飯を食らった先にある”至り”を追い求める女、望月美琴。
孤独に飯を食らう先に、確かな自由と幸福を見出した男、井之頭五郎。

共に、飯を食う時間を愛する者。
だが――そこには確かな差異がある。

これは対比の物語



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孤独に”至る”/孤独に”食う”

 

 これは、食う事に幸福を見出せし者と、食う事に快楽を見出せし者のお話。

 

 男は思う。

 孤独に、好きなように、好きなものを食べる時。きっとその時、一時の自由と幸福を獲得しているのだと。

 

 女は思う。

 己が腹を満たした先にある、酩酊にも似た快楽。これを貪る時、誰にも劣らない幸福を獲得しているのだと。

 

 共に、食う事を愛している者同士。

 されど両者は――決定的な、また断絶的な差異を抱えてしまっている。

 

 これは対比の物語。

 飯を食う二人が同じ世界にいる。ただそれだけの、なんてことはないお話である――。

 

 

 

 

 

「本日はありがとうございました、井之頭さん」

「ええ、こちらこそ。次の打ち合わせでは、実際のサンプルもお持ちいたしますので参考にして頂ければ――」

 

 井之頭五郎。

 現在、とある会社の営業所にて打ち合わせの真っ最中であった。

 

 彼は、個人で輸入雑貨を取り扱う商いである。

 個人故に、フットワークが軽い。

 その軽さが、今回の仕事を呼び寄せた。営業所の模様替えに併せて、古くなり色が褪せた玄関口の絨毯と花瓶を買い替えようという話になった際に、会社の営業先が五郎を紹介してくれたのだ。

 

 商談は順調に進んで行っている。次の打ち合わせまでには話がまとまりそうな手ごたえを感じていた。現在営業所の重役も交えた商談は終え、今後の細かい予定を営業部の青年と詰めていた所であった。

 商談そのものは順調に進んでいたからだろうか。五郎の意識は、仕事から眼前の青年の様子へ変遷していく。

 

「――倉橋さん、大丈夫ですか?顔色があまりよろしくなさそうですが....」

「あ、いえ。大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」

「そうですか....」

 

 自身と対峙する青年――倉橋は、間違いなく寝不足なのだろう。少し垂れた目つきに、白んだ顔色。間違いなく寝不足から来る疲労が刻み込まれている。

 先程自分を出迎える前に座っていたデスクには飲み終えたエナジードリンクと未開封の栄養バーが無造作に置かれていた。まともな食事も取れていないのかもしれない。

 

 営業所の模様替えをするという事は、恐らく繁忙期は越えたタイミングであろうに。どうしても少し心配になってしまう。

 

 とはいえ....自分にはどうしようも出来ないことなのだが。

 

 時計を見る。

 丁度、時刻は十二時。この会社の昼休みの時間帯であった――。

 

「もう十二時か....」

「長らく引き留めて申し訳ありません。出口までお送りいたします」

 

 そうして、打ち合わせの後に、五郎は面会室を出る。

 そのまま営業事務のデスク室を抜け、玄関口へと向かう。

 

 

 その時であった。

 

(――なんだ?)

 

 デスク室を通り抜ける際、事務の女性を見かけた。

 その女性は正午を迎え昼休みに入ると、にこやかに「お昼を頂きます」と呟き。バッグから弁当箱を取り出した。

 行動そのものに特筆すべき事は存在しない。昼休みに弁当を取り出し食事をする。当然の光景だ。

 

 しかし。まず目を引いたのは、その弁当箱の巨大さ。

 工具箱をスチール製にしたかと見紛うそれは、異様な存在感があった。部活に明け暮れた学生がグラウンドで拡げているようなサイズのそれが、ごく普通な成人女性の前で、一人分のデスクの上に展開されている絵図がそこにあるのだ。

 

 デスクのPCや書類の最中にある岩の如き弁当箱は実に物々しい。女性はその蓋を開ける。

 

(お....おお....)

