山賊大将シュヴェーリン   作:芝三十郎

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オルクセン二次創作。書籍版5巻まで読了後推奨。 シュヴェーリン上級大将は、昔語りを終えた。エルフィンド王国への侵攻発起を夕方に控え、彼は前進を決断をする。


エピローグ
いずれ苔むす石になる


「……と、まあ、そのような具合であったよ。儂のロザリンド会戦はの」

 

 そう言って、シュヴェーリン上級大将は公刊戦史を閉じた。長々と昔語りをしてしまった。幾度も切り上げようとしたが、若い当直将校が思いのほか熱心に聞いてくれるものだから、ついつい熱が入ったのだ。

 

 机の対面に座る当直将校の顔は怖ばり、青ざめてすらいる。握った拳が僅かに震えている。

 

「そ、それでは……」

 

「うむ?」

 

「公刊戦史と、まるで違うではありませんか!」

 

 シュヴェーリンは困ったような顔をした。興が向くままに、ずいぶん余計な事を喋った。しかし、もはや構うまい――と開き直る。ロザリンド会戦はもう百二十年も前のことなのだ。

 

「そりゃ、参謀本部が編纂した歴史じゃからな。色んな都合がある」

 

「先王陛下のご最期のこともですか」

 

「あの頃の儂らには大王の伝説が必要じゃった。不敬なこととは思わんよ。あの方は、そうか、と言ってくださる」

 

 それは間違いがない。今でも先王の言葉が聞こえるような気がする。国家のために必要なら、手段を選ばない。彼が仕えたのは、そういう王だった。

 

 未だ少年であったグスタフがその後を襲うのは簡単ではなかった。

 

「……クライスト将軍という方の名前が戦史に出ないのは、やはり」

 

「うん。あの方は先王の信頼を受けた名将で、儂も随分と世話になったがな。あの頃は仕方がなかった。反乱の首謀者に祭り上げられた方じゃからな」

 

 旧貴族たちは先王の甥を擁立して復権を図ろうとしたのだ。その反乱を討伐して、グスタフの王権はようやく安定をみた。

 

「それにしても、会戦の流れや戦術も違います。閣下の武勲も無かったことになっているではありませんか」

 

「儂に武勲なんぞありゃあせん」

 

 カラリと言って、シュヴェーリンは右の頬を撫でた。今でも傷跡は残っているが、痛みはとうに失せている。それだけの時間が経った。

 

 目の前にいる若者は、ロザリンド会戦はもちろん、先のデュートネ戦争すら体験していない。だから、明日から始まる初めての実戦を前にして、過去の戦争に手がかりを求めて学んでいたのだ。

 

「――これが書かれたのは、デュートネ戦争の休戦期でのう。何かと気を遣う必要があったんじゃ。フンデ同盟を悪くは書けんし、ドワーフ兵の奮戦には幾らか花を持たせにゃならんかった」

 

 当時、ドワーフとコボルトは未だ対等の国民とは言い難かった。低地オルク語の開発前で、共通言語がなかったということもある。何より欠けていたのは共通の歴史だった。

 

「儂らが種族差を乗り越えたのは、力を合わせてデュートネの大陸軍を撃退してからじゃ。苦難と勝利を共にして、ようやく同じ国民じゃと思えるようになったのよ。お互いにな」

 

 そう言って、シュヴェーリンは乗り越えてきた時間の長さと、成果の大きさに思いを致した。今や、オルクセン王国はオークに限らぬ、魔種族の国だ。大王が目指した国だ。

 

「では……エルフィンド軍のことは、どうなのですか。私はてっきり、胸壁は一本の線だと思っていました。我が軍は近づくこともできずに敗れたのだと」

 

「そう思うように書いてあるからのう」

 

「何故そんなことを?」

 

「軍事機密だったんじゃ。あの時、エルフィンドが用いた戦術がの。まあ、あれの本当のところが分かったのは、去年ダークエルフ族が亡命してきてからじゃが……」

 

 それ以前には、分散した野戦陣地を魔術通信で結んだのだろうという、その程度しか分かっていなかった。全容を明かしてくれたのはディネルース・アンダリエル少将である。当時を知るシュヴェーリン達は、あらためて敵将マルリアンの奇才に舌を巻いたものだ。

