フランドールの日記
気力なし。薬師の二人は一度帰ることになった。
気力なし。
一昨日の分から日記を書いた。「気力なし」と。今日は少し動ける。だから図書館へ行って本を読んでいた。そのうちに感性が戻ってきて、小説を十分楽しめるようになった。
その間小悪魔は私に何もしてこなかった。日記には書かれていないが、私に悪さをするらしい。今日はただ目が合っただけ。微笑んでくれたので微笑み返した。
気づいたことがある。過去の私が書いてきた日記は不完全だ。落ち込んでおらず、かつ破壊衝動にも駆られていないときにしか日記は書けない。私にとってはその時のことが重要なのに、破壊衝動については何一つ記録されていない。
破壊衝動とは? 私は何をした? お姉様がそう言っていたから破壊衝動と呼んでいるだけで、実際に何を感じていたのかは知らない。私にのみ許されているらしい特異な能力は確かに破壊的。けれどそれを行使しようとは思わない。そんなことをしたって何にもならない。
今日は直々に地下牢へ下りて人間の生き血を啜った。血液細胞は血液が体外へ出た瞬間から死に始める。少食な私のたった一回の食事で一人死なれては困るから、牙でできた傷口を止血帯できつく縛ってやった。お医者様がするみたいに針を使えば最小の傷で済むのにとお姉様がこぼした。きっと近々そうなる。
お姉様が優しい。記憶の中ではいつも頭ごなしで、説明もなく私を罰する。たぶんそれから相当な年月が経っているんだと思う。かつてのお姉様はいない。私も変われたらいいのに。
また気力がなくなってきた。ふとすると鼓動が早まっているのに気づく。何も嫌なことなんてないのに緊張する。今度はどこまで落ち込むのやら。
漠然と不安でいる。落ち着かない。楽しみがなくなってきた。一日が長い。
私は今のところ恵まれた環境にいる。それなのに幸せを感じられない。これ以上の生活の改善は望めないから、この生活で幸せを感じられないならどんな状況でも幸せになれないと思う。こんな気分がいつ終わるか、いや終わるかさえわからないなら、やり直しをするのもやぶさかでない。正直にお姉様に打ち明けたら泣いて怒られた。
月の兎(鈴仙というらしい)と薬師の人(この大きな日本という島を亘る神らしい)が様子を見に来た。へんぴな場所にある診療所なので夜間は空けてもあまり問題ないという。昨日のことを話したら、永琳は黙って聞いていた。それから、少し様子を見ましょうと言った。どの国や時代でも医者はそんな感じのようだ。患者は今苦しんでいるのに、すぐ様子を見ましょうと言って何日も放置する。けれど今回は仕方ない。私に効く薬は幻想郷では手に入らないのだという。
図書館で薬瓶を見つけた。中には錠剤が入っている。パチェによるとかつて私が飲んでいた抗不安薬らしい。これを飲めば今の不安も消えるのかと訊いてみたら、そうでもないとのことだった。不安には二種類あって、私が今感じているような漠然とした長い不安には使わない方がいい。パチェはそう私を窘めた。
(夜更けの日記)
寝て起きたら気分爽快。それまでの鬱屈とした気分が嘘だったかのよう。数日ぶりに食事をした。お姉様の言うとおり人間の血を採取するときは腕に針を刺して瓶に移すようになっていた。でもその血は暗い色をしていてなんだか嫌な感じがするから、私はいつもどおりに牙を立てて吸った。
いつまでも文を書いていられる。書いているうちに次から次へと新しい考えが湧いてきて、それを書く手が追いつかない。とりあえずここに断片を書き散らしておく。わざわざ静脈から暗い血を採る理由、このインクが初めから濃い色をしている理由、そしてお姉様がなぜ何度も何度も私をリセットしたのか……。もしやり直しをしてしまったらこの疑問から得た知見も忘れてしまうのだから。
静脈から採る理由。ある程度の血を採れる大きな動脈を傷つけると止血できずに死ぬらしい。
