ロキに魅入られて   作:ヤン・デ・レェ

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佯狂者…迷える羊の振りをする者。バカの振りをして神の真理を追究する者。

羊狂者…僕の造語に過ぎない。振りではなく、本物の弱者のことである。純粋無垢な人間のことである。真理など気にする暇もなく、苦悩しながらも、日々を必死に生きている者のことである。傲慢で恥知らずな強者に対して、恥を知る真の弱者のことである。


















01「羊狂者の誓い」

 

 

 

「彼は悪ではない」

 

「彼は正義ではない」

 

「彼こそは愛である」

 

「彼こそは憎悪である」

 

「彼こそは憤怒である」

 

「彼こそは恐怖である」

 

「彼こそは慟哭である」

 

「彼こそは絶望である」

 

「彼こそは希望である」

 

「彼こそは深淵である」

 

「彼こそは弱者である」

 

「彼こそは強者である」

 

「彼こそは神敵なり」

 

「彼こそは神々の伴侶足り得る唯一の者なり」

 

「彼こそは神々の恥そのものである」

 

「彼こそは子供たちの恥そのものである」

 

「彼こそは神が傲慢故に犯した罪の極限である」

 

「彼こそが最初にして最後の英雄である」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真実とは、常に脅威である。

 

これは三千年以上に亘り、決して変わらなかった愛憎の物語である。

 

そして同時に、一人の羊狂者であり、一人の弱者であり、一人の人間であった一人の矮小な男による神々の恩寵に対する抵抗の物語である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三千年以上昔の話だ。

 

下界に一人の男がいた。

 

男は神を信じていなかった。だが、神を愛していた。

 

人が生み出せし、癒しと救いの概念を。彼は愛していたのだ。

 

故に、彼は神に縋るを好しとしなかった。

 

彼は神の所為にはしたくなかったのだ。あらゆる事象を、運命、或いは神の『悪戯』と称することを唾棄していた。

 

彼は、神々に対しても、あくまでも誠実に、あくまでも敬虔であろうとした。

 

あくまでも理性的であり、あくまでも懐疑的に。

 

神と言う独立した存在を、真摯に見極めようとしていた。

 

そのために、彼は神に屈する訳にはいかなかった。

 

彼は神々を愛していた。誰よりも愛していた。誰よりも信じていた。

 

だからこそ、神々を信じることは決してなかった。

 

彼は学者でも王族でも兵士でもなかった。

 

何変哲のない人間であり、才能も、金も、暴力も、名声も持たなかった。彼は何も、何らの特別も有してなどいなかった。

 

彼は穏やかな人生を送り、いつの日にか、あるがままに、代わり映えのない日常の中で野垂れ死ぬことを願ってやまなかった。

 

何の意味がなくとも、何を遺せずとも、彼は信じていた。神を信じていたのだ。

 

神のせいにはしない。この苦しみを神のせいにはしない。これは試練などではない。

 

私は、選ぶのだと。私は自力で神の元へと向かうのだと。

 

選ばれた者であるが故に、神に会うのではないのだと。

 

彼は信じて已まなかった。

 

彼は、結局のところ、自分が大切に大切に抱えてきた神への愛を証明したかったのだ。

 

彼は、一途だった。

 

神を信じず、神を憎まず、神を恨まなかった。

 

この世界は神が作った訳ではないのだから。そう、彼は信じていたのだから。

 

神がいるから救われるのではない。

 

神がいないからこそ、我が身に降るありとあらゆる苦痛を、苦難を、理不尽を、不条理を、不義を、不幸を、その全てを受け止めることが出来るのだ。

 

神の不在こそが、彼の神だった。

 

彼の神は、こんな酷いことはしないのだと。そう、信じ続けた。頑なに信じ続けた。例え神がいたとしても、自分に酷いことをするように、この世界に酷いことをするように、そんな力はないのだと。そんなことはしないのだと。関係のない、素敵な場所にいるのだと。例え存在したとしても、神は自分のことを、人間のことも、この世界のことも視てなどいないのだと。

 

見下ろしてなどいないのだと。知る事もできず、神々の世界に行った時に、初めて会えるのだと。互いを知り合い、そうして初めて褒めて貰えるのだと。癒しと救いを与えてくれるものなのだと。だから、だから、今の自分の塗炭の苦しみも、何もかもの不条理も理不尽も不義も、不愉快で赦し難い行為が蔓延る世界も、全ては神とは無関係なのだと。

 

「神は悪くない。だから、僕は神を憎まない。何も、憎みたくなどない。嫌いになりたくなどない。なんだか、押し付けてるみたいじゃないか。悪いコトを何もしていないのに、恨むなんてそんなこと。僕にはとてもできなかった。嫌いになるのも、崇拝して褒め称えるのも違う気がした。だから、憎まない。信じない。ただ、愛する」

 

「そう。愛だ」

 

「いつの日か、あなたに逢う日が来た時、どうか褒めてください。僕は決してあなたのことを恨みませんでした。嫌いになりませんでした。ずっとずっと、独りで思い続けてきたのです。どこまでも独り善がりな想いで恐縮なのですが、どうか、嘘でもいいので褒めてくださいませんか。僕はまったくダメな人間でしたが、それでも、あなたに一つだけ誇れるようなことを、必死に守ってきたつもりです」

 

「八つ当たりなんかしませんでした。ちょっぴり、そういう気分にもなったかもしれないけれど。でも、それでも僕は、そんなことを理由にして誰かのことを食い物にするくらいならば、食い物にされてきました」

 

「僕は弱いことを罪だなどと、そんなことは考えては来ませんでした。何故ならば、私はあなたに会ったことなどなく。あなたが私にそんな風におっしゃられたこともないからです。僕の思い込みで、あなたの言葉や考えを捏造してはいけないと思いましたので、その通りに、自分が信じた通りに、自分が望んだとおりにしたのです」

 

「いつか、あなたに会った時、あなたに褒めて貰えれば…そう思って、こんなことを独りで思い続けてきたと言うのも、考えてみれば僕の自己満足に過ぎませんが、それでも、あなたのことを恨みたくなどなかった。あなたのことが愛おしかった。あなたに、僕が頑張るところは見せられないけれど、知ってもらうこともできないけれど。でも、だからこそ、僕は僕の、この愛を、一つだけの愛を信じ続けるのです」

 

「お前の独り善がりの想いはよくわかったと。実際に、どうだったかは見ていないけれども、知らないけれども、嘘を吐いているようにも見えないから、だから信じてあげようと、そう言ってもらえるように。頑張ったなと褒めて貰えるように。願わくば、愛して欲しい。撫でて欲しい。抱き締めて欲しい。そう、高望みに過ぎることも考えてしまうのです」

 

「嗚呼、僕は奴隷に生まれて、名前も、親の顔も知りません。僕にとって、神はいると言う人々の考えは違和感ばかりのものでした」

 

「だって、もしも神が本当にいたとして、僕を作ったのが神だったとして、今の苦しみが延々と死ぬまで続いていくとして」

 

「果たして、どこに救いがあると言うのですか?」

 

「僕の飢えは、孤独は、苦痛は、この思考は、何のために?」

 

「僕は、あなたにどれだけの愛を捧げたとも思ってはいませんが、もしも、そんなことがあり得てしまえば、神が僕のこの苦痛を見ていながら、どうこうできる立場に居ながら、時間も、何もかもを権能の内に納めていながら。それでも、救ってくれなかったのだとしたら…僕は何のために、こんなに苦しんで、考えて、必死に生きているんだろうか」

 

「何の為に?」

 

「神はいなくて。神は見ていなくて。神は教えてくれなくて。神はこのことを、僕のことを知らなくて」

 

「だから、神の所為にするのはおかしい。それは言いがかりも好い所だ。だから、そう信じてきた」

 

「死んでしまうことは、多分、簡単だ。けれど、そうした時に、あっちに行ったときに、あなたに怒られることが怖かった」

 

「せめて、あなたには愛されたいから。あなたには、少しでもマシな人間だと思われたい」

 

「才能もない。生まれも好くない。力持ちでもないんです。賢くも無くて、病弱で、背丈だって高くない。顔だって美しくない。性格だって、こんなのだ。すべて平凡だ。好くて平凡なんだ。聖人君子にも成れない。英雄にも成れない。そんな僕を、どうして、果たして誰が愛してくれるというのだろう」

 

「神様に無償の愛なんか求めない。神様にだって好き嫌いはあるかもしれない。だから、せめて嘘でも好いから、口先だけでも好いから一言、褒めて貰える程度には、一生懸命生きてきた」

 

「こんな僕でも、愛してくださいませんか。あなたくらいにしか、期待も、希望も抱けないのです。ですから、どうか、これだけは赦してください」

 

彼は祈り続けた。

 

彼は健気だった。

 

彼は必死だった。

 

彼は誠実だった。

 

彼は悲しかった。

 

彼は苦しかった。

 

彼は情けなかった。

 

彼は惨めだった。

 

彼は貧しかった。

 

それでも彼は、神を恃まなかった。

 

