《統一暦1926年7月初旬 アルビオン連合王国 首都ロンディウム 10番地》
どんよりとした鉛色の雲が、今日もロンディウムの空を重く覆い尽くしている。
時折降り注ぐ霧雨が、10番地の窓ガラスを濡らし、首相執務室の空気を陰鬱に染め上げていた。しかし、この部屋の主であるアルビオン連合王国首相、ウィンストン・チャーブルの心を最も暗く沈ませているのは、窓の外の天候などではなかった。
「……信じられん。あのグルジアの田舎者は、一体何のために自国の無数の農民を軍服に着替えさせたのだ? カラスを追い払う案山子の方が、まだマシな働きをするぞ!」
チャーブルは、太い最高級のカリブ産葉巻を奥歯で噛みちぎらんばかりに咥えながら、デスクの上に投げ出された極秘の報告書を睨みつけ、連合王国の紳士に相応しい、極めて洗練された憤慨を漏らした。
報告書に記載されているのは、東方からの悪夢のような凶報であった。
帝国軍がヴァルシャワ周辺で実行した人類史上最大規模の大包囲殲滅戦。その結果、ルーシー連邦が誇っていた西方軍主力と極東精鋭部隊の合計『五〇〇万人』が、文字通り物理的な虚無へと還り、あの世の労働キャンプへと強制的に配属されたというのである。
「五〇〇万人だぞ。五〇〇万人! 我がアルビオンの総人口の一割以上が、たった数ヶ月で泥と肉片に変わったのだ。いくら連邦が人民の命をジャガイモの値段よりも安く見積もっているとはいえ、限度というものがあるだろう!こんな勢いでジャガイモをドブに捨てているとアイリッシュどもが泣いてしまうぞ!」
チャーブルは、革張りの重厚な椅子に深く沈み込み、赤ワインの入ったグラスを呷った。
帝国という国家は、狂っている。あの合理主義の権化のようなソーセージ食いどもは、戦争という混沌とした暴力を、まるで精密な時計の歯車を組み合わせるかのようなシステマチックな事務処理へと昇華させてしまった。死体蹴りの如く連邦をいたぶる帝国軍の完璧な包囲戦術は、軍事的な芸術を通り越して、もはや悪魔の所業であった。
「……ああ、神よ。我が連合国における陸軍担当が、溶けて消えてしまった……」
チャーブルは天を仰ぎ、絶望に満ちた嘆きを漏らした。
現在、大戦争の構図において、太西洋と制海権を守る海軍担当は我が連合王国である。そして、広大な大陸で帝国の精強な陸軍を受け止める巨大な肉の盾、すなわち陸軍担当がルーシー連邦であったはずなのだ。
他国の状況を見渡せば、チャーブルの頭痛はさらに加速する。
ライン川の向こうで真っ先に帝国に挑み、光を越える速度で白旗を揚げて降伏したフランソワのカエル食いども。
帝国と同盟を結んでおきながら、パスタを茹でるためのお湯を沸かす以外に何の役にも立っていないイルドアの能天気な連中。
そして、北の極寒の地で臭い缶詰で遊ぶだけで、帝国の北側面を脅かすことすらできない協商連合のヴァイキングの末裔たち。
「どいつもこいつも、役立たずばかりだ! 連合王国は、世界で最も孤独な島国になってしまったぞ……」
コンコン、と。
絶望の底に沈むチャーブルの執務室のドアが、控えめにノックされた。
「入れ」
ドスの効いた声で応じると、ドアが静かに開き、長身で痩せこけた初老の男が入ってきた。連合王国の耳と目を束ねる情報部の長官、サー・アーサー・シンクレアであった。彼の脇には、いつも通り分厚い情報ファイルの束が抱えられている。
チャーブルは、アーサー卿の顔を見るなり、深いため息をついて葉巻の灰を乱暴に振り落とした。
「……アーサー卿。お前はいつも、ろくな情報を持ってこないな。死神の使いの方がまだ愛想がいいぞ」
「お褒めにあずかり光栄です、首相」
「褒めてはおらん! お前がその薄気味悪い顔でこの部屋に入ってくるたびに、私の毛根量はアルビオン本土の原生林並みの面積に収束していっているぞ!! このままでは、私の頭頂部が連合王国の焦土と化す日も近い!」
