
「うん。結構なんでも読むよ」
「…………好きな本って、あるの?」
本の話題を広げたのは、そこに日菜ちゃんの「ヒント」を期待したからだ。まさか読書傾向から人となりを覗けるとは思わないし、仮にそれが可能だったとしても、私にそんな能力はない。けれど今は、日菜ちゃんが好む心情ひとつ、共感できる言葉ひとひらさえも手がかりとして欲している。
日菜ちゃんとの距離を埋めるきっかけを、日菜ちゃんの窓をノックする勇気を探している。
「好きな本、ねぇ。いっぱいあるよ。うーん、でも、燈ちゃんが好きそうなのは……『よだかの星』とか?」
「聞いたことはある、かも」
「宮沢賢治のやつ。短いし、普段あんまり本を読まなくても読みやすいんじゃないかなぁ」
宮沢賢治、と言われて少し尻込みした。国語の授業で読んだことのある『やまなし』が難解だったからだ。川底から見た水面の煌めきと、やまなしの香りの芳醇さの描写くらいは覚えているけれど、あの話が一体なんだったのか、私には分からない。今読み返せば印象も変わるのだろうか。
「貸したげよっか?」
「……ううん、明日図書館で借りてみる」
「そう? んー、まあ、いいんじゃない? 置いてないってことはないと思うし」
ほとんど空っぽなスクールバッグをくるりと回して、日菜ちゃんがアトリエの入口にある門を開けた。ぴょんと飛び越えた水溜まりは、昨日までの雨の名残だ。
「……半歩分、遠くなったね」
振り返って、日菜ちゃんがうっすらと笑った。ぴんと反るように伸ばされた人差し指が、私の眉間に触れかける。そこからみぞおちのところまで、日菜ちゃんがゆっくりと指を下げた。
「燈ちゃんを割り開いたら、その心には何が詰まってるんだろう。そこにあたしはいるのかな?」
「……日菜ちゃんには、見えない?」
「あたしには見えないよ。レントゲンにだって心は写らないのに」
微かにドラムの音が聞こえてくる。それからベースの、ぼんぼんとはじけるような低音が。
アトリエに入っていく日菜ちゃんの背中を、数秒立ち止まって見送った。
黙っていたって伝わらない。言葉を交わさなければ心は通じ合わない。何度も痛い目を見て、何度も思い知ったはずなのに、すぐに忘れて、すぐに甘えてしまう。
たぶん、私は焦っているんだと思う。日菜ちゃんがこのバンドから、私の元から去ってしまうんじゃないかと怯えている。
何故なら、私は日菜ちゃんがバンドをやりたがっていた理由も、目的も、きちんと理解できていないから。お姉さん絡みなのは知っている。けれど、どういうバンドであれば日菜ちゃんの目的を達成できるのかは分からない。
──私には、日菜ちゃんの輪郭さえもぼやけて見える。
「おつかれさま〜」
アトリエに入ると、私で最後だった。初めて訪れた日からは随分と様相を変えたアトリエには、所狭しと楽器が置かれている。七深ちゃんのお父さんが昔使っていたらしいドラムと、つぐみさんが持ち込んだ電子ピアノと、楽譜置きにされているイーゼル。アンプを配置して竿隊がギターとベースを持つと、やっぱり圧迫感がある。
前の練習でいくつか選んだカバー曲を通して練習してみて、それから持ち曲を通しで弾いてみて、あとは苦手な部分を修正したり意見を出し合ったりする。常に同じ演奏をするわけでもなく、持ち曲──たとえば晴嵐にもアレンジを加えてみたり、ブラッシュアップを試みたり、喫緊の目標があるわけでもないのに真面目に練習している方だと思う。
「あ、そういえば、ライブのお誘いが来てたんだった」
「ライブのお誘い? まりなさんからですか?」
「うん。夏休みにおっきいライブやりたいんだって。ランニングライトもどうですかーってメールが来てたよ。えーっと、これだ」
ほんとうに今の今まで忘れていたふうに日菜ちゃんが言い出した。そういえば、と開いたスマホの画面には、まりなさんからのメールが映っている。日時と時間と持ち時間、それから申し訳程度のチケットノルマなどの情報が書かれたメールは、一斉配信の類ではなさそうだった。
「どう? 出る?」
日菜ちゃんの翡翠の瞳が私を覗く。スマホの画面から視線を上げると、全員の視線が私へ注がれていた。
「……みんなは、出たい?」
「私は出たいよ。マンネリになる前に新しいこともやりたいし、……これは燈ちゃん次第だけど、新曲もやりたい」
つぐみさんの言葉に全員が頷いた。
「でも、燈ちゃんはどうなの?」
「私も、やりたい。目標はあった方がいいと思うし……新曲も、頑張ってみる」
ライブには出たい。でも、新曲からは目を逸らしたい。本心ともつかない本心を隠して、そう答えた。
──書くとしたら、日菜ちゃんの曲だ。
晴嵐から七色のきざはしまでの四曲は、それぞれバンドメンバーのことを書いてきた。
晴嵐には日菜ちゃんと出会って独りぼっちでなくなった私を。
海月のワルツには小雨に降られて傘の下で笑う花音さんを。
アフターレイリーには沈んでいく夕陽を見送ったつぐみさんを。
七色のきざはしには真っ白な絵筆を振りかぶった七深ちゃんを。
晴嵐は私と日菜ちゃんの歌だけれど、この歌の主体は日菜ちゃんにはない。
自覚している。私は、日菜ちゃんの曲を書くことから逃げている。
きっとみんな気が付いているはずだ。気が付いていて見守ってくれているのか、内心でやきもきしているのかは分からないけれど。
何度か書き出してはクシャクシャにして捨ててしまったルーズリーフには、日菜ちゃんの
「じゃあ『出ます』って返事しとくね」
「……うん」
向き合わなければならない。たとえ、私の人生が始まった瞬間を、丸ごとひっくり返してしまうとしても。
日が傾いていた。6月にもなれば日は随分と長いけれど、それで門限が変わるわけじゃない。遅く帰れば心配されるし、それでもしバンド活動に難色を示されでもしたらと思うと、困る。七深ちゃんがぽつぽつとベースを片付け始めて、みんながそれに倣った。
「……そういえば、『ランニング・ライト』の由来ってなんなんですか?」
聞いたことがなかったような、とつぐみさんが不意に口に出した。
「あんまり深い意味はないよ? 急いでバンド名を決めなきゃいけないタイミングがあって、るんと来る仮名を置いただけ。それがそのまま残ってるの」
「るんって……もしかして、
まさかそんな、と、信じられないものを見たような表情でつぐみさんが私の方を見たのに首肯を返す。日菜ちゃんの中ではもっとちゃんとした由来があるのかもしれないけれど、私たちの認識は日菜ちゃんの言った通りだ。
花音さんが苦笑いで鞄を背負った。アトリエの玄関へ続く扉を開けて、誰にともなくぽつりとつぶやく。
「意味は、私たちが付け足していけばいいと思うな。私は好きだよ、ランニングライト」
花音さんの考え方が好きだ。
私がライブを飛翔の機会だと捉えているように、バンド名に意味を増やしていけたら良いと思う。
ランニング・ライト。夜間航行灯。自らの位置を夜の空に、海に知らしめる星のような光。
私が日菜ちゃんから想起した晴れ空とは真逆の概念だけれど、どんな暗闇だって割り開いていけそうな力強さがある。
次のライブの曲も考えなきゃね、という一言を残して、その日は解散になった。七深ちゃんのアトリエを出て、四人で駅の方へ歩く。
帰路の途中で日菜ちゃんが最初に別れて、手を振りながらエスカレーターを昇って行ってしまった。
「……日菜さんと話すの、怖い?」
電車の中、私たちにだけ聞こえる声量で、つぐみさんが口火を切った。
横目に私を見る瞳は、私を見透かすように夕陽を反射している。
周囲の乗客が、車窓から覗く景色が、車内に吊るされた広告が忽ち“背景”に変わった。
「……怖い。……怖いよ。日菜ちゃんが大切だから、日菜ちゃんに踏み込むのが恐ろしい」
「……うん、わかるよ。それこそ私は、話せなかった人間だから」
でもね、と絞り出すようにつぐみさんが続ける。
「一生後悔するよ。……きっと。私たちがどこへ着陸するのかは分からないけど、燈ちゃんは一生、今日の日を覚えてると思う」
ひどい脅し文句だ、と笑った。
私と日菜ちゃんの関係をいちばん深く理解しているのは、多分つぐみさんだと思う。
「思い出は思い出のままの方が美しいけれど、写真だっていつかは色褪せて埃を被る。砕けるのが怖いって言ってる子に当たって砕けろなんて言えないけど……でも、ぶつかってみてほしい。もし上手くいかなくても、私が一緒にぶつかってあげられるうちに、ね」
「……うん。頑張って、みる」
一緒にぶつかってあげる、という言葉に、自分でも意外なくらいに心強さを感じた。今まで誰かの内面に切り込んだ話をする時は、必ず一対一で向き合ってきた。3人以上の場になると私が居なくても話が進んでいくから口を挟む必要がなくなるというのもそうだし、何よりも日菜ちゃんがそうやって私に向き合ってくれたから、ずっとそれを真似している。
『明日、話せないかな』とその場で日菜ちゃんにメッセージを送った。燈ちゃんらしいね、と花音さんが言って、やんわりと背中を押してくれた。『夜でも良ければ』と返事が返ってきて、そっと息を吐く。
車窓からの景色は、見たこともない速さで駆けてゆく。きっと、私の心が明日へ向かうのと同じ速度で。
♦
学校の図書室で本を借りた。小鳥の囀りみたいに囁くような話し声がぽつぽつと聞こえて、開かれた本がぱらぱらとめくられていく図書室の様相はまるで草原みたいだった。
日菜ちゃんが教えてくれた『よだかの星』を借りた。最初まるで見つからなくて、司書の先生に尋ねたら宮沢賢治の短編集の中に入っている、とのこと。日菜ちゃんが「短いから読みやすい」と言った通り、よだかの星は13,4ページしか無かった。
── よだかは、実にみにくい鳥です。
── ほかの鳥はもう、よだかの顔を見ただけでも、嫌になってしまうという具合でした。
── もっとちいさなおしゃべりの鳥などは、いつでもよだかのまっこうから悪口をしました。
1ページ目から、ぎゅっと心臓が痛くなる。図書室で読もうとしていた手を止めた。逃げるように学校を出て、駅のホームでもう一度本を開く。
小鳥から爪弾きにされて、鷹からは疎まれて、中途半端だと笑われて、よだかは鳥たちの中でも独りぼっちだった。
鋭い爪もくちばしもなく、そのくせ風切羽だけは大きくて、声音だけは鋭い。少しばかりのシンパシーを覚える。はぐれ者で、高らかに声ばかりをあげている今の私はまさによだかの容体だった。
列車に乗って、家の最寄り駅へ。けれど家で──安心できる場所で読むのもなんだか違う気がした。他人事として捉えてしまいそうというか、少しばかりの非日常に浸っていたい。
適当な場所が思い至らなくて、駅のホームの椅子に腰掛けた。私以外は誰も座っていない。ぽつぽつと月ノ森の制服を着た学生の姿が見える。七深ちゃんと会うまであまり意識したことはなかったけれど、私の家から月ノ森の学舎はかなり近い。
ページを捲った。
── ある夕方、とうとう、鷹がよだかのうちへやって参りました。
── 「おい。居るかい。まだお前は名前をかえないのか。ずいぶんお前も恥知らずだな」
──「鷹さん。それはあんまり無理です。私の名前は私が勝手につけたのではありません。神さまから下さったのです」
── 「いいや。おれの名なら、神さまから貰ったのだと云ってもよかろうが、お前のは、云わば、おれと夜と、両方から借りてあるんだ。さあ返せ」
── 「だってそれはあんまり無理じゃありませんか。そんなことをする位なら、私はもう死んだ方がましです。今すぐ殺して下さい」
名前がどれほど大切なのだろう。それは、命に変えられるほどのものなのだろうか。
浮かんだ疑問を消化するために瞼を閉じた。世界に影が落ちる。
私は自分の名前が好きだ。誰かの心を灯して欲しいと願ってつけられたのだと、道徳の授業の課題でお母さんから聞いた。
そうあれかしという祈りに私が応えられているかは別として、この名前の由来は死ぬまで忘れないだろうし大切にしていきたいと思っている。
それを取り上げられるのだから、名前を変えるというのはやっぱり大きな痛みを伴う行為に違いなかった。
名前が変わっても、今の私の本質は何ら変わらない。けれど、両親から託された幸福な祈りが取り上げられてしまうというのは、曖昧ながらもしっかりとした存在感をもって私の中に根付く想いを歪めてしまうに違いない。
── よだかは、じっと目をつぶって考えました。
── 一たい僕ぼくは、なぜこうみんなにいやがられるのだろう。
── それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。
ひどくぼんやりと、そして緩やかな絶望だった。ぎりぎりと首が締まる音がする。
息継ぎに失敗して、酸欠ぎみの世界で慌てて浅い呼吸をした。よだかにとってはただ生きているだけなのに、誰からも嫌われてしまうなんてあまりにも残酷だった。
私が実感さえしていなかった感情の正体を、改めて文面で突きつけられたような心地がした。日菜ちゃんがこの本を私に教えた意図は未だ分からないけれど、理由は何となくわかる。
だって私は、こんなにもよだかに感情移入してしまう。
「──高松さん?」
縦書きの文章を追いかけていた私の頭上から、雨のように声が降り注いだ。顔を上げれば、見覚えのある、日菜ちゃんによく似たかんばせが私に影を落としていた。
「……日菜ちゃんの、お姉さん」
「……そういえば名乗っていませんでしたね。氷川紗夜と申します。以後──ええ、以後、よろしくお願いします」
座っても? と尋ねられたのに頷く。私の隣に腰掛けた……紗夜さんの足元には、ぎっしりと教科書や参考書の詰まったスクールバッグが置かれた。はち切れそうなくらいにパンパンに膨らんでいて、外からでも本の角がわかるくらい。
「以前は少し感情的になってしまい、申し訳ありませんでした」
「いえっ、その……大丈夫です」
「ならいいのだけど……」
苦手意識というか、恐ろしさを感じてはいるけれど、紗夜さんから悪意は読み取れない。
「……熱心に読んでいたのは、『よだかの星』?」
「そう、です。まだ半分くらいですけど……」
「私は好きよ。──日菜は嫌いらしいけれど」
「──え?」
紗夜さんがあっさりと発した言葉に動揺して、声が漏れた。日菜ちゃんが嫌いな本? ……日菜ちゃんの好きな本だと聞いて読み始めたのに、それがまるまるひっくり返ってしまった。
