《統一暦1926年8月上旬 帝都ベルン 軍参謀本部》
「何故だッ! 何故これほどまでに予定より進撃が遅れているのだ!!」
作戦参謀次長クルト・フォン・ルーデルドルフ上級大将の怒声が、分厚いコンクリートに囲まれた地下の最高作戦会議室にビリビリと反響した。
彼は血走った目で巨大な東部戦線の状況図を睨みつけ、太い腕を振り上げて作戦机を激しく叩きつけた。机の上に置かれたコーヒーカップが跳ね、黒い染みが作戦図の上に広がる。
「歩兵師団の行軍が遅れているというのなら、まだ理解もできる。補給線の構築や残敵掃討に手間取っているのだろう! だが! 何故最新鋭の戦車を装備し、完全機械化を達成させたあの『装甲軍集団』の進撃速度までが落ちているのだ!!」
ルーデルドルフの怒りはもっともであった。
帝国軍の主力――三つの装甲軍からなる装甲軍集団は、事前の計画では破竹の勢いで連邦の平原を蹂躙し、現在までに東部戦線の重要拠点サモレンスク*1を陥落させ、すでにモスコーの喉元に迫っているはずであった。
確かに、彼らは国境から数百キロを進撃し、交通の結節点であるミエンスク*2を予定通りに陥落させた。そこまでは完璧な電撃戦であった。
しかし、ミエンスクを越えた辺りから、装甲軍集団の進撃速度は徐々に、だが明確に鈍り始めていたのだ。
「閣下、落ち着いてください。遅延には複合的な要因が絡んでおります」
作戦局の将校が、額に冷や汗を浮かべながら報告書を読み上げ始めた。
「第一に、ルーシー特有の地理的・環境的要因です。現在の東部戦線は異常な乾燥に見舞われており、広大な未舗装路を進撃する我が軍の装甲部隊は、凄まじい砂埃に悩まされています。この微細な砂埃が戦車や車両のエンジンフィルターを即座に詰まらせ、吸気不良による深刻な出力低下を頻発させているのです。さらに、粗悪な泥土の悪路は、戦車や輸送トラックのサスペンションと履帯を想定の三倍の速度で削り落とし、機械的損耗による行軍停止が相次いでいます」
「そんなものは、事前の調査で分かっていたことだろう! 野戦整備中隊は何をしている!」
ルーデルドルフが吠える。
「整備の部品が……前線に届かないのです」
兵站局の将校が、青ざめた顔で言葉を引き継いだ。
「赤軍のゲリラ攻撃と徹底した焦土作戦が、我々の想像を遥かに超える狂気を帯びています。赤軍は後退する度に、都市という都市、町という町、村という村を全て焼き払い、残された井戸に毒を投げ込み、家畜を皆殺しにしていきます。現地調達は完全に封じられました」
兵站将校の声が、恐怖に震え始めた。
「それだけではありません。彼らは焼け出された市民に武器をばら撒き、我々の後方に取り残された森や沼地に潜伏させています。前線の装甲軍が突破したあとの安全なはずの後方地帯で、老人や女、果ては子供までもが、火炎瓶や手榴弾を抱えて我が軍の補給トラックに自爆突撃を仕掛けてくるのです。鉄橋は毎日のように爆破され、補給車列は常に襲撃の恐怖に晒されています。結果として、最前線の装甲軍集団には、必要な燃料の半分、弾薬の三分の一しか届いていない状況です」
その地獄絵図のような報告に、ルーデルドルフの顔から怒りが抜け、代わりに深い驚愕の色が浮かんだ。
「……正気の沙汰ではない。民衆を盾にするなど、文明国の軍隊のやることか。……いや、そもそもだ!」
ルーデルドルフは地図上のヴァルシャワ周辺を指差した。
「そもそも赤軍の主力部隊は、先日の包囲網の中で、数百万人単位で泥の下に消えたのではなかったのか!? だというのに、どこからこれほどの抵抗戦力が湧いてくるのだ!」
情報局の将校が、手元のファイルを開いて重々しく答えた。
「『無制限徴兵』です、閣下。赤軍の兵数は、すでに数だけなら数百万の規模まで回復しているものと思われます」