自らの後退し続ける生え際を指差して激しく抗議する首相に対し、アーサー卿は表情を一切崩さずに、恭しく一礼した。
「ご安心ください、首相。本日は悪い知らせばかりではありません。今回は、素晴らしい情報『も』お持ちいたしました」
「そうか……」
チャーブルは少しだけ表情を和らげ、グラスにワインを注ぎ足した。素晴らしい情報。それは今の絶望的な戦局において、何よりの鎮痛剤となるはずだ。
「…………いや、まて!」
グラスを口に運ぼうとしたチャーブルは、ピタリと動きを止め、血走った目でアーサー卿を睨みつけた。
「今、お前はなんと言った? 素晴らしい情報『も』、だと!? その接続詞は、連合王国情報部においては極めて不吉な意味を持つのだが!」
アーサー卿は、一切の感情を排した声で、本日の『メニュー』を読み上げ始めた。
「ええ。本日の朝食(報告)のメニューは、フィッシュアンドチップスと、ハギスと、ウナギのゼリー寄せでございます」
その言葉を聞いた瞬間、チャーブルの顔色からサッと血の気が引いた。
「ふざけるな……! 私はフィッシュアンドチップスだけでお腹がいっぱいだ! それ以上は一〇〇年もののスコッチを樽ごと飲んでも消化できんぞ!」
ハギスとは、アルビオン本土北部地域の伝統料理であり、羊の胃袋に細かく刻んだ内臓とオートミールを詰め込んで茹で上げた、他国の人間からすれば「悪魔の臓物」としか思えない代物である。
そしてウナギのゼリー寄せに至っては、テムズ川の泥水をゼラチンで固めたかのような生臭さを放つ、アルビオン料理の暗黒面を象徴する代物だ。
情報部の長官がわざわざその名を口にするということは、それらが『胃袋をかき回す最悪の凶報』と『吐き気を催すほどの絶望的状況』の暗喩であることに他ならない。
「安心してください、首相」
アーサー卿は、微かな皮肉の笑みを浮かべて言った。
「ハギスとウナギのゼリー寄せは、どちらも非常に『新鮮(最新の機密)』なものですよ。まだ世界のどのシェフも嗅ぎつけておりません」
「……言え。連合王国の紳士たるもの、出された食事は残さず平らげるのが礼儀だからな」
チャーブルは覚悟を決め、葉巻を深く吸い込んだ。
「では、まずフィッシュアンドチップス(良い知らせ)から。……極東のシナにおける、我が国から護国軍および共産党の『統一戦線』への武器供与は、極めて順調に推移しております。バンブールートを通じた輸送網は完全に確立され、彼らは我々が提供した武器で、皇国軍に多大な出血を強要し続けております」
「ふむ……。それは結構なことだ」
チャーブルは少しだけ安堵の息を吐いた。
極東の秋津洲皇国。フジヤマとゲイシャとサムライの国であり、彼らは極めて優秀で狂信的な軍隊を持っている。もし彼らが北の連邦や、南の我が連合王国の極東植民地へ向かってくれば、非常に厄介なことになる。
だからこそ、チャーブルたちアルビオンの首脳陣は、極めて狡猾な二枚舌(アルビオン仕草)を使っていた。
表向きは、コノエ総理大臣に対して「我が国は極東の平和を愛している。合州国との和平会談を全面的に支持しよう」と紳士的に微笑みかけ、握手を交わす。
だがその裏では、皇国軍を大陸の泥沼に縛り付けるため、反皇国勢力に対して古い小銃から最新の対戦車兵器までを惜しみなく(もちろん定価の数倍の値段で)流し込んでいるのだ。
「あの極東の盆栽職人どもは、自国の首を絞める天才だからな。彼らが大陸でゲリラ相手に『バンザイ』と叫びながらハラキリを続けている間は、我が連合王国の極東権益は安泰というわけだ。……では、次の料理(ハギス)を頼む。私の胃袋が耐えられることを祈るよ」
アーサー卿は、二つ目のファイルを開き、無機質な声で告げた。
