《統一暦1926年9月下旬 東部戦線 モジャイスク近郊》
世界は、腐臭を放つ鉛色の泥濘へと沈み込んでいた。
空からは、呪いのように絶え間なく冷たい大雨が降り注いでいる。通常であれば秋の入り口であるはずのこの時期に、例年よりも異常に早く到来した雨季。ルーシーの地においてラスプーティツァ(泥の季節)と呼ばれる悪魔の気象現象が、広大な平原を底なしの沼地へと変貌させていた。
「各員、高度を下げろ! 味方を誤射するな。泥に埋まった鉄屑の周囲に群がる赤い虫どもを、片っ端から消毒しろ!!」
叩きつけるような雨音を切り裂き、ターニャ・フォン・デグレチャフ中佐の怒声が通信機を通じて響き渡る。
モスコーまで残り一〇〇キロ地点に構築された、モジャイスクの防衛線。
その前面に広がる果てしない泥の海の上で、ターニャ率いる第二〇三航空魔導大隊は、地獄の様相を呈する地上戦への介入を余儀なくされていた。
眼下の泥沼では、帝国の誇る最新鋭重戦車ティーゲルやハインツ中戦車からなる一個戦車大隊が、完全に身動きが取れなくなっていた。履帯は腹の底まで泥に埋まり、エンジンを吹かせば吹かすほど深く沈み込んでいく。
この悪天候により、頼みの綱である航空支援は皆無。ターニャのサラマンダー戦闘団を構成する頼もしい装甲擲弾兵たちや自走砲部隊も、後方で完全に泥に足を取られ、前進はおろか後退すら不可能な状態に陥っていた。
結果として、泥に埋まった戦車大隊を救援に向かえるのは、泥の影響を受けずに空を飛べる魔導部隊のみという絶望的な状況であった。
「「「Ураaaaaaaaaaaa!!」」」
泥まみれの連邦軍歩兵たちが、動けなくなった帝国の戦車群を完全に包囲し、波状攻撃を仕掛けてきていた。彼らは一個諸兵科混成旅団という規模であり、さらに上空には、この孤立した帝国軍の戦車大隊を確実に仕留めるべく、無理やり投入された連邦軍の二個魔導大隊が展開していた。
「第二中隊、右翼の歩兵群を薙ぎ払え! 残りは第一中隊に続け、敵魔導士を空から叩き落とす!」
ターニャの号令とともに、雨空から閃光が降り注ぐ。
十二名の帝国の魔導士たちが放つ爆裂術式と光学術式が、泥の中を這いずる赤軍兵士たちを泥水ごと空高く吹き飛ばした。
上空で迎え撃ってくる連邦軍の魔導部隊は、数こそ帝国の二倍近くいたが、その動きは素人の集まりのように鈍重であった。編隊行動すらままならず、ただ旧式の宝珠で無闇に魔力弾をばら撒いてくるだけだ。
「カモがネギを背負って飛んでいるようなものだ! 狙いを定めろ、一撃で仕留めろ!」
第二〇三航空魔導大隊のベテランたちは、雨と風の悪条件をものともせず、的確に敵の死角を突き、ドックファイトで次々と赤軍魔導士の首を刈り取っていく。血しぶきが雨と混ざり合い、泥濘の海へと吸い込まれていく。
わずか十数分の交戦で、連邦の魔導大隊は壊滅状態に陥り、地上の混成旅団も頭上からの容赦ない火力の投射を前に大打撃を受け、泥の奥へとほうほうの体で後退していった。
泥に埋まった戦車兵たちが、ハッチを開けて空のターニャたちに向かって安堵の敬礼を送ってくる。
「……任務完了。残敵掃討は控え、大隊は直ちに司令部周辺の空域警戒に戻れ」
命令を下しながら、ターニャは雨に打たれ、泥にまみれた眼下の帝国の惨状を見下ろした。
誇り高き装甲軍集団の戦車たちは、泥の中に無様に亀の子のように腹を擦った状態で放置され、補給トラックの車列は泥濘にはまって数キロにわたって立ち往生している。
(……なぜ、こんなことになったのだ)
ターニャは、ゴーグルの雨水を拭いながら、これまでの狂気じみた数週間の戦闘を思い返した。
◇
東方大電撃戦の幕開けは、概ね順調であった。