「……日菜から勧められたの?」
「はい。そうなんです、けど……」
「それなら、さっきの発言は気にしないで。読み返して考えが変わったのかもしれないし、私の記憶違いかもしれないから」
「ええっと……はい」
上手くいかないものね、と紗夜さんが首を振った。呆れたようなため息のもとは、紗夜さん自身か、それとも私か。
「これ以上日菜との関係をとやかく言うつもりはないのよ。あの子にやり返したいわけでもないし」
はぁ、と曖昧な返事が零れる。それに苦笑して、紗夜さんが立ち上がった。列車の訪れを知らせる音楽が鳴って、ホームに並ぶ人の列が少し伸びた。
「いつか貴方達の演奏を聴きたいと思っていたのだけど、都合が良かったわ。……CiRCLEのイベント、出るんでしょう?」
「そのつもりです」
「私も出ることになったから、また会場で会いましょう。……楽しみにしているわ」
それだけ言って、紗夜さんは電車の人混みの中に消えていってしまった。スラリと伸びた背中が、スーツの黒に遮られて見えなくなる。
紗夜さんと日菜ちゃんの間に、何があったんだろう。私にわざわざ忠告するくらいだから、紗夜さんの中でも大きな出来事だったんだろう。日菜ちゃんもずっとそれを悔やんでいて、けれど二人の仲は違えたままだ。
知りたい、と思ってしまう。けれど日菜ちゃんは決して知られたがらないだろうし、これが私の独りよがりに過ぎないとわかってもいる。
弾かれたように立ち上がって、小走りで列車に駆け寄った。すんでのところで閉まったドアに肩を落とす。……紗夜さんについていってどうする気だったんだろう。紗夜さんに問い詰めて、やっぱり独りよがりのまま満足したんだろうか。
日菜ちゃんに訊くことが2つ増えた。本をカバンに仕舞って、ホームの階段を降りる。……変な行動をしたせいで居づらくなってしまった。
日菜ちゃんとの約束にはまだ2時間以上あった。お母さんには許可をとってあるから外出は問題ないけれど、このまま外で時間を潰し続けるのも難しい。一度帰って荷物を置くことにした。
スクールバッグを置いて、トートバッグに財布と鍵だけを放り込む。パーカーに着替えて読みかけの本を手に取ると、結局自宅まで戻ってきてしまったことに気が付いた。このまま本を開くか迷って、結局、机に向かって宿題を進めることにした。少し早めに切り上げて、日菜ちゃんに会いに行く前に読むことにする。
1時間半ほどかかって宿題が済んだところで、軽く準備を整えて家を出る。七時前後でもまだ外が明るいのに、未だ新鮮な感動を抱ける。暑すぎもしないこのくらいの季節が一番好きだ。雨が多いのは嬉しくないから、梅雨を少し外したくらいが理想だろうか。
本を抱えたまま駅へ。ちょうどさっきまで座っていた席と線路を挟んで反対側に腰掛けた。電車が来るまでは10分くらい。先程の続き──5ページ目を開いた。
── あたりは、もううすくらくなっていました。夜だかは巣から飛び出しました。雲が意地悪く光って、低くたれています。夜だかはまるで雲とすれすれになって、音なく空を飛びまわりました。
── また一疋の甲虫が、夜だかののどに、はいりました。そしてまるでよだかの咽喉をひっかいてばたばたしました。よだかはそれを無理にのみこんでしまいましたが、その時、急に胸がどきっとして、夜だかは大声をあげて泣き出しました。泣きながらぐるぐるぐるぐる空をめぐったのです。
── ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。──ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。
日菜ちゃんがこの話を嫌っていた、という言葉が私を惑わせる。私一人の感性でこの話を読めていないような気がして、何とかしたいと試みるも難しい。宮沢賢治の文章の美しさに触れる感動と、この本に記された思想を通して日菜ちゃんを知ろうとする打算は両立するからだ。
唐突に、話が仏教色をまとったような気がした。宮沢賢治は敬虔な仏教徒だった、と授業か何かで聞いた覚えがある。昔の人らしい深みのある宗教観……という理解で良いのだろうか。
断食とはまた違って……戒律のひとつだったはずだ。不殺生戒。生き物を殺めてはならない。精進料理はここから来ているのだとか、聞いたことがある。
……じゃあ、生き物を殺めることでしか生きられないよだかは、どうすればいいんだろう。
生まれてきたことが間違いだった、という答えが有り得て欲しくはない。
定めた生き方が間違いだったのかもしれない。世間の、世界の
── 霧がはれて、お日さまが丁度東からのぼりました。夜だかはぐらぐらするほどまぶしいのをこらえて、矢のように、そっちへ飛んで行きました。
── 「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくいからだでも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れてって下さい」
── 「お前はよだかだな。なるほど、ずいぶんつらかろう。今度そらを飛んで、星にそうたのんでごらん。お前はひるの鳥ではないのだからな」
文字の羅列を追いかける目が、釘付けになった。
死ぬべきだと感じてしまって、周囲が──他ならぬ太陽がそれを認めてしまうだなんて、なんと残酷な話なんだろうと慄いた。
太陽は「生きるべきだ」とさえ言わない。
私だったら、どうしただろう。
よだかはきっと、逃げようと思えばどこまでも逃げられたはずだ。本当は好きなだけ虫を食べたって構わないし、名前を市蔵と改めたって死にはしない。でも、彼は自分を曲げなかった。矛盾と正しさの圧力で万力のように押しつぶされ、心がひしゃげてしまっても、己を翻さなかった。
私はそう在れるだろうか。
他の人に当てはめるなら、何を捨てても生き延びて欲しいと思う。けれど自分を顧みれば──死と引き換えに何者かになれるとか、許されるとか、僅かばかりでも存在価値を見いだせると誘惑されたのなら……もう、私は死を求めてしまうような気がする。
太陽に縋る姿が私と重なって、読むのが苦しくなった。
── もうすっかり夜になって、空は青ぐろく、一面の星がまたたいていました。よだかはそらへ飛びあがりました。今夜も山やけの火はまっかです。
── そして思い切って西のそらのあの美しいオリオンの星の方に、まっすぐに飛びながら叫さけびました。
──「お星さん。西の青じろいお星さん。どうか私をあなたのところへ連れてって下さい。灼けて死んでもかまいません」
── オリオンは勇ましい歌をつづけながらよだかなどはてんで相手にしませんでした。
視界にさえ映らないのも、残酷だと思う。冬空に浮かぶオリオンは荒くれ者だから、確かによだかには目もくれなさそうだ。
透明人間だった日々のことを思い出す。
学校でも常に一人ぼっちだった私は、実質的に透明人間だった。クラスメイトから話しかけられることもないし、学校行事に関する打ち合わせで意見を求められることもない。班を決める時も余ったところにピッタリハマるように調整される。
クラスメイトをとやかく言うつもりは無い。全てははぐれ者の私が悪かったのだから。扱いに困る私を、透明なままでそっとしておいてくれただけ有情だったろうと今になって思う。
けれど──ああ、本当に今更になってしまうけれど。私は『ふつう』に憧れていた。鷹のように鋭く空を飛びたかったし、小鳥のように楽しげに囀りたかった。
踏み抜いた水溜まり、靴底に空いた穴からくるぶしまで冷たさが染み込んで来るような寒さを今になって感じている。
── それから、南の大犬座の方へまっすぐに飛びながら叫びました。
──「お星さん。南の青いお星さん。どうか私をあなたの所へつれてって下さい。やけて死んでもかまいません」
── 「馬鹿を云うな。おまえなんか一体どんなものだい。たかが鳥じゃないか。おまえのはねでここまで来るには、億年兆年億兆年だ」
おおいぬ座のシリウス、おおぐま座のアリオトを含む七星、わし座の瞳のアルタイル。四方へ飛んで、よだかは力尽きた。
プラネタリウムで見た天球を思い出す。方々に散った星々だ。それら全てに話しかけようとするなら、見えている空いっぱいを飛び回る必要がある。
それでもなお空をぐるぐると回って、やがて──
列車がホームに滑り込んでくる。
押し出されるように生ぬるい風が吹いた。
この時間の下り路線よりは幾分空いた車内で、たまたまできた空席に座る。
音漏れして聞こえてくる四つ打ち。窓の外で並走する赤い車。もうすぐ青黒い夜がくる。空の星をかき消すような地上の灯りが、既にあちこちで灯っている。背後の窓を振り返って覗き込んでみても、星は見えなかった。
── よだかはもうすっかり力を落してしまって、はねを閉じて、地に落ちて行きました。
──そしてもう一尺で地面にその弱い足がつくというとき、よだかは俄にのろしのようにそらへとびあがりました。
── それからキシキシキシキシキシッと高く高く叫びました。その声はまるで鷹でした。野原や林にねむっていたほかのとりは、みんな目をさまして、ぶるぶるふるえながら、いぶかしそうにほしぞらを見あげました。
── 夜だかは、どこまでも、どこまでも、まっすぐに空へのぼって行きました。
盛大な自殺を読んでいるのだ、と実感が追いついた。
昔読んだことがある、幸福な王子という童話を思い出した。そういった類の悲しい童話を読んでいる時と同じ気持ちになる。胸が苦しくて、今回は共感性が高い分、痛みを増して感じる。
車内の冷房に身震いした。鳥肌はどちらのせいだろう。
──寒さにいきはむねに白く凍おりました。空気がうすくなった為に、はねをそれはそれはせわしくうごかさなければなりませんでした。
──それだのに、ほしの大きさは、さっきと少しも変りません。つくいきはふいごのようです。寒さや霜がまるで剣のようによだかを刺しました。
──よだかははねがすっかりしびれてしまいました。そしてなみだぐんだ目をあげてもう一ぺんそらを見ました。
──これがよだかの最後でした。もうよだかは落ちているのか、のぼっているのか、さかさになっているのか、上を向いているのかも、わかりませんでした。
もう一度、瞼を閉じた。
冬の長距離走の時に感じた、肺を刺す痛みを思い返す。
飛んでも飛んでも届かない空。なりたい自分の虚像との距離。
思えば、何かを目指して飛んだことさえ、私にはほとんどなかった。
私は、よだかのようにはなれないだろう。
共感は覚える。微かな憧憬だって。
けれど私には、星に手を伸ばし続けるような強さが欠けている。
星々に願い奉ったとして、にべなく断られてしまったら大人しく地に伏しただろう私には。
数駅で列車を降りた。待ち合わせ場所を目指して南改札口を出ると、日菜ちゃんの言った通り、左手に喫茶店が見える。外から見える窓寄りのカウンターに腰掛けて、最後のページを開いた。
──それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。
──すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。
──そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。
──今でもまだ燃えています。
注文したカフェオレが届いて、余韻を遮られた。店員さんにお礼を言って、息継ぎするように口をつける。
受けた衝撃のままにもう一度最初からぱらぱらとページをめくって、物語を消化しようと反芻する。
謙虚で敬虔であったから救われた?
中途半端な存在でも生命を燃やせば何かに成れるという救いの話?
たとえばこんな私でも、全てを賭して駆け抜ければあるいは──
「おまたせ、燈ちゃん」
「……こんにちは、日菜ちゃん」
いつの間にか来ていた日菜ちゃんに肩を叩かれて、思考の海から引き戻される。私が本を閉じるのと同時に、日菜ちゃんはフラペチーノを頼んだ。
「どうだった? ……読んだんでしょ? 『よだかの星』」
「怖いけど、惹かれる話だった。私もよだかみたいになれたら──って」
裏表紙には本の値段と発行情報が無機質に記されている。
紗夜さんの記憶が正しければ、日菜ちゃんはこの本を良く思っていなかった筈だ。
「日菜ちゃんは、この話が嫌いだったんだよね」
「……どうしてそう──いや、誰から聞いたの?」
「紗夜さん」
紗夜さんの名前を出すと、日菜ちゃんは本当に驚いたように目を丸くした。
「いつ──ああ、七深ちゃんのときか。おねーちゃんからなにか聞いた?」
「……ううん、ちょっと会っただけだったから」
「そう」
それ以上、日菜ちゃんは聞いてこなかった。クリームの乗ったフラペチーノをストローでかき混ぜて口をつける。横髪をかきあげる仕草に視線を奪われる。
「ま、いいや。それで、話って?」
「……もっと日菜ちゃんのことが知りたい。よだかの星のこととか……」
「あそっか。……うん、嫌いだよ、その話」
店内のBGMに、遠くで列車の音が重なる。完全に落ちた日の代わりに、LEDの照明が世界を白く照らしていた。
「落ちこぼれが謙虚に、敬虔に、丁寧に、慎ましく生きて。それで命を擲って願っても否定され続けて、なお飛び続けた先にようやく何者かになれるかもしれない、なんて。世界はどれほど冷たいんだろうって思う。真っ直ぐに、清く正しく生き続けて、息が詰まる冷たさの中を飛び続けて──星になるのって、そんなに大切なこと?」
ひどい話だよ、と日菜ちゃんは続けた。
「鳥は空を飛ぶべきだから、ってペンギンが泳ぐことを否定するの? ……よだか当人にとっては救いなのかもしれないけど、川せみにとってはどうなの? 仏教思想にまでケチをつけ始めたらキリがないからやらないけど、なんだか盲目的に『正しさ』に縋る話だよね」
行き場をなくした者が正しさに縋ってるだけ、と日菜ちゃんがばっさり切り捨てた。
そういう見方も確かにあるな、と思うのと同時に、日菜ちゃんは強いからそう受け止められるのだろうとも感じる。たとえ命と引き換えでも、幾億幾千年と残る星座になれるのなら、お釣りが返ってくるように思えてしまう。
それに、川せみ。よだかの弟だったっけ。
……日菜ちゃんがよだかの星を通して見ているのは、紗夜さんのこと?
