ようやく復活……とまではいきませんが、ちょくちょく書いていきます。
縦一文字の大きな裂傷を受けた丸子彦兵衛であったが、治療の甲斐無く死んだ。
その際に検分したところ、自身の一物に重度の切傷が刻まれていたことから、下手人は丸子を殺害しその一物を切り取ろうとしたことが判明した。
この悍ましい事件に対し岡っ引きが捜査するものの、その湯屋に刀を持ち込んだ者など誰一人として目撃していなかった。
だが、持ち込んだ者は見なかったものの、忽然と消えた湯屋のものがいたという。その者の消息は掴めていない。この湯屋は裕次郎がよく通っていたもので、裕次郎を通じて互いによく見知った仲であったが、その湯屋の者は新参で、誰一人として見知ったものがいなかったという。
虎眼流門下生による山狩りが二度行われたが、成果は猪二頭。
下手人は人あらざる妖魔……すなわち、現在逃亡中で宗像殺害の嫌疑で追われている虎眼流屈指の業前を持つ裕次郎をなぞらえて。
虎ではなく、『鵺』の所業である。
と、囁かれ出した。
内弟子部屋。虎子の間。
六畳一間の内弟子専用の部屋であり、かつては賑わっていたのだが、今では源之助と興津の二人しかいない。
月明かりと部屋に用意した提灯の明かりで机に向かう源之助の背中に、興津が声を掛けた。
「広うなり申したな……」
悲しそうに呟く興津の言葉に、源之助は振り返る。
在りし日の虎子の間。
丸子と興津が将棋をし、涼之介が興津から木刀の扱いを教えてもらい、九朗右衛門がそれを隅っこで微笑ましく見ている。時々ここに裕次郎が混ざったときは、興津と碁をするときがあった。
裕次郎は普段はあれだが、碁はめっぽう好きである。弱いが。
そして負けそうになると五目並べしよう、と言い出しては興津に無視され負ける。それを笑ってみる虎子たち。
そんな笑い声と賑やかで暖かで……かけがえのない時間。
それが、ない。
虎子の間にいるのは源之助と興津の二人だけ。
足を伸ばして寝ても邪魔扱いされない。床に何か置いても文句を言われない。
好きなようにできる自由な部屋であるが、好きなようにできない不自由な部屋である方が良かった。
畳をジッと見つめる興津の心中はこのようなものなのだろうか、と源之助は考える。
だが、何か声を掛けたとしても、その寂しさと、この隙間風が吹く寒さに何かできるわけでもないのだ。
黙したまま、源之助は机に再び向かう。
文盲の藤木源之介に読み書きを教えたのは、まさに一緒の部屋にいる興津三十郎であった。
紙は貴重で板に水で文字を書いて学ぶ。これを毎日欠かさずである。
同じように文盲であったはずの裕次郎であったが、こっちはあっさりと読み書きを修得すると、そのまま草双紙を描き始めて儲けだした。その才の違いに源之助がどう思ったのかは、誰にもわからない。
その源之助の右手が、現在包帯が巻かれたままである。
七人組の牢人者を殴った際に刺さった歯であったが、裕次郎がその後急いで焼酎を使って消毒を試みたおかげか雑菌による重傷化は避けられた。それでも完全に処置しきれず、今でも包帯を巻いている。
下手すれば膿んでいる可能性もあるが――要観察状態だ。
しかし、後ろから見ている興津は見抜いていた。
あれは、少し膿んでいる。
だから治りが遅いのだ、と。
翌日。
掛川城下にあるとある屋敷。
