Q.一般探索者が黄色い触手を見た場合の反応を述べよ 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス~!
本編の更新は目途が立っていませんが、ひとまずエイプリルフールには間に合いました。
勘とノリと勢いで書いた話ですので、多分かなり粗が目立ちます(保険)
尚、本話は次回更新のタイミングでチラシの裏に移行されます。
(追記)映画めっちゃよかったですね。
エイプリルフール。よくある出来事。あったかもしれない出来事。
────長い地下回廊。タイル張りの壁に、硬い足音が乱反射している。
遠く、僅かに聞こえる振動は、階下で忙しなく走る地下鉄の駆動音だろう。
ここはとある駅に付設された地下通路。平日早朝の大迷宮を、漫然と歩く。
尤も、通勤ラッシュにはまだ少し早いのか。すれ違う人影は然程多くない。
何とはなしに、スマホの画面を一瞥してみる。…………示す時刻は、午前七時前。
「…………これなら新幹線にも間に合うか。早起きの甲斐があったってもんだな」
寝不足に重たくなった身体を引きずるようにして、無機質な通路を進む。
欠伸をすれば、朝に特有の冷たい空気が肺に入る。眠気の散っていく感触がした。
オレは現在、とある"行事"のために、椚ヶ丘を離れている最中だった。
まぁ、"行事"と言っても、堅苦しいものではない。"小旅行"辺りに言い換えてもいい。
旅行鞄を片手に、二泊三日、観光のついで程度の、カジュアルな部類の"行事"だ。
…………オレも実際、行事の中身については興味がない。重要なのは"旅行"の部分。
何しろ、大抵の事が椚ヶ丘内で片付く以上、街の外へ出向く機会は失われがちだし。
オレ自身、虚弱な身が災いして、出不精気味だし。実は久々の遠出だったりする。
「んー、楽しみだな。大義名分の下で遊びに行くって、世界一の娯楽だからな」
今回の行き先には、観光地が多いと聞いている。回る場所には困らないだろう。
とは言えそれも、まずは目的地に着いてからでないと話になるまい。
その為にこうして、慣れない地下鉄を乗り継ぎ、目的駅の地下通路までやって来たのだ。
後は、この先に待っているであろう階段で地上改札に向かうだけ…………なのだが。
…………どういう訳か。歩き続けているにも拘わらず、周囲の景色が変わらない。
無論、ここは大規模な駅の地下通路だ。或いは、そういう事もあるかもしれないが。
「──────。あのおじさん、さっきも正面から来なかったか?」
奇妙な事に。対面からやって来る中年男性に対し、オレは既視感を覚えていた。
知人ではない。オレの記憶が正しければ、彼は先程すれ違ったはずの人間だ。
見間違いの線はある。オレも、すれ違う人間全てを覚えているわけじゃ無い、が。
しかし、"生え際が怪しい"、"歩きスマホをしている"、"サラリーマン風の男"という要素。
この三つが奇妙なまでに符合している事実に、オレの第六感が警鐘を鳴らしている。
念のため、奇襲された場合は即座に殺害できるよう警戒してみるが────。
「…………あれ。意外にあっさり通り過ぎて行ったな」
その結果は、肩透かしも良い所だった。
すれ違う瞬間も、背後を見せた後も、殺気一つ見せず。現実としてオレは無事のまま。
警戒を悟られた可能性もあるが…………この場合は、ただのオレの過剰反応だろう。
自分に
何しろ、冒涜的な非日常に足を踏み入れて以来、この手の事は嫌になる程経験している。
「ふーん…………まぁ、何事も無いならそれでいいか。切り替えが大事ってね」
世は平穏、事も無し。オレも別に殺人鬼ではないし、不必要な殺しならしない。
罪なき一般人に殺意を向けた事についても、今更気に病む段階にはいないし。
こんな事はよくある話。命の奪い合いに発展しなかった以上、後は忘れてしまうだけ。
思考を変え、旅先ではどこを回ろうか、と。尚も地下通路を進んでいった先で、オレは。
「あーあ、失敗した。──────さっきの時点で、殺しておくべきだったか」
タイルの壁面に取り付けられた黄色い案内板。ソレが示した"出口0番"の文字を見た。
当然ながら、この駅にそんな出口は無い。これは、存在しない筈の場所への案内となる。
印字ミス、という線も無いだろう。よく見れば、他の地名もオレ知る物と異なっている。
即ちこれは────オレが何らかの異常に巻き込まれた、という証明に他ならなかった。
…………そして、その隣にワザとらしく設置された、"ご案内"と書かれた白い案内板。
「えーっと、何々?