 

「……それでも、野戦築城と魔術通信の組み合わせは、我らの切り札だったんじゃ。あのアルベール・デュートネに対抗するための。じゃからロザリンド戦史は機密版と公開版の二冊あってのう。機密版の方は、まだ参謀本部で眠っておる」

 

「いつまで隠しておくのです? 本当の歴史を」

 

「いい加減、公開する予定じゃったよ。グレーベンが主管する新しい戦史編纂事業でな。もっとも、事がこうなったから、いつ出るかは分からんがのう」

 

 グスタフ王の命令で開始――される予定だった事業のことである。その主眼は先王の事績の整理と再評価であった。しかし、エルフィンドとの再戦が予定よりずっと早まったために、全く棚上げになっている。

 

「まあ、いずれは出版されるじゃろ。この戦争が終わった後に」

 

 若い将校は恐れるように尋ねた。

 

「……これから起こる戦争も、そうなるのでしょうか。都合の良いことだけ後に残り、他は無かったことに」

 

「ある程度は、そうなるじゃろう。教学大いに進んだ現代でもな。例えば……わしらがこうして、開戦の火蓋を切ろうとしておる事情とかの」

 

「エルフ達が不当な領土要求を……違うのですか?」

 

「いいや、何も違わん。しかし、儂らから見ればの話じゃ。そうでない見方もあるし、そいつを叩き潰すのが、この戦争の目標だともいえる」

 

 シュヴェーリンは曖昧に濁し、別なことを言った。

 

「ロザリンドの時も同じじゃ。儂らにすれば、飢え死にを避けるために、やむなく仕掛けた戦争じゃった。そこまでオルクセンを追い詰めた、まわりの国々が悪いような気がしておった。しかし他の国から見れば、そいつは山賊の理屈よ」

 

 若者の表情には戸惑いがあった。これから命を懸ける戦いにおいて、祖国は正しく、戦争には大義があると、そう信じていたいのだ。歴戦の闘将、国家の柱石たる上級大将が、大義を疑うようなことを言うのだから、困惑するのも無理はない。

 

「今回は違う。我が王は、先王の失敗に学ばれた。事をゆっくりと進め、列国が我が国の見方に乗るようになさった。もう孤立することはない」

 

 自国が正しい、とは敢えて言わなかった。国家の枢機に属する彼は、この戦争がグスタフ王による計画的な侵略だと知っている。彼らはずっと以前から牙を研いできた。エルフ達が隙を見せる時を待ちながら。

 

「いずれにせよ、戦争は平和のために戦われる。戦ってでも勝ち取りたいと願う平和のために。じゃが全ての国の平和は、それぞれに違う形をしておる。その全部が同居できるほど、この世界は広くない……。いつかは変わるのかもしれん。じゃが、今の儂らは戦うだけじゃ」

 

 開戦の決定を重臣たちに告げた後、グスタフ王はシュヴェーリンに対し、密かに真の戦争目的を告げた。

 

<この戦役を、オルクセンにとって最後の戦争にしてみせる>

 

 軍一筋に生きてきた彼の心に、グスタフ王の言葉は強烈な衝撃を与えた。今や彼が心からの忠誠を捧げる王は――やはり、あの地獄の戦場を経験した少年療術兵であったのだ。少年は戦場に震え、殺し殺されることに怯え、それでも懸命に務めを果たしていた。玉座に座った後も、ずっとそうだったのだ。

 

 戦って平和を勝ち取る。優しい少年が、その答えに悩まなかったはずがない。苦しんでいないはずがない。その果てに、王がそれを使命と見出したなら、それは彼の使命でもある。

 

 邪魔する者は許さない。

 

 シュヴェーリンは立ち上がった。

 

「そして勝つ。今度こそはな」

 

 

 

 翌朝まで、シュヴェーリンは再び眠ることができなかった。開戦前夜の緊張ばかりではない。昔を思い出したせいだ。静かに闘志が高ぶっている。戦争、戦争。久方ぶりの戦争だ。

 