総坪数千三百九十坪。
盲人の自治組織、当道座の最高位、検校の住居である
当道者の長たる者にこれほどの身分を与えられたのは、神君・徳川家康である。
幕府の後ろ盾を得た豪勢な屋敷を、似つかわしくない安袴が歩いている。
三味線の修行を積む当道者たちは、嗅ぎ慣れぬ野生臭に眉をひそめた。
安袴をはいたその者が一室にて正座で待つと、三人の男達が入ってきた。
検校には職事と呼ばれる三名の秘書官がおり、その者たちは目明きである。
「虎
差し出された小判包み。
しかし、それを前にして――興津三十郎はむすっとした顔のままであった。
「某は一切協力せぬ、と文にて伝えたはず。なのになぜ、またこうして呼ばれたのかと思ったら……なんのことにござろうか」
硬い声で返した興津に対し、職事たちはニヤニヤと笑ったままだ。
「とぼけたことを……興津どの、丸子と宗像、そして藤木裕次郎を仕留めた協力にございます」
「某は何もしておらん。丸子とは湯屋で別れただけ、宗像は帰りに襲われ、裕次郎はあらぬ嫌疑を掛けられた逃亡中……。それより、この代金を出すということは、そちらの差し金であろうか……?」
興津は現在、大刀を腰から抜き、右手側の畳の上に置いている。これは相手に戦意はないと示す、武装解除の姿だ。
だが、興津の顔に怒りが滲み、右手の大刀に手が伸びようとしていた。
「残りの虎は、三頭」
しかし、職事の顔に怯えはない。
「その隙を見いだせば、興津どのが夢見る寺子屋道場を設ける資金が足りるのでは……?」
興津の顔に、悔しさと怒りが半々に浮き出た。右手が止まるが、怒りで手の甲に血管が浮き出ている。
確かに興津は裕次郎と話した――読み書き計算と剣術を教える新しい形の道場を建てることを夢見ていた。それは、裕次郎と話したことで目標としたのもそうだが、源之助と裕次郎の二人に読み書きを教えたときに興津自身がそこに楽しみを覚えたからだ。
その目標の金額を、職事たちが出すという。
同門を売ることによって。
「……あの三頭の隙を見いだす? 容易なことにござらぬな」
「虎の中の虎、と?」
「左様」
このとき興津の脳裏に源之助の怪我と、裕次郎が三日前に蔦の市のところに訪れていたことを思い出したが、漏らさなかった。
馬鹿馬鹿しい、何故金のために同門を売らねばならぬのか。興津自身、話すつもりなどなかった。
その時、視界の端に耳障りな音を鳴らす蚊が、
風が吹き、鐔鳴りが響く。
興津は大刀を右手にし、立ち上がる。
「もう呼ぶことのないように。これにて御免つかまつる」
そのまま興津は部屋から出て行ってしまった。
このとき、目の前にいた職事たちは鐔鳴りの音を聞いたのみであった。
だが……七間先で庭木の手入れをする中間の目には見えていた。
小刀を抜き、蚊を両断し、鞘に納めるその技を。
その男の穴の横には葡萄ほどの黒子がある。
検校屋敷を出た興津は、怒りのまま帰路に着いていた。
馬鹿馬鹿しい、協力などなぜするものか。
あれは涼之介が殺される前日に文で届いたことがきっかけだった。
曰く、虎殺しに協力すれば、そのお礼はする、と。
興津はその文を握りつぶした。
誰かの狂言であるとしか思ってなかったのだ。
だが、なぜ、と今さら自問自答する。
興津は何故、そのような怪しい文を皆に言わなかったのか?