"異変を見逃さないこと"。
"異変を見つけたら、すぐに引き返すこと"。
"異変が見つからなかったら、引き返さないこと"。
"8番出口から外に出ること"。
…………なるほど?」
念のため、看板を壁から引っぺがして裏面も確認してみるが、これと言った記載はない。
恐らくだが。先ほどの四つの言葉が、この異常空間における
どうやらオレは、知らず知らずの内に異界へ足を踏み入れ、取り込まれていたようだ。
…………まぁ、だから。取り敢えずそこについては、受け入れるとして。
「はー! 久々に遠出しようと思ったらコレだよ!! やってらんねー、ホント!!」
オレにとって憂鬱なのは、そこの部分なのだ。
日常生活を送っていてもこの手の災難には出くわすが、旅先はその比ではない。
自慢じゃないが、両親が亡くなって以来、遠出をすると必ず厄介事に出くわしてしまう。
旅行へ行く度、不快な体験をしなければならない呪いでもかかってるのか、疑うほど。
確か、前は世界を喰らう鏡の国、その前は某国王女サマとテロ教団、その更に前は────はぁ。
…………本当に自慢にならないし、本当に呪われている気がしてきた。考えるのはやめよう。
「これはアレか? これはオレに旅行に行くなっていう神のお達しか? 死んでくれ神」
出来ればウチの担任ごと、と恨み言を吐きながら、オレは状況確認を開始した。
…………見たところ、スマホの時計が機能していない。外部と時間的に隔離されている。
人間業では成立不可能の大結界。人外の気まぐれか、或いは、土地に根付いた"現象"か。
どうあれ、この状況では外部からの救援は期待するべきではないだろう。
幸い、旅行の割に手荷物は少なく、その上いくらかの高カロリー飲料が手元にある。
突発的に巻き込まれた割には、行動不能になって死亡するまでの猶予は長い筈。
いつかの様に、一時間以内に脱出しろ、という記載が見当たらない点も、不幸中の幸いと呼ぶべきだろう。
「しかし異変、異変ね。見つけたら、と言うくらいだし、目に見える物なんだろうが…………例えば、壁のタイルが一枚足りないとか、広告板のネジが一本だけ緩いとか。その場合だと、割とどうしようもない気がするな…………?」
しかしどうあれ、ここで考えていても事態が好転することはないだろう。
止めていた歩みを再開する。先の事は、取り敢えず進んでから考える事にした。
◇◇◇
オレを出迎えたのは、変わり映えのしない、十五メートル前後の回廊だった。
高い天井、窓のない空間。何の変哲もない、日本の地下鉄駅によく見られる光景。
その実は、先へと続く道こそあれど、終着点を持たない無限回廊の結界内。
換気扇の回る音は実に窮屈で。幽閉された現状を思うと、息の詰まる感覚がした。
察するに、この地下通路内で"異変"が発生しているかを見極めろ、という話なのだろうが。
「異変がどうこうの前に、まず普通の状態を覚えてないんだよな、オレ」
なので、取り敢えず今の地下通路内の状況を記憶しておくことにした。
勿論、今オレが居る地下通路に異変が無いとは言い切れないが、覚えなくては始まらない。
とはいえ、先程も言った様にタイルの枚数やネジの状態まで記憶するのは非現実的だ。
よって細かい部分に関しては後回し。今は、ある程度目につきやすいものから記憶する。
よくある広告ポスターが六枚に、監視カメラ。消火栓設備に、8番出口を示す吊り看板。
広告の内容は、歯科医院、パート募集、ペットサロン、司法書士、写真展、音楽フェス。
分電盤室、従業員専用口、清掃員詰所、と書かれた鉄製の鍵付き扉が、それぞれ三つ。
扉には全て鍵が掛かっており、入れない。…………あ、吊り看板の裏に地下広場の文字。
「ひとまず、目星をつけるのはこの辺りでいいだろ。と言うか、これ以上は厳しい」
と。進もうとした頃に、通路の向こう側から、こちらへと向かってくる人影を見た。
歩きスマホをした、サラリーマン風の中年男性。その顔は先程すれ違った者に瓜二つ。
…………というか実際、同一人物なのだろう。まだこちらに気付いた様子はない。
最初は未知の魔術師と断定していた彼だが、考えてみれば、この結界は人間業ではない。
「つまり黒幕のセンは薄い…………となれば、オレと同じく巻き込まれたクチか?」
現状、あまりにも情報が足りていない。あの案内板が真実を語っている保証もないし。
最低でも情報源に。もしもオレと同じ立場なら、協力して脱出もできるかもしれない。
そこまで思考した時には既に、オレは目の前の中年男性に声を掛けていた。
「どーも、こんちは。おじさん、さっきも会ったよな。オレの事覚えてるか?」
『……………………』
しかし。オレの言葉に足を止める事もせず、おじさんはオレの隣を通り抜けていった。
「え、ちょ、無視? もしもーし? 聞こえてますかー?」
急ぎ追いつき声を上げるが、彼がこちらの言葉に耳を貸す様子は見受けられない。
そこで、物は試しと強硬手段────軽くおじさんの腕を引いてみる事にした。
…………おじさんに触れること自体は出来たが、彼の進む意志に翳りは見えない。
その癖、彼を掴んでいるオレの腕に対しての抵抗が、一切見受けられない。
「────なるほど。オレを無視しているんじゃなく、認識できてないのか」
無理矢理に体の向きを変え、視線を交わすが…………何を考えているかは判然としない。
十秒間隔で、全く同じ瞳孔の動きを繰り返している。擦り切れたレコードのような印象。
察するに、この中年男性は
特定の動きを繰り返す人形か、或いは、ここで死んだ人間が取り込まれた成れの果てか。
一度殺してみれば分かりそうだが────今は軽率な行動は控えるべきだろう、と。おじさんを解放する。
「さて。何をもって異変とするかは知らんが、まぁ、取り敢えずおかしな部分は無さそうだ」
進んでみる。…………看板が1番出口に変わっていた。
◇◇◇
「剥がした看板も元通り。…………で、この数字はどういう風に見ればいいんだ?」
つい数分前の自分に倣うように。黄色い案内板の前、増えた数字に頭を捻る。
恐らく先ほどの地下通路に、異変は無かった。その状態で進んだ事で、数字が増えた。
即ち、案内にあった言葉、"8番出口から脱出すること"に近づいた、と見るべきだろう。
"異変に引き返す"か"正常な通路を進む"をすれば、数字が増え、いずれ出れる、という事か。
しかし反対に、先程の地下通路に異変があり、ペナルティが示されている可能性もある。
例えば、この数字が一定まで貯まると、その時点で即死、というのも有り得ない話じゃない。
流石に前者の方が理屈として通っている気がするが、何にせよ情報が足りていないのは事実。
「となれば、次に検証するべきは────アレについてだな」
地下通路を進む。高い天井、窓のない空間、全く同じ景色がオレを出迎えた。
向かいから現れた中年男性も先程と同様。何事も無かったかのような様子で歩いている。
広告、吊り看板、その他諸々。大雑把に目星をつけ、記憶とのすり合わせを行う。
…………結果は異常なし。少なくとも、オレの知覚できる範囲には見当たらない。
念の為、おじさんの方にも意識を割いてみるが、気味が悪いほど先程と変化がなかった。
「これは異変はなし、か? …………まぁ、別にあっても良いんだけど、さ」
異変は無い、
◇◇◇
「────なるほどね。これである程度見えて来たな」
黄色い案内板の前。つい数分前の自分に倣うように、しかし納得によって頭を捻る。
恐らく先ほどの通路には、前々回の通路と同様、異変はなかったと見て良い。
そして、オレはその状態で引き返した。結果、看板の数字はゼロに逆戻りした。
この時点で先程の説の一つ、看板の数字がペナルティ表示、という線は消える筈だ。
つまり、オレが採用すべきは前者。"異変に引き返す"か"正常な通路を進む"をすれば、数字が増え、いずれ出れる、という考え方だ。
そして注目すべき点は、"間違った行動"をとった結果、看板の数字が減った事実。
"間違い"一つにつき"正解"一つ分の数字が差し引かれるのか、全て没収されるのか。
経験則で見るに、後者だろう。この手の空間が公平性を担保した瞬間をオレは知らない。
即ち、0番出口地点から始める異変探しにおいて、オレには一度の失敗も許されない。
「つまりオレは、8番出口に辿り着くまで"正解"し続けなきゃいけないワケだ」
……………………非常に面倒くさい。
それは、変わり映えのしない景色を歩き続け、血眼になって異変を探すという事。
今はまだ目立たないが、進む事、引き返す事による体力低下は免れず、集中力も削られる。
その上、失敗したらゼロからやり直し、体力と気力だけは失ったまま、と来た。
さながら賽の河原。並の人間なら、早い段階で衰弱して発狂するに違いない。
「多少慣れてるとはいえ、オレも例外じゃない。とっとと出るか」
通路を進む。タイル張りの地下通路が、変わらず憮然とした表情でオレを出迎えた。
向かいからやって来る中年男性。呼吸の乱れ、視線の位置、歩調歩幅にも変わりはない。
迷いのない彼の足取りを横目に、タイル張りの空間で、記憶のすり合わせを行う。
広告、監視カメラ、消火栓。広告の誤字なども検めてみるが、気が遠くなりそうになる。
命を賭けた間違い探し。当然に未経験の事柄に、オレは神経を擦り減らし…………あれ?