自分の生死を、人生を、他の誰かを、他の誰かの人生を、他の誰かの何もかもを、憎まないように、羨まないように。彼は考え続けた。考え続けて、信じ続けた。

 

全ては誰の責任でもないのだから、と。

 

自分に出来ることを貫くほかないのだと。

 

希望があると言う、つましい希望を抱いて。

 

終生襤褸を纏うことになろうとも。終生その足から枷が外されることがなかったとしても。

 

彼は頑なに信じたのだ。

 

信じる他に、なかったのだ。

 

誰を食い物にすることもなく。誰を傷つけることもなく。

 

善良に、人畜無害に時を積み上げ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、あの日が訪れた。

 

ダンジョンからモンスターが地上に溢れ、世界存亡の危機が迫り、人々は否応なく、生と死の瀬戸際に立たされたのだ。

 

立場の弱い者たちから、死んでいった。

 

弱者は真っ先にその命を奪われていった。あらゆる手段で、ありとあらゆる者たちの手によって。

 

選ばれて、殺されたのだ。

 

篩にかけられて殺されたのだ。

 

人類と言う、国家と言う、正義と言う、強くて大きな何か、目に見えない、手で触れられない何かの為に。

 

弱者は真っ先に骸を晒したが、その骸ですら、モンスターの胃袋に納められた。

 

彼もまた、その場にいたのだ。

 

そして、彼はあろうことか、素手でモンスターを斃す力を持っていたのだ。

 

そして、彼はあろうことか、爾今より人類の英雄として、モンスターとの戦争の最前線に立たされることとなった。

 

そして、彼はあろうことか、神々を下界へと降臨させるための、偉大なる儀式の代償を払うことを迫られた。

 

そして、彼はあろうことか、神々を下界へと招き、人類にモンスターを打ち斃すための力…神の恩恵(ファルナ)を齎すべく、戦うことを宿命づけられたのだ。

 

そして、彼はあろうことか、己の命と引き換えに大悪である黒竜を斃すことを、人類からの要請として、命じられたのだ。

 

人々は、これを『運命』だと言った。

 

それは、実に後世に伝わる史実よりも、二千年近く昔の出来事であった。

 

彼は苦悩した。そして、この選択を拒もうと考えていた。

 

彼は、神々を地上に降ろすことなど、黒竜と戦うことなど、弱者であった自身が英雄に祭り上げられることなど…そんなことは全て望んでいなかった。

 

不本意だった。

 

ただ、これは何かの間違いだと。

 

脆弱なままの肉体に目覚めた恐ろしい力に恐怖していた。

 

肉の盾として、またモンスターへの餌として放り投げられた谷底で、半死半生の状態で我武者羅にもがいた。生き残るために試みた抵抗が、結果的にモンスターを殺し、彼の命を救ったのだ。

 

それだけだったのに。

 

あの日、あの谷底で死んだ弱者たち。同胞たち。同じ、弱い存在。

 

谷底から這い上がり、生還した彼をビロードのマントが包んだ。

 

名前を与えられ、彼は英雄になった。

 

生まれて初めて靴を履いた。

 

生まれて初めて清潔な服を着た。

 

生まれて初めて温かい寝床で眠った。

 

生まれて初めて満腹になるまで食事をした。

 

生まれて初めて殴られず、貶されずに一日を終えた。

 

生まれて初めて褒められた。

 

そして翌朝、彼は英雄になった。

 

彼は戦いたくないと言ったが、誰も耳を貸さなかった。

 

司祭は言った。王は言った。官吏は言った。人々は言った。叫んだ。叫んだ。

 

「彼らの死を無駄にするな」と。

 

人々は言った。群衆は熱狂し、絶叫を上げた。

 

彼も叫んだ。

 

「嫌だ。戦いたくない。怖い」

 

だが、誰も彼の声を聴かなかった。誰も、彼の言葉に耳を貸さなかった。

 

彼は剣を与えられた。鎧を着せられた。マントを羽織らされた。そして、戦場へと送り込まれた。

 

彼は死んでも好かった。もう、死んでしまいたかった。

 

でも、無駄にするなと彼らは言う。

 

彼には、無駄とは何なのか、理解できなかった。誰にとっての無駄なのか。

 

少なくとも、彼にとっては、無駄なのか、どうかの判断などつかなかった。

 

痛くて。苦しくて。悲しくて。怖くて。辛くて。

 

剣を持ってしまったからには、もはや、彼は戦えてしまった。

 

剣を振るえば、いとも容易く敵が死んだ。

 

吸い込まれていくように、敵は、悪は、モンスターは骸を晒したのだ!

 

まるで喜劇だ!!!!

 

努力など必要なかった。そんな暇はそもそもなく。彼はまるで生まれながらに強者だったように、武器を振るった。

 

ベヒーモス、リヴァイアサン、龍と竜と黒竜と…とにかくなんでも殺しまくった。なんでもだ!

 

言われるがままに、狂ったように殺しまくったのだ。

 

何時しかかすり傷一つ負うことも無くなった。

 

それは正しく作業であり、彼は戦うことが出来てしまった。

 

「なぜ?どうして?なんで?」

 

「お願い、誰か助けてください。どうか、どうか」

 

「モンスターよ!頼むから他所へ行ってくれ!僕は君たちに恨みなんぞこれっぽっちも無いんだ!あの日、君たちは僕を喰い殺そうとはしたが、そもそも僕を君たちの前に差し出したのは人間たちだった!でも、その人間たちのことだって、僕はこれっぽっちも憎んじゃいないんだ!だからお願いだ!あっちに行ってくれ!僕の目の届かない所まで!遠くへ行ってくれ!」

 

彼は叫んだ。泣き叫びながら戦場を駆け抜けた。

 

街に帰りたくなかったが、迎えが来てしまえば、彼らに手を上げることなど出来なかった。

 

彼は、堪えた。耐えた。耐えて耐えて、耐え続けた。

 

彼は何度も何度も念じた。

 

「神様。みんな酷いのです。みんな、僕に意地悪をするのです。誰も、僕の言葉を聞いてくれないのです。誰も、僕が泣いても、喚いても、許してくれないのです」

 

「神様、逃げたいです。でも、逃げられないのです。逃げ方が、わかりません。誰にも教えて貰ったことが無くて。逃げようと思ったことは何度もあるけれど、でも、逃げてしまえばあなたに会った時に、意気地なしだと嫌われるかもしれないと思って…」

 

「だから、逃げ方を教えてください。あぁ、でも、やっぱり教えないでください。逃げられなかった時に、あなたの所為にしたくない」

 

「愛しております。神様」

 

彼は、変わらなかった。

 

決して、変わらなかった。

 

何も求めなかった。

 

朝起きて、食事をして、戦場に行き、モンスターを殺して、水浴びをして、食事をして、夜眠り、朝起きて、食事をして、戦場に行き、モンスターを殺して、水浴びをして、食事をして、夜眠り、朝起きて、食事をして、戦場に行き、モンスターを殺して、水浴びをして、食事をして、夜眠り…。

 

彼は繰り返した。

 

何回も。何十回も。何百回も。何千回も。何万回も。

 

そして、人の身で戦い続けて百年目のある日、遂に彼の前に黒竜が現れた。

 

「嗚呼!長かった!やっと終わる!終わるんだ!神様!神様!長かったよおおおおお!」

 

彼は叫んだ。泣き叫び、何度も何度も黒竜にお礼を言った。

 

「ありがとう!ありがとう!君のお陰で僕はようやく神様のもとに行ける!君を殺せば…嗚呼、なんてことだ、君を殺さなければならないなんて…今までだってそうだった、数えきれないほどのモンスターを殺してしまった。生き残るためだと彼らは言うが、僕にはどちらも憎むべき相手ではなかったよ。そう信じて生きてきたんだ」

 

「…だから、申し訳ない。罪悪感に堪えられそうもない。だから、君を殺して僕も死ぬ。これだけ、命を奪ってきたんだ。僕だって、そろそろ、自分の命を粗末に扱うだけの覚悟は積んだだろう…」

 

彼の脳裏を過ったのは、これまでの苦難の人生だった。

 

彼は、終生結婚しなかった。

 

孤独に戦い続けた。そして、遂に、終局に辿り着いたのだ。

 

彼は笑いながら、泣きながら黒竜のもとに走った。

 

「ごめんなさい!ごめんなさい!赦してください!やっぱり赦さないでくれ!憎んでくれてもいいんだ!どうか恨んでくれ!だから、すまない!すまない!」

 

彼はそう叫びながら、天高く跳躍するや、一太刀で宙を舞う巨大な黒竜を三枚に下ろして殺してしまった。

 

一瞬で片が付き、ついで、大歓声と共に人類は勝利を叫んだ。

 

華も、何もなかった。味気のない勝利と同時に、天から眩い光が注いだ。

 

光はまっすぐに、今にも死のうとしている男の元に降り注いだ。

 

「さようなら」

 

