お久しぶりです。続きを待ち望んでくれている方が大勢いてくれて本当に感謝感激です。というわけで、続きです。あ、プロット組み直してて8話では絶対に終わらなくなりました。
凍えるような寒波が、アレンデールを包んでいた。
氷点下へと達した気温は、薄着の者が歩き回れば、それだけで低体温症になりかねないほどに低い。城下町の外壁や地面には霜がびっしりと纏わりつき、桶の中の水はおろか、川でさえもが一面凍りついている。
それだけならば、冬のアレンデールでは見慣れた光景であっただろう。雪と氷の国とさえ諸外国から謳われるこの国にとって、寒さとは隣人にも等しい存在なのだから。
だが、その寒波を友として暮らしてきた住民たちが、一人残らず氷像と化しているとなれば話は別だ。
「なんと、恐ろしい……」
春のアレンデールを襲った、未曾有の『人災』。
その惨状を前にして、幸いにも凍結の魔の手から逃れたウェーゼルトン公爵は、蒼白に染まった顔で城下町を見渡していた。彼の目の前では、肩を組み合いながら踊っていた若者たちが、楽しげな体勢を保ったまま凍りついている。
恐る恐る腕へ触れてみれば、その体は氷のように冷たく、服さえも肌へ張り付いた状態で完全に固まっていた。
それでも、彼らの顔には満面の笑みが残されている。それは、自分たちが凍りついたことにさえ気づかないほどの一瞬で、氷像へ変えられたのだという恐ろしい事実を雄弁に物語っていた。
「この者たちは……み、みんな、死んでいるのかね?」
目の前の現実を信じられないまま、ウェーゼルトン公爵は、彼と同じく運良く被害を免れた者たちへ問いかけた。
だが、それに即座に答えられる者はいなかった。それも仕方のないことだろう。誰も、このような非現実的な光景に遭遇した経験などないのだから。
この場には、各国から訪れた重鎮たちが揃っている。その中には、実際の戦争を駆け抜けた者も何人かいるはずだ。だが、地獄のような戦場を知る彼らにとってさえ、魔女の呪いと呼ぶしかない惨状を前にしては、声一つ発することが出来なかった。
アレンデールの城下町に無数に立ち並ぶ、人型の氷像。それら全てが、つい数分前までは生きた人間だったという事実を、変わりゆく瞬間を目撃した者たちでさえ、すぐに受け入れることなど出来ない。
だが、生き残った彼らにとってさらに恐ろしいのは、『気温が今なお少しずつ下がり続けている』ことだった。
緩やかではあるが、確実に。アレンデールを包む空気は、一切の生命の鼓動を許さないほどの極寒へ向かっている。
港は既に氷で閉ざされ、海から船を出すことも出来ない。陸路も、降り積もった雪と凍結した道によって寸断されている。このアレンデールから脱出する術を失った彼らにとって、それは死刑宣告にも等しかった。
このまま下がり続ける気温に怯えながら、静かに凍死する。その結末を思い浮かべてしまったからこそ、誰もが言葉を無くし、先のウェーゼルトン公爵のように現実を疑うような言葉しか発せないでいた。
そうして生き残った誰もが、恐るべき魔女の暴虐に心折れて、立ち竦むしかできず――――
「いいや、彼らはまだ死んではいない」
――――いや、ここに一人。
「先ほど、アレンデール城に常駐していて被害を免れた医師から吉報を受け取った」
ただ茫然と立ち尽くしていた各国の重鎮たちへ語りかけるように、一人の男が群衆の間を歩いていく。
本国では大勢の家臣や民を束ねている者たちを前にしても、一切怯む様子はない。それどころか、まるで自分こそがこの物語の主役であると言わんばかりに、男は悠然と人々の中心へ進み出た。
「アレンデールの国民は凍らされただけで、未だ誰一人として命を落としてはいないとの事だ」
それは急激な体温の低下によってもたらされた、擬似的な冬眠とでも呼ぶべき状態だった。
本来なら、血液まで凍りつけば細胞が破壊され、人間が生き延びることなど出来ない。だが、アレンデールの民を包んでいるのは自然の氷ではなく、魔法によって生み出された神秘である。
故にこそ、生きたまま生命を凍らせるという不可能を可能にしていた。
「これは奇跡か? いいや、違う。これは魔女に体を奪われながらも、最後までアレンデールの民を救おうとしたエルサ女王の、気高き意思が生んだ必然だ」
その事実を、男は舞台役者のような大仰な身振りと共に語り、凍らされた民がまだ生きているのはエルサ女王のおかげなのだと高らかに主張した。
男の顔は悲痛そうに歪み、魔女に愛する民への暴虐を強いられた女王を心から慮っているように見える。
少なくとも、この場にいる者たちにはそう見えた。アレンデール王家の忠臣たちでさえ、自分たちの主を悪し様に罵ることなく、その名誉を守ろうとする男の姿に感じ入っていた。
「だからこそ、私たちはエルサ女王の最後の祈りを汲み取り、必ずやアレンデールを凍らせた邪悪な魔女を討たねばならない。何より、そうしなければ私たち自身の明日の命さえないのだから!」
絶望に沈み、暗闇に包まれていた人々の瞳へ、松明の灯火にも似た僅かな光が宿り始めた。
芝居がかった大袈裟な言葉だと疑う者はいない。
なぜなら、そこには誰もが望んでいた希望があったからだ。自分たちはこのまま凍死するしかないのではない。邪悪な魔女を倒しさえすれば、アレンデールを救えるかもしれない。
アレンデール王家の臣下たちでさえ思わず納得してしまう詭弁と、御伽噺の英雄のような輝きが、そこにはあった。
「私は見た! 邪悪な魔女が、向こうの山へ飛び去っていくのを! そして私は、この目でしかと見た! 姉を救おうとしたアナ王女が、魔女の手によって命を奪われる瞬間を!」
英雄の言葉に、演説へ聞き入っていた者たちの間へ動揺が走った。
先ほどまで、執事との結婚を嬉しそうに宣言していた、あの可愛らしい王女が亡くなった。そう告げられたアレンデールの臣下たちの中には、その場へ崩れ落ちそうになる者さえいた。
男は握り締めた拳を震わせ、彼らへの共感を示す。純粋な王女を殺害した魔女への憤怒を、必死に堪えているかのように。
「我こそはと思う者は、私と共に武器を取れ! 亡きアナ王女へ報いるため、そして命を懸けて私たちを守った真の忠臣、フローを魔女の手から救い出すため、今こそ決戦へ向かおう! これ以上、エルサ女王の体を乗っ取った魔女へ、暴虐を許してはならない!」
英雄は剣を高々と掲げ、魔女が消えた山へ眼差しと切先を向けた。その姿は、英雄譚に記されるべき理想の英雄そのものだった。
群衆の中で剣に覚えのある者たちは、一人、また一人と、男へ続くように武器を掲げていく。氷に包まれたアレンデールの城下町で、国も人種も違う者たちが、打倒魔女の志に集い、剣を一つに束ね合わせる。
若き異国の王子が、存亡の危機に瀕した国のため立ち上がり、魔女を討ち、囚われた英雄と凍らされた民を救い出す。これこそまさしく、誰もが夢見る王道の物語だった。
