嫌になるくらい吹き出る汗、いつまでも落ち着かない呼吸、どこまで人間を苦しめられるか競争している南風と太陽――だから夏は嫌いだ。何度もどうしようもならない自然に対して呪詛を吐きながら坂を上っていく。上って汗が拭い切れないまま学校に辿り着く、この瞬間がたまらなく嫌になる。
これからまた炎天下で走らなきゃいけない。文化部だっていうのに、運動部に混ざって走らなきゃいけないのもどうかしている。でも肺活量がなければ、綺麗な音色を奏でられないのも事実で――ああ、早く夏が終わらないかなって吹奏楽部に入部している時からずっと願っていた。
うんざりするような晴れた空、少しぐらい雨降ったっていいのに。ため息が零れるだけの廊下を一人歩く。部室に来たら、もう既にミーティングの座席に着いた中等部の学生がちらほらと、これから立って聞く人間が出てくるほど人が集まる。
冷房があんまり当たらない窓際の席に座って、楽譜と適当ににらめっこ。色々と線とか文字が書き込まれていて、本来のメロディーが分からなくなりそう。
中学生活最後のコンクール、どうせ私は代表に選ばれずに終わるだろう……普通の学校ならあり得ない話だけど、生徒数とか部員数とかが多い羽丘だったらわりとよくある話。別に選ばれなくても私には何も背負うものはないし、追われるプレッシャーなんてない。だから思う、あの人は――数々の実績を残してきた人を姉に持つあの先輩はどんな気持ちで中学三年の夏を迎えたのだろう、と。
――私があの人を初めて見たのは、小学生のとき。母親に連れられ、特に興味もない演奏会へ観に行く羽目になって、演奏が始まったら寝てればいいかと思ってた。でも寝ることはできなかった、トランペットの力強い音色が嫌でも鼓膜を震わせたから。
正直、上手いとか下手だとかは今でも分からない。それでも私の心に響いたのは、あの人が吹いたトランペットのソロだ。どうしても頭から離れなくて、気づいたら羽丘に。
追いかけた人、ものすごく素っ気ない人だったのは覚えてる。「私を追いかけても何もないよ」って冷たく言われた、でも見た目通りの厳しい人だろうって予想はできていた。あの人みたいなトランペットを吹きたくて、とにかくついていった――ついていけばいくほど気づいてしまう、色んな言葉が飛び交っていることに。
四つ上のお姉さんは中等部時代も高等部時代もトランペット隊のエースとして、または優れた部のリーダーとして才覚や人望を思うがままに発揮した才媛だとか。比べて妹は努力こそ認めるものの才能もなければ厳しい態度しか取らないから付き合う人間なんていない。今年のコンクールは無理だろうな、特にトランペット隊はあんな状態じゃ。
ひそひそと突き刺さる棘、見れば見るほど無自覚にみんなが重圧を背負わせる。期待に応えなければ、あいつはって無責任に指さす。なんていうか、本当に人間って勝手だなって思い知らされた。
別に私はあの先輩のやり方が好きだとは思っていない。ただなんとなくあの人を追いかければ、また胸が震えた光景に出会えるかなってだけ。でもついていったらいったで、いいことはわりとあった――というより近くにいないと見れないことがたくさんあったっていうのが正しいか。
ちゃんとしないといけない部分で少しいい加減に流れそうな瞬間、それは良くないってはっきり言うところ。しかも指摘しているところは全部問題になっていることとか課題になっていることについてばかり……まあ言い方厳しいからどうしても反感買いがちだっただけど。
あと意外と何かこう奢ってくれる、気遣ってもらえる。練習後、たまにカフェオレを奢ってもらった。別に奢ってとは言ってないけど……ただ相談乗ってもらうついでに何かくれた、お金大丈夫だったのかな、心配しても仕方ないけど。
本番前とか本当に優しい言葉をかけてくれたのは今でも覚えているし、何度思い返す度に驚いている。ずっと険しい目つきと当たりがキツイ口調しか知らなかったから。人によってはやっぱり受け入れなれかったみたいだけど、私はあの人のバカみたいな不器用すぎる温かさが好きだったかもしれない。
今思えばきっとあの人はバカみたいに真面目で、バカみたいに人に優しくて、バカみたいに自分に厳しかったんじゃないかな。だから、今は羽丘にいなくて――。
なんて思い出を追いかけていたら、いつの間にか冷房なんて効かないぐらい人が密集していた。また飛び交うひそひそ話、今年のコンクールどうなるんだろうねー、今回ホルンとかサックスの倍率やばくない? 蝉の鳴き声なんかよりも嫌いな人の声、頭の中で拒絶反応が起きて嫌になる。
