【完結】匂いで交わる恋もある   作:足洗

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五月雨・愛惜

 

 

 ケトルに水を注ぎながら、私は自己嫌悪に溜息を落とす。この行為すらどこか言い訳染みていて気色悪い。

 

「へ、変態か私は……」

 

 いやそれ以外のなんだと?

 後輩男子の衣類を、雨に濡れたから体が冷えては事だからなどと尤もらしい理由をこじつけて半ば無理矢理入浴させている隙に、その匂いを嗅いで、あまつさえ……。

 ──じゅん、と。また肉体のどこかが反応する。

 記憶の想起、匂いの反芻、私はただ、思い出しただけで。

 

「んなぁああああ!!」

 

 シンクの縁をばんばん叩く。

 その程度で退散してくれる煩悩ではなかった。

 

「なんで、こんな……私は……」

 

 自分自身を理解できない。

 自分がこんな特殊性癖を隠し持っていたなんて想像だにしていなかった。過去、そう長くもない人生を振り返ってみても自覚する限りにおいてその片鱗すら窺えないのに。

 あるいは彼の匂いが未だ見ぬ私の恥部を開花させてしまっ……再びシンクを打つ。

 

「表現」

 

 キッチンに項垂れて、途方に暮れる。

 家の中に一人。いつもの光景だ。慣れている。

 しかし今日はそこに異なる誰かの気配があった。耳を澄ませばシャワーの水音が微かに響いている。

 さっきまではそれをエロティック、などと感じていた。そしてやはり自分の頭は沸いている。

 けれど今は。

 ひどく安堵を覚えた。

 

「……」

 

 誰かがいてくれること。

 この、耳に痛いほどの静寂で満たされ、静止した家に、今は一人ではないということが。

 その事実が、堪らない。

 

「……彼の、匂いがする」

 

 流石にそれは紛れもない錯覚だったが、私は噛み締めるようにそう呟いた。

 冷えて寂れて匂いのしなくなった家。親も子も互いに無関心でいつしか放置されるようになった家庭という小世界の一隅で、私はまんまと引き入れた後輩男子の、彼の匂いに安らぎを見出した。

 あるいは、もうずっと前から。

 

「君のような人を……?」

 

 私は求めていたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 脱衣所に用意されていた男物のシャツとスラックスを恐縮しつつ身に着ける。

 リビングへ赴く。先輩はソファーに座ってぼんやりと壁の方を眺めていた。

 こちらに気付いた彼女は、どうしてか弱々しい笑みを浮かべた。

 

「悪いね。父の服だが我慢してくれ」

 

 なお一層の恐縮と居た堪れなさに俺は無様にその場であたふたとする。

 先輩は今度こそ可笑しそうに笑った。

 会話が一段落すると途端、静寂が空間に充満した。数秒後、思い出したように雨音が響き出す。

 耳に痛みを感じた。それはおそらく幻覚なのだろうが。

 本当に静かな家だった。

 先輩はいつもこの家に一人で。

 

「まあね。もう慣れたよ」

 

 笑みに滲んだものは自嘲だった。

 何故そんな。気後れか、含羞。そんなものを彼女が覚える必要がどこにある。

 淋しげな笑みに、胸がざわついた。それは怒りに似ていた。

 こういう時は────食べるに限る。

 

「え?」

 

 唐突な己の言に当然の戸惑いを映して先輩が声を漏らす。

 俺は努めて無神経に、まるで気付かぬ風で尋ねた。

 

 ────キッチンを借りられますか?

 

 

 

 

 縦に包丁を入れたクロワッサンにスモークサーモンとレタス、スライスして水に曝しておいた玉ねぎ、そしてクリームチーズを挟み、スプーンでバジルソースを掛ける。

 使われた形跡の少ない調味料や新品同様の調理器具に、また要らぬことを考えそうになった。

 そんな雑念をさっさと追い払い、トマトとキャベツのミネストローネを味見した。

 悪くはない、と思う。

 彼女の口に合えばいいが。

 

「……わ」

 

 扉を開けて現れた先輩は、ダイニングテーブルに並んだ料理を見て控えめな声を上げた。

 濡髪、上気し紅潮した頬、部屋着なのだろうパーカー姿とショートパンツ。風呂上りの美少女は有体に言ってあまりにも目に毒だった。幸い、健全な男子高校生なりにいちいち動揺する俺の様子に彼女は気付いていない。

 

「すごい」

 

 シンプルな賛辞に首を左右する。

 バイト先で見様見真似に覚えた軽食メニューだ。大したものではない。

 そんなものをこの人に振る舞うことに抵抗を覚えぬではなかったが、今ばかりはそうした遠慮を金繰り捨てるべきだとも思った。

 

「……食べてもいいかな。すごく、美味しそう」

 

 こちらからお願いしたいくらいです、と言うと先輩は吹き出して笑った。

 

「ふふっ、じゃあ心して頂かないとね」

 

 夕食というには早く、そして静かな時間。

 家の中の静謐は相変わらずだったが、今そこに苦痛はない。

 少なくとも俺はこの時間に安らぎのようなものを覚えていた。

 スープを匙で掬って行儀よく口に運ぶ彼女。失礼を承知でその顔色を覗う。味の好みや良し悪しはこの際諦めている。

 俺はただ彼女に、なにか。

 なにかをしてあげたかった。ただ無性にそれだけを望んでいた。

 

「…………あぁ」

 

 彼女は、静かに吐息したかと思うと────ほろほろとその両目から涙を零した。

 それは溢れ、テーブルに雫を落とした。いくつもいくつも。

 

「美味しいな……」

 

 なにを言うべきなのだろう。

 慰めも、冗句も浮かばない。俺は無上の阿呆で、無思慮で、不甲斐ない男だった。

 彼女の痛みが感じられるようだった。一人泣きじゃくる子供のような彼女の苦しみが、今ばかりは。

 だから苦し紛れに俺は舌を動かし、言葉を絞り出す。

 

 また

 何度でも

 貴女が望んでくれるなら

 

 一緒に飯を食いましょう

 

「……うん、楽しみにしてる」

 

 鼻を啜って、舌足らずに彼女は言った。

 そうして浮かぶ無邪気な笑顔が……俺はひどく愛しいと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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