「…………冷静に考えてみれば、これって普段家でしている事と変わらなくないか?」
オレは日頃から、五分以上家を空けた際、必ず家に侵入された痕跡を探すようにしている。
主に、恨みを買った狂信者や魔術師、反社会的勢力その他縁者の対策の為だ。
盗聴器が仕掛けられていないか、何らかの魔術的処理が家具や壁に刻まれていないか。
ピッキングの跡を調べ、物の動いた形跡を調べ、隈なく、念入りに
…………うん、一緒だ。なんて事ない日々の習慣。そう考えると、少し心が軽くなった。
近しい経験があるのなら、場所は違えどコツを活かせるのが人間だ。
実際E組でも、自分の持つ才能や経験を暗殺に活かしている生徒は複数見受けられる。
コレも本質は同じだろう。培った経緯も、発揮する場所も、健全とは言い難いものだが。
しかし役には立っている。人生、何がどう響くのか、分からないものである。
「…………となれば、あと考えるべき事は、検証できてない最後のパターンについてか?」
この地下通路でオレが取れる行動は、大雑把に四つまで分類できる。
一、異変が無い状態で進む。
二、異変がある状態で引き返す。
三、異変が無い状態で引き返す。
四、異変がある状態で進む。
一、二は案内板の言葉を信用して除外。三に関しても、先程問題無かった事を確認した。
よって、問題視するべきなのは四つ目の選択肢。"異変がある状態で進んだ場合"だ。
楽観的に考えるのなら、案内板の数字がリセットされるだけで済むのだが…………。
「異変に取り込まれて殺される、とか。割とあり得そうなんだよなぁ」
異変に気付かずそのまま進めば、案内板が永遠
…………と、背筋の凍る想像を巡らせていれば、初めての異変と思しきものを見つけた。
吊り看板の裏、"地下広場"と書かれていた筈のソレが、ひどく様変わりしている。
「引き返せ引き返せ引き返せ、ね。────言われなくても」
引き返す。…………看板が1番出口に変わっていた。
◇◇◇
「正解だったな。よし、さっさと次行こう。次次」
足早に通路を進んでいく。広がる景色は、既に見慣れつつあるタイル張りの通路。
こうも短期間に連続で同じ光景を繰り返し見ていると、軽く眩暈がしてしまう。
無事にここを抜け出したとして、向こう半年は地下鉄を使うまい、と心中で誓い。
左手側にある広告から順に、記憶とすり合わせを行い、異変を探していく。
歯科医院、パート募集、ペットサロン…………確認を続けていく中で、ふと。
「しかし、この地下通路で言う"異変"は、ああいうのの事を言うんだな」
思いを馳せたのは、先程の通路で発見した"異変"について。
頭上の吊り看板の裏、地下広場を示していた案内が、別の言葉に差し替えられていた。
この異変の内容自体は想定内だったが、まだ見ぬ異変も同様の難易度なのだろうか。
その場合、"異変"とはオレが想像するよりも、分かりやすいモノの可能性がある。
タイルの枚数や、広告のネジ、誤字脱字にまで気を配る必要は無いのかもしれない。
…………まぁ、一度疑問を持ってしまった以上、確認せずにはいられないのだが、と。
「ところで、さっきからおじさんが見当たらないが…………そういう異変か?」
先程までの周回であれば、既に姿が見えていい頃合いだが、影も形も見つからない。
"おじさんが現れない異変"。有り得ない話ではないが、あまりにも分かりやす過ぎる。
この手の空間にしては加害性が小さすぎるのも妙だ。が、引き返さない理由にもならず。
オレは踵を返そうとして────鼓膜を僅かに揺らした、ごく小さな音に気が付いた。
「…………? 待て、これは…………水の音?」
遠く、かすかに聞こえた、水の流れる音。前回までの地下通路にはなかった筈のモノ。
どこかの地下水、にしては勢いが強く、かと言って外は快晴、雨雲一つなかった。
正体不明の這い寄る異変。響く音は一秒ごとに大きくなっていき────そして。
「──────!? なんで地下鉄で津波なんて発生してんだよ!?」
唐突に。不明な音の正体が、目の前で、真っ赤な自然災害となって現れた。
血液をぶちまけた様な赤黒い波が、飛沫を上げながら地下通路を蹂躙する。
目を凝らせば、波の底、見知った中年男性が吞まれているのも確認できた。
関節という関節があらぬ方向を向き、
皮膚が裂け、眼球が破裂し、口元から内臓のまろび出た様子は、ヒトの死に方ではない。
眼前に迫る、水流、奔流、濁流。一瞬にして死臭で満ちた地下通路内。
脳の奥、第六感が警鐘を鳴らす。あの赤い水に触れれば、オレはここから出られなくなる、と。
「アレはマジでヤバい!! ホントにヤバい!! とにかく退避ーッ!!!」
引き返す。…………看板が2番出口に変わっヤバいヤバいヤバい!!
