《統一暦1926年11月上旬 東部戦線 モスコー外縁部》
季節が、残酷なまでにその姿を変えた。
十月を通じてルーシーの大地を覆い尽くし、帝国軍の誇る装甲部隊の足を完全に停止させた悪魔のラスプーティツァは、シルドべリアから吹き下ろす冷たい風によって急激に冷やされ、数日のうちに文字通りコンクリートのように固い「氷の大地」へと変貌を遂げた。
それは、連邦軍にとっての「泥将軍」の退役を意味し、同時に帝国軍にとっては「進撃再開のファンファーレ」であった。
帝国装甲軍集団は、この一ヶ月間、ただ泥の中に沈んで無為に過ごしていたわけではなかった。
彼らは泥に埋もれた戦車をウインチで引き上げ、整備兵たちが徹夜でエンジンを分解し、ルーシーの極寒に耐え得る冬季用の不凍潤滑油へと交換を済ませていた。さらに履帯には雪上や氷結路面を走破するための幅広のヴィンターケッテンが装着され、後方からは細い補給線を縫って、将兵のための防寒着が優先的にかき集められていた。
全ては、積雪が本格化し、マイナス三〇度を超える真の「冬将軍」が牙を剥く一一月の下旬に突入する前に、首都モスコーを陥落させるためである。
帝国軍は、あらゆる努力を払って戦車の稼働率を回復させ、万全の冬季戦の準備を完了させた。
そして今、固く凍てついた平原の上に、再び内燃機関の恐るべき咆哮が鳴り響いた。
帝国軍による、モスコー攻略に向けた最終攻勢が、一斉に開始されたのである。
◇
《同日 ルーシー連邦 モスコー南方カシーラ モスコー防衛軍司令部》
「同志ジェーコブ。……泥が凍り、帝国軍が動きましたね」
カシーラの地下深くに構築された防衛軍司令部。
その冷え切った作戦室に響くのは、専用の直通電話から聞こえる、極めて静かで、感情の起伏を一切感じさせない男の声であった。
「はい、書記長同志。敵の装甲軍集団が、全戦線において一斉に攻勢を再開しました」
受話器を握るジェーコブ元帥は、額に冷や汗をにじませながら答えた。
電話の主は、連邦最高指導者である同志書記長ヨシフ・ジュガシヴィリである。彼と党中枢の主要な政府機関は、すでにモスコーを離れ、遥か東方の奥地、山脈の麓にある都市カイベジェフへと首都機能を移転し、疎開を完了させていた。
だが、指導部が逃げたからといって、首都を明け渡すことなど断じて許されない。
「モスコーは連邦の心臓であり、共産主義の象徴です。一歩でも退くことは許しません。いかなる犠牲を払おうとも、帝国の反動主義者どもを血の泥沼に沈めなさい。……あなたの祖国への献身に、期待していますよ」
「……あらゆる犠牲を甘受し、死守いたします」
ツーツーという無機質な切断音を聞き届け、ジェーコブは重い受話器を置いた。
「期待している」という言葉は、失敗すれば即座にNKVDの地下室行きを意味する、絶対的な死の強要である。
ジェーコブは、作戦机の上に広げられた巨大なモスコー防衛図に目を落とした。
この二ヶ月間、帝国軍が泥濘に足を取られている間に、連邦もまた死に物狂いで軍の再建を行っていた。
ジェーコブの指揮下で新編された『モスコー方面軍』には、東方のシルドべリアの広大な平原と極寒の環境で錬成された、実に二〇個軍もの新鮮な兵力が放り込まれていた。
戦車二八〇〇両、火砲七〇〇〇門、稼働航空機一〇〇〇機。
その戦力は、かつてルジェフやヴァジマで帝国軍の装甲の前に散っていった、小銃すら満足に撃てない素人の肉の壁とは根本的に異なっていた。彼らは厳しい軍事訓練を受け、傾斜装甲を持つT-34や、帝国の対戦車砲を弾き返す重戦車KVを操る、十分な練度と強烈な抗戦意志を確保した正規部隊であった。
さらに、防衛線の構築には、軍だけでなくモスコーの一般市民も総動員された。
数十万人の女性、老人、子供たちが、凍てつく風の中でツルハシとスコップを握りしめ、凍土を砕き、何百キロにも及ぶ対戦車壕を掘り、無数のトーチカや鉄条網を設置した。モスコーの前面、南部、北部に至るまで、都市そのものを巨大な要塞へと変貌させる防衛網が完成していたのだ。
(これだけの戦力と要塞線があれば、帝国軍の進撃を必ず食い止められるはずだ)
そう確信していたジェーコブであったが、彼のその淡い希望は、作戦参謀が幽鬼のような顔で駆け込んできた瞬間に打ち砕かれた。