ねーねー、今年はトランペットどうなると思う? 右斜め後ろの席から同じ楽器を担当している同級生が話しかけてきた。
多分固定は何人か、あとは二年生がどれだけ食い込むかじゃない。そっかー、あたしら厳しいかなー。とりあえずやるだけやるだけっしょ。何かあんた椎名先輩に近づいてきたね。
椎名、どくんと心臓が跳ねた。別に私、あの人ほど厳しくないし。だよねー、あの人厳しすぎるしー、今年はいなくて良かったー。ムッと、少しだけ眉根が寄っていく。
ドアが開く音、聞き慣れた威圧的な高い足音、一斉に静かになる。顧問の先生が教壇に立ち、部員全員が注目。彼女が口を開く瞬間、誰かが生唾を飲み込んだ音が聞こえた。
今年の夏は――予選までに行われるオーディションとか練習とかスケジュールについての簡単な説明と事細やかな諸注意、メモするのがバカらしいほどの話でとりあえず配られたプリントだけ見て大まかに把握するだけ。どうせ最後の夏はステージに立てない、オーディションあっても特に覚えている必要なんてないや。
先生の話が終われば、体操着に着替えて外周。どこかでサボれないかなと抜け道を探しながら、結局最後まで走った。手を抜くところなんて分からないまま、嫌なぐらいあの人と一緒。
くたくたになった帰り道、電車に乗って最寄り駅まで。今日も疲れたねーなんて言いながら適当にだべる。ふと座席を見やる、私と同い年ぐらいの人が座っている――何故か不思議とその人からずっと目を離せない。
なんとなくあの人に似ている気がした。意外と手入れしてそうな長い黒髪、厳しそうな切れ長で吊り上がった紫瞳、誰もが見ても疎遠しそうな仏頂面。あの人を彷彿させる材料は隅から隅まで散りばめられて……あれ? この人、本人じゃ――思った瞬間、目が合う。
どこまでも真っ直ぐで力強い眼光、思わず顔をそらした。面影橋とアナウンスが流れる、助かった……同級生にまた明日と言って足早に降車。けど誤算だと気づくにはまだあの人のことを知らなかった――ねえ、と低い声で呼びかけられて足が止まる。
身を守るように鞄を胸に抱いて、ゆっくりと振り返っていく。視界に映るのは白いシャツジャケットと黒のTシャツ、デニム系のタイトスカートにスニーカーと実に淡白な彼女らしい私服姿、脳裏からずっと離れない人である
あまり知りたくなかった事実だけど、彼女と私は近所らしい。学年近かったのに、あんまり面識なかったのは多分私がさほど人に興味を持たない性格だからだと思う。彼女も多分人に特別興味を示すタイプじゃないだろうし、中学で同じ部活になるまではお互い顔さえ覚えてなかったかもしれない。
いや“お互い”だとか“顔さえ覚えていない”は違うか。私は小学六年生のときからずっと覚えている、トランペットの音色も。向こうは本当に覚えていなかっただろうけど。
というか、近所だったことさえ今知ったから向こうがこっちの顔を覚えたのが中学のときに決まっている。彼女がいた羽丘にいたとき、私は徒歩で通っていたし。時間かかったんだけどさ、何か人と混ざるのが嫌で今まであまり電車通学をしてこなかった。
おまけに彼女は最後まで居残り練習をしていた――お得意の居残りだよ、なんて嫌味言われながらも誰よりも長い時間ずっと音楽に費やして。だから一緒に帰ることなんてほとんどなかった。あったかもしれないけど、私は徒歩で帰ってたと思う、多分。
言い訳が簡単に連なるほどの硬直が続く。ねえ、と呼び止められて吹部の子でしょ、までは会話は進んだ。でもなんとなくお互い気まずいのか、久しぶりみたいな言葉が出ない。
私も彼女も決して会話が得意なタイプじゃない。どちらかというと会話はエネルギーを消耗してしまう側だ、あんまり器用に話せないからつい無言を選んでしまう。普通の先輩後輩ならきっと笑顔でお互いの再会を喜び、適当な近況を一つ二つ他愛なく並べるだろう、でも私たちはできない恐ろしい関係性だ。
よくよく考えたら、私は彼女に引っついていただけだし、同じ楽器が担当だったぐらいしか思い浮かばない。それらしいことは……まあカフェオレいっぱい奢ってもらったぐらいか。だけど程よい距離感で心地良かったのは確か、あまりベタベタするのは好きじゃないし。
小さく息を吐く。お久しぶりです、椎名先輩。何とか無難な挨拶を絞りだす、ここまで至るまで一体どれぐらいの行数を無駄にしただろうか。
えっと、久しぶり……。ものすごくぎこちなく返す彼女。もしかして人違いしたかもと焦っていた……? いや、彼女に引っ付いていたのは私だけだから――ちょっと待って、私ってちゃんと名前呼ばれたことあったっけ?