言うか迷った挙句に、勇気を振り絞った。
「日菜ちゃんは、川せみなんだね」
「……そうかもね。あたしの後悔は、おねーちゃんをよだかにしてしまったことだから」
夜ご飯は? と聞かれて首を横に振る。私がカフェオレを飲み干したのを見届けてから席を立った日菜ちゃんの後ろをついて歩く。
日菜ちゃんが川せみで紗夜さんがよだかなのだとしたら……紗夜さんは今も冬の星空を羽ばたいているということになる。
それなら、日菜ちゃんの望みは──
駅を出て、日菜ちゃんはずんずん先へ進んでいく。道はだんだん細くなって、建物の新旧入り交じる住宅街へ。看板の見にくいテナントのコンビニを抜けて、日菜ちゃんはとあるマンションの前で立ち止まった。
「ついてきて」
「うん」
迷いなくエントランスを抜けてエレベーターに乗った日菜ちゃんは、17階のボタンを押した。
「あはは、不法侵入だ」
「え」
「まあ、見逃して貰えると思うけどね」
日菜ちゃんが不穏なことを言う。日菜ちゃんの家なのかなとぼんやりしていたところにこれだから、反応に困った。
最上階でエレベーターを降りて、そのまま非常階段の方へ。鍵が開きっぱなしになっていたドアを開けて、日菜ちゃんと2人で屋上に昇った。
「昔、このマンションに住んでたんだ。おねーちゃんとこっそり屋上に忍び込んだりして……ほら、ここなら東京でも結構、星が綺麗に見えるでしょ」
屋上は進入禁止なんじゃ、と思う間にも日菜ちゃんは座り込んで、空を仰いだ。
宮沢賢治曰く「あおぐろい」、雲ひとつない空。きっと人工の光のない高原で見上げる空よりは劣るのだろうけれど、プラネタリウムで見る宙よりも香りたつ。
「うん……綺麗」
「よだかの星はどれだろう。とうに消え去ったチコの星じゃないかって説を聞いたことがあるけど。だとすれば、もう青く燃えてはいないのかもね」
わし座のアルタイルを含めた夏の大三角、おおぐま座の北斗七星が見える。南の空にはほぼ円形に満ちた月が覗いていて、夕陽の残滓が赤く滲んでいた。
刹那に消え去るなら、結局自己満足だ。日菜ちゃんは星空に手を翳して、つまらなさそうに言った。
「燈ちゃんはさそり座だったっけ」
「うん」
「今日は見えないかー」
11月22日生まれはさそり座。南の空の低いところに浮かんでいるはずのアンタレスは、ちょうど月かビルに被ってしまって見えなかった。そうでなくとも、地平線には未だ赤が滲んでいて、綺麗に星が見えたかは怪しいけれど。
「日菜ちゃんは……うお座?」
「うん。双子なのに双子座じゃないんだよね。まあ、うお座の方が好きだからいいんだけどさ」
うお座は今の時期には見れないだろうと思う。双子座は見えるかもしれないけれど、西側は明るくて、少なくとも今は上手く観察できそうになかった。
双子座は、人間の兄カストルと神の子である弟ポルックスの双子だ。争いで殺されてしまった兄カストルを悼んでそれに殉じようとしたポルックスは、神の血を引いていたために死ねなかったのだという。結局、ゼウスの計らいで2人は同じ星座として死を分かつことになったのだけれど、今でも一番に輝いているのはポルックスの方だ。日菜ちゃんはそれが気に入らないんじゃないか、と直感した。非対称性の双子なんてろくなものじゃない、と日菜ちゃんが言う姿を想像できる。
一方のうお座はといえば、女神とその子供が変身した二匹の魚だ。ある日川沿いで遊んでいたところを怪物に襲われた二柱は、魚に変身して逃げおおせた。その際、二柱の体をリボンで結び合わせてはぐれてしまわないようにしたのだとか。
もとのエピソードは地味だと思っていたものだけど、一心同体の逃避行と言葉に起こしてみれば幾分鮮やかな色を纏う。
私は──どうだろう。さそり座に良いも悪いも感じたことがなかった。赤く輝くアンタレスは美しいと思うけれどそれくらいだ。
「……さて、燈ちゃんは何が知りたいの? 生憎、あたしは自分のことを話すのがヘタクソらしいから、期待に応えられるかはわかんないけど」
「日菜ちゃんのことは、全部知りたいよ。綺麗なところも、暗いところも全部。私に何を感じて、何を求めてバンドにいてくれるのかも、私には分からないから」
日菜ちゃんの表情は……分からない。素っ気ないようで、優しいようで……けれど、日菜ちゃんが望む展開ではないんだろうな、ということだけは分かる。これは日菜ちゃんにとっての譲歩であって、私と日菜ちゃんが向け合う温度は同じではない。
「じゃあ……そうだ、燈ちゃんは、自分が物心ついた瞬間を覚えてる? いちばん古い記憶って言い換えてもいいけど」
言われて思い起こしたのは、苦い記憶だった。
幼稚園の友達にダンゴムシを渡して、嫌われてしまった時の記憶。
或いは、それと同時期、石を集めていた私に「変わった子だから」と言った先生の声。
どちらがより古い記憶なのかはもはや分からないけれど、心が動いた覚えのある記憶はそれらだけ。
黙って首を振ると、日菜ちゃんは「そうだったね」と苦笑した。
「あたしはね、今日と同じ景色を覚えてる。……冬だったけどね。町あかりの中で星を見上げて、数を数えているうちに、空を一目散に西へ飛んでいく光を見つけたんだ。『星が動いてる!』って言ったら、『飛行機の光よ』なんてあっさりと言われてがっかりしたっけ」
「……だから、『ランニング・ライト』なの?」
「そうだよ。だって、川せみは夜には飛べないでしょ? 月を、青く燃え上がる星を追いかけるには、星と同じくらいビカビカ光る鋼の翼じゃなくっちゃ」
あくまで紗夜さんのため、と言外に訴える日菜ちゃんの表情が痛い。
嫉妬、だろうか。
私にとっての特別は日菜ちゃんだけど、日菜ちゃんにとっての特別は私じゃない。ありありと突きつけられた現実に、じくりと胸が痛む。
「……じゃあ、どうして私を誘ったの?」
「うん?」
「歩くのが遅い私とバンドを組むよりも、ずっと速く高く飛べる人が、日菜ちゃんにはいたと思う」
また、醜い言葉を吐いた。日菜ちゃんにバンドに誘ってもらった時と同じような嫉妬が、ぐるぐると唸った後に遠吠えを上げる。
否定して欲しいと思っていた。
そんなことないよ、燈ちゃんは特別だよ、という言葉を期待して、私は浅ましくもがいてみる。服を着たままでは泳げないことも忘れて、水面に向かって走り出してみせた。
「
一人で坂道を上る。転がり落ちてしまいそうな恐怖に駆られながら、坂の上の日菜ちゃんから目を逸らせないでいる。
「けど、速度は割とどうだって良いんだ。あたしは誰よりも上手くなりたいわけじゃないし、あたしが速く飛べば飛ぶほど、おねーちゃんの羽ばたきも鋭くなるから。……あたしは、星を目指すなんてくだらないってよだかを説得したいんだよ。あたしの一言で清く正しく真っ直ぐに生きることを決めてしまったおねーちゃんに、氷川日菜に拘泥することがくだらないって気づいてもらいたい。だから声が届くところまで飛べればそれで十分」
星空から視線を退けて、日菜ちゃんが私を見た。エメラルドの瞳が、光を反射して爛々と輝いている。
「……日菜ちゃんと紗夜さんの間に、その、何があったのか、訊いても良い?」
「うーん、まあ、いっか。前に少し話したかな。人間関係で色々とやらかしたのもあるけど……というか、おねーちゃんに嫌われてる原因は多分それなんだけど、正直そっちはどうでもいいんだよね」
どうでもいい、という言葉を日菜ちゃんはしばしば使う。一切合切を日菜ちゃんの世界から切り捨ててしまうような強い言葉だと私は思っていて、少し苦手だ。
「呪いを掛けたんだよ。氷川日菜の姉という呪い。あたしの姉ならスポーツができて、勉強ができて、器用で、カリスマがあって、清廉なんだっていう呪い。
「それは──」
「くだらないでしょ? 他人のことなんかなんにも慮れないあたしが、外野から好き勝手言うだけの他人が、真面目で真っ直ぐなおねーちゃん自身の自縄自縛が、おねーちゃんに立ち止まることを許さない」
よだか、という意味が少しだけ理解できた。
紗夜さんは、気ままに生きることを許されなかったのだ。
「妹にできるなら姉は──って、実に無責任じゃない? 言った当人は遥か下層にいるくせにさ。そう言われ続けて、歪まないわけないよね」
おねーちゃんに能力がなかったら、むしろお互い気楽だったかもしれない。とまで日菜ちゃんは言って、再び空へ視線を戻した。
「あたしのとばっちりで友達と疎遠になったり、姉のくせに不出来だって陰口を言われたり。なまじ、おねーちゃんにあたしよりも先へ飛んでいける能力があるのが不幸だ」
よだかが鷹に名前を奪われそうになったように。よだか自身が虫を殺める己を許せなかったように。
紗夜さんは常に周囲の視線を気にして生きてきたのかもしれない。少し話しただけでも真面目な人だと感じたくらいだから、紗夜さん自身が己に妥協を許さなかったのだと言う部分にも納得はできる。
「だから、あたしが立ち止まれば良いんだって気付いたの。そうしたらおねーちゃんも少しくらいは肩の力を抜けるでしょ。燃え尽きるくらいに高く飛ばなくたって、氷川日菜の姉以外の何者かになれるはず」
怒らないの? と日菜ちゃんは首を傾げた。私はといえば、どういう感情を示せばいいのか分からずに立ち止まっていた。
失望、ではないと思う。落胆?
日菜ちゃんにとっての私の価値なんてものが、やはり存在しないのだと突き付けられて落胆している。嫉妬心さえも怯まされて、呆然としていた。
「日菜ちゃんが、ランニングライトに何かを求めてるわけじゃないのはわかってた」
日菜ちゃんがバンドで何かを成し遂げたいのなら、きっと私を誘ったりはしないだろう。仮に、何らかの理由があって私を拾い上げたのだとしても、メンバー探しまで任せたりはしないはずだ。
だけど、バンドが続いていればそれで目的が果たされるというのなら理解はできる。私は今更、バンドを手放そうとは思わない。思えない。
「悔しいし、悲しいけど──私が日菜ちゃんに何かしてあげられるわけじゃないから」
「……そっか」
星空に紛れたランニング・ライトはビルに隠れて見えなくなってしまった。
「夜ご飯、どっか食べに行く?」
「……ううん、今日は、もう帰らなきゃ」
「そう。じゃあ、駅まで一緒に帰ろう」
日菜ちゃんの表情は、やっぱりよく分からない。思考がぐるぐると回る。
非対称性の感情を向け合う関係は、果たして長続きするものだろうか。
花音さんも、つぐみさんも、七深ちゃんも、自分の根底にある大切なものの一部を私に預けてくれているような感覚がある。もちろん私もそれ以上の質量の心を預けていて、それで関係に釣り合いが取れている。
日菜ちゃんとの関係には、それがないような気がしていた。日菜ちゃんが私に預けてくれる
私たちは互いに寄りかかって立っているけれど、日菜ちゃんは一人で立っている。本当は私なんかいなくても、日菜ちゃんは一人で高く飛べる。
それ故の歪さだった。日菜ちゃんが崩そうと思えば一方的に崩せてしまう、非対称性の比翼連理。
「やっぱり、ヘタクソだね。あたし達」
「……うん」
改札口で立ち止まった日菜ちゃんが、ひどく小さく見えた。
♦
「特別であることって、そんなに重要?」
蒸し焼きにされそうな湿気と日差しから避難した羽沢珈琲店のテーブル席で、対面に座った花音さんが首を傾げた。
私が日菜ちゃんの元から逃げ出した翌日、練習があるわけでもないのにわざわざ付き合ってくれる花音さんに甘えて、昨日の出来事をほとんど吐露してしまった。日菜ちゃんの詳しい事情は話さなかったけれど、それでも概ね事情は伝わったらしい。
「波に逆らって泳ぐ方法を教えてくれたのは燈ちゃんだよ?」
「……でも、特別に縋らないと、今にでも日菜ちゃんとの縁が切れてしまいそうな気がして……」
「自信がなくなるのはわかるよ。あんまり軽々しく共感できるとは言えないけど……」
ちらちらとこちらを気にしてくれているらしいつぐみさんの視線を受けながら、言葉を選んでくれている花音さんの続きを待つ。
「日菜ちゃんは少し難しいもんね。……でもたとえば、運命みたいなものを日菜ちゃんが感じていると言ったとして、燈ちゃんは納得できるの? そうじゃないと思ったから、燈ちゃんは日菜ちゃんにぶつかってみようと思ったんでしょ?」
「それはそうかもしれない、けど……」
それに、とおしぼりを引き寄せて、花音さんが続ける。汗をかいたグラスで濡れた指先を拭って、使い捨てのおしぼりが几帳面にたたみ直された。
「運命の出会いじゃないと特別な友情は築けないの? 私と燈ちゃんの出会いは偶然だったけれど、私は燈ちゃんのこと、特別な友達だと思ってるよ」
「それは花音さんが歩み寄ってくれたからで……私は何も──」
「そうかな? 真っ向から向き合って、ぶつかってくれる子なんてほとんどいないと思うな。つぐみちゃんも七深ちゃんも、燈ちゃんとだからこそバンドをやってるんだと思う。……少なくとも私はそうだし」
それしかできないからそうしてきただけだ、と本心から思うけれど、口には出さない。私の手を取ってくれた花音さん達に失礼だと思うし、真面目に相談に乗ってくれているのにそれを全否定するような言い草になってしまう。
「ふふっ、納得できなさそうな顔してるね」
「……えっと」
「取り繕って本心を誤魔化すことばかり覚えると、窓を開けることさえ難しくなるんだよ」
レモネードが香る。くるりと曲がった髪の毛の先を撫でて、花音さんが苦笑した。
「……たぶんね、燈ちゃんは日菜ちゃんを良く見過ぎてるんだと思う」
「そう、かな」
「うん。確かに日菜ちゃんは頭もいいしギターも上手いし、なんでも知ってるように思えるけど、それでも私と同じ高校2年生なんだよ」
分からない。私から見れば3歳年上の日菜ちゃんはやっぱり大人びて見える。花音さんもそうだけれど、3年後の私が彼女達のようになれているビジョンが見えない。
私の心はかくれんぼで置き去りにされたあの日のままで、いつまでも孤独に怯えている。青空に弧を描く昼鳶のような孤独であれば良いと思うのに、私は雨に濡れる雀だった。
「……難しかった?」
エプロンを外したつぐみさんが、私の隣に腰掛けた。手には私たちと同じくレモネードのグラスを持っている。
「うん」
「私を誘ったときの積極性はどこに行っちゃったんだか。それだけ燈ちゃんにとって日菜さんが特別ってことなんだろうけど」
「……日菜ちゃんは私の始まりだから。それがひっくり返っちゃうのは、怖い」
つぐみさんが私の膝を軽く叩いた。ぺし、と軽い音がして、左足がかくんと持ち上がる。
「ここまで歩いてきたのは燈ちゃんだよ。最初に一歩、手を引いてくれたのは日菜さんかもしれないけど……私に、私たちに手を差し出したのは燈ちゃんだ」
「そうだね。私たちにしたみたいに、日菜ちゃんにもぶつかってみればいいんだよ」
簡単そうに言っちゃってるけど、と花音さんが申し訳なさそうに付け足した。
花音さんもつぐみさんも、わざと軽い調子で話してくれているのはわかっていた。深刻そうに言われたって、私には狼狽えることくらいしかできないだろうから。
「燈ちゃんが日菜ちゃんの特別になっちゃうくらいに、燈ちゃんの言葉で、心で」
「……日菜さんのペースで話すと、はぐらかされそうな気もするし」
「そういうズルいところはあるよね、日菜ちゃん」
日菜ちゃんに近付きたい。
ランニング・ライトの魔法が
とくとく
「……日菜ちゃんでも、独りは寂しいのかな」
「孤独に狂わない人はいても、孤独を苦痛に思わない人はいないと思うよ。燈ちゃんが言うように、もし日菜さんが孤独を望んでいるとしたら、バンドなんか組まないんじゃないかな。一人で言葉を紡いで、一人で曲を作って、一人でギターを弾いて──独りで歌えるでしょ、日菜さんは」
日菜ちゃんは、私にとっての神様だった。
私よりもずっと高いところにいて、一方的に手を差し伸べてくれる存在だった。
幻想の中の日菜ちゃんに、血が通い始める。何度も触れた指先から、繋いだ手の感触から、虚像が偶像へ、偶像が肉体を持った日菜ちゃん自身へ、像を結び始める。
「ね、燈ちゃん。私は燈ちゃんとバンドやれて良かったって思ってるよ。……私たちは、心にもないようなことを語ったりするけれど、燈ちゃんはいつでも剥き出しの本心のままで生きてる。そんなところに、どうしようもなく惹かれる。だから──」
「──日菜さんにとっての燈ちゃんの価値を、そう低く見積もらないで欲しい」