そして共に戦うことを選んだ者たちの意思を、男も背中で感じ取ったのだろう。山を睨みつけるその背は、小刻みに震えていた。
感動によって胸を震わせているのだと、彼の後ろに並ぶ誰もが思った。
「ありがとう、同志たちよ! アレンデールの未来は、必ずやこのハンス・ウェスターガードが切り開こう!」
英雄は、吼える。
王子は、謳う。
ハンスは、嗤う。
たとえ、アナ王女が本当に死亡したのかどうか、確認すらしていなかったとしても。
たとえ、エルサが魔女に体を乗っ取られたのではないと、最初から理解していたのだとしても。
たとえ、誰にも見られていないその顔へ、隠し切れない喜悦の笑みが宿っていたとしても。
アレンデールを我が物とする野望を燃え上がらせる偽物の英雄、ハンス・ウェスターガードにとって、そんなことはどうでもよかった。
◇ ◇ ◇
どうして、こんなことになってしまったんだろう。
ぼんやりと霞のかかった意識の中でそんな疑問を抱きながら、私は重い瞼をゆっくりと開いた。
視界へ飛び込んで来たのは、青白い光に満たされた幻想的な部屋。壁も床も天井も、透き通った氷によって形作られ、窓から差し込む陽光を幾重にも反射して、室内を水底のように淡く輝かせている。
長年暮らしてきたアレンデール城に、このような場所は存在しない。それどころか、私が寝かされている寝台から側に置かれた机や椅子、壁際の書架や鏡台まで、目に映る物の全てが氷で作られていた。
だが、これほど大量の氷に囲まれているというのに、不思議と寒さは感じない。寝台に重ねられた毛皮だけでなく、その下にある氷さえ、傷ついた体を冷やしながらも必要以上に体温を奪わないよう調整されている。
そんな魔法のような氷を生み出せる人物を、私は一人しか知らなかった。
「エルサ……」
無意識のうちに主人の名前が口から零れ、その響きを自分の耳で聞いた瞬間、それまで霧に覆われていた記憶が一気に鮮明さを取り戻す。
戴冠式の来賓たちを前に、アナが私との結婚を宣言したことで、エルサは抑え続けていた感情と魔法を暴走させた。私はアナを氷の刃から庇い、ウェーゼルトン公爵へ託して隠し通路から逃がすと、他の者たちから引き離すためにエルサを城の最上階まで誘い出した。
そして自らの体へ花火を巻き付け、近づけば起爆すると脅しながら説得を続けた。亡くなった陛下たちの想いを伝えた時には、一度は元のエルサへ戻ってくれるようにも見えた。
だが、全て失敗した。
エルサは気づかぬ間に私の手を凍らせ、そのまま全身の自由を奪ってしまった。そしてアレンデールも、女王の地位も、国民も家族もいらないと告げ、青い氷のドレスを纏った姿で、自分は私を愛するただのエルサであり、私の妻なのだと語った。
それが、魔法によって意識を奪われる前に見た最後の光景。
「……っ、エルサ! アナ!」
全てを思い出し、すぐにでもアナたちの無事を確かめようと体を起こしかけたところで、両手足にかかる強い抵抗に気づいた。
見れば、手首と足首には透き通った氷の鎖が巻き付けられ、その先端は寝台と一体化している。肌を傷つけるほど強く締め付けられてはいないが、腕に力を込めても鎖は僅かに軋むことさえなく、今の私では寝台から離れることすら出来そうになかった。
その一方で、服の下にある傷には包帯が丁寧に巻かれている。自分をここまで運び、傷の手当てをしてくれたのも、この氷の鎖で身動きを封じたのも、エルサなのだろう。
私を大切にしながら、逃げることだけは許さない。そんな矛盾した扱いと、生活に必要な家具まで揃えられた部屋を見て、嫌な考えが頭を過ぎった。
エルサは、私をここに縛り付けるつもりなのではないか?
「……いや」
そんなはずはない。今のエルサは、長年抑え込んできた感情を爆発させ、正常な判断が出来なくなっているだけだ。少し時間を置いて冷静になれば、自分が何をしたのか理解し、話を聞いてくれるはずだ。
幼い頃から知るエルサは、誰よりも心優しく、自分の魔法で誰かを傷つけることを恐れていた。そんな彼女が本心から国も家族も捨て、私だけを連れて暮らそうとしているなど、あるはずがない。
そう自分へ言い聞かせながらも、両手足を拘束する氷の鎖が、胸に生まれた不安を消すことを許してくれなかった。
アナは無事に隠し通路から逃げられたのだろうか。そして、自分がエルサに敗れた後、アレンデール城に残された人々は――――
「起きていたのね、フロー」
アナたちの無事を考えようとした、その瞬間。背後から響いた柔らかな声によって、私の思考は遮られた。
「――――エルサ」
声のした方へ振り向くと、いつからそこにいたのか、氷の扉の前にエルサが立っていた。
その両手には、温かなスープとパン、水の入った杯を載せた盆が抱えられている。戴冠式で身に纏っていた荘厳な女王の衣装はもうどこにもなく、透き通るような青のドレスが彼女の細い体を包んでいた。
長い金髪も、これまでのように頭上で固くまとめられてはいない。片側へ流すように編み込まれた髪が胸元で揺れるその姿は、私が知るアレンデール王女とも、つい先ほど戴冠したばかりの女王とも違って見えた。
それは、王女としての責任も、女王としての威厳も、その身を縛っていた全てを脱ぎ捨てた、一人の女性としてのエルサ。
彼女は私が目を覚ましていることを心から喜ぶように、幼い頃から何度も見てきた柔らかな微笑みを浮かべた。
「よかった……ずっと目を覚まさないから、心配していたのよ」
両手に抱えていた盆を側の机へ置き、エルサは急ぐように寝台へ歩み寄ってくる。彼女の視線は目を覚ました私の顔へ向けられていたが、その途中で一度だけ、手足を拘束している氷の鎖へ落とされた。
でもそこに、罪悪感や後ろめたさを覚えたような雰囲気はなかった。ちゃんと繋がれている事に満足したような安心した笑みが、その綺麗な顔に浮かんでいて。
エルサは寝台の端へ腰を下ろすと、私の頬へ手を添え、続いて額や首筋へ触れて熱を確かめ始めた。その仕草は病人を案じる家族のように優しく、私をこの場所へ攫い、氷の鎖で繋いだ者と同じ人間が行っているとは、とても思えなかった。
「痛むところはない? 傷は出来る限り手当てしたけれど、私にはお医者様のような知識はないから……変な感じがするところがあったら、すぐに教えてね」
「この傷を、エルサが?」
「もちろんよ。だって、フローは私の一番大切な人だもの」
何を当たり前のことを尋ねているのかとでも言うように、エルサは微笑んだ。その言葉に嘘がないことは、幼い頃から彼女を見続けてきた私にはわかってしまう。
私を心配しているのも、傷つけたことを後悔しているのも、おそらく本心なのだろう。だからこそ、手首に巻かれた氷の鎖の意味がわからなかった。