◇◇◇
「ぜぇ、ぜぇっ…………っぶねぇ、ホント…………はぁ、っ…………」
黄色い案内板の前。タイル張りの壁に寄りかかって、息を落ち着けようとする。
たかが十メートル前後の走駆だったが、異常な疲労感に全身を襲われていた。
正直に言って、陸上部だった頃の全国大会以上に必死に走った気がする。
どうやらあの津波は、先程の長い地下回廊を越えてこの看板までは来ないらしい。
ある意味でここは、セーフルームのような場所なのかもしれない。
「しかし、油断してた…………てっきり、間違い探しの様なもんだとばかり…………」
"ある筈の物がない"や、"あるものが別のものになってる"が、オレの想定だったのだが。
あの津波の例から察するに、"無い筈の物がある"という異変も存在するらしい。
それだけならまだしも、 "異変"が直接こちらを害してくる場合もあるようだ。
こういうパターンがあると知った以上、警戒しておくに越した事は無いだろう。
…………分かってはいたが、この空間も意地が悪い。こんな場所、早く出るに限る。
先へ進む。地下通路は変わり映えもせず────いや。通路の中央、明らかな"異変"がある。
通路の向こう側からやって来る、中年男性の姿がない。その代わり、別の人影が見えた。
身に着けているのは、椚ヶ丘学園の制服。灼けるような髪と、支配者然とした紫紺の瞳。
右腕に付けた生徒会長の紀章はどこか誇らしく、或いは王冠のようでさえある。
見覚えのあるその出で立ちは、オレのよく知る支配者の血統を継ぐ者のソレそのもの。
椚ヶ丘学園主席、五英傑の頂点、歴代最優の生徒会長────浅野学秀が、そこにいた。
「くッ、あっはははは────!! うわ、え、マジで!? 嘘だろお前、ホントかよ!?」
────ただし、性別が女性になった、という枕詞付きの。
腰まで流れた、灼けつくような長髪が、無機質な蛍光灯の明かりに濡れている。
華奢な首筋を彩る白磁の肌は、今にも手折れてしまいそうなほど細く、儚く見える。
さながら彫刻。こと美しさにおいて、至高のビスクドールさえ彼女の足元にも及ばない。
完成された芸術のような少女。記憶の中の浅野学秀とは、微塵も符合しないが、しかし。
オレの知る姿とは別に────
「うーわ…………無駄に美人だなコイツ。無表情ってのがむしろ壮絶だわ」
警戒しつつ少しだけ近づいてみれば、寒気のするほど整った浅野の顔が目に入る。
オレの知っている浅野学秀も美形だし、女性になってもそれは変わらないのだろう。
尤も、その表情は凍り付いたように動かず、呼吸はおろか、瞬き一つ見受けられない。
心臓すら動いているか怪しい────まず間違いなく、目の前の少女は生きていない。
「…………っと。流石に異変だよな、コレ」
引き返さない場合どうなるのかが不明瞭な以上、最早長居する理由はない。
オレは踵を返そうとして────
「────秋、野。キミ、なのかい?」
背後からの声に、即座に振り返る。視線の先で、灼けるような長髪が揺れていた。
少女の纏う雰囲気が、一秒前とはまるで別物のように、生命力に溢れている。
正常な呼吸をして、心臓が脈打って、全身に活力が巡っているのが見て取れる。
目線が交差した先に、意思の通った紫陽花の瞳。純粋な驚愕の色は、確かに人間のソレ。
どういう訳か。この少女は一瞬にして、彫刻から血の通った生命へと昇華していた。
「ボク、いつの間にこんな場所に…………と言うか、秋野、今まで一体どこに」
「ちょっ、ちょっと待て。その前に確認させてくれ。お前は浅野、で、合ってるんだよな?」
「はぁ? …………なにさ、少し見ない間にボクの顔も忘れたの? ボクだよ、浅野
覚えているだろう? と笑い掛ける少女に、オレは一切の見覚えが無い。
飽くまで覚えがあるのは、浅野学秀と言う男であり。こんな少女では決してない。
軋むような違和感。自身の記憶の正常性すら疑うが、やはりオレは彼女を知らない。
過去を侵食されていくような不快感。目の前の存在に対する不信が募っていく。
けれど。浅野
「状況はよく分からないけど、まぁ、今はいいや。さ、ボクと一緒に帰ろう、秋野」
「は…………帰る? 帰るって、どこにだよ?」
「何言ってるのさ、帰るって言ったら────あっちに決まってるだろう?」
少女が指を差した先は、長い地下通路の向こう側だった。
──────なるほどね。そういうカラクリってワケだ。
「キミが死んだ、なんて宣う嘘つき共に知らしめてやろう。"秋野空は生きてる"ってさ!」
どろりとした感情が覗く。その声音には、殺意すら乗っているようだった。
「…………見ての通り、オレは生きているが?」
「うん、知ってる。だから秋野はボクの目の前にいるんだろう?」
「…………浅野
「それも知ってる。だからほら、ボクと一緒にあっち側に行こう、秋野」
浅野学夏が、右手を差し出した。瞬間、
彼女に着いて行けば、自分は助かるという、漠然とした確信が脳の奥から湧いてくる。
行かなくては。行かなくては。行かなくては。行かなくては。行かなくては。行かなくては。
単一に染め上げられていく思考。意思という意思が溶かされ、たった一つの行動に形作られる。
手を取れ。それだけで息が続く。手を取れ。オマエの願いは叶う。手を取れ。そうすれば────
だから、オレは。彼女に差し出された右手を、オレは────
「…………え」
──────パン、と。乾いた音と共に、振り払った。
「やるならもう少し真面目に擬態しろよ、間抜け」
呆然と、打ちすえられた右手を眺める少女。赤くなった手の平を横目に、オレは踵を返す。
まさか思考汚染までして来るとは。油断していたつもりはないが、見誤っていたらしい。
生憎と、擬態の精度があまりにも低かった事もあり、汚染を抜け出すことは容易かったが。
こういう"異変"も存在するのだと、胸に留めた折。背後から、縋るような声がした。
「ま、待って。待ってよ、秋野。…………お願い、だから。もう、ボクを置いて、行かないで」
「──────ハッ、冗談だろ。立ち止まったのはオレの方で、置いて行ったのは