 

 そこから見える光景は、黒。

 すべからく、黒。

 茶色一食の弁当、などという形容がある。揚げ物や生姜焼き等の茶色のおかずに満ち満ちた、男の子の幸福を敷き詰めた宝石箱のような弁当。

 

 しかし彼女のそれは――圧倒的な、黒。

 茶色を更に煮詰めて煮詰めて出来上がったような、濁りのある黒。焦げた先にあるそれとも、イカ墨のようなさらりとしたそれとも、違う。

 醤油ベースのつゆを極限まで煮込んだ、その色の最中。そこには、黒色を取り込み、黒色を覆った――牛ホルモンの群れ。

 それが弁当箱の上層を覆い。その真下には、白米がみしりと敷き詰められているのだろう。

 

 

「頂きます」

 

 

 そう呟くと共に、女性の眼からは――眼前のそれ以外への視線は喪われる。

 集中。

 今、この食い物から与えられる五感への刺激。それ以外の一切を意識から排除する。その為の、儀式。

 儀式を経た彼女の目からは――情動が消え去る。

 社会性の仮面を剥ぎ取り、そこには――息絶えた獲物に牙を突き立てんとする獣の眼。

 

 

(――ああ、でも)

 

 その異様に見えてしまった光景に、気圧されてしまった。

 だが。本来、何かを食うという行為は、こういうものだよな――と。思ってしまう。

 その食い物以外の何物にも意識を割かず。好きなものを、好きなように食べる。

 

 食べるってのは、こういう事でいい。

 

 デスク室を通り抜けるその一瞬。女性が弁当箱を取り出し、手を合わせ、黒々とした弁当へ意識を集中させる。ただその光景を見ただけだというのに――。

 

 

(あ、)

 

 彼女の感覚と、己が感覚が同期したように。

 食の為に意識を研ぎ澄ませたその姿が――己が腹先の具合を知らしめていた。

 

 腹が、減った――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人は皆、幸福を感じる瞬間がある。

 それは皆、人それぞれ。

 

 望月美琴にとっての幸福、それは――。

 

キタ

 

 

 眼前のそれ。

 ずっと、夢見ていたような気がする。

 始業開始後三時間弱。ずっと、コレが頭の片隅から離れなかった。

 

――ホルモンの煮込み....!

 

 

 昨日寄ったスーパーにて、大量のホルモンのパックに半額シールが貼られている様を目撃した瞬間の記憶は、実に鮮明に残っている。

 後はもう、断片的な記憶しか存在しない。

 所々時間が跳んでいるような気がする。空腹に耐えかね全力で走っていたような気もするし、ホルモンを目にした瞬間何事かを叫んでいたような気もする。記憶は連続性を持たず曖昧であった。

 幸福が絶頂に達する瞬間。人は己が意識の範疇に、無意識が浸食していく。

 普段は常に笑顔を絶やさない、おっとりとして真面目な――社会性という名の服と仮面を纏った彼女が、それらを脱ぎ捨て、本能が剥きだす瞬間。

 無意識下の怪物が、意識を奪うのだ。

 

 ホルモンを小麦粉と塩で下処理をしたのちに、フライパンで焼く。

 表面に焼き色を付けた後に、煮込み用の液を入れ、煮詰める。

 

 ホルモン煮込み。昨日大量に作った夕餉の残りを、敷き詰めた白米の上にダイブさせた丼弁当を、彼女は今食している。

 

《b》美味しい!美味しい!しょっぱくて、美味しい――!

 

 さて。

 本来煮込みというのは、基本的にはだし汁と、醤油・みりん・砂糖などの調味料を合わせたもので煮込んでいく。

 醤油に含有される塩分濃度を出汁によって希釈するのだ。煮込みを行うに辺り、出汁で水分のかさましを行わなければ醤油の塩分というものはあまりにも強すぎる。

 

 ――というのが、常識の範疇での話だ。

 だが、この望月。常人ではあらず。

 

――醤油とめんつゆの味がダイレクトにクる....!出汁汁引くのが面倒でめんつゆ使って調味液を作ったのが効いている.....!)