ミエンスクを陥落させ、さらに進撃した装甲軍集団は、サモレンスクにおいて赤軍部隊二〇万人を包囲下に置くことに成功した。
だが、ここで最初の計算狂いが生じた。
本来であれば、包囲した敵の殲滅は後続の歩兵軍に任せ、装甲軍集団はそのまま前進を続けるはずであった。しかし、後続の歩兵部隊は、広大な後方地域に出没するパルチザンやゲリラ戦に悩まされ、進撃が致命的に遅れていたのだ。
結果として、装甲軍集団は単独でサモレンスクの二〇万の敵を殲滅する羽目になり、ここで丸々一週間という、極めて貴重な時間を浪費してしまったのである。
この「一週間の足止め」が、その後の地獄の扉を開いた。
サモレンスクを突破し、モスコー外縁に広がるヴァジマ防衛線に衝突した時。
帝国の装甲軍集団の戦車稼働率は、部品供給の遅れとルーシー特有の劣悪な環境のせいで、すでに五〇%を割り込んでいた。
そこに立ち塞がったのは、連邦の文字通り『工業力の全て』が投じられて急造された、巨大な肉と鉄の要塞線であった。
連邦は、先日の大包囲殲滅戦で主力が壊滅してから僅か二ヶ月の間に、後方のシルドべリアの工業地帯をフル稼働させ、戦車や自走砲を四五〇〇両、火砲を一万三〇〇〇門、戦闘機を三五〇〇機という、常軌を逸したペースで生産し、前線へと送り込んできたのだ。小銃の追加配備も行われ、「二人で一丁」という最悪の状況だけは何とか回避されていた。
サモレンスクでの一週間の遅れは、このシルドべリアからの増援と防衛線の構築を、文字通り『ギリギリで』間に合わせてしまったのである。
ヴァジマ防衛線に投入された赤軍の規模は、火砲一万門、戦車三〇〇〇両。さらに水平飛行どころか離陸すら怪しい練度のパイロットが乗る航空機二〇〇〇機。
その全ては、練度という観点から見れば壊滅的であった。
だが、それを指揮するジェーコブ元帥は、その「素人の大群」の使い道を熟知していた。
彼は練度不足の部隊に複雑な機動戦を一切行わせなかった。歩兵を幾重にも掘られた縦深陣地の塹壕に縛り付け、「ただ目の前に帝国兵が現れたら引き金を引け。死んだら後ろの者が銃を拾え」とだけ命じた。戦車は車体を地面の下に隠し、砲塔だけ出させトーチカ替わりにした。
装甲軍集団は、この防衛線への衝突した初戦で想定外の抵抗を受け、大幅な遅れを取った。
特に悪夢として帝国兵の記憶に刻まれたのが『第二一一台地』の戦いであった。そこでは、塹壕の奥深くに潜んだ赤軍兵士たちが、帝国の歩兵が通り過ぎるのをじっとやり過ごし、背後から一斉に機関銃を掃射。さらに戦車に対しては、無数の決死隊が肉薄攻撃を仕掛け、帝国側は一つの台地を奪うためだけに戦車大隊を丸ごと一つ喪失し、一〇〇〇人以上の犠牲者を出すという大損害を被ったのである。
さらに空でも、赤色空軍は狂気を見せた。
彼らは空戦技術では帝国のベテランに絶対に勝てないことを悟ると、機銃を撃つことすら放棄し、帝国の爆撃機や戦闘機に対してそのまま機体ごと突っ込む「体当たり攻撃」を頻繁に敢行してきたのだ。これにより、帝国空軍も多大な損害を強要された。
ガデーリアン率いる装甲軍集団は、この泥沼の防衛線を食い破るべく、ヴァジマ包囲のための迂回機動を実施。側面から赤軍の三個戦車軍と衝突し、練度の差からこれを一方的に撃滅することに成功した。
だが、この勝利と引き換えに、酷使された戦車の稼働率はさらに致命的なまでに低下した。
当初、一週間で終わると考えられていたヴァジマの突破は、ジェーコブ元帥の血も涙もない遅滞戦術と、赤軍兵士の狂気的な献身により、実に『一ヶ月』もの長期にわたり継続された。
防衛線を完全に突破した頃には、時期は九月の中旬へとズレ込んでいた。