海月の骨を探して砂浜を歩くように、雑踏になりきれない私が雑踏の中を歩く。
握ったマイクが、頼りなくふらつく私を錨のように留めてくれる。
羽沢珈琲店を出たあと、日菜ちゃんと出会ったあの駅を訪れた。
くだらない懐古かもしれない。自己満足の儀式だとわかっている。
カバンを置いて、駅の端っこに陣取る。夜を泳ぐ深海魚の群れは、誰一人として私に視線を向けない。それが心地好くて、苦しくて、夜行性の衝動を伴って遠吠えでもしてみたくなる。
咳払い。マイクチェック。
風が吹けば飛んでしまいそうな私の言葉を、引いては寄せる波に揺らぐ私を、夜に解き放つ。
日菜ちゃんが整えてくれた私の歌詞が、水平線を見通す目をくれる。抜錨するように息を吸った。
アカペラの『晴嵐』。
幾分頼りない翼で飛び立つ。祈りと同じ速度で夜の空へ翔けてゆく。
祈りとは前向きな絶望である、という言葉をどこかで見かけた。こうして誰かを想ってみると、むくむくと反論したい気持ちが浮かんでくる。私にとって祈りとは、後ろ向きな希望だ。
部活帰りの学生と目が合った。疲れた顔をしたサラリーマンがカバンを置いて立ち止まった。派手な服装の集団が笑い合いながら通り過ぎてゆく。
音の上でステップを踏むように心が高揚していた。花曇りの春、この場所でギターを弾いていた日菜ちゃんを思い出す。そよ風を引っ掻いたようなギターの音で、晴嵐が脳内再生される。
勢いのまま走り抜けた。立ち止まって聴いてくれた人に頭を下げて、『海月のワルツ』へ。特徴的な三拍子が、少しポップスみたいな色を付ける。
日菜ちゃんのライブのように、人だかりができるようなことはない。何も無い私の実力を日菜ちゃんが作った曲が補正してくれて、時折立ち止まってもらえる程度。
規則正しい花音さんのドラムを思い起こす。カノンとは、輪唱のことらしい。さらにその語源を辿れば葦を指すのだとか。そこから規則、法律、教会の教令といった意味にもなるらしい。文字通り華やぐような花音さんのドラムに厳格な雰囲気はないけれど、規則正しさ、正確さという意味では頷ける。海月が傘を扇ぐのと同じリズムで歌い上げた。
『アフターレイリー』。つぐみさんと二人で、蘭さんの展示会を見に行った。その時ちょうど手が空いていた蘭さんと小一時間ほど話したけれど、印象に残っているのはやっぱり自己表現の話だ。
花器に活けるのは自分自身なのだ、と蘭さんは言っていた。虚飾を剥ぎ、
どれを活かし、どれを削ぎ落とすのか。自分の人生を遡及し、ひとつひとつ剪定していく必要がある。
私が歌詞を書くときにも、同じような想いを抱くことがある。味わった喜びも痛みも想起して、膨らんだ感情をヤスリ掛けするように整えていく。ひとつ違うのは、速度だろうか。
枝落としは、迅速に行なわれなければならない。手のひらの上の植物は、瞬く間に精彩を欠いてゆく。躊躇してはならない。己の腹に刃を突き立て、臓腑を掻き分けるように鋏を入れる。
そんな速度は、私にはない。躊躇したり、後戻りしたり、悩んだりして歌詞を練っていく。
話の中ではついぞ、つぐみさんの言っていた「私と蘭さんの共通点」を見つけることはできなかったけれど、得られたものは大きかったように思う。
アフターレイリー。鳥たちの夜のうた。
足を止めてくれた人たちが、曲の終わりに拍手をくれる。もう一度頭を下げて、最後の一曲へ。
『七色のきざはし』。雨が降れば虹がかかると信じている。
雨の日の路地に浮かんでいる車のオイルを、虹だと思って飛び越えた幼い日を思い出した。
晴れ間に虹がかかるように、冬が終われば春が来るように、台風が過ぎれば雲ひとつない空が覗くように、桜が散っても葉が繁るように、苦しさのあとには幸せが待っていると信じている。
──くだらない儀式だ。
ライブの前に吐いた言葉が反駁された。
心の陰になったところから、そう嘯く私がいる。
あの日、私の心を空っぽにした日菜ちゃんと同じ場所に立って、同じことをして、前に進むためのエネルギーを得られないかと縋っている。
私の背中に生えた翼が蜜蝋でできているのか鋼でできているのか、確かめるすべを持たないまま助走ができる直線を探していた。
虹の端にたどり着くことはできないらしい。色彩に溢れたあの
「──ありがとうございました!」
立ち止まってくれていた数人に頭を下げて、マイクを手に逃げ出した。
美しい夜を知りたい。街明かりにかき消されて星はほとんど見えなかった。街灯、ビルの照明、看板、信号機の光、車の
日菜ちゃんと離れている今こそが夜だった。
燈という名前が真を纏い体を為してくれるのなら、太陽の光がなくたって私は灯ることが出来るはず。
日菜ちゃんが
嗚呼、私に夜が降り注ぐ。
♦
『アトリエに来れない?』と七深ちゃんから連絡が来たのは、ちょうど予定が宙に浮かんでいた日だった。日菜ちゃんの予定が空いていない日だからもう一度ぶつかってみることもできないし、手持ち無沙汰でも心が圧迫されて何かしらに手をつけられそうにもない。
美術の課題は、結局イマイチなままに終わってしまった。「晴」の文字をデザインするための巧妙なアイディアが浮かんでくるわけでもなく、画力の低さと不器用さから色の塗り方さえ不出来だ。
私は私のことさえ知らないまま、宙に浮かんだ日菜ちゃんとの問題に関して、誰かが答えをくれることを期待している。
とりあえずぶつかってみることは、できると思う。昨日のライブもそうだし、つぐみさんと花音さんに繰り返し掛けてもらった言葉が私の背中を押す。
けれど日菜ちゃんの心は覗けないままだ。
心配してわざわざ話す機会を作ってくれた七深ちゃんに、つぐみさんや花音さんにしたような相談事を持ちかけた。
「どうして私にできることが他の人にはできないんだろう、って、思ったことがあるんだ」
イーゼル──この呼び方が正しいのかは分からないけれど──に向かったまま、七深ちゃんが口を開いた。
七深ちゃんの筆の動かし方は、私が図画工作や美術の時間に培ってきた狭い常識を破壊してしまうようだった。水で濡らしただけの筆を紙に乗せているところとか、薄めた絵の具が水に乗って勝手に広がっていく様子とか。私たちが必死に鉛筆で下書きするようなところを、七深ちゃんは色を混ぜて重ねるだけで表現してしまう。
パレット上では灰色混じりにくすんだように見える絵の具が、白い紙の上に乗った瞬間鮮やかに色彩を放つ。
「だって、私も周りのみんなも、同じだけ努力してるのに。どうして私だけが褒められるんだろう──って」
「……それが、『才能』?」
「そうなのかもね。私のはそうじゃないかも、って言いたくなる時もあるけど、『才能』だって言い切ってしまった方が傷付く人が少なくなるような気がする」
アルバムのジャケットを描きたい、と七深ちゃんが決意表明をしたのが1週間ほど前。ベースの練習の合間ということで制作速度は落ちてしまったらしいけれど、私が置き去りにされそうな速度で七深ちゃんは次々描いては作品を完成させていく。
「望遠鏡と、顕微鏡と、私たちの目の違い。……わかるでしょ?」
「うん」
「私たちの目は近くも遠くも見える。虫みたいな小さなものも見えるし、手元も見えるし、100メートル先でもそれなりに見える。見上げれば夜空の星の数を数えることだってできる。……でも、遠すぎるものは見えないし、近すぎるものや小さすぎるものも見えない。望遠鏡は遠いものを見るのに適しているけれど近くのものはぼやけたり視野が狭すぎたりして見えないし、顕微鏡はその逆だよね」
七深ちゃんが筆を置いた。熱心に塗っていた水色が、イーゼルに立てかけられた画用紙で空となっている。飛行機雲が画用紙を二分していた。
「みんなは人間の目で生きてる。私は望遠鏡しか持ってない。それだけの事だと思うんだけど……遠くばかりを見たい人にとっては、望遠鏡の方が羨ましいみたいで。だったら私に普通の眼を、自分の足元が見える目を取り替えて欲しいと思っちゃう」
レンズの違い。七深ちゃんにとっての才能とはそれだけなのだ、と以前にも聞いた。当たっているとも思ったし、私がもし違うと感じたとしても、七深ちゃんにとってそうならばそれが
「そして、日菜さんは才能を速度だと言った。それも正しいと思う。歩くのが速ければ、同じ時間をかけても他の人よりもずっと先へ行ける。ただそれだけの道理だもんね。……山頂がどこにあるかまでは、速度では測れないけど……」
真珠のような瞳が、思案げに揺れる。
七深ちゃんは、私よりも日菜ちゃんを理解していると思う。才能があるから仲良くなれるとかなれないとかそういう話ではないけれど、共感できるかどうかはお互いを知るのに大きく影響してくるはずだ。
私と出会った日の日菜ちゃんも、そんなことを言っていたような気がする。理解できること、共感できる共通点を持つことができれば集団に溶け込むのにさほど苦労しない、とか。
「ゆっくりと歩いていれば、道端の花の種類だって見てとることができるよね。でも、新幹線や車に乗っていたら? 高速で流れていく窓の外の景色から、道草の一つ一つを見分けることなんてできない。……だから、日菜さんは凄いなって思うんだ。一人でどこまでも行けてしまうのに、立ち止まって私たちを見てる」
「……七深ちゃんなら、日菜ちゃんと同じ速度で飛べるの?」
「さあ? 多分、私も日菜さんも全力で何かに取り組んだ事なんてないから」
難しいんじゃないかなぁ、と七深ちゃんは首を傾げた。
「でも、わかることはあるよ。……例えば、日菜さんもきっと、私と同じ孤独に苦しんでいる事とか」
そうなのだろうか。
日菜ちゃんも、孤独に苦しむことはあると思う。けれど……それを穴埋めすることを私たちに望んではいないような気がする。
「……ちょっとズルいなぁって思うことがあるんだ。私に窓の話をしたのは日菜さんなのに、一番素を見せていないのは日菜さんでしょ? だから、わざわざ燈ちゃんにこんな話をしてるのは……仕返し? 意趣返し? みたいな感じ」
「私が……日菜ちゃんのためにできることなんてあるのかな」
「うん。それだけは、断言できる」
自信のなさが浮き彫りになったような声色の私に被せるように、七深ちゃんが力強く言った。
「独りで歩いていると、今歩いている道が正解なのか分からなくなることがあるんだ。勿論、失敗が悪いわけじゃないけど、自分が前に進めているのかさえあやふやになる時がある。……それは日菜さんだって同じはずだよ」
絵の具がある程度乾いたところに、七深ちゃんがドライヤーを当てた。すぐに乾いた紙の上に、また七深ちゃんが絵の具を重ねていく。
「成長も達成感もない中で、前に進む意欲を支えてくれるのは、同じ方向を向いてくれる仲間だけだと思うんだ」
青の上にくすんだ赤。調和して紫がかかった灰色へ。そこに今度はまた青を重ねて、ぐっと深みのある空の色へと変貌を遂げる。
「わざわざ日菜さんが私たちに歩幅を合わせようとしているのは、燈ちゃん達が日菜さんにとって必要だから。……燈ちゃんと日菜さんが何を話したのか知らない以上は、これ以上のアドバイスはできないけど……」
「……ごめん」
「ううん、言わなくていいよ。燈ちゃんが必要だと思ったら、その時で」
あ、そうだ、と七深ちゃんが振り返る。
「日菜さんのお姉さんと少し話したんだ。燈ちゃんも会ったことあるんでしょ?」
「うん。……ちょっと怖い人、だよね」
「怖いかな〜? でも確かに、ピンと張ったような雰囲気はあるかも。けど、学校だとすごく慕われてるんだよ。頭も良いし、弓道の大会で優勝もしてるらしいし、上品だし、美人だし……バンドもやってるんだね」
CiRCLEのライブも出るんだって、という言葉で、紗夜さんがなぜ私たちのライブの出演情報なんて知っていたんだろうという疑問が氷解する。てっきり日菜ちゃん経由で伝わったのだと思い込んでいたけれど、七深ちゃん経由だったらしい。
「日菜さんとのことも、ほんの少しだけ聞いちゃった。……日菜さんが何を望んで私たちとバンドやってるのかは分からないけど……きっと紗夜さん関連だよね?」
「……うん」
「それなら余計に、独りぼっちの日菜さんに余裕なんてないと思うな。他人を相手にして、何が正解かなんて分かるわけないんだから」
今日はここまで、一旦塗り終えた紙を脇に避けて、七深ちゃんが立ち上がった。ぐるりと肩を回す姿に、肩がこりそうだなんて感想を抱く。
一方で、脳内では七深ちゃんの言葉を必死に咀嚼していた。日菜ちゃんの孤独、日菜ちゃんの苦悩。そんなものが存在するのか、今だって半信半疑だ。それでも、改札口を隔てて向かい合った日菜ちゃんの表情が忘れられない。
「……七深ちゃんは今でも、レンズを取り替えたいって思う?」
「どうかな。今だったら、少し迷っちゃうかも」
日菜ちゃんの苦しみを取り払いたい。日菜ちゃんに私を見てもらいたい。
両立するようで微妙に位相を異にする願望が、私の中で今も渦巻いている。
「以前、日菜さんのギターは青色で、燈ちゃんの歌は黄色だって言ったのを覚えてる?」
「……うん」
「最近はね、燈ちゃんの歌こそが青色なんじゃないかって思えてきたんだ。私と出会う前とすっかり入れ替わったみたいに」
つまり、と空気の間隙。
七深ちゃんがチューブに入ったままの絵の具を2本取り出した。青と黄色、私と日菜ちゃんらしい色。
レモンイエローと書いてあるチューブは、もう残り少なかった。尾の方を持って軽く振ると、開け口の方に絵の具が寄る。
「黄色は、爆ぜてしまいそうな黄色。青春も心も思い出も春も夏も秋も冬も、この街の全てを吹き飛ばしてしまいそうな黄色。がちゃがちゃと散らかった世界の全てを紡錘型に吸い込んで、黄色に塗りつぶしてしまいそうな檸檬」
レモンイエローを片付けて、今度はさっきまでパレットに広げていたのと同じチューブを私に見せてくれる。コバルトブルー、と書かれていた。
「青は、未熟の色。青二才とか、青い果実とか、あんまり良くない意味で使われることも多いけど……勿論それだけじゃないよね。空も海も青だし、よだかの星も青。なにより……炎だって、温度が上がれば青く燃え上がる。未熟でも、誰より熱く燃えている色」
未熟の色、と言われてしっくりくる。同時に、七深ちゃんの言葉を励ましだと受け取って、拳を握った。
燈ちゃんなら大丈夫、と七深ちゃんが笑う。
ぶつかってみればいい、と言われるのは、今まで私がそれしかしたことがないから。頭を働かせて効果的に言葉を使って、誰かの心を掴むなんて芸当は私には不可能だし、できたとしても私はそれを望まない。
能のない私には、体当たり気味にぶつかって心臓をむき出しにしてみることくらいしかできないのだ。
♦
思えば、日菜ちゃんを呼び出すのは初めてだった。
普段は日菜ちゃんが集合場所を決めてくれていて、私は待ち合わせ場所に時間通りに向かうだけでよかったから。
今日は練習を休みにしてもらって、代わりに日菜ちゃんを呼び出した。もう一度話がしたいと要件を告げても日菜ちゃんは特に躊躇した様子を見せず、あっさりと頷いてくれた。
30分以上時間をかけて、星空が見える公園へ。夜遅くの待ち合わせにお母さんは心配したようだったけれど、日菜ちゃんも一緒だと言うと渋々許してくれた。
街から距離を取っただけあって、日菜ちゃんと見た星空よりも幾分鮮明に見える。時間帯が遅いこともあるだろう。近くに木立があって南の低い部分は見れなかったけれど、見上げる分には十分夜空のグラデーションが堪能できる。
ずいぶんと長い時間、一人でベンチに腰掛けていた。
写真撮影や天体観測のために公園を訪れる人は多いらしく、夏でも完全に日が落ちている時間だというのに人影がチラホラと見える。
木の影を目印に空を見ていると、時間の経過とともに緩やかに星が動いているのが見て取れた。
ほとんど意識せずに東へ見いだせる夏の大三角を起点に、北斗七星を目印にしたおおぐま座、北極星付近のこぐま座と、プラネタリウムで見た天球図を思い浮かべながら星座を数えていく。日菜ちゃんとの話題に出た双子座も、西に見える。もう少し時間が早ければ金星も綺麗に見えたかもしれない。
「おまたせ。思ったより遅くなっちゃった」
「ううん、わざわざ呼んだのは私だから……来てくれてありがとう」
「これくらいはね」
はい、と手渡されたのは水が入ったペットボトル。受け取るとずいぶんと汗をかいていて、結露した水滴が手のひらを濡らす。一口飲んでから、ベンチに置いた。
「星、綺麗だね。このために此処を選んだの?」