「元帥同志……! 緊急報告です! 中央のモジャイスク防衛線、その最前線であるボロジノが……陥落しました!」
「なんだと!?」
ジェーコブは、作戦机に両手をついて身を乗り出した。
「ボロジノだと!? あそこには何重もの対戦車陣地と地雷原を敷き詰め、精鋭を配置していたはずだ。最低でも一〇日は耐えられると踏んでいたのだぞ!」
「それが……僅か半日と少しで抜かれました! 帝国軍は吹雪の夜陰に乗じて装甲擲弾兵を浸透させ、我が方の対戦車陣地をピンポイントで無力化。その間隙を縫って、数百両の戦車群が一気に雪原を突破してきました! 彼らの突破力は、泥の季節の前と何一つ変わっていません!」
ジェーコブは絶句した。
ボロジノは、かつて西方の覇者ボナパルトの軍勢を迎え撃った、ルーシー民族にとって神聖なる防衛拠点であった。そこが、一日の日の入りすら待たずに帝国の機械化部隊によって完全に蹂躙されたのだ。
冷たい汗がジェーコブの背筋を伝う。
この時点で、赤軍には二つの戦術的選択肢が残されていた。
一つは、シルドべリアから到着した貴重な戦車軍を直ちに前進させ、早期に反撃を行って、モジャイスク防衛線の手前で帝国軍と正面衝突し、戦線を膠着させること。
もう一つは、帝国軍の強力な装甲軍集団をモスコー市街の最終防衛線まであえて引き付け、彼らの補給線が延びきり、疲弊が限界に達した時点で、大規模な反転攻勢を行うこと。
ボロジノが僅か一日足らずで抜かれたという事実は、前者の選択が「自殺行為」であることを如実に示していた。帝国装甲軍集団は、二ヶ月の電撃戦と二ヶ月の停滞を経てもなお、十分すぎるほどの打撃力を保持している。ここで広大な平原での機動戦を挑めば、ヴァルシャワの大包囲の二の舞になり、せっかく再建した貴重な装甲戦力が、帝国の巧みな戦術の前に一瞬で溶かされてしまうだろう。
「……引き付ける」
ジェーコブは、奥歯を噛み締めながら、血を吐くような思いで決断を下した。
「失敗すれば連邦はモスコーという背骨を失う、背水の陣だが……。下手に野戦を挑めば全滅する。敵をモスコー市街の要塞線まで完全に引き付け、出血を強要し、戦車を市街地の瓦礫の山に縛り付けるのだ」
さらにジェーコブは、巨大な戦況図の全体を見渡した。
帝国軍の侵攻は、中央のモジャイスクだけではない。モスコー北部のカリーニン戦域や、南部のカルーガ戦域でも同時に凄まじい圧迫を行っており、連邦軍は全体的に押され続けていた。
その中で、ジェーコブの優れた戦術眼が、最も警戒すべき「死の矢印」を捉えた。
それは、南部のカルーガからさらに北東、「トゥーラ」へと向かって突き進む、帝国軍の主力『第一装甲軍』の動きであった。
(帝国軍の真の狙いは、強固な要塞となったモスコーの正面突破ではない。南部の工業要衝であるトゥーラを抜け、モスコーの背後を完全に遮断する大包囲網の形成だ……!)
ジェーコブは戦慄した。トゥーラを抜かれれば、モスコーは孤立し、カイベジェフからの補給も途絶え、巨大な棺桶と化す。
「このモスコーを巡る最大の決戦は、中央ではなく、南部のトゥーラで決まる!」
ジェーコブは作戦参謀に向かって怒鳴った。
「直ちにモスコー南部のトゥーラ戦域に、第六〇防衛軍をはじめとする六個の防衛軍、そして二個の戦車軍を集中配備しろ! トゥーラは何があっても死守する。帝国軍の第一装甲軍との決戦の準備を進めよ!!」
◇
《同時期 東部戦線 ヴァジマ近郊帝国装甲軍集団司令部》
連邦軍の最高司令部が悲壮な決断を下している頃。
前線に近いヴァジマの装甲軍集団司令部では、攻勢再開における初戦の快勝を祝う歓迎ムードが漂っていた。
「総司令官閣下! 北部のカリーニン戦域では、第一波の攻撃によりスターリツァが陥落寸前! 中央のモジャイスク戦域では、重要拠点ボロジノを攻勢開始から僅か半日と少しで完全制圧し、本隊がモジャイスクへ殺到中! さらに南部のカルーガ戦域でも、カルーガが陥落寸前であり、あと少しで要衝トゥーラまでの道筋が開かれます!」
「素晴らしい!」
ハインツ・ガデーリアン上級大将は、戦況図の前で満面の笑みを浮かべた。
「我が装甲軍の楔は、凍てついたルーシーの防衛線をバターのように切り裂いているぞ! あの忌まわしい泥さえなければ、赤軍など恐るるに足らずだ!」