振り返る、大体私を呼ぶときは“お前”だった気がする。うん、私も特に気にせず反応していたし、別に名前で呼ばれなくても構わなかった。多分彼女、私の名前知らない。
先輩、私のこと忘れちゃいましたか? とりあえずからかってみる。覚えてるって生真面目に返された。
けど先が続かない。いくら待っても回答すらなさそうなので、こっちから名乗ることに。
すると先輩は瞼を思いっきり持ち上げ、大袈裟に相槌を打つ。あ、やっぱり知らなかったんだ。彼女と過ごした二年間の答えを突きつけられ、苦笑いが零れる。
名前問題が解決したところで、ようやく話が動き出す。ついでに足も橋まで進む。
面影橋の中腹、椎名先輩の家が目の前に見える。本当にご近所さんだ……なら去年一昨年溜まった夏休みの課題を持ち込んで、教えてもらえば良かった。ちなみに私の家はもう少し進んだところのY字路を曲がった先にある、椎名先輩よりは多分羽丘に近い。
っで、話題の方は差し当たりない世間話でなんとか場繋ぎ。例えば今年の羽丘はどうかとか、吹部の先生は変わってないかとか、コンクールのメンバー決まったのかとか。ほとんど私の話、先輩は自分のことを話さない――中学の頃から変わってなくて安心。
元々口数が多い方じゃないし、自分のことを自慢気に語りたくなるような人じゃない。自分を着飾りたくないからあの人は強がる、強がって何でも跳ね返そうとする。そのくせ、相手が凹んだ様子を見せると自分も言い過ぎたなって平気で落ち込む。
面倒くさいと言えば、面倒くさいとは思う。本当は弱くて繊細なんだろうなって、器用に人付き合いできないんだろうなって。だけど、そこがいいところだから先輩が卒業するまで、ずっと引っ付いていた。
私の話ばっかりで私が疲れたから、そろそろ先輩の近況を訊いてみる。ジャブ程度に、先輩は吹部続けているんですか、と。眉間に数えきれないほどの皺が寄るぐらいの凄まじい形相で固まって数秒後、やってないと今までよりもぶっきらぼうな口調で返された。
半分、落胆。半分、予想通り。続けていないですよね、苦笑いの相槌で誤魔化す。
そりゃそうだ、あんな重圧下で倒れずに三年間走り切れただけでもすごいんだから。まあ、昔よりも生き生きとした仏頂面を拝めることができたので私は満足です。というより中学三年の最後の演奏会とか本当に目の輝きなさすぎて生きているのかさえ怪しかったレベルなのが、異常だったとしか。
代わりにどっか部活入っているんですか? 部活はやってないけど、バンドやってる。あとバイトも。へえ、どこでバイトしてて、なんていうバンドで活動しているんですか?
『MyGO!!!!!』ってバンド、『RiNG』っていうライブハウスでライブとか練習している。バイトもそこのカフェ。じゃあ遊びに行きますね。……勉強は禁止だからね。
思考が読まれていた。昔ファストフード店でコーヒー一杯だけで三時間ぐらい粘るのが通常運転だって言ったのが仇になったか。ちなみに現場も目撃されました、はい、だからものすごく苦い顔されています。
勉強はしません、なので先輩が美味しいコーヒー奢ってください。私、これ以上他人に奢るお金ないんだけど。あれ? バイト代は? バンドメンバーに吸われている。
なんと、私以外に椎名先輩の奢りを占めている人がいるとは……。しかし私も譲りません、譲りませんよ、なんも言っていないまま奢ってもらった身ですけども。
お前さ、さっきから人に対する期待の眼差しを向けるのやめろ。向けていません、願望を滲み出しているだけです。いやそれが目で訴えているっていうんだよ。ではコーヒー代は自腹切るので、何かおまけしてください。
最後まで言い切ったら、突然彼女が噴き出して笑い出す。ホント、お前も変わらないな。気の抜けた柔らかい笑い声、生来の少女らしさが露わになって頭が真っ白になった。
……この人、こんな笑顔見せる人だったっけ? あ、そうだ私見たことあるの、姉の幻影を押しつけられたくそ真面目な先輩の硬い相好が主だった。でも何度か見たことある、えーっと多分好きなもの、特にパンダとかで。
何? いえ、何か先輩も笑うことあるんだなと。お前私をなんだと思っているの?
ずっと色んなものに押し潰されないように歯を食いしばっているような顔しか見てなかったので。……そっか、お前が知っている私ってそうだよな。
欄干に肘をついて寄りかかる先輩、目元にクマができているけど中学時代と比べると疲れを感じるぐらい余裕がありそうな横顔。そうだ、知っている横顔は疲れているとか苦しいとか辛いだとかを感じている暇もなさそうなぐらい思い詰めた顔だった。バカみたいに不器用で真面目だから他人の勝手に全部応えようとして、必死だったあの頃の先輩――。
今もあの三年間が良かったのか分からない、思い出しくないこといっぱいだから。ぽつりと彼女が零す。でもちょっとだけ良かったなって思うことはあった、ううんちょっとじゃないな。口元の浮かんだ笑みは私が見た二年間では滅多に見られなかった楽しそうで、嬉しそうな笑み。
燈に出会って、燈と一緒にバンドがしたいと思えた。意外と白い頬がほんのりと赤みを帯びる。燈の言葉はすごい、私の心にあったモヤモヤを全部掬って、救ってくれた。キラキラと輝く紫の瞳、ああ、生きて――息できているんだな、先輩。
何だか恋している乙女みたいですね。はぁ!? え、違うんですか? あ、そっぽ向いた。
恥ずかしがると、すぐ顔をそらすところ昔と変わっていない。あと耳赤いし。言葉とか態度はあんまり素直じゃないけど、元々持っている感受性自体は素直なんだよな、と何気なく思う。
でも安心しましたよ、ちゃんと居場所があるみたいで。居場所、か……騒がしいし、行き当たりばったりばっかりだし、ツケ払いさせてくる奴もいるけど中学のときよりかは息吸えてるかな。でしょうね、今の先輩、余裕で疲れているって顔しています。何それ、別に今も昔も目が回りそうだって。
だけど昔はもういつ飛び降りてもおかしくなかったですから。中学のときの私、そんな……いやでも一番近くにいたのは、お前だもんな。はい、死ぬほど厳しい椎名先輩についていく変わり者の後輩ですよ。ホント、お前変わっていないな。
なんだか、昔に戻ったみたい。でも昔よりも心地いい空気、夏の蒸し暑さなんて今まで忘れていた。ふとどこからかカナカナ……と鳴き声が耳に届く。
あ、ひぐらしが鳴いてる。えっ、どれ? カナカナって鳴いているやつです。へえ……何か静かだね。
名前の通り、日が暮れた頃に鳴くので。ふーん、虫詳しいんだ。いえ、お盆に千葉の祖父母の家に行くとき、しょっちゅう鳴いていたので。
あ、そっか、昔お盆で千葉に行ってきたって言っていたね。はい、お土産も奢ってもらった分だけ献上しましたし。別にお前に献上される立場じゃないんだけど。それでもお世話になっていた身ですから。
そっ。味気ない返事、けれど無碍にしているわけじゃないのは分かる。何せ二年間はべったりと張りついてきたのだから、それなりに機微は分かるつもり。
またカナカナと高い震え声が夏を通り抜ける。ひぐらしの鳴き声、風鈴代わりだっておじいちゃんがよく言っていました。なんか分かるかも。夏は嫌いなんですけど、ひぐらしが鳴く時期だけは好きです。
夕暮れ特有の涼やかな風がふわりと吹く。もしさ、お前にバンドとか興味あるならさ。どことなく意を決した声音、私は彼女の言葉に耳を傾ける。今度、ライブ観に来ない?