 しかし、将軍たるもの、異常を見せてはいけない。まして今の彼は第三軍司令官。隷下に四つの軍団、総勢十六万五千の将兵を率いている。このような時こそ普段通り、余裕たっぷりでなければ。

 

 この日のために特注した軍服を見事に着こなすと、自分の天幕を出る。早すぎず、遅すぎない時刻を計っている。いかにも機嫌よさげに、司令部の大天幕に入った。

 

「おう、諸君。おはよう」

 

「おはようございます、閣下」

 

 大机に並んだ参謀たちが立ち上がり、口々に答える。揃った敬礼をしないのは、司令官が朝食の席では堅苦しさを嫌うと知っているからだ。

 

 大机にはテーブルクロスがわりの真白いシーツが敷かれ、その上で各員の飯盒が湯気を立てている。牛肉入りのシチューのようだ。

 

「ほう、朝から豪勢じゃな。うまそうじゃ」

 

「糧食班が気を使ってくれました」

 

 そう言ったのは、彼の参謀長を務めるブルーメンタール少将である。開戦当日に精をつけさせようという心配りだ。シュヴェーリンは腹心の求めを汲んだ。

 

「おお、有難いのう。うまい食こそ力の源じゃわ。そうやって頑張ってくれるなら、勝利は間違いなしじゃな」

 

 司令官がそう褒めていたと下達して、兵站部門の士気を高めておこうというのだ。兵食づくりは楽な仕事ではない。軍中の誰より早くに起きて、暗く寒い中で働く。そのくせ武勲に恵まれる仕事ではない。司令官の賞賛と期待は、何よりの報酬になるはずだった。

 

 さて、有難く頂こうか――と、司令官がスプーンを手にするのを待って、参謀たちも食べ始める。

 

 オルクセン軍は変わった。ライ麦パンをシチューに浸しながら、シュヴェーリンはそう思わずにはいられない。かつての戦陣の配食は、固焼きビスケットと麦酒だけだった。戦勝の宴でさえ、パンに載せるチーズとニシンがついただけ。それでも昔では贅沢だった。

 

 ところが今は違う。ライ麦パンは当然、肉も野菜もほとんど毎食つく。マーマレードや蜂蜜まで給される。戦地では特別配給のジャムや砂糖菓子もつく。そんな風だから、小麦粉を隠匿して密かに菓子に焼く兵などいない。

 

 ゼーベック率いる参謀本部がしっかりしている証だが、そもそも国が豊かだからだ。

 

 オルクセン王国は変わった。国中を探しても、飢える者など何処にもいない。『食は全ての根幹』と、グスタフ王は事あるごとにそう言って、国政を指導してきた。決して商工業を疎かにするわけではないが、栄養豊かな食料がいつでも安価に手に入ることに最も心を砕いてきた。

 

 そして――シュヴェーリンは食卓を見回した。第三軍司令部の主な参謀が揃っている。全員ではない。総勢で数百名もいるから、食事の度に交代で司令官と食卓を共にする決まりなのだ

 

 シュヴェーリンはパンを口に運びながら、参謀たちと気さくに言葉を交わす。

 

 その些細な様子から、業務の悩みや懸念を抱えている者がいないかを確認するのが、司令官の仕事の一つだ。

 

 将軍の役割は変わった。部隊の先頭に立ち、剣を振るって敵へ突っ込むような将軍は、もういない。そんなものはデュートネ戦争でさえ稀だった。シュヴェーリン愛用の両手斧も、無用の長物になった。ずっと以前から執務室の壁飾りになっており、この戦争にも持参していない。

 

 現代の将軍は組織の管理者になった。多数の参謀たちに方針を与え、案を練らせ、上がってきたものを承認し、その結果の責任をとる。細かいことは何も考えず、堂々として明るく振る舞い、司令部の士気と和を保つのが仕事だ。

 

 参謀たちもそう心得ているから、快活に会話に応じる。ええ、まったく、旨いものですな。兵站輸送は万全。それだけではありませんぞ。

 

「詳しくは後程ご報告いたしますが、万事は順調に進んでおります。各軍団からの報告にも遺漏はありません」

 