インクが初めから濃い色をしている理由。これはむしろ今までのインクがなぜ書いてから時間をおかないと発色しないのかという疑問を持つべきだったように思える。この真っ黒なインクは墨でできている。すぐに発色しないインクは植物の葉からとれる物質を利用していて、それが「錆び」ることで黒くなるのだという。
お姉様はまた泣いて、許しを請うた。直接訊くべきじゃなかったかもしれない。でも私はそれ以外に訊き方を知らない。自分の知っている妹からかけ離れていくのが怖かったんだって打ち明けられた。それはそうだと思う。と同時に、本当に怖くなるほど私のこの気分が過激化していくものだろうかとも思った。
(明け方に書き足された日記)
気をつけなければいけない。今日一日過ごしてわかったのは、私の注意力が浅く散漫になっているということ。本を読んでいてもすぐ他のことに気が散ってしまう(つまり複数のものに注意を向けている)のに、いつの間にかすぐ後ろに立っていた小悪魔の存在に気が付かなかった。妙な感じ。きっと注意の総量が減っていて、そんな状態で全体に注意を向けてしまっているんだと思う。この気力に任せて精密な作業をしないほうがいい。絶対に失敗する。
今日は明け方、寝る前にこれを書いている。おかしい。可笑しい。でもそれ以上に気分が良いから夜中は気にも留めなかった。一日を振り返ってみるとおかしいことばかりだった。
読みかけの本に栞を挟むのを忘れていて、ページも覚えていなかった。読み終えた本だと勘違いしてパチェか小悪魔が勝手に本棚へ戻してしまっていた。自分が悪いのに小言を言った。
こういうときこそ部屋にいたほうがいいんではないですかと小悪魔が言った。わざわざ言われなくてもわかっている。それで腹が立って辞書の背表紙で頭を殴った。あのときは殴って当然だと思っていた。でもよく考えると、背表紙に近い部分の紙が歪むほどの力で殴るのはやりすぎだった。確かに部屋にいたほうがいい。
一日が長い。
眠れない。眠れないと次の日がめちゃくちゃになる。それを考えて余計に眠れなくなる。
また兎と神が来た。お姉様が呼んだらしい。
日記 終わり
「最後に寝たのはいつ?」
「まだ二日目よ」
フランドールの様子が変化したとの知らせがレミリアから入り、また我々は紅魔館へ飛んでいった。永琳は弓を背負ってきた。なんのために使うのか聞いても「念のため」と答えるばかりである。フランドールを止めないはずだから、いよいよなんのためなのかわからない。
フランドールは面倒くさそうに分厚いハードカバーの本を閉じて答えた。
「集中できないの。何をしていてもね……とりあえず本を開いてはみたけれどちっとも内容が頭に入ってこない」
「無理に読まなくてもいいのではなくて?」
「他に一日の楽しみ方を知らないの。ああ退屈。その弓はなあに?」
「なんでもないわ。知らない方がいい」
図書館で三人がお喋りしているのが気に障るのか、パチュリーはどこか図書館の奥の方へ消えてしまった。
「何かあなた自身について気になることはあるかしら」
「あなたやお姉様の言っていたことがやっとわかったの。確かに私は今やりかえすだけの気力がある。数日前からじゃ想像もつかなかったことだけど」
「何かされたらやり返すと思う?」
「もうやったわ。でもやり過ぎたと思う。本であいつの頭を殴ってやったのよ。本が傷んじゃった」
「それはあなた自身不健全だと思う?」
「言っている意味がよくわからない……どうして気の触れた吸血鬼に聞くの? そんなことを」
自嘲してみせた。本当に自身を気の触れた吸血鬼だと思っているか、あるいはそう思われているらしいことを皮肉っているのかはわからない。ただ「気の触れた」という部分をあえて強調して言った。
「あなたのあるべき姿はあなたに聞くしかないからよ。どうありたいと思っているの?」
「なんだっていいわ。どんな気分であっても私は私。それだけよ」