「なんだと!? 僅か一ヶ月と少しで数百万だと!? 連邦は畑から兵士が収穫できるとでもいうのか!!」
「比喩ではなく、文字通り畑から根こそぎ徴兵しているのです。年齢制限も身体的欠陥も無視し、軍事訓練など一切行っていません。一般の農民や労働者に、旧式の小銃や手榴弾、あるいは火炎瓶だけを持たせて、そのまま前線へ『肉の壁』として投入してきているのです。戦術など無いに等しい状態です。ただ、我が軍の戦車の前に群れとして立ちはだかり、履帯に肉を巻き込ませて少しでも進撃を遅らせるためだけの、人間消費兵器です」
会議室に、深い沈黙が降りた。
敵はもはや、軍隊としての体を成していない。国家そのものを一つの巨大なすり鉢に入れ、人民の血肉を全てすり潰してでも、帝国を泥沼に引きずり込もうとしているのだ。
ソファに深く腰掛け、沈黙を保っていた作戦参謀局長ハンス・フォン・ゼートゥーア上級大将が、静かに葉巻の煙を吐き出した。
「……ガデーリアンの装甲軍集団の戦力は、その狂気じみた抵抗により、早くも一割削られたらしいな」
「一割だと!!」
ルーデルドルフが目を剥いた。
「まだミエンスクを越えたばかりだぞ! サモレンスクにも到達していないんだぞ!! そこで一割の損耗を出して、どうやってその先のモスコーを落とすというのだ!!」
「それほど、赤軍のゲリラ戦と焦土戦術が激烈だというわけだ」
ゼートゥーアは感情のない声で事実を述べた。
「我が軍の装甲の楔は、敵の肉の壁をやすやすと引き裂く。だが、その引き裂かれた肉片が我々に絡みつき、足を引っ張り、徐々に重しとなってのしかかってきているのだ」
重苦しい空気の中、鉄道部の将校が少しだけ明るい話題を口にしようと努めた。
「ゲリラ戦といえば……赤軍は撤退の際、鉄道路線すらも徹底的に破壊していきます。レールや枕木はおろか、下に敷いている砂利まで全て撤去していくという念の入れようです。ですが、我が軍の鉄道建設部隊は逆に大喜びしておりますよ」
「喜んでいるだと? 何故だ」
「連邦の鉄道は広軌であり、我々帝国の標準軌とは規格が異なります。しかも、ルーシーの路盤の作りはてんでダメで、そのままでは我が軍の重い軍用列車を走らせることは不可能でした。ですので、どうせ一から標準軌で路盤から敷き直さなければならなかったのです。赤軍が綺麗さっぱり更地にしてくれたおかげで、撤去の手間が省けたと……」
それは、この狂った戦場における、ささやかなブラックジョークであった。
「笑えん冗談だな。……政治工作の方はどうなっている」
ルーデルドルフが苛立たしげに話題を変えた。
帝国は、軍事的な侵攻と並行して、連邦の内部崩壊を促すための政治的カードを切っていた。かつての革命でローゼフシルトの中隊が救出した帝政ルーシーの正統なる後継者、皇太子『アレクセイロス三世』を擁立し、反共産党の旧白軍勢力や抑圧された民衆を糾合して、連邦を内側から切り崩そうと画策していたのだ。
だが、宣伝省への出向将校は、首を横に振った。
「想定を遥かに下回っております。皇帝アレクセイロス三世の旗印の下に集まるのは、一部の亡命貴族や過激な反共主義者のみ。広大な連邦の民衆からの支持は、驚くほど集まりづらい状況です」
「何故だ! 奴らとて、共産党の圧政と秘密警察の恐怖には辟易しているはずだろう! 正統なる皇帝の帰還を喜ばないのか!」
「理由は二つあります。まず、そもそも帝室を支持し得るような中産階級、知識人、地主といった層は、十数年前の革命とその後の大粛清によって、物理的に根絶やしにされております。残っているのは、共産党の徹底したプロパガンダ教育を受けて育った『反帝室・反ブルジョワ』の民意を持つ世代です」