「エルサ。まずは、この鎖を外していただけませんか」
「ああ、これね」
私の視線を追い、エルサはようやく思い出したように鎖へ触れた。透き通る氷の表面を細い指先で撫でながら、少し申し訳なさそうに眉を下げる。
「驚かせてしまったわね。ごめんなさい。でもフローは、自分の体に花火を巻き付けて、私の前で死のうとしたでしょう?」
「死ぬつもりだったわけでは――――」
「嘘」
それは、強い言葉ではなかった。むしろ幼い弟の悪戯を見抜いた姉のような、優しく窘める声だった。それでも、そこには私の反論を最初から受け入れるつもりのない確信が込められていて、エルサの言葉に呼応するように手足を拘束する鎖の重さが増した。
「もし私が止めなかったら、フローは本当に起爆していたわ。私を止めるためなら、自分の命なんていらないって、あの時のあなたはそういう顔をしていたもの」
否定する言葉を、すぐには返せなかった。あの場で他に方法がなければ、私はおそらく迷うことなく起爆装置を押していた。アナや来賓たちを守り、何よりエルサをこれ以上の罪から救うためなら、自分一人の命で済むことを幸運だとさえ考えていただろう。
それを見抜いたからこそ、エルサは私を拘束した。彼女の中では、これは罰でも監禁でもない。自分を粗末にする私を守るための、必要な処置なのだ。
「だから、しばらくはそのままにしておいて。傷が治って、フローがもう馬鹿なことをしないって信じられるようになったら、ちゃんと外してあげるから」
「ですが、私はアレンデールへ戻らなくてはなりません」
出来るだけ刺激しないように声を抑えながら告げると、エルサは何を言われたのかわからないように目を瞬かせた。
「戻る?」
「はい。城には大勢の方々が残っています。戴冠式の最中にあれだけの騒ぎが起きたのですから、今頃は国中が混乱しているはずです。それにエルサ、あなたもアレンデールへ戻らなくては」
「どうして?」
問い返すエルサの顔には、皮肉も、悪意もなかった。本当に、私が何を言っているのか理解出来ないのだと、昔からのエルサを知る私はわかりたくないのにわかってしまう。
それでも、私はエルサとアナの従者として、二人の父君と母君から彼女たちの未来を託された者として、引き下がるわけにはいかない。
「あなたは、アレンデールの女王だからです」
「でも、それはもういらないわ」
それは、私が予想していた以上に、あまりにもあっさりと告げられた言葉だった。否定の言葉を告げられるとは思っていたが、ここまで何の思入れもなく女王であることを捨てるとは、考えていなくて……私は言葉を失ってしまう。
そしてその間にエルサは寝台から立ち上がると、私へ見せるように両手を広げ、青白い光に満たされた室内を見渡した。そこには後悔も迷いもなく、長年自分を苦しめ続けたものから、ようやく解放された者の晴れやかさだけがあった。
「ここには、私たちを邪魔するものは何もないの。国民も、仕事も、女王としての責任もない。誰かのためにフローが無理をして、傷ついて、それでも平気なふりをする必要もないのよ」
「ここは……どこなのですか」
「北の山よ。誰も来ない、とても静かな場所」
エルサは嬉しそうに答え、再び寝台の側へ戻ると、私の手首を包む氷の鎖の上へ自分の手を重ね合わせた。
「あなたと暮らすためのお城を作ったの。少し急いだから、まだ足りない物もあるけれど、フローが欲しい物なら何でも作ってあげる。もう誰にも遠慮しなくていいのよ」
目を覚ました直後から胸の奥に生まれていた不安が、ゆっくりと形を持っていく。今までの自分の全てを否定するような、子供の頃の思い出さえもぐちゃぐちゃに引き裂かれるような痛みが、体を包み込んできた。
だが、それを事実として受け入れることは出来なかった。いいや、するわけにはいかない。
エルサは疲れているのだ。長い間押し殺していた感情と魔法を一度に解放し、自分でも何を言っているのかわからなくなっている。今は説得を拒んでいても、時間をかけて話せば、いずれ自分が何をしたのか理解してくれるはずだ。
そうでなければ、私が知るエルサと、目の前にいる彼女が同じ人間だとは思えなかった。
「アナはどうなったのですか」
せめて彼女の無事だけでも確認しようと名前を口にした瞬間、それまで穏やかだったエルサの表情が、急に無に近い能面へと変わった。鎖に縛られていた私の手を握る力に微かに凍えるような冷たさが増して、瞳が光を失ったように真っ黒に輝いた。
怒りを露わにしたわけではない。ただ、二人だけの楽しい話へ、必要のない人物の名前を持ち込まれたことを、静かに拒絶していた。
「もう…………アナのことなんて、考えなくていいのよ」
「……っ、そういうわけにはいきません。私はウェーゼルトン公爵へ彼女を託しましたが、無事に城から逃げられたのか、それすらまだ――――」
「大丈夫よ、きっと」
私の言葉を遮りながら、エルサは再び頬へ手を添えた。こちらの顔を自分へ向けさせるような仕草だったが、その力はどこまでも優しく、だからこそ拒むことが難しくて。
「あの子には、あの子を助けてくれる人がいるもの。だからフローが、いつまでも心配する必要なんてないわ」
確信があって答えたわけではないことは、その曖昧な言葉からもわかった。そこに、何か恐ろしい事実が隠されている気がして、私は震えそうになる声を必死に抑えて口を開いた。
「エルサ。アナに、何をしたのですか」
「でも、私にはフローしかいない」
だが、絞り出した問いへの答えはなく、代わりにエルサは私の頬を包む手へ僅かに力を込めた。その瞳に、幼い頃と同じ怯えが浮かんでいるのを見て、私の身体はダメだとわかっているのに思わず彼女を抱きしめようと動いてしまう。
だって、扉の向こうへ出ることも出来ず、いつか私まで自分から離れてしまうのではないかと恐れていた、あの頃のエルサの目をされたら、私は彼女を裏切れないのだから。
「お父様とお母様はいなくなって、アナは私ではなくあなたを選んだ。それなのにフローまで、私を置いてアナのところへ行こうとしたでしょう?」
「私は、誰かを選んだわけではありません」
「ええ、わかっているわ。フローは優しいもの。誰かが困っていたら放っておけなくて、自分が傷ついてでも助けようとする。だから私が、もうそんなことをしなくてもいいようにしてあげるの」
私の胸の中へと抱きしめられたエルサの中では、私の言葉は何一つ彼女を否定する理由にはならないらしい。
私がアナや国民を助けようとするのは愛情ではなく、優しすぎる性格のためであり、そんな自分を犠牲にする生き方から救うことこそ、私のためになると心から信じている。
「もう誰のことも心配しなくていいの。私だけを見ていて、フロー」