正真正銘私の考えなのに、脳がそうさせているだけだって言われるの、なんか嫌。前に彼女の元を訪れたときそう言っていた。それから考えると今の彼女にパラダイムシフトが起きたことがうかがえる。無気力とは対極にある別の状態も経験して、自分自身の考えというものがどれだけ脳を含めた様々なものに影響されやすいかということを知った上で、私は私だと思えるようになったのだ。
「この数日でずいぶん進歩したわね」
「これからどうなっていくのかは自分でもわからないけれど」
「わからなくていいわ。ここのだれもわからないんだもの」
永琳はどうありたいかを彼女に聞き続けている。かつてレミリアにも、フランドールをどうしてしまいたいのかと反語的に聞いていた。どうしてしまいたいかは本人に聞くのが最も無難ということだろうか。
「無意味に感じるのが防衛機制なら、今の私はなんだっていうのかしら」
「それについて人類はまだ答えを出していないわ」
永琳は答えるのをためらい、一瞬視線を下げた。神としての絶対的な知性を隠し、あくまで一人の薬師としての限られた始点に立ち返るために。
「あなたはどう考えていらっしゃるの、先生?」
「少なくとも、別のアプローチで問題解決を図っているのは確かね」
「どういう問題かしら」
フランドールが微笑んだ。唇の端をつり上げて、目を細めて見せた。自分の暴力性を問題解決の手段として肯定されたように感じたらしい。
「場当たり的な問題よ。個人間のいざこざだったり、単なる居心地の悪さだったり」
しかしそれも根本的な解決にはならないということを、永琳は強調した。
「まあ、場当たり的な解決に私の暴力はうってつけかもしれないわね……ふふ。私がやり過ぎたらその弓で殺すつもり?」
「やり過ぎてこそよ。そんなことであなたを射ったりしない」
フランドールはレミリアの報告と違い理性的であった気がする。少なくとも初めて会ったときのように激しい情動を抑えきれずにいるようではなかった。あれはなんだったのだろうか。小悪魔がまた手を出せばああなるのか? 私は小悪魔の底知れぬ悪魔性を知った。あれにかかればフランドールをある意味唆すことも容易いのかもしれない。「あなたの手に及ばない問題だってこと、そろそろ理解した方がいいんではなくて?」彼女はそう私に告げた。フランドールをあれだけの激情に曝すことができてしまうのは確かに彼女だけなのだろう。ただそれはそれであって、我々にも何かできることがあるんじゃなかろうかと、ずっと考えている。介入するなというのが永琳の方針であるにもかかわらず。
私は今も小悪魔に唆され続けているのかもしれない。
「どこまで話したっけ……そうそれでね、そのダイラタンシー流体を使えば自由な大きさの弾幕を即興で張れるようになるんじゃないかって思ってね? お姉様に怒られちゃったの。片栗粉の無駄遣いだし、庭の草木を白く汚しちゃったし」
永琳は外へ。フランドールと私は図書館に残った。彼女は突然よく喋るようになった。次から次へと別の話題に移っていく。一生懸命うまくまとめて話そうとしてはくれるのだが、話したいこと、考えていることが多すぎるらしい。
「今とっても幸せな気分。これって日記を書いてきたおかげなのかしら? それとも前の私が書きそびれていただけで、毎回こうなの?」
「さあ……私もあんまり長くあなたを見てるわけじゃないから。パチュリーにでも聞いてみたらどう? ……何か始めるのはいいけど、ほどほどにね。それを片付けるのはあなたなんだから」
「山に登ったら自分の足で降りてこなきゃいけないものね」
私は師匠に近づこうとしている。師弟なのだから当然といえば当然だ。私が何か言いかけるたび、それは永琳が言いそうなことだろうかと自問する。自分には理解しきれないことでも、きっと永琳なら正しいことを言えるだろうから。だから永琳をエミュレートして、頑張ってそれっぽいことを言ってみるのだ。
同時にそれが今この瞬間のフランドールにとって良いことなのか、とも思う。私と永琳では紅魔館での役割が違う気がする。私はどうすればいい?