「ええ、全く、計画通りというわけで。閣下のご指導の賜物です」

 

 そう言って、さり気なくお追従を挟むのも、秀才の抜け目なさというわけだった。

 

 シュヴェーリンは上機嫌に応じてやらねばならない。明るい雰囲気を保ち、部下たちを褒め、気持ちよく働かせてやらねば。

 

「そうか、そうか。これだけの軍勢を動かして、大したもんじゃ。みんな、よくやってくれておる。お前たちに任せときゃ、儂は安心じゃ。この戦争は――」

 

 本当に、そうか。

 

 それでいいのか。

 

 戦争とは、果たして、そういうものだったか。

 

 首筋を撫でる寒さを感じ、彼は後ろを振り向いた。天幕の壁面には何もない。いつもの執務室なら、そこに両手斧があるはずだ。もう使われない、部屋の飾りに成り果てた斧が。

 

 しかし己は、まだやれる。時代遅れの役立たずではない。

 

 前に向き直って見回せば、怪訝な顔の参謀たちの後ろに、地図板がある。掛かっているのは当然、ベレリアント半島の地図だ。その端に小さく書かれた地名が、彼の視線を力任せに引き寄せた。

 

――ロザリンド渓谷。

 

 その土地は、この司令部があるシュトレッケンから約十キロ西にある。

 

 いや、違う。逆だ。

 

 ベレリアント半島の前門たるロザリンド。そこから更に東へ十キロも離れたところに、彼は腰を据えてしまっているのだ。

 

 昔なら、どうした。あの頃の儂なら。大王陛下なら、一体、どうなさる。

 

 瞬時に記憶が蘇ってくる。あの渓谷で、王は何と言ったか。彼を伴い、奪取したばかりの堡塁に登りながら。

 

<陛下、敵の重砲に狙われかねません!>

 

 そう諫めるアンハルトを大王は怒鳴りつけた。

 

<兵たちはもっと前にいる。後ろでは何も分からぬ!>

 

 今、怒鳴られているのはシュヴェーリンだった。そうだった。大王はいつでも、そうだったじゃないか。どの戦争でも、どの戦場でも。それなのに。

 

 胸中の大王は更に言った。

 

<――覚めたか>

 

 ああ、これだから儂は駄目だ。立場に安住してしまう。日々新しい知識を勉強して、必死に時代についていけば、それで十分と思っていた。後は参謀たちに乗っかって、将軍らしくすればいいと。それで戦争をして、勝てるつもりだった。

 

 何が勝利は間違いなしだ。相手は白エルフたちだぞ。大王が全知全能を挙げて、それでも勝てなかった奴らと戦おうというのに!

 

 弾かれたように立ち上がる。いったい何事かと、参謀たちの視線が集中する。もう決断はついていた。

 

「参謀長! この司令部を前方に移すぞ」

 

 誰もが食事の手を止めた。全員の疑問を代表し、ブルーメンタールが尋ねる。

 

「閣下、前方と仰いますと」

 

 シュヴェーリンは素早く歩き、もう地図の前にいる。その場所を指示した。国境の至近、それも開戦直後に突破すべき侵攻発起点の間近である。

 

「ここじゃ。ここまで行く。儂が戦の匂いを感じられるのは、この辺りまでだ」

 

 もう誰も食事どころではなく、次々に立ち上がって地図板とシュヴェーリンを囲む。参謀長は血相を変えて言った。

 

「危険です! あまりにも最前線に近すぎます。軍団、いや師団司令部より前方ではありませんか。敵の砲撃なり、襲撃なりが届きかねません」

 

「兵たちはもっと前におる。こう遠くちゃ、何も分からん」

 

「戦場に近すぎては、局所の状況に引きずられて大局を誤りかねません。前線の状況ならば報告であがってまいります」

 

 全く道理のある意見だった。しかし違う。間違っている。開戦直後だからこそ、司令部に前線の空気を入れなければならない。参謀たちの心得違いを正さなければならない。

 

「清書された文字だけ見ても、戦は分からん。前過ぎるというが、これでも儂はおとなしくなった方ぞ」

 

 通信参謀のコボルトが遮るように口を挟んだ。

 