 

 異様なまでに黒々としていたホルモンの煮込み。

 その黒色は――醤油を希釈する役割である出汁の代わりに、濃縮タイプのめんつゆを使っている事を端としている。

 

 めんつゆもまた、塩分が多く含まれている調味液である。

 本来水分で塩分を希釈する役割を持つ出汁の代わりに、塩分濃度の強いめんつゆで代用する。あまりにも意味不明な論理だ。塩分を希釈する為に塩分入りの別の調味液を用いる。かつて自ずから投げ捨てた健康管理アプリのAI君が見ていたら地獄のような表情を浮かべて悲鳴を上げている所かもしれない。

 ここから更に煮込みの段階へ入る事により、更に塩分濃度を増したそのホルモンは――常人であれば、あまりのしょっぱさに顔を顰めるであろう。二口も食えば不快感に敗け、三口目を食するのに拒絶感を覚える。

 更に、昨日から一日寝かせた為更に水分をホルモンが吸い取ったそれは――更に水分が消え去る事で塩分の暴力を内包した、凶悪な代物と化していた。喉に直接醤油風味の塩を喉に叩きつけられるような、恐ろしいしょっぱさ。

 

 だが。

 彼女は――この想像を絶する塩分こそが、愛おしい。

 このしょっぱさが。その煮込みの下にある白米を追いかけるための燃料となる。

 もはや煮込みの下にあるせいで黒く染まった白米を、食う。

 巨大な弁当箱にこれでもかと敷き詰めた白米。ああ、白米。剥き出しの白色にたっぷりの糖を孕んだ魅惑の白米。黒く染まって尚、この甘みはあの輝くような白色だ。強烈な塩味とホルモンの脂と、そしてこの糖。三位一体の味覚の暴力が、彼女の箸を一心不乱に走らせる。

 

 これこれ。

 これなのだ。

 ドカドカと、塩分・糖質・脂質が胃を通り全身へ駆け巡る、この感じ。

 鼓動が早くなる。身体が熱くなる。

 血糖が跳ね上がり、全身の内臓が躍動する。

 

 

 ――死

 

 

 本能に押しつぶされんとする理性の欠片が、潰れた気道から漏れ出るようなか細い声を上げている。

 

 ――痛風 心筋梗塞 脳梗塞 糖尿 高血圧 

 

 やめろ。

 やめろ。

 

 お互いが言っている。

 本能と、理性。その双方が。

 

 本能は快楽を求めろと主張し、理性は高まるリスクを嘆く。

 

 だが。

 望月美琴に根ざす心は――本能が勝る。勝ってしまう。

 

 

 ――何を言う。今食べているのはホルモンだよ。熊だって、仕留めた獲物の内臓を真っ先に食べるじゃあないか。つまり、ホルモンは栄養満点の完全食.....!こんな素晴らしい食べ物が、身体に害を与えるなんてありえない....

 

 ――痛風 心筋梗塞 脳梗塞 糖尿 高血圧 

 

 

 黙れ。

 貴様は、消えろ。

 この食事の果てにある理屈を決めるのは、お前じゃあない。私だ。私なんだ。お前がお前の理屈を唱えるように、私は私の理論を提唱する。お前と私の世界は違う。違うのだ。

 

 

――痛風 心筋梗塞 脳梗塞 糖尿 高血圧 

 

 ふう。ふう。

 ようやく、脳裏に浮かんでいた小五月蠅い何かは消え去ったようだ。

 

 うまい。うまい。

 しょっぱくてうまい。お米が甘くてうまい。

 

あ、キタ

 

 塩分と脂質に引っ張られるように身体に吸い込まれていく糖質が、全身を駆け巡る。

 駆け巡るそれは己が脳内へ、快楽となって運び込まれる。

 泥濘のような。ぬるま湯のような。酩酊の最中のような。

 

ああ。――至る。至るかも、しれない

 

 浮遊する。

 意識も、自分の肉体そのものも。

 眠気もあるが。それは重く、肉体にずしりとくるような代物ではない。二度寝をするかしないか、温もった布団の中で意識が戻りかけているあの時のような、ふわふわとした浮遊感を伴った――軽々とした、あの感覚。

 

 

 血糖値スパイク

 

 

 食事を行えば、血糖値が上がる。それは当然の事だ。普通の食事であっても、食後に眠気に襲われる事は珍しくはないだろう。あれも、食事で血糖値が上がる事により発生している事象である。

 とはいえ。一般的に、一日三食バランスよく食べる事が推奨されている理由の一つは、この血糖値の上がり幅を緩やかにした方が、身体への負担が少ない事にもある。

 