引き返す。…………看板が3番出口に変わっていた。
◇◇◇
「あーあ、酷い目に遭った。…………休みたいけど、先を急ぐとするか。早く出たい」
黄色い案内板の横を抜け、長い地下通路へと足を運ぶ。見える景色は、凡そ通常のモノ。
通路の奥からやって来る中年男性も同様。軽い呼吸の乱れまでまったく同じだ。
前の前の異変では、津波の中で惨たらしい死に方をしていたが、その痕跡は一切ない。
やはりこのおじさんも異常空間側、元からそういうカタチをした人形なのだろう。
「広告は問題なし、と。…………しかしここ、"誰かが出てくる異変"ってのもあるんだな」
思い返したのは、先程遭遇した"浅野
女体化した浅野学秀の姿は愉快だったが、しかし。それ以上に体験として不快だった。
浅野学秀と同一存在を僭称しながら、言うことに欠いて"置いて行くな"などと。
全くふざけている。オレには出来ない事でも、アイツなら至極簡単にやり遂げられる。
真実、浅野学秀とはそういう人間で、間違ってもオレが"置いて行く"人間ではない。
「まぁ、不快な体験なりに収穫があったのは救いだな」
…………どうやら、オレに馴染み深い人物が異変として現れるケースもあるらしい。
今回の場合は、浅野学秀──の姿を模したのだろう──浅野学夏を名乗る少女。
"模した"と表現したのは、実際の浅野学秀とあの少女に同一性は無いと考えられるからだ。
なんせ、アイツが女になってこの異常空間に囚われて死んだ、とか考えにくいし。
となればアレは────オレの記憶から、近しい人物に擬態させたナニカ、と見るべきだ。
「そう考えると、最初の方に何の反応も無かったのにも納得がいく」
時間経過によって自我のようなものが発現したのは、記憶の読み取りのいわばラグ。
オレの知る浅野と、容姿に差異があったのも同様。異変につくズレと呼称すべきだろう。
言動の異常や、人格が現れるまでの時間を鑑みるに、記憶を読む精度は高くないと思われる。
────それに加え、あのふざけた言動から察するに、自我と言っても表面的なもの。
本質はあの、"こっち側に来い" "置いて行くな"が全てだろう。
恐らく、あのまま引き返さなければ、地下通路の異変に取り込まれ死んでいた、といった所か。
わざわざオレに近しい人間の容姿を使って行う辺りに、この空間の意地の悪さが見える。
「改めて悪辣な空間だな、吐き気がする。…………と、ここには異変はなさそうだな」
進んでみる。…………看板が4番出口に変わっていた。
◇◇◇
「これでようやく折り返しか。…………先は長いな、嫌になる」
黄色い案内板の前で溜息を一つ。しかし足を止める理由はなく、長い地下通路へ。
出迎えた景色に、一目で分かる異常は無い。少なくとも、津波や不明な何者かは存在しない。
取り敢えずは真っ当な"間違い探し"を始めるべきだろう、と。記憶の照合を開始する。
広告ポスター、変わった点はない。監視カメラ、相変わらず起動している様子はない。
消火栓設備、問題なく稼働している。吊り看板、誤字脱字/異常な文言は見当たらない。
分電盤室、従業員専用口、清掃員詰所。それぞれの扉も、鍵が閉まったまま、開かない。
…………探した範囲では、この通路内に異変は見当たらなかった。進んでもいいだろう。
正直、身体は疲れつつあるが、日々のルーティーンの甲斐あってか、まだ幾分余裕がある。
この調子で異変探しを終わらせよう、と────不意に、通路正面からの視線を感じた。
「──────ッ!」
即座に目線をそちらに向けるが、見つかったのは、歩きスマホをしている中年男性だけ。
念の為、警戒しつつ彼の目元を観察してみるが、特段変わった様子は見受けられない。
変わらない歩調、視線もスマホに落としたまま…………こちらを認識する気配はない。
つまり、視線の正体はもっと別の第三者によるもの、と考えるのが妥当、なのだが。
妙な違和感が喉の奥に引っかかる。目に限らず、彼の全身を観察してみれば────ふと。
「────待て。スマホを持った右手の指、見間違いじゃなきゃ一本多い…………?」
刹那、中年男性の頭蓋が、ぬるりとこちらを向く。
醜悪に歪んだ瞳が笑い掛けてくる。耳まで裂けた口と、その中から覗く何十という視線。
固形を保ちながら沸騰する皮膚。花が咲くように、肩部から無数の腕が生え出した。
無数の腕が、蠕動するように拍手している。手を鳴らす。繰り返す。手を鳴らす。
響く、鈍い拍手の音。目の前の怪生物は、ただ、無数の目でこちらを見つめていた。
腹の底から湧く、生理的嫌悪。吐き気のするような────神話的事象との遭遇だった。
「……………………」
「……………………」
……ばちん。……ばちん。……ばちん。……ばちん。……ばちん。
タイル張りの地下通路。無機質な間隔で、固い肉のぶつかる音が乱反射する。
間合いは十メートル強。強襲する事も、逃走する事も選択可能な二者の距離。
だが────動けない。ヤツの出方を見極めないままに動けば、間違いなく死ぬ。
後手に回らざるを得ない状況。鼓膜を破るような拍手の音を、奥歯を噛んで耐える。
……ばちん。……ばちん。……ばちん。……びき。
五分か、十分か。或いは一分未満の時間を経て、しびれを切らしたのはヤツの方。
拍手が停止し、代わりに身体中の血管が隆起する。全ての腕は鬱血したように肥大化。
無数の眼球は例外なく充血し、瞳孔まで赤黒く染まり、そして────最後に爆ぜた。
同時、二本の脚で接近する神話生物。爆ぜた血を被り、笑顔のまま、腕をこちらへ伸ばす。
『ィ、ィ、ィ、ィィぃィぃ──────!!』
疑いようの無い害意と殺意。接敵するまで僅か三秒、戦闘と逃亡、天秤が傾いたのは。
「当然、逃げるに決まってるだろ! 異変を見つけたら引き返せってな!!」
引き返す。…………看板が5番出口に変わっていた。
◇◇◇
「────ふぅ、逃げ切れたか。やっぱ、この案内板の前はセーフエリアっぽいな」
黄色い案内板の前で、軽く一息。本日二度目の全力疾走は、中々身体に堪えるものがあった。