彼はそう言って、喉を一突きして、そのまま自刎して果てた。穏やかな死に顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あで?あ、あえ?なんで?なんで死んでないの?な、なんで!どうして!」

 

彼は、剣を振り落とした。

 

彼は、死んでいなかった。

 

確かに、彼の死は数多の群衆が目撃していたというのに。

 

「なんでだよ!し、死ぬんだ!僕は死ぬんだよ!今すぐに!」

 

彼はそう叫びながら、谷底に身を投げた。だが、死なない。

 

「うわああああああ!なんで!?なんでええええ!?」

 

彼は重石を抱いて海に沈んだ。だが、死ねない。

 

「……死ぬんだ。死にたいんだよ。もう…」

 

彼は油を被って火の中に身を躍らせた。だが、死ねない。

 

彼は、死ねなかった。どれだけ、何をしても死ねなかった。

 

そうこうしているうちに、神々が地上に降臨した。

 

万雷の拍手と共に。

 

満面の笑みと共に。

 

彼らは、神々は、彼の目の前に降臨して快哉を叫んだのだ。

 

「素晴らしい英雄譚だった!!!」「君こそが最高にして最強の英雄だ!!!」「これほどに興奮した王道喜劇は未だかつて観たことが無かったよ!!!」「君は正に英雄だ!唯一無二の英雄だ!!!」

 

彼らは口々に叫んだ。華やかな衣装に身を包み、享楽的に、嬉しそうに、楽しそうに、誇らしげに。

 

「最高の喜劇をありがとう!!!」

 

「おめでとう!!!」

 

「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」「おめでとう!!!」

 

 

そして、その時()()がぼそりと言った。一通りの称賛の後に訪れた静寂の中で、彼の耳にのみ届いた声だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやぁ~しかし、ホンマに、ええ退屈しのぎやったなぁ…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、ひ、ひぅ、ぐぅ、うッ…うあ、ぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

「グァ”あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

半神の神敵が誕生した瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

神々は、彼が成し遂げた褒美として『不老不死』を与えた。満場一致での採決だった。それは正しく天界の総意だった。総ての神々の総意だったのだ。

 

年老いていた姿は瞬く間に若返り、彼は以来、三千年以上前から生き続ける唯一の人間として、最も神に近い人間として崇敬されることとなった。

 

生ける伝説。不老不死の大英雄。人類の救済者。黒竜種を絶滅させた絶対者。最初にして最後の英雄。人類の最終到達点。

 

…二つ名は、渾名は、敬称は、称号は数あれど、彼は、彼が生涯で望んだ、唯一の希望すらも叶えることが出来なかった。

 

赦されなかったのだろうか。許されなかったのだろうか。

 

彼は絶望した。だが、死ぬことなどできない。どうやっても、どう頑張っても死ねなかった。

 

彼は絶望して泣き崩れた。

 

だが、彼は、それでも変わらなかったのだ…それでも、彼はこの時、まだ神を憎悪していなかった。

 

「貴方は、私の神ではない」

 

「僕は、貴方の人間ではない」

 

「だから、僕は貴方を恨まない」

 

彼はそう言って、その場を立ち去った。

 

神々は信じられなかった。必ず喜んでもらえると、ある神から事前に聞かされていたのだ。目を丸くして驚いていた。口々に、彼の態度に文句を言ったり、或いは称賛したりした。

 

神々は、彼のことを知っていた。彼のことを、その隅々まで。

 

何故ならば、彼が苦難の末に、大英雄として燦然と輝くことを、誰よりも神々が望んでいたからだ。

 

神々が、彼の人生を、今日この日までの人生を運命づけたのだから。

 

彼が神々に向けて捧げ続けてきた信仰は、愛は、その一途過ぎる愛は、最初から神々に届いていたのだ。

 

純粋で、温もりに満ちた、一途な、余りにも澄み切った愛情だった。

 

神々が、互いに向けるものですらなかったものだ。

 

だから、神々もまた、気が付けば彼のことを愛していた。同じ神々には向けない愛情で。ほとんどの神々は、下界の子供の中の一人として、彼のことを愛していた。

 

だから、貪欲な戯神ロキの提案にも喜んで乗ったのだ。

 

「可愛い可愛い人の子に、健気で一途な人の子に報いるんも、神の甲斐性やと思わんかぁ?」

 

ニンマリと微笑むロキに、神々は、珍しく賛同した。

 

悪戯の神様に、神々は喜んで力を貸した。

 

それもこれも、あの健気で一途な人の子の為だ。

 

神々の中で、ロキに力を貸さなかった神々もいたが、実に片手で数えられる程しかいなかった。

 

皆みんな、下界に住まう、自分が造った、人の子として、彼を愛していた。だから、他の人の子と同じように、他の人の子が喜ぶものを、片っ端から詰め込んだ。

 

素敵な人生が送れるようにと。愛してくれたことに、ちゃんと報いることが出来るようにと。

 

悠久の神々の人生の中でも、実に愉しい暇つぶしだったと彼らは後に振り返った。

 

全力で、力を合わせて、彼を主人公にした英雄譚を描いた。詩人として腕に自信がある神が物語を書き綴り、鍛冶の神々が力を合わせて武器と防具を作り、こっそり彼が使えるようにと人間に下げ渡した。そして、戦争と勝利の神々が彼の肉体を、眠っている間に造り直し、決して壊れないようにした。女神たちはこの愛しい我が子を抱いて、()()()すっかり不死の泉に浸した。それから、足の速い神々や、声の大きい神々、体の大きい神々が、各々の眷属に命じて、全ての動植物、命の宿りし全ての物に、彼を傷つけないことを約束させた。これで、彼は傷つく事すら出来なくなった。

 

彼を傷つけない、という誓いにだけは、全ての神が同意し、全ての神の名のもとに、その全ての眷属、植物も金属も、何もかもがこれに同意し、彼を決して傷つけないことを誓った。

 

最終的に全てを取り仕切ったのはロキであった。これに対して、フレイヤとヘスティアはしばしば、苦言を呈した。だが、ロキは圧倒的多数の神から、今回の楽しい行事を最初に提案した神として、いつも通りの智謀を称賛されていたし、彼女自身も言い出しっぺの責任だとしてこの立場を譲らなかった。

 

そして、全てを一枚の巨大なレリーフと、巨大な巻物として創り上げた神々は、満を持して物語を下界へと反映させたのだ。

 

モンスターの地上での氾濫を機に、英雄の誕生の物語の幕を上げたのである。

 

だが…下界と地上での時間には差があった。本来ならばあり得ないことだったが、唯一、時間の神だけに招待状を届けるのが送れてしまったことを、ロキは後日釈明した。

 

ほんのわずかな時差により、彼の苦悩の人生は、半ばから暴力的な運命の強制力に晒された。

 

大英雄として戦い、勝利した。

 

だが、救い足り得た『死』すらも取り上げられた彼は、成し遂げたことに反比例するように、何もしないことを選んだ。

 

彼は元の通りに、誰のことも傷つけずに、弱者として生きることを望んだ。今は死ぬことが出来なくとも、いつの日にか…そんな淡い希望を抱いたまま、彼は奴隷としての生を再開したのだ。

 

だが、その選択を、神々は許容できなかった。

 

我々の愛し子に何たる仕打ちか、と。神々は怒り狂った。

 

結果、彼は英雄として国家に組み込まれることになった。奴隷にも落ちることは出来なかった。望んでも、である。

 

やはり、彼の望みは叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は英雄として、それから千年余りを生きた。そして、ある日、国を追放された。

 

理由は余りにも単純だった。不老不死の英雄の存在は、国家にとって不都合だったのである。

 

圧倒的すぎる暴力。権威。殺すこともできない生ける伝説の存在は、余りにも荷が勝ちすぎたのだ。

 

凡人と才人の入り混じる蓄積に裏打ちされた歴史を、連綿と紡いできた王家という権威が霞んでしまうのだ。

 

だから、丁重にお引き取り願ったのだ。

 

「貴方様のお役目は終わりです」と。

 

「救いを求める人々の元へと向かわれてください」と。

 

要するに用済みだから出て行けということだった。

 

彼は頷いた。

 

半神は千年の間、国家の奴隷として奉仕したが、金も、名誉も、女も、何も求めずに故国を去った。

 

そして、無為に生き続けた。

 

目的だったはずの、ゴールを奪われてしまったのだ。

 

彼は、それでも、神々を恨んでいなかった。

 

だが、何もする気など起きようはずもなかった。

 

彼は物を食わなくても死ななかった。だから、何も喰わなかった。

 

木ですら水を飲む。だが、彼は水も、何も口にしなかった。

 

そして、更に月日が流れ…気が付けば、聞き慣れた噂話が流れるようになっていた。

 

なんでも、英雄アルバートなる存在が、彼の故国では英雄として語られているらしい。彼の名はアルバートではない。

 

黒竜の片目を奪ったとかなんとか…それでも倒せなかったとかなんとか…。そもそも、絶滅させてしまったと思っていた黒竜が死滅していなかったことに彼は細やかな安堵さえ感じていた。