「うん。日菜ちゃんとは、星を見ながら話したいって思ったから」
花壇にオニユリが咲いているのに気がついた。暗がりでは、特徴的な斑のオレンジもくすんで見える。
「本当の日菜ちゃんの言葉を、私に聞かせて欲しい。……日菜ちゃんはどうして、私をバンドに誘ってくれたの?」
日菜ちゃんはゆっくりと瞬きをした。考え込むように空を見上げて──そのまま形の良い唇を開く。
「燈ちゃんである必要はなかった……って言ったよね? それでも、聞きたいの?」
「うん。私じゃなくて良かったのなら、どうして私を選んでくれたの?」
「それは、そうだね。至極真っ当な質問だ」
日菜ちゃんにとってあまり話したくない内容なのは想像に難くなかった。いつもはさっさと言い切ってしまう日菜ちゃんが、迂回するように言葉を置く。
「不出来な映画を観てるみたいだって、ある日思っちゃったんだ。あたしの歩んできた人生がどれほど空虚で軽いものなのか、気付いた。テストで良い点が取れて嬉しいとか、部活でライバルに負けて悔しいとか、何かを成すために必死で努力をするとか、やりきったあとの満足感とか、振り返って実感する成長とか、そういう類の喜びが私の人生には欠けているんだ」
才能を疎むような言葉。これまでの七深ちゃんとの会話を思い起こした。
台詞を諳んじるように、日菜ちゃんが続ける。
「RPGゲームってわかるかな。序盤でレベルを上げすぎて、特に苦労せずボスまで倒しちゃった、みたいな。強敵を倒すための創意工夫も、それが上手くハマった時の喜びも感じないまま淡々とストーリーを進めてしまったのがあたし、なんだと思う」
多分ね、と付け加えたのは、やっぱり日菜ちゃんがそれを知らないからだ。
傲慢なようにも聞こえるけれど、きっと日菜ちゃんの着飾らない本心だった。才能や能力を誇示するでもなく、ただそこにあるだけのものとして日菜ちゃんは受け止めている。
「必須じゃないことはわかってる。成長の喜びとか努力のモチベーションとか、そんなものがないと人生は立ちいかないのかといえばそうじゃない。ただ、無味乾燥してるだけ」
──でも、羨ましかった。
「キラキラと輝いている部活に飛び込んでみても、あたしははぐれ者だった。あたしが少し努力すればできることを、同じだけ練習しているのに全く覚えられない子がいた。これが才能なんだってようやっと理解した。人事を尽くしたわけでもないのに、対戦相手に負けて泣いてる子がいた。努力してないせいで負けたのに、なんで悔しがれるのかわからなかった」
風が吹き渡って、青臭い草の匂いがする。学校の用務員さんが草刈機で雑草を刈ったあとのそれを薄めたような匂い。すん、と鼻を擦った。
「何度か足掻いてみて、あたしは諦めた。集団の中で杭が出ていると、どうにもみんなして躓いて転んじゃうみたいだから」
日菜ちゃんが言っていることは分かる。遅遅たる速度で歩んでいる私でさえ、自分の中の成長曲線がブレイクスルーを起こした瞬間に立ち会ったことがある。九九が初めて言えた時のこと。47都道府県が言えた時のこと。分数の意味が理解できた日のこと。そして──日菜ちゃんと出会ってから、今この瞬間までのこと。
それが、日菜ちゃんには無かった。だからつまらない。
その、刹那の成長が私の人生に必要なものだったかと言うと、よく分からない。私の自己肯定の土台になっているとは思うけれど、それ以上のものではないと思う。
日菜ちゃんが言うものより、私の体験は希薄なものなのかもしれない。運動会でリレーのアンカーへ声が枯れるほどの応援を投げかけたこともないし、放課後に合唱コンクールの自主練をしたこともない私には分からないものなのかも。
「別に、思い上がったりしてるつもりはないよ。『十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人』って言葉があるけど、実際そうだと思うし。いずれは歩幅の合う人を見つけて、そういう切磋琢磨ができるんだろうって思ってる。……けど、あたしが退屈してるのは『今』だったから、仕方ない」
誰でもよかったわけじゃないんだろう、と分かった。なりふり構わないほどに飢えていたわけでもなかった。ベッドに寝転がって天井を見上げていると、暗闇が迫ってくるような圧迫感と焦燥感を覚えるように。日菜ちゃんの心はじわじわと乾燥していったに違いない。
日菜ちゃんはきっと、お姉さんの──紗夜さんの隣に立ちたかったのだ。
日菜ちゃんが仰け反って、星空を仰いだ。
「ギターを始めたのは、おねーちゃんがそうしたから。わざわざバンドメンバーを集めるなんて面倒くさいことをする気はなかったよ。あたしなら、どこかしらの事務所のオーディションには受かるし、そこで勝手に売り出すための采配をしてくれるでしょ?」
実際に集めたのは燈ちゃんだけど、と苦笑い。
最初に声を掛けてくれたのは日菜ちゃんだから、さほど変わらないと思った。
「燈ちゃんでなくとも良かったけれど、燈ちゃんとじゃなければ私はここにはいなかった」
膝の上に置いた鞄の中の、硬い感触に指が触れた。日菜ちゃんに出会ってから今日までに綴ってきたノートが、鞄の中に入っている。暗闇の中で取り出すようなことはしないけれど、たった数ヶ月の変遷を綴った言葉が、私に勇気をくれる。
「……私は、日菜ちゃんの言葉に何度も救われてきた、から……百分の一でも、千分の一でも、日菜ちゃんに返したい」
日菜ちゃんの指先に触れた。あんなにも巧みにギターの上を滑る指先は、私よりもほんの少しだけ固い。
「……あたしから、あんなに酷いことを言われたのに?」
「私じゃなくても良かった、ってこと? それとも、あくまで目的は紗夜さんだってこと?」
「どっちもかな。普通、自分が踏み台扱いされているようなことを言われたら怒るものじゃない?」
「……私は普通じゃない、みたいだから」
「そうだったね。……あたし達は、そうだった」
手のひらを包むように握り返される。日菜ちゃんの体温は、私よりもずっと冷たかった。ペットボトルの結露で湿った指先が、ついと親指を撫でた。
「燈ちゃんをバンドに誘った日、あたしがなんて言ったか覚えてる?」
「『私が紡いだ言葉を、日菜ちゃんがメロディーにする。出来上がった曲を日菜ちゃんがギターで弾いて、私が歌う。それって──すっごくるんってする』。……日菜ちゃん自身がやりたいから、って誘ってくれたのを、ずっと覚えてる」
ほとんど一言一句違わず覚えている。目と鼻の先の距離で交わした吐息も、すべて。
── 燈ちゃんの言葉を、歌にしてみない?
「るんって、言わないようにしてた気がするんだけどな〜?」
「……うん、ほんとは、訂正してた」
「変なところで改竄しないでよね、もう。……燈ちゃんのことを褒めるのに、嘘をついたことは無いよ。適当で薄っぺらな言葉を吐くのも、燈ちゃんに会ってからは控えるようになった。それで、答えになる?」
好意に嘘はない、と日菜ちゃんが言い切ってくれる。
なら、それを信じる他はない。
特別な存在になれているとは思わない。日菜ちゃんの人生を劇的に変えられるような力もない。そんな私でも、非力で無力で独りよがりな私の歌でも、日菜ちゃんの心を動かすことができるのなら。
公園のライトがペットボトルの結露に砕け散る。散らばった光が空を目指して、夜の闇を駆け上っていく。
星の光をそのまま反射したような日菜ちゃんの瞳が、私を見ていた。
「ずっと、ずっと、ずっと考えてた。どうすれば私が日菜ちゃんの助けになれるんだろうって。日菜ちゃんからすれば、私がバンドを続けているだけで十分なのかもしれないけど……」
「……そうだね」
「私をずっと照らしてくれるのは、太陽みたいな日菜ちゃん。嵐のように、それでいて晴れ空を引き連れてやってきて、私の夜を吹き飛ばしてしまったあの瞬間を、私はずっと忘れない。……けれど、もし、──」
息を吸った。
「日菜ちゃんに夜が来たら、誰が照らしてくれるの?」
「……さあね。昔は、その分月が輝いていたような気がするけど」
「今は、陰ってる?」
「そうだね、新月みたい」
星あかりが、木立のシルエットを黒く浮かび上がらせた。星が輝く夜空は、文字通りにあおぐろい。青藍で星爛な天幕が、私たちの舞台を作る。
文化祭で演劇をすると決まった時、私は真っ先に舞台に立つことから逃げ出した。けれどもし、日菜ちゃんの人生を描いた舞台があるとするなら、この瞬間、私と日菜ちゃんの二人きりでステージに立ちたい。日菜ちゃんは「退屈な舞台」だって言いそうだけれど。
「『燈』って漢字は、灯火を意味するんだって、習った。闇も恐怖も振り払うことができる
思わず立ち上がった。足首に力が入る感覚。どこかで鳴いている虫の音が遠くなっていく。日菜ちゃんと繋いだままの手を、強く握り直した。
「どうして『ランニング・ライト』だったんだろうって、今でも思う。羽ばたくための翼ではなく道を照らす灯りだったのは何故だろう、って」
ニセモノの星。
よだかを追いかけられる光。
そんな、日菜ちゃんの原体験。
ランニング・ライトの由来を知ってなお、私の心に募る感情は消えなかった。
一度沈みはした。けれど、完全に消えてしまわなければ再び灯る。
「それは──」
「日菜ちゃんにとって、大した意味の無い気まぐれだったとしてもいい」
言葉は苦し紛れに、息継ぎをする度に浮かんでくる。泡沫のように弾けて、文章を為す前に消えてしまって──支離滅裂な話をしている自覚があった。
そして、そんな言葉でも、日菜ちゃんなら受け止めてくれるという
「この空に浮かぶ星たちだって、本来はただの恒星の一つ一つに過ぎないのに。人の歴史の中で想いを託されて星座の形を為した。……それなら、
花音さんの言葉を思い出す。取るに足らない由来だったとしても、意味を重ねていけば重みを増していくはずだ。まして、もとより日菜ちゃんにとっては願いを込めた名前だったのなら──
「──私は、
夜空を吸い込んだ一等星の瞳を覗き込む。
「日菜ちゃんと一緒に
日菜ちゃんは意外なものを見た、とでも言うようにつかの間きょとんとした表情で、それから、心底愉快そうに笑った。
「燈ちゃんってホント、見てて飽きないなぁ」
私の手の甲を額にくっつけて、俯いたままくつくつと笑う日菜ちゃんに重ねて言葉を紡ごうとして、やめた。
「あたしの予想を簡単に超えてくるんだもん。びっくりしちゃった。でも、燈ちゃんらしいと言えばそうかな」
「最初は、ホームで転んでる変な子だった。たまたま読んじゃったノートの中身に興味を惹かれて、話をして……」
「なんかね、ちょっとだけ面白くなっちゃった。他人がやってるゲームを横から見ていても楽しめるタチじゃないと思ってたんだけど……横から口出しできるなら感じ方も違うのかな」
飄と風が吹いた。
青く潤んだ風が、さかのぼってゆく。
私たちを追い越した黒南風が木立を揺らす。
「あたしはきっと、青いまま熟れていくんだと思う。形を保ったまま、歳だけを重ねていく。階段状でさえない、真っ直ぐ斜めな成長線で、最初から持っているものだけを使って生きていく。だから、燈ちゃんを見てると少しだけ羨ましくなる。殻を破って、今この瞬間、羽化した燈ちゃんの白い翼を見ていると──」
日菜ちゃんが視線を逸らす。
羽化した、と言われても、私にあまりその自覚はなかった。確かに日菜ちゃんとこうして話すのには多大な勇気を必要としたけれど、逆に言えばそれだけだ。
困難を乗り越えたわけでも、何かを成し遂げたわけでもない。
……でも、2ヶ月前の私だったら、何も出来ずにうずくまっていただろうから、少しは成長できているのかもしれなかった。
「あたしはどれだけ高く飛べるだろうって、試したくなる」
喉が渇いていた。少しぬるくなった水を口に含む。緊張で上がった体温が、喉から冷えていく。
「……試したって、いいと思う」
「ダメだよ。また、つまらなくなる。あたし一人の空がつまらなかったから、バンドを組んでるのに」
「……私は、ついていくよ。どれだけ遅くても──日菜ちゃんにしがみついてでも、日菜ちゃんを独りにしない」
無謀で、烏滸がましい言葉だった。私と日菜ちゃんの人生の速度はまるで違う。私が息を切らしながら必死に登る山を、日菜ちゃんは一足飛びに駆け抜けてゆける。
私にできることと言えば日菜ちゃんのシャツの裾にすがりついて、足を引っ張ることくらいだろう。
「……燈ちゃんはさ、タイミングがいいよね。花音ちゃんと出会ったのもそうだし、七深ちゃんもそうだし、あたしに出会ったのもそう。それと、今日も」
日菜ちゃんが立ち上がった。ほぼ同じ高さ、水平に視線が交わる。
「次のライブ、おねーちゃんのバンドよりも後に回してもらえるようにお願いしてあるんだ。
「だから、覚えておくよ。燈ちゃんの言葉」
届かなかったのかな、と思った。話はおしまい、とばかりに公園の入口の方へ歩き始めてしまった日菜ちゃんの背中を、視線が追いかける。
私の言葉がどれだけ日菜ちゃんに響いたのか、結局窺い知ることは出来なかった。
やっぱり、そう上手くは行かない。
日菜ちゃんの後ろを着いていくこともせずに立ち尽くしていた。
日菜ちゃんの心の内を多少なりとも打ち明けて貰えたのは大きな進歩だけれど、ただそれだけだ。状況は何も進展していない。
振り返った日菜ちゃんが「帰らないの?」と首を傾げる。
「……私、日菜ちゃんの曲を作る。私が、日菜ちゃんと高く飛べるだけの歌を書く」
「次のライブまでに?」
「うん。だから、もし、日菜ちゃんが私を認めてくれるのなら──そのときは、私に委ねて欲しい」
「……その時が来ればね」
帰ろう、と日菜ちゃんが手のひらを差し出してくれる。
ひとまずは、それで納得するしかなかった。
結局のところ、私はずっと
ちらりと答えが見えたような気がしても、たちまちに姿を隠してしまう。
私の正しい生き方も、他人と付き合う方法も、日菜ちゃんの心に触れる正解も、見つからないまま波間に揺れている。
日菜ちゃんとの距離は、ちょうど、駅のホームで線路を隔てて向かい合っているくらいのものだった。
表情が窺えるほどには近いのに、声を掛けてその手に触れるには線路を迂回して階段を上るか降りるかしなければならない。
♦
星座に興味を持った時に読んだ、アルゴナウティカの内容を少し思い出した。印象に残っているのは、主人公であるイアソンが、例えばヘラクレスやテセウスのような勇者然とした英雄ではなく、それどころか嫉妬深く、小心で、消極的だったところだ。
私は全く、ああなりたいとは思わないけれど、ギリシャ中を旅した偉大な船にはあやかりたかった。日中、見えない星を思う。今頃天頂ではオリオン座が輝いているのだろうか。シリウスやリギルさえも、太陽の光の前ではかき消されてしまう。
学校でも家でも常に、日菜ちゃんのうたのことを考えている。
第3宇宙速度で飛び立って、焔になった私たちは、何色に燃えているだろう。
青く光るよだかを追いかけるなら、対照的な赤でも良いかもしれない。さそり座のアンタレスみたいな、鋭く赤い星へ。
或いはシリウスみたいな青色でもいい。七深ちゃんの言う通り、最も熱く燃えていられるのなら、どこまでも飛んで行けそうな気がする。
さらに挙げるなら、緑色というのもある。肉眼で緑色に見える星はないから、夜空に浮かぶ緑の星は必ず飛行機のポジション・ライトだ。そんな人工の光を、ニセモノの
「つまり、こういうこと〜?」
青と、黒と、緑と黄色を混ぜた絵の具で、七深ちゃんが半分を塗りつぶした。飛行機雲で両断された青空が、昼と夜に分たれる。
既に完成系に見えた水彩画を、七深ちゃんは大胆にも崩してしまった。
「勿体ない……」
「そうかな。前より良くなったよ」
夜の黒々とした雲を描いた後、七深ちゃんはスマホを開いて、天球図を画面に映した。その通りに星を並べていく。
その隣で、私は歌詞の続きを書いた。ランニング・ライトなんだから、星空を突っ切るのはどんな乗り物だっていい。飛行機でも、船でも、車でも──銀河鉄道でも。
日菜ちゃんの孤独を綴る。
世界の冷たさを綴る。
星の遠さを綴る。
救われた私の言葉を綴る。
日菜ちゃんを照らすための言葉を選ぶ。たった1文字にさえ長い時間をかけて吟味して、400字程度の手紙を綴っていく。
かつてつぐみさんに言われた通り、便箋を紙飛行機の形に折りたたんだっていい。綺麗な封筒で飾るより、鋭角を突き立てた方が日菜ちゃんに届くような気がする。