「仲の睦まじいことですね」
視線を下ろした一瞬の隙に小悪魔が現れ、フランドールの背後に立った。
「何の用?」
つい邪険にしてしまったが、フランドールはまだ小悪魔に何かされた記憶がないのものだから別にどうということはない。
「そろそろかと思って」
「何が」
「私は妹さんを唆さなくちゃあならないのでしょう? 可笑しいわ。だって私をどうにかさせようというのに、当のフランドールはあなたに牙を抜かれているんですもの」
また厄介を仕掛けに来たのだ。歓迎しないのが正解だった。しかし彼女の言うとおりでもある。フランドールは小悪魔に勝たなければならない。なのに私はフランドールとほとんど生産的な話ができていなかった。ただ目まぐるしく様子が変わっていく彼女をその都度心配していただけだった。
「ねえフランドール、またそうやって自分の殻に籠って、狂ったふりをして逃げおおせる気? また同じことを繰り返して殺されるつもり?」
小悪魔は身をかがめ、フランドールの耳元で囁いた。
「何言ってるの」
フランドールに心当たりがあったようで、眉をひそめ、静かに反駁した。
「記憶をなくしてしまうのが一番楽ですものね。そうやってずっと館の時間を停滞させてきた」
フランドールがついに立ち上がり、小悪魔の襟を後ろから引っ張り上げる。それにわざとつられるようにしてかがめていた身体を起こし、小悪魔はフランドールの肘を逆方向に拳で押し上げる。短く呻いてフランドールは手を離し、体勢を崩した。
「ばかね」
フランドールを突き飛ばした小悪魔が続けて馬乗りになり、襟を掴んだ。フランドールは今にも感情を爆発させようかというところで踏みとどまり、ただ小悪魔を睨みつけた。
「ただの喧嘩じゃあ面白くないでしょう? 仕切り直し。決闘をしましょ」
見開かれた小悪魔の瞳のなんと恐ろしいこと。涎が垂れそうなほど上げられた口角と相まって、その狂気はフランドールに勝るとも劣らぬ勢いであった。彼女は楽しんでいる。
「兎さん、あなたはただ指をくわえて見ているだけでいいのよ。お師匠さんと一緒にね。これは私とこの腑抜けた吸血鬼の問題なんですもの」
「……本当にやるの? あんなの相手する意味ないよ」
「黙ってて」
フランドールはやる気だ。自らの勝利に圧倒的な自信を持っている。私はそれを信じられなかった。あの挑発に底知れぬ恐怖を感じていた。小悪魔がわざわざ決闘を申し込むのだから、向こうは向こうで勝算を積み重ねているに違いないのだ。きっと小悪魔も自分が負けるシナリオを想定していない。両者はその自信に根拠があるかどうかという点で違っていた。
永琳に知らせなければ。私にできることといえばそれくらいしかない。
満ちた月明かりの煌々たるその下で、一か八かの賭けとなるフランドールと小悪魔との一騎打ちが始まった。再生する身体で一度でも小悪魔をぶちのめせばいいのだから、勝敗を賭けているのではない。勝ってフランドールが何を思うかに懸かっている。
本当にフランドールは勝てる? 小悪魔の自信に私が気圧されている。ハッタリであってほしい。しかしハッタリなら自分から決闘に誘うことなどしないはずだ。何をもって小悪魔は勝算としているのか?
小悪魔は包帯で両眼を隠していた。その包帯には赤黒い血が滲んでいる。彼女にもう「目」はないということを言いたいのだろう。フランドールは真正面から挑むしかない。
「百八回! 全部私のせいにして、さぞ気が楽でしょうねぇ!」
「おまえを殺せさえすればそれでいい! 身の程を知れ!」
ただの弾幕ごっこではなかった。館の上空で繰り広げられる人外同士の殺し合いである。小悪魔がばらまいた魔導書から色とりどりのマテリアルが飛び出し、フランドールはそれを素手や炎でなぎ払いながら追いかける。殺意はあれど、とても火力が足りているとは思えなかった。本当にあれが小悪魔にできる限りのことなのか?
否、小悪魔はまだ遊んでいるのだ。ここで自分がフランドールを負かせてしまえば全てを台無しにできると思い、その隙を窺っている。
一度小悪魔に肉薄した。フランドールはここぞとばかりに大火を繰り出し、剣を振るうようにして炎で薙いだ。しかし当然ながら小悪魔はその軽い身のこなしで容易く避けてしまう。
フランドールはその一回で学習した。自分の好きなように技を繰り出していては無駄に体力を消耗するだけだということを。そして今度は搦め手を使うことにしたらしい。小悪魔の周囲に線上に赤と青の弾幕を並べ、時差をかけて飛ばしていく。それはあまりにも広く、一人を狙うには密度が高すぎるにしても外側に出るよりはその場で避け続ける方が現実的であり、実際小悪魔はそうした。動かなければ周囲の弾の密度が高くなりすぎる。しかし動けば相応の相対速度で新たな弾に当たりに行くこととなる。禁忌、クランベリートラップ。