 

大英雄アルバートの物語。

 

それは事実だった。精霊と一緒に云々。兎に角、英雄が現れてもてはやされているらしい。大々的に報道され、脚色されて。

 

人々の要請によって英雄は生まれる。恐らく、彼よりもマトモな英雄なのだろう。

 

彼は興味なさげに聞き流した。

 

黒竜自体は、彼にとって何百匹殺したのかも記憶にない存在だった。一際大きい黒竜を斃したら神々が現れただけで、何度となく殺しては終わりを迎えることが出来ずに落胆した相手だ。落胆した自分にも落胆していたのが懐かしかった。

 

いつの間にか、大英雄はアルバートのことを差すようになった。

 

それもそうだろう。誰も、千年前から生きている人間を覚えているわけがない。故国からは煙たがられていた。彼には、何もかもが無味乾燥だった。

 

不死身になり、全ての感覚が失われていた。

 

孤独感だけが強くなった。

 

彼は、何もしないままにさらに数百年を荒野で寝そべったまま過ごした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼は世界の変化、国家や文明の興亡にも無関心のまま、心の傷を抱えて眠り続けた。

 

彼の人生に転機が訪れたのは、ある女性との出会いだった。

 

緋色の髪を持つ、糸目の女性だった。変な訛りの言葉をしゃべり、快活で明るい女性だった。

 

「おった!おったで~!いやぁ~ホンマに長かったわぁ~!よーやくめっけたで!」

 

荒野で寝そべったまま微動だにせずに百年。彼に初めて声を掛けた人間だった。

 

「なぁなぁ、自分はこないなとこで、ボーっと…一体なにしとるんや?」

 

彼女はそう言って、ペタペタと彼の体を触った。

 

「………ぇ?」

 

「んぁ?どないしたん?んなポカンとして」

 

「あ、あぅ…あた、あたたかい…」

 

数百年ぶりに声を出した所為で、ほとんど音にも成らなかった。だが、彼女の耳には確かに届いた。

 

「そりゃぁ、そうやろ!当たり前や!ウチは生きとるんやで!」

 

「はは…ははは…あははは!」

 

温かかった。

 

それからだ、彼は数百年ぶりに身を起こした。

 

そして、彼女と語らった。とりとめのない話ばかりだったが…今まで、聞かれたことは英雄譚ばかりで、そもそも誰かに自分のことを聴いてもらった例がなかった。

 

以来、彼は彼女とよく話すようになった。

 

彼女は毎日毎日、彼のもとを訪れては、一日中彼の隣に居た。

 

彼が、彼女に好意を抱くのも時間の問題だった。好意に疎いということもあった。寂しかったと言うのもあった。

 

理由は温かくて、自分の話を聞いてくれるからだった。正直に彼女に打ち明ければ、彼女もそれで好いと言ってくれた。

 

間もなく、彼は彼女が暮らしていると言う街に行くことに同意した。理由は色々あったが、彼は誘いを断る気力すらなかったことも一因だろう。そして、街にある彼女の家で暮らし始めたのだ。

 

街での暮らしは穏やかで、何変哲の無い物だった。

 

彼女は彼に何も強いることなく、ただ、時折愛を求めた。

 

彼は、生まれて初めて、自分の中の神以外を愛した。愛を囁いた。

 

それは正しく告白だった。

 

彼女は喜んで彼の愛を受け止めた。

 

念願叶えたり。そんな、歓喜の瞬間だった。

 

彼は、生まれて初めて満足だった。

 

飢える心配もなく。怯える心配もなく。義務を強いられる心配もなかった。

 

温もりは依然として彼女からしか得られなかったが、それでも彼は満足だった。

 

間もなく、彼と彼女は結ばれた。

 

結ばれてから、彼はより強く、より情熱的に彼女に愛を注ぐようになった。

 

そして幾度となく契りを交わした当然の帰結として、子供を授かったのだ。

 

それは、愛の結晶だった。

 

彼は、生まれて初めて神ではなくて、何か特別なものを子供から感じた。

 

生まれてさえもいない子供に向けて、彼は惜しみのない愛情を注いでいた。

 

彼は毎日が幸せだった。いつの日か、子供を腕に抱く日が来るのだと、彼は疑っていなかったのだ。

 

彼は、幸せだったのだ。

 

だが、幸せはそう長くは続かなかった。

 

ある日、彼女が不在の時のこと、彼女と彼の愛の巣に、見知らぬ女性が訪れた。美しいばかりの女神そのもののような女だった。陶磁器のような肌を剥き出しにした、煽情的な姿の女だった。銀色にも青い灰色にも見える、長い髪をしていた。

 

女はしばらく彼と見つめ合ったが、玄関先で怪しまれるからと、彼が女を家に招く段になり、視線を恥じらうように外した。

 

そして、突然耳に痛いほどの大音声で泣き出すと、女は血を吐く様に言った。

 

「貴方と彼女の『愛』は偽りである。故に、貴方と彼女の子供が生まれることは、二人が愛し合う限り許されない」

 

「子供の命が惜しければ、貴方は彼女から離れて、自分と彼女との間に子供がいた記憶も、何もかもを忘れなければならない」

 

「許せない。どうしても許せないの」

 

「だから、ごめんなさい」

 

「私は貴方を明日の日が昇るまで待ちます。貴方は子供の父親であることを忘れることを誓わなくてはならない。忘れさせてあげる。だから…私は黄金に実った麦畑で待ちます。待っていますから」

 

「どうか、私に貴方の子供の命を奪わせないでちょうだい」

 

それだけ言うと、女は煙のように消えてしまった。

 

彼は女の言葉を信じられなかったが、何が起こっているのか、言いようもなく不安になった。そして、彼女が帰ってくるなり、このことを打ち明けた。

 

彼女は狼狽すると、どんな姿の女だったのかと彼に訊ねた。

 

彼は見た通りに伝えた。そして、彼女は全く大きくなっているようには見えないお腹を抱えたままに、蹲った。

 

泣きだした彼女は、彼に打ち明けた。

 

曰く、彼女のこれまで話してきたことは全て嘘であると、自分は神であると。

 

「ウチの本当の名前は…ロキ。今まで嘘吐いとったことは、ホンマに堪忍やで…ごめん。悪かった…ずっと、騙しとった…でも、ウチだって、好きで嘘を吐いとったわけじゃなくて…でも、その、アンタのことを、愛してるから…だから!…嘘、吐いとったんよ……ごめんやで…」

 

彼は震えていた。だが、震えながらも優しい声で彼女に訊ねた。

 

「どうして、今更になって、そんなことを言い出したんだい?僕は、君が誰でも構わないのに」

 

彼がそう言うと、ロキは顔を明るくした。そして、言った。

 

「ほ、ホンマか!ホンマかいな!流石はウチの旦那様やな~…じゃ、じゃあ、その、お願いがあんねんけど…」

 

彼は頷き、ロキは笑顔で言った。

 

「あの女のとこに行くんは、ナシっちゅうことに、してくれんか?」

 

「……え?」

 

「あ、いや~…な?この子のことは、ホンマに気の毒っちゅうかな、うん。運が悪かってん。んでなぁ、今、ウチらは真実の愛に目覚めたっちゅうワケや。となれば…次の子供はフレイヤの網にも引っ掛からんっちゅうこっちゃで。ほならな、ほら!問題あらへんやろ?子供はまた仕込めばええやんな?ウチとアンタが離れ離れになる必要は、ないっちゅうこっちゃ!いやぁ~助かったで~…この子も気の毒になぁ…ホンマ、堪忍やで」

 

「………そ、そんな、でも、え、あの…はははは…あははは…ロキ、冗談はやめてよ。この子は初めて、僕のところに来てくれたんだよ?僕たちにとって、特別な存在じゃないの?そんな、運が悪かったなんて…そんな、まるで…」

 

ロキは笑顔のままだった。目を細めて、吐き捨てるように言った。

 

「…それは、ええことを聞いたわ。こんガキ、ウチの旦那様を横取りしようっちゅう魂胆やったんか…それは、ちょいとアカンかったなぁ。いや~…お陰で清々したわ!ウチの腹の中におったんは堪忍したるわ。でもなぁ…ウチの旦那様は譲れんわ。フレイヤには借り一つやな」

 

「…ロキ、なんで、そんなこと、言うの?」

 

「なんでって…そら、この子はアンタじゃないからなぁ…」

 

「はははははははははは!!!」

 

「あははは、そ、そんなにおもろいこと言うたかな?」

 

「あっはははははははははははっはっははっはっはははっはーーーーー!!!」

 

彼は家を飛び出した。

 

「待ってーな!待って!待ってよ!待ってよ!なんで!?なんでだよ!?」

 

「行かないで!お願い、行かないで!ウチを!ウチのことを愛してるて、言うたやないか!!言ってくれたやないか!どして、どうして!!!」

 

彼は泣いていた。泣き続けていた。

 

彼は振り返ることが無かった。

 

皮肉なことに、神々が与えた力は、彼に神でさえ追いつけない程の健脚を与えた。

 