その隣では、参謀長のローゼフシルト少将が、熱いコーヒーが入ったマグカップを傾けながら、冷静に地図を見つめていた。
「喜ぶのはまだ早いですよ、閣下。赤軍はシルドべリアからの増援で、戦力を完全に回復させています。あのボロジノの抵抗も、決して軽視できるものではありませんでした。彼らは明らかに、時間を稼ぎながら我が軍を出血させる遅滞戦術に切り替えています」
「分かっているさ、参謀長。だが、我々の進撃速度は彼らの防衛線の構築速度を上回っている。積雪が本格化し、履帯が雪に埋もれる一一月下旬までには、必ずモスコーのクレムリンに帝国の軍旗を掲げてみせる」
そこに、作戦参謀の一人が進み出て、確認を求めた。
「総司令官閣下、参謀長閣下。今後の作戦の最終確認です。我が軍がこのまま前進し、モスコー市街の強固な要塞線に到達した場合、どのように攻略するおつもりでしょうか? 航空偵察によれば、敵は市街地の外周に狂気的な規模の対戦車壕とトーチカ群を構築しておりますが」
その問いに、ガデーリアンとローゼフシルトは顔を見合わせ、まるで悪戯を企む子供のように、同時に口の端を歪めて不敵に笑った。
「馬鹿正直に、敵の要塞線を正面から殴る気は欠片もない」
ガデーリアンが言い放った。
「その通りです」
ローゼフシルトが引き継いだ。
「過去の無数の攻城戦が証明しているように、そして今後の兵器の発展を考えれば、市街地での戦闘は装甲部隊の墓場です。我々の最大の武器である機動力を、自ら殺すような真似はしません」
ローゼフシルトは指揮棒で、モスコーの南に位置する工業都市「トゥーラ」を指した。
「我が装甲軍集団の真の狙いは、モスコーの完全なる『大包囲』です。北の部隊がカリーニンを抑え、中央の部隊がモジャイスクで敵の主力を釘付けにする。その間に、我が軍の主力である『第一装甲軍』が南部のトゥーラ戦域を電撃的に突破し、モスコーの背後へと大きく回り込みます。補給線を断たれたモスコーは、熟れた果実のように自ずと落ちるでしょう」
「だが、赤軍の司令官も馬鹿ではない」
ガデーリアンが獰猛な笑みを浮かべる。
「奴らもトゥーラの重要性は理解しているだろう。我々の意図を見抜き、南部にありったけの戦車をかき集めて、死ぬ気で守りに来るはずだ」
「ええ。だからこそ、第一装甲軍には最も重い拳を持たせました」
ローゼフシルトは分厚い戦力配置の書類を叩いた。
第一装甲軍の戦力は、他の装甲軍がこれまでの損耗や再編によって戦車・自走砲等の定数が七〇〇両程度に落ち込んでいるのに対し、彼らは損害を受けるたびに、他部隊から優先的に車両と熟練兵を引き抜き、補填されてきた。その結果、第一装甲軍は常に定員である「九〇〇両」という圧倒的な突破力を維持する、帝国最強の矛となっていたのである。
「トゥーラの平原で、赤軍の誇る新型戦車群と、我が第一装甲軍の九〇〇両の鉄獣が激突する。……そこで、この大戦争の帰趨が決まります」
ローゼフシルトの冷徹な声が、作戦室に響き渡った。
◇
歴史の重い響きが、凍てつく大地に木霊する。
統一暦一二四二年、四月五日。
ペイパス湖の氷上において、東方正教会のルーシ諸公軍は、西方カトリックの尖兵たるチュードン騎士団を打ち破った。
『氷上の戦い』と呼ばれるその歴史的な激突によって、欧州とルーシの境は決まり、東西の文明は長きにわたり互いに干渉することなく、冷たい均衡を保ち続けてきた。
そして、それからおよそ七〇〇年。
泥濘が凍てつき、白銀の雪に覆われた氷上の大地で、再び欧州の覇者とルーシの守護者が激突しようとしている。
かつての剣と槍は、内燃機関の咆哮と八.八センチ砲の砲火へと代わり、戦場は湖の氷上から、首都モスコーを囲む広大な平原へと拡大した。
凍土の軋みは、国家の存亡を賭けた絶滅戦争の調べ。
強大な突破力を誇る鋼鉄の騎士たちと、絶対死守を誓う赤い肉の壁。
統一暦一九二六年十一月、極寒のモスコー前面において、七〇〇年の時を超えた『氷上の戦い』の最終幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
氷上の戦い。
映画は見たことないけど音楽だけは聞いたことあって、とてもかっこよくて好きなんですよね。
聞きたい人はようつべでbattle on the iceと調べれば出てきますよ。