オレの背後に、追い縋る影はない。遠く、僅かに奴の声が聞こえたが、すぐに消えた。
どうやら、"異変"自体の意思に関係なく、この辺りまで引き返せば干渉できなくなる様子。
異変から引き返すにあたり、取り敢えずここまで逃げ込めれば、事実上の勝利という訳だ。
「はぁ…………しっかし油断も隙もないな、この空間」
あのおじさんも異常空間側の存在である、と。念のため目を付けておいて良かった。
奇襲の機会を伺っていた様子だったし、警戒がなければ、簡単に殺されていただろう。
或いは、直接の死は回避できても、行動不能になる程の大怪我を負っていた可能性は高い。
手持ちに煙草を含む戦闘用の物品が無い以上、戦闘にもつれ込んでも実質敗北、死だ。
今オレが無傷でいられるのは、半ば奇跡といった所。…………オレの人生こんなんばっかだな。
「気が滅入りそうになる…………この空間にあてられたか? とっとと進んでおくか、これは」
先へと進む。出迎えた長い地下通路、見慣れた筈の景色に────"異変"が見て取れた。
蛍光灯が砕けていた。飛び散ったガラス片、窓のない地下通路は、暗闇に沈んでいる。
白かった筈のタイルの壁は、ところどころ赤黒く染まり、鉄の臭いが辺りに充満していた。
死臭を運ぶ、生温かい風が吹く。肌に触れる感触は、怪物の吐息の様に湿っている。
正面左手、通路に張り付けられていた六枚の広告板は、見知った顔が並ぶ遺影に変わっていた。
そして、地下通路の中央には、遺影にそっくりな笑顔で佇む────オレの両親の姿があった。
「──────悪趣味だな、これは」
二人は動かない。まだこの通路に入ってから、然程時間が経っていないせいだろう。
或いはその姿は、生命の宿らない蝋人形を想起させるモノだったが、しかし。
暗がりでも見間違える事は無い。心臓が脈を打っている、静かに呼吸をしている。
何年も前、永遠に失われたはずの命が、今オレの目の前で、確かに存在していた。
………………ギリ、と。奥歯が軋む音がする。
オレの理性が囁く。────これは異変だ。即刻引き返すべきだ。
二人の顔で、二人の声で、ふざけた真似をされる前に、この場から立ち去らなければならない。
理解している、が。両脚が縫い付けられたように動かない。異変ではない、オレの意思のせい。
数年前、なんの前触れもなく零れ落ちていった筈の命が、今こうして目の前にある現実。
錯覚だ、分かっている。姿形を似せただけ、目の前にあるのは、もっと別のナニカでしかない。
「どうも、オレの軽口を真に受けたらしいな。この異常空間」
擬態はもっと真面目にやれ、などと。あの程度の挑発でも、案外その気になれるらしい。
下世話にもヒトの記憶を盗み見て、悪趣味な労力を重ね、こんな"異変"を作り上げた。
この二人が、オレの記憶から造られた存在だとすれば、なるほど。確かに記憶と全く同じ。
美化もせず、風化もせず。死んでいったあの日の姿そのままに、オレの目の前で立っている。
「忌々しいが、唯一血を分けた存在として、確信できる。アレは…………本物だ」
認めた瞬間。脳裏に溢れたのは、数年間溜め込み続けた、両親へと伝えたかった言葉。
学校の事、私生活の事、二人がいなくなった後の事。日が暮れても言い尽くせない言葉の数々。
姿を見ただけでこのザマだ。例え偽物であっても、意思が芽生えれば、どうなるか分からない。
────少なくとも、両親の
先の例から言って、自我──を模したモノ──を取り戻すまでの時間は残り僅か。
もしその時が来れば、オレはきっと判断を誤ってしまう。後悔すら抱かないままに。
…………別れか、或いは死。両立できない二者択一、取るべき選択肢は明白の筈。
ならば、オレをこの場に縛り付けるのは、ただの未練。未熟な心の在りようそのもので。
────だから、せめて。ちょっとした用事くらい済ませてしまおう、と。口を開いた。
「父さんに、母さん。────こんな状況だけど、さ。久々に顔が見れて、嬉しいよ」
本心を言った。二人は微笑んだまま。帰ってくる言葉はない。
「二人にどんな顔して良いか分かんなくてさ。写真とか、目につかない場所に置いてたから」
事実を言った。二人は微笑んだまま。帰ってくる言葉はない。
「オレは元気。身体の調子も凄く良いし、学校だって、今は楽しいんだ。ホントホント」
大嘘を言った。二人は微笑んだまま。帰ってくる言葉はない。
「あー、だからさ、心配いらないよ。たまーにこういう変な事も起きるけど、もう慣れたし」
現実を言った。二人は微笑んだまま。帰ってくる言葉はない。
「また、次の月命日にでも、墓参りに行くからさ…………だから、またね。父さん、母さん」
二人は微笑んだまま。帰ってくる言葉はない。────その事実に満足して、背を向ける。
耳を塞いで、来た道へ。間違っても、"いってらっしゃい"なんて言葉が聞こえないように。
背後で誰かが身動きする気配にも、気づかないフリ。振り向きたくなる衝動を、噛み砕く。
もう永遠に見る事の叶わない、あの優しい眼差しを求めないよう、肺の空気を絞り出した。
引き返す。…………看板が6番出口に変わっていた。
◇◇◇
「………………しんど」
悪態をつく気力も無く、地下回廊を進む。出迎えた無機質な空間は、記憶と同じ。
壊れていた筈の蛍光灯は仕事を再開し、血に濡れていた筈の壁面は白く輝いている。
張り付けられた遺影は無く、代わりに存在したのは、六枚分の広告ポスターのみ。
通路中央に佇んだ、二人分の影も無く────何もかも元通り、といった風情。
当然と言えば当然の話。あの場の二人は"二人"であり、この世の異物だったのだから。
…………そこに思う部分が無い、と言えば嘘になるが、今は飲み下して、周囲を見渡す。
「あのおじさんは…………問題無しか」
前々回の事もあるため、一応前方の中年男性も警戒するが…………今回は異常なしらしい。
歩調歩幅、視線の位置。指の本数に至るまで、全てが正常。害意も敵意も感じなかった。
取り敢えず、今回は異変があったとしても、直接命を奪うようなソレではないようだ。