彼は泣きながら走り続けた。

 

気が付けば、黄金の実りに満ちた麦畑の只中で立ち尽くしていた。

 

「来てくれたのね」

 

フードを被った女神のような女が、彼の方を見て、微笑んでいた。悲し気な微笑みだった。

 

「忘れさせてくれ。忘れれば、あの子は助かるんだよね?」

 

彼は早口でそう言った。女は、口元を引き締めて頷いた。

 

「ええ。私は、貴方にだけはどんなに小さな嘘も吐かない」

 

「誓え。俺の神に誓え!!!!!」

 

彼は声を張った。天地を揺るがすような大音声だった。

 

女は反射的に言った。

 

「オーディンに誓うわ」

 

だが、彼は首を振った。

 

「違う!!!!!俺の、神にだ!!!!」

 

彼の威に、女の喉が鳴った。耳元で聞かせられるような音だった。妖艶で、欲情を煽る様な代物だったが、生憎と、彼には一匙ほどの意味もなさなかった。

 

「…あなたに誓う。あなたに、誓うわ」

 

女は、瞳に涙を貯めながら、頬を真っ赤に紅潮させて、恍惚とした表情で、自分に言い聞かせるように言い切った。

 

「………わかった。ごめんよ。大きい声を出して。乱暴な言葉を使ってしまって…」

 

「ふふふ…ええ、ええ…わかっているの。ごめんなさい」

 

彼の謝罪に女は微笑んで言った。そして、彼女は彼に一歩一歩近づいて行った。

 

「…さ、時間がない。お願いだ。忘れさせてくれ」

 

彼は素っ気なくそう言い、腕を広げた。好きにしろと言う意味だ。

 

だから、彼女は好きにした。罪悪感を覚えるほどに。

 

「…愛しているわ。何よりも。誰よりも」

 

彼女はそう言い、彼に口付けた。

 

本来、こんなことはせずとも好かった。だが、彼女にはそうすること以外、考えられなかったのだ。

 

数億年だ。数億年もの長きに亘り、この瞬間を想い続けてきた。

 

この唇に触れるために。

 

彼が生まれてからの千年はあまりにも長く、下界に降り立ち、一度見て以来、更に千年待った。

 

その末の今だったのだ。

 

だから、彼女は後悔しなかった。

 

記憶を司る神に、予め頼んだとおりに記憶を消させ、それから彼を遠くへと運んだ。目覚める時には、彼は自分の子供のことを覚えていない。

 

記憶に残るのは、忌々しいロキと、自分だけ。

 

「私も、ロキと同じということね…」

 

女はそう、呟いた。そして、煙のように消えてしまった。

 

彼が意識を取り戻した時、周囲は真っ暗だった。

 

光のない荒野。一人見上げれば、暗闇の中で、眩しいまでに美しい夜空が広がっていた。

 

「綺麗だ」と彼が言った。

 

ダイアモンドのように、女が流した涙が星の瞬く夜空に散った。

 

流星が幾筋も、途切れることなく輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロキと離れ離れになっても、ロキの記憶は残ったままだった。

 

男の心はロキのものだった。初めての女性だった。

 

あの、名も知らぬ美しい女性のことも覚えていたが、顔と声以外は何も覚えていなかった。

 

男はその日から、世界中を歩き回った。

 

彼はロキを求めていたのだ。死ぬことが出来ないなら、せめてもう一度愛する人に逢いたかった。

 

彼女は神だと言っていた。ならば、きっともう一度逢えるはずだ。

 

定命の枷がないことが、これほどまでに有難く感じたこともなかった。

 

彼は彼女を探して旅を続けた。

 

旅を続けて、そして…知ったのだ。

 

この世界は、神々が現れてからも、何一つ変わっていなかったことを。

 

現実と言う便利な言葉が、彼には余りにも後ろめたかった。

 

だが、そうとしか言えなかったのだ。

 

これが、現実だとでもいうのか。

 

二千年近く経っていた。神々の降臨後、彼は心のどこかで押し殺してきた、希望と言うものが絶望に変わっていくことを感じた。

 

神々が降臨してからも、人間は戦争を続けた。奴隷はいなくならず、奴隷の代わりに貧乏人が奴隷同然で酷使されていた。

 

貧富の格差はより明確化し、富はより大きな富に集約され、貧民街が彼方此方で建てられた。孤児の数は増える一方であり、孤児院は常に超満員だ。

 

飽食と飢餓が併存し、明日の食事にも困る人々がいる一方で、惜しげもなく残飯を投げ捨てる人々がいる。

 

戦争はより残酷に、より苛酷になった。

 

暴力。権力。財力。知力。過去とは比べ物にならない巨大な力が蠢いた。より巨大な規模で、より組織的に。

 

神々は、その全てを笑って見守るのみ。愛おし気に。子供のお遊びだと。

 

訊ねられれば答える。子供たちを愛しているんだ。愛しているから、こういうことをするのだと。

 

すべての源泉は、神の恩恵(ファルナ)だった。

 

「そうだ、()が齎したものだ」

 

「俺の所為だった」

 

「モンスターに蹂躙され、人類が滅びていれば、この二千年間に虐げられ、苦痛に喘ぎ、癒しと救いを求めてきた総ての人々は、そもそもそんな苦痛に満ちた人生を送らずに済んだのではないか」

 

「彼らの苦痛は、果たしてどこへ行く?過去か?未来か?一体全体誰が贖うというのだ?」

 

「俺は、別のモンスター(神々)に未来と希望を差し出しただけだった。元居たモンスター(人間)の手に、再び委ねただけだった。自分の未来と希望を。弱者の未来と希望を」

 

「未来とは、希望とは、果たして…誰の為のものだったんだろう」

 

「無駄にするな」と彼らは言ってたっけ。

 

「誰のために?誰の為だったんだ?」

 

「彼らの為、だったんじゃないのか?死んだ、あの、無残にも殺された、喰い殺され、引き裂かれ、溶かされ、踏み潰された彼らの為じゃなかったのか?彼らが!彼らのような誰かが、もう二度と、あんな目には合わなくて済むように、その為に、俺に殺させたんじゃないのか?俺を扱き使ったんじゃないのか?」

 

「今を視ろ!!!!俺を、視ろ!!!この、一人の弱者を視ろ!!!」

 

「お前たちは、この二千年間、一体全体何をやってきたんだ?」

 

「お、俺は、一体全体、何をやってきたんだ?」

 

「俺の所為で、こんな…ご、ごめんよ!ごめんよ!僕のせいで、こんなことに!!!」

 

「あんまりじゃないか!僕も、君たちも、あの日死んだ君たち!僕と一緒に手足を縛られて、谷底に投げ込まれて死んだ君たち!なんてことだ!!!!!!!!!!!」

 

「モンスターの腹を満たすために、投げ込まれた僕たちは、結局僕しか生き残らなかった。なんで、生き残ってしまったんだろう…」

 

「挙句…死ぬ自由すら、最期の、せめてもの希望すらも奪うだなんて!!!!!!」

 

「弱者のまま、死なせてくれれば…どれだけ幸せだっただろうッ!」

 

「僕は僕が憎い!!!俺は、俺のことがこの上なく憎い!!愚かな自分が憎い!!この期に及んで、神を憎めない自分が憎い!!!憎い!憎いよ!憎いんだよおおおおおおおおおおおおお!!!クソがああああああああああああああ!!!」

 

「こん畜生めええええええええええ!!!!俺は、なんだ、なんなんだよ!」

 

「俺は、一体何だってんだ?」

 

「人工物ですらない。虚構」

 

「俺は結局、神々の玩具でしかなかった」

 

「俺は恥ずかしい。貴様ら神の姿を、内も外も、象られた人間として生まれたことが恥ずかしい。恥ずかしくてたまらない。人間気取りと神気取り。この恥知らず共の一員として、生き続けなければならないことが恥ずかしくて堪らない」

 

「お前らの玩具として生きるくらいなら、俺はお前らを後悔させてやる。お前らに、地獄を見せてやる。二度と下界に降りてくることも、人間を気取ることも出来ないようにしてやる」

 

「人手なしの恥知らず共が」

 

彼は、生まれて初めて、明確な意志を以て自分以外の何者かに憎悪を向けた。

 

それは、人類史上に類を見ない程の莫大なる、強者への憎悪であった。超越的存在への憎悪であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの日以来、彼は神敵となった。神の営為に真っ向から反抗したのだ。弱者を救うべく、他ならぬ自分を救うべく、彼は神々に要求した。

 

何も変えられずとも、これ以上は好き勝手にされた挙句、悪くはならないように。

 

「俺から奪った死を返してもらおう。死を返還されない限り、俺は神敵として下界に在り続ける」

 

「ありとあらゆる英雄を抹殺する。ありとあらゆる強者を抹殺する」

 

「貴様らが俺にしたように、俺もまた、好きなように振舞うことにした」

 

「二度と下界になど来たくないようにしてやる。二度と、下界に干渉することが出来ないようにしてやる」

 