 だが。

 一度の食事に多量の糖質を得る事で急激な血糖値を上昇させる事で――もはや酩酊の次元にまで、血糖上昇の効果をその肉体に付与させる。それが、血糖値スパイク。

 

 その感覚というのは、人によっては不快に感じるであろう。

 されど――この感覚は、特定の人間にとっては、何にも勝りうる、至極の快楽でもある。

 

 脂質塩分の両輪をもって糖質をその血肉へ流し込み、高みへ、高みへ。

 意識が高みへ。高みへ。

 

「――フォン‼」

 

 意識が高みへと至らんとする、その直前。

 先程本能が轢き潰した理性が横合いから殴りつけてきた。

 

 とろみを帯びた眼も、朦朧とし始めた意識も、その全てが――高みへ至るよりも前に、引き摺り降ろされた。

 

(また私....職場で”至り”かけてしまった....!)

 

 先程理性君が叫んでいた、未来へ訪れるやもしれぬ己が身のリスクに関しては。本能が何の容赦もなく叩き潰したが。

 己以外の誰か――それも、普段共に仕事をしている仲間――を前にして、至ってしまう事への躊躇いが生まれた瞬間、ようやく謎の叫びと共に血糖値スパイクの心地よい....本当に心地よい酩酊から、戻ってきた。戻ってきてしまった.....。

 

 

 ホルモンめんつゆ醤油煮込み丼、2215kcal

 

 

 

 

 望月美琴。

 彼女は、ドカ食いを愛している。

 

 この言葉をより突き詰めるのならば――ドカ食いがもたらす、己が肉体に根ざした快楽を愛している。

 

 

 

 

 

 

 腹が減った。

 

 井之頭五郎の腹は、もう空っぽであると悲鳴を上げている。

 一歩歩くごとにその叫びは大きくなり、その表情を苦悶の色に染め上げていく。

 

(今日は、とにかく男の子な食い物がいい。肉を、脂を食いたい)

 

 あの異様なまでに黒い弁当を見てしまったからか。今日は、何だかとにかく肉が食いたかった。

 歩く。

 己が腹が求めているものは、本日は明瞭だ。後は探し出すだけ。

 

 歩く。飲食店を探しながら、歩く。

 

(魚の定食屋、パス)

 

 営業中の札が掛かった、デカい魚の看板の店。今己が食いたいのはとにかく肉だ。魚系はパス。

 

(喫茶店....パス。そばもうどんも今は違う。――肉を貪りたい)

 

 

 己が心に根ざした、一貫した意思のもと、井之頭五郎は歩き続ける。

 彼は、食う。食いたいから、食う。

 己が食いたいものは何か――腹が減る度、真摯に己が食いたいものと向き合っている。

 

 時には即断で決める事もある。時には迷いながら自問自答する事もある。

 

 

(――お)

 

 眼前に、でんとした構えの店が現れた。

 古ぼけた外装に、色褪せた暖簾と看板。汚れたガラス板の中に入った手書きのランチ表。

 そういった諸々の要素が”ボロい”というよりも、”年季が入っている”と表現したくなる。そんな店構え。

 こういう店の外形の古さというのは。ずっとこの地域で愛され続け生きてきた、いわば老兵の如き強さが感じられるのだ。こういう雰囲気が、五郎はたまらなく好きだった。

 

 メニュー表を見る。

 

 ・本日のランチメニュー

 

 ハンバーグ定食 980円

 唐揚げ定食 850円

 回鍋肉定食 900円

 チキン南蛮定食 900円

 ,

 .

 .

 

 

 

(いいじゃないか)

 

 いかにもな定食のラインナップ。肉から揚げ物から中華まで何でもござれって感じだ。今の腹の具合にピッタリ収まる。

 

 店に近付くと、微かな香りが漂って来る。

 様々な食い物が入り混じったそれが鼻腔がくすぐられると共に、腹の叫びに切なさが入り混じってくるようになった。

 

 ここにしよう――。

 宝探しの終着点。己が身体が欲した店を見つけ出せた喜びに口元を綻ばせ、井之頭五郎は店へと入っていった――。

 

「いらっしゃいませ~。空いている席にどうぞ~」

 