あろうことかその中にフランドール自身が突進していった。きっと周囲の弾に認知リソースを割かせればこれから繰り出す本命の一発を当てやすくなると踏んだのだろう。飛ばした弾ではなく自らの手で小悪魔を殺すことは、フランドールの妥協できない覚悟なのだ。
懐に飛び込んだ。しかし渾身の右手はほんの僅かな差で空を切った。
「ガキの分際で小賢しいっ!」
小悪魔が翻り、フランドールの頸を後ろから腕で締め上げた。フランドールを盾にして、飛び交う弾幕の中を二人して落ちていく。
「もう少し遊んでやろうと思ってたのに! まさか本気だなんて!」
フランドールが肘で脇腹を突き、小悪魔の手を離れた。しかし一瞬遅かった。速すぎる落下速度を十分カバーしきれず、フランドールだけが地面に激突した。前頭をしたたかに打ちつけたが、それでも両の脚で立て直している。人間ならレンガの床に脳髄をぶちまけて即死していただろう。
それも遅かった。彼女が顔を上げて小悪魔を探し出す前に、小悪魔は彼女を正面からはっ倒し、馬乗りになった。それからは小悪魔の独壇場である。
「お前が素直に私を受け入れていれば今頃悪魔として幸せにやっていけたのに! この恩知らず! 当然の報いよ、フランドール・スカーレット!」
形容のしがたい音が連続して響く。小悪魔はフランドールの腹を執拗に殴り、こじ開け、はらわたを床一面に引きずり出していた。
「はしたない、吸血鬼ってこうやって人を食べるんでしょう!」
まだ繫がっている臓腑にかぶりいた。しばらく声を発していなかったフランドールがとうとう叫んだ。そこにもはや闘志はない。痛みを表し、また許しを請うために叫んだ。それを見て小悪魔は唇の裂けんばかりに口角を上げ、紅い両腕を胸郭のさらに内側へ突っ込んだ。小悪魔が何事か語りかけたが、その声はフランドールの絶叫にかき消された。
絶叫は突然に止んだ。気管を握りつぶされたようだった。
「師匠」
見ると私の隣で永琳が、背負っていた弓を彼女らめがけ振り絞っていた。
射った。わずかな旋風が私の頬を撫でる。矢はほどんと直線を描き、フランドールを貪る小悪魔の背中のその正中線に食い込んだ。小悪魔はその勢いで姿勢を崩し、勢いよくフランドールのほうに倒れ込んだ。見ると永琳は消えていた。いや遠く離れた小悪魔のそばにいた。
永琳は手加減をして小悪魔を射抜いた。加減がなければあの肉体は木っ端微塵に消し飛ばされていただろう。
「……!」
小悪魔は胸から飛び出た鏃を掴み、ずるずると矢を引き抜いた。肉をすり抜けて紅く染まった矢羽がここからでもはっきりと見える。
「なんですかあ、これからってときに」
「あなたがフランドールの良い変化を望んでいないことがはっきりしたわね」
「介入しないんじゃあなかったのかしら? 八意先生」
「フランドールの困難はこの館に存在する円環的因果関係の表出だと判断して、あなたへの介入はしてこなかった」
永琳が小悪魔の襟を掴み、庭の石畳に放り投げた。石畳に鮮血が飛ぶ。
「しかしそれ以上にあなたの行動が単一の問題として存在することがわかったなら、私はあなたに唯一敵う存在として、あなたに対処しなければならない」
「……っあはは、なんですかそれ。ただの出来レースじゃないですか! そうだと知ってたら私だってここまでしなかったのに!」
「先に反則を犯したのはあなた。悪魔同士からかうのは普通のこと。そうね。そして互いの欲望を交換する。それもそうだわ。しかしあなたがフランドールに行っているのは欲望の一方的な搾取でしょう?」
「……わかりますよ。あなたの本気に私は勝てません。でもね、八意先生、あなたがフランドールのことを本当に理解しているのなら、この子が私による破滅の変化を必要としていることも理解しているはずだ! 毎回毎っ回同じ殺され方をして何が変わるとお思いですか!?」
「知恵の神と言い合いをして勝てると思う?」
永琳は小悪魔の詭弁を指摘さえしなかった。するまでもなく、言行の一致しない詭弁であることは明白なのだ。まともに取り合えば簡単にオルグできる弁を持つ悪魔を相手にして必要なのは、有無を言わさぬ暴力だった。
「破滅は変化じゃないわ。ただの終わりよ」
フランドールはあの場から動かなかった。それを運んだのはまた私。きっと日が昇るまで動けなかっただろうし、何より野晒しでは忍びなかった。服だか肉だかわからないぐちゃぐちゃを丁寧にバケツに汲んで、身体と一緒に彼女の私室へ運び込んだ。日に当たりさえしなければじきに回復する。少なくとも身体は。