神々は彼の言葉を当初、ハッタリだと考えていた。

 

「子供たちの戯言」だと。

 

だが、彼は不老不死である。神々の最高傑作だったのだ。同時に究極の失敗作でもあったが。

 

そうなるようにと、トリックスターが仕込んだから。だから、その通りになったのだ。まんまと、彼女の思惑通りに。

 

彼は暴れた。弱者である強者として、神々に選ばれし英雄を片っ端から殺し尽くす勢いだった。

 

神々の恩恵をこの地上から滅却するが如き勢いに、流石に神々も事態を真剣に受け止めた。

 

そもそも、英雄の時代に紡がれた物語の九割方が彼一人によって成し遂げられたことは全くもって想定外だった。

 

子供たちは、二千年間もの長きに亘り彼を酷使し続けた。ありとあらゆることに、この万能の存在を有効活用したわけである。

 

だが、それでは面白くない。なんとなく、マンネリであるし、大味である。

 

神々は、本当の意味での英雄の時代を望んだ。彼は最早、用済みであった。

 

最初に動いたのはゼウス達だった。神々の中でも大神と呼ばれる存在であった。

 

大神と彼らのファミリアの英雄たち、そして数多の神々が戦列に加わった。

 

対して、彼は一人だった。

 

ゼウス達は、全ての神の同意を取り付ければ、彼の不死身も撤回できると踏んでいた。その力は強力だが、神々とは違い、元は定命の者でしかないからだ。

 

神々の賛同を得て、ゼウスはこれを発議した。

 

結果は、否。

 

何故だ!?

 

ゼウスは叫んだ。

 

答えは余りにも単純な話だった。

 

ゼウスの妻であるヘラを含む総ての女神が、決して頷かなかったからだ。

 

それも当然と言えば当然だった。彼の容姿も肉体も声、その何もかもは、女神が全員で自らの好みをあらん限りに詰め込んだ最高傑作だったからだ。

 

顔が好きだから。肉付きが好きだから。耳の形が好きだから。頬骨の感じが好きだから。声が、目の色が…。

 

たったの一人も、である。

 

たったの一人の女神でさえも、彼のことを裏切らなかった。

 

全員に共通していることは、ロキとフレイヤの話を聞いて気が変わった、それともう一つ、ヘスティアが強硬に反対したからだ、と言うものだった。

 

ゼウス達男神はロキとフレイヤ、そしてヘスティアに迫った。

 

何故神の敵を野放しにしておけるのか、と言うものだった。

 

もしも、このままあの男を野放しにしておけば、何れ神々に害をなすであろう、と。

 

三柱の答えは簡潔かつ端的だった。

 

「彼を殺すくらいなら、彼に殺された方が好い」

 

「彼に殺されるのなら本望だ」

 

三柱は口を揃えてそう言った。

 

そして、ここで初めて一つの真実が明らかとなった。

 

時間を司る神の遅刻が、ロキの口から告げられたのである。

 

「堪忍やで、最近誰かさんのせいで物忘れが激しくってなぁ」

 

フレイヤを視ながら、ロキが言った。

 

ゼウスが青い顔で外を見た時にはもう遅かった。

 

戦うために集められた神々の地上での拠点に、彼が単騎で突撃して来るのが分かった。

 

一度の本気の踏み込みで音を置き去りにし、もう一度で彼は光の速度を越えた。

 

彼の着弾と同時に、彼に立ちはだかった総ての神々は消し飛んだ。

 

文字通り木っ端みじんに消し飛び、骨も残さずに天界へと転送された。眩い光の柱が数百、数千と立ち昇り、目を開けていられないほどに眩しかった。それでも彼は、手加減を重ねた末に、一人の人間も殺さなかった。

 

彼は体の向きを変えると、ロキとフレイヤ、そして初めて見る女神…ヘスティア…と対峙した。

 

「ロキ、俺の死を返してもらおう」

 

彼はそれだけ言うと、それっきり黙りこくった。

 

ロキは、微笑んだ。そして、意外にも素直に頷くと、こう言った。

 

「ええで、返したる」

 

「本当か?」

 

「ホンマホンマ!ウチは嘘は吐かへんで?」

 

「……嘘吐きめ」

 

「あははは…ま、冗談はこんくらいにして、ほな、返したるわ」

 

そう言って、ロキは自分の腹を撫でた。

 

「どういう、意味だ?」

 

彼が問えば、何故かロキではなく、ヘスティアが顔を背けた。

 

「いや~…な?ウチ、悲しかったわ~…あん時、旦那様に捨てられて」

 

「ロキ、もう、やめようよ、返してあげようよ」

 

ヘスティアがそう言うが、ロキは止まらなかった。彼女は笑顔で続けた。

 

「でもなあ、ウチ、気づいたんや…アンタは悪くない。アンタの愛を、ウチから横取りしたあの子がいけないんやって」

 

「ロキ!やめて!もう、もうやめようよ!やっぱり、あんまりだよ!」

 

ヘスティアが語気を荒げた。だが、ロキはそれでもまるで何も気にした素振りが無かった。

 

「ほんでな、ウチは、今度こそアンタを離さないために考えたんよ。それで…パッ!と閃いてな?ウチの旦那様は、優しいから…あの子の為なら、ウチを捨てないやろ?」

 

「ロキ!!!!!君は、君は今、自分から手放してしまったんだぞ!二度と戻ってこないんだぞ!!」

 

遂にヘスティアが爆発した。ロキに詰め寄るが、ロキも今度と言う今度は腹に据えかねたのか、逆にヘスティアを押し返した。

 

「ヘスティア!!!!黙っとき。今、ウチは、あんひとと話しとんねん。邪魔すんなや。これは夫婦の問題やで?お前は何様のつもりや!部外者の分際で話にツラぁ突っ込むんはええんか!?」

 

尻もちをついたヘスティアが見上げれば、その美貌を歪めて叫ぶロキと目があった。

 

「でも!!」

 

ヘスティアは尚も食い下がったが、そこでフレイヤが二人の間に割って入った。ロキがにこりと笑った。

 

「ヘスティア…やめて。ロキにも、余裕はないの。それに…ね?話したでしょ?あの時、アナタ、反対しなかったじゃない…」

 

フレイヤの言葉にヘスティアは胸が締め付けられた。あの時…それは、彼を不老不死にする際の神会での決議だ。そして、ついさっき女神たちの間で満場一致で通った一つの決定に関してだった。彼を逃がさないために、彼を手に入れるために。彼女は、彼女たちは、全員が同意した。前者に関しては英雄譚の製作には携わらなかったが、彼を自身の所為で傷つけてしまうことが恐ろしかったのだ。

 

そして、後者に関しては…彼を縛り付けてでも、手に入れられるかもしれないという誘惑に抗えなかったのだ。数億年に一度、神々が自ら弄んだ我が子の成れの果てだとしても構わなかったのである。彼には魅了が一切通じないのだ。神威を用いれば統制できると言うのであれば、そもそもゼウス達があれ程に狼狽するはずもなかった。

 

彼は唯一、化外の人間であった。同じような英雄を作り出したところで、神々の統制を外れることなど本来ならば不可能である。

 

だが、彼はその不可能を成し遂げてしまった。彼を魅了しようとした全女神を、翻って魅了し尽くしてしまったのである。

 

それは彼にとっての紛れもない不幸だった。女神は数億年分の純粋無垢な愛情を惜しみなく、この壊れた器に注ぎ込むからだ。その為ならば、彼の恣意など関係なかった。

 

欲しい。欲しい。

 

あの子が欲しい。

 

あの子だけで好いから欲しい。

 

あの子が手に入ると言うならば、如何なる手段も厭わない。

 

それは女神の総意だった。

 

神でもない。自分たちが作り出した子供でもない。

 

真に対等な存在など、神々の中ですら存在しないのだ。

 

神格の上下も通用せず、魅了も通用せず。美の女神のことですら対等な一人の女としか見ていない。人間の身であれば太陽に呑まれる様な女神からの寵愛を一身に受けて尚、動じることなくそこにある。小動もせずに自分を見つめる彼の存在が、見事に女神の脳を焼いた。

 

自分達の愛を受け止められるだけの底なしの器を有する、過去現在未来においても唯一無二の伴侶(オーズ)と結ばれる。女神にとっての白馬の王子様との逢瀬が叶うかもしれない。その誘惑に何人も抗えなかった。神にとっても、それは神生に一度きりの奇跡でしかなかった。

 

「それは…」

 

「…彼を傷つけないという誓いに、貴方は応じてしまったのよ。私たちと一緒に、彼の踵に不死の泉の水を掛けて、私たちと一緒に、彼の体内にも泉の水を注いだのよ。もう、私たちは選択してしまったのよ」

 

フレイヤの言葉は淡々としていたが、それは正しくヘスティアにとって暴力以外の何物でもなかった。

 

「フレイヤ…君は、そこまでするのか…」

 

