遅れてしまってすまん……
ザイム湿原を馬車が駆ける。ザンフト大森林を抜け、ファーベル村、ダッハ伯爵領を通り抜け、たどり着いたのは北側諸国エトヴァス山地。ここは火山地帯だが、ここ数百年は噴火をしていない温泉地帯が広がっている。
城門をくぐると、街が見えた――城塞都市ハイス、エトヴァス山地の温泉街である。
ずっと馬車で移動しっぱなしだったので、少し羽を休めることにした。
エトヴァス山の麓に構える宿に一泊。酒場の料理に舌鼓を打ち、同じベッドで就寝する。
翌朝、就寝時と頭の向きが逆さのゼーリエさんを起こし、身支度を整えた。
歩きもいいだろう。と彼女は言うので合わせることにする。
隣り合わせで歩きつつ、考えを巡らせてみる。
エトヴァス山地に強い興味があった。中でも、エトヴァス山の秘湯はひと際自分の興味を引いた。それは山奥にあるといわれる温泉で、強力な魔物や険しい道を乗り越えた先にある絶景。大自然を肌で感じながら温泉に浸かれる場所らしい。
以前ゼーリエさんに行こうと提案したときは、
『エトヴァス山の秘湯は行くだけ無駄だ。労力に見合わん』
と首を縦に振ってはくれなかった。だが、今は違う。
秘湯を目指す。秘湯ってだけでも甘美な響きなのだが、何より愛する人と苦楽を共有できることに魅力を感じている。
まだ早朝。ここから登るのであれば、昼くらいには着けるだろうか? バスケットにサンドイッチなどを詰めてきた。用意は周到である。
「今からでもどうですか、秘湯」
「……正気か?」
「もちろん」
口が「ω」の形になった。目じりも心なしか下がっている。普段ならここで「やっぱりいいです」となっているだろう。しかし、今日は一味違うのだ。心を鬼にして、いざ。
「いきましょう? 二人の時間も大事ですよ」
「……風呂ならいつも一緒に入ってるだろう。たかが山奥の湯に行く意味がわからん」
「大衆浴場もいいですけど、二人で同じ湯に浸かるのも乙なものらしいですよ」
「……いつになく頑固だな。後悔するなよ」
「っしゃ」
胸元で小さくガッツポーズ。ここから先はゼーリエさんに先導してもらう。彼女は過去にエトヴァス山の秘湯に足を運んでいるので、道はわかるとのこと。思い出の1ページになることは間違いないなと思いつつ、枝をかき分け野原を進む。
襲い掛かってきた魔物を倒し、巣の近くを通り攻撃してきたドラゴンを撃退し、さらに山肌を登っていく。中腹から疲れが身体に現れはじめた。笑う足に鞭をうち、ゼーリエさんの背中を追い続ける。
結局、秘湯へたどり着いたのは夕方の頃であった。
「そろそろ着く」と聞いた際は一般的な大きさの温泉を想像した。ここまでの疲労を吹き飛ばし、さらなる元気を与えてくれる効能の湯だったりするのかな、と妄想した。絶景を眺めながら二人で肩まで湯に浸かり、夕日を眺めたりしようとか、そういうことを考えていた。
さて。現実に戻ろう。
それらの想像を遥か斜めで凌駕してくるとは思わなかったのである。
足湯。まさしくそれである。囲いの岩は予想より5周りくらい狭く、深さはすねが半分沈む程度。
開いた口が塞がらなかった。文字通り。
「これがエトヴァス山の秘湯だ。拍子抜けだろう」
ニヤニヤしながら隣に立つと、荷物を岩の影に預け靴を脱ぎ足湯へ向かった。
「足湯だ」
囲いに腰かけ、水面を足で遊ぶ。ちゃぷちゃぷと楽しそうだ。
夕焼けが反射する横顔は口角がやや上がっており、目じりも柔らかい。疲れたけど悪くなかった、そんな顔をしている。
そんな彼女を見ていると、秘湯の衝撃など空の彼方へ吹き飛んでいった。
「? 何笑ってる」
こちらを見るまなざしが柔らかい。きっと楽しかったのだろう。
「来てよかったな、って思いました」
「……そうか」
彼女の隣に歩を進める。靴や荷物を岩陰に放り投げ、バスケットだけ手元に置いておく。
ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐった。左肩に頭を預ける彼女がいる。その頭を少し撫でると、すこし目を細めるのみであった。撫でながら空を見上げると、一番星が煌めいていた。
「好きですよ、ゼーリエさん」
「急だな」
「ええ。好意は伝えられるときに伝えないと」
「そうか」
その次の言葉はない。ずっとこちらに頭を預けたままだ。でも、それが彼女なりの愛情表現だというのは十二分に理解できる。