小さく息を吐く。オレは少しばかり警戒の糸を緩め、通常の"間違い探し"を開始する。
記憶の照合をしていく中で、不意に。脳裏に浮かんだのは、取り留めのない事だった。
「あーあ。────ちょっと惜しい事したかなぁ、オレ」
本当に良かったのか、と。自問する声が心中に響く。思いを馳せたのは、先の異変について。
この異常空間では、オレの記憶を用いて親しい人間の姿を形作り、顕現させる"異変"がある。
オレの記憶から編まれたモノである以上、魂の有無は兎も角、あの肉体自体は"本物"だ。
言ってしまえば、時間遡行によって、両親の身体を現在に引っ張ってきたのと変わらない。
声も、眼差しも、全身に流れた血液も。全てはあの日、オレの目の前で死んだ、二人のまま。
だから、或いは一度きり。もう殆ど思い出せなくなった、あの優しい声を聞いてから引き返しても、遅くはなかったのでは、と。
「…………いや、ないな。やっぱりない、それはない」
当たり前だが。人間を人間たらしめる最低条件は、肉体ではなく精神にこそ存在する。
イスの偉大なる種族がヒトの身体に乗り移ったとして、それは間違いなくイスであるように。
反対に、肉体を非人間のソレに変えられたとしても、高潔な精神を以てヒトと証明するように。
たとえ器が本物であっても、浮かぶ者がこの異常空間の表出なら、やはり偽物なのだ。
きっとあの場に留まった所で、二人の人生に泥を塗る茶番しか、始まらなかった筈だ、と。
だから、後ろ髪を引かれる理由なんてないのだと。──────真実、その筈だと。
「よし、ここには異変は無いな。………………先へ、進もう」
進んでみる。…………看板が7番出口に変わっていた。
◇◇◇
「はぁ…………よくやく7番出口か。ここに来るまで、短いようで長かったな」
いい加減に見慣れた、黄色い看板の前。積み上げられた数字を見て、息を吐く。
あともう一度、この先の通路で"正解"することが出来れば、オレはここを抜け出せる。
両手の指で足りる程度の試行回数で、何度"異変"に殺されかけた事か分からない。
正直、気力と体力の消耗が当初の想定以上に激しい。変わらない景色にも辟易だ。
仮にここで失敗した場合、もう一度ここまで来れるかどうか。…………事実上、次の"間違い探し"にオレの命が賭かっていると言っても過言ではない。
「…………けどまぁ、生憎。その程度で緊張するほど、ヤワな人生は送ってないんでね」
先を急ぐ。オレを出迎えたのは、息の詰まる閉塞感と、見慣れた地下回廊の姿。
変わらない無機質な蛍光灯と、それに照らし出された六枚分の広告ポスター。
右手側には三つの鉄製扉。手前から順に、分電盤室、従業員専用口、清掃員詰所の文字。
他にも、消火栓設備、稼働していない監視カメラ、8番出口を示す吊り看板。
そのどれもこれもが、オレの知る"普通"の景色に相違なかったが、しかし。
目線の先。オレは──────通路中央に、何度目かの"異変"を発見した。
「────、──────」
オレが思うに、この異常空間の
例えば通路内に異変を見つけたなら、当然引き返す。その時の行動には、"確信"がある。
引き返した際、黄色い案内板の数字が進んでいる事を、信じて疑わなくなるのだ。
しかし反対に、通路内に異変が見つからなければ、"不安"の中で進む必要性に駆られる。
特に現状のような、綱渡りの状態で感じる漠然とした不安は、精神を侵す毒になる。
結果、判断能力を衰えさせ、何か致命的な失敗を齎すことになっても可笑しくない。
その点で言って、オレは幸運だ。今、異変が見つかったのなら、後は引き返すだけ。
けれど、オレは──────微笑むように揺れた、銀糸の髪を見てしまった。
「────そう、か。そりゃあ、二人が出てきたんだもん、な。そういう事も、あるのか」
納得に息を零せば、それで呼吸が止まる。────意識が一つに定まったまま、動かせない。
無機質な蛍光灯の下。無粋な明かりにあって色褪せない、宝石にも似た、紅い双眸。
地下数十メートル、異界化した地下通路にあっても尚、少女の佇まいは現実離れしている。
陽光を知らぬ、無垢な首筋。生命を忘れた美しさ。纏う気配は、蒼白の月光によく似ていた。
出会ったあの日のままの装い。…………鮮血を浴びた真白いローブさえ、どこか清廉だった。
脳裏に浮かぶ、"異変"という言葉。記憶から死者すら顕現させる、異常空間の
引き返す以外の選択肢はない。けれど、それを塗り潰すだけの感情が、胸中に満ちていた。
思い出す。今は遠く過ぎ去った、ある冬の出来事。あの日手放してしまった、大切なもの。
────目の前に、永遠に失われたはずの"もしも"が存在する現実を、ただ。
一秒にも満たない、永遠の忘我。言葉も無く。彼女の下に駆け寄ろうとしたオレに────
「──────、────」
来てはいけない、と。少女は、首を横に振って拒絶を示した。
「…………分かってる。ほんの冗談。…………だから、そんな顔しないでくれよ」
目を伏せたのは、一体どちらだったのか。重たい沈黙が、互いを包み込んで離れない。
もう一度、再会する事が叶ったのなら、と。夢想した夜が無いと言えば、嘘になる。
けれど現実に相対してみれば、取り留めのない言葉が、浮かんでは消えての繰り返し。
伝えたかった言葉は、掃いて捨てる程ある筈なのに。口を衝いて飛び出したのは、つまらない事。
「………………なんだか綺麗になったな、お前。いや、元々美人だったけどさ」
眼前の少女は、記憶にある姿よりも少しだけ背丈が伸びて、目線もオレに近づいていた。
髪も少し伸びただろうか。過ぎた時を告げる銀糸。血の通った在り方が、良く似合っている。
彫刻の様な冷たい美と、有機的な人間の美。相反する二つが、奇跡的に両立していた。
或いは。あの日、彼女が生きていたなら…………こんな未来も、あったのだろうか。
と、視線を逸らされた。────まぁ、オレなんかに褒められても嬉しくは無いか。
「オレの方は…………まぁ、それなりだ。お前は居ないのに、なんでか息が続いてるよ」