だが、この時点で、赤軍の組織的な抵抗戦力はついに底を突いた。モスコーまでの道には、もはや雑多な民兵しか残されておらず、あとは傷ついた戦車に鞭を打ってモスコーまでドライブするだけの、文字通りの『ウィニングラン』になるはずであった。
その時である。
例年よりも二週間近く早い、強烈な雨季(ラスプーティツァ)が東部戦線を襲ったのは。
乾き切っていたルーシーの大地は、降り注ぐ大雨によって瞬く間に巨大なスポンジのように水分を吸い込み、世界で最も凶悪な粘着力を持つ『泥の海』へと変貌した。
スプーン一杯の水がバケツ一杯の土を泥にすると呼ばれるこの泥濘を前に、帝国軍の誇る機動力は完全に殺された。装甲軍集団の一日の進撃速度は、一〇キロ以下にまで急激に低下。場所によっては一日に数百メートルしか進めないという、共和国戦初期の塹壕戦以下の速度にまで落ち込んだ。
補給は完全に途絶。燃料も弾薬も食糧も前線に届かず、なんとかモジャイスクの防衛線まで辿り着いたものの、そこから先へ進むことは物理的に不可能となった。
そして、装甲軍集団参謀長たるローゼフシルト少将の強い具申により、総司令官ガデーリアンは血の涙を流しながら、全軍への『進撃停止命令』を下すに至ったのである。
◇
モジャイスク郊外。
泥沼の森の中に設営された、装甲軍集団の司令部天幕。
「デグレチャフ中佐、よくやってくれた。貴官の迅速な航空支援のおかげで、我が軍の貴重な戦車大隊が泥の底に沈むのを防ぐことができた。心から感謝する」
泥にまみれた迷彩服から、乾いた軍服に着替え天幕に帰還したターニャに対し、総司令官ハインツ・ガデーリアン上級大将は、手ずから熱いコーヒーを差し出しながら深く頭を下げた。
「勿体なきお言葉です、閣下。我々戦闘団は、閣下の装甲軍をお守りするために存在しておりますから」
ターニャがコーヒーを啜り、冷え切った体を温めていると、ガデーリアンは苦虫を噛み潰したような顔で天幕の外の雨を見つめた。
「……しかし、憎き泥濘め。赤軍の主力が完全に消え去り、モスコーまであと一歩の距離まで来ているというのに、足が動かんとは。我々は、あと一歩で勝利の女神のドレスの裾を踏み外したのだ」
彼がモスコー一番乗りを果たしたかった執念は本物であった。
だが、あの悪魔のような泥濘の中で、ガデーリアンが無理な進撃を命令しようとした際、それを強引に制止したのは他でもない、参謀長たるローゼフシルトであった。
『閣下、止まりましょう。これ以上の進撃は自殺行為です。補給線が絶望的に細い現在、無理に進めば、我が軍はモスコーの前面で弾薬も燃料も尽き、赤軍の反撃によって殲滅されます。……ここは冬季まで、地面が固まるまで待つべきです。そしてこの停滞期間を利用して、細い補給線で少しずつ冬季戦用の装備を前線にプールしておくのです』
ガデーリアンは当初激怒したが、冷徹な現実を突きつけられ、最終的にその理にかなった案を飲んだ。
これにより、帝国軍と連邦軍が、極寒の『冬季モスコー』で決戦を行うことが完全に確定したのである。
「どうだ、少将。前線の状況は?」
ガデーリアンが天幕の入り口に向かって声をかけた。
バサリとテントの布が捲られ、護衛の魔導中隊を引き連れて前線の視察に出向いていた参謀長、ローゼフシルト少将が戻ってきた。
彼は、仕立ての良い軍服を、見る影もないほど泥で茶色く染め上げ、軍靴は重い泥の塊と化していた。
「……最悪ですよ、上級大将閣下」
ローゼフシルトは、手袋を脱ぎ捨てながら、深い溜息とともに地獄の光景を語り始めた。