「ハギス(悪い知らせ)でございます。……合州国政府が、皇国のコノエ総理との首脳会談を、突如として『一方的にキャンセル』いたしました」
「――――っ!?」
チャーブルは、咥えていた葉巻を落としそうになった。
「な、なんだと!? なぜだ! 我々が裏でどれほど皇国を宥めすかし、コノエの非戦派政権を支えて時間を稼いできたと思っている! なぜ合州国は、わざわざ自分からそのちゃぶ台をひっくり返すような真似をしたのだ!!」
アルビオンにとって、合州国と皇国が太平洋でバランスを取り合っている現状こそが至高であった。もし合州国が皇国を過度に追い詰めれば、皇国は確実に暴発し、その刃は合州国だけでなく、防衛が手薄なアルビオンの極東植民地にも向けられる。
「あの成金のカウボーイどもは、ポーカーのルールも知らずにテーブルに座っているのか!? 太西洋で我々が血を流しているのに、一向に参戦の腹も決めないくせに、極東で余計な火遊びをするとは! あの車椅子の男は、突然神の啓示でも受けて発狂したとでもいうのか!」
「胃が……胃酸が逆流しそうだ……。合州国の外交官どもは、脳みそまでハンバーガーの挽肉でできているに違いない」
チャーブルは胃の辺りを押さえながら、荒い息を吐いた。
「だが、まだだ。まだ首脳会談が流れただけなら、外交交渉の余地はある。……アーサー卿、最後のメニューだ。ウナギのゼリー寄せ(最悪の知らせ)を出せ。もはや私の胃袋に恐怖という感覚は残っていない」
アーサー卿は、最後の、そして最も薄く、しかし最も重い一枚の書類を読み上げた。
「ウナギのゼリー寄せでございます。……合州国政府は、大平洋海軍軍縮条約からの『一方的脱退』を宣言しました。さらに、太西洋に展開していた太西洋艦隊の主力を、運河を経由して、大平洋のホノレレへと大移動させる命令を下しました。加えて、皇国に対して、大陸からの完全撤退と同盟破棄を迫る過酷な外交要求を突きつけております」
「……………………」
その報告を聞いた瞬間、チャーブルの口から、全ての言葉が失われた。
ただ、彼の残り少ない頭頂部の毛根から、一本、また一本と、白い毛が力なくハラハラと机の上に舞い落ちていく音だけが、執務室に響いた。
絶望。
純粋で、完全なる絶望であった。
「終わった……」
チャーブルは、両手で顔を覆い、呻くように呟いた。
「合州国の馬鹿どもめ……! 皇国をそこまで追い詰めれば、あの誇り高いサムライたちがどう動くか、少し考えれば分かるだろうに! 彼らは間違いなく南下してくる!安全を求めて、我が連合王国の至宝へ、血走った目で襲いかかってくるぞ!!」
東には、数百万の赤軍をすり潰し、ドードーバード海峡を越えようと牙を研ぐ今のところ向かうところ敵なしの帝国軍。
西の太西洋には、我が国の輸送船を沈め続けるUボートと水上艦の群れ。
そして今度は、大平洋の海で、発狂したカウボーイと切腹狂いのサムライたちが、世界を巻き込む血みどろの大殺戮を始めようとしているのだ。
「我が連合王国は、このままでは海に沈む前に、過労死で滅亡するぞ……!」
チャーブルは、完全に空っぽになったグラスを見つめながら、自らの毛根の無事を祈ることを完全に放棄した。
◇
「……アーサー卿。聞いてくれ」
最悪の報告から数十分後。
ようやく現実逃避から帰還したチャーブルは、机の上に散らばった自らの抜け毛を悲しげに見つめながら、ぽつりと漏らした。
「昨日、私のかわいい孫娘が10番地に遊びに来たのだ。そして私を見るなり、純真無垢な笑顔でこう言ったのだよ。『おじいちゃん、あたまがピカピカしてて、ゆで卵みたいでかわいいね!』……と」
連合王国首相の、あまりにも哀愁漂う告白であった。