 腹にせかされるまま店に入ると、五郎は窓際の席に座った。

 周囲を見る。

 メイン層は、やはり学生や、働き盛りの男性。その全員が大皿のおかずにどんぶりサイズの茶碗に盛られた白米をもりもりと食っている。

 思った通りだ。

 ここは――こじゃれた店には存在しない、食の蛮性がある。

 

(――さてさて。何を頼もうか)

 

 今日の目的は、とにかく肉と米だ。

 肉の脂で米を追っかけて、満腹になりたい。そんな気分だ。

 

 

(――折角ランチメニューがあるから、これを軸に脇も色々頼んじゃおう)

 

 メニュー表を見ると、小鉢系のサイドメニューもかなり充実している。何とも至れり尽くせりじゃあないか。

 

(よし。昼飯の構成が決まってきたぞ)

 

 

「すみません――」

 

.

.

.

 

 

「お待たせいたしました~」

 

 おお、と五郎は思わず声を上げる。

 

・トンから定食

 豚スペアリブのから揚げ四つに、わかめの味噌汁、サラダ、ごはんが付いた定食。

 衣に包み込んだ豚の脂がじゅわり。米は勿論大盛。

 

・味噌付き豆腐

 醤油の代わりにちょこんと乗ったネギ味噌がいいアクセント

 

・ニラたまトマト炒め

 トマトの酸味とニラのしゃきしゃきを、ふんわり卵が包み込む。しゃきとろ食感。

 

・肉じゃが小鉢

 小ぶりなジャガイモとにんじん、そして薄切り肉。ほっこり優しい。

 

 

(これだよこれ。これこそ、男のフルコース)

 

 料理が運ばれると共に「頂きます」と手を合わせ、衣を纏ったスペアリブに手を伸ばす。

 骨を手掴みし、そのまま豪快にかぶりつく。

 

(美味い)

 

 カリ、とした衣を食い破ると共に。肉汁が口内に零れ出す。

 肉汁からは、あらゆる幸福が舞い降りてくる。にんにく醤油の華やかな香りが鼻腔を通り過ぎ、舌先に肉の旨味が拡がっていく。

 それらが喉奥に呑み込まれると共に、鼻腔の奥から生姜の清涼感が吹き抜けていく。しっかりとした味付けなのに、後味がスッとしている。

 

(こりゃあ美味い。カリカリの衣の下の、歯ごたえのある肉を食い破るこの感じ)

 

 半ば本能的に、五郎は箸に手を伸ばす。

 無論、白米を食うために。

 

(――美味い肉を食って、白米で追っかける。なんて幸せな味なんだろうなァ)

 

 肉の旨味が、米の甘さと口の中で合わさる時のあの幸福は、何と言葉にすればいいのか。

 この幸福を一時も忘れた事はない。意識していなくとも、本能が無意識下に刻み付けている味だ。

 だが――時折こうして、再認識したくなる。

 

 肉と米の口内カーニバルを暫し味わうと、少々の名残惜しさがあるが別の味わいを求める気になってきた。

 

 味噌汁を口にして一旦口の中に残る後味を流し込むと、豆腐に箸を伸ばした。

 柔らかくも、微かな弾力があるコレを箸で切り分ける。この感触、昔から何だかワクワクしてしまう。

 切り分けた豆腐に、ネギ味噌を少し乗せて――口に運ぶ。

 

(成程....ネギ味噌だと、こんな感じになるのか)

 

 柔らかで優しい豆腐に、味噌の甘さしょっぱさが少しだけ追いかけてくる。緩みそうになる口の中を、程よくネギの食感と味噌が引き締める。

 いいじゃないか。ネギ味噌豆腐。

 

 その後、五郎はニラたまトマト炒めに箸を伸ばす。

 トマトとニラ、そしてふんわりとした卵を箸に乗せ、食う。

 

(これは....面白いな!)