バスケットを開く。サンドイッチなんかは登山の途中に全部食べたが、間食用に取りおいたパンが残っていた。チョコが練りこまれているやや黒いパン生地に砂糖がまぶしてあるもの。半分に割って、大きい方を彼女に渡した。受け取って、そのまま口に運ぶ。甘い。
幸せなひと時だった。
ちなみに、帰りはゼーリエさんの飛行魔法に頼った。速い。行きの苦労って何だったんだろうか。
♦♦♦♦
エトヴァス山の麓に宿泊した翌日、彼は普段の様子では想像がつかないくらいソワソワしていた。
まあ、十中八九秘湯のことだろう。過去に話を持ち掛けてきたくらいだ、行きたい場所が近くにあれば落ち着かなくなるのもしょうがないと言えるだろう。
私は基本、彼のしたいことなんかは極力叶えてやっている。だが、エトヴァス山の秘湯にはあまり行かせたくない。なぜなら、噂と現実の乖離がひどすぎるからだ。景色がいいのは認める。だが、湯はただの湯で、道中の魔物や険しさを考えれば、危険を冒してまで行く価値は特に見当たらないのが実情というものである。
それに、湯が止まって枯れているということも考えられる。
彼がこちらを向いた。瞳の奥に決意を感じる。おそるおそるといった感じで口を開いた。
「今からでもどうですか、秘湯」
……よほど行きたいらしい。
あそこより人里のほうが何段も優れているというのに。
「……正気か?」
そう問いを飛ばしてみる。返答次第では固く拒否すると頭のどこかに置いておく。
「二人の時間が欲しいんです。馬車だったり、宿だったりで中々二人きりになれませんでしたから」
ほう。
確かに二人の時間というのはなかった。馬車では御者と護衛が傍に控えていた。宿でも、ほかの宿泊客の目があった。この旅行期間中に恋人の時間はそう取れなかったのは事実だった。
ありだ、と心のどこかが私に囁いた。気づけば「後悔するなよ」と口から出ていた。
……言ってしまっては仕方がない。彼を連れて行こう。
夕方になり、ようやく山頂が見えてきた。
一言「そろそろ着く」と声をかけてやれば、生気を失いかけていたその双眸に光が戻り、疲れで震えていた四肢は岩肌を確実に掴んでいく。表情に笑みが戻った。
だからこそ、彼が初めてエトヴァス山の秘湯を見た時の顔は、きっと忘れられない。
飛行魔法を解除し、私が先に山頂へ降り立った。遅れて登り切った彼が「ついたぁー-……?」と声を発したので振り返ると、
口をあんぐりと開き、膝から崩れ落ちて眼前の湯だまりを見ていた。表情は「疲れ」と「ショック」で染まりきり、両目は焦点を定め切れていない。その
私だけなら楽しめない場所も、彼となら楽しめる。いや、彼とだから楽しめると言った方がいいかもしれない。
そんな彼の肩にぽんと手をやり、足湯目指し歩いていく。靴を放り、指先から湯につけていく。
いい湯加減をしているだけに、より一層小さいのが悔やまれる。
「来てよかったな、と思いました」
「……そうか」
隣に座り、足を湯に浸した彼の肩に頭を預ける。
あたりは静寂が包んでいる。足元の湯が揺れ、囲い岩にあたる音とすぐ上に聞こえる呼吸音だけが耳に届く。
「好きですよ」
「急だな」
「ええ。好意は伝えられるときに伝えないと」
「そうか」
それ以上会話は続かなかった。だが、言の葉はなくとも心地よい空間がそこにはあった。
二人の時間は過ぎていく。
……最初から飛行魔法で彼を運んであげれば良かったかもしれない。
♦♦♦♦
黄金郷の近くにようやく着いた。
陽の光を受けて煌めく黄金の城は不気味なほど美しく、極めて異質なもののように見受けられる。
あれほど一目見たいと望んだ黄金郷だが、近づくにつれ好奇心より恐怖心が勝っていった。理由がある恐怖ではなく、もっと原始的な恐怖。「死」が傍まで迫っていると錯覚させるような恐怖だった。
となりの彼女も悠々とした笑みを浮かべず、無表情で黄金の城を見ていた。
何重にも施された結界。物見小屋すら、黄金郷から離れた場所に設置されている。「七崩賢最強」が鎮座しているからかもしれないが、詳しいことは自分にはわからない。
黄金郷近くの通り。森を開き、帝国領につながる道がある。
横幅は広く、馬車の往来が盛んだったことがわかる道だ。そのど真ん中に、見覚えのある人影があった。
少女のような外見。エメラルドグリーンの長髪に、白いワンピース。かつて一夜を過ごしてしまった女の子と特徴が一致する。だが、唯一にして絶対的に異なる特徴があった。
額に生えた二本の角。それは紛れもなく「魔族」たる証左であり――
「また会えて嬉しい。おいで。お姉さんと一緒にお話ししよう」
お話し(意味深)