言葉は鋭く、けれど文章は柔らかに。刺さらなければ意味はないけれど、傷をつけたいわけじゃない。
──あなたの影を照らす光はありますか
書いては消して、研ぎ澄まされているのかただ一進一退を繰り返しているだけなのか分からないまま、時間だけが過ぎてゆく。
接続詞をつけては、もどかしさに文を区切る。文章は短く。その方が伝わる。
「みんなが好きな物の絵を描いたら、今度は嫌いなものの絵を描こうと思ってるんだ。燈ちゃんはなにか思いつく?」
「……えっと、スクランブル交差点……かな」
「交差点かぁ。なるほど。……忙しないもんね」
苦手なものを描くというのは、どういう意図があっての事なのだろうと疑問に思ったけれども、七深ちゃん流の対話なのだろうと理解する。私が歌詞を通して自分の感情を改めて理解するのと同じように、七深ちゃんも絵を描くことで他人の存在を飲み下していくのかもしれない。
「七深ちゃんは、何が苦手?」
「向日葵、かなぁ。枯れかけの、首が垂れている姿が、どうも苦手で〜」
「そう、なんだ。……でも、夕暮れの向日葵は不気味に見える、かも」
夏なら、と七深ちゃんが付け加えた。
タネができあがって花弁が散りかけている向日葵は確かに、不気味な雰囲気を纏っていると思う。私よりも背の高い向日葵が夕暮れ、私を見下ろしているのに気が付いて心臓が跳ねたことが……あったような気がする。
一輪ならまだしも、ひまわり畑でずらりと並んでいる姿を見たら、すっかりその印象に塗り潰されてしまうかもしれない。
私には、苦手なものが沢山ある。海月もそのひとつだった。今は、そうでもないけれど。
雷や風の音が恐ろしかった。流行りの歌が苦手だった。カラオケも好きじゃなかった。海月が苦手だった。夕焼けの寂しさも嫌いだった。虹に纏わる幸福なイメージだって、あまり好きじゃなかった。
どれだけ歩いても虹の端にはたどり着けないのに、虹を渡れば幸福が待っているだなんていう迷信が疎ましかった。夕方、太陽と反対側へどこまでも歩いてみた私の、ほんの小さな失望。
七深ちゃんがそっと一息ついた。筆を置いて、相も変わらず真っ白な私のノートをちらりと見遣る。
「絵でも詩でも共通だと思うんだけど……大事なときほど、背伸びはしない方がいいんじゃないかなって思うんだ」
「……でも、背伸びをしないと成長できないんじゃ……」
「まあ、そうなんだけど。大事な局面って、ただでさえ気持ちが前のめりになるよね。だから意識しなくても普段より背伸びをしちゃってるんだよ。そのうえで力むと、結局転んじゃう。傑作を作ろう、誰かの心に刺さる作品を作ろうと入れ込んで、失敗を恐れて逆に進まなかったり」
七深ちゃんの言葉は図星だった。
身の丈以上のものを作ろうとして行き詰まっている感覚は常に付き纏っている。
「苦しんでみるのも、燈ちゃんの糧になるのかもしれないけど……」
今の私が紡ぐ歌じゃ、日菜ちゃんの心を揺り動かすことはできない。
1歩、2歩、3歩先へ。少しでも日菜ちゃんの近くへ、日菜ちゃんの予想を超えた場所へと行かなければならない。
転ぶリスクを背負ってでも、私は背伸びしなければならなかった。
「鈍色に見えるよ、今は」
七深ちゃんの言葉通り、その日は一文字も進まなかった。
♦
羅針盤座は初夏には地平に隠れている。
つまり、私は迷子だった。
日に日に口数が少なくなる私を見かねて外へ連れ出してくれた花音さんが、スマホを見て唸っていた。
「えへへ、ごめんね? たまにはこういうのもいいかな、と思ったんだけど……」
「ううん、一人で悩んでるより、いいと思うから……ありがとう」
電車を乗り違えたらしい、と気がつくのが遅かった。目的地と正反対の電車に乗ってしまって、東京湾が目前に迫っている。仕方がないからと電車を降りて、1度駅を出る。最近できたカフェを目指していたけれど、私も花音さんも今から引き返す気にはなれなかった。
この辺りを散策しよう、ということで合意して、とりあえず海の方へと向かう。
潮の香りが分かりやすく鼻先を掠めた。
波を切り裂いて、貨物船が灰色の海を進んでいく。
隣を歩く花音さんが、風を受けてふわりと両手を広げた。
波間に乱反射する陽光に煌めく紫水の瞳が、私を映す。振り返れば神様のお尻を刺してしまいそうなビルの群れが聳えていて、花音さんの存在だけが浮いて見える。
水族館ではあれほど蒼に馴染んでいた花音さんが、本物の海と人工の港でははぐれている。
ワンピースの裾が翻る。次に遠目に見えたタンカーに思い切り手を振ってから、私たちは港を後にした。
いつ訪れてもイベントが開かれていそうな広場を抜けて、新たに調べ直したカフェで一息ついた。
クリームソーダを注文して、冷たさに襲い来る頭痛に悶える。
書きかけの歌詞と相まって2倍の痛みに耐えたあと、警戒しながらゆっくりと飲み進める。
「最近ね、迷子になってもそんなに落ち込まなくなったんだ」
青いサイダーをストローでかき混ぜながら花音さんが言う。メニューには確か、ハワイソーダと書かれていた。
「迷子にならなければ、もしかしたらここには一生来ることがなかったかもしれないし……予定調和から外れて歩くことを楽しめるようになった、って言うのかな」
いざとなれば燈ちゃんの光に頼ることだって覚えたから、と付け加えて、花音さんは微笑んだ。
「だから、燈ちゃんももう少し回り道をしてみたっていいんじゃないかな」
その優しさに甘えてしまいたくなるけれど、そうすると日菜ちゃんが遠くに行ってしまうような気がする。ふらふらとさまよって、寄り道をしながら日菜ちゃんを追いかけられるほど私の足は速くない。
それに、慣れない場所に独りぼっちでいるのは恐ろしい。
「……花音さんは、日菜ちゃんと出かけたりする?」
「うん。日菜ちゃんといる時は、迷子になったりしないけど……」
「そう、なんだ」
日菜ちゃんに呆れ顔をされている花音さんが容易にイメージできた。間違った道に行きかけた花音さんを引き止める日菜ちゃんの様子が目に浮かぶよう。
なんというか、花音さんと日菜ちゃんは対等な感じがする。つぐみさんも、きっとそう。けど、私と日菜ちゃんは……対等じゃない。
必ずしも対等で在りたいとは思わないけれど、日菜ちゃんにとっての私の価値がゼロに近い今を脱したい。
似た者同士だね、という日菜ちゃんの言葉が、何故だか唐突に
♦
歌詞を書いた。
出来が良いのか悪いのかも分からないまま、ノートを日菜ちゃんに差し出した。
紙飛行機を日菜ちゃんが受け取って、困ったな、と楽しそうに笑った。
「これを良い曲にするのはあたしの役目だけど……私の心に響きそうな曲を、私が書かなきゃいけないってことになるんだね」
そう言った日菜ちゃんが二日後に持ってきた曲は、やっぱり私の想像を上回って素晴らしかった。私の言葉一つ一つが、翼が生えたように軽々と飛び回る。
歌詞も──本当は、日菜ちゃんが書いた方が余程良い物ができてしまうんじゃないか、と思っている。それを口に出せはしないけれど──夢に見ることはある。
もっといいものが書けるはずだ、と書き上がった歌詞を穴が空くほどに見つめる。泣きたくなるくらいに何も思い浮かばない。改善案が思いつかないのに何か違うということは、根底から書き直さなければ解決しないということだ。
それは、今からだと少し難しい。上手くいく保証が、間に合う保証がないのも確かだし、書き直したものが前よりも良くなるとは限らない。
何度か歌ってみても、紡がれた言葉は私の心から離れていく。
私が出したはずの解は、私に対してさえも正しさを保証できなかった。
朝が来る度に、今日が永遠に続きますようにと祈る。夜が来る度に、朝が来ませんようにと願う。
──私の価値を決めるライブがやってくる。
人が死ぬまでに心臓を動かす回数は決まっているのだという。
セイカイの歌詞を書いてから今日までに私が縮めた寿命はどれだけだろう。20億のうちどれだけを、私は無駄にしてしまったんだろう。
眠りは浅く、脈は常に早かった。
川せみが空の高さを決める日。
よだかの星が輝く夜。
鷹が私を攫いに来る
ガールズバンドパーティ、と掲げられた飾り付けの下を潜って、私たちはライブハウスCiRCLEのフロアに立っていた。逆順で進むリハーサルが終わって、間もなくライブが始まろうという頃。お客さんの邪魔をしないように壁際に寄った私たちを、スポットライトが掠めていった。
出番を待つ間は楽屋やスタジオで待機しているバンドも多いらしいけれど、紗夜さんの演奏を聴くために5人全員でライブを聴いている。
一組目のバンドはPoppin’Partyというらしかった。とにかく楽しそうな演奏が印象的だ。私のように気負って必死なわけでもなく、変に格好をつけるでもなく、等身大の女の子達がステップを踏む。
一曲目、二曲目とだんだん盛り上がっていく刹那、廊下の方へ歩いていく日菜ちゃんの後ろ姿が視界の端に引っかかった。
現実に引き戻されたような心地で、慌ててそれを追いかける。つぐみさんが肩を軽く叩いてくれた。
ロビーの端の方で日菜ちゃんと紗夜さんが向かい合って立っている。
見つかったらその時はその時だと思って、ギリギリの死角に身を潜ませた。盗み聞きは気が進まないけれど、切羽詰まっている。
……少し葛藤してから、その場を離れることにした。
踵を返すときにちょうど、紗夜さんと目が合う。
すぐに視線が日菜ちゃんに戻ってしまったから、紗夜さんが私に何を思ったのかは分からなかったけれど、つかの間、足が止まった。
「……近頃のあなたの行動は目に余る。私と同じようにバンドを始めたと思ったら、わざと手を抜いて演奏しているでしょう」
「手を抜いてるわけじゃないけど……」
「本気でやっているわけでもない。そうよね?」
ここからは日菜ちゃんの背中しか窺えない。でも、首肯したのがわかってしまった。
「少なくとも、高松さんや広町さんは本気でバンドをやっているように見えた。本気で、あなたに向き合おうとしている。……だと言うのに、あなたは何も変わらない」
日菜ちゃんは何も答えなかった。代わりに紗夜さんが深く息を吐いて、続ける。
「理由は私にあるのでしょう?」
「それは、どうかなぁ。あたしが全部、悪いんだと思うけど。2年前みたいに全部壊しちゃうんじゃないかって、勝手に怯えてるだけで」
「そうね。べつに、私に過失があるとは思っていないわ。──それに、今の状況こそが2年前の焼き回しでしょう。あなたが変わらないのなら、あなたが築いた関係も同じ末路を辿るのは当然の帰結なのだから」
氷川日菜、と鈴麗とした声が耳朶を打った。
日菜ちゃんよりもほんの少しだけ低く、芯が一本通った声。
「一つ、言っておくわ。──私を
「それをおねーちゃんが言うの? あたしに全部壊されたおねーちゃんが?」
「……ええ、壊しただけよ。あなたは。奪ったわけではない。そして、今の私の足場はあなた如きに壊せるほどヤワじゃない」
もう一度、紗夜さんが私を見た。今度こそ、私の足が踵を返す。
元来た道を戻って、曲がり角を曲がった。日菜ちゃんが振り返って覗き込んでも見えない位置。
「もう、嫌ってはいないの。これは……憐憫かしらね」
最後に聞こえたその言葉に急かされるように、足が早まった。
自販機のコーナーを通りがかって、アリバイを作るように飲み物を買った。150mLのミルクティーで、脂汗が浮いていそうな額を冷やす。
訣別のようにも聞こえた。決意表明にも聞こえた。紗夜さんのライブで、その真意が分かるのだろうか。
今の会話は日菜ちゃんにとってどれほどの意味が込められていて、日菜ちゃんにどれほどの衝撃を齎したのだろう。
足音がして、反射的にそちらへ振り返った。
「高松さん。盗み聞きはあまり感心しないわ」
紗夜さんが立っていた。先程までの盗み聞きを咎められれば、私としてはただ謝るほかない。良くないことだとわかっていただけに、後先考えずに飛び出したことを後悔している。
「……その、ごめんなさい」
「ええ。要らぬ不和を呼び込まないように。……それと、目を逸らさないこと。まっすぐに前を向きなさい。顎を引いて、指先を伸ばして、息を深く吸いなさい。
あまり時間がないから、と紗夜さんは足早に去ってしまって、私はそれを追いかけるようにフロアへ戻った。つぐみさんと隣に立ってステージの方を見ると、まだ一組目のバンドの出番は終わっていなかった。
最後の曲です、というMCの後、ポップでキャッチーなギターサウンドが流れ始める。
「どこ行ってたの?」
「飲み物、買ってた」
「ふーん? 日菜さんは?」
「……どこにいるか分からない」
Poppin’Partyの最後の曲が終わったのを特大の拍手で見送った後、入れ替わるように準備し始めたのは紗夜さんのいるバンドだった。
「呼んできた方が良いですかね〜?」
「……ううん、連絡は入れたし、一人で聴いてるんじゃないかな」
私は日菜ちゃんの悩みも一緒に背負いたいと思っているけれど、日菜ちゃんにとっての私は頼りないだろうなと思う。フロアの暗がりの中をざっと見渡してみても、日菜ちゃんの姿は見つけられなかった。
邪険にされても日菜ちゃんの隣で聴くべきだ、と思って、フロアの中を人ごみを掻き分けて歩いた。
「あーあ、見つかっちゃった」
果たして、日菜ちゃんは私たちと正反対の位置に立っていた。ステージがしっかり見えて、けれどステージ側からは目立たなさそうな左側の位置。右側にいた私たちとは丁度線対称になる。
「日菜ちゃんと一緒に聴きたいって思って……」
「いいけど、あたしが面白い反応をするとは限らないよ?」
「うん」
紗夜さんはステージの右側に立っている。日菜ちゃんのものよりも緑がかった青色のギターが、ライトを反射する。青い薔薇の衣装がよく似合っていた。
Roselia、とバンド名がスクリーンに映し出されて、刹那、ドラムのカウントが始まった。ギターがはじけて、姿勢の良い紗夜さんから、恐ろしく力強いカッティングフレーズが溢れ出す。私があまり聴かないジャンルの、低く、深く、荒々しく切り込むようなギター。それでいて整然と、神経質なくらいに統制された音色。
弓矢のようだ、という印象を受けた。
まっすぐに的に向かう射手。
ぴんと張った弦。握りの部分は力を込めたことで僅かに震えていて、弓幹がそれに反発するようにしなっている。
はっと放たれた矢は空気を切り裂き、唸りながら低く飛んで的の中心を貫く。
次々と射抜かれた観客が、熱を上げていく。
事前に少しだけ、紗夜さんが所属するバンドについての前情報を得ていた。プロ級の演奏技術を持った超実力派バンドであること。ボーカルの湊友希那さんは特に、すぐにでもメジャーデビューしてもおかしくないくらいの人気と実力を備えていること、など。
確かに、ボーカルだけを考えても私が今までこのライブハウスで聴いてきたバンドの中で群を抜いていた。声の大きさがまず違って、息継ぎも苦しそうではなくて、抑揚に富みながらも表現が自然で、高音も低音も音程がブレずに綺麗に伸びる。
私の歌がただ、手紙の朗読に抑揚をつけたものだとするなら、湊友希那さんの歌声は紛れもなく天性の楽器だった。
日菜ちゃんの反応を窺う。
日菜ちゃんにとって紗夜さんの演奏は、どれほどのものなのだろう。
手を伸ばせば届くものなのか、日菜ちゃんでもすぐには追いつけない高さにあるのか。
日菜ちゃんは、笑っていた。心底楽しそうに、愉快そうに、そして、希望を見出したように。
夏休みに海に行くことが決まった子供のような笑顔で、日菜ちゃんはステージを見ていた。
鏑矢が甲高くフロアを引き裂いて、すぐに二曲目が始まる。
結局のところ、私は楽器に関しては何も分からないままだ。一定レベルを超えてしまえば、あのギターがどう上手いのか、とかあのベースのどこにセンスがあるのか、とかそういうものさえよく分からない。
だから、私が受け取る音楽はすべて、私の感性によって評価される。私が圧倒されたのならすごい音楽なのだろうと思うし、そうでなかったのなら私の感性では測れないものだったというだけ。
そして、紗夜さんの音楽は
「そういうこと。そりゃー、あたしでも容易には追い付けないよね」
2曲目の終わりに、日菜ちゃんがぽつりと言った。
「環境が変われば成長速度も変わる。当たり前だけどさ、盲点だったな。あたしとおねーちゃんは、全く同じものを食べて生きてきたから」
環境の差、という言葉を何度も咀嚼して、日菜ちゃんの言葉の意図を汲み取る。つまり、切磋琢磨できるかどうか、ということ?