 

 ニラのしゃきしゃきを食むたびに流れ出てくるトマトの酸味と卵のふわふわ。

 食感がまず、面白い。

 ニラのしゃきしゃきを感触を追いかければ追いかける程、別系統の滋味が溢れ出す。

 唐揚げと米というメインの道があり。味噌豆腐はこのメインと同じ方向に向いているが、こっちは完全に別の脇道だ。学校帰りにふと寄り道をして、見慣れない光景を見た時のような楽しさがある。

 

(そして....ああ。やっぱり、肉じゃがは、安心の味がする)

 

 脇道にそれた楽しさが通り過ぎた後、家に辿り着いたかのような。肉じゃがには、どんな寄り道をしてもちゃんと帰り路への道筋に戻してくれる安心感がある。

 

 

(いい店だ)

 

 スペアリブのから揚げにもう一本手を伸ばす。

 カリカリの衣。分厚い肉。

 追っていく米。

 またもメインに戻っていく。

 

 美味しい。

 

 好きなものを、好きなように、何にも縛られる事無く、自由に食う。

 これ以上の幸せを、井之頭五郎は知らない。

 

(あの女の子の弁当に内心ビビってしまったのは――何だか悪い事をしちまったな)

 

 

 あの子も、あの子が好きなものを――自分で作って、仕事の合間に食っていた。ただそれだけだ。

 同じ事だろう。

 

(さて。ラストスパートだ)

 

 井之頭五郎。

 彼にとっての食とは、自由。

 何にも縛られる事無く、その時己が求めるものを、喰らう。

 孤独は、彼にとっての宝石なのだ。

 何に気を遣う訳でもなく、食いたいものに意識をフォーカスする。舌に乗せられた食い物を味わう事を全力で楽しむ。これが、これこそが――彼の、孤独のグルメなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 お腹が空いた

 

 

 何故だ。

 何故なんだ。

 今日この日。久しぶりに――”定時退社”を行ったというのに。

 

 ああ。素晴らしきかな定時退社。

 繁忙期が過ぎたタイミングであったので、こうして久方ぶりに陽が落ちる前の退社というものが叶っている。

 

 

(久々に早く帰宅できる....)

 

 この前の休日はひどいものだった。

 折角の休みの日。一人の女性として、社会人として、キラキラした日々を送らねばならない――そう決心した日だったのに。

 

 やったのは何か?

 見かけたアップルパイに目を奪われ購入して食い、おしゃれなパスタ屋に入るつもりが家系ラーメンを白米もりもりで食らい、映画館ではポップコーンを貪り至りかけ、読書をしようとカフェでもピザトーストセットを食い。常備菜を作っては常備できず、何をしようにも満腹で何も食えずベッドに潜り込んだものの――結局、朝にはコ〇ダでドカ食いを決行していた。

 

 ひどいものだった。

 何がキラキラだ。ギトギトの間違いだろう。

 

 さて。余裕ある社会人女性とは、どうあるべきだろう。

 定時で上がってこのまま家に帰り、いつも通りドカ食いして”至って”眠りこけてしまう事だろうか?

 

 そんなわけがない。

 時間がある日に、なんか

 

(このままじゃいけない....!このままじゃ.....!)

 

 という訳で。彼女は何となく真っすぐ家に帰る事に忌避感を覚えた。

 それはまるで――帰宅部の学生が、ふと学校と家を行き来する生活に疑問を覚え、何となしに寄り道をするような。

 ”形なき焦燥感”が突き動かす。

 

 ふわふわとした像が彼女の中にある。

 ”こうあれば”カッコいい。だからそうならねば。

 ”こうあらねば”ならない。だからそうならねば。

 

 そういう焦燥が、彼女の中にある。

 形はない。具体化も出来ない。そうあらんとする意思を貫徹する能力もない。

 だが。ただ今の己を変えねばならない。今のままではいけない。そういうふわっとした観念だけはある。

 

 なので彼女は、ふわふわとした思い付きで、ふわふわとした行動を行う。

 なので今日もまた、ふわふわとした足取りで、ふわふわと脇道を逸れる。

 

 

「あ、美味しそう――」

 

 脇道に逸れた先には、商店街があった。

 残業帰りの時間帯ではもう閉まっているだろう出店の数々。その大半は食い物の店であり、様々な香ばしい匂いが彼女の鼻腔を通り脳へ届く。

 

 

たこ焼き12個入り 815kcal

イカのバター醤油くし焼き2個 415kcal

 

 

(いいよね。この程度なら――)

 

 

 商店街脇のベンチで買ったそれらを食い。ふう、と一息。

 

 足りない

 

 

「.....」

 

 こんなのまだまだ至れないよ

 