エルサはそう囁くと、彼女を抱きしめる私の頬を包んだまま、ゆっくりと額を重ねた。触れ合った場所から伝わる体温は、以前のエルサとは思えないほど温かかくて、それが私と共にいるからなのだと、こんな状況なのに嬉しく思う気持ちが湧いてしまう。
幼い頃、魔法に怯えていた彼女の手はいつも氷のように冷たかった。それが今は、私へ触れている間だけ、本当に全ての不安から解放されているかのような温もりを持ってくれるのだから。
「愛しているわ。ずっと、フローだけを愛していたの」
吐息が唇へ触れるほどの距離で告げられた直後、エルサの顔がゆっくりと傾いた。
最初の口づけは、慈しむように柔らかなものだった。だが彼女はすぐには離れず、伝わってくる熱を確かめるように、何度も角度を変えながら唇を重ねていく。
「ん……エルっ、んぐっ」
何かを言おうとして僅かに開いた唇さえ、エルサは逃さなかった。頬を包んでいた片手が後頭部へ回り、氷の鎖によって身動きの取れない私を、さらに自分の元へ引き寄せる。触れるだけだった口づけは少しずつ深まり、互いの吐息が混ざり合うほど長く続けられた。
拒まなくてはならない。今のエルサを受け入れれば、彼女は自分の行いが許されたのだと思ってしまう。それでも強く突き放せなかったのは、手足を拘束されているからだけではない。彼女が縋っているのは私の温もりであると同時に、壊れかけた心を繋ぎ止める最後の支えなのだと、わかってしまったからだ。
「ちゅっ、あむっ……ぁぁっ、フロー……!」
私が抵抗しないことを受け入れられた証と勘違いしたのか、エルサは長年押し殺してきた想いを注ぎ込むように、さらに深く唇を重ねた。甘い毒を飲ませるように執拗でありながら、後頭部へ添えられた手はどこまでも優しく、決して痛みを与えないまま、逃げることだけを許さない。
ようやく唇を離した時、エルサの青い瞳は熱に浮かされたように潤み、呼吸も僅かに乱れていた。それでも顔を遠ざけず、鼻先が触れ合う距離で、私の唇を親指によってゆっくりとなぞる。
「はぁ、はぁ……ああっ♡ やっぱり、温かい……もう二度と、この温もりを誰にも渡さないわ」
そう囁くと、エルサは私が自分のものであると確かめるように、もう一度唇を重ねた。
それは先ほどより短い口づけだったが、一度唇を離しても、離れ際に何度か惜しむように唇を触れ合わせる。やがて満足そうな吐息を零したエルサは、名残惜しそうに私の頬を撫でた後、体に巻かれた包帯へ視線を落とし、愛する相手を世話するという次の幸せを思い出したように表情を明るくした。
「傷に塗る薬をもう少し持ってくるわ。食事も私が食べさせてあげるから、動かないで待っていてね」
「待ってください、エルサ。話はまだ――――」
「大丈夫。もう時間ならいくらでもあるもの」
私を安心させようとするように微笑み、エルサは氷の扉の向こうへ姿を消した。その背中を呼び止めることも出来ないまま、閉じた扉を見つめるしかできず、私は先ほどまでよりも静かになった部屋の中で、自身の手足を拘束する鎖だけが、彼女の言葉が一時の感情ではないことを示していた。
どうすれば、エルサを元に戻せるのか。少なくとも今の彼女へアナや王国の話をしても、自分から私を奪おうとする存在だと受け取られてしまう。ならばまずは鎖を外してもらい、彼女を刺激せずに話を続けなくてはならない。
そう考えていた時だ。誰もいないはずの室内から、何かが氷の床を擦るような小さな音が聞こえた。
そしてその音がしたのは、私が寝かされている寝台の下だった。
「……誰かいるのですか?」
問いかけると、暫くの沈黙の後、寝台と床の隙間から橙色の細長い物がゆっくりと顔を出した。
それは、紛れもなく一本の人参だった。その後ろから丸い雪の頭が現れ、枝で出来た腕を床へつきながら、不格好な雪だるまが狭い隙間を這い出してくるではないか。
そして驚いて言葉を失っている私の前で、雪だるまは体についた氷の欠片を払い落とすと、満面の笑みを向けて笑いかけてきた。
「やあ! 僕はオラフ!」
その雪だるまは、自分が人間の言葉を話していることなど少しも不思議ではないと言わんばかりに、枝で出来た片手を上げて明るく挨拶していた。あまりにも非現実な光景すぎて、一瞬私は先ほどのエルサもやっぱり私の邪な心が見せた夢だったのでは? と現実逃避しかかってしまう。
だが、私は彼の奇妙な姿にも、名乗った名前にも見覚えがあった。
「……オラフ?」
「うん、そうだよ。オラフ!」
自分を知っている者がいたことが嬉しかったのか、オラフは先ほどよりも勢いよく頷いた。その拍子に雪で出来た頭が胴体から外れ、氷の床へころりと転がってしまう。
「あっ」
「…………」
「大丈夫。よくあることだから」
頭だけになったオラフが床へ横倒しになったまま平然と答える一方で、残された体は枝の両腕を前へ伸ばし、何も見えないまま周囲を探り始めた。
「もう少し右。あ、それは僕のお尻。僕はその上」
あまりにも奇妙な光景を前にして、私は驚くことさえ忘れてしまう。やがて体がどうにか頭を拾い上げ、少し傾いた向きのまま元の位置へ載せると、オラフは何事もなかったように笑顔を向け直した。
丸い雪玉を三つ重ねた不格好な体に、顔の中央から突き出した人参の鼻。石のボタンと頭に生えた三本の枝も含めて、記憶の中に残る姿とほとんど変わらない。
まだエルサとアナが仲睦まじい姉妹だった頃、二人が城の中で作った雪だるま。アナが楽しそうに名前を付け、エルサが魔法で雪を動かしながら形を整える様子を、幼い私もすぐ側で眺めていた。
ただし、あの時のオラフは自分から歩くことも、言葉を話すこともなかったはずだ。
「どうして、あなたが……」
「僕を知ってるの?」
「はい。ずっと昔に、エルサとアナがあなたを作るところを見ていました」
「エルサとアナ……」
オラフは初めて聞いたはずの二人の名前を、何か大切な物を確かめるように繰り返した。その表情を見る限り、幼い頃の出来事を覚えているわけではないらしい。それでも名前の響きに心惹かれるものがあったのか、彼は枝の両手を胸の前で合わせて嬉しそうに笑った。
「何だか、とっても素敵な名前だね。聞いてると、ここが少し温かくなる感じがする」
そう言いながらオラフが示したのは胸ではなく、石のボタンが付いた腹の辺りだった。
「心があるとすれば、もう少し上ではないでしょうか」
「そうなの?」
驚いたように自分の胸元を見下ろしたことで、また頭が傾く。今度は落ちる前に両手で押さえたが、その代わりに腹部が外れ、下半身だけを床へ残したまま上半身が倒れ込んでしまった。
「なるほど。僕の体、思っていたより自由みたい」
「今まで気づいていなかったのですか?」
「僕、さっき生まれたばかりだから」
悪びれることなく答えたオラフは、枝の腕を使って床を這い、自分の下半身へ戻っていく。どうにか体を元通りにしたものの、今度は石のボタンが上下逆になっていたが、本人はまったく気にしていなかった。