それならば、私には日菜ちゃんという特大の橄欖石を、切することも磋することも、琢することも磨することもできないだろうと思う。日菜ちゃんに触れて切れるのは私のほう。柔らかく脆い私は、橄欖石と擦り合わされる度に削れていくに違いない。
「私たちと一緒じゃ、日菜ちゃんは紗夜さんに届かない?」
「あたしひとりなら、そうかもね」
MCが始まった。湊友希那さんによるメンバー紹介。梅雨明けが待ち遠しいこと。フェスの予選に出る予定であること、など。
ステージの進行とは裏腹に、私の視線は日菜ちゃんの横顔にひきつけられていた。
「……おねーちゃんと、少し話したんだ。だいぶ、怒られちゃった」
「それは、過去のことも?」
「ううん、今のこと」
聞いていたくせに、白々しい返事をした。紗夜さんが日菜ちゃんになんと言ったのかは知っている。
「まー、ちょっと、凹んだよね。自業自得だけど」
日菜ちゃんでも人間関係で苦しんだりするんだ、という何度目かの衝撃を受ける。同時に、紗夜さんが羨ましいとも思う。たとえ私が何を言ったって、日菜ちゃんは傷ついたりしないだろうから。
つまりはそれが、私と紗夜さんの違いで、私と日菜ちゃんの距離なのだと思う。
「意地悪なこと言っていい?」
「……え、えっと……うん」
「あはは、嫌そう」
「嫌じゃないけど……身構える」
そりゃそう、と会話の間隙に、するりとギターが滑り込む。3曲目が始まったのだ、とステージの方へ視線をやるのと同時に、日菜ちゃんが口を開いた。
「あたしのセイカイって、何?」
それに返せる言葉を、私は持っていなかった。
時間をかけて綴った
色褪せた瞳、と湊友希那さんの低い声。
火をつけたのはあなたの言葉だと歌う。
たちまちに月光がフロアを席巻した。
風が吹いたのだと勘違いするような、音の圧。一歩退いたのは、果たして私だけだったろうか。
「あたしは、ずっとあたしのまま。先んじて手に入れたものもあれば、見逃して手に入れ損ねたものもある。あたしの人生に模範解答があるのなら、きっとそれから掛け離れた人生を送ってきたことだけがわかる」
「……私は、間違いなんかじゃないって言いたい。私と出会ってくれた、私に声をかけてくれた日菜ちゃんは──間違って、ない」
間違いであって欲しくない、というだけでしかなかった。
「本当に? ──なんてね」
風船の空気が抜けるように、日菜ちゃんの表情が弛緩した。緊迫した空気が去ったはずなのに、それが惜しいことのように思えるのは、膨らんだ日菜ちゃんの心臓と私の心臓の距離が縮まったように思えていたから。
遊園地に行った翌週の土曜日、萎んで床に落ちた風船に改めて向き合った時の感情。
「あたしの人生に操り手はいない。追い風も向かい風も、風波も。あたしの
「ゴールがないから、迷子になることもない。正しい道のりなんて概念も存在しない。氷川日菜の道には、上り坂も下り坂もない」
「晴れてはいるけど、雨は降らない。太陽は東に居座ったまま、夕暮れなんて訪れない。虹ができれば渡れるような気がするけど、雨が降らなきゃ橋なんて掛かりもしない」
「きっと、間違ってるけど正しいんだ。正解なんてなくて、同時に間違いも存在しない。あたしはずっと誤って来た気がするけど、あたしの最善がこんな人生だったのかもしれない」
唸り声をあげるように叫ぶギター。
広葉樹の枯葉が落ちるようにひらひらと舞った日菜ちゃんの言葉が、無機質な床材に跳ねる。
「──さ、これで話はお終い。あとはステージで、ね?」
「……うん」
もう一度ステージに視線を向けてから、日菜ちゃんはフロアの外へ向かっていく。それをぼんやり見送っていると、つぐみさんがこちらへ手招きした。日菜ちゃんが合流した四人に、慌ててついていく。
「お客さんにガッカリされないような演奏をしなくちゃね〜」
「Roseliaさんに聴き劣らないように?」
「……それは厳しいんじゃないですか?」
「えー、燈ちゃんが頑張ってくれるよ」
控え室を経由して楽器を手に取る。
Roseliaの人たちと舞台袖ですれ違った。紗夜さんと目が合う。励まされているような気がした。
歩く度に、カウントダウンが始まっているような心地で落ち着かなかった。
いや、実際にカウントダウンは始まっているのだ。
日菜ちゃんが私に課した試練に挑む瞬間が、刻々と迫っている。
それは千尋の谷に飛び込むまでの道のりだった。
千里を歩けと言われるならまだマシで、困り果ててしまうのは、目的地がどこにあるのか分からないことだった。
高く飛べば良いのだろうか。どれだけ高く飛べば日菜ちゃんに届くのだろう。どれくらいの高さまでなら蜜蝋の翼は溶けないのだろう。そもそも、私は高く飛べるのだろうか。飛ぶことが正解なのだろうか。
分からない。何をすれば、何を歌えば日菜ちゃんの心に罅を入れられるのだろう。その欠片でも、私に預けてもらえるだろう。
私を見かねたのか、一度紗夜さんの方を振り返ってから、日菜ちゃんが一言呟いた。
「音楽で、人を殺せると思う?」
「──え?」
「あたしはそういうつもりで、
殺す、という言葉に心臓が跳ねた。
日菜ちゃんに真意を問う暇もないまま、スタッフさんに促されてステージに出る。真っ先にステージに立った日菜ちゃんがセッティングをしている間、マイクスタンドの前で言葉の意味を考えた。
「私は、他人の心を動かせる絵が至上だと思って描いてるよ。心ひとつで人の生き死にが変わることもある、と思うな」
私の右隣に立つ七深ちゃんが、耳打ちするように言った。
人の生き死にを左右するのは心。一理あると頷く。
言葉一つで誰かを生かすことも殺すこともできない、とは思う。それは音楽も同じで──けれど、心を動かすことは可能なはずだ。だとすればきっかけになることくらいは……あるいは最後のひと押しになることだって有り得るのかもしれない。
私は、日菜ちゃんを救ううたを歌いたい。日菜ちゃんにとって価値のあるうたを……
少し背伸びをした。浮ついて焦る心を、深呼吸で鎮めようとする。
深く息を吸う。顎を引いて、前を向く。指先まで意識を張りつめるように伸ばして、一人一人と目を合わせる。
「バンドを始めたあの日から、私の中に燻ってる感情があって──私はそれが、恐ろしい」
マイクを通さない私の声が、暗がりに溶けていった。誰に聞こえたのかも定かではなかった。けれど、それでいい。私が話しかけているのは、私自身だった。
『……初めまして。それと、こんにちは。『ランニング・ライト』です』
MCは相変わらず苦手だから、話さなくて済むならそれに超したことはないと思っている。喉を休める時間にもなるし、観客の人たちもMCを歓迎する空気があるから、決して悪いものでは無いと思っているけれど、話すのが苦手だという意識は変わらない。
『今日は、ロングフライトになります。燃料が続く限り、一昼夜を飛び続けるつもりです。より高く、高く、高く、星の海まで。……よろしく、お願いします』
始まりは、嵐の夜だった。台風が日本を縦断する夜、ひとりぼっちの家の中。たわむ電線、軋む木の影、黒を引き裂く稲妻。
私は、孤独だった。
海月のワルツ。
花音さんのドラムが三拍子を刻む。バスドラムの振動が私の背中を突き抜けて、心臓をノックした。止まっていた鼓動が再開して、私の心が息を吹き返す。
嵐の頂点が過ぎたあとも続く長雨。パラパラと降り注ぐ雫のように、つぐみさんのピアノがメロディーをなぞる。
雨の中を、ランニングライトが光っている。
ポケットにしのばせた、海月のピンバッジを撫でた。
1人じゃ浮かび上がることさえ覚束ない私を、浮き上がらせてくれた日菜ちゃん。
……私が海月を恐れていたのは、同族嫌悪でもあったのだと思う。
水槽から無機質に私を見下ろす傘花が不気味に見えていたのも事実。雨の日、周囲に目もくれずに交差点を渡っていく人達と同じ、周囲から私だけが浮いているような感覚。
それと同時に、私もまた海月の一人だった。群れからはぐれて、流れからはぐれて、水底に沈んでいくだけの私。心も骨も水に溶けて、水泡と帰するのを待つだけだった私。
花音さんには、ひっそりと仲間意識を抱いていた。
ドラムをやめようとしていたこと。命を運ぶ海流の話。
決定的に違うのは、花音さんは自力で立ち上がれることだと思うけれど。
Bメロ、サビ入り前。少し深く息継ぎをした。波の狭間から顔を出して、マイクとの距離を近付ける。
迷子になるのは、きっと決まった道から外れてしまうからだと思う。それは花音さんの反骨心みたいなものがそうさせるのか、無意識なのかは分からないけれど。花が決してまっすぐ根を張ることがないように、あちらこちらに往き来して強く根付いた人生の道程は、振り返った時に強固に体を支えてくれるはずだ。
華やかなドラム。シンバルの甲高い音さえ、
私のこの葛藤も、糧になるのだろうか。
花音さんは寄り道することも悪くないと言ってくれるけれど、私は終始焦っている。
長い、長い雨雲を風が吹き飛ばしてしまったあと、訪れるのは雲ひとつない青空。高気圧直下、見渡す限りうっすらとグラデーションの水色が広がって、風だけが名残惜しく吹き付けている。
海月のワルツから拍子を変えて四拍子、私のはじまりのうた。目が痛いほどに白い光が照りつけて、雨の名残りは彼方の山脈に僅か。
『台風一過、箍を外したような青空が好きです。まだ吹き付ける風が、憂いを吹き飛ばしていく』
日菜ちゃんのギターに違和感。
いつもよりもずっと、歌っているような──?