心はわからない。今回の大敗を、行きすぎた嗜虐心による蹂躙を、フランドールがどう受け止めたのか。それが彼女の運命を決める。永琳はやり直しを禁じた。これをきっかけとしてフランドールの混乱が極端なものになり続けたらどうするつもりなのだろう。
いや、どうもしないのだ。彼女への実力行使はそれこそフラストレーションの原因である。それで彼女の状態を悪化させ続けてきて今があるのだ。その極端な例がやり直し。彼女に関しては邪魔をせず傍観して、歯止めがなければどうなるのかを彼女自身に知らしめる必要がある。
シーツを赤黒く汚して寝かされたフランドールの呼吸が速く浅い。呼吸ができるくらいには治ったようだ。それでもまだ腹の傷は閉じておらず、臓腑のおさまりがついていないのがよくわかる。いやよくわからない。臓腑だと思っているものは筋肉かもしれないし、脂肪や皮の部分かもしれない。めちゃくちゃで判断がつかない。見開かれた目はしかしどこも見ていない。ここまでの怪我を負ってさえ死ぬことができないというのはさぞ辛かろう……
ここは月ではないし、フランドールは死を待つばかりの玉兎ではない。介錯はできない……が、麻薬くらいは与えてやってほしい。
そろそろこの客間も見慣れてきた。
「あんな状態で放っておけません……鎮痛剤ありましたよね、阿片かなにか」
「だめ」
「どうして」
「心臓から延びる体循環側の動脈が途中で切れているの。あれで生きられるのも驚きだけど……ともかく、血圧がなければ麻薬が脳に届かない。それ以前に肝臓にさえ届かないから、プロドラッグであるオピオイドが効果を持つ形に変形することもない」
やるせない。ある薬が人体の循環器や代謝機能に依存している限り、薬の使いようがないこともあるのだ。そしてもうひとつ、彼女のあの呼吸は意味をなしていなかった。
「大丈夫。あれだけ激しい怪我をしていれば脳そのものが麻薬の一大生産地になっているはずよ。あの子がおとなしくしている原因のひとつはそれ。熊に食べられた人の話ってしてないわよね?」
「やめてください」
「あの子の回復を待つ間、作戦会議をしましょう。夜更けも夜更けだけど仮眠はそれからね。当初想定していたのとは違って、この館には明らかな問題がある」
この館のように狭く閉じた社会の誰かに問題が起きたとき、当人だけが問題を起こしているのではなく、社会を構成する人々が互いに問題のあるコミュニケーションを行った結果当人の問題としてそれが表出した、と考える。これを円環的因果律という。暴れるフランドールをレミリアや咲夜が力尽くで押さえつけてフランドールに一方的にフラストレーションを与えるとか、フランドールはフランドールで暴力に訴えすぎるとか、一見すると互いに干渉し合っているように見えるのだが、実際に見えてきた構図はもっと単純で、もっと救いがなかった。フランドールと実際に接して考えてみると単一の原因があり、それが小悪魔なのだ。
簡単に言うと、フランドールを含めた館全体の問題がフランドールの種々の問題行動として表れていると初め考えていたが、単に意地の悪い小悪魔がもともと不安定だったフランドールを虐めているだけだということがわかったのだ。
小悪魔がフランドールをからかう。フランドールが暴力でやり返す。小悪魔はさらに激しい攻撃を以て反撃する。そしてフランドールは……というように、互いが攻撃をエスカレートさせていった結果、死につながるような暴力に発展した。そして敗者はフランドールだった。
問題は攻撃の過激化をフランドールは止められず、小悪魔は止められるにも関わらずいたずらに過激化させたことだ。本当に、ただ「誰かが気にさわる」だけだった。最悪だ。ただのいじめだ。そりゃフランドールも暴れる。そして暴れたばっかりに、フランドールだけが割りを食う。
この結論に落ち着いたのは、フランドールと実際に接してみて、何もなしに突然暴れだすような暴君ではないということをよく理解したからだ。もっと早く彼女の理性を信じられればよかったのに、私達はそれを怠った。師匠でさえも完璧な存在ではなかった。
パチュリーはあれの主として、接見禁止を言い渡すことができなかったのか? きっと試したのだろう。小悪魔が明らかな問題だし、館の中で一番"まともに"フランドールと接してくれるのが彼女だ。そして何より彼女が「誰かが気にさわる」と言った。彼女が一番問題をよくわかっているに違いないのだ。
永琳がそれを口にした。
「小悪魔を単に遠ざけても意味がない。どうせ何某かの超常的なすべを以てフランドールに手をかける」
「ともかく……パチュリーに聞いてみるべきです。どういうつもりであれを野放しにしたのか、あるいは何をしても野放しになってしまうのか」