彼が生まれたのは、エルサが魔法を解放した後なのだろう。国も家族も必要ないと言い切った彼女が、無意識のうちに生み出したのは、かつてアナと共に作った思い出の雪だるまだった。全てを捨てたつもりでいても、エルサの心には姉妹で笑い合った頃の記憶が残されている。
目の前で無邪気に笑うオラフは、その何よりの証明だった。
「オラフは、どうして寝台の下にいたのですか?」
「探検してたんだ。ここは広いし、階段もいっぱいあるし、どこへ行っても僕と同じ雪と氷ばかりだから、もしかしたら全部僕の親戚かもしれないと思って」
「それは違うと思います」
「そうなの? まだ挨拶してないから、わからないよ」
氷の壁へ挨拶を始められては話が進まないため、私は先を促した。するとオラフは、部屋へ迷い込んだところでエルサが戻ってきたため、二人の邪魔をしないよう寝台の下へ隠れていたのだと説明した。
「二人とも大事な話をしていたみたいだったから、静かにしてたんだ。僕、空気を読むのがすごく得意でしょ?」
「それは、ありがとうございます」
「途中で少し寝ちゃったけどね」
「…………」
なるほど、なかなか愉快な方のようだ。
とはいえ、彼がエルサの命令を受けて私を見張っているわけではないことだけはわかった。エルサが戻るまでの時間は限られている。今の私がこの部屋の外へ助けを求めるには、目の前にいる小さな雪だるまへ頼る以外に方法はなかった。
「オラフ。あなたは、この城の外へ出られますか?」
「出られると思うよ。僕、扉を開けるのはあまり得意じゃないけど、狭いところなら得意だから」
その言葉を証明するためか、オラフは自分の頭と腹部を順番に取り外して床へ並べた。枝の腕まで抜けば、先ほどまで一体の雪だるまだったものが、大小三つの雪玉と数本の枝に分かれてしまう。
「ほら。これなら、ちょっとずつ運べるよ」
「……確かに便利ですね」
「本当? やった!」
褒められたことが嬉しかったのか、床に置かれた頭だけが弾むように動いた。その勢いで再び転がり始めたため、胴体が慌てて追いかけている。
相手を選び間違えたのではないかという不安が、一瞬だけ頭を過ぎった。しかし、今は他に選択肢がない。
「この山のどこかに、アナという女性がいるかもしれません。髪は赤みがかった色で、二つに編んでいます。青い瞳をした、明るくて少し落ち着きのない女性です」
「明るくて、落ち着きがない」
「本人の前では、最後の部分は言わないでください」
「どうして?」
「話が長くなります」
「そっか。じゃあ秘密にしておくね」
オラフは何か重大な秘密を任されたように、声を潜めて頷いた。私はそれを少し心配な目で見つつも、なぜオラフにアナのことを伝えたのかを思い返した。
アナが隠し通路から無事に逃げられたとしても、私を追ってこの山まで来ている保証はない。本来であれば城に残り、混乱したアレンデールを立て直していると考えるべきなのだろう。
それでもアナならば、自分を置いて逃げろという私の言葉を受け入れず、エルサの後を追おうとするのではないか。その危うい確信が、胸の奥にはあった。
そしてそう考えると、彼女が頼りそうな相手と、それを受け入れてくれそうな親友の顔が私の脳裏に浮かんだ。
「もしかすると、クリストフという大柄な青年と一緒にいるかもしれません。金色の髪で、少し無愛想ですが、信用出来る人です。スヴェンというトナカイも側にいる可能性があります」
「スヴェンは角があって、毛がふさふさ?」
「その特徴なら、恐らくトナカイは全て当てはまります」
「じゃあ、見つけるのは難しそうだね」
オラフは真剣な顔で悩み始めたが、そもそもこの山中に何頭ものトナカイが集まっているとは考えにくい。それにスヴェンなら、基本的にクリストフと一緒にいるはずだし、間違えて野生のトナカイを連れて来る確率は低いだろう。…………低く見積もっても4割ぐらいで間違えそうだ。
「三人を見つけたら、私がこの城にいると伝えてください。エルサに拘束されていますが、命に関わるような状態ではありません」
「命に関わらない……」
私の手足を拘束する氷の鎖と、服の下から覗く包帯を見比べ、オラフは難しい顔をした。無邪気な彼であっても、今の状態を無事と呼ぶことには疑問を感じたらしい。
「つまり、ちょっとだけ無事?」
「……そう伝えていただいて構いません」
「わかった。フローはここにいて、ちょっとだけ無事」
完全に無事だと伝えても、アナは言葉通りに受け取らないだろう。それならば、オラフの表現もあながち間違いではなかった。
「そして、決してエルサを傷つけないように伝えてください。彼女を刺激せず、まずは話をしてほしいと」
「エルサは、悪い人なの?」
オラフから投げかけられたあまりに真っ直ぐな問いに、私はすぐには答えられなかった。多くの人々へ魔法を向け、国を捨て、今も私を氷の鎖で拘束している。行ったことだけを見れば、悪くないなどとは到底言えない。
それでも、私は彼女を悪人だとは思えなかった。
「いいえ。とても優しい人です。ただ今は、心が酷く傷つき、自分でも何をしているのかわからなくなっているのです」
「じゃあ、助けてあげなくちゃね」
オラフは少しも迷わずに答えた。その答えに、逆に私の方が目を見開いて固まってしまう。
「怖いことをしちゃったからって、一人にしたらもっと悲しくなるでしょ? アナとエルサが仲良しだったなら、ちゃんと会ってお話しした方がいいよ」
子供のように単純な考えだった。だからこそ、今の私には胸の奥に深く響く言葉となった。
そうだ、おそらく今のエルサに必要なのは、誰が正しく、誰が間違っているかを裁くことではない。彼女を恐れることなく側へ寄り添い、もう一度アナと向き合わせることなのだろう。
オラフは、エルサの中に残された優しさから生まれた存在だ。そんな彼が口にした言葉だからこそ、何の根拠もないはずの考えを信じたいと思えた。
「お願いします。エルサを助けるためにも、アナたちをここへ連れてきてください」
「任せて。赤い髪のアナと、大きくて無愛想なクリストフと、ふさふさしたスヴェンを探して、フローはちょっとだけ無事だって伝える。それから、エルサと喧嘩しないでお話しする」
オラフは枝の指を一本ずつ折るように曲げ、頼まれた内容を確認していく。その最中に指の枝が足りなくて、さっき曲げたばかりの枝を上げた結果内容が複合して「赤い髪のふさふさクリストフが無事に喧嘩してエルサとお話し」と訳がわからなくなったりしたが、なんとか内容を全て覚えさせられた。
「あと、アナは落ち着きがないけど秘密」
「それは忘れてください」
「わかった。絶対に言わないよ」