 

「.....」

 

 普段ならば、仕事に意識が割かれている時間帯。

 そこから意識が解放されると共に。彼女の脳裏にこびりつく記憶と共に――意識が、自然にそれに向けられる。

 

 ドカ食いした時。どうしようもなく満たされ、幸福を得られた記憶が。

 別の事に目を向けられていれば。

 別の事に意識が割かれていれば。

 こんな思いをしなくて、済んだのに。

 

 

 

「そうだ....そうだよ....。見つけたよ....私が、『やるべき事』!」

 

 

 意識したそれが望月美琴の脳裏に至った瞬間。

 彼女の頭は、回転を始める。

 

「”行きつけの店”を見つける事....!それがあれば、なんかカッコいいじゃん....!」

 

 

 ふとしたときに、同僚や先輩に、美味しい店を紹介してあげられる。案内してあげられる。

 そういう店をちゃんと知っていれば――己が社会人ライフも、きっとキラキラしはじめるはずだ――。

 

 

 

 

 ふわふわとした行動指針がガッチリ固まる瞬間が彼女にはある。

 それは――例え詭弁だろうが現実逃避だろうが、自分の欲求を満たせるそれっぽい理屈や言い訳を見つけ出せたその瞬間である。

 

 

 ああ。

 お腹が減った。

 

 

 結局の所望月美琴が、時間の空白を埋める手段なんてものは、ドカ食い以外存在しないのだ。

 本能が求めるまま欲求を満たし至り酩酊し快楽を得る以外にやりたい事なぞないのだ。

 この事実を前に焦る。焦るから行動する。でも結局、前提としてドカ食い意外に何一つとして行動指針がないからふわふわする。

 ふわふわしたままの足取りに、空腹が結びついた瞬間――彼女の脳には詭弁の山が生まれ、ドカ食いする己を慰撫する理屈が生まれ、ドカ食いへと走り出す。

 

 

 行きつけの店を見つけ、同僚や先輩に紹介する。一緒に入って食事を楽しむ。その為に店を探す。

 そういう前提が生まれた事で――彼女は己が空腹をドカ食いで満たす正当性を得てしまった。

 

 

 

「見つけた!ここだよここ!」

 

 

 そうして行き着いた店は、定食屋。

 ご飯の大盛可能!揚げ物系の料理多し!お代わりも一杯50円で安い!

 

 

 戸を開いて、息を荒げてテーブルに座り、メニュー表を舐めまわすように見た。

 

 

 

 

「お、お待たせ....致しました.....」

 

 

「おっしゃキタァ!」

 

 

 はっは、と動悸のような呼吸。餌箱の前で待ての命令を遵守している犬が”よし”と言われた瞬間のように。

 その目には歓喜の色を宿し、眼前の料理群を見た。

 

 

・トンから(スペアリブ)とメンチカツの群れ

・ハンバーグ

・回鍋肉

・油淋鶏

・ご飯特盛(どんぶり漫画盛り)

・定食付属のわかめの味噌汁とサラダ

 

 

 社会性と人間性を皮一枚で何とか残せた。

 まだ箸で食い物を掴むという過程を経ているが故に、人間の食事だとかろうじて見えるだけの――荒々しい食い方。

 

 

 

 望月美琴。

 

 

 彼女は――本能という巨大な敵を己が内側に抱え込んでしまった存在なのだ。

 その本能は、食事による快楽を追い求める代物。

 

 井之頭五郎が、己の本能と向き合い、注視し、それを満たす事に自由と幸福を見出せし人間であるならば。

 望月美琴は、己が本能に耐えきれぬ現実を抱え込んでしまった人間なのだ。

 

 

 嗚呼。

 幸福とは何であろうか。

 快楽を得さえすればそれは幸福であるのだろうか。

 本能を満たす為に時に詭弁を弄し、社会性との天秤を常にかけられるこの事象が――幸福と言えるのであろうか。

 

 

本日の総摂取カロリー 6893kcal

 

 

これが――これこそが、有意義な定時退社の時間の使い方という奴なのだろう

 

 

 目につくおかずをあらん限りに摂取した望月美琴は――至りの酩酊の最中、そう心中の呟き、微笑んでいた――。

 

 

 


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