「今さら、できません、閣下! 野戦通信網は計画通りの敷設をおわっております」

 

 シュヴェーリンは悟った。ああ、やっぱりじゃ。計画通り、予定通り。みんな、その頭になっている。

 

 計画通りにいかないのが戦争だ。敵は全身全霊をあげて、こちらの『予定通り』を邪魔しにくるに違いない。ならば頭脳たる司令部にこそ、敵と剣を突き付け合う戦士の懸命さが必要だ。

 

 彼は敢えて声を荒げた。

 

「通信参謀! すべきでない、というならまだしも、できないとは何か! できる方法を考えるのが参謀の仕事ぞ。儂らは戦争をしておる。ここに敵がいて、儂らがぶち殺しに行かねば戦に負けると思え。それでも、できません、と言うほど、儂が言っておるのは無理なことか」

 

 通信参謀は真っ青になって口をつぐんだ。他の者達も全員が戦慄している。

 

 薬が効いたのを確認し、シュヴェーリンは穏やかに、しかし断固として言った。

 

「参謀長、皆も、すまんがな。儂は相談をしとるんじゃない。もう決心した」

 

 全参謀が表情を変えた。恐れも動揺も消え去り、素早い思考が取って代わる。秀才たちは一瞬で頭を切り替えたのだ。何をするべきかではなく、どうやって実現するかを全員が考え始めた。

 

 シュヴェーリンは己の正しさを確信した。上級大将だ、司令官だと祭り上げられているうちに、すっかり戦争を忘れていた。己は賢い参謀じゃない。そんな連中なら幾らでもいる。頭のいい連中に、その賢さを向ける方向を示してやるのが儂の仕事だ。

 

 なのに鷹揚な上司ぶりをして、話が分かる管理者で、それで敵が容赦してくれると思うのか。断じて違う。

 

 どんなに時代が進もうが、戦争とは、殺し合いだ。

 

 戦争は生きている。そして牙を剥く―――そうしたら、物わかりのいい管理者は、もう駄目だ。戦場は戦士が身を置くところ。殺すか、殺されるか。その厳しさを知り、己を研ぎ澄まし、一振りの刃になりきれる者だけが、勝つ。

 

「参謀長、やり方は任せる。上下の司令部と不和や混乱が起きぬように、うまく考えてくれ。じゃが、とにかく儂はここへ行く。侵攻発起の時は、戦の匂いが嗅げる場所に立つ」

 

 勝利する将軍に必要なのは、歴戦の戦士の本能だ。それを呼び覚まさないなら、己がいる意味はない。戦士は、前へ進むのだ。そして必ず敵を討つ。

 

「それが、儂の戦争のやり方じゃ」

 

 

 

 シュヴェーリン自身の移動開始は午後遅くになった。新司令部に移すべき要員の設備の多さを思えば、それでも電光石火の早業といってよかった。

 

 参謀たちは猛烈な勢いで計画を立て、立てながら実行した。シュヴェーリンが指定した位置へ工兵隊を急派し、所要の物資を追送。天幕、電信、防御施設に炊事と給水まで、一通り設営させた。場所が整うや否や、第三軍総司令部の半分、二百五十余名が馬を駆って現地入りした。

 

 こうして新司令部が機能開始してやっとシュヴェーリン自身が出立する。日没ぎりぎりには着く計算である。

 

 新司令部への到着直前、もう暗くなりかけた頃――彼はその場所を通った。ロザリンド渓谷の南端である。

 

 まさしく、あの景色であった。険しい斜面。生い茂る黒い木々は針のように鋭い。自然の景色は、百二十年を経ても変わりなかった。それを軍を率いて見るのは格別な心地だ。

 

 あの戦。昨夜、仔細に思い返したロザリンド会戦の様が、まざまざと浮かんでくる。あの情熱。あの激戦。オークの津波を阻んだ火の壁。進めども、進めども続いた悪夢のような縦深陣地。数知れぬ仲間たちの死。最後の突撃。そして大王の死。

 

 王国の、そして彼の運命の場所。古き王を失い、そして新たな王を得たのは、この渓谷だった。

 