忘れてはいないらしいが、今は訂正している時間もなかった。部屋の外から、氷の床を踏む硬い足音が微かに聞こえてきた。まだ離れてはいるものの、一定の速さでこちらへ近づいている。間違いない、エルサが戻って来ている。
「オラフ、急いでください」
「でも、扉は閉まってるよ?」
「先ほど、狭いところは得意だと」
「あっ、そうだった」
オラフは自分の特技を今になって思い出したように手を叩き、部屋の壁際へ走っていく。足が短いため速さはそれほどでもなかったが、本人は懸命に枝の腕を前後へ振り、氷の床を滑りながら進んでいた。
壁の下には、装飾の一部として作られた細長い隙間が空いている。人間には手を通すことも出来ないほど狭かったが、体を分けられるオラフなら、どうにか外へ出られるはずだった。
「じゃあ、行ってくるね!」
オラフは元気よく答えると、慣れた様子で頭を取り外し、横向きにして隙間の向こうへ転がした。続けて胴体と下半身を順番に押し出し、最後に枝の両腕を通していく。
そして壁の向こうで雪玉同士が軽くぶつかる音がしたかと思えば、すぐに体を組み直したらしいオラフの明るい声が返ってきた。
「出来たよ!」
「ありがとうございます。急いでアナたちを探してください」
「任せて! フローはちょっとだけ無事で、エルサとは喧嘩しないでお話しするんだよね!」
「はい。お願いします」
頼まれた内容をもう一度口にして確認すると、オラフは小さな足音を響かせながら、迷うことなく廊下の先へ走り去っていった。
その後、二、三歩進むたびに何かが転がり、それを拾い上げて再び走り出すような音がしていたため、無事に山を下りられるのかという不安が残ることになったが……それでも、先ほどまで胸を埋めていた絶望は僅かに薄らいでいた。
オラフが存在すること自体が、エルサの心からアナとの思い出が失われていない証拠だった。彼がアナの元へ辿り着き、再び姉妹を結びつけてくれるならば、今のエルサもまだ元へ戻れるかもしれない。
程なくして、部屋の扉の向こうで足音が止まった。私は寝台の下にオラフが残した物がないことを確かめると、先ほどまでと変わらぬ姿勢で寝台へ横たわった。何か隠そうとすれば、幼い頃から私を見続けてきたエルサには、かえって怪しまれてしまう。
やがて氷の扉が静かに開き、薬の入った小瓶を手にしたエルサが戻ってきた。
「お待たせ、フロー。いい子にしていた?」
その顔には先ほどと何一つ変わらない、愛情に満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいる。私とこうした会話をできることが嬉しくて嬉しくて堪らないのだと、彼女の全身を包む雰囲気が伝えていた。
「はい。お帰りなさい、エルサ」
今は彼女を刺激せず、アナたちがこの城へ辿り着くまで時間を稼ぐしかない。そう心に決めた私の返事を聞き、エルサは満足そうに目を細めた。
◇ ◇ ◇
アレンデール城下町で、今まさに偽の英雄によって魔女討伐隊が結成されている頃。
ザク、ザク、と。エルサの魔法によって降り積もった大雪の上を、二人と一匹の影が進む音が小さく響く。彼らが歩いているのは、雪の中から木々の先端だけが覗く、なだらかな傾斜。その光景から、雪の下に隠れているのがただの地面ではなく山道だと、見る者にはわかるだろう。
極寒の雪山を、それも星が瞬く時間帯に登るなど、どんな馬鹿でも無謀だとわかる行為だ。まして、雪国であるアレンデールに暮らす者が、その危険性を知らないはずもない。
だが、そんな命を投げ捨てるに等しい行軍を黙々と続ける二人と一匹の素性と理由を知れば、なぜ彼らがこれほどの無謀を強いられているのか理解出来るだろう。
「ねぇ、クリストフ! もっと急げないの!? こうしてる今もフローが! 私の、夫が! エルサに苦しめられてるかもしれないのに!」
鬼気迫った表情で連れの男を急かす茶髪の少女こそ、偽の英雄によって死亡したことにされた、アレンデールの第二王女アナ。
ドレス姿から、クリストフが用意した登山用の防寒具へ着替えた彼女は、自分から愛するフローを奪った姉の元へ辿り着くため、一秒でも早く山を登り切りたいと叫んでいた。
「無茶言うな! ただでさえ、こんな状態の山を登るなんて危険すぎるのに、これ以上速度を出したら、いつ滑落するかわかったもんじゃねぇぞ!」
そんな狂気さえ感じさせるアナに対し、負けじと怒鳴り返す男の名はクリストフ。執事フローの親友であり、同時に、彼を巡って国を滅ぼす規模へ発展した壮絶な姉妹喧嘩へ巻き込まれた不幸な氷売りである。
「ブオオ!」
さらに、そんな二人のやり取りを一歩引いた場所から眺めているトナカイが、スヴェン。クリストフの相棒であり、ヤンデレ姉妹大戦へ呼ばれてもいないのに、主人共々その最前線へ放り込まれた不幸なトナカイである。
二人と一匹は、エルサによって引き起こされたアレンデールの永久凍結から、辛くも逃げ延びることが出来た。
国一つを凍らせるという神話のような光景を見せられ、言葉を失って立ち竦んでいたのは僅か数分。すぐさま、全ての下手人である泥棒猫エルサへの怒りによって我を取り戻したアナが、クリストフとスヴェンを雪山の案内役として、王女命令で半ば強制的に徴用したのが数時間前。
それから彼らは、エルサがいると思われる山の頂上を目指し、地獄の登山を続けていた。
「ほら見ろ、スヴェンのやつも言ってるぜ! 『このままだったら、フローたちのところに辿り着く前に、俺ら全員お陀仏だ』ってな!」
「ブオッ!?」
「何ですって? 私が泥棒猫のエルサからフローを取り戻せずに死ぬって言いたいの、スヴェン!?」
「ブオッ!?!?」
身に覚えのない発言を捏造された上に、ヤンデレ王女の怒りの矛先まで受けかけたスヴェンは、目玉が零れ落ちそうな勢いで首を横へ振って後ずさった。
「ち、違う! スヴェンはそんなこと一言も言ってねぇ! 俺ら全員死ぬかもしれないって言ったのは俺だ!」
慌てて相棒の濡れ衣を晴らしたクリストフの言葉を聞き、アナの殺気が標的を変更する。危うく命拾いしたスヴェンがさらに数歩離れる中、今度はクリストフが、夜の雪山よりも冷たい王女の眼差しを正面から浴びることになった。
「じゃあ、あなたは私がフローを助けられずに死ぬと思ってるの?」
「そうは言ってねぇだろ! このまま無茶な登り方を続けたら、助ける前に遭難するって言ってるんだ!」
「同じじゃない!」
「全然違う!」
「ブオオ……」
どちらの味方をしても命が危ないと察したスヴェンは、巻き込まれないよう二人から少しだけ距離を取った。
だが一方で、アナはクリストフが不吉な未来ばかりを口にしているわけではないことは、慌しいが馬鹿ではない彼女も理解出来ていた。
降り続ける雪は数時間前よりも勢いを増し、少し離れれば互いの姿さえ見失いかねないほど視界を遮っている。足元にあるはずの山道も完全に埋もれ、彼らは僅かに雪から覗く木々と、地面の傾斜だけを頼りに進んでいた。