宣伝将校は、重いため息をついた。
「そして何より……ジュガシヴィリの扇動が、我々の想定よりも遥かに巧みでした。彼は、これまで連邦が掲げてきた『階級闘争』や『世界革命』というスローガンをかなぐり捨てました。そして、この戦争を『大祖国戦争』と呼び変えたのです。かつてボナパルトを撃退した祖国防衛戦争と同一視させ、ルーシー民族の存亡を賭けた神聖なる戦いであると、強烈なナショナリズムに火をつけました。教会の弾圧すら一時的に緩和し、宗教心までもを利用して民衆をまとめ上げています」
さらに、と将校は付け加えた。
「誠に遺憾ながら……我が軍の過酷な占領政策も、それに拍車をかけています。パルチザンを根絶するためとはいえ、村ごと焼き払うような苛烈な掃討作戦や、前述の現地調達による食糧の収奪は、連邦の民衆にとって『共産党の圧政よりも恐ろしい侵略者』として映っています。彼らは今、イデオロギーではなく、純粋な民族防衛の本能で、我々帝国に牙を剥いているのです」
ゼートゥーアは、葉巻の火を灰皿に押し付け、静かに煙を吐いて呟いた。
「アレクセイロス三世という偶像(イコン)は、もはや時代遅れのガラクタに過ぎなかったということだ。……連邦という国家は、底無しの泥沼だ。底が見えないな」
帝国の誇る緻密な計算と冷徹な軍事合理性は、連邦の指導部が狂気的なまでに引き出した「人民の泥臭い執念」の前に、徐々に、しかし確実に歯車を狂わされようとしていた。
◇
《同時期 ルーシー連邦 モスコー外縁部 スタフカ臨時防衛司令部》
帝国軍の参謀本部が「進撃速度が遅すぎる」と苛立ち、焦燥に駆られている一方で。
防衛側である連邦軍の最高司令官ジェーコブ元帥は、全く逆の理由で、自らの頭髪を掻き毟るほどの絶望と恐怖に打ち震えていた。
「早すぎる……! 帝国軍の侵攻速度が、異常に早すぎる!!」
ジェーコブは、血走った目で薄暗い作戦室の巨大な地図を睨みつけていた。
帝国軍は「遅い」と不満を漏らしているが、それは彼らの設定したスケジュールが常軌を逸して早すぎるだけであり、防衛の最前線に立つジェーコブから見れば、彼らの進撃は『悪夢のような速度』で連邦の国土を食い破っていた。
「ミエンスクが陥落してまだ間もないというのに、もう装甲軍集団の矛先がサモレンスクに到達しようとしているだと!? 間の数百キロの空間に展開させた我が方の防衛部隊は、一体何をしているのだ!!」
「ほ、報告します! サモレンスク前面に展開した第十六軍、第四軍は、すでに帝国軍の機甲部隊によってズタズタに分断されております!」
泥だらけの伝令将校が、息も絶え絶えに絶望的な状況を告げた。
「帝国軍は……化け物です! 我々が陣地を構築して防衛線を張ろうとしても、即座に空から悪魔のサイレンが響き、ストゥーカと魔導大隊が急降下してきて、陣地ごと吹き飛ばされます! 彼らは無線通信による完璧な諸兵科連合を機能させており、歩兵が足止めした瞬間に空からの精密な爆撃が降り注ぐのです!」
伝令の顔は、極度の恐怖で引き攣っていた。
「さらに、地上ではあのハインツ中戦車とティーゲル重戦車を先頭にした装甲の楔が、我が方の民兵による肉の壁を、文字通り物理的に轢き潰して前進しています! 火炎瓶を持った決死隊が突撃しても、戦車に随伴する装甲擲弾兵の無慈悲な機関銃掃射の前に、戦車に触れることすらできずに全滅していくのです! 我々の急造の軍隊では、あの鋼鉄の嵐を前に一時間の足止めすらできません!!」
「くそっ……!」
ジェーコブは拳で机を叩き割らんばかりに打ち付けた。
彼の防衛計画は、サモレンスクを前衛の遅滞拠点とし、その後方にあるカルーガ、ヴァジマ、ルジェフを結ぶ長大なラインに『モスコー外縁防衛線』と呼ばれる強固な要塞陣地帯を構築することであった。