思いもよらないお誘いだったけど、二つ返事で即答した。お前、コンクールのこと忘れてないよな? 忘れてました、日程確認します。誘った私も私だけど――あ、コンクールの今月の中旬でした。
沈黙。さっきまで淡々と続いていた会話が一瞬にして途切れる。日程見せたら、彼女は余計に渋い顔した
まずはコンクール頑張ること、お前トランペット絶対入れよ。えー、じゃあ入ったら、奢ってくれます? 分かった、奢る。ではさらに金賞取ったら上乗せですね。ああ、何でも奢ってあげるから。
呆れ気味に了承する先輩、心なしか一年前の硬い相好に戻っていた。……私がトランペット教えたの、お前しかいないからな。自分は逃げ出したし、他人に期待を背負わせようとする最悪な人間って顔をしている――でも。
そうですね、先輩に教わった分も結果に変えたいと思います。私はあなたに期待されることが嬉しいし、いくらでも背負いたい。他の人の期待は嫌だからすぐに投げ出すけど、椎名先輩のだけは受け止めていいと思っている。
だって、憧れだから。私はずっとあなたが吹いた真っ直ぐな音色が大好きだから。今でも胸の中に響いているのは、夢見ているのはあのときの力強いソロを吹いたあなただから。
本当にお前って変だよな。驚いて、また苦笑い。私は変わっていません、変えたのは椎名先輩のせいなので。声の調子は平坦なまま素直に告げる。
はあ? 私は別にお前に何もしてないけど? 強い当たり、けど声は優しい。何もしなくても椎名先輩に変えられたんですよ。ずっとそうだ、追いかけただけだった――最近、椎名先輩に似てきたって言われるぐらいには変わってた。
そういうとこ、お前が変なとこ。では椎名先輩も変人ってことで。はあ!? 私が変人なわけないでしょ? でもこんな変人の面倒見てくれたの、椎名先輩だけですよ?
諦めて、彼女はため息をついて頭をかく。ってか、もう帰らない? お前も明日練習あるんでしょ? そうですね、帰りたいです。本当は先輩の家に上がり込んで宿題教えてもらいたいけど。
会話に区切りがついた私たちは再び歩き出す。橋を渡り切ったら、すぐ先輩と別れた。一人でY字路を目指す――分かれ道、迷わず家がある方を選ぶ。
あーあ、本当は適当にやり過ごしてどうでもいい中学三年間にしたかったのに。けれどやっぱり手の抜き方なんて分からない。だってずっと見てきた背中は加減ができないバカ正直な人だったか。
カナカナ……ひぐらしが鳴く。涼やかな声、胸の奥には力強いトランペットの音、気づけば夏を奏でていた。嫌いな季節の好きなところを切り集めたスクラップブックが出来上がる。
夏は嫌いだ、人に期待されるのも嫌いだ、でも今年ぐらいは悪くないかもしれない。自然と走り出して汗を流し、息を吸って吐く。なんとなく生きている気がした。
――夏休み終盤、立希はライブを終え『MyGO!!!!!』の面々と楽屋に戻っていた。ライブの感想を飛び交う最中、着替え終えた彼女は本番前に届いた一通の手紙を開封する。送り主は中学時代の後輩、唯一ちゃんとトランペットを教えた子。
拝啓、椎名先輩。堅苦しい挨拶から始まった手紙はコンクールの結果を簡潔に書き記ししていた。曰く、無事にトランペットの選考を勝ち取って大舞台で演奏できた、とのこと。残念ながら金賞は逃したものの、特別賞なるものは受賞できたという報告も添えられている。
安堵のため息が漏れる、少しだけ涙が零れそうになる。良かった、ありがとう、複雑奇怪な気持ちがぐちゃぐちゃとかき混ぜられるが気分は悪くない。なんとなく縛られたものが一つ消えたような気がした。
読み進めれば、最後の定期演奏会までは在籍し、高校に進学しても続けると宣言。和やかな気持ちで読み終え――られる直前、立希の表情が一変する。
宿題溜まっているので、夏休みの最後の土日、先輩のおうちに遊びにいきますね。とんでもない爆弾発言が書き残され、彼女は戦慄した。頼むから、寝かせてくれと。