ヘスティアは万感の思いを込めて呟いた。強い視線には、殺意や憎悪でさえ乗っていそうだった。あの、ヘスティアが、である。

 

「アナタは、違うのかしら?知らなかったとでも言うの?」

 

「……僕も、あの場所にいた。僕たちは、知っていたんだ。でも…抗えなかった…」

 

彼女は、それっきり口を噤んでしまった。ただただ、恥ずかしかった。でも、ヘスティアとて、彼のあの、眩いくらいの一途な想いを何千年も受け取り続けてきたのだ。あれは神々にとって拷問に違いなかったが、それでも、ヘスティアは自制心を忘れなかった。会いたくても会わなかった。あの日、下界に下りずに天界から英雄譚の完成を見届けたのはヘスティアだけだった。

 

彼女は理解していた。彼の想いが、自分達ではなく、別の、存在しない神へと向いていることを。

 

内なる自分へと捧げられていることを。

 

そのことを理解していた。でも、納得できなかった。

 

だから彼女は今、ここに居る。

 

本来、何の接点も無かったと言うのに。彼に逢えるかもしれないという考えが、期待がどこかにあったから。ゼウスからの呼び出しは好都合だった。

 

ヘスティアは彼と触れあったロキとフレイヤへの嫉妬で狂いそうだった。けれど、彼女もまた…否、彼女こそが、最も彼に近い感性を持っていたからこそ、憎むことも、嫉妬に狂うこともできなかった。だからこそ、彼女はこれ以上ないほどに彼のことが愛おしくて堪らない。彼に愛されたくて堪らなかった。

 

ヘスティアは声を殺して泣いた。

 

「話は終わりか?それで、その…あの子とは誰なんだ?」

 

彼は視界にヘスティアを入れながら、泣いている彼女をちらちらと気に懸けながらも、ロキに問うた。

 

「…アンタとウチの子や」

 

「……俺に子はいない」

 

ロキは不機嫌そうに答え、そして彼もまた。

 

「なら、殺してもええんやな」

 

「…どういうことだ?」

 

ロキの過激な言葉に、彼は耳を疑った。

 

「アンタのことを、誰にも傷つけさせないようにしたのはウチや。でもな、ウチだけは誓わなかった。何を言っとるのか、理解したんやないか?」

 

「…はは…はははは!!!つまり、ロキ、君なら俺を殺せるのか?」

 

彼が心底安堵したように明るい声で訊ねると、ロキも笑った。

 

「せやなぁ…けど、ウチは殺さんで?殺せるわけがないやろッ…」

 

そこで言葉を切ると、何も入っていない空っぽの腹を一撫でしてからロキが言った。

 

「でも…ウチとアンタの子供ならどうやろな。あの子にも、誓わせてないねん。()()、な?」

 

彼の顔が一瞬で真っ青を通り越して真っ白になった。

 

「…俺を、殺させる為だけに、育てろと?」

 

「それでええなら、そうしたらええ。ウチはどっちでもええで?アンタを殺したあの子のことはウチが殺したる。父親殺しや、ましてウチの旦那様やから、永遠に地獄で苦しめたるわ。だから、心配は何もいらんで?」

 

「……どのみち、地獄じゃないか…」

 

彼がへたり込んだ。だが、ロキは止めらない。もう、誰にも止められなかった。

 

「死にたいん?それとも、殺したいん?どっちなんや?」

 

ロキの言葉に、彼の顔がぐんにゃりと歪んだ。悲痛だ。悲痛でしかなかった。

 

ロキの顔は真っ赤になった。余りにも、純情な表情が、ヘスティアとフレイヤには無性に羨ましく、しかし、同時に悍ましいものに見えて、強い吐き気を覚えた。

 

彼は、結局のところ、どれだけ憎んでも、ロキのことを傷つけることなど頭になかったというワケである。

 

ロキは嬉しかった。彼が、これだけ責め苛んでも自分への愛情を抱いて生きてきたことが。彼が目の前で生きていることが。自分に逢いに来てくれたことが!

 

「…もう、訳がわからないよ…なんで、こんなことに…あの日、あのまま死んでしまえば好かった。奴隷のまま、弱者のまま死ねたのに…なんで!!!!何故だ!!!ロキ!答えてくれ!!何故俺をこんな目に!!!誰でもいい!答えてくれ!!」

 

彼が絶叫し、ロキが即答した。

 

「愛しとるから、やな」

 

ロキの顔は穏やかで、だから彼はポカンと口を開けたまま止まった。

 

「愛してる?な、なんだそれ!お前のそれは愛などではない!!」

 

彼はそう言ったが、ロキは動じなかった。ふわりと微笑み、言った。

 

「さてなぁ?ウチも、こんなんは数億年生きとって初めてやったからなぁ…愛かどうかは知らんねん…でも、愛以外に、何て言ったら好かったんやろ…ウチは、知らなかったんやで?」

 

「アンタが教えてくれるか?なあ、ウチは教えて欲しかったんや、アンタに。だから…アンタから、どれもこれも、アンタから教えて貰ったんやで?」

 

彼は瞑目した。目を抑えて、蹲った。もう、一歩も動けなかった。

 

「俺の、所為か……またかよぉ…」

 

彼はさめざめと泣くしかなかった。そんな彼に、ロキが寄り添った。温かい手を差し伸べて、抱き締めながら、彼女は耳元で誘惑的に甘く囁いた。

 

「なあ、ウチと縒りを戻さへんか?なあ、一緒になろ?なあ、娘に逢わしたるよ?なあ、なあ、なあ、なあ…?」

 

「アンタの為に、箱庭を作ったるわ。アンタの大嫌いな強い子供たちと、アンタの大好きな弱い子供たちを搔き集めて、な?アンタの好きにしたらええ」

 

「やから、な?ウチとずっと一緒におってや。もう二度と、離さんで?もう二度と、箱庭の外には出さへんで?」

 

「でも…もしもおってくれたら、ウチ、もしかしたら、アンタのこと、嫌いになる日が来るかもしれんなぁ?」

 

ロキの言葉に、彼が顔を上げた。鬼気迫る表情だった。涙塗れで鼻水塗れだった。ヘスティアとフレイヤは、何故か、その彼の表情に強い欲情を覚えた。そのことを恥じながらも、彼女たちの頬には朱が差した。そして、それはロキも同じだった。

 

強い覚悟の籠った彼の顔に、三柱は三者三様の欲望と葛藤を覚えていたのだ。

 

「アンタが、ウチを愛してくれたら、アンタがウチに構ってくれたら、アンタがウチとずっと一緒におってくれたら…そのうち飽きて、ポイっと捨てる日が来る可能性も捨てきれんやろ?でも、もしもアンタがウチを捨ててッ…またウチのことを捨ててッ!どこかに行ってしもぉたら…そん時は、ウチ、アンタのこと、ずっとずっと思い続けるやろなぁ…永遠に、殺さへんなぁ…可能性がのうなってまうなぁ…そうしたら、旦那様は、困るんと違うかなぁ?」

 

「………」

 

彼は、遂に頷いた。ロキは跳びあがるように喜んだ。フレイヤとヘスティアはこの瞬間を忘れないだろう。

 

彼の愛憎の籠った、ロキへの視線を。あの瞳を。

 

あの瞳が、いつの日か自分自身に向けられる日を願ってしまったことを。

 

その羞恥を。葛藤を。期待を。歓喜を。懊悩を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ダンジョンからモンスターが溢れたあの日から三千年が経ち、彼は現代のオラリオで生きていた。

 

失われた名声はロキの手で無理矢理に取り戻され、彼は半神として、人類の到達点として、全ての冒険者から崇拝されている。

 

だが、彼は二度と武器を持たなかった。

 

今や彼は何処のファミリアにも属さずに、溝浚いで生計を立てる乞食として生きていた。

 

両手足の指では数えきれないほど、数多の女神の寵愛を受けては、手に入れた金を全て弱者に配った。

 

強者から貢がれた物はすべてを、文字通り自分のメシのタネも残さずに全てを孤児院と貧民街に注いだ。

 

彼は最早、何もする気などなかった。

 

ただ、目の前の彼らが飢えなければ好い。目の前の彼らが満腹になるまで食べられれば、最早何も望まない。

 

暗愚でも、何でも。それでも生き延びられれば、せめて日々の糧に飢えなければ。寒い思いをしなければ。

 

それだけだった。

 

円形都市オラリオに縛り付けられた彼は、間もなくロキとの契約によって、ロキが娘を傷つけないことと引き換えに、文字通り死ぬまでオラリオの外に出られなくなった。

 

そして、彼が死ぬことは無い。未来永劫ない。あり得ないのだ。

 

…。

 

変化は他にもあった。

 

彼はある時期から、ヘスティアにだけは心を許すようになったのだ。

 

彼にとって、目の前でロキの暴走を諫めようとした彼女の勇気は、彼女の真心は確かに伝わっていたのだ。

 

彼は生来、極端で不器用な人間であったから、その愛情を言葉にすることは簡単だったが、決して十分だとは考えられなかった。

 