 馬上のシュヴェーリンは大げさに両手を広げた。明朗そのものの声色で、感慨を吹き飛ばす大声で言う。朗らかに、豪快に。

 

「おお、あれに見えるはロザリンド! 我が麗しの、気高き古戦場!」

 

 胸にこみ上げるのは、あの情熱と喪失。脳裏には、廃止されて久しい先王の教令の一節。彼は今でも、一言一句を唱えられる。

 

<自分の考えを隠す技術は、将軍に不可欠である。全将兵が指揮官の表情、機嫌の良し悪し、身振り手振りをつぶさに観察している。将が物思いにふけっていれば、軍は不安に陥る。顔に悲しみや不機嫌を浮かべていれば、敗北すら予感する。噂は全軍を駆け巡り、士気を押し下げ、勝利の計算を破壊してしまう。ゆえに将軍は俳優のように、自分が演じたい役に相応しい振舞いを保たなければならない……>

 

 だから、常に闘将らしい姿であらねば。世慣れない若者たちは将軍の豪気さを仰ぎ見て、古株は失笑しているだろう。またいつもの、大げさな将軍ぶりが始まったと、そう思っているに違いない。やれやれ、うちの大将は、よくやるよ。格好つけが好きなんだから。

 

 そう思われ、笑われねばならない。あくまで統率の演技。いつも通りだと、そう騙してやらなければ。

 

 

 将軍が泣いているなどと、決して気づかれてはいけないのだ。

 

 

 この場所に計り知れぬ感慨を抱く者は、軍中にほとんどいない。それだけ時間が経っている。ロザリンド会戦の参加者は、そもそも生き残りが少なかったし、生還者も年を取って退役するか、閣僚などの政府高官に転身している。

 

 間も無く始まるエルフィンドとの再戦に、再び参加する者はごく僅かだ。第三軍司令官たる彼、参謀総長を務めるゼーベック、第二軍司令官を拝命したツィーテンの上級大将三名の他は、ラング大将に、あと数名くらいか。予備役から招集された者が幾らかいるかもしれないが、その程度である。

 

 この渓谷に、若者たちは関心がない。ロザリンドの敵討ちと、口には言う。しかし実際にその場所を目にして、感慨は長く続かない。ただの渓谷、ただの木と土だ。この土を覆うほどに死体が転がり、重傷者の呻き声が満ちていたことなど、想像できるはずがない。

 

 まして、その後の山中の地獄のことは、生還者も敢えて語ろうとしないから、実態を知る者は少ない。だから若者が知るロザリンド会戦は、火力と突撃がぶつかった壮大な決戦。それ以上の実感が、世代を越えて残っているはずもない。

 

 彼らの一団は更に近づき、渓谷南端に達した。そこはかつての第三層陣地の深部。オルクセン軍がついに達せられなかった敵本営の辺りだ。

 

 渓谷の自然は変わらないが、あの堡塁たちは見る影もない。堀や落とし穴は完全に埋まっている。

 

 あの胸壁も崩れている。かつて猛射を放ち、数知れぬオークたちの命を奪った火の壁が、今や痕跡を残すだけだ。土は崩れ、石は剥がれて散らばり、往時の形を想像することも難しい。

 

 シュヴェーリンの乗馬がその土盛りを踏んだ。参謀や従卒、警備兵たちも後に続いている。馬上で振り返ってみれば、馬術の下手な者や徒歩の者は難儀しているようだ。

 

 あちこちに転がった石には苔がむしている。きっと、あの霧はまだ降りるのだろう。

 

 若い兵隊が面倒げに、軍靴で石を踏み越える。苔は滑るから、気をつけろ。気の利いた兵がそう口にする。彼らが石に寄せる関心といえばその程度だ。

 

 しかし、その石こそは、あの恐るべき火の壁を作った基礎なのだ。射撃用の狭間を作り、砲撃を弾いた花崗岩の石組み。この石が幾万のオークを殺し、オルクセンの歴史を変えたのだ。

 

 だが兵たちは、事も無げに踏んでいく。やれやれ、歩きづらいこと。

 