七深ちゃんが首を傾げた。私と同じことを考えたのかもしれない。七深ちゃんと目が合う。日菜ちゃんの方へ視線を逸らしてから、七深ちゃんはしっかりと私へ頷いた。それをエールだと受け取って、フロアの方へと視線を戻す。
晴嵐。いつもよりも風が強い。
紗夜さんと日菜ちゃんのやり取りがリフレインする。
本気ではない。全力ではない。真剣ではない。今までの日菜ちゃんの演奏が全霊のものではなかったとすれば、果たして日菜ちゃんの全身全霊の演奏とはどんなものなのだろう。
手を抜いていたわけじゃない、と日菜ちゃんは言った。だから、技術的に大きく改まることはないと思う。
私がカラオケで心を込めて歌ってもそうでなくともあまり点数に変化がないように、日菜ちゃんも同じだろう。……もしかすると日菜ちゃんなら、紗夜さんの演奏を見て更に高く飛べるようになるのかもしれないけれど。
違うとしたら、ギターに込める感情表現。チョーキングひとつが、ピッキングひとつが、ストロークひとつが、驚く程にニュアンスを多彩化させる。
そして、変化した日菜ちゃんのギターは、今までの晴嵐とはまるで違っていた。
今までは、私から見た日菜ちゃんを弾いてくれていたのだ、と直感した。
私を救ってくれた日菜ちゃんを、私に都合の良い日菜ちゃんを、晴嵐に描かれた日菜ちゃんを。
流し目の日菜ちゃんと目が合った──ような気がした。
挑戦状を突きつけられているのだと感じる。
ありのままの日菜ちゃんが、冷たい刃物のようなギターが、首筋に触れる。
声を張り上げた。たとえ日菜ちゃんであっても、晴嵐を奪われるのは嫌だ。私がここに立てている理由の全てで、私のはじまりのうた。高松燈を人間たらしめるうた。
急かされるように高く飛ぶ。全力で走り出した日菜ちゃんを追いかけて、息切れさえも顧みない。
よだかの星に挟み込んだ、ナガミヒナゲシの押し花。
私は、空を見上げるペンギンだ。私を囲う水槽が、どうしようもなく現実を反射していた。
恐ろしくて、近づいたアクリルに跳ね返る私の表情は歪んでいる。
バンドを組んだ瞬間のことを思い出す。
目の前でぴょんと跳ねた背中、振り返ったエメラルドの瞳が瞼の裏に隠れる。翡翠の髪が揺れて、思わず伸ばした手のひらを、しなやかな指先が絡めとった。固く握った手のひら。私よりも体温の低い日菜ちゃんの腕がぐいと引かれて、彼我の距離が縮まった。
けれど直ぐに日菜ちゃんは離れてしまって、手を差し伸べるばかりだった。
最初の一歩、飛沫をあげる水面へ飛び込むのは、私の意思でなければならなかった。
後ずさって、3歩助走をつけた。
記憶が蘇っていく。
晴嵐の歌詞は、最初から宙へ飛び発つために綴ったものだった。
ノートに書き留めた星の数ほどの言葉と、過去の私の、世界の外に飛び出してしまいそうな感情とを繋ぎ合わせて、地底から火星へ飛び出すためのロケット。
歌いきれ。どんなに苦しくても、アウェーでも、たとえ野次を飛ばされたって晴嵐だけは歌い切れる。そう確信していたあの瞬間を思い出せ。
日菜ちゃんが現実を突きつけたって、私のクオリアは褪せたりしない。
晴空の青が真横に見えるほどに高く飛んだ。
出した正解に自信はないけれど、これだけは。
ドラムのエンジン音。ベースはモーターの回る音のようで、びゅうびゅうと吹き付ける風の音階をピアノが紡ぐ。
よくできました、と日菜ちゃんが笑ってくれたような気がした。
『虹の麓を見ると幸せになれる、という言い伝えがあります。現実には歩いて虹の端にたどり着くことはできないけれど、飛行機で跨ぐことはできるんでしょうか』
七色のきざはし。
雨が上がれば虹が出る。虹が幸せの象徴とされるのは、当然と言えば当然の成り行きだと思う。黒々とした雨雲が去って、青の隙間からこぼれる薄明光線。その向こう岸に現れる、七色のきざはし。
七深ちゃんのベースが途端に色を鮮やかにする。つぐみさん曰くバランサーであるところの七深ちゃんは、私たちの演奏の凸凹にピッタリとはまって、隙間を埋めてくれる。
そんな七深ちゃんに逆らうように日菜ちゃんが作ったのがこの曲だった。コンセプトはベースが主役になる曲、らしい。
ライブでは聞こえなくなってしまいがちなベースが、前面に押し出される。
七深ちゃんから見た今日の日菜ちゃんの色は何色なんだろう。私は今日も、青色でいられているんだろうか。
──皮肉だよね〜。『普通』にさえ馴染めない私が、
いつだったか、七深ちゃんとそんなやり取りをした。
七色でも、七深ちゃんに確固たる色が無いわけではないはずだ。
私の目は七深ちゃんほど色を見ることに長けてはいないけれど、たとえば、白。白紙でもまっさらなキャンバスでも、色がないわけではないのだと思う。むしろ、白はとても強い色だ。
夏空に浮かぶ入道雲。川べりに立つシラサギ。海原を往く帆船のマスト。冬に世界を染める白雪。つぐみさんの指先が走る白鍵。七深ちゃんのベース。
私の世界にはむしろ、白が何よりも存在感を放っている。
七深ちゃんの孤独を想う。幸せの定義を問う。
見たいものだけを見られた方が幸せなのかもしれない。
見たくないものを見てしまった時の不快感、向き合わなければならない現実を前に震える両足。
才能は人を孤独にする、と七深ちゃんは語って憚らない。
七深ちゃん自身がそうなのだから、日菜ちゃんも本質的には同じであるはずだと背中を押してくれる。
まだ三曲目なのに腹筋が鈍痛を訴えていた。
喉はまだまだ大丈夫。きちんと歌い切れるはずだ。
考えるな、疑うな。
積み上げてきたものを信じるだけ。
七深ちゃんのアトリエが無数に描く情景を歌い上げていく。
ちょうど折り返し地点。台風の夜、雨の朝、海月の水槽、雨上がりの晴嵐、割かつ飛行機雲、虹の空、瑞々しい紫陽花の葉。
夕焼けの西陽、紫に降りる夜の帳、宵の明星、青黒い星空、煌めくビル街、テールランプの赤、青く凪いだ灯台、星雲を穿つランニング・ライト。
私が駆け抜けるべき道が、平に舗装されていくのがわかった。虹を飛び越えて、私たちは高さを増していく。
『西明りが、私たちの影を伸ばしていきます。夜へと向かって影を伸ばした私たちは、明星が輝くのを境に
アフターレイリー。
ピアノの和音が、ガラリと曲の雰囲気を変える。白に溢れていた世界が、瞬く間に濁り始めていく。
音程が低い部分ほど、一音ずつ発声を気にしながら歌っていく。私には湊友希那さんのような突き抜けた声量だとか、安定感だとか、そういう武器がない。だからせめて、自分が頭を悩ませて綴った言葉だけは、間違いなく伝えたい。
巣へ帰っていく小鳥の囀りのようなタッチの高音。夕暮れの紅を見送る長い影の情景が私の網膜に叩き付けられる。
つぐみさんが疲れてしまったときには、私がつぐみさんの歩むべき正解を作ると誓った。つぐみさんの人生に添えるべきBGMを、私が定めてみせると。
今思えば、なんと大それたことを言ってしまったんだろうと顔を手で覆いたくなる。約束を違える気はないけれど、それにしてもなんと烏滸がましい。
私が提示できるそれは、実の所全く、正しさを孕んではいないのだと思う。傷の舐め合いでしかなくて──それが前に進んでいくための追い風になるかは疑わしい。
消化不良の感情がぐるぐると渦巻いていく。
今この瞬間にでもノートに言葉を書き綴りたくなるくらいだった。
嗚咽して、むせいで、絶望に酔う。
私にとっての家路とは、何もなされなかった一日の象徴だった。
安心と絶望が同居する。一日が終わることへの安堵、明日も変わらない一日が来ることへの絶望。
つぐみさんにとってはどうだろう。私と同じく、決して心地好いものではなかったんじゃないだろうか。遊び切って満足気に帰った日もあれば、いつか来たる終わりを意識した日もあったに違いない。
ドライフラワーの瓶がこぼれ落ちた。乾いた花弁が砕けて粉々になる。
追憶ばかりが空を染める。灰、青、紅、紫、藍。
日菜ちゃんは──日菜ちゃんは、迷わない。目的地を定めたら、真っ直ぐにそちらへ歩いていける。だから家路だって、切なく苦しいものにはならないんじゃないか、と思う。
グリッサンド。
つぐみさんのときの焼き回しでは上手くいかないと思い知った。アフターレイリーを書いたときと同じように作ったセイカイが、ほろほろと崩れていく。
ソロ。つぐみさんが弾くフレーズがいつもと違って、思わず振り返った。
上がり調子のスケール、早足で階段をかけのぼって、校舎の屋上へ続く扉を開け放つ。
つぐみさんが日菜ちゃんの方へ軽く首を振る。集中しろということだろうか。叱られてしまった。
『
正しさなんて存在しないと知った上で、それを探そうと試みるうた。
ゴールの存在しない旅に出るような苦しさと孤独。誰かと一緒に歩いて行けるならそれも苦ではないのだろうけれど、日菜ちゃんは独りだ。
『私は──貴方にとって価値のある私になりたかった。貴方を救えたら、そんな歌を歌えたら、醜い欲望が叶うと夢想した。よだかの星になれたら、貴方の視線を奪えるかもと思って……結局、何も捨てられなかった。そんな──私にとっての、貴方のうた』
黒い感情を吐き出して、また深く息を吸った。
嫉妬、あるいは独占欲。日菜ちゃんと出会ってから今日まで、ずっと燻っていた醜い感情を曝け出す。
こんな感情が自分の中に存在していることが許せなくて、けれどどうやっても消えてくれない火を、別の火で覆い隠そうとしてみたけれど、欺瞞が溢れ出す。
日菜ちゃんを救いたい、なんて口に出してみても、声音には欲望の色が付き纏っていた。
フライトも終盤、日菜ちゃんが飛行機を加速させて、第三宇宙速度で大気圏を突き抜ける。羅針盤座と北極星をしるべに、よだかの星を探しに飛び出す。
よだかの星がもし日菜ちゃんの言う通りにチコの星であったのなら、この宙全てを探してもとうに消え去ってしまった光だ。永遠に答えは見つからないのかもしれない。
人間になりたいという言葉を書いた日から、その答えは私には分からないものだと諦めてきた。それでも日菜ちゃんとなら、と思ってその手を取ったことが、間違いではないと思いたい。
簡単には見つからない答えを、それでも私となら探してみたっていいと、日菜ちゃんにも思ってもらいたい。
日菜ちゃんは、晴嵐のときと同じく歌うようにギターを爪弾いていた。
けれどなんというか、足元を確かめるような感じがするのは、私が綴った言葉を咀嚼してくれているからだろうか。
ランニングライト。紛い物の星光。
よだかのような清純さもなく、欲望混じりの赤い光が、日菜ちゃんを照らす。
「もっとやれるでしょ?」
口の動きで、日菜ちゃんがそう言ったのがわかった。
もっとって、どうすればいいんだろう。これ以上声を張り上げることも出来ないし、急に上手く歌えるわけもない。
戸惑いに、七深ちゃんが演奏の輝度をあげた。
それに応えるように、花音さんがテンポを後ノリにズラす。そちらの方が私にとっては歌いやすい、と話をしたのを覚えていてくれたらしい。つぐみさんのバッキングがアドリブを織り交ぜて、私のボーカルラインにピッタリと重なる形になった。
背中を押されて、更に感情を込めて歌い上げる。
結局、私一人で日菜ちゃんを圧倒するようなパフォーマンスができるわけはないけれど……たとえば、ランニング・ライト全体としてなら。
私が巡り会って来た人達の演奏が、心が、日菜ちゃんにとって惜しいものであるのなら──
これは、逃げだろうか。甘えだろうか。
届かなかったことは、素直に認めるしかない。けれど負け惜しみとも言い難い、理想は叶わずとも、取っ掛りくらいは掴めたと思いたい。
気が付けば、私たちは星の海に浮かんでいた。
青黒い海はうねりひとつなく凪いでいる。
やっぱり、青く輝くよだかの星はどこにも見つからない。
オリオン座のリゲル、おおいぬ座のシリウス、おおぐま座の七星、わし座のアルタイル。四方を見渡して、今ならよだかになれるだろうかと思案してみる。
この船を飛び降りて燃え尽きてしまえば──そう考えてしまう時点で、私に資格はないのだろうけれど。
私は船首に立った。船べりでギターを弾いている日菜ちゃんの音を背中に受けて、両の手を広げてみる。
「どっちに行く?」
日菜ちゃんが問う。
「シリウスの方でいいんじゃないですか?」
つぐみさんが提言した。
「よだかも冬の星ですからね〜。それに、明るいし」
七深ちゃんがうっすらと笑う。
「そうだね。間違えたら、引き返せばいいんだし」
私の左手を、花音さんが引いてくれる。
瞬間、漣が引いた。
私の目の前には、スポットライトに照らされたフロアの観客達。
息を吸ったのか吐いたのか分からなくて、刹那、息を止める。
喉が渇いていた。最後のサビがやってくる前のギターソロ。慌てて水を口に含んだ。
日菜ちゃんが私を見た。
つぐみさんの少し崩したリフから、ギターソロへと繋がっていく。七深ちゃんが引いた土台の上で、日菜ちゃんが翼を広げる。
練習とは明らかに違う、素人目にも超絶技巧のフレーズを苦もなく弾きこなした日菜ちゃんは、アンプに片足を乗せた。
最後の一呼吸。しばらく声が出なくなっても良いくらいの全力で、マイクスタンドを掴んだ。
私の、私たちの、私たちだけの
幕が降りた。
震える右手でペットボトルを握って、私たちは廊下を歩いている。
「あのね、燈ちゃん。あたしだって、燈ちゃんが他のバンドに取られたら嫌だなー、とか、他の人のために歌詞を書いてるのにモヤモヤしたりはするんだよ」
「……そうなの?」
「そりゃそうでしょ。バンドに誘った日に言わなかったっけ? 燈ちゃんがあたしの知らない人たちとカラオケに行くだけで結構イヤだし……なんなら、なんであたしの歌はなかなか書いてくれないんだろうって思ってたよ」
「それは──ごめん」
「いやまあ、それに関してはあたしが悪いんだからなんとも言えないけどね」
万雷の喝采に見送られて、私たちはステージを辞した。入れ替わりでステージに立ったバンドの演奏が、そろそろ始まるだろう。控え室に戻って汗を拭いてから、余裕があったらフロアに戻るかもしれない。
醜い私の嫉妬心を、日菜ちゃんは咎めはしなかった。
「燈ちゃん、やっぱり頑固だよね。あたしがどれだけ燈ちゃんのことを評価してるのか、まだ納得してないでしょ」
「……だって、私は何も出来ないし」
「あたしの心に刺さる詩を書くのも、あたしの心を揺るがすうたを歌うのも、燈ちゃんにしかできない事だよ」
頑固だね、と言われて、私は思わずつぐみさんの方を見た。力強く頷いたつぐみさんと、苦笑いの花音さん。
「んー、仲直り、しよっか。別に喧嘩してたわけじゃないけど……。あたしはこれからバンドに向き合うスタンスを改めるつもりだし、燈ちゃんはいい加減自分のことを許して欲しいし」
差し出された小指を結んで、契る。
「私はこれからずっと、日菜ちゃんとバンドしたい」
「……あたしだけ?」
「ううん、みんな。だけど、日菜ちゃんがいちばん、どこかへ行ってしまいそうだから」
「どこにも行かないよ。言ったでしょ? ランニングライトはあたしの原体験なんだから。簡単に捨てたりしない」
エメラルドの瞳を見つめ返す。
バンドを組んだ日の、予感が再び思い出される。
日菜ちゃんの手を取った瞬間、もう戻れなくなるとわかっていた。
巣立った小鳥が巣には戻れないように、私は自分の足で歩いていく。日菜ちゃんの足跡を追いかけて、時にはその裾を掴んで。
明日を描いていてもキリがないけれど、描くなら過去よりも明日がいい。
私の心を空っぽに染め上げた日菜ちゃんの手を、再び握った。
燈ちゃんと出会ってから、ほぼ2年が経つことになる。
桜はまだ一部の品種が咲き始めたばかりという頃で、ソメイヨシノが満開になるまでにはあと二週間ほど掛かる見込みだ。
高校を卒業して、大学の合格通知を受け取ってあたしは、春の陽気に照らされながら歩き慣れた道を歩いていた。
──そろそろ出てくるみたい。
トークアプリの通知に返信を返して、校門を通り抜けた。いつもは守衛の人が見ていたりするのかもしれないけれど、保護者も多い今日ばかりは見とがめられもしない。
同時に送られてくる写真をスクロールしていると、ぽつぽつと玄関から見慣れた制服の生徒たちが出てくる。
その中から目当ての顔を見つけて、思わず笑ってしまった。
「ひな、ちゃん……?」
「卒業おめでとう、燈ちゃん。泣いてるってことは、良い学校生活を送れたってことかな」
こっそりやってきたのは、燈ちゃんの卒業式。あたしの方は既に卒業してしまったから、春休みにほっつき歩いている。
目を赤く腫らした燈ちゃんに、白のガーベラを手渡した。一輪だけだと味気ないかなと心配したけれど、意外と絵になるものだ。
「うん」
少し離れたところに燈ちゃんのお母さんの姿が見えた。写真を撮ろうと言われるだろう。燈ちゃんのクラスメイトらしい女の子たちも、先程からこちらを見ている。
あたしだけ抜け駆けしてここに来たことがバレたら、バンドの皆はズルいと怒るだろうか。
最初に燈ちゃんを見つけ出したあたしの特権だと許して欲しい。
ほとんど変わらない背丈の頭をわしゃわしゃと撫でて、崩れた髪を手ぐしで梳いてみる。サラサラのストレートヘアは、あたしみたいにはならない。
「……卒業式の最中、日菜ちゃんに会えてよかったって、何回も思った」
「2週間前のあたしも、全く同じこと思ってたよ。あー! 結局燈ちゃんと同じ学校に通えないのが悔しい! あと1年早く生まれてきてくれれば良かったのに!」
おどけてみせると、燈ちゃんは控えめに笑ってくれる。うん、そっちの方が可愛い。
「春休みも、高校生になってからも、いっぱいライブするんだからね」
「……うん!」