その理由は興津自身にもわからない。
「興津」
屋敷を出て松の木の庭を抜けようとした興津の背に、声が掛かった。
振り向かなくともわかる。
気配と、静かな気。
「あの屋敷に伊良子はいるのか?」
源之助の、それであるのだから。
興津は振り向かぬまま、手の指と手首を鳴らした。
「藤木……」
興津の額に汗が――流れていなかった。
この場に源之助がいて、怪しいと思われ、何かの言い訳か弁明をせねばならぬ状況下で、逆に興津の頭が冷えていく。
「おぬしはあの虎子の間で一生を終えるつもりか?」
「なんの話だ」
「虎眼流に明日はあると思うか?」
何を言いたいのか、何の話をしたいのか。
いや、待て、と源之助は腰に伸びようとした手を止める。
興津の言葉の真意は分からぬが、逆に源之助は自身の真意を伝えていない。だからそこで止まることができた。
それは、裕次郎と一緒にいて、教えてもらったことだから。
「己は興津が裏切ったと思ってない」
「そうか」
「そして、虎眼流の明日は三重さまにござる。あの方は少し弱っているが、必ず元気になられる」
しっかりと伝えることができたと思う。源之助は興津が裏切ったと、虎眼流を売ったと思ってない。
むしろ文盲であった己と裕次郎に読み書きを教えてくれた良き兄弟子と思っている。特に裕次郎は興津に恩を感じ、様々なことを話していた。
その興津が虎眼流を裏切るなどありえぬ。
源之助の胸中に確信があった。
「三重さま?」
興津は源之助の言葉を繰り返した。
「く、ふふふ、藤木……」
そして振り向いた興津の顔は、涙で濡れていた。
両の目から流れる水など、男の恥である。そして、士として見せてはならぬ姿であったはずなのだ。舐められてはならぬ、士が見せるべき姿ではない。
わかっていても、興津はその涙を止めることができなかった。
「三重さまの心には、裕次郎に思いを拒絶されたことで、その器にひびが入ってるのをわかっているのか?」
震える興津の言葉に蘇る、源之助の屈辱の記憶。
伊良子清玄に仕置きをし、裕次郎が旅立とうとした、あの雪の夜。
三重は裕次郎に懸想しており、裕次郎もまた三重に少なくともただならぬ想いを抱いていた。振り返らぬまま裕次郎は三重からの想いを振り切り、そのまま江戸へと旅立った。
お家の争いを起こさぬために、源之助のために自身の想いを断ち切った姿。
三重と裕次郎の間にしかない縁を前に、心の底から自身の弱さを呪って後悔した、あの夜。
残された三重は、確かに表面上は元気にしていた。前を見ていた、と思っていた。
現実は違ったが。
日に日に調子を崩す三重。それを知ってもオレには何も出来ぬしその資格はないと行動せぬ裕次郎。黙って見ているしかない源之助。
何のために裕次郎が行動したのかがわからぬような、情けない姿をしていたのが、源之助である。
「心という器は、ひとたび、ひとたびひびが入れば、二度とは、二度とは」
震える声で、涙が流れる顔で、絶望した心で吐露する興津の言葉は、源之助の芯をこれでもかと揺さぶる。
ぎ、と興津は小刀に手を掛けた。
その握り、掴みは裕次郎と源之助が会得した、岩本虎眼のもの。
源之助は被っていた笠を取り、右手に持った。
「この掴みはな藤木。裕次郎とおぬしから盗んだのだ」
源之助の顔から熱が引いていく。その握りをジッと見つめていた。
「裕次郎が普段使っているのもしかり、伊良子仕置の際、おぬしが気前よく見せてくれた奥の手。せっかくおぬしたち兄弟が編み出した技を……不器用な奴だ、おぬしは」
逆に興津の顔に熱が浮かんでいく。斬る、という覚悟がそこにはあった。
もうこうなったら止まらない。剣客とは、そういうものだ。
ふわ、と右手から笠を落とす。瞬間、興津が動いた。
が、興津は源之助の体を左手で強く押し退けただけだ。殺気もなにもない動作に、源之助の挙動が一拍遅れた。
源之助がぶれた視界の中で、見えたのは。
己の後ろから斬りかかろうとした九朗右衛門の姿。
そして、九朗右衛門の凶刃と興津の抜き打ちが同時に相手の体を通り抜け、鮮血が噴き出す姿。
最後に、遠く見えた、己の弟。
必死な顔でこっちに手を伸ばさんとする。
裕次郎の姿であった。