それでも速度を落とすという選択肢を、今のアナが受け入れられるはずもない。自分がこうして足を止めている間にも、フローはエルサに何をされているかわからないのだ。城の屋上から見た彼は意識を失い、抵抗することも出来ないまま姉の腕に抱かれていた。
アナの存在も、助けを求める声も届かず、エルサの思うままどこかへ連れ去られてしまった。
「とにかく、私は止まらないわ。あなたたちが疲れたなら、ここで休んでいればいい。私一人でもフローを助けに行くから」
「だから、一人で行かせたら死ぬって言ってるんだよ!」
クリストフは先へ進もうとするアナの腕を掴み、強引に足を止めさせた。次の瞬間、彼女が踏み出そうとしていた場所の雪が音を立てて崩れ、その下に隠されていた急斜面が姿を現す。あと一歩でも進んでいれば、アナは深い谷底まで滑り落ちていただろう。
「見ろ。夜の雪山は、元気と根性だけでどうにかなる場所じゃない。フローを助けたいなら、まず自分が生きて辿り着くことを考えろ」
「……わかってるわよ、それくらい」
「本当にわかってるやつは、今みたいな場所へ考えなしに足を出さねぇ」
「うるさいわね!」
正しいことを言われたのが気に入らず、アナは掴まれていた腕を乱暴に振り払った。しかし、先ほどまでより歩調を僅かに緩め、クリストフの少し後ろを進み始めた辺り、忠告そのものを無視したわけではないらしい。
そんな少女の姿を横目で確認し、クリストフは小さく息を吐いた。彼女がフローを大切に思っていることは疑っていない。
だが、フローを助けたいという言葉の中へ混ざる執着と、エルサに対する憎悪を見ていると、無事に二人の元へ辿り着いた後の方が危険なのではないかという不安が湧いてくる。
なぜならフローは、二人のどちらか一人を守るために、もう片方を傷つけられるような人間ではないからだ。
「なあ、アナ。一つ聞いていいか?」
「何よ」
「さっきからフローのことを夫って呼んでるけど、本当にあいつがそう言ったのか?」
その問いを耳にした瞬間、アナの足が止まる。そして次に彼女の口から漏れた言葉は、先ほどまでの癇癪に近い怒りとは桁が違う、寒々とした響きを含んでいた。
「――――何が言いたいの?」
その言葉には温度がなかった。ただ、一言でも返す言葉を間違えれば命はないと思わせるほどの深い情念が宿っていて……それを吹雪のおかげで欠片も気づくことなく喋り続けるクリストフはある意味で究極の幸せ者かもしれない。
「別に馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、あいつからお前と結婚するなんて話を聞いたことがなかったから、本当に本人が望んだことなのか気になっただけだ」
「フローは約束してくれたわ。私のお願いを何でも一つ聞いてくれるって。だから私は、結婚してってお願いしたの。フローは約束を破らないもの」
返された殺意さえ混じり始めた答えを聞き、クリストフは自分が後数秒後には雪山の変死体になっているかもしれないという危機にまったく気づくことなく、眉間へ困ったように皺を寄せた。
「それで、あいつは結婚するって答えたのか?」
「だから、約束したって言ってるでしょ!」
「何でも聞くって約束と、お前と結婚したいって言うのは別だろ」
アナの瞳に鋭い光が宿り、その懐に隠した短刀の柄を抜き放つ。その危険な変化に気づいたのか、少し離れて様子を見ていたスヴェンがクリストフの外套を後ろから引っ張ったが、彼は相棒の忠告を無視して言葉を続けた。
ここで黙っていれば、二人の姉妹は再びフローを間へ挟んで殺し合う。その時、最も傷つくのは彼女たちではなく、どちらも守ろうとする親友なのだ。それを、友達思いのクリストフが放っておくわけがなかった。
「フローは、お前のことを嫌ってなんかいない。むしろ、ずっと気にしてた。自分がエルサの側にばかりいて、お前を一人にしてしまったって、あいつは本気で後悔してたよ」
「だったら、私と結婚することに何の問題があるの?」
「そうやって、すぐ結婚に繋げるな。あいつがお前に感じてるのは、愛情だけじゃない。責任とか、罪悪感とか、自分が償わなくちゃいけないって思いまで、全部ごちゃ混ぜになってるんだ」
戴冠式の日の朝、クリストフはフローからアナの護衛を頼まれていた。その時の彼は、久しぶりに自由を得たアナに一日を楽しんでもらいたいと笑いながら、その裏では彼女を長年放置してしまった自分を責め続けていた。
だがそれは、エルサについて語る時も同じだった。魔法を抑える手助けをするのも、不安に怯える彼女の側を離れないのも、フローにとっては幼馴染への好意であると同時に、自分にしか出来ない責務だった。
どれほど疲れ、どれほど自分の時間を失っても、彼はそれを犠牲だとは考えない。王と王妃に救われた自分が、その娘たちへ命を捧げることは当然なのだと、本気で信じているからだ。
そんな彼を、クリストフは初めて氷をお城に届けに行って彼と友情を結んでから、ずっと見続けてきたのだ。
「フローは、お前とエルサのどっちが大切かなんて聞かれても答えられねぇよ。選びたくないからじゃない。自分には誰かを選ぶ権利なんてないと思ってるんだ」
「そんなこと……」
「ある。あいつは自分の幸せより、お前ら二人が傷つかないことを選ぶ。どっちか一人を選ばなくちゃいけなくなったら、自分が消えれば全部解決するって考えるような馬鹿だ」
城の最上階を吹き飛ばした爆発を思い出し、アナは言葉を失った。フローが自分を隠し通路へ逃がした時、最後に告げた言葉。普段の彼なら決して使わない別れの挨拶を、あの時だけは躊躇うことなく口にした理由を、アナは本当の意味で理解していたのだろうか。
彼は、エルサと二人になることを望んだのではなく、アナを逃がし、暴走するエルサを止めるために、自分だけが死ぬつもりだったのだと。
いつのまにか、アナは短刀から手を離していた。クリストフへ先ほどまで抱いていた殺意はもうすっかり萎んでいて、代わりにその身を包んでいたのはどうしようもない自己嫌悪だ。
「……フローは、私を守るために残ったのよ」
「ああ。お前だから、命を懸けて守ったんだろう」
「私を愛してるから」
「それも嘘じゃないと思う。けど、お前だけを選んだから、自分の命を捨てようとしたわけじゃない。あいつは、エルサも助けようとしてたんだ」
否定し切ることの出来ない答えに、アナの拳が強く握られた。本来ならばクリストフへ怒鳴り、そんなわけはないと否定していただろう。だが、出来なかった。
自分の知らない場所でフローが抱えていた苦悩を聞き続け、その自己犠牲的な部分をよく知る親友の言葉は、認めたくないほど彼らしく聞こえてしまったからだ。