「言葉通りの意味で、ルーシーの大地が我々を呑み込もうとしています。道という道はすべて膝上まで浸かる川になり、砲を牽引するトラックは腹まで泥に沈んでエンジンが悲鳴を上げています。誇り高きティーゲル重戦車すら砲塔しか見えないほどに埋まり、あの無敵のマイバッハ・エンジンもただ空回りするばかり。補給用の車両に至っては、泥濘に捕まった瞬間にただの巨大な鉄屑と化しています」
ローゼフシルトは、デスクの上に泥だらけの地図を広げた。
「この雨は、赤軍の何百万の肉の壁よりも強固な防衛線です。もはや、戦車を一歩前に進めるための燃料を運ぶために、その十倍の燃料を消費して泥に足を取られている有様です。我が装甲軍の兵站システムは、この泥将軍の前に完全に敗北しました。今はひたすらに耐え、泥が凍りつく氷点下を待つしかありません」
「……そうか。ご苦労だったな、少将」
「ええ。ですが、この停滞期をただ無為には過ごさせません。帝国の輸送網を総動員して、防寒着と冬季用潤滑油をかき集めさせています。冬が来れば、再び我が装甲軍は牙を剥くことができるでしょう」
その二人のやり取りを横で聞いていたターニャは、ふと、不思議な感慨に打たれていた。
(……あれほど子供のようにいがみ合っていた二人の仲が、この数ヶ月の攻勢開始以来、見違えるほどに良くなっている)
作戦当初、ことあるごとに対立し、互いを罵り合っていた総司令官と参謀長。
しかし、ヴァジマでの血みどろの激戦を潜り抜け、そして現在この絶望的な泥濘の海に直面している彼らの間には、かつての私怨など微塵も感じられない、純粋な戦友としての、強固な信頼関係が築かれていた。
ガデーリアンの猪突猛進な突破力を、ローゼフシルトの緻密な計算と兵站構築が支え、ローゼフシルトが現実的な撤退や停滞を具申した際には、ガデーリアンが自らの権威でそれに責任を持つ。
(人を深く結びつけるのは、イデオロギーでも友情でもない。……泥や赤軍といった、共通する絶対的な『敵』なのだな)
ターニャが前世の企業内政治を思い出しながら感心していると、ローゼフシルトがこちらへ向き直った。
「デグレチャフ中佐。貴官もご苦労だった。この視界ゼロの大雨の中、よく戦車大隊を救出し、やり遂げてくれた。君の戦闘団の存在は、我が装甲軍集団の命綱だ」
「はっ。光栄の極みであります」
ターニャが踵を鳴らして敬礼すると、ローゼフシルトは自らの泥まみれの服を見下ろして苦笑した。
「さて、今の私はまるで下水に落ちた濡れ鼠だ。参謀長としての威厳が保てん。……一旦、裏の天幕で体を拭いて、泥を落としてくるよ」
「うむ。風邪を引かんようにな、少将」
ガデーリアンの気遣うような言葉に背を向けながら、ローゼフシルトは司令部の天幕を出ていった。
雨音は、なおも激しくテントの屋根を叩き続けている。
東部戦線は、全てを呑み込む泥濘の中で一時的な、しかし気味の悪い静寂に包まれていた。
次にこの泥が凍りついた時、帝国軍と連邦軍は、首都モスコーという絶対的な祭壇で、互いの国家の存亡を賭けた戦いを演じることになるのである。
ソ連の生産力ってレンドリース抜きでもいかれてるんですよね。
独ソ戦を通してドイツの二倍以上の装備を生産しています。
よく勘違いされていることがソ連は某超大国のレンドリースのおかげでドイツに勝った、とかいう与太話なんですけど、ソ連は自分の力だけで一番苦しい時期を乗り越え劣勢を優勢に変えています。ソ連軍が弱いという言説は、冷戦時代にソ連側は情報を封鎖し、ドイツ側の無双エピばかりが西側で流行したからで、最近はそういう認識は改められているらしいですね。
この世界の連邦は帝国が怖くて開戦以前から戦時生産体制という設定にしているので、大体1942年のソ連を参考に生産量は決めています。ちなみに次の年からさらに生産量は拡大します。
その代わり農民は凍えて飢え死ぬけどね()