部活も辞めた。E組にも落ちた。こうして、邪悪な事態に巻き込まれるのも変わらずだ。
けれど、生きている。誰かが望んだ明日を、お前が生きられなかった未来を、オレは生きている。
例えそれが、悪夢に飛び起きて、味気ない食事をし、薬で眠るような生活だったとしても。
────それでもオレは、生きていた。心臓の鼓動するがまま、お前のいない世界を、ただ。
不意に。彼女は少し、嬉しそうな顔を見せた。…………普通、恨みがましい顔をするだろうに。
「あ、けどオレも一年しない内に、そっちに行く事になった。なんでも、来年地球は滅ぶらしい」
月の七割を蒸発させた超生物。超音速巡航をこなす旧支配者、かの
いかなる手段を以ってしてか、既に彼の神性はこの星に降り立ち、召喚は完了していた。
そして、四月に椚ヶ丘学園へ赴任し、担任となった奴は、地球を壊すと言って憚らない。
最早状況は手遅れ。アレを殺した所で、既に起動した権能が、来年にはこの星を消す。
回避は不可能、足掻く事にすら意味のない滅亡。なんとも生まれた甲斐の無い話だと思う。
…………そして。彼女にすれば、ひどく面白くない話だろう、とも。
「あー、言いたい事はまだまだあるが──────生憎と、そろそろ引き返す頃合いだ」
名残惜しさに胸が軋むが、しかしキリがない。泡沫の夢と思えば、この辺りで醒めるべきだ。
死者が蘇る事は決してない。ならば目の前の彼女は、遠い日に置いて来た影法師のようなもの。
未来永劫交わることの無くなった星の巡りが、運命の悪戯によって重なった。それが今の状況。
謂わば、流れ星が交差するような刹那。──────それが、今のオレ達を繋ぐ唯一だった。
「………………じゃあな。きっとまた会えるさ。その時にはまた、二人で─────」
引き返す。…………看板が8番出口に変わっていた。
◇◇◇
それから。黄色い案内板が示した先に、異常空間の外へ繋がる階段が現れた。
白い案内板の、"8番出口から外に出ること"という文言は、真実その通りに。
階段を上った先に現れたのは、見慣れた地下通路の景色ではなく、往来の激しい広い構内。
眼前を過ぎていく人影に見知った顔は無く、存在しない出口を告げる案内板も、もうない。
────ここに。あの異常空間からの脱出は叶ったのだった。
「はー…………ようやく出れた。…………シャバの空気が美味いな、最高だわ」
…………まぁ、さっきのが地下二階、今が地下一階なので、実際大した違いは無いのだが。
それでも、無意識に内に掛かっていた精神的負荷が、確かに外れていくのを実感する。
ループもそうだが、やはり閉鎖的な空間は良くない、それ自体が精神を圧迫してしまう。
遭難者を衰弱させるのは、飽くまで地形的理由、という辺り、あの空間も性格が悪い。
「あのまま出れないようなら、ホントにどうしようかと思ったぜ…………」
──── 一応、最悪の場合の緊急脱出方法が、あるにはあった。
第一に、オレが扱う魔術の内、"霧"の結界は結界内のモノの座標を曖昧に変える性質がある。
"霧"の中であれば、術者はあらゆる場所へ自在に行き来する事が可能になる。要は疑似ワープだ。
そして第二に、あの異常空間の
この時点で、あの結界は次元を繋げた循環型ではなく、ツギハギによる無限回廊だと分かる。
つまり、地下通路が構築されるより早く、"霧"の結界を最高速で展開し続け、"霧"の先端が建物を抜けた瞬間に疑似ワープできれば、一発で抜けられた可能性がある。
「…………まぁ、切り札の煙草も無いし。成功したかどうかは五分五分ってとこだけど」
最悪の場合、命の危険に晒された状態で、魔力切れによる気絶の可能性もあった訳で。
実際、オレは正攻法で抜けられたのだから、やはり実行に移さなくて正解だったのだろう。
「っと、今の時間は…………午前七時過ぎ、殆ど進んでない。大方予想通りって所だな」
そこまで確認して、そういえば自分は"行事"の為、遠出の最中だった事を思い出した。
現在位置は、東京駅地下一階某所。目的地に行くには、ここで乗り換えの必要がある。
次に目指すのは、東京駅二階、十七番線に待機しているであろう東海道新幹線だ。
正直、旅行前とは思えないほど、既に疲れている。本音を言えば、帰って寝たい。
…………が、かと言ってここで引き返すのも、あんな目に遭った甲斐が無い。人生における"無理のしどころ"があるとすれば、それはきっと今なのだ。
「とは言え、保つかなオレ。この後に行事────
つい先日終了した、一学期中間考査。ご褒美代わりの
神性が担任を務める暗殺教室、三年E組も例外ではなく。京都へ向かうため、こうして駅に。
どうやら旅先でも
というか実際、オレに殺せんせーを暗殺する気力など、もう微塵も残っていない。疲れた。
「やっぱ、しおりに書いてある事って大事だな。ちゃんと従っとけば良かった」
修学旅行のしおり十ページ目。"普段とは違う行動は、可能な限り避けましょう"という文言。
全く以てその通りだ。まさか、好奇心で地下鉄を使った程度で、あんな出来事に遭遇するとは。
修学旅行でやってはいけないミスの、五指に入る行動。"やってはいけない"理由が分かる。
前日に間違いなく確認していた筈だが、不意の好奇心に身を任せたのが失敗だった。
「…………流石に懲り懲りだ。暫く下手な行動はやめよう。てか地下鉄も避けよう」
旅先どころか、乗り継ぎの地下鉄通路で死にかけている以上、今日の運勢はボロボロだ。
だが裏を返せば、ここで酷い目に遭った分、遠出先は平穏でいられる、とも考えられる。
年に一度の修学旅行。せっかく誘って貰った班活動。精一杯楽しみたいのが人情だ。
幸い、時間の経過から新幹線に遅刻、なんて目の当てられない失態は演じずに済みそうだし。
「取り敢えず行こう。休憩するのは…………まぁ、新幹線に着いてからでも遅くない」
軽く伸びを一つ。心を入れ替え、歩き出そうとした瞬間────意識の外、人の波に襲われた。
秋野空:この後普通に遅刻。旧支配者(推定)にしがみつく恐怖体験をする。
浅野学夏:TSした世界線の浅野学秀。最近親しかった友人が死んだらしい。