 こうして、忘れられていく。情熱も、悲劇も、あの死者たちも。何もかもが朽ち果て、紙の上のインクだけが残る。しかし言葉では、肝心なことはきっと伝えられない。だから何もかも消えていく。いずれ、己もまた。

 

 その切なさに堪えようと、まぶたに力を入れて遠くを見やる。ああ、まだあるな。

 

 渓谷端の地面がこんもりと隆起している。それが何箇所もある。会戦の後、連合軍や、この辺りに住むドワーフたちが、打ち捨てられたオーク兵の亡骸に哀れを催し、穴を掘って埋めた跡だ。しかし、それが墓だと気づく兵は、やはりいない。この渓谷にありふれた起伏だと思い、目を止めることもない。

 

 全ては過去になったのだ。戦いを生き残った者は、先に逝った者をいつまでも忘れまいと思う。ましてあの地獄のような戦いは、オルクセンという国が続く限り、永久に忘れてはならないと、そう思った。しかし、結局、無理な話だ。

 

 民と国の営みが続いてゆく限り、歴史に書くべきことは増えていく。過去を記憶する者は順に朽ち、また忘れられていく。区々たる事実をいつまでも覚えてはいられない。いかなる英雄も、夢も悲劇も歴史書の一節になり、やがて片隅の一文に。ついには短い言葉になり、やがてそれすら消える。

 

 いま彼が歩む征途も、いつかは誤解され、脚色され、そして忘れられるだろう。国家が、歴史が続いていく限り。

 

 それでいいのだ――と、年老いた彼は思う。

 

 今にして分かる。死者が求めるのは、記憶でも弔いでもない。自分たちが拓いた道を誰かが歩いていくことだ。屍は、むしろ踏み越えてもらいたいのだ。それが歴史というものだ。

 

「陛下」

 

 渓谷の風に囁くと、二つの声が聞こえた気がした。

 

<シュヴェーリン、我が剣>

 

 照覧あれ、大王。

 

<シュヴェーリン、我が牙>

 

 お任せあれ、我が王。

 

 この老骨。今度は、勝ってご覧にいれる。そして。

 

「これで終わりにしてみせる」

 

 それが我が王の願い。これを最後の戦争にする。我が孫仔らが、いつか戦争というものをすっかり忘れる未来のために。その礎になるために。

 

 騎士に憧れ、傭兵として生き、軍人に、将軍となり、軍一筋に戦い暮らしてきた自分。その役割が終わる時がくるのだ。そのために戦う。そして勝つ。旅の終わりに相応しい。

 

 そして己も忘れ去られる。あの胸壁のように。道ばたに転がり、誰の目にも止まらずに、いずれ苔むす石になる。やがて踏み越えられていく。それでいい。それこそ我が望み。

 

「陛下。この山賊、今なら分かります。誰もがいつか死に、そして歴史の礎になる。ならば、その日まで」

 

 進み続けるのだ。前へ。さらに前へ。

 

 

 日没の直前。彼が新司令部に到着し、程なくして、その時がきた。参謀長が告げる。

 

「六時です。閣下」

 

 侵攻発起の時である。彼は頷いた。

 

 前途には数知れぬ激戦が待つだろう。モーリア市を落とし、シルヴァン川を渡る。今度は我らがエルフィンドへ侵攻する。

 

 待っていよ、エルフ達。出てくるか、マルリアン。今の我らは強い。途方もなく強くなった。それを、見せつけてやる。

 

 徒手の右手を掲げ、告げる。

 

「行くぞ、我が息子たちよ。第三軍、前へ進めッ!」

 

 シュヴェーリンは軍を率い、最後の戦争に向けて前進を開始した。

 

 

 

 

二次創作作品「山賊大将シュヴェーリン」

 

おわり

 

Thank you for reading!




本作の制作にあたり「牙の痕」及び「ロザリンドの牙折り」の両作品に大きなインスピレーション頂きました。また「ロザリンドの牙折り」からは、鶴岡様のご厚意により主人公のゲスト出演まで頂きました。

長い物語へのお付き合い、本当にありがとうございました。お気に入り登録、評価や読了ポストを頂けますと、次作に向けてとても励みになります。よろしくお願いします!
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