そこで帝国軍の出血を強要し、冬が来るまで時間を稼ぐ。それが連邦が生き残るための唯一の戦略であった。
だが、現実は残酷であった。陣地を掘るための時間が、圧倒的に足りないのだ。
サモレンスクが落ちれば、モスコーへの直通のハイウェイが完全に開通してしまう。
さらに、ジェーコブの胃に穴を空けるような凶報は、西からだけではなかった。
「元帥同志! 北方戦線より緊急報告!」
別の通信将校が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「極北のスオミが、帝国軍の進撃に呼応して我が国に宣戦布告! 国境を越えて進撃を開始しました! 彼らはかつての冬戦争で奪われたカルヤラ地峡の領土を奪還すべく、凄まじい勢いで南下しており、すでにレネングラード方面の防衛線が崩壊の危機に瀕しています!」
「スオミ軍だと!? あの雪中戦の悪魔どもまで参戦してきたというのか!」
ジェーコブは天を仰いだ。
スオミ軍は規模こそ小さいが、その練度と士気は帝国軍に匹敵するか、極寒の環境においてはそれ以上であった。レネングラードが北と南から挟み撃ちにされれば、連邦の第二の都市は確実に陥落する。
「もう……限界だ。現在の戦力では、これ以上の防衛線の維持は不可能だ」
ジェーコブは、目を赤く充血させ、乾き切った唇を噛み締めながら、ついに禁断の決断を下した。
「参謀長! 直ちに命令を出せ。……『中東方面軍』、ならびに『トルクメン方面予備軍』、そして『ザカフカース国境警備軍』に所属する全将兵を、根こそぎ引き抜け!鉄道とあらゆる輸送網を総動員して、一刻も早くモスコー周辺へと向かわせろ!!」
それは、連邦の南部および中央アジア方面の国境警備を『完全に空っぽ』にするという、国家防衛の常識を投げ捨てる狂気の決断であった。
中東やコーカサス方面の国境が空になれば、連合王国や他の隣国がいつ介入してくるか分からない。極東の戦力はすでに先日のケッセルで失っている。連邦は今、文字通り国家の全ての扉を開け放ち、リビングルームの防衛のみに全財産を賭けようとしていたのだ。
「げ、元帥同志! それはあまりにも危険です! 南方の油田地帯が無防備になります!」
「構わん!! 今モスコーが落ちれば、油田などあっても何の意味もないのだ! 早くしろ!!」
ジェーコブは狂犬のように吠えた。
「……引き抜いた兵力はどれほどになる?」
「か、かき集めれば、およそ六〇万にはなるかと……。しかし、彼らの中にはまともな小銃すら配備されていない部隊も多数存在します。装備が全く足りません」
「武器を持たない者は、突撃して倒れた前の者の武器を拾って戦えと伝えろ! スコップでも、石ころでも構わん! 今は一時間、いや一分一秒でも長く、帝国の装甲軍の進撃を遅滞させる肉の防壁が必要なのだ!!」
スタフカの作戦室は、もはや絶望と狂気がないまぜになった重苦しい空気に完全に支配されていた。
地図上の赤い旗が、青い矢印に次々と飲み込まれていく。
ジェーコブは、震える手でタバコに火をつけ、窓の外に広がるモスコーの夏の空を見上げた。
「……神よ。我ら共産主義者は貴方の存在を否定してきたが、もし本当に居るというのならば……。一刻も早く、あの憎き冬将軍を、この大地に降らせてくれ……!」
祈りすら届かない血みどろの大地で、帝国の冷徹な軍事合理性と、連邦の狂気的な執念が、数百万の命をすり潰しながら激突を続けていた。
カルーガ、ヴァジマ、ルジェフは実在する地名です。
これからはマイナーな地名がゴロゴロ出るので、主要な地名以外はこのままの名前でいきます。
てか、連邦の地名がつく軍の名前変えて覚えるのが怠すぎる。