彼はヘスティアに心を許しているということを、彼女のことを想っていることを行動で示した。借金を全て肩代わりした上で、有り金を全て押し付ける程度には。

 

誰から見ても彼の想いはあからさまだったが、それは別にロキへの当てつけなどではなく、また彼が下手を踏んだからでも無かった。

 

ヘスティアもまた、ロキに勝るとも劣らぬ情念に狂っていたのだ。

 

だが、皮肉にも、彼との関係性を壊すほどの価値を見出せないが故に、自分の狂気を秘めたままである。処女神としての神格も邪魔して、ヘスティアは恋に狂い、愛に溺れながらも、彼と契ることが叶わなかった。それは何年と続き、進展のない関係性に反して、ロキと彼の娘は見る見るうちに成長し、母親譲りの父親への執着を示し始めたのだ。実の父親と、彼は彼の娘に教えたにもかかわらずである。

 

大英雄の、神々の最高傑作の遺伝子は、近親間の交合の末に生まれる子孫にすら、何らの問題を残さないであろうことは疑いなかった。彼は半神なのだ。半神でしかなかった。

 

親子の楔が存在しない関係性は、直に退廃的で破滅的な色恋へと発展してもおかしくなどなかった。

 

必然、彼女はロキへの憎悪を、いよいよ我慢できなかったのである。

 

彼女は、処女神の名に恥じぬ正直さを、狡猾にも恋の駆け引きの為の道具に生かす術を考え出したのだ。

 

故に、彼女は隠さなかった。敢えて、堂々と金をロキに返したのである。

 

これは君が彼に上げた金だろうと。それを僕が貰っては意味がないじゃないかと。

 

このこともあり、ロキからは欺瞞を蔑まれ、彼との関係に嫉妬され、彼を弄んだ挙句、金銭を搾りとる為の奴隷身分に落としたとして激しい憎悪を向けられる羽目になったが、ヘスティアは後悔していなかった。

 

寧ろ、ヘスティアは内心では、憎まれることが愉快でさえある。なぜなら、ロキの憎悪が強まるほどに、彼はヘスティアを庇い立てするからだ。

 

彼も彼で、理解はしている。納得できないが故に、苦しみ続けている。ロキへの憎悪は、ロキへの憧憬や深い愛情の裏返しであり。その証拠に、彼はロキにしか涙を見せなかった。

 

そのことがヘスティアに契りを結ぶことを躊躇させる最後の一線だった。

 

この壁は堅固だが、脆い。いつ崩れてもおかしくは無かった。だが、その僅かな力が、どうすれば伝わるのか。それは誰にも理解できないことだった。

 

バベルの塔の最上階に住まう美と豊穣の女神もまた、ヘスティアに負けず劣らずだったが、彼女は趣向が違った。

 

ロキのように狂気に呑まれてもいなければ、ヘスティアのように純粋にも狡猾にも成り切れず、羞恥と恋慕の情に圧し潰されてしまったのだ。

 

彼女は、プラトニック過ぎたのである。真実の恋に対して、余りにも真摯で、健気で、奥手だった。だが、であるが故に堪えられなかったのだ。

 

フレイヤは彼に憎悪されている現実を受け入れられなかった。だから直接会うことすら困難だった。何時かは逢いたいのだが、神として会うことなど出来ようはずもなかった。

 

彼にとっての偽物の神としての自身の存在が許せなかった。自分に果たして、彼に受け入れられるだけの価値があるのか。彼女は神である自分を憎まずにはいられなかった。

 

だが、内面化されればされるほど、フレイヤの執着と狂気は煮詰まった。彼の存在はフレイヤのファミリアにさえ暗い影を落とすほどに強大な影響力を有しており、オッタル達からは蛇蝎の如く嫌悪されていた。

 

だが、実際にオッタルが彼に指一本でも触れることを、フレイヤは断じて許さない。触れようものならば、フレイヤは断じて赦さないのだ。

 

神でいることを捨てられるのか。

 

神に人間性は認められるのか。

 

魂を奪われた男は、死ぬことすらできないのだ。

 

彼には自由などなく、せめてもの抵抗にと、血を吐くように、自傷的な生を営まざるを得ない

 

三千年の愛情は、そのまま三千年の憎悪に変わった。

 

憤怒だ。

 

絶望だ。

 

慕情だ。

 

憧憬だ。

 

崇拝だ。

 

恐怖だ。

 

彼はオラリオから出ることすら許されない。

 

オラリオの中には全てがある。全てが赦されている。

 

「だが、受け入れれば最期、赦されれば最後、俺は永遠に、今度こそ永遠に、与えられたものを奪われる恐怖に苛まれなければならない」

 

「神々が地上から去れば、俺はどうなる。俺は死ねないだけの人間だ。才能などない。努力もできない。何者でもない。俺の過去を、何者であったのかを、もはや俺ですら知らない。最期の逃げ道すらないんだ」

 

「神は、いた。だが、神は俺を救わなかった」

 

「なら、もう自分に縋るほかないだろう?」

 

「だというのに…よりにもよって、神は俺から俺を取り上げた。これがどれだけ残酷なことか理解できるか?」

 

「逃れられぬ運命を受け入れろと、そう言うのか。退屈凌ぎのために生まれた命を、貴様らはよりにもよって愛おしいと言う。その詭弁が、欺瞞が、憎たらしくてたまらない。反吐が出る。反吐が出る!」

 

「逃げ道がある。余裕がある。貴様らはそうだろう。安全牌の上で、お前たちは人間を気取っている」

 

「クソッタレどもが!この恥知らずが!俺は嫌だ!俺は嫌だ!こんなのあんまりだ!堪えられない!どうして!どうして殺してくれなかった!どうして死なせてくれなかったんだ!どうして俺に考えられる頭を残したんだ!俺は、家畜だ。だが、考える家畜だ。人格を与えられた家畜ほど、惨めで苦痛に満ちた生き方もない。帰る場所も、逃げ込む場所もない。俺は道化だ。貴様らが楽しむための道化でしかないじゃないか。せめて、俺を人間以外の何かに変えてくれ」

 

「あの時、どうして俺から論理を奪ってくれなかった!人間に生まれたことが恨めしい。俺を産んだ貴様ら神々が憎い。剰え…俺を、こんな俺を愛したお前のことが憎い。ロキ、お前のことが憎い」

 

彼を支えているのは、神の恩寵に対する絶対的な拒絶だけだった。

 

もはや、それだけだった。

 

与えられた力を使わずに、彼は溝浚いで日銭を稼ぐ日々を何年と続けていた。

 

誰のことも傷つけずに、あの、穏やかな、苦痛に満ちた、軽蔑と汚物に塗れた奴隷時代に必死に戻ろうとするように。

 

終わりがあったあの頃を、取り戻すように。

 

決して手に入らないあの日々を再現するように。

 

円形都市オラリオでの彼は、例え溝浚いに身を窶しても、伝説だった。英雄だった。

 

彼は逃れられなかった。彼は英雄だった。まぎれもなく、誰かが望み、生まれた英雄だった。

 

いつの間にか、希望になってしまった。

 

自分が誰かの希望になって初めて気が付いた。

 

希望と言うのは残酷だ。物言わず、結果だけを残さなければ、それはそのまま憎悪に変わる。

 

期待とは、然るべき結果を残さなければ憎悪に変わる。軽蔑と失望に変わる。

 

英雄への嫌悪。

 

超越者への憎悪。

 

世界そのものへの絶望と憤怒。

 

神を象りし人間としての自己への諦め。

 

孤独と苦痛への逃避。

 

悲痛なまでの惨めな生き様。

 

それは、正しく彼の生きざまだった。

 

彼は、逃げることが出来なくなった。誰も逃がしてくれないのだ。

 

溝浚いをしても、英雄が溝浚いをしている姿に置き換えられてしまうのだ。

 

それでも、彼にはこれ以上何をすればいいのかもわからなかった。

 

中身は何も変わっていないのだから。

 

純粋で、素直で、善良で、好くて平凡でしかない人間の成れの果てだった。

 

出来る限り醜く生きようと、彼は誓った。

 

そして、醜く死のうと。

 

それが彼に残された、せめてもの神々への抵抗だった。

 

何もしない、という抵抗だった。

 

嫌悪され、唾棄されるべき姿だろう。

 

力があると言うのに。何故、その力を正しく使わないんだ?

 

だが、その疑問は、その嫌悪は。

 

正しく、彼が神々に抱いた憎悪と同じものである。全く同じものである。

 

彼は、神々に恥を教えるために、彼ら自身の醜さを訴え続けているのだ。

 

己の醜悪な姿を、鏡映しにして。

 

強者への期待を、強者に力を振るうことを強いる、そんな希望を抱き、他ならぬ自らがその憂き目を見た記憶を忘れないために、神々への憎悪に逃げた自分自身のことさえも戒めるように。

 

最初にして最後の大英雄は、今日もオラリオ市街の溝を浚う。

 

そして女神たちは、そんな彼の姿に恍惚と欲情の吐息を漏らすのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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