「それでも……約束は約束よ」
ようやく絞り出した声は、先ほどまでよりもずっと弱かった。だってそれしか、自分とフローを繋ぐ確かな絆は残っていないのだ。それ以外の全ては、全部姉に取られてしまったから。
「私はフローと結婚する。今度こそずっと一緒にいて、二度と一人になんてさせない。そうすれば、フローだって自分を犠牲にしなくて済むもの」
「お前がそうしたいだけじゃなくて、あいつが何を望んでるかも聞いてやれ」
「聞くわよ。エルサから取り戻した後で、いくらでも」
「取り戻すって言い方をまずやめろ。あいつは物じゃねぇんだぞ」
もっともな指摘だったが、アナは聞こえなかったふりをして歩き出した。クリストフから伝えられた言葉を、全て受け入れたわけではない。フローが自分へ抱く愛情に罪悪感が混ざっているとしても、二人の間に交わされた約束まで偽物になるわけではない。
それでも、胸の奥へ小さな棘が刺さった。
もしフローが、自分との結婚を望んでいなかったら。
もし自分もまたエルサと同じように、彼の優しさへ付け込み、逃げ道を奪おうとしているだけだったら。
浮かびかけた疑念を、アナは首を振って無理やり追い払う。今は、その答えを考える時ではない。まずはフローを救い、彼の口から無事を確かめることが先だった。
「……なあ」
暫く無言で先頭を歩いていたクリストフが、不意に足を止めた。
「今度は何?」
「この木、さっきも見なかったか?」
彼が指差した先には、雪の重みに耐え切れず、途中から不自然に折れ曲がった一本の木が立っていた。その幹にはスヴェンが角を擦りつけた跡が残り、根元には先ほど休憩した際、アナが苛立ち紛れに蹴り飛ばした雪の塊まで転がっている。
「……似たような木なんて、山にはたくさんあるわ」
「スヴェンの角の跡まで同じ木が、何本もあるのか?」
「ブオッ」
スヴェンが肯定するように頷く。二人と一匹は、同じ場所へ戻ってきていた。つまり、迷子である。
「どういうことよ! あなた、雪山の案内人なんでしょ!?」
「雪山ならどこでも知ってるわけじゃねぇ! こんな真夜中に、いきなり地形が変わるほど雪を降らされた山なんて、俺だって初めてなんだよ!」
「じゃあ、今まで何を頼りに歩いてたの!?」
「山頂は上にあるだろ!」
「そんな理由で進んでたの!?」
「お前が一秒でも早く登れって急かしたんだろうが!」
二人の怒鳴り声が、静かな雪山へ虚しく響き渡った。しかし、責任の押しつけ合いをしても道が見つかるわけではない。クリストフは周囲の木々や傾斜を改めて確認し、スヴェンも鼻を雪へ近づけて何かの匂いを探そうとする。
だが、降り続ける雪は二人と一匹が残した足跡だけでなく、山に存在していたあらゆる目印を消し去っていた。エルサの魔法で作られた氷の道も途中から雲の中へ隠れ、どの方角へ伸びているのかすら見えない。
「このまま進むのは危険だ。せめて雪が少し弱くなるまで、風を防げる場所を探すぞ」
「でも、フローが――――」
「焦って谷に落ちたら、今度こそ助けに行けなくなる。さっき自分でもわかっただろ」
「…………」
反論出来ず、アナは唇を強く噛みしめた。このままでは、フローがエルサに取られてしまう。今度こそ、閉じられた扉の向こうに永遠に仕舞われてしまう。フローに会えなくなる。フローに触れられなくなる。フローを見れなくなる。フローに、フローに、フローに、フローに、フローに、フロー、フロー、フロー、フロー、フロー、フロー、フロー、フロー、フロー、フ「ねえ! ちょっと聞いてもいい?」――――――――?
その時だった。吹き荒れる風の音に混ざり、どこからともなく明るい声が聞こえたのは。先ほどまで確かに自分たち以外いなかったはずの雪山に響いた第三者の声に、二人と一匹は、同時に動きを止めた。
「……今、誰か喋った?」
「俺じゃないぞ」
「ブオッ」
「スヴェンでもないわよね」
「ブオオッ」
声の主を探して周囲を見回すが、視界に映るのは白く染まった木々と、積み重なる雪ばかり。こんな時間に、このような雪山を歩いている人間が、自分たち以外にいるとは考えにくい。
「こっちだよ。もう少し下」
だが、声は響いた。それも声の主の言う通り、すぐ真下から。なのでアナたちは言われるまま、視線を下げた。
雪の中から、人参が一本だけ突き出していた。
「……人参?」
「食うなよ、スヴェン」
「ブフッ!」
「僕の鼻だから、出来れば食べないでほしいな」
人参の下に積もっていた雪が、もぞもぞと動く。次の瞬間、丸い雪の頭が勢いよく飛び出し、続いて枝の腕と胴体が雪を掻き分けながら現れて……不格好な雪だるまが、二人と一匹の前へ立ち上がった。
そして現れた謎の生き物は、驚きのあまり言葉を失う彼らを順番に見比べると、まるで自分へ言い聞かせるように、探している人物の特徴を口にし始めた。
「赤い髪を二つに編んでいて、青い目で、明るくて、少し落ち着きがない女の人。あ、最後のところは本人には秘密」
「……私のこと?」
「最後のところまで聞こえてるぞ」
クリストフの指摘を無視し、アナは目の前の雪だるまへ顔を近づけた。
「あなた、誰なの?」
「僕はオラフ!」
雪だるまは枝の両腕を大きく広げ、今にも太陽が昇ったかのような満面の笑みを浮かべて、アナたちに高らかに自分がここにいる理由を告げるのだ。
「フローから、君たちへの伝言を預かってきたんだ!」
主人公
絶賛監禁中。状況はもう完全にピーチ姫状態。まだここから入れる幸せヤンデレ姉妹保険があると思ってる。アナたちが救出に来るのが遅れるたびに主人公の理性ゲージは減っていき、ゼロになると無事に(性的に)食われる模様。
エルサ
気分は新居に引越したばかりの新婚さん。誰も来ないし、誰にも邪魔されない場所で愛する人とずっっっっと一緒。それでも邪魔しようとする虫はきっちりすり潰してあげないとね、とお城の警備雪だるまを増設中。
アナ
気分は結婚式で花婿を奪われた花嫁状態。短刀持って泥棒猫のお家に凸り中。クリストフの言葉を受けて少しだけ我が身を顧みれて反省できた。それでもヤンデレゲージはいささかも下がっていないので、説得できるのは主人公だけ。
クリストフ
You are Perfect communication man。地雷の上で目を瞑りながらタップダンスしてたら、つま先で第一の信管を解除した執事の最高の親友。相棒のスヴェンの胃はもうボトボト。
オラフ
出てくるだけで物語に癒しとギャグの風を吹かしてくれる我らがマスコット。彼の存在がハッピーエンドの行方を左右すると言っても過言じゃない、エルサの良心。
ハンス王子
絶賛英雄中。真下から地雷原が無くなり、意気揚々とアイリッシュダンスまで刻み始めた。体が軽い…こんな幸せな気持ちで踊るなんて初めて…もう何も怖くない――――!