「連合王国の紳士たるもの、常に威厳を保たねばならん。だが、孫娘のあの無配慮で一切の容赦がない、純粋な物理的真実の指摘には、私の鉄の心臓も粉々に打ち砕かれたよ……。東部戦線の連邦の崩壊よりも、あの言葉の方が私の魂に深いダメージを与えた」
チャーブルは、自らの頭を撫でながら深く嘆息した。
「首相、お辛いお気持ちはお察しいたします」
アーサー卿は、同情の余地など微塵も感じさせない声で相槌を打った。
「しかし、抜け毛に関しましては、一つ有益な情報局のデータがございます」
「ほう? 連合王国情報部は、ついに発毛剤の開発に成功したのか?」
「いえ、科学的な裏付けはありませんが、極東の秋津洲皇国で広く信じられている『民間療法』についてです」
アーサー卿は、極秘ファイルをめくるような手つきでメモを見た。
「皇国の人間は、総じて髪が黒く、フサフサである割合が高いというデータがあります。彼らの食文化を調査した結果、彼らは日常的に『海藻(ケルプやワカメ)』を大量に摂取していることが判明しました。皇国では昔から、『海藻を食べると髪が豊かになる』と言い伝えられているそうです」
その言葉を聞いた瞬間、チャーブルの瞳に、今日一番の輝きが宿った。
「海藻、だと……!? あの、海岸に打ち上げられているヌルヌルした草のことか!」
「はい。彼らはそれを乾燥させたり、スープに入れたりして食べているようです。ミネラルが豊富で、毛根に活力を与えるのだとか」
チャーブルは、机を叩いて立ち上がった。
「素晴らしい!! さすがは情報部だ、アーサー卿! 連邦の崩壊や合州国の狂気などよりも、よほど国家の威信に関わる大発見ではないか! すぐに料理長を呼べ! 今日の夕食から、私の食卓に毎食『海藻』を並べるように命じろ!」
「承知いたしました、首相。……お口に合うかは保証いたしかねますが」
「構わん! 紳士の尊厳と、アルビオンの原生林を取り戻せるのなら、テムズ川の泥でも食ってやるわ!」
チャーブルの悲壮な決意のもと、連合王国首相官邸の厨房は、急遽東洋から取り寄せられた謎の乾燥植物(昆布とワカメ)の調理という、未曾有の任務に挑むこととなった。
――しかし、歴史とは残酷なものである。
その日から、チャーブルの食卓には、朝に昆布のスープ、昼にワカメのサラダ、夜に海苔の煮込みという、極東の漁村もかくやという海藻尽くしのメニューが並ぶようになった。
チャーブルは涙目でそのヌルヌルとした黒い物体を胃袋に流し込み、鏡の前で毛根の復活を祈り続けた。
だが、一週間もしないうちに、悲劇は起きた。
極東の島国の人間とは異なり、生粋のアングロサクソンであるチャーブルの腸内には、海藻を分解・消化するための特殊な酵素(ポルフィラナーゼ)を持つ腸内細菌が『全く存在していなかった』のである。
大量に摂取された海藻は、消化されないまま彼の老体内で猛威を振るい、連合王国首相に「凄まじい腹痛」と「エンドレスな下痢」という最悪の鉄槌を下した。
「うおォォォォォ……ッ! 腹が……私の胃腸が、北海の荒波のように荒れ狂っているゥゥゥッ!!」
それからの三日間、チャーブルは重要会議を全てすっぽかし、執務室とトイレを青ざめた顔で往復し続けるという、国家的危機に直面した。
「二度と……! 二度と私の食卓に、あの黒いヌルヌルを出すなァァァ!!」
トイレの奥から響き渡る首相の絶叫とともに、10番地から全ての海藻は永遠に追放された。
世界は狂気の底へと転がり落ち、極東では皇国と合州国の開戦の火蓋が切って落とされようとしていた。
そして、連合王国首相ウィンストン・チャーブルの頭頂部における「毛根の最前線」は、海藻という援軍を失ったことにより、東部戦線のルーシー連邦軍よりもさらに悲惨な速度で、絶望的な後退を続